脳内お花畑光線

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梗 概

脳内お花畑光線

地球から争いを無くすためには、どの軍事大国にも対抗できるアウトサイダーであることが必要と考えた元歌姫・吉澤は、生涯をかけて衛星兵器をその手中に収める。吉澤は元々は、非実在歌姫だった。シロクマであるKの脳内恋人だったのである。
Kは中学時代バンドを組んでいなかったが、ノートに認めていた物語では吉澤はベースボーカルで、自らはバンドのギターだった。しかし、中3の夏にKは作中でバンドを脱退する。他のメンバーと比べ明らかに演奏が劣っていた為、首になったのだ。吉澤は中学卒業と共に北海道に引っ越してしまうが、彼女の圧倒的な歌唱やカリスマは誰の目にも明らかで、いつか世に出てくるだろうとKは考えていた。
ある日、TV画面の向こう側で吉澤が、ただ歌唱する映像が流れる。横にいるキーボードはかつてのバンドメンバーだった。Kは羨望と悔しさで、その瞳から涙を流す。Kは、自らの脳内ファンタジーを、60億人に伝える必要があると考える。
次に吉澤を目にしたのは、ニュース映像だった。吉澤は戦地で、非戦闘用音声伝達ドローン オンガク を操り、停戦を訴えていた。しかしその最中、空爆により片足を失ってしまう。だがそこから改めてメディアの前に現れるようになった吉澤は、かつて以上の求心力をその身に纏うようになる。
スーパーボウルのハーフタイムショーの最中、吉澤が銃で撃たれる。明らかに頭部を撃ち抜かれる映像が世界に流れるが、直後立ち上がると、何もなかったかのように歌い出す。それは異様な光景だったが、歌い終わるのと同時にその場に崩れ落ちる。
数年後、改めてメディアの前に現れた吉澤は、一方の足を失い、一方の腕を失っていた。頭部も一部は無くなっているが、片目の眼光はかつての様に鋭く、何故か歌唱は変わらず、圧倒的だった。Kは「何故」と考える。人間であるならば、そんな訳はない。しかしそれは、Kの考える脳内歌姫の現在の姿、Kの描いている物語における現在の姿としては完璧なものだった。Kの書く物語の中で、吉澤が要求する。「核兵器よりも強力な、全ての軍事兵器が発動前に台無しになるような、訳の分からない力を私に」。Kはその要求に応え、分厚い肉球でキーボードを叩いた。
軍事大国のトップに、独裁国家の指導者に、その照準は合わせられる。衛星軌道から放たれたその歌声光線が、対象の頭部に命中する。頭部からは一輪の花が咲き、その花は一瞬で枯れると種子形成し綿毛となった。辺り一面にお花畑が現れる。綿毛はあらゆる人類の頭部に着陸すると、脳底動脈とコネクトし、人類と調和した。
他者に対する攻撃性を栄養源にした花弁は花開くと散り、人々から闘争本能が消えた。争いがなくなった世界で、人類の頭頂には様々な花が咲いては散るが、一部マイノリティの頭上には果実が実るようになる。Kは自らの血液で実ったトマトを頭上から収穫すると、白い腕の毛で拭き取って、吉澤に手渡した。

文字数:1199

内容に関するアピール

かつてこの講座には今野明広という人が居たはずなのですが、その人を倒したいと思って僕はここを受講している側面があります。なんでこんなことになってしまったのか分からないのですが。
元々は創作講座本を読んで「こういうの書いてみたいなあ」から試してみたところ「書けない」となり、今野作品を読んで「これなら書けるかも」となった経緯があります。何か”わかる”気がしたからです。
そして書いてみたところ「書けない」となり、僕の作品と今野作品どっちも読んでくれた人に聞いたところ「お前エンタメじゃん。この人文学でしょ」と言われ、「はあ?」と思ったことがありました。僕のも文学だと思っていたからです。
今野作品には「吉澤ひとみさん小説」という、通底するテーマがありました。改めて文字にしても何言ってるのか分かりませんが、本人がそういっているので仕方ないです。
僕なりの吉澤ひとみさん小説に挑戦できたらと思います。

文字数:393

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シロクマの見た夢

①3歳 👶
ひとみちゃんが「ふーっ!」と息を吹きかけると、たんぽぽの綿毛がふわりと空に舞い上がる。
「ねえ、今野君もやる?」
そう言うとひとみちゃんは赤茶色のランドセルをじゃり道の上に置いて、綿帽子を一つ摘み今野に手渡す。
「なんか今野君に綿毛って、似合うね。ほら、今野君ってすごく色白だから」
「身体が弱いだけだよ。あんまり外に出ないし」
今野は目を伏せてそう答える。ひとみちゃんはその返答を聞いてか聞かずか、次の綿毛を空に飛ばしている。今野はお母さんに貰った500円玉を自販機に入れて、CCレモンの缶を2つ買った。「綿毛のお礼」。そんなことを言いながら、ひとみちゃんに手渡す。
「いいの? 嬉しい」
そう言われて今野も嬉しかった。
「あのね、今野君、聞いて」
飲み終わったCCレモンの空き缶を今野に渡しながら、ひとみちゃんが言う。
「私ね、将来歌姫にならなくちゃいけないの。戦争反対って歌ってるだけの歌手じゃなくて、本当に歌で世界を平和に出来ちゃうくらいの、そういう本物に。だから今野君はそれに協力する必要があると思うんだけど、どうかな」
ひとみちゃんがそう言うので、今野は感動して、昨日TVで見たカンガルーの歌唱を思い出した。
瞬間、風が強く吹いて、ペンペン草が大きく揺れた。花托かたくから解き放たれた綿毛は回転しながら空に舞い上がっていく。遠心力で抉れていく雲を見上げながら、今野は空き缶を捨てるために自販機横のリサイクルボックスまで歩いた。

青熊期1 🐻
「お花畑光線だー!」
TVの中、3人組アイドルユニット『廻るティーカップ』の黄色担当が、人差し指を画面のこちら側に向けて歌う。今野は「うわっ!」と思い、両手で掴んでいた14インチの液晶を手放す。指先の先端のぐるぐるまで今野には見えたような気がした。
3人は頭頂に赤・青・黄色の一輪の花を咲かせ、歌いながら踊っている。黄色の衣装のその娘の顔を見て、今野は口の中が甘酸っぱくなる。似ていたのだ、ひとみちゃんに。ショートカットの彼女の衣装が左右に揺れる度に、その周囲に花が舞う。
廻るティーカップの出演は、パフォーマンス含めて7分程度だった。黄色担当は吉澤を名乗った。今野は忘れない内に彼女のことを滞納している税金の払込票の裏側にスケッチした。

今野は高校卒業後一度就職したが、1年持たずに退職している。働き始めてから気づいたのだが、彼は朝起きることが出来なかった。そして働きたくなかった。
高校時代はどうだったかというと、起きてはいたが、午前中は机に突っ伏してほぼずっと寝ていた。今野の肌は雪の様に白かったが、身長が2m近くあり、またあらゆる体力測定の数値が人間離れしていたため、教師も強くは指導出来ず、周囲のヤンキー達も一方的な不可侵条約を締結し一定の距離を取った。運動部からの勧誘は高校2年の春まで絶えることがなかったが、彼が午後熱心に漫画を模写している姿を見るにつけ、部活動の顧問達も諦めざるを得ないと感じるようになった。今野は3年間で『よつばと!』の既刊全ての模写を2往復し、高校生活の全てをかけてあずまきよひこの絵柄を手に入れた。

退職後は毎日お母さんから500円玉を貰い、それで生活した。1ℓのコーヒー牛乳とカップ麺を買い、ブックオフで漫画を読んだ。今野には「いつか何かがくる」という漠然とした予感があった。何がくるのかは分からなかったが、その時まで物語を描く必要は無いと思っていた。それは村上春樹が神宮球場でヤクルト対広島東洋カープの開幕戦を見ていて急に「書けるかも」、と思い書き出したというエピソードをブックオフで立ち読んだからでは決してなかった。その瞬間を春樹は「空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止められたような気分」と表現していて、今野は「春樹だなあ」と思った。

しかし、今野にとっての啓示はやはり、ブックオフで与えられる。それは廻るティーカップの吉澤の歌唱を目にした後、クールダウンの意味で日課の立ち読みに取り組んでいたところ、掌の中の少女漫画のヒロインの母によって与えられる。その母は自らの頭上に小屋を建て、その中でリスを飼っていた。リスは小屋の中で回し車を回し、何かの種を食べている。それを目にした時に、今野はひらひらと空から落ちてきた何かを、両手でうまく受け止められたような気分になった。その日の夜から、物語としての漫画を描き始めた。

青熊期2 🐻🐻
今野が初めて描き上げた漫画は、36ページだった。正確には中学時代に4コマ漫画を描いていた記憶があるのだが、それは今野の中でカウントされない。その記憶は今野の中で前半は甘く、後半は苦いものだったように思う。
36ページの漫画は約4ヶ月かけて描かれ、これでは遅いと今野は思った。今野はパソコンが使えないこともあったが、作画が限りなくあずまきよひこであったため、背景は写実的かつ緻密で、登場キャラクターはトーンを使わずハッチングやベタ塗りで表現することを好んだ。
この時に描かれた漫画には、今野自身がシロクマとして登場する。白ければ作画の手間が減るだろうと考えていたが、画面全体が白っぽくなってしまい結果として背景を書き込む必要が発生し、全体の手間はより増えた。
シロクマである今野は棒遣いで、その棒を振ることで時間がほんの少しだけ戻る。今野はその棒を使って大蛇から森のリス達を守ろうとするが、リス達はシロクマにその拳を振るってくれることを望んだ。今野はリスが食べられる毎に棒を振って幾ばくかの時間を戻すが、大蛇は一匹ではなく、別な場所でリスが食べられてしまう。また棒を振るが、またリスは食べられ、結果森からリス達は居なくなる。やることが無くなったシロクマは歌いながら森を後にするという物語だった。
今野がその漫画を持ち込んだ出版社は、集英社だった。どうせ持ち込むなら大手だろうと思い、集英社の週刊少年ジャンプに持ち込んだところ、担当した編集者に「作画担当だとどうかな?」ということを言われた。それと、「世界の幸福量は決まっているので、例えば僕とあなたのどちらも幸せになったら、世界のどこかで不幸な人が2人うまれる」という話をされて、何か合わない気がした。
他にも何社も持ち込みをした。しかし、共通して言われるのは「作画担当であれば」、ということか、「アシスタントをやらないか」ということだった。今野は自らが物語る必要があったため、また、作画において必要なことは全て『よつばと!』から学び切っているという自負があったため、同じ出版社に持ち込みをすることはなかった。
小さな出版社にも電話をして持ち込みをした。荻窪駅徒歩7分の南極ペンギン社は小さすぎて、マンションの一室がオフィスで、畳の上にテーブルと椅子があった。そこで対応してくれた男性編集者と対峙し、今野はびっくりした。既視感、いやニオイだろうか。以前に会ったことがある。「あのもしかして」、「作品、拝読させていただきました」。そう言って眼鏡の位置を直した編集者は今野の言葉を遮り、持ち込んだ漫画についての意見を述べた。
「うちで描くのならもっとエンタメに寄せる必要があります。これではいくら何でも文学的すぎる。最後のこれはあなたの中ではハッピーエンド、だとは思いませんが、シュールレアリズムの色味が強すぎます。それと、キャラクターは果たして動物である必要があるのでしょうか?  シロクマが何を考えているのか分からず、全く感情移入出来ません。しかし、しかしです。線が綺麗です。迷いがありません。そして、何か光るものは感じます」
そこまで言われて、今野はいくつかの理由が混じり合い感動した。まず、おそらく作画以外の部分で褒められたからだ。光るものがあると言われた。大人になると滅多に褒められることが無いというのは今野の中で近年分かってきていることで、それは定職に就かず母に毎日500円ずつ貰って生活している身だと尚更だった。そして、これまで会ったどの編集者よりも、その表情から自信がみなぎっている。6畳の部屋に小さなキッチンという1Kの構成、さっき借りたトイレは和式だったし、部屋の端には畳まれた布団がありここで寝起きしている形跡がある。にも関わらずその瞳は爛々と輝いているし、現に今野に対し今もパジャマで相対している。
「私があなたの担当編集になります。ネームでいいので、ひとまず次は登場人物を人間にして持ってきて貰うことは出来ますか?」
今野はそう言われて「はい」と答え、次も絶対に動物で物語を描こうと思った。
「あの、一つ聞いていいですか?」
「何でしょう?」
タイミングを迷っていた今野だったが、編集者が何かを探し出した瞬間に聞いた。
「中学の時、一緒の学校でしたよね?」
編集者は怪訝な顔をした。
「ほら、覚えてないですか? 一時期同じ新聞部だった今野です。四コマ漫画を担当していて。あの、同じ学年だった、更科さんですよね?」
そう言われた編集者は見つけた名刺入れから名刺を取り出し、今野に差し出しながら言った。
「いえ、違いますが」
今野が手に取った名刺には、『南極ペンギン社編集長 大高まさみ』とあった。

青熊期3 🐻🐻🐻
今野は南極ペンギン社に持ち込みを続けた。大高からは「リモートでもフィードバック出来ますよ?」と言われていたが、今野はパソコンを持っていなかったし、あの部屋で意見を言って貰うことに何か意味がある様に感じた。そのため、今野は2両編成の烏山線に乗って栃木の鴻野山こうのやまから宇都宮に向かい湘南新宿ラインで新宿まで出てから中央線に乗り換えた。
南極ペンギン社は、漫画雑誌を持たない出版社だ。具体的にいうと、『ダンパ!』というプラットフォーム型Webマンガアプリがあり、そこと提携し作品を連載する形式を取っている。『ダンパ!』は日本法人だが、運営母体は『單輪車ドゥー ルン チャー』といい中国ハルピンに本社を構える。單輪車は宇宙開発も見据える次世代型技術複合企業テックコングロマリットだ。
『ダンパ!』は日中連動でサービスを提供しており、Webtoon漫画、つまり縦型スクロールの形式で漫画作品が公開される。そういった意味では南極ペンギン社は出版社というよりスタジオに近い形態なのだろうが、それは今野にはどうでもいいことだった。
今野は当初、縦型スクロールの適応に時間がかかると思っていた。しかし描いてみるとこちらの方がしっくりくる感じがあり、それは想定外だった。もしかすると高校地代、鉄棒による懸垂に凝っていた時期にせっかくなら『大車輪』を出来る様になろうと考え熱心に取り組んだことが関係しているのかもしれない。結果として『地球まわり』という膝を曲げた状態で足を着かず回る技までは習得出来たが、冷静に考えると絶対に関係ないということに気づけた。
今野の漫画には2作目から歌うカンガルーが登場している。カンガルーの名前は吉澤といい、彼女は歌声で大蛇や獅子から仲間を守るが、代わりに本人が食べられてしまうので今野はその度に棒を振って幾ばくかの時を戻した。3作目で既にダンパ!に掲載されている。3作目では更科という名前でコウテイペンギンが登場し、ドローンによる攻撃で捕食者から仲間を守るが、段々とその力を誇示したい欲望に取り憑かれていき、ペンギン仲間で軍隊を結成し、ヒョウアザラシを虐殺していく。今野の漫画はWebtoonとしては珍しくモノクロで描かれていたが、この際の描写にのみ”赤”が取り入れられた。
4作目が日本の一部界隈でバズる。これは、はてなブックマークの使い方に長けた大高がはてな匿名ダイアリー及びSNSでのタイミングを見計らった拡散戦術で人為的に起こしたもので、自作自演と互助会を使ってのものだった。それは美意識の観点でやや疑問符が浮かぶものだったが、大高にとって担当作家の作品が多くの読者の目に触れることは、自らの品性に欠ける行いよりも優先される事項だった。
とはいえバズには戦略的な行い以外に要因があったのも事実で、それはまず、今野の4作目の完成度が純粋に高かったことがある。縦型スクロール漫画におけるアイライン誘導が成熟したことに加え、縦方向の構成に感情の浮き沈みの構造を当てはめ、感覚的なカタルシスを生み出すことに成功した。
元々、今野の画力を賞賛するはてなブックマーカーは早い段階でいたのだが、如何せん登場キャラクターが動物であったため、その絵柄があずまきよひこに似すぎていることに気づく者は殆どいなかった。それが、第4作で人間が出てくることで発見される。コウテイペンギンである更科は本当の敵はヒョウアザラシではなく人間であることに気づき、ペンギン軍を率いて人間の街に攻め込むのだが、その際に登場する人物たちが完全に『あずまんが大王』だったのである。今野の『あずまんが大王』の履修は南極ペンギン社への持ち込みと並行して実施されていた。この絵柄の酷似は大高も気がかりなポイントではあり、苦言を呈するネット民も少なくなかったが、結果として今野の漫画家としての知名度を、新人作家としては異例なほど押し上げることになる。そして翌年、ダンパ!上で今野の初連載が始まる。連載タイトルは『シロクマの見る夢』。

吉澤さん1 🐻‍❄️
アイドルユニット『廻るティーカップ』が解散した際、吉澤あかねはソロで活動するか、地元北海道に帰るかで迷った。吉澤は自らのアイドル性が高いとは感じられておらず、歌唱力には自信があったが、それも突き抜けたものではないと考えていた。それならば地元に帰り、元アイドルとして何か違うことに挑戦してみるのも有りかもしれない、と思っていたかというと、そうではなかった。吉澤は、空間を掌握できた。例えば5分間、ステージを与えられたとすると、300秒の毎秒、一つ一つの動き、送る視線の全てに、何か意思が乗る。それは親しみやすさや少女性ガールネスとは異なるもので、どちらかというと操作する能力、雰囲気を調律して自らが光る様な、そういう力だった。そしてその力はおそらく、自分由来のものでは無い。どこかから与えられている感じ、説明しにくいが心のお花畑で繋がった先で、得体の知れない何かから借りる能力、そういう感触があった。それを吉澤は、「祖母と繋がる」と表現していた。
祖母はアイヌ民族で、不思議な人だった。父の明広あきひろは祖母のことを「ずっと先生みたいで、あんまりお母ちゃんと思ったことはない」と口にしている。静かに微笑む人で、信仰のある人だった。祖母は毎日、木彫りの熊に手を合わせ、小さく歌を歌っていた。木彫りの熊はカビが発生したのか色素が飛んでしまったのか本来の木材の色ではなく、白に染まっている。木彫りの熊に手を合わせ歌う祖母を見て、吉澤も祈ろうと思ったことがあったが、祖母はそれを制止し、言った。「これはカムイに見放された熊だ。ウポポで祈るのはだけでいい。おまえは、声を出すな」。いつも優しい祖母が厳しい表情を私に向けたのはその時だけだ。私は今でも、緊張したりここぞという時は、お婆ちゃんが力を貸してくれると信じている。それはひとみお婆ちゃんの形見で貰った、部屋の端に置いてある木彫りの熊を見る度に、いつでも思い出せる。

吉澤さん2 🐻‍❄️🐻‍❄️
ソロになってからの吉澤の飛躍は本人も想定していないものだった。所属するプロダクションの後ろ盾てでは到底請け負ってくれなそうな有名コンポーザーが彼女に楽曲を提供し、彼女はそれまでの自らの脳内にあったとは思えない思想でそのリリックを紡いだ。
吉澤本人も気づいていなかったのだが、詩を書き、それを歌う度に、世界、あるいは人類に対する憎しみが自らの内側にあることに気づいた。ここまで高度に発達し地球外にまで手を伸ばそうとする人類の叡智が、未だに同族の命を自らの愚行で奪う。それはあってはならないことだという意識が日々増幅されていく。
合わせて、これは想定外というよりは殆ど奇跡の諸行として、吉澤の歌唱は日々向上した。朝出なかった高音が、夜には喉を通ってすうっと抜けていく。そのビブラートは自然と聞き手の心に響くが、吉澤はただ部屋で歌い、祖母に対し祈るだけだった。
その頃、東池袋のサンシャイン60の西側に広がる、かつて乙女ロードと呼称されたエリアで、”お花畑少女”を名乗る集団が頭頂に一輪の花を掲げ街を闊歩する姿が社会現象となる。彼女たちが人差し指を天に向け「お花畑光線!」と発する映像は朝のニュース番組で流れ、それはアイドル時代の吉澤の決めポーズと殆ど同じものだった。この時点で吉澤の歌唱やライパフォーマンスはある種神がかり的なものを秘めるようになっており、お花畑少女も彼女由来のものかと思われてはいるが、もう一つ、名称の出所として有力視されているのが、アニメ化もされた人気Webtoon漫画である。それは、作画原作・今野による、『シロクマの見た夢』。物語は冒頭、こう始まる。
小さな箱の中で引き篭もり生活を続けていたシロクマの今野は、少女の手招きでお花畑を走り回る。今野はその時少女から夢を語られ、彼女の夢を叶えるのをサポートしようと誓うが、彼女と再び巡り合うことは出来なかった。成熊を迎えたある日、幼馴染のカンガルーの吉澤、コウテイペンギンの更科の3人で、あの時の少女を探す度に出る。今野はその名前の分からない女の子のことを”お花畑少女”と呼んだ。

⑦吉澤明広と更科建設1 🤓
中学時代の吉澤明広はいつも疑問に思っていたことがある。吉澤家にある熊の像に対し祈りを捧げるのが、家族の中、いや親族の中で母のひとみだけだったことだ。母はいつも黒電話の横にある熊の木彫り像を磨いたり、小さなお皿に乗せて荒巻鮭をお供えしたりしていた。
その像は明広には少し無気味に映ったが、母が像を撫で、歌うその表情はとても優しく見える。それでも母はその像を「呪いの熊」と呼んでいて、それを不思議に思っていた。
明広の母は歌が上手かった。おそらく特別上手かった様に思う。母が歌っていると、近所の人が家の前で足を止め、耳を傾けていることが何度もあった。
木彫りの熊について、明広は複数回母に聞いたことがあったが、母が詳しく教えてくれることはなかった。そのため中学3年時に明広は自分で調べようと、親戚に聞いて回ったことがある。その際に気づいたのだが、自らの血のつながった親類は、父方に偏っていた。子供心に違和感はあったのだが、母方の親族が母以外に1人もいないのだ。
明広の父は、明広が3歳の時に亡くなっている。死因は不慮の事故だった。存命だった明広の父の父、つまりあきひろの祖父はやはり、「あれは事故だ。事故だと考えないと納得がいかね」と口にしている。また、父方の親族もひとみに対して詳しく知っている者は居なかったが、祖父は「施設で育ったと聞いてる」と答えた。「あれの親はあれが幼い頃に死んでるからな。それで魂胆を乱されたんだべ」と言った。ひとみは、ある時期までの記憶がなく育ち、いつの間にか施設にいたという。明広は衝撃を受けつつもより詳しい話を求めたが、祖父は「気持ちのよくねえ話はしたくね」と言い、それ以上を話してくれなかった。
母のよく口ずさんでいた歌を、明広は覚えている。アイヌの言葉で歌われるそれは母にとって祈りの歌で、意味は分からないながらも、その歌声の力もあり、明広の胸も打つものだった。短く繰り返される歌は、この様なものだった。

『カムイ エアラン シリキ アㇺㇱネ ”コンノ”
 レク アㇱ トゥㇷ゚カ ホㇿ ”コンノ” テㇱ ケレ』

☝️意訳
『神ならぬものよ 花のように眠れ そして 平穏に
 風に祈れ、そして空へ帰れ』

 

吉澤明広と更科建設2 🤓🤓
母の出生について多少の情報は手に入ったが、母の信仰については何も分からなかった。明広は図書館で、アイヌについての本を捲っていた。もしかしたらアイヌ人にとっては熊の像を偶像として崇めるのはポピュラーな行いなのではないかと考えたからだ。
確かに熊を神とする考え方はアイヌに根付いていた。熊は”キムンカムイ”と呼ばれ、それは狩猟の対象であると同時に山神の化身だったという記述が本の中にある。しかし、それを偶像として祈りを捧げるという記述はどこにもなかった。木彫りの熊は、近代以降に民芸として発達したとしか書いていない。まさかあれは民芸品だったのだろうか。
「キサマ、何調べとるんじゃ?」
本を呼んでいた明広がギョッとして振り向くと、そこには更科建設がいた。分厚い黒縁眼鏡をかけた三つ編みの同級生女子。図書館の妖怪と呼ばれ、”図書館に住んでいる”と噂される、学年新聞の編集長だ。彼女が”図書館に住んでいる”と言われる理由は明白で、その服装にある。どういう訳か今もその身にはパジャマを纏っており、何故かそれが許容されている。ただ明広は、普段はヘルメットを被り蛍光タスキを肩からかけて中学ジャージを着て自転車で登校し、図書館に入る際にジャージを脱いで、その下に着込んだパジャマでここを彷徨いていることを知っていた。
更科建設はもちろん本名ではない。本当の名前は”大高久美子”といい、彼女は学年新聞を運営するにあたり自らにペンネームを設定していた。大高建設工業といえばこの辺りでは有名な農業機械の会社で、彼女はその企業の一人娘だ。元々は塗装会社としてスタートしたが、建設会社として拡大しようとしていた矢先に、ランドセルの様に両肩で背負える農薬散布機がスマッシュヒットし、現在はそちらを主力商品として事業を展開している。
「お前、新聞部に入らんか?」
図書館の妖怪が急に勧誘してくる。
「いいぞうちは。なんせ私が殆ど書くからな。私が企画し、私が構成し、私が書いて、私が編集する。欲しいのと言ったらそうだな、人数が欲しいんじゃ。私しかいないからな。あとあれだな、絵が、欲をいえば4コマでいいから漫画が描ける人材が欲しい。どうだ?」
早口に言った更科が異様な自信を讃えたその目で明広を見てくる。明広は「そんな場合じゃないんだよ」と言って更科を受け流す。
「イヨマンテに興味があるのか?」
明広の手にした本を覗き込み、更科が言う。明広はよく分からなかったが、更科の指差す箇所には、「イヨマンテ(熊送り)」とあった。よく読むとそこには、「熊などのカムイの魂を神の世界へ“送り返す”ための儀式」とある。
「前に学年新聞でインタビューしたんじゃ、熊撃ちの、そうマタギに。その時に話に出たな。昔はアイヌ人にはそういう儀式があったらしいぞ」
「本当に?」
俄然興味を持った明広が更科のパジャマを掴むと、「本当じゃ」と言って更科は明広の額にデコピンを放った。

⑨吉澤明広と更科建設3 🤓🤓🤓
明広と更科は卒塔婆そとばの前に立っていた。卒塔婆には戒名は記されておらず、代わりに『伝説の熊撃ち、ここに眠る』と記されている。
「間に合わんかったかあ」。更科が口にする。「ファンキーなババアじゃったからなあ」。
それを聞いて明広は、「ジジイじゃないんだ」、と思う。
「じゃあこれでイヨマンテについて教えてくれる人はいなくなっちゃったってこと?」
「いや、熊送りについてなら先日お前が手にしていた本からでもある程度わかったじゃろ」
確かに、本の中にある程度の解説はあった。

『イヨマンテ』。それは熊などの動物の魂を、神の世界に送り返すための儀式。カムイは熊の姿をして人間の世界に来ると考えられていた。その儀式の一つの形として、母熊を猟で仕留めた後に、巣穴から小熊を連れてくることがあった。連れてきた小熊は木箱の中に入れられ、カムイの子として村単位で大切に育てられた。1~2歳まで育てられた小熊は、酒やご馳走を与えられ、村人の歌や踊りの後、丁寧に神の国に送り届けられた。

欲しいのは、そこから派生する情報だ、と明広は思う。母が祈りの歌を捧げていたのは白く染まった木彫りの熊で、そういった形での儀式は今野の調べる限り見つけられなかった。
「民芸品だったんじゃないんか?」
更科が言うが、そうなってくると明広の母がただの変わり者だということになってしまう。会ったこともない他人の墓参りにまで来てその結末は避けたいと考えていた明広に、更科は「ほれ」と言って厚い封筒を手渡した。
「何これ?」
更科は返答せず、その三つ編みをぐるぐるとプロペラのように回している。明広が封筒の中を確認すると、それは新聞記事のコピーだった。かなりの数がある。
「道立図書館に行ってそれっぽい記事を印刷してもらってきたわ。あそこには北海道新聞のマイクロフィルムが保管されていて、明治20年まで遡れるからのお。君の母上の名前は、ひとみさんというんじゃろ?」
そう言った更科は三つ編みを回し過ぎたのか眩暈を起こし尻餅をついた。
「新聞部部長として、部員が困っている時は助けてやりたいと思ってんすわ私は」
「いや部員になったつもりは全くないんだけど」
明広はそういいつつも感謝の気持ちを伝えた。

自宅に帰り明広は新聞記事を確認したが、その多くは母の信仰や、木彫りの熊とは関係ないものに感じた。そもそも明広は自分が何を知りたかったのかいまいち分からなくなっていた。結局何が知りたかったのだろう。人が熊に襲われたという記事や、大熊が捕獲されたという内容に目を通す中で、明広は一つの記事に釘付けになる。

北海道新聞 昭和三十×年八月十五日付 朝刊
白熊逃れ、山村全滅 九歳少女一人のみ生存

【釧路管内・山あいの小村発】
十三日未明、イヨマンテの儀を翌日に控えていた山村で、三歳の白い小熊が檻より脱走し、村人十一名を襲撃。
生存者は九歳の少女ただ一人であることが確認された。
この熊は、珍しい白毛と人懐こさから、本来二歳迄に送り出されるところを三歳まで飼育されていた。
“神の熊”として、村では特に大切に扱われていたという。
事件当夜、少女が飼育小屋の扉を開けたことが発端とされ、熊は家々に侵入し、住民を次々と襲撃した。
少女は翌朝、村外れの草地にうずくまっているところを発見された。
外傷はなかったが、現在も言葉を発していない。
その後、熊を追ったとされる男性の遺体が山中で発見された。
傍らにあった猟銃は発射済みで、付近には熊の毛と大量の血痕が確認されている。
遺体は損傷が激しく身元は不明。熊の姿は見つかっておらず、重傷を負ったとみられるが、生死は確認されていない。
村は事実上無人となり、地域では「神送りの失敗が災いを招いた」との声も上がっている。


シロクマの見た夢1 😴
今野は14インチのテレビに流れる、自らが描いた漫画が原作のアニメを眺めている。手にしていたGペンのペン軸はApple Pencil proに換わり、Webtoon漫画に適応しようと工夫した原稿用紙は、今はWacomの液晶タブレットになった。ペン立てから以前使っていたペン軸を取り出すと、じっくりと眺める。その棒は、以前手にしていた時よりもずっと短くなってしまっている。今野は「もう時間がないな」と思う。
アニメのAパートとBパートの間に、更科アグリテックのCMが流れた。『更科アグリテック』は、農業用機器のシェアで現在東南アジア第一位の農業機械メーカーだ。農薬散布機が売上の殆どを占めていた時代が長く、それは現在も農薬散布ドローンの形で好調を維持している。『大高建設工業』として50年近く経営されてきたが、令和に入っての経営陣の世代交代を機に、更科アグリテックと社名を一新した。以降は農業機械とITの融合を掲げ、新しい技術の提供に定評がある。
近年発表された商品の中では『犬の散歩ドッグ』こと『Pawtomo《ポートモ》』はユニークな商品だった。Pawtomoは犬の散歩を代替してくれる四つ足歩行型Androidで、リードを咥えたPawtomoが街中で犬を散歩させる様子は、”二十年前倒しの暗黒風景ディストピア”として話題になった。しかしPawtomoが革新的だったのは本来その絵面ではない。Pawtomoには散歩させた犬の糞を自らの体内に格納する機構があり、格納された糞はPawtomoの内部で発酵・分解され、良質な肥料となる。肥料となった糞はPawtomoの設定を変更し、『田畑散布ドッグ』モードにすることで、大地へと帰すことが可能だった。これは更科アグリテックと中国企業である單輪車ドゥー ルン チャーが共同開発した商品で、日本での冷ややかな反応に比べ、中国では愛犬家の間で好調な販売台数を記録している。
中国での人気の方が高いというのは、今野作品にも言えることだった。『シロクマの見た夢』は中国では『熊猫编织的梦想』のタイトルで『ポケットモンスター』などと並んで評価され、継続して作品を提供できるならば国民的アニメを見据えることができるほどの人気を獲得していた。ただ中国では作中の今野はシロクマではなくパンダとして描かれており、それは今野自身も腑に落ちないところだった。
とはいえ更科アグリテックの近年最大のヒット商品は別にある。それは若者を中心に世界的なムーブメントを巻き起こしたプロダクト、『頭上栽培キット』だ。

⑪シロクマの見た夢2 😴🤔
テキサス州、アーリントンのAT&Tスタジアム。スーパーボウルのハーフタイムショーで歌唱する吉澤の側頭部に向けて銃弾が放たれたのを、吉澤本人は知覚していた。着弾まで0.11秒。瞬き1回分よりも速く着弾する。吉澤は「どうしようかな」と思う。完璧なカンガルーである彼女にとってその跳躍で銃弾を交わすことは容易だった。しかし最早それすらも必要ないことを、彼女自身は理解している。今野に幾ばくかの時間を戻してもらう必要もない。
スタジアムの巨大スクリーンに映る吉澤の姿が突然、衝撃を受けたかの様に画面から消える。上空を飛行する複数の音響拡散無人機スピーカードローンが拾った銃撃音が、スタジアムに響き渡る。一瞬の静寂の後、錯乱した人間やシベリアシマリスの叫び声が辺りに満ちる。しかし、間もなくして巨大スクリーンに再び、吉澤の姿が映し出された。吉澤は微笑み、マイクを手に歌っている。その頭上にはたんぽぽが一輪、黄色く咲き誇り、陥没した側頭部は、耳の上から生えた根生葉によって覆い隠される。

『カムイ エアラン シリキ アㇺㇱネ ”コンノ”
 レク アㇱ トゥㇷ゚カ ホㇿ ”コンノ” テㇱ ケレ』

演奏が止んだAT&Tスタジアムに、吉澤のアカペラが響き渡った。穏やかな歌声、ではあったが、直接的な情動を鼓膜に流し込まれるような快感を、その場にいた全ての観客が体験する。吉澤の歌唱は有袋目の常識を超えたものになりつつあった。

【未完】

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