ハムスターの廻し車

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ハムスターの廻し車

第一章:マチャリ族とチ鈴

草原に放たれたママチャリが、草を喰んでいる。
修道服に身を包んだミヒトは、走り回るその生き物を眺めていた。

ミヒトはスカラベ教会から調査のため派遣され、身を隠してこのママチャリを駆る民と行動を共にしていた。この民族の呼び名はマチャリ。チ鈴チリンという楽器を奏で、ママチャリに跨り流浪する民。ママチャリに牽引させる移動式住居キャラバンには、木製の車輪が付いている。
ミヒトは既に数日この民族と生活を共にしているが、スカラベ教会の言うような危険性がこの民族にあるとは、到底思えなかった。教会が言うには、”スカラベ王国に仇なす邪教の民族”の可能性があるらしかったが、彼らは音楽を愛する穏やかな民、という印象をミヒトは抱いていた。
スカラベ王国では近年、落雷や地震が増加していた。獣が街にまで顔を出すようになり、畑を荒らす被害も増えている。スカラベ協会はどうやらそういった災いを、他民族の責として押し付けたい考えがあるようだ。
とはいえ、信仰が異なるのは明らかではあった。スカラベ教ではこの世界は、「巨大な甲虫の後ろ足で回されている」が、彼らの回し車信仰に於いては、「世界は回し車を回す白色の鼠」によって動いている、とのこと。しかしその程度の教義の差で、何か問題があるとはミヒトは考えていなかった。
「あなた、ママチャリに好かれるわね。何故?」
マチャリ族の少女ウィリカが、頬に垂れたブロンドの髪を指先で耳にかけながら言う。ミヒトは心当たりなく不思議に思ったが、「だってママチャリは警戒心の強い生き物だもの。見慣れない人間が近くにいたら、あんなに楽しそうに普通は走り回らないのよ」とのこと。
ウィリカは美しい少女だった。元々が薄く微笑んでいるような表情のため印象は柔らかかったが、その割に態度が大きく映る。それは、彼女が民族内で特異な存在である逆回師シャーマンの孫娘であることが関係しているのかもしれなかった。

夕方。チ鈴の音色が辺りに響く。その音には「喜」の感情が乗せられている。マチャリの男達が帰ってきたのだ。男達の跨ったママチャリの前籠には沢山の魚が積まれている。そして籠の付いていない一際大柄なママチャリに跨った、長い髪の男の肩には皮袋。彼がチ鈴を鳴らしていた。
「酒を貰った! 狼を追い返してやったお礼だってよ」
ママチャリから降りながら言う。鼻下に髭を蓄えた、長い髪の男の名前はシーナ。マチャリ一番のママチャリ乗りにして、チ鈴の名手。ウィリカの兄だ。
「じゃあ今夜は宴ね。早速準備しなくちゃ」
ウィリカはそういうと駆けだす。ミヒトはシーナに対して軽く会釈すると、彼は視線を自らのママチャリに移す。大柄なママチャリはミヒトの修道服に鼻を近づけている。それをじっと見つめていたシーナは「お前は変な女だな」と言って微笑む。
スカラベでは言われたことのない言葉を投げかけられ、ミヒトは顔を顰めた。

「回し車の神に!」
焚き火を囲み魚を焼きながら、マチャリ族達が酒盛りを始めた。ミヒトがここに来てから既に宴は3回目で、彼らは隙あらば宴を開こうとする傾向がある。普段はチ鈴を奏でながら皆で歌う程度だが、この日は酒があるため、”マッサッサ”というマチャリ族特有の舞踊ダンスが披露されていた。酒を煽ってはその場で立ち上がり、両拳を前に出すと激しく両足を踏み鳴らす。ママチャリに跨っている様を表現しているのだろう。かき鳴らされるチ鈴の音色に合わせて、左右に大きく行き来する。
ミヒトはその音色に促されるように、シーナが手にしたチ鈴に目が行く。丸く小ぶりなそれは銀色に鈍く光る。
「なんでこんなに複雑な音色が奏でられるのか」。ミヒトは思う。一見すると、チ鈴は横に突起があるだけで、ここまで多層的な響きが奏でられるようには思えない。しかしシーナは、半球の部分を5本の指で弾き分け、突起も何段階もの力加減で奏でているようだ。
「あれはマチャリの中でも特別じゃ。チ鈴で他の動物と意思疎通するなど、聞いたことがない」
マチャリの逆回師シャーマンであるサラシナが言う。サラシナはマチャリ族の子供達からは『半裸婆』の呼び名で親しまれており、現在もその下半身には何も纏っていない。その中心で白髪の陰毛が風に揺れる。
「今回もすごかったぞ。シーナがチ鈴を奏でると、羊を襲う狼達が動きを止めたんだ。そこからママチャリで山に誘導してな」
「獲物がなくちゃ可哀想だろうって、川で魚を捕まえて、狼にくれてやったんだ。そうしたら思いのほか大漁で」
マチャリの男達がそう言いながら酒を流し込む。そしてすっくと立ち上がると、マッサッサを踊り始めた。
「本来はな、チ鈴は”白きもの”と対話するための輪具りんぐなんじゃ」
サラシナが続ける。ミヒトは「白きもの?」と一瞬思うが、それが回し車の神であろうことにはすぐに気づいた。
「わしらはチ鈴を奏で、白きものと共にママチャリで彷徨い歩く。ただそれだけの民族じゃ。スカラベが気にかけることは何もないと思うがのお」
そう言われ視線を向けられると、ミヒトはギクっとする。
「わ、私もそう思います」
「それにおぬしは明らかに、スカラベよりこちら側に近い」
「え? 私がですか?」
サラシナは額の辺りを軽く撫でると、くるりと背を向けその場から離れた。焚き火に照らされたその臀部は、年齢を感じさせない張りがあった。

「チ鈴はね、オスのママチャリにだけ付いているの」
前籠の付いたママチャリを麻布で拭きながら、ウィリカが言う。宴が明けた朝方、太陽が昇り辺りには酒を飲みすぎたマチャリの男が腹を出して眠っている。ミヒトは目をこすりながら「付いている?」と聞き返す。
「そう。産まれてすぐはママチャリの首元ステムに付いてるのチ鈴は。でも成長すると、ポロリと外れ落ちる。マチャリではこれを”落鈴らくりん”と呼ぶの」
「落鈴」、とミヒトは小さく繰り返した。何故か懐かしい感覚を覚えるが、その理由は分からない。
「チ鈴は高く売れるの。だってほら、綺麗でしょ? 銀色に光って、宝石みたいだって言う人もいる。私たちにとっては一番身近な楽器だけど。かつてはチ鈴目当てでオスのママチャリが乱獲されたって言われてる。元々オスの個体が少ない生き物なのに」
草原のママチャリを見渡すと、確かに殆どのママチャリには前籠が付いており、それはメスを意味していた。有袋類であるこの生き物は前籠の中で子供を育て、そして産み落とす。スカラベでは”鉄の馬”などと言われ特異視されているが、血が流れ子を育てる生き物であるという点では、人と変わらないのだなとミヒトは思った。
一匹、前籠の大きくなっている個体がいた。前籠の上部には膜が張り、蓋がされたようになっている。ミヒトが近寄ると、後輪を振りながら擦り寄ってきた。
「本当にあなたママチャリに好かれるわね」
ウィリカはそう言いながら笑う。
「このママチャリは身籠ってる?」
「そうよ。そろそろだと思う。もし産まれたのがオスで大きくなったら、私が跨って言いって言われてる。兄ぃと約束したの」
ミヒトがそのママチャリの首元ステムを撫でると、「シャカシャカ」と嬉しそうに鳴いた。

夜。焚き火の前で腕を組んだシーナが難しい顔をしている。その周囲にはマチャリの男達。黙って聞いていたサラシナが口を開いた。
「殺してしまえ」
サラシナの強い言葉に、マチャリ族の視線が集まる。
「でもよお、駆除対象は鼠だぜ? 俺たちにとっては神の遣いだろ?」
「構わん。わしらが祈るのは白き巨大な鼠じゃ。群れる鼠ではない。群れる鼠は災いを招く」
「でもなあ」
サラシナの言葉にも、マチャリの男は納得していない様子を浮かべる。
スカラベの村民からの依頼で狼や野犬の対応を引き受けていたマチャリ族に対し、王国から鼠の駆除要請が来たのだ。近年、王国全土では異常気象や災害が観測されていたが、現在王都では、鼠の大量発生に悩まされていた。
「シーナのチ鈴でまた山にでも誘導すればいいんじゃないのか?」
「餌がないだろ。それに王兵の前で一箇所に集めて焼き殺せって言うんだ。何なんだあのシャランクって男は」
シャランク。ミヒトはその名前を知っていた。辺境伯として王国の西を守っていたが、敵王を討ち取り現在は王国の中枢に位置する存在。マチャリ族を「邪教の民族の可能性がある」とし、この民族の調査にミヒトが派遣されるキッカケを作った人物でもある。
「大丈夫だ、俺にまかせろ」
シーナが口を開いた。
「俺が上手くやるよ。ちゃんと王都から鼠を排除する。殺さずにな」
「そうは言ってもよお。出来るんかそんなこと」
「問題ない」
シーナは男の肩を叩くと、チ鈴を奏で初める。その音色は不思議と聞く者の心を落ち着かせた。

鼠の被害は王都に広く及んでいた。城壁沿いの下町から、貴族区の屋敷に至るまで。穀物は齧られ、このままでは病が広がるおそれがある。
城門が開く前の朝。チ鈴を手にしたシーナは、城下の広場に立っていた。「お前たちは見ておいた方がいい」というサラシナの言葉もあり、そこにはミヒトとウィリカもいる。騎馬に跨った王兵の中にいて、周囲に指示を出す男にミヒトは視線を止める。広い額と左右の耳の下でふくらんだ巻き髪。定期的に白目を剥く癖のある男、シャランクだ。
空を見上げていたシーナは、左手に握ったチ鈴の半球を指先で優しく撫でる。繰り返し撫でた後、今度は中指でそれを強く叩いた。瞬間、空気が揺れる様な低音の響きが、広場全体を満たす。ミヒトは心が粟立つ感覚を覚える。畏怖を纏った音色。宴の時とは全く違う。
半球を繰り返し指先で叩いたあと、爪先で頂部を弾く。弾いた瞬間、辺りの色が僅かに変わったかの様に感じる。
すると、建物の隙間から鼠が現れ始めた。最初は数匹、やがて十、二十と増え、広場の石畳を這う黒い群れとなる。その様子に狂暴さはなく、音に誘われるように静かに動いている。
「こんなに凄いの? 白きものの力を借りればこんなことも出来る?」
ウィリカが横で呟くのが聞こえる。ミヒトは音を止めず、そのまま歩き出したシーナを見つめる。
広場から市場通りを抜け、王都の南を流れるスカラヴィナ河川へと向かうシーナに、鼠は列を成してついていく。河岸まで辿り着くと、シーナはチ鈴の調子をわずかに変え、側面の突起を弾いた。すると、鼠たちは列を乱すことなく、そのまま川の水へと飛び込んでいく。一匹ずつ流され、やがて姿が見えなくなる。シーナはしばらく吹き続けたあと、チ鈴を胸元に収めた。
「やはり悪魔」
遠巻きに白目で見つめていたシャランクが声を放つ。その言葉はミヒトの耳には届いていなかった。

「なんで焼き払わなかった?」
シーナの報告を受けて、強い口調でサラシナが言う。シーナは頭を掻きながら不満な表情を浮かべている。
「あのやり方でも問題ないだろ? 川下に流れて王都には戻って来れない。それにあいつらは泳ぎが上手いしな。死ぬこともないだろ」
サラシナはため息を吐いた。
「そういう問題でも無かったのかもしれんな。これを見ろ」
サラシナの言葉にシーナが下を向くと、サラシナの白い陰毛が総毛立っている。
「先ほど霊輪れいりんをした。白きものも言っておる。この国を出た方がいい。」
「なるほど…。そういうことか。分かった」
そういうとシーナは表情を変え、チ鈴を奏でマチャリを集めた。

集まったマチャリ族とママチャリを前に、シーナが言う。
「この国を出ることになった」
「急だな。どうしてだ?」
「俺たちは流浪の民だ。いつだってこんなもんだろ?」
そう言って笑うシーナは、ミヒトに視線を向ける。
「お前はどうする」
話を振られ、ミヒトは「え」と固まる。
「どうするって、どういうことですか?」
「お前も俺たちマチャリに着いてくるかってことだよ。スカラベ教会の女」
ミヒトは一瞬身体が強張る。やはりバレていたか、と思うが、着いていくという発想を抱いたことがこれまでに無かった。しかし、彼らマチャリと居るのは心地よいし、ママチャリという生き物にも何故か親しみを感じる。
彼女もまた、孤独な存在ではあった。自らの出生を知らず、物心ついた時にはスカラベ教団の抱える孤児院で暮らしていた。孤児院ではよくして貰った、と思う。雨を避けれる場所と寝具、そして質素でも食事を与えて貰えるだけでも神への感謝があった。しかし、彼女は思っていたことがある。もしかすると、この世界は巨大な甲虫の後ろ足で回されていないのではないか、ということだ。実際はおそらく…。
「産まれそう!」
声をあげながら、ウィリカが走ってきた。マチャリの視線が彼女に集まる。
「前籠の大きくなってたママチャリ、たぶん今夜、産まれる!」

メスのママチャリは、静かに車体を傾けていた。脛骨チェーンステーからは托足スタンドが伸び、重心を預けている。托足スタンドは出産の際にのみ現れる器官で、棒状の質感はチ鈴のそれに近い。「シャカシャカ」と粗い呼吸を繰り返すママチャリの前籠を、サラシナが撫でる。
「持ってきた!」
息を切らしやってきたウィリカの手には、薄黄色の油の入った瓶が握られている。サラシナは受け取ると、ママチャリの股関節ボトムブラケット付近にそれを塗布する。こうすると陣痛が和らぐことを、サラシナは経験上知っていた。
ママチャリの粗い呼吸が止むと、その前輪が空転する。まもなく、籠の前面が開き、草の上にぽろりと仔チャリが産まれ落ちた。後輪の左右には補助輪が付いている。首元ステムにチ鈴は付いていない。だが、前籠も無い。
「後ろ籠のメスじゃ」
サラシナが驚きの声を上げる。「珍しいの?」とウィリカが聞く。
「わしは初めて見る。人で言えば心臓が右に付いているようなもんじゃ」
「心臓が右に」
ウィリカは応えてから視線を仔チャリに戻す。その姿は完全に可愛さを体現しており、ウィリカの口元が緩む。
「白きものよ、これは吉兆でしょうか、それとも…」
思案し、自らの額を撫でるサラシナの横で、産まれ落ちたばかりの仔チャリは、補助輪を使って立ちあがろうとしていた。

草原に放たれていたママチャリは一箇所に集められ、その一部には装帯ハーネスが装着されている。輪具は移動式住居キャラバンから伸びたながえと接続され、それを牽引する準備は整っている。昨夜産まれたばかりの仔チャリは、今は移動式住居に乗せられている。マチャリ族は今まさにこの地を後にしようとしていた。
早朝にも地震があった。スカラベの地盤は数年前まで、揺れを知らぬ地盤であったが、近年急にそうではなくなっている。これが果たしてマチャリによるものかというと、そうでないという確信がミヒトにはあった。
「私が教会に話を通してみます。マチャリ族は決して危険な民族ではないと」
ママチャリに跨ったシーナに対し、ミヒトが言う。修道服で隠されていた長い髪は解き放たれ、艶のあるその黒髪は光の角度で僅かに群青を帯びる。
「気にするな。マチャリは音に乗って気ままに生きる民族だ。今がまた、場所を変える時というそれだけのこと」
そう言うとシーナはチ鈴を奏でようとするが、今はその時ではないと気づきそれを止めた。
「行くぞ、すぐに出よう」
サラシナが口にする。その言動には普段見ない焦りがあり、孫娘であるウィリカにもそれが伝わる。
マチャリが旅立とうとしたその時、遠くから小さく蹄の音が聞こえた。それは徐々に大きくなり、ドドドドドドドドドドド、という音に変わっていく。マチャリの騎馬だった。その背には弓が携えられている。そして後方中央に位置するのは巻き髪の白目を剥いた男、シャランク。
「間に合わんかったか」
サラシナはぼそっと呟くと、マチャリの男達に指示を出し始める。男達はオスのママチャリを選んで装帯ハーネスを外す。そしてサラシナはウィリカを呼び寄せると、胸元から取り出したチ鈴を手渡した。
「お前が持っていろ」
「なんで! 私じゃまだ」
「お前はわしの孫娘じゃ。いずれ白きものと繋がることも出来よう。わしらマチャリの存在意義は何だと思う?」
「分かんないよ! 私まだ、ママチャリにだって乗れてないんだよ!」
ウィリカはマチャリの男に移動式住居に押し込まれる。サラシナはその場から背を向けると、指先を噛んで皮膚を破る。指先からは赤い血が流れ、それで額に一本の線を引く。
「観測じゃ。わしらの役割は。しかし最早どうしようもないことなのかもしれんがな」
サラシナの白い陰毛が総毛立つ。
騎馬の前に飛び出したミヒトが叫ぶ。
「ミヒトです! 祝名はザワリング! スカラベ教会所属、ミヒト・ザワリングです! この人達は邪教徒ではありません!」
「あれだけの鼠を操るなど悪魔の所業。それに、追い払った狼に餌をやっていたという報告を受けた。茶番だった訳だ」
「違います! それはこの人達の優しさで」
「五月蝿い!」
騎兵は手綱を引くと、馬の後肢が地を蹴り、その足でミヒトは宙を舞う。地面に打ち付けられたミヒトはそのまま意識を失った。
「何故こんなことをする!」
駆け寄ったシーナが、ミヒトを抱き起こしながら叫ぶ。そしてチ鈴を激しく掻き鳴らすと、オスのママチャリを残し、装帯ハーネスを付けたママチャリがその場から駆け出した。
「逃すな!」
騎馬兵の後方で、シャランクが叫ぶ。スカラベ兵の射った矢が、駆け出し遅れたメスのママチャリの背中サドルに刺さる。昨夜に仔を産んだばかりのそのママチャリは、その場に崩れ落ちた。
「毒か! おのれ」
シーナが再びチ鈴を奏でると、その場に残ったオスの内側に巻いた角状突起ハンドルが、首元ステムから反転し鋭利なツノの形状となる。シーナが更にチ鈴を弾くと、ママチャリは騎馬に向けて突撃を開始した。騎馬の腹部がママチャリのツノで切り裂かれる。騎兵の射る矢は本来ママチャリの硬い皮膚は通さないが、先端に塗られた毒がママチャリの身体を蝕む。
「こいつらに構うな! 逃げたマチャリを狙え!」
シャランクの指示に、後方の騎兵は迂回し、逃げたママチャリを追う。しかしそこには、矢で射られたメスのママチャリを逆さにし、左右の内脚ペダルを握ったサラシナがいた。
「シーナ! その娘を逃せ! その娘と白きものを対峙させよ! それこそが我らマチャリの宿願しゅくがんと思え!」
サラシナの叫びを受け、シーナはオスのママチャリの背中サドルにミヒトを載せると、自らはその後方に腰を降ろし角状突起ハンドルを握り走り出す。サラは逆さにしたママチャリの内脚ペダルをその手で回し始めた。
「回し車の神よ、いや白き悪魔よ。この老耄ろうもうの命と引き換えに、目の前の者たちを円環の中に縛りつけよ!」
サラシナは、内脚ペダルの回転に伴い激しく周り出した後輪に、自らの額を押し当てる。その皮膚は裂け、火花と血が、辺りに飛び散った。その瞬間、騎馬は足を止めると、その場でぐるぐると回り出した。
「おのれ邪教徒! 貴様何をしたあ!」
シャランクが叫ぶ。騎兵の射った矢が、シーナの肩を掠める。シーナはよろめくが、背を向けたままその場から駆け去った。
額を車輪に押し当てていたサラシナは顔を上げると、血だらけのまま走り去るママチャリに視線を送る。
「回し車の神よ」
そう呟いて額に中指を当てると血液を拭いとる。その中指を地面に突き刺す。サラシナは「頼む」と口にし、その場に崩れ落ちた。そして息を引き取った。

第二章:ヤマチャリ族と霊鈴

激しい落雷と共にミヒトは目を覚ます。頭が痛い。身体も痛い気がする。暗いその場所で辺りの様子を伺う。じめっとしている。どこだここは。そして思い出す。
「みんなは!? どこここ?」
急に焦りの生まれたミヒトは、辺りの壁を叩く。硬い。おそらく岩だ。岩に囲まれている。
「どこここ! 出して! ここから出して!」
大声で叫ぶと、その場所の端の方、右上あたりが「ガシャン」といって小さく開く。そこからは2人の少女が覗き込んでいる。
「起きたみたいですねカゴイーア」
「そうですねミゾツジ」
「だれ!?」
似た背丈の2人の少女は顔を合わせ言うと、直後その場所に出入り口が生まれた。
「問題ありませんあなたは気絶していたのです」
「問題ありませんあなたはよく眠っておいででした」
出入り口の左右から顔を出した少女が言う。
「ここはどこ? ウィリカは? みんなは? マチャリのみんなは?」
「まあまあまあ」
少女の一方が吠える犬をあやすかの様に言ってから、もう一方が状況を説明しだす。
「あなたはチリン奏者の男とママチャリに跨り、2人でこの場所にやってきました。それは当初ランデブーかと思いました。しかしどうやら現実とは異なっていたのです。男は瀕死でした。マチャリの偉大なる逆回師シャーマンの声も大地を通じて届き、そして男はあなたを私達に委ねました。ヤマチャリ族である私たちに」
ヤマチャリ族? とミヒトは思う。
「誰、チリン奏者の男って!?」
聞いてからミヒトはシーナの顔を思い出す。
「あれは良いツラの男でした。私たちは良いツラの男が大好き」
「あれは長い髪の男でした。そして鼻下にチョビ髭。私たちはロン毛チョビ髭の良いツラの男が大好き」
そう言って顔を見合わせてから2人は、ニヘヘと笑い合う。顔が似ているので区別が難しいがひとまず、髪をお団子にしている方がカゴイーアで、髪を二つに分けて結んでいるのがミゾツジであろうことが徐々に分かってくる。
「その男は今どうしてるの? その他のみんなは!?」
「あの男は今眠っています。正直なところ、今後目覚めるのか自信はありません。起きないと残念ですが」
「起きないと残念な男と、起きていても残念な可能性のあるあなた。私たちはこの2人しか存じていません」
一瞬、誹謗された可能性を感じ顔を顰めるミヒトだが、そういう場合ではないと思い話を続けようとする。だが、強烈な眠気が再び自らの身体を襲う。
「あなたの身体も強いダメージを負っているのです。それは私たち及び、白きものによって癒やされています」
「睡眠こそ最高の休息という考え方があります。起きていても残念な可能性のあるあなたは、おめめを閉じて休むことが重要な可能性があります」
再び誹謗されれた感触を覚えるミヒトだが、その眠気には耐えられず瞼を閉じる。彼女は再び深い眠りへと落ちた。
「そう言えばこのマチャリを乗せていた立派な身体付きのママチャリはどこに行ったのでしょうか」
「シャカシャカって言っていました。それはおそらくそういうことでしょう。シャカシャカと言っていたのです」
2人は顔を見合わせてうんうんと頷き合った。

再びミヒトが目を覚ました時、その場所へは光が差し込んでいた。辺りを見渡すと、やはりそこは岩に囲まれている。洞穴だろうか。その中には簡素な木台と袋状の寝具。出入り口は解き放たれている。
ミヒトは強烈な尿意を自覚し外に出ると、そこは山の上だった。辺りに木々は生えているが、それは岩の上に生えている。急な勾配だ。
「目覚めましたか。残念な可能性を秘めた女」
声の方に耳をやると、そこには地べた座りで細い葉巻を唇に挟んだ、お団子頭の少女がいた。カゴイーアだ。葉巻の先端からは甘い匂いの煙がゆらりと立ち上る。
「ミゾツジには内緒ですよ。私はハシシは既に止めたのです」
言いながら美味そうにそれを吸うが、「それよりトイレ!」とミヒトは叫ぶと、カゴイーアの指差した木々の奥へと走った。

ミヒトが居たのと同じ様な洞穴の中、シーナはいた。寝具の上で目を閉じている。ミゾツジは手にした笛を小さく拭きながら、その逆の手をシーナに向けている。
「ミゾツジは僅かですが白きものの力をお借りして、この男の回復に努めているのです」
カゴイーアが言う。ハシシの甘い残り香が匂うのを嫌ってか、彼女は洞穴の中に入って来ない。
「回復するの?」
「それは分からないと伝えたはずです。この男は毒に犯されていました。ここまで駆けてきただけでも奇跡的な状態でした。それに私たちの役割は観測。白きものからお借りできる力はなるべく小さくしたいのです。ただでさえ白きもののお力は弱っているように思います」
暫くの沈黙。ミゾツジが口に加えた笛が、不規則に「ピーピー」と音を奏でる。
「それはあなた達マチャリで言えば、チ鈴の様なものです。白きものと霊鈴れいりんするために必要となります」
「私は本当はマチャリでは…」
ミヒトは、スカラベの暴虐を止められなかった自らを思い目を伏せる。が、大きく息を吸い込んでから問う。
「霊輪ってなんなの? それに、白きものって。白い鼠のことでしょ? それは実在するの!?」
「白い鼠?」
カゴイーアは小首を傾げ、さっきまでハシシを摘んでいた指先を口元に添える。
「ああ。あなた達マチャリではそうでしたよね。でも、あれはもっと大きな。そうですねえ、牛の様な。もしくは海に住む鯨という生き物の様な」
言葉を濁すカゴイーアは、「あ!」と言って大きく息を吸い込むと、洞穴に入りシーナの寝具の中に片手を突っ込む。何かを掴むと急いで洞穴の外に出て、ぜぇぜぇと空気を吸った。
「その男が握っていたこれ、あなたが持っていてもいいのではないでしょうか。霊輪のためには輪具りんぐが必要です」
そう言ってカゴイーアがミヒトに差し出したそれは、チ鈴だった。銀色のチ鈴は陽の光を浴びて強く光る。
「私じゃ奏でられないよ? 私がこれを持っていても」
ミヒトはそう思うが、チ鈴を手にすると落ち着く感覚を覚え、その自分に驚く。
「霊輪は、白きものと繋がり、観測する術。もしくは時に、そこからお力を借りる術のことです」
「白きものと繋がる」
掌の中のチ鈴に目を向けながら、ミヒトが呟く。
「マチャリが信仰した白い鼠も、私たちが霊輪する対象も、同じ白きものです。もしかするとスカラベ教の教えも、辿れば同じことなのかもしれませんが」
カゴイーアは再びハシシを吸いたくなったのか、その場から離れながら言った。
「私たちヤマチャリは、白きものそれを通常別な呼び名で呼びます。私たちはそれを、”白きものコンノ”と呼ぶのです」

山の急な斜面を、三輪車トライシクルがゆっくりと登っている。三輪車はママチャリに似た生き物だが、ママチャリに比べるとかなり小柄な体躯をしている。車輪は前に一つ、後ろに二つあり、この点がママチャリと最も異なる。ミヒトは初めてこの生き物を目にした時、「この三輪車も大人になると補助輪が外れるの?」とミゾツジとカゴイーアに聞いたことがあるが、その際2人は顔を見合わせてニヘヘと笑った。
あれから1ヶ月。シーナは目を覚まさなかった。ミヒトは、ウィリカやマチャリの皆のことが気になったが、1人では探すことも、この山から降りることも出来そうにない。この山は、三輪車トライシクルという山中での生活に特化した生き物と、その扱いに長けたマチャリ族によって、自然の要塞と化している。
「そろそろでしょうかミゾツジ」
「そろそろでしょうねカゴイーア」
ヤマチャリ族の2人がミヒトに向かって言う。
「何です?」
「私たちは頼まれましたので。マチャリのあの強力な逆回師シャーマンに」
「私たちは頼まれたのです。それは偉大なる彼女の最後の願いです」
サラシナがこの2人に何かを託したのだろうか? チ鈴を手に、音を鳴らそうと苦心していたミヒトの左右に、2人が腰を降ろす。
「あなたと白きものを対峙させるため、これから厳しい特訓が始まります」
「手始めにまず、この聖なる草を大量に摂取する必要があります」
「白きものと私を?」
困惑するミヒトの前に、大量の草が差し出される。
「これは神聖な草です。穢れなく尊く、清らかで冒しがたいとされています」
「あなたを清らかで冒しがたく、穢れなく尊い状態に戻す必要があります。あなたは出来る様にならなければいけないのです。そのための準備です」
「どういうこと? 一体何をしなければいけないんですか私は?」
困惑を続けるミヒトに対し、少女2人は声を揃えて言った。
「「霊輪です」」

ヤマチャリ族の2人の言う特訓が始まった。まずは大量の草を胃の中に流し込む必要があった。
「栄養面からのアプローチです。つまり毛細血管の発達、拡張に効果のあるこの草を、ふんだんに摂る必要があります」
そう言ってミゾツジはミヒトの口に謎の草を押し込んでくる。ミヒトは吐きそうになりながらもこの草を大量に摂取した。
「日常的に息を止める訓練をしてください。息止クンバカです。あの場所に留まれる時間は息止の時間に比例します」
ミヒトは「あの場所ってどこ」と思うが、呼吸を止めながらではその思いを伝えることが出来ない。桶に満たされた水の中に顔をつっこまれ、後頭部をカゴイーアに抑えつけられた。
「延髄を鍛えることで、あの場所と繋がりやすくなります」
「橋脳を刺激することで、脳に新しい回路を開くことができます」
「逆さぶら下がりで生活することで三次元的認識力の限界を超える必要があります」
「背面匍匐前進でこの山を上り下りすることで高次元との繋がりを開く必要があります」
「「そして−−−−−−−−−」」

一年が経った。
ミヒトは日課となった背面匍匐前進で山を上り下りすると、少しだけ謎の草を食む。洞穴に戻り胡座を組んで、その手にチ鈴を持った。
身体付きは以前より逞しくなり、長かった黒髪は肩上まで詰められている。
シーナは目を覚まさなかった。この一年で多くの地震が起こり、落雷と共に歪なひょうが降った。スカラベではまた鼠が大量発生しているという噂をカゴイーアから聞いた。
ミヒトは僅かだがチ鈴を奏でられるようになっていた。かつて聞いたシーナのそれに比べれば拙いものだったが、銀色の半球を弾くことで素朴な音色が奏でられる。
「霊輪を始めましょうか」
洞穴に入ってきたカゴイーアが言う。彼女が入って来た瞬間、ふわっと甘い香りが漂い、「またやったな」とミヒトは思う。
「霊輪を始めましょう」
続けてミゾツジが入ってくる。彼女が加わることで甘い香りは更に強まる。ミゾツジはカゴイヤに影響され、ハシシを吸い始めてしまっていた。
ミゾツジとカゴイーア笛を口に加え、ミヒトに視線を送る。ミヒトは頷くと、チ鈴を奏で、息を全て吐き切る。そして目を閉じると、大きく息を吸い込んだ。
「意識を手放して下さい」
ミゾツジの誘導で、この一年で自覚出来た自らの中の透明な糸を切り離す。足裏から背骨を通って頭部まで通じていたそれを、首裏のところで切り離した瞬間、頭蓋骨が前のめりに倒れ込む。そしてそのまま、意識はこの世界の地中深くへと潜っていった。

一瞬の極彩色を伴い意識は地殻を抜けると、開始10秒でマントルに突入。更に25秒後にはアメジストの地層を超えてドロドロの金属の海へと入った。
「この海を抜けると空間があります」
ミゾツジが言う。
「なんでこんなに時間がかかるのいつも! 運ぶ魂の質量が大きすぎます!」
カゴイーアが叫ぶ。意識体になった霊輪中のミヒトは、自らの内側に入ってくる情報の観測に徹することしか出来ない。霊輪開始から118秒、赤と黒のドロドロの海の、中腹なのか終盤なのか分からない辺りを越えた時、入ってくるその映像が突如ブラックアウトした。ミヒトは「ああ、またか」と思う。
目を覚ますとミヒトは再び洞穴の中、簡素な寝台の上に横になっていた。その横では別らしくミゾスジとカゴイーアの2人がしゅんとなっている。
「すいませんとは言いませんが、私たちが力不足な可能性があります。あなたは重すぎます」
「すいませんとは思いませんが、私たちですら運べないあなたは超重量級な可能性があります。どすこい」
どすこい? ミヒトは聞き慣れない言葉に一瞬疑問符が灯るが聞き流す。
「でもそれ言ったら、私の無呼吸時間が足りないから辿り着けないだけじゃない? 私もっと息止クンバカ頑張るよ」
「うーん、そういう問題では無いと思います。私たちだけならあの場所に3秒で辿り着けるので」
「時間がかかりすぎるのです。あなたはおそらく、相当な業を積んだ魂、もしくは変な魂なのだと思います」
「変な魂…」
複雑な気持ちのミヒトの前で、暫くの沈黙が流れる。「あ!」と口にし、その沈黙を破ったのはカゴイーアだった。
「あの起きないため残念な男は霊輪は出来ないのですか?」
「シーナ? 分からない。彼は凄いチ鈴奏者だったけど、そういうのは聞いたことない」
「うーん」
再び腕を組むカゴイアの言葉を、ミゾツジが続ける。
「マチャリ族にはサラシナが居ましたからね。彼女ほどの逆回師であれば、あなたの質量でも白きものコンノまで届けられたのかもしれません」
「彼女の血族なのであれば、起きないため残念な男にも可能性があるかと思ったのですが」
血族。そう言われ、ミヒトの頭の中にマチャリの少女の顔が浮かぶ。少し態度の大きなその少女は、ブロンドの髪を指先で耳にかけながら、ミヒトの記憶の中で笑った。

第三章:ウィリカと小国ヒチャリ

「回し車の神よ、いや白き悪魔よ。この逆回師ウィリカが願う。我が滴る血を代償に、目の前の愚かなる者たちスカラベを滅せよ!」

右手にチ鈴を握った少女は口にすると、切り傷でズタズタの左手を地面に当てる。中指を突き立てると、血の滴るそれを大地に突き刺した。次の瞬間、地面から無数の水晶の槍が生える。薄紫色の槍は眼前のスカラベ兵に向かって伸び、それらを大きく後退させる。それを合図として、後方から獰猛な單輪車《ドゥールンチャー》に跨った男達が飛びかかる。手にした剣や槍でスカラベ兵に襲いかかった。
一年前。ママチャリに牽引された移動式住居キャラバンで逃げた先が、この小国ヒチャリだった。ヒチャリは小さな国ながら単輪の單輪車《ドゥールンチャー》兵団を構え、その小回りの効く機動力は市街戦であれば他に類を見ないと言われる強さを誇った。
逃げてくる途中で祖母の死を知った。それは大地を通じ祖母から受け取ったチ鈴に伝わり、そしてウィリカに伝わった。
「頼むって、何を!?」
ウィリカは遺言と言っていい祖母からの最後の言葉に戸惑った。移動式住居キャラバンには押し込まれた自らと、生まれたばかりの後ろ籠のママチャリが乗っている。装具ハーネスを着けたママチャリに跨っていたはずのマチャリの大人は、矢に射られ、気づくとそこにいなかった。ウィリカは変わりにその背中サドルに跨った。
小国ヒチャリに辿り着いた時、ウィリカは愕然とした。街中では解体された單輪車が無惨に転がり、その車輪が壁に杭打ちにされていた。ヒチャリにもスカラベ王国は進行していた。スカラベは、回し車信仰を持つ車輪の民を、マチャリ、ヒチャリ問わず邪教徒と認定していたのだ。
ウィリカは夢中でチ鈴を奏でた。当初全く音の鳴らなかったそれは、徐々に振動するようになり、いつしか旋律を紡げるようになった。その頃にはその演奏を耳にするため、ヒチャリの生き残りがウィリカの周りに集まるようになっていた。
ウィリカはチ鈴を通じて兄を探した。兄がチ鈴を奏でれば、大地を通じてチ鈴同士が共鳴する。ウィリカにはその確信があった。
半年が経った頃、ウィリカは気づいた。奏でられることのない兄のチ鈴。つまりはそういうことなのだと。それに気づいた瞬間、ウィリカの中に強烈な何かが生まれた。「祖母も、兄も、スカラベに殺された」。ウィリカは、自らの背中を通じ頭頂まで伸びる透明な糸が真っ赤に染まるのを感じ、直後意識がブラックアウトする。そしてその意識は、地中深くへと潜った。
ウィリカの意識は、地表から2,090万フィートの位置にいた。ウィリカは瞬間、”この世界の中心”にいることを自覚する。薄暗く、開けた空間、そこには回し車があった。巨大な回し車。そしてそこには巨大な白い生き物がいた。ウィリカは回し車の神、白き鼠との邂逅を思うが、その白の生き物には長く太い四肢があった。前肢は肩から地面へ向かって弧を描き、その回し車をゆっくりと踏み締めている。
想像と異なるその存在を見つめていると、それはウィリカの方を振り向いた。白い頭部の奥にある瞳と、ウィリカの瞳が交わる。光を吸い込むようなその瞳に対して、ウィリカは願った。
「スカラベを根絶やしにするために、その力を貸せ、白き悪魔」

更に半年が経った頃。ウィリカはかつて一緒に逃げた後ろカゴのママチャリに跨り、反逆軍を束ねるリーダーとなっていた。マチャリ族、ヒチャリ族の生き残りに加え、言葉を解さない少数民族もその軍に加わっている。言葉は分からずもウィリカのチ鈴の奏でに付き従い、その数は徐々に増えていった。
「力を貸せ、白き悪魔」
意識を落とし、地中に潜る。そこにいる白きものに触れることで、その力を使うことが出来る。それは圧倒的な力という訳ではなかったが、敵を錯乱させ、反逆軍の中で特別な視線を集める、その効果としては十分なものだった。
残党狩りに来たスカラベ軍を打ち倒して武器を奪い、野生の單輪車を捕まえて飼い慣らす。反逆軍は静かに力を蓄えた。
「敵は南。間もなく、玉砕覚悟でスカラベ王国に打って出る」。ウィリカがそう考えだした頃、その音色が大地を通じて届いた。兄のチ鈴だった。兄にしては拙い演奏だが、兄の所持していたチ鈴の音色であることは間違いない。ウィリカは兄の生存の可能性に心が泡立ったが、他の可能性も頭をよぎる。例えば、奪われているとしたら。チ鈴は高く売れる。もし兄のチ鈴が他の誰かに奪われ、そして奏でられているのだとしたら。取り戻さなければならない。たとえその持ち主を殺したとしても。
ウィリカの目的が変わった。一時的ではあるが、復讐の矛先が変わったのだ。ウィリカと反逆軍の足はチ鈴の音色がした北へ、ヤマチャリ族が住む霊峰・天転山てんてんさんへと向けられた。

落雷や地震の多発と合わせて、ここ数年で世界の平均気温が2℃下がった。それに気づく者は少なかったが、スカラベ教会の中には存在していた。そしてその報告はシャランクにも上がった。
「なぜだ?」。「わ、分かりません」
その返答の直後、報告者は殺された。
近年、スカラベ王国を襲う地震は頻度を増していた。それについて助言しようとする人物が、小国ヒチャリにいた。ヒチャリの聖職者であった彼は強い憂慮を抱くようになり、シャランクに提言した。
「世界を回している白き存在のことはご存知ですか?」
「世界を回しているのは巨大な聖なる甲虫だ」
「いえ、白き者が回すそれは対の回し車でした。いつからか一方の回し車しか回っておりません」
「世界は甲虫の後ろ足で回されている」
ヒチャリの聖職者は殺された。
ある有能なマチャリの青年は、チ鈴という楽器を操り、王国を悩ませていた鼠を駆除して見せた。それを目にした時、シャランクは思った。
「悪魔だ、悪魔の所業。こんなことを人間が出来る訳がない」
シャランクは王国の発展を、そして平和を心から祈っていた。それを乱す敵国、存在、思想を、シャランクは見逃すことが出来なかった。だからこの男を、そしてこの男のような存在を輩出しうる土壌を潰さなければならない。そう考えたシャランクは、回し車信仰を持つ民族を逆賊と認定し、それを打ち滅ぼすことを決めた。
既にその矛先は單輪車《ドゥールンチャー》兵団擁する小国ヒチャリへと向けられていた。單輪車は鋼の肉体を持つ獰猛な生き物。それを飼い慣らすヒチャリは王国スカラベとて油断が出来る相手ではなかった。そのため、シャランクは毒液の作成を命じた。鋼の肉体の生物にも通じる毒液。そして毒液であれば、僅かでも外殻に傷をつければそこから内側を崩すことが可能だった。シャランク及びスカラベ兵団は、その鉄を溶かす毒を携えて小国ヒチャリへと攻め入り、見事に国を崩した。
時を同じくして矛先はマチャリ族にも向けられた。邪教の民族。謎の楽器と鉄の馬をかる民。しかし武器を持たない民族である彼らを根絶やしにするのは、当初簡単なことだろうとシャランクは考えていた。しかし思いがけない反撃にあった。ママチャリという生き物はただ人を乗せて運ぶ乗り物ではなかった。そしてそれを駆る民、逆回師もチ鈴奏者も、危険な民族であることが改めて浮き彫りになったのである。
「世界のため、スカラベ国のためにも、車輪の民を根絶やしにしなければならない」
シャランクは決意を新たにした。そして現在、あの時のマチャリの生き残りがヤマチャリ族が住む天転山に隠れ住んでいることを突き止めている。そしてヤマチャリ族もまた車輪の民。根絶やしにしなければならない。シャランクは騎馬兵団と共に毒の液を携え、天転山への信仰を決意した。

洞穴の中、ミヒトは繰り返し意識を地中へと潜らせた。カゴイアとミゾツジはげんなりしたが、止息クンバカを繰り返す内に息を溜める場所は二箇所でないことに気づく。横隔膜を下げてお腹にためる空気と、肋骨を広げ胸郭に溜める空気。そしてもう一箇所、咽頭を制御して喉に溜める空気があることに気づく。これに気づいた時、ミヒトの霊輪による地中滞在時間は僅かに向上する。向上した滞在時間によりミヒトの意識は、ドロドロの金属の海を抜けることに成功した。
抜け切った先は空間だった。薄暗く、広大な。ずっと奥の方で、「ガラン、ガラン」とゆっくりと何かが回る音がする。それに合わせて鈴の音が聞こえる。「チ鈴?」。ミヒトは知覚を広げようとするが、ずっと奥、白のそれがいる場所より手前に、もう一つの回し車があることに気づく。そしてその横には、巨大な鉄の塊が横たわっていた。ママチャリの様な質感の、しかしもっと巨大な、四肢の動物の骨組みの様なそれを目にした時、ミヒトは”分かった”。
「私、ここに居たことがある。そしてこの鉄の塊は、私だ−−−」
ミヒトの意識はブラックアウトした。

第四章:天転山にて

山の見晴し台に2人の少女がいた。ミゾツジとカゴイーアだ。2人は黒色の付いた眼鏡をかけ、遠くを見つめている。
「本当なのでしょうかカゴイーア」
「本当なのでしょうかねミゾツジ」
左に首を傾げるミゾツジに対し、カゴイーアは右に首を傾けている。
「あそこに居たということはつまりそういうことですもんね」
にわかには信じられませんが、あそこに居たというならそういうことです」
「それならばあの超重量級の質量も納得ができます」
「それであればあのどすこい感覚な魂にも辻褄がうまれます」
うーん、と首を左に傾け口元に一本指を当てるミゾツジに対して、カゴイーアは右に傾けやはり二本指を口元に当てがう。
「だからと言って、というのもありますよね。もう十分なのではないでしょうか」
「だからと言って、というのは勿論です。それよりも危ういのは眼前のスカラベの兵団でしょうか」
2人は天転山の見晴し台から改めて遠くを見つめ、黒眼鏡のレンズを調整する。
「南東から来るスカラベの兵団及び白目のそれには妖星ようせいである私、ミゾツジが向かいます」
「南西から来る一輪族及び赤の逆回師、あれには妖星ようせいであるこのカゴイーアが向かいます」
そう言い合うと2人は顔を見合わせてニヘヘと笑いあった。
「白きもの達の邂逅ですもんね、仕方ないです。私のこの生命を捧げ時間を作ります」
「あの残念な女が対のものだなんて思いもしませんでした。でも仕方ないです。私があの赤の逆回師を連れてきます」
2人は真顔になりながらお互いを見つめ合う。ミゾツジが言う。
「私がもし転星できるのだとしたら、あなたにハシシを吸わせる様なことを私はもうしません」
「私がもし転星できるのだとしたら、あなたと共に再びハシシの味を共有したいです」
カゴイーアはそう言うと、ミゾツジと共にニヘヘと笑い合った。
「じゃあいきましょうか。幼星たる我々は星霊の願いを現実とするのです」
「じゃあいきましょう。我々は愛と希望の妖星です」
そういって2人は三輪車トライシクルに跨ると、南に向けてそれぞれ天転山を降りた。

マチャリ族のシーナが目を覚ましたのは、ミゾツジとカゴイーアの2人が天転山を離れて間もなくのことだった。1年と数ヶ月ぶりの覚醒。薄らと眼を開けると、自らが洞穴の中にいることに気づいた。
「どこだここは。俺は何をしてる?」
目覚めて間もなく、シーナには焦りがうまれた。身体が思う様に動かない。しかしすぐにまず、自らのママチャリ、そしてチ鈴の存在が気になる。
「無い、私のチ鈴が無い! そしてヘルダイバーが! どこだ私のヘルダイバーは!」
シーナは自らが跨っていたオスのママチャリに、ヘルダイバーという名称を与えていた。シーナにはそういうところがあった。しかし直後、自らの妹の存在に思いを巡らす。
「妹は!? 祖母は!?」
慌てながら身体をゆらすと、シーナは簡素な寝台の上から落ちてしまい、どすんと音がなる。するとその音に気づいたミヒトが、シーナの洞穴に顔を出した。
「シーナさん! 目が覚めたのですね!」
「お前は、スカラベの」
シーナはミヒトと対峙し、薄らとここに至る経緯を思い出す。そしてミヒトの手にしているチ鈴が自らの物であると気づいた。
「おいお前、それは俺のチ鈴だぞ。なんでお前が持ってる」
「これは…」
そう言ってミヒトは、自らが知る限りのこれまでの事情を、シーナに話した。マチャリの逆回師は既にこの世に居ないこと。ウィリカや他のマチャリ族の生死は不明であること。ヤマチャリ族の住処に身を隠し、自らはこのチ鈴を使って霊輪を繰り返していたこと。その話をシーナは真剣に、寝台から落ちた時の体勢で聞いた。
「そうか、そういうことだったんだな」
そう言いながらシーナは頷くが、彼は一遍に情報が入ってくると処理しきれず、分かったフリをしてしまう傾向があった。そして今が正にその状態だったが、祖母が亡くなったことと妹が所在不明なことは分かった。
「チ鈴を貸せ」
そういうとシーナはミヒトからチ鈴を奪い取り、銀色の半球に指を置いた。そして奏で始めた。ミヒトはその音色にゾクっとする。自らも僅かではあるがチ鈴を奏でられるようになったからこそ分かる。やはりその演奏は異次元だった。空気が揺れる様な低音の響き。スカラベ王都で鼠を川に飛び込ませた時のあの音色に近い。
「居た、生きてる」
「ウィリカがですか!?」
「ヘルダイバーだ」
「分からないですが優先順位違くないですか!?」
「大丈夫、ウィリカも生きてる」
それを聞いてミヒトは安堵の表情を浮かべる。ミヒトは洞穴の地面から立ち上がろうとするが、寝たきりが長かったためすぐには立ち上がれない。
「無理しないでください」
シーナは眼を閉じ、呼吸を整えてから応える。
「ヘルダイバーを向かわせる」
再びシーナはその手で、チ鈴を奏で始めた。

ウィリカの視線の先に、スカラベの騎兵団が居た。そしてその後方、中央の位置にやたらと白目を剥く男の存在。シャランクだ。シャランクを目にした瞬間、ウィリカの首の裏の透明な糸が、一瞬で真っ赤に染まる。
「お婆ちゃんの仇だ」
ウィリカは短剣で左手首を切ると、胸元からチ鈴を取り出す。血の滴る左手を地面にかざそうとした時、それは現れた。
「死に急がないで下さい。あなたにはやって欲しいことがあります」
突然、ウィリカと反逆軍の戦士との間に現れたそれは、三輪の生き物に跨り、頭の左右で髪がお団子に結われている。
「誰あなた!」
「あなたの兄の生存を知るものです。」
「兄ぃの! 生きてるの!?」
カゴイーアは笛を口にすると、ピーピーと吹きながらウィリカの左手首に掌をかざす。すると流れる血は止まり、傷が塞がる。
「あなたも、白きものの力を使うのね」
ウィリカの言葉にカゴイーアはニヤリとする。
するとそこに、一匹のオスママチャリが駆けてくる。一際大きなそのママチャリはウィリカの前で立ち止まると「シャカシャカ」と鳴く。
「あなた、兄ぃの跨っていた?」
「あなたの兄は天転山にいます。そして対の女もです。あなたはそこへ向かってください」
「でも!」
ウィリカが後ろを振り向くと、そこには剣や槍を手に、單輪車に跨った反逆軍の戦士達がいる。戦士達は無言でサムズアップしている。
「行っていいってこと?」
「その志しやよし!」
カゴイーアは言うと、口にした笛を掻き鳴らしてから反逆軍に向けて叫ぶ。
「あなた達の命はこの星霊、カゴイーアが預かります! さあ共にスカラベを打ち滅ぼしましょう!」
カゴイーアの言葉に、「うぉおおおおおおお!!!」という雄叫びが上がる。ウィリカは「いいの? 私リーダーだったのに」と思うが、感謝で涙が溢れる。兄のママチャリにいざなわれてウィリカは、天転山を登り始めた。

二つ結びの髪を左右でぐるぐると回し、ミゾツジは三輪車トライシクルで進む。その眼は閉じられており、霊輪をかつて無いほどに深めている。彼女の後方には沢山の三輪車。その背中サドルに人は乗っておらず、三輪車は自らの意思で動いている。
ヤマチャリ族とは、意思持つ三輪車、それ自体の集団のことを指した。それを従えるのが2人の妖星にして観測者の末裔、ミゾツジとカゴイーアだった。
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4000年前、この惑星・リンリンは生まれた。生まれた、というより、より大きなものによって作られた。それは中心に林檎を入れて焼かれる焼き菓子の様なもので、林檎が先に来るものとして発想された。白きものは林檎だった。二つの林檎を回転する機構の上に配置することで、この惑星は回ることを可能とした。
白きものから車輪持つ生き物は生まれた。それはまず車輪のみとしてこの世に産まれ落ち、まだ陸地とも言えない、荒々しくもダイナミックな世界を駆けた。それは徐々に内脚ペダルを持つようになり、その魅力的な動きで地上の生き物を虜にした。気づくと背骨シートピラが生え、その先に果実を実らせた。この時点で車輪は生き物であり、果実植物であった。この果実を好物としたのが誕生したばかりの妖星であり観測者であった。ミゾツジとカーゴイーアの祖先たる妖星は星霊の健康を診断する役割として生まれ、時に簡単なメンテナンスに勤しんだ。
背骨シートピラの先端に果実が実らなくなり、背中サドルになった頃、妖星がメンテナンスを止めた。飽きてきたのだ。妖星は白きものに「めんご」と言って、別な形の回し車に乗り込んだ。輪廻に加わったのだ。輪廻に加わった先で、これらは單輪車となり、三輪車となった。そしてママチャリとなり、一部は人ともなっている。
ミゾツジ率いるヤマチャリ族に、カゴイーアが合流する。その背後には單輪車の戦士たち。
「マチャリの逆回師シャーマンは天転山に向かいました」
「じゃあ安心ですね」
「安心です」
カゴイーアの言葉を聞いた
ミゾツジは、三輪車から降りると両手を大地に当ててその眼を開く。
「白きものよ、妖星たるミゾツジが願う。今こそ三輪車トライシクルたちに戦う力を与えよ」
ミゾツジが顔を上げるのと同時に、三輪車達が立ち上がる。後ろの二輪はそのままに、背中サドルが縦に伸びて内脚ペダルが拳を形作る。内脚ペダルでファイティングポーズを決めると、眼前に迫りくるスカラベ兵団を待ち構えた。
驚く反逆軍の戦士達に向けてミゾツジは微笑んだ。
三輪車トライシクル輪体変貌トランスフォームするのです!」

後ろ籠のママチャリに跨ったウィリカは、兄のママチャリに誘導されて天転山のふもとに辿り着く。するとそこには沢山のママチャリがいた。
「こんなに沢山生き残ってたんだ」
ウィリカは思うが、兄のママチャリが角状突起ハンドルを横に振ったように感じる。
「そうか、野生のママチャリをあなたが集めたのね」
ウィリカはママチャリを降りると、兄のそれの首元ステムを撫でる。
野生のママチャリ達と共に山の中腹あたりまで行くと、そこには杖を手にしたシーナが居た。シーナに肩を貸すようにしてミヒトもいる。
「兄ぃ! それにミヒト!」
シーナは駆け寄ると、両手を広げてママチャリに抱きついた。
「ヘルダイバー! よーしよしよし! 生きてたんだねえ。よかったねえ! よーしよしよし!」
横目にウィリカは「え」と思う。似たような表情をミヒトもしている。
「ウィリカも! よかった、よかったな!」
「う、うん」
少し複雑な心境のウィリカに対して、ミヒトが気を遣ったかのようにその手を差し出す。
「生きててよかった。頑張ったんだね」
「うん」
ウィリカは苦笑いながら、ミヒトの手を握り返した。

終章:ミヒトと白きものコンノ

スカラベ王国とヤマチャリ族及び反逆軍の戦いは続いた。それは多くの負傷者を生み、多くの車輪を奪った。
シーナは野生のママチャリと共に、スカラベ兵団の天転山への侵入を拒む役割を担い、ウィリカやミヒトと共に負傷した三輪車や少数民族の手当を行った。ミゾツジとカゴイーアが天転山に再び顔を出すことはなかった。
ミヒトはウィリカの手を借りて霊輪を続けた。借りていたチ鈴はシーナに返してしまったためお願いしたのだが、ウィリカの手を借りた霊輪はより長く深くその場所まで潜れた。
戦いが始まって二年が経った頃、その戦争は突如として終わった。シャランクが前線から去ったのだ。それは戦地で討たれたとも、白目が剥いたまま戻らなくなったとも言われている。それに伴い世界は平和になったかというと、そうではなかった。気候はより不安定となり、大雨や干ばつが世界を襲った。
霊輪中に、白きものが回し車から降りているのを確認したのは、戦争が終わって間もなくのことだった。ミヒトはそれを視て「つかれたんだよね」と思う。何故ならかつてのミヒトもそうだったからだ。回し車は白きものが回すのをやめてからも、惰性で回転を続けた。
それから暫くして、白きものが横たわっているのを確認する。そこから白きものの停止まで時間はかからなかった。46億年続いたその回転運動は、二体の完全停止を持って終了する。小さく鳴っていたこの星の終焉の音が、大きく鳴り響き始めた。

白きものの完全停止から三年が経った。世界の低温化は進み、天転山から見上げる北の空にはオーロラがかかった。
ある日、ウィリカが跨っていたママチャリの後ろ籠が大きくなっているのにミヒトが気づく。
「このママチャリ、妊娠してる?」
「うん、難産になるかも。後ろ籠のママチャリって珍しいんだよ。人で言ったら右に心臓があるようなものなんだ」
ウィリカの吐く息が白かった。
その夜、ママチャリの陣痛が始まった。脛骨チェーンステーからは托足スタンドが伸び、それによりかかるようにして「シャカシャカ」と鳴いている。ミヒトは苦しそうなママチャリの後ろ籠を撫でた。
ウィリカは薄黄色の油を、ママチャリの股関節ボトムブラケット付近に塗布している。
「こうすると陣痛が和らぐんだ」
ウィリカは何故か得意そうに言った。
空が明るくなりだした頃、ママチャリの荒い呼吸が止んで前輪が空転する。
「生まれるよ」
ウィリカが言うのと同時に、後ろ籠の背面が開いた。そこからぽてんと仔チャリが生まれ落ちる。首元ステムにチ鈴が付いている。オスだ。
その仔チャリは、首元ステムも、背中サドルも、内脚ペダルも白かった。
「これって」
「うん、そうだと思う」
ミヒトは瞳から流れる涙を拭おうともせずに、生まれたばかりのその仔チャリを眺めている。白いそれは補助輪を使って懸命に立ちあがろうとしている。
「久しぶり。白きものコンノ
立ち上がったばかりのその生き物を、ミヒトは強く抱きしめた。

文字数:22527

内容に関するアピール

解説:吉澤ひとみさんの回し車

ここでは『吉澤ひとみさん小説』というジャンル小説についての私見を述べ、自作の解説の役割を持たせたい。つまり、本作は吉澤ひとみさん小説である。祖たる今野明広は文学色強く難解なのかそうでないのか分からない物語を紡いだが、更科建設こと私は可能な限りエンタメとし、このジャンルのエッセンス抽出に注力した。これは、今野作品の解説ではない。今後、このジャンル小説を書く可能性のある誰かに向けての簡単な取説の役割を兼ねる。
言うまでもなく、吉澤ひとみは本来Divaだ。Divaたる彼女(あるいは彼)に舞台を用意し、最高の状態で輝いて貰う。それが本人の名を冠したこのジャンルの醍醐味であり、物語るモチベーションとなるべきである。しかし、祖たる今野の作品を振り返った際に、実際に彼女が輝いているかというと、必ずしもそうではない。どちらかというと作者自身の「俺の話を聞け」が前に出てきていることが多く、作者本人を描くためのジャンル、という側面も強くある。
今野作品では吉澤をモチーフとした存在が登場し、作中で作者自身も登場する。実在する場所や人物への言及も多く、様々な動物も登場する。全体としての整合性よりも局所での輝きに重点が置かれているようにも映る。ただしこれは今野自身の作風によるもので、このジャンル小説に於ける必要条件では無い。そもそも必要条件など無いとも言える。
しかし、十分条件はあり、それは三つ。『吉澤ひとみを反映した登場存在』、『回転』、そして『棒』である。いわゆる『シロクマの三原則』だ。
吉澤モチーフの登場存在はマストだろう。登場させてしまえば「吉澤ひとみさん小説」と言い張ることが出来る。吉澤さんはくるくると周り歌うので、回転も必須。回転は様々な形で物語に取り入れることができる。では『棒』とは何か。これは今野作品に於いては男性器のメタファーであったが、貴方が描く物語の中では様々な形に変化していい。聖剣でも、次世代デバイスでも、もちろん楽器でも。
今作を書き上げるまで、棒は私の手の中にあり、丸い形状をしていた。今は変化し、白く短い形をとっている。そしてこの棒は受け継がれる。
次にこの変棒バトンを手にし、新しいSF創作講座吉澤ひとみさん小説を紡ぐのは、もしかすると貴方なのかもしれない。

 

実作主な参考文献
・『頭は3週間で良くなる良くなる!』 著  Dr.ウィン・ウェンガー 訳 渡辺茂
・『ヨーガ 本質と実践』 編 シヴァーナンダ・ヨーガ・センター

文字数:1036

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