梗 概
バンク・ガールズ、スプリント!
■企画概要
高校自転車競技のバンク競技の一種目「スプリント」が題材のスポーツもの。すり鉢状のバンクのハイサイドから、ノーブレーキのピストに跨った女子高生が駆け下りる。
■作中競技説明
・スプリント:1対1でトラック数周を走り、最終周回のスピードと駆け引きで勝敗を競う。
・エリミネーション:最大20人程度で行われ、1周ごとに最後尾選手が脱落する形式で、最後まで残った選手が勝者。様々な戦略がある。通称、生き残りレース。
・500mTT:自力や適正を測るために全ての部員が一度は経験する。女子の日本記録は34秒467。但しこれは特殊なピストでの記録。
・チームスプリント:3人1組のチームで走り、1周ごとに1人がリタイア。先頭の選手が空気抵抗を背負い、最後の選手がゴールした時のタイムで競う。
■第一章 登場人物
・佐伯雅(15):作葉女子高等学校1年。小柄。自信家。熱しやすく冷めやすい。ガールズケイリンの選手だった母を引退に追い込んだ女帝・神山紗代子を倒す(のとレース中に落車させる)ことが目標。回転数が強み。 ピストフレームは『三連勝』で赤。
・高野歩稀(15):作葉女子高等学校1年。中学ロードレース経験者。山岳大好きガール。中学後半から一気に身長が伸び、体重も増えた。山岳の適正が無くなったことを悲しんでおり、部に入るつもりはなかったが桜子の勧誘で入部。独特なフォームで二つ名は「機関車」。ピストフレームは『ANCHOR』の黄。
・夏川詩(16):。作葉女子高等学校2年部長。前年度インターハイ500mTT4位。責任感が強い。ピストフレームは『Nagasawa』で白。
・夏川・チャーリー・桜子(58):監督。詩の祖母。ファンキー。
■第一章あらすじ
中学までの雅と歩稀は、ジュニアのロードレースで度々対戦する仲。平地に強い雅と、上り坂だけは強い歩稀は良いライバル。しかし、中学後半にかけて歩稀は成長痛でロードレースに出れなくなってしまう。その頃、競輪選手であった母の引退の真相を知った雅は、自らも選手を目指すことを決める。
作葉女子高等学校に入学した雅は自転車競技部に入部するが、そこで記憶より20cm身長の大きくなった歩稀と再開する。二人は意気投合するが、競技場で測定した最初の500mTTで、夏川以外の先輩部員を抜き去り、1年で最速だったのは歩稀だった。
雅は、神山紗代子の高校1年時の記録と自らの記録を比較し、やる気を失ってしまう。一方、桜子は歩稀を世界に通用する選手にすると意気込む。歩稀はげんなりする。詩は歩稀をライバル視するようになる。
部活をさぼり、行きつけの自転車やでパンク修理を手伝っていた雅の前に、歩稀が現れ言う。「インハイ予選、出場種目決めるって」。
「スプリント」の枠を競い、3学年全員でのエリミネーションレースが始まる。
文字数:1201
内容に関するアピール
ロードレースはスポーツ物語の題材としてメジャーになりました。漫画では数タイトル思い浮かぶし、小説でも有名タイトルがあります。しかし、自転車競技にはもう一つの側面があります。自転車競技場や競輪場を舞台とするトラックレースです。
日本発祥の競技であるケイリンは知名度があり、題材となった物語もあります。しかし、トラックレースにはケイリン以外にも競技があり、また、私が知る限り商業化した作品でケイリン以外のトラックレースが題材の作品は無いはずです。「新しいスポーツの題材×高校生女子」でやれればと思います。
本長編では雅、歩稀の高校1年時を描きます。出来たら3年時まで書きたいので、その場合シリーズに出来ると尚良いです。『チームスプリント』は本作ではあまり描かれず、2巻が可能であれば詩に焦点を合わせた種目として詳しく登場します。
SF要素のない青春スポーツものとして書きます。この小説で売れて、競輪で大負けし無言で空を見上げていた父の仇をとりたいです。
文字数:421
バンク・ガールズ、スプリント!
プロローグ
引き足を使う時、反対のハンドルを強く押す癖がある。 引いた足が一番上まで来たら、逆足を再度引いて、 反対側のハンドルを押し込む。中学二年の高野歩稀にとって自転車は、 引き足の競技だ。
坂を登っている時が一番高揚する。呼吸に集中しながら、 クリートでシューズと固定されたペダルを、交互に引く。グイ、 グイと前に、というか上に登っていく。息を切らし立ち漕ぎする他の選手をかわして、歩稀は山頂を目指す。 お尻はサドルに付けたまま。歩稀に立ち漕ぎ は必要ない。
先頭を行く選手が見えてきた。同い年の佐伯雅だ。 ハァハァと息遣いが聞こえる。雅はロードレース用の軽量なヘルメットではなく、 ドカヘルという競輪選手御用達のそれを被っている。 丸くて白く無骨なそのヘルメットはとても大きく、 カリメロを彷彿とさせる。雅は追いかけてきた歩稀に気付き、 振り返って言う。「おのれ歩稀、小癪な!」
何が小癪なのか分からないが雅ちゃんぽい、と歩稀は感じる。参加している中学生以下の女子ロードレースで、雅より速い選手は関東に居ない。
歩稀は抜き去ろうと引き足に力を込め、雅に並ぶ。すると、 雅はギアを一段シフトダウンして、抜き去られるのを阻止する。 なんでシフトダウンして速くなるのか、歩稀はいつも疑問に思う。
「どうだ歩稀、 お前ごときパンピーが天才たる僕に勝てる道理はないだろ?」
長い、と感じる。上り坂で喋りかけてくるのも謎だし、 直後に苦しくなって後退していく雅を見て歩稀は、「アホだなあ」と思う。自転車漫画を読み過ぎなのでは無いか。
「フハハハハ! 今だけだ、今だけだぞ歩稀え!」
弱い魔王、みたいな声が、歩稀の後ろの方からする。でも彼女も知っている。小柄な歩稀が雅より速いのは登りだけだ。 だから今のうちに差を付けておかなければならない。
シフターに指をかけて、ギアを一つ上げる。脹脛に込める力を強め、ペダルを引き上げる。 逆足の踏み込みは流れに任せて、ハンドルを押し込む。また、 ペダルを引き上げる。流れに沿って踏み込んで、 ハンドルを押し込む。この繰り返しだ。
山頂が見えてきた。呼吸にだけ集中する。吸って吐いて、 吸って吐く。そうすると苦しさが誤魔化せる。 坂が好きだからといって、苦しいものは苦しい。けど、 その感覚も嫌いじゃない、と穂希は思う。何故なら歩稀は登り坂が得意だからだ。 得意だから楽しい。結局、速いと楽しいのだ。
頂上に達して、下り坂に入る。なので歩稀にとっての”坂”は終わり。 後はなるべく身体を小さくして、空気抵抗を減らし、 重力と感性の法則に任せる。下り坂でペダルを漕ぐ必要はない。
息を整えながら歩稀は、この後のレース展開を考える。といっても、 最後の登り坂を登り切った以上、歩稀に出来ることはあまり無い。下り坂は安全第一と父から教えられているし、 登り坂で後続との差はそれなりに作った。最後の直線の手前、カーブを曲がったらゴールに向けて全力でペダルを漕ぐ。この下りの間は体力回復に努めればいい。歩稀はダウンチューブからウォーターボトルを取り出し水を口に含むと、路面に集中した。
幾つかのカーブを曲がりながら坂を下る。そして次のカーブを曲がれば直線、というところで、後方から声が聞こえた。
「歩稀え〜!!」
雅だった。歩稀は「なんで!?」と思う。下り坂で差を詰めるのは難しい。ペダルを漕ぐと危険なので、殆どの選手は空気抵抗を小さくしつつ、適宜ブレーキを使いながら下っていく。しかし、雅は激しくクランクを回転させながら、ノーブレーキでやってきた。直線勝負だと思っていた歩稀は慌てるが、雅はあっという間に歩稀を抜き去ると、そのまま直線手前のカーブを曲がりきれず落車し、アスファルトを滑るようにしてガードレールに突っ込んでいった。
一瞬、何が起こったのか分からなかった歩稀だが、「雅ちゃん!」と叫ぶと、ロードレーサーを道路の端に立てかけてガードレールの向こうを覗く。そこは斜面になっており、だいぶ下の藪の上に、雅のロードレーサーが転がっている。歩稀は血の気の引く感じを覚え、辺りを見渡した。すると、ガードレールの隙間のところに、ドカヘルごと頭が引っかかった雅がいた。その手はガードレールの棒のところを両手で掴み、身体半分は斜面に投げ出されている。
「レースはこれからだぞ、歩稀え!」
「いや、終わってるでしょ」
安心した歩稀はロードレーサーに跨ると、ビルディングシューズとペダルを固定し、最後の直線に向けて坂を下り出した。
「え、歩稀? 歩稀氏? 挟まってるんだけど! ねえ、頭挟まったままなんだけど!」
枝葉の隙間から木漏れ日が差し込み、爽やかな風が吹いている。それが、雅と穂希が対戦した、中学最後のレースだった。
第一章 ガール・ミーツ、ピスト!
キャメル色のブレザーのサイズが合っていない。高校の入学式に臨む高野歩稀はこの時点であまり気分が良くなかった。「穂希はもっと大きくなるから」という母からのアドバイスで買ったブレザーは本来のサイズより1サイズ大きく、スカートの丈もやや長い。本当のこの制服の可愛さの数分の一しか発揮されていないように感じる。諸説あるが、この作葉女子高等学校の制服は、さいたま市内で最も可愛い制服とされている。この制服だったからというのが、この高校に決めた理由の4割くらいを占めていた。
中学2年の秋頃から歩稀は、身長が急激に伸びた。150cm台前半だった身長は今や160cm台後半となり、運動を控えている間に、体重も10kg近く増えた。「うちは成長が遅い家系ではあるから。でも女の子でもこういうことあるんだな」と父は笑っていたが、歩稀にしてみれば成長痛による日々の膝や脛の鈍い痛みは笑い事ではなく、これを期に反抗期となり父を嫌いになってしまいそうな感触がじんわりと心の内側に滲んでいた。
私立・作葉女子高等学校には体育館が二つある。一つは今入学式が行われているこの総合体育館。ここでは体操部やバレー部などが普段は練習に励んでいる。作葉女子は全国的に見ても運動部にとても力を入れている女子校で、特定の部活動目当てで他県からも一定の志願者が毎年いる高校だ。ちなみにもう一つの体育館は円形体育館と言って、文字通り四角形ではなく円形の形状をしている。丸っこくて可愛いが、あんまり人数が入れないのが難点とされている。建築コストも高いらしい。ともかく、入学式が粛々と開催されていた。
歩稀は参列する同級生のスカートから見える脚を、チラチラとチェックしていた。大体、脚を見れば自転車の適正があるかどうか、歩稀には分かった。正確に言えば脹脛の筋肉のつき方だったり、その柔軟性が大切だと考えている。がっしりした脹脛は平地や短距離向きで、細くて引き締まっているそれがクライマー向きの肉付きなんじゃないだろうか。歩稀は何となく頬が緩み口角が上がるのを自覚し、ちがうちがうと頬の内側を噛んで現実に戻る。なんというか、そういうことではないのだ。
「続きまして、新入生代表の挨拶です」
進行のアナウンスが聞こえ、歩稀は視線を壇上に向ける。するとそこには、非常に優れた脹脛が、壇上へのステップを登っているのが確認出来た。「これは」と思う。明確に短距離向きの脹脛だった。無理なく、しかし可能な限り最適なバランスでそこに筋肉が収納されている。おそらく、その長さからしてかつての自らのように小柄な体躯ではあるだろう。だが、間違いなく継続された努力の元に、培われ、研磨された、一朝一夕のものではないカーフだ。一体、どんな女子がこの鍛錬を。そう思い視線を上に上げていくと、そこには可愛らしいキャメルのブレザーを身に纏い、明らかに大ぶりな白いヘルメットを被った、高校の入学式に相応しくない異形の姿があった。穂希は、その姿に見覚えがあった。しかし何故、と思う。色々な意味で何故、と考えていると、進行役の女性教師からの注意が、体育館にこだました。
「佐伯さん! 佐伯雅さん! ヘルメット? その大きなヘルメットを外してください!」
それはそうだ、と歩稀は思う。そしてそのヘルメットがドカヘルという名称であることも歩稀は知っていた。
「いえ、これは僕のアンデンティティと言っていいものです。かつての武士に倣うならば兜と言って良いでしょう。このままで大丈夫です」
「大丈夫ではありません! これは入学式ですよ!? 外してください!」
雅はジロリ、と声の方向、進行である存在の方に目をやる。
「それは、兜を脱ぐ。つまり、僕に敗北や降伏を認めろということですか?」
雅の放った言葉で、総合体育館内に入学式に必要なそれとは異なるタイプの緊張感が漂う。
「いえ、これはその、新入生挨拶で、戦いに向かう武士のそういうのではないので……」
進行が最もな言葉を放つ。すると、人差し指を唇に当てた雅は、「さもいわなん」と小声でマイク越しに呟き、「フハハハハ!」と高笑いを始めた。
「仰る通り! 仰る通りです。大変失礼いたしました。では、この場では貴方のアドバイスに従いましょう」
そう言って顎のストラップを外すと、被っていたドカヘルを頭から外した。瞬間、演台の上で、胸元まである栗色の髪の毛が、ふわっと溢れた。キャメルの制服が、まるで彼女のためにデザインされたかの様に、その髪色と調和している。左右に髪をかき分けると、大きく意思の強そうなその瞳が露わになる。視線は射抜く様に鋭いが、ふんわりと薄紅色に染まった唇やその髪色も相まって、どこか優美な柔らかさも併せ持っている。端的にいって、美少女だった。
歩稀は彼女の地毛が明るいことを知っていたし、あれで成績も良いという噂は以前に父経由で聞いたことがあった。なので新入生代表になること自体にそんなに驚きはない。だけど、彼女がこの高校に来るというのは、何か違う気がする。この学校にも自転車部はあると聞いている。けど、彼女が進むのは別な高校だと思っていたからだ。埼玉県内には今、高校自転車競技に於いて特別な高校がある。2年連続インターハイ団体優勝、男女問わず歴史的に多数の競輪選手を輩出している名門中の名門、聖峰学園だ。彼女が自転車を続けるのなら、その高校へ進むものだと歩稀は考えていた。
思案していた穂希がはっと前に向き直ると、一瞬、雅と目線が合ったように感じた。雅は大きな目を細くし、ジッと一点を見つめている。そして手を挙げると、マイク越しに教師に伝えた。
「先生方、どうやらこの体育館に、鳥が迷い込んでいるようです」
歩稀はギョッとした。何を言ってるんだろう、何か文学的な比喩だろうか。そう考えていると、「あそこです」と口にし、雅は体育館の後方を指差した。すると、本当にそこに、迷い込んだ小鳥がトコトコと床を歩き回っている。ハクセキレイだろうか。青灰色の背中が綺麗で、その色彩の印象もあり、新入生一同も騒つく。外に誘導しようと教師が近寄っていくと、鳥は空気を掴む様に羽ばたき、宙へ飛び立った。そして、体育館のガラス面にぶつかると、気絶した様に床に、ボトリと落ちた。
整然と配置された机と椅子。窓際から差し込む太陽の光が、これから始まる学校生活を祝福しているように感じる。1年B組の教室に入った穂希は、今後の高校生活をじんわりと想像していた。
「なあ、さっきの鳥、あれやっぱ死んだんちゃうかな?」
後方の出入り口から教室に入った瞬間、そう声をかけられた。穂希が声の方を振り向くと、そこには金髪ショートヘアの、快活そうな少女がいた。
「なんか凄かったなあれ。やっぱ鳥ってガラスがあること分からへんのやな。うけるなー」
穂希は、どうしよう、と思う。デリカシーが無い人の様な気がする。それに、埼玉県出身で東日本から出たことのない穂希は、関西弁で喋りかけられることに全く慣れていない。急に緊張してしまう。ユーモアを、或いはセンスを問われているのではないか。センスがなかった場合、こいつは下のカテゴリーだと判断されてしまうのではないか。その場合、教室内スクールカーストが入学式当日にしてある程度固まってしまう可能性がある。それは避けなければならない。そう考えた歩稀は、とりあえずこの女の子のことを、微笑みながら受け流すことにした。
「うけへん? それにあの新入生代表の子もすごかったなあ。鳥落ちた瞬間に駆け寄ってたもんな。そんでヘルメットに鳥のこと格納して。保健室に行きます! って。あんなんなかなか出来へんで普通」
確かにあの瞬間の雅の反応は早かった。壇上からジャンプすると、着地時に前転して、そのままの勢いで鳥を拾い、体育館から消えていった。あの後新入生挨拶はなしになって、校長先生が短く追加でスピーチして入学式は終わった。
「何やったんやろうねあれ。でもうちはあの子、多分チャリ部に入る子なんじゃいかなって想像してるよ」
穂希は、ん? と思う。何故そう思ったのか。ヘルメットを被っていたから? 思わず問いたくなるが、ここで変にコミュニケーションを成立させた場合、自体はややこしくなる。穂希は事情があって、もう自転車競技を続けるつもりはなかった。というか、おそらく私の身体はもう、自転車を競技として続けられる状態にないのだと思う。
「ところで自分、名前なんて言うん?」
難しいクエッションが来た。これを応えないのはかなり厳しい。ど、どうしようと考えていると、彼女がその後を続けた。
「うちは高塩翔子。中学時代は”たかし”って呼ばれてた。苗字が高塩やからたかし。気軽に呼んでや」
たかし。待って、たかしって呼ばれてたの? 初対面の同級生女子のことを”たかし”と呼ぶハードルは案外高い気がする。躊躇して引き続きぎこちない笑顔を浮かべていたところ、たかしは「自分、何中なん?」と問いを重ねてきた。もう応えなければいけないと判断した穂希は、自らの出身中学を伝えた。
「私は上尾東中。JRの高崎線で通学することになると思う。ところでた、たかしはどこから?」
歩稀から問い返したところ、高塩翔子は一瞬固まると、その目に涙を溜めて、今にも泣き出しそうな表情になる。
なんで? と穂希は思う。慌ててたかしのことを宥めると、たかしは「だって自分、無視するやん」と言って、目元を拭った。「それはごめん」、穂希は心の中で応える。
「うちは川越南中。小学校までは茨城に住んでたんやけど、中学入る時に引越してん」
「そうなんだ。あれ、でもそうしたら関西にはいつ頃まで住んでたの?」
「いや、うちは関西に住んでたことないねん」
穂希は、どういうことだろうと一瞬考える。
「これはな、努力の賜物やねん。うち、思ってたんよ。学校生活に関西弁の彩りは必要なんやないかって。けど、おらへんやん、埼玉に関西弁の高校生。だからな、うちが担うことにしてん」
「え?」
「お前ら、席につけ」
教卓の方から声がして、穂希は一旦思考を止めると、名簿順に割り振られた自分の席に着いた。机の右上のところには、自らの名前とふりがなが振られた白のシールが貼られている。前の席の女子が、そのシールを覗き込んでいる。たかしだった。
「自分、穂希いうんか。た行同士のよしみやん。よろしくやで!」
そういうと白い歯を見せ、右手でサムズアップしてきた。歩稀は、嘘関西弁の女の子と前後の席になった。
「あなた、黄色のCOLNAGOの、高野さんじゃない?」
担任の夏川桜子が言った。黒板に自らの名前を書き、自らの紹介をした後、生徒に自己紹介をさせている時だった。
夏川は入学式で進行役を務めていた女性教師だった。歳は20代後半だろうか。オークリーのサングラスをおでこにかけている。伸びた背筋、贅肉の無い首元を見る限り、日々身体を鍛え続けている人種であろうことが伺える。ちなみにCOLNAGOというのは穂希が中学時代に乗っていたロードレーサーのメーカーで、イタリアの有名フレームビルダーだ。本来であれば中学生が跨っていいような代物ではないのかもしれないが、父が自転車店を営んでいる関係で、丁度いいサイズだからとある日、中古のそれをどこからか調達してくれた。穂希にとってまさに相棒と言って良い存在だったが、もう乗ることは難しい。ステムを伸ばして、シートピラを限界まで上げても、身長が20cm近く伸びた穂希が跨ると、上手くクランクを回すことが出来なかった。自己紹介で名前と出身中学以外に何を伝えるか迷っていた穂希は、突然の問いかけに動揺する。
「そうかもしれませんが、何でですか?」
「私ほら、形だけだけど、自転車競技部の監督だから。だから一応、中学ロードに出場してた地元選手はチェックしてるのよ。で、なんで入部届出さないの?」
そんなこと聞かないで、と穂希は思う。自転車競技部は特殊な部活動だ。高校に入る前に自転車競技を経験している生徒というのは非常に少なく、殆どの生徒は高校から始めることになる。しかも、競技用自転車は高額で、かつ購入費用に高校生優遇を受けようとする場合、殆どの場合は日本のメーカーでのオーダーフレーム購入となり、納期に数ヶ月かかることもざらだ。そのため、高校に入学する前から自転車競技部に入部することは学校経由で監督にまで伝わっていることが多く、新入部員の大半は入学前に確定している。そういう特殊性のある部活動なのだ。
「いえ、私は高校ではその、軽音部かな? そう、軽音部に入ろうと思ってるんで」
「何ばかなこと言ってるのあなた。放課後職員室に来て」
穂希は「嘘でしょ」と思う。後ろの席のクラスメイトの自己紹介に移るが、言葉が上手く耳に入ってこない。はあ、とため息を吐いて前に向き直ると、そこには目を爛々と輝かせているたかしの姿があった。
「放課後職員室に来い」
小声でたかしが呟く。
「放課後職員室に来い。やで? 自分すごいな! うちの108個ある高校で叶えるべき目標の一つやったんで? 教師に、放課後職員室に来いって言われるの。それ初日で叶えるって、何やねん自分、中学ん時、札付きのワルやったんか?」
札付きのワルって何。それにそんなニュアンスじゃなかったじゃん。穂希はそう思いイラっとしていると、後ろの席の生徒の言葉が耳に入った。甘く感じるその声色は、小さく震えている。
「高校では、自転車競技部に入ることになっています」
穂希は、え?と思う。そんなに続けて自転車関係者が同じクラスにいるか? と感じる。決して競技人口の多い部活では無いし、アニメやガールズケイリンの影響で活気があるとはいえ、女子が好んで志望するには敷居の高い運動系部活動だ。そう感じながら振り返ると、そこには、雪のように白い肌の女の子が、頬を赤らめて拳を握っていた。そして、下から見上げるアングルの関係もあるのかもしれないが、何というか、グラマラスだ。
「中学では陸上部で、100mメインで走ってました。色々あって、その。あの、同じ走る競技なので頑張りたいです。よろしくお願いします」
そう言って俯きがちに彼女は着席すると、その顔を前髪で隠した。穂希は机の上に貼ってある名前が書かれたシールに目をやる。津川つばさ、とそこにはあった。「つばさちゃん。この子とは仲良くなりたい気がする」。穂希はそう思いながら視線を前方に向けると、たかしが「パイオツカイデーやな。僥倖やで」と言って手を合わせている。この子とは仲良くなりたくない気がする。
そうこうしている内に自己紹介は終わり、明日以降の簡単な予定が夏川から案内され、高校入学初日は解散となった。
職員室に行くと、穂希は夏川に別な部屋を案内された。部屋の入り口横には『進路応接室』と書かれている。「失礼します」と挨拶して部屋に入る夏川の後を続くと、そこには革張りのソファーに深く腰をかけた、白髪混じりの女性の姿があった。女性は髪を後ろで一つ結びにしており、眼鏡をかけている。しかし、そんな情報はどうでもいいくらいに、横にサイズがあった。おそらく100kgは優に超えているだろう。かなり大柄な体格だ。夏川は、大柄な女性の反対側のソファーに穂希を案内すると、自らも腰を下ろして、口を開いた。
「こちらが作葉女子高等学校、自転車競技部の副監督をして下さっている、山本先生です」
夏川の声に、僅かな緊張を感じる。それが伝わり、穂希も背筋を伸ばす。
「山本です。外部指導者なので学校の先生じゃないのよ私。だから緊張しなくていいからね。よろしくね、高野さん」
優しく言うと、山本は笑顔で握手を求めた。
「よ、よろしくお願いします」
穂希はその手を握り返す。山本は何かを探るように、握る手に力を込めたり、緩めたりしている。
「それでね、高野さん。あなた、高校では自転車を続けないって聞いたのだけど、何か理由があるの?」
「えーと、それはですね、あのお」
穂希は、中学途中から自転車と距離を置いていることを、二人に話した。中学の途中から身長が大きく伸びたこと。それに伴った激しい成長痛。体重も増え、得意だった山岳が苦手になってしまったこと。サイズが合わなくなり、相棒だったロードレーサーにも乗れなくなってしまったこと。幾つかの要因が重なり、穂希はロードレースを続ける理由が無くなっていたのだった。
「そうなのね。じゃあ仕方ないことかもしれないけど。自転車は危険が伴う競技だし、女の子に無理強いは出来ないわ」
山本の言葉に、穂希はホッとする。話したことは事実ではあるが、穂希には高校生活を素直に楽しみたいという気持ちもあった。なのであんな、体力の限界を試す様な全身運動、山岳の適正も無くなった今の自分がするべきでは無いと考えていた。速いから楽しい、得意だから楽しいという価値観だった穂希にとって、そうで無くなった以上続けるのは苦痛でしかないのだ。
「でも惜しいわねえ。山吹色の登山列車《イエローマウンテントレイン》と言われたあなたが、中学で競技を辞めちゃうなんて」
「山吹色の登山列車?」
何その二つ名。と穂希は思う。穂希は中学時代、出るレースの殆どで確かに山岳賞だけは取っていた。しかし、そんな異名が自らに冠されているとは露も知らずだった。
「今も膝や太ももは痛いの?」
「いえ、もう痛みは落ち着いています」
「私は勿体無いと思うわ」
挨拶の時から山本に、ずっと握られている手の力が強まる。
「あなた、今のウェイトは?」
ウェイト? 体重か。答えるの? まあいいけど、と穂希は思う。
「62kgです」
「そう。あと8kg増やせる?」
「増やす? え、嫌です。何でですか?」
「軽すぎるもの。あなた、もうロードレースには出なくていいわ。だから、自転車競技部に入りなさい」
穂希は、この人何を言ってるんだろう? と思う。マネージャーにでもなれとということだろうか。それこそ私の望んでいる高校生活とは違う気がする。
「今週金曜、その日は午前中で学校が終わることになってる。終わったら、そうね。14時。来て欲しい場所があるの。あのカリメロちゃんも来るわ」
そう言うと山本は歩稀の手を離し、手帳のページを千切った。穂希は「雅ちゃんも」と他人事の様に思う。山本は学校からどこかへの、簡単な地図を描いた。
「迷ったらスマホとかで調べて」
山本は歩稀に手書きの地図を渡す。そこにには強い筆致で「大宮競輪場」という文字が記されていた。
穂希の父が作った人参しりしりが食卓に並ぶ。この料理は細かく刻んだ人参と玉子を一緒に炒めたもので、ご飯の上に乗せて食べると美味しい。マヨネーズをかけても美味しくて、たまに出てくると歩稀は喜ぶ。あとはけんちん汁が出てきた。けんちん汁や豚汁は父が数日に一度大量に作っていて、穂希の自宅では味噌汁よりもそういった汁物が食卓に並ぶことが多い。後は半額になったスーパーの惣菜とか、そういうのだ。
穂希の父は中古を中心とした自転車屋を営んでいる。『高野なんちゃってサイクル』と看板を掲げたその店のラインナップは、電動ママチャリにロードレーサーにBMXと、一貫性が全く無い。その辺りがこの店が上手くいっているのかいないのか分からない主たる要因だと穂希は思っている。看護師をしている母は”当直”という形態で働いていて、丸一日泊まり込んで働いては翌日は昼過ぎまで寝ている。その翌日は公休という正式な休みになるらしく、なので大体、三日に一度くらい出社して働いている感じで、今日はその当直の日だ。母曰く「看護師が私が持てた最強のカード」らしい。穂希の母はそういって自らにも看護師資格を薦めてくることがあった。その度に、そうなのかなあ、と疑問に思っていた。もっと弁護士とか分からないけど税理士とか、強そうな資格はある様に思う。けど母は「あんなのは殆ど才能職だから。運よく記憶力とかそういうのに恵まれた人だけで争う奴なんだよ」と言って取り合ってくれなかった。
穂希の父である高野義和は、普段よりも白米に対するがっつきの弱い娘のことを見て、「何かあるな」と感じていた。そして愛機・富士フィルムX100vを手に撮ると、自らの娘に向けて、シャッターを切った。憂いを感じる。普段の娘からはあまり感じることのないその感情表現に、義和はシャッターボタンを押す人差し指の動きが止まらない。
義和にとって人生とは自転車とカメラだった。20年以上前の話だが、ジロ・デ・イタリアを現地で観戦したことがある。大学時代カメラ部だった義和は、輪行バックに前後輪を外した自転車を詰めて、イタリアに渡った。義和としては、当時の自らにとってのヒーローだったマルコ・パンターニをひと目でいいから見たいという一心で、決めた海外旅行だった。ジロ・デ・イタリアでは、アルプス、アペニン、ドロミテなどの山岳地域を通過する。その度に、場所を変えて山を登っては撮影ポイントに陣取り、ヒーローが通過するのを待った。約三週間にわたるそのステージの中で、4度、義和はマルコのクライミングの撮影に成功した。特に第20ステージ:ヴェレス〜セストリエールでは、最高標高地点のコッレ・デッレ・フィネストレにて、勝利を確信したマルコによる微笑みを、そのカメラに収めたことがある。それは逆光にでの被写体撮影となってしまい、今となっては決して上手い撮影とは言えない。しかし、義和にとっては本当に大切な、人生において掛け替えのない一枚となった。
「あのねお父さん、今日職員室に呼び出されたの」
「そ、それはどうしてなのだ?」
一瞬動揺してしまい、義和は語尾がハム太郎になってしまう。こういうのも何だが、うちの娘はよく出来た子だ。成績は中の中。本当に真ん中で、可もなく不可もなくという感じではあった。しかし自らが勧め、小学校高学年から始めたロードレースではメキメキと頭角を現し、義和も想像していなかった成績を一部大会では収めている。自らもその妻である穂花も、決して運動神経が良いとは言えなかったため、その活躍は嬉しい誤算ではあった。確かにお金はかかった。パンクすればタイヤは一本数千円、備品も馬鹿にならず、遠征費用も思った以上の費用がかかった。しかしそれは、その走りは、かつてのマルコを彷彿とさせるものだった。山岳で、妙に身体を左右に振りながら、がむしゃらに漕ぐ。それでいて速い。そんなレースを自分の娘がしているというのは意外だったし、どこか誇りに感じていた。
「それに、札付きのワルって言われた」
「そんな訳ないだろおお!!」
興奮した義和はテーブルを拳で叩いてしまう。一呼吸してトーンを下げると、義和は改めて応える。
「いや、そんなことは無いと思うんだけどなあパパ」
「うーん、まあそれはいいんだけどね。でもなんか、自転車やめるのは勿体無いって言われた。それにもうロードレースには出なくていいって。あと、体重を8kg増やせるかっって」
情報量が多い。義和は混乱しつつ、誰にそれを言われたのかと問うと、大柄だと言う山本という女性助監督の名前が返ってきた。思案している義和に、穂希は続ける。
「それでね、月曜学校終わった後に、大宮競輪場にきて欲しいって」
「競輪場?」
それを聞いた義和は再度考えを巡らすが、「そういうことか?」とやや合点が言った感じがあり、X100vをカメラケースに収めながら言った。
「もしだけど、ピストを用意して欲しいって言われたら、問題ないって答えていいからな」
「ピスト? 何それ」
「まあギアチェンジが出来なくてブレーキもかけられないロードレーサーってとこだな」
「はあ? そんなの乗っちゃダメな乗り物じゃん! いいよそんなの用意してくれなくて」
穂希の声を背で受けながら、和義は食べ終わった食器を洗い場へと持っていく。時折覗くその横顔は、何故か喜んでいる様に穂希には映った。
少し前までの、桜が咲き誇っていた名残りがそこ辺りに散らばっている。大宮競輪場は大宮公園の広い敷地内にある。本来であれば公園を抜けずとも競輪場に辿り着けるのかもしれないが、スマホの地図に誘導されるままに向かっていたところ、穂希と津川つばさは公園を突っ切る形になっていた。
「ごめんね、せっかく津川さんロード乗ってきたのに手押しさせて」
「ううん、気にしないで。それより一緒に行ってくれる人いてよかった。穂希さんいたら心強い」
「私こそ。一人で呼び出されるのかと思ってたからよかったよ。あれなんだね、今日は入部希望者に部を紹介するみたいな日なんだね」
「そうだと思う。ほら、うちの自転車部ってちょっと特殊だから」
やっぱ特殊なのか? と穂希は思う。どう特殊なのか聞こうと思ったが、つばさの履いているタイトなレーシングスパッツから覗く白い太ももが気になってしまい、一瞬思考が飛んでしまう。
「あ、これ。恥ずかしいよ、なんか気合い入れて履いてきちゃって。この上からジャージも履けばよかった。今からでも履こうかな」
そう言ってバックに目をやるつばさを「いや大丈夫、全く問題ないよ」といって穂希は制す。何故なら全く問題ないからだ。
穂希はこうやって春の公園を女子高生同士で歩いているという事実に、じんわりとした幸福感を感じていた。これが私が欲していた学生生活の一端なのかもしれない。「うちも一緒に行く!」と騒いでいた自らの前の席の女子を振り切り、津川さんと二人で学校を飛び出してきたのは英断だったと、改めて思う。
「ほら、あと少し、この細い道を抜けたら、競輪場の裏口なはずだよ」
そう言うつばさの後ろを着いていくと、開けた場所に出た。そこは、二十台程度は車を駐車できるスペースだった。そのアスファルトの上に、10人位だろうか、歩稀やつばさと同年代の女の子の姿、おそらく新入部員の姿があった。その殆どはジャージだが、一人、レーシングジャージにスパッツ、白いヘルメットを被った見覚えのある顔がある。栗色の髪の毛がドカヘルの間から僅かに覗く。強い目線で前方を見つめるその少女、それは佐伯雅だった。
「星井昴です。私が作葉女子高等学校、自転車競技部の現部長を務めています」
背の高い女性が言った。穂希から見ても少し視線が上を向く。170cm台中頃はあるだろうか。そしてその身長以上に、顔の小ささに目がいく。少しきつい印象の顔立ちだが、話し声には柔らかさがある。
「今日ここに来てくれている皆は、基本的には入部前提で考えていいんだよね?」
昴の言葉に、穂希は小さく首を降る。なし崩し的に入部させられたのでは溜まったものではない。
「まあ今日はひとまず、うちがどういう部かっていうのを分かってもらえればいいから。あ、ちなみに、この中で競輪選手志望はどのくらいいる?」
ばっと雅の右手が挙がる。それに引きづられるように数人が手を挙げる。7人ほど手が挙がっただろうか。穂希が横を見ると、つばさも小さく手を挙げていた。穂希は「そうなのか」、と思う。
「なるほど。ありがとう。うちはそういう部だしね。最初は皆そうだと思う」
昴が目線の後方にやる。そこには、山本助監督がパイプ椅子に座っていた。やはり大柄だ、と穂希は思う。サングラスをかけているせいか、学校で会った時とは雰囲気が違う。
「今日いるこの競輪場だけど、私たち自転車競技部は、競輪が開催されていない平日、その中でもプロが練習しない時間帯にこの場所を貸していただいています。私たちはこの場所をバンク、と呼ぶことが多いです。ちなみに大宮競輪場は500mバンク。500mは傾斜が最もゆるいバンクだと考えてもらっていいよ」
そう言われた穂希は、金網ごしにバンクの内側を覗く。すり鉢状をその作りは、どことなく蟻地獄を彷彿とする。「この傾斜でゆるいの?」と、穂希は思う。
「既にピスト、オーダーしてる人?」
昴の声に、穂希以外の全員が手を挙げる。「僕は既に手元にあります!」。雅の声も聞こえた。
「そう。そうししたらあなただけまだオーダーしてない感じね?」
そう言うと昴は、歩稀の方を向いた。つられて、新入部員の視線が歩稀に集まる。その視線の中の一人、雅の目線は一瞬、穂希に向けられるが、一端目を離した後に二度見し、指を指して「あーー!!!!」と叫んだ。
「お前、歩稀! 高野の歩稀氏じゃん! よくものうのうと! この殺人未遂犯!!!」
その言葉でどよめきが、辺りを包む。穂希は、胸の前に両手をやると、ぶんぶんと手を振る。
「いや、あれはほら、あの時、雅ちゃんは大丈夫だって分かったから私は!」
かつての中学ロードレースで落車した際のこと、どうやら雅は根に持っているようだ。穂希にしてみれば「勝手にこけて無事も確認したし」ということなのだが、雅にするとまた事情は違うらしい。
「なんか身長大きくなってるし! なんで! あの後、僕は後続もなかなか気づいてくれなくて、ずっとガードレール掴んで、それでヘルメット外して、ちょっとずつちょっとずつ斜面を降りて……」
雅は自らの両肩を抱くと、ブルブルと震え出した。穂希は「まさか」と思うが、そういえば閉会式の時も雅とは会っていなかった様に感じる。
「僕あれから、身長も伸びないし。あの時の、あの時の恐怖で」
「いやそれは絶対関係ないと思う」
「えーと、何か因縁があるのかもしれないけど、それは後でやって」
昴が二人のやりとりを遮る。
「そうしましたら、山本助監督から新入部員にむけて、お話お願いします」
指名された山本はパイプ椅子から立ち上がると、周りを見渡して言った。サングラスで目元が見えないせいか、やはり学校で会った時よりも威圧感がある。
「うちはロードレースの大会には参加しません」
穂希の横でつばさが「えっ」と声を出す。もう買っちゃったのにということかもしれない。その辺りを察したのか、山本は続ける。
「いえ、ロードレーサーが不要ということではありません。この場所を貸していただけるのは平日の夕方以降だけなので。ピスト練習だけでは強くなれませんし、他校との練習の兼ね合いもあります。作葉ではロード練習はしますが、一切のロードレースの大会に参加しないということです。作葉女子の自転車競技部は、全国的にも珍しいと思いますが、ピスト競技のみに絞った自転車競技部とお考え下さい」
山本の言葉に、思いの外そこに集まった新入生は動揺しない。元々そういう部だという認識があったのだろうか。穂希は黙って耳を傾ける。
「それなのにロードレーサーとピストレーサー、2台皆さんには購入、もしくは用意して頂く必要があります。これがどういうことか分かりますか?」
「お、お金がすごくかかる、ということでしょうか?」
掌を向けられたつばさが答える。
「そうですね。スパイクもロード用とピスト用が必要ですし、ユニフォームやメンテナンスにかかる費用、遠征費用もかかります。あなた達は入部後最初の一年で、国立の大学生の学費、もしくはそれ以上を、ご両親に負担していただくことになるんです」
真剣に話を聞く新入部員を山本はもう一度見渡す。
「つまり、一度入部したらちょっとやそっとじゃ辞められないということです。皆さんは3年間、この部活を続ける覚悟がありますか?」
「はい!」
山本の問いかけに、雅だけが大きな声で応える。後から他の新入部員が、「はい!」と次々に応答した。山本は反応に困る穂希のことを、サングラス越しに見つめている。
「一度、見せてあげていいでしょうか?」「そうですね、お願いします。ただし、真剣にやって下さいね。遊びじゃないので」
昴と山本が話しているのが聞こえ、その後新入部員は裸足にさせられた。新入部員はまだピスト用のスパイクを持っていないからというのがその理由のようだ。
バンクを囲う金網の一箇所に出入り口があり、その手前で一礼してからバンクの中へと入る。バンク内では先輩部員数人が既に、ピストに跨りペダルを漕いでいる。
「神山! ちょっとこっち来て」
昴の声に、先輩部員の一人がピストレーサーに乗ったまま近づく。ヘルメットとサングラスでその顔は殆ど見えないが、雅が「神山紗代子の娘」と口にするのが穂希には聞こえた。
「これから、私とこの神山で、”スプリント”という種目を皆さんに見せます。なんだろ、駆け引き要素が強いピスト版徒競走、みたいな感じかな」
そう言って二人はスタートラインに並んだ。別な先輩部員がそれぞれのピストを背後で支える。ロードレーサーとはペダルとスパイクの固定方法が異なるらしく、一旦固定してしまうと着脱が難しいようだ。
山本が電子ピストルを手にし、天に向ける。
「ピ、ピ、ピ、ピ、パン!」
ピストル音に合わせて、昴と神山はゆっくりとペダルを漕ぎ出した。僅かずつ、互いを牽制しながら、ゆっくりゆっくりと前に進む。
「最初の2周は駆け引き。どんなスピードで走っても構わない競技です。何ならスタートから逃げを打ってもいい。勝負は3周目。3周目のゴールラインを先に切った方が勝者。シンプルな競技です」
山本が新入部員に向けて解説する。穂希はその様子を眺めているが、いくら何でも遅すぎでは、と感じる。亀の様なスピードで進み、2周目に入ってからはバンク中腹の急斜面で、2台とも殆ど止まったようになっている。あれでずり落ちてこないのが不思議だ。
2周目の第3コーナーに入ると、突如レースが動く。最上段の辺りで止まった様になっていた2台の、内側にいた神山が、落ちる様に斜面を下ってきた。「危ない!」。穂希は思わず声が出る。「いや決まりだよ」。雅が横から応える。実際、レースはそれで決まりだった。仕掛けた神山に昴は即反応するが、最初についた差を縮めることは出来ず、3周目は神山の独走をただ眺めるだけとなった。
「あの人まだ2年だから。あんな山降ろし、反則」
そう言う雅の横顔を覗くと、これまでに見たことのないような苦々しい表情をしていた。
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