No One Color

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梗 概

No One Color

2082年、62歳の『繭』は女性刑務所で服役中。繭は明日、面会室で『空』が描いた絵と再会する。繭は空と過ごした15年を思い返す。

2062年、42歳の脳外科医の繭は、内閣生命倫理審議会に呼ばれ、3年前に実用化された脳への電極インプラント手術『オーグ』を報告する。オーグは思考に関わる大脳に限らず、ホルモン分泌や呼吸を統制する小脳や脳幹との連携も実現。オーグ使用者は脳とAIの接続による思考強化に留まらず、自分の情動や血圧すら制御できる能力を得る。
繭は病院に戻り、患者を問診しつつオーグの危険性を思う。人は従来、徐々に認知機能や身体が弱まる中で、来たる死と向かい合っていたが、オーグ使用者の場合、最期まで理路整然としている。しかしそこから急に臨終する彼らの死相は、みな歪んでいた。
繭は帰宅し、ペットの梟を撫でながら、お腹の子が生きる未来を思う。繭にはかつて伴侶がいたが、例え子供を産んでも、自分は今の人間に共感できないから、子供が死んでも泣かないだろう、との口論で別れた。しかし壮年となった繭は、愛を知りたいという思いから精子バンクで妊娠した。
その後、胎児は育つも、早産となり、ICUで脳死。繭は落胆しつつ、これは愛を理解しない自分への神の戯れと感じる。そして繭は赤子を『空』と名づけ、手術し、オーグで生体機能を維持し成長する存在として蘇らせる。

2077年、57歳の繭は、雪の森でテントを張り油絵を描く空を眺めている。幼少期の空は生物や風景を模写したが、最近は曖昧な抽象画だ。AIが思考の基盤である空は、自分は人間なのかと自問している。繭は空に伝えたいことがあるが、切り出せず、二人で家に帰る。
数か月後、繭は国会に参考人招致される。昨今、「人間らしい死に方」を巡りオーグ禁止のデモが起きている。オーグが普及した今、良い職に就くためにオーグは欠かせない。しかし一度オーグを使用した者は、高齢に達したからと自ら使用を断つことも出来ていない。その先に待つ歪んだ死の影が人々を狂わす。繭は悩むも、オーグの否定的見解を発言。これを受け国会はオーグの禁止を決定。
その夜に繭が家に帰ると、空が浴室を宗教画の天国の様に塗り立てていた。空は自分がオーグのサーバー停止で死ぬことも自覚していた。空は、自分の死を人間らしいものにしたいと言い、繭に自殺介助を頼む。繭は聞き入れ、二人は浴槽に水を張る。水に潜った空を、繭は浮き上がらないよう押さえた。空の死相は安らかだった。

刑務所で繭は面会室の前に立ち、扉を開ける。空の絵は輸送で破損していたが、ある事に気づく。その抽象画は、色を置いては黒で潰し、また色を重ねていたものだった。空は幾度も死に怯えていたのだろう。死の恐怖と、それを打ち消そうとする情動の重なりが、一つの色No one colorが全体を支配しない曖昧な美を成していた。それに気づいた繭は人への愛が溢れ、涙を流す。

文字数:1200

内容に関するアピール

『フランケンシュタイン』の換骨奪胎です。

原作では、生命の謎への野心から蘇生された屍が、主人公を死に追いやり、屍もそれを悲しみ自死します。本作では、生命の謎に迫りすぎた人間に疑問を抱く主人公が、乾いた心で屍を蘇らせ、その屍の自死で主人公が救われます。

繭はオーグで人間は理性が強化された一方、人間の宿命である曖昧さから逃げていると感じています。また時代に馴染まない自分に孤独を感じています。しかし空が、生の曖昧さと向き合い、繭が思う本質的な行動をとっていたことに、繭は共感し泣きます。

『繭』の由来は、繭の中での長い孤独が、空に向かう事で昇華されること。『空』の由来は、その存在の境界がグラデーションであることが、生と死のあるべき形だと言う含蓄です。

なおタイトルのもう一つの意味は、空が自分を「何者No oneでもない」と呼ぶ事です。また作中の油絵のモチーフは、上野早智子さんの作品『枯れゆく花』です。

文字数:400

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Opt《オプト》

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Opt【英語。動詞】=「選ぶ・決める」。語源はラテン語のOptare「選ぶ・願う」


「麻酔完了。呼吸停止確認。気管挿管します」隣に立つ麻酔科医の声が響く。手術台に乗せられた男は、首から下を緑色のドレープで覆われ、少し髪を剃られた頭頂部を私に向けている。私の口から、もう何千回目の言葉が機械的に出る。「皮膚消毒」「切開線マーキング」「切開します。メス」。私は両手で男の皮膚と骨膜を反転してピンで止める。頭蓋骨が見えた。「ドリル」骨に円形の穴を開け、その部分を取り外す。続いて硬膜をハサミで切り、くも膜も切る。大脳が露出した。
「MLSデバイス、セット」私の合図で、天井に折り畳まれていた36本の超伝導電磁アームが伸び、男の顔全体を満遍なく包む。これで私の役目はほぼ終わり。一息ついて、助手に顔の汗を拭いてもらう。そして、髪の毛より細い数万本の糸型電極が格納されたコイン型デバイス、《オプト》を受け取る。後はMLSが磁場を形成し、オプトを脳に縫い込むのを監視するだけ。
 手術無影灯の光が、私の手元を少しの闇も許さず照らしている。部屋は静かになり、人工呼吸器は膨らんでは閉じ、心電図モニターの電子音が規則的に鳴っている。私は数秒、瞼を閉じる。そしてオプトを両指でつまみ直し、男の脳にそっと当てる。MLSが作動した。この瞬間にいつも、息子のそらをお腹に宿した、6年前の冬を思い出す。

「繭、迷いがあるなら、話し合いたいな」その頃には何回かのセックスの後には決まって一度、りつはベッドでさりげなく私に聞いた。私達はパートナーとして同棲7年目で、二人とも40歳になろうとしていた。彼は私と同じ脳神経外科医で、同じ会社の研究所の別部署に所属していた。私がもっと若かった頃、律の聡明な物言いは私を安心させた。
 オプトは人間の自律神経を最適化Optimizeする脳インプラントだ。オプトは脳神経への直接介入で、アドレナリン、オキシトシン、ドーパミンといったホルモン分泌を操作し、緊張、共感、やる気などの感情を調整する。また血圧、心拍数、体温等にも介入し、人間の感覚に意図的な影響を与える。
 律が言う「話し合う」とは、私が感じる何かにラベルをつけること。そのラベルは「漠然とした不安」や「自己肯定感の欠如」かもしれない。適切なラベルが見つかれば、私達は自分をより深く理解でき、今よりよい自分になれるのだろう。でもそうやって感情の最適化を繰り返していけば、私達の内面は、皆おなじようなものになっていくのではないか。そんな想像に私は怯える。「私だって子供は欲しい」私を包む彼の腕から逃れ、私は言った。「でも話し合って解決するとか、そういうのじゃない」
 オプトの直接的な起源は、パーキンソン病の治療法として確立していた脳深部刺激療法(Deep Brain Stimulation:DBS)だ。2002年に米国で認可されたDBSは、2本の糸に合計8か所の電極を配置し、脳の奥側、眼球の背後あたりに位置する大脳基底核に電極を埋め込んだ。そして電極を通して一定の電気刺激を持続的に送ることで、脳の神経活動を抑制し、パーキンソン病の症状である手足の震えや動作の異常を改善した。しかしこの段階のDBSは、ある意味で脳に漠然と電気刺激を与えていた訳であり、その脳神経への介入方法は双方向ではなく一方向だった。
 私が小学生だった2020年代、人体はまだ謎に満ちていた。理科の授業で先生は、その頃には登場し始めていたAIが、まだ解かれていない人の不思議を、例えば心の仕組みを突き止めるかもしれないと言った。その謎は幼い私を魅了したけれど、医師となり研究所に勤め、目を見張る脳波のデータに触れる内に、私は自分の息が詰まるのが、好奇心ではなく恐怖なのだと気づいた。私達が、生きて、感じて、怒ったり、笑ったり、人を愛することも、電気信号に可視化すれば、人と人で余り差はない。私が何かを見て悲しんだり、何かの決断を悩んだりする時も、そこに私の自由な意思なんてものはなく、それは他の人と同じように、私の脳が条件反射で生み出す電気信号に過ぎないのかもしれない。
 脳インプラントの革命となったのが、2024年に実現された、思考からPCを直接操作する技術だ。この技術はコイン型デバイスから垂れる64本の糸に1024個の電極を配置して大脳の運動野に埋め込み、ある人が特定の動作(例えば、PCのカーソルを上下に動かすイメージをする事)を行う際のニューロン発火パターンを学習した。そしてこの学習データを元に脳をリアルタイムで読み取り、該当する発火パターンが観測されると、それをBluetoothでPCに出力し、カーソルが頭で描いた通りに動く事を実現した。これを皮切りにDBSでも、脳活動をリアルタイムで観測し、それに応じて脳に与える電気刺激の強度や部位を調整する研究が加速した。
「それじゃあ、話はどこにも行かないよ」律は丁寧にそう言った。その頃にはオプトを装着していた彼の言葉は、以前にも増して、穏やかで共感に満ちていた。律は顔を私に向けて、でも視線は逸らして、否定も肯定もせず、私が口を開くのを待っている。まるでカウンセリングだ。「あなたの時間を無駄にしてるわ」私はよそよそしく答えた。「あなたは苛立ったりしないの?」いっそ怒ってくれればどんなに楽だろう。
 DBSの進化と並行して注目を浴びたのが、大脳基底核よりさらに奥に位置する脳幹や間脳だ。脳とは一般的に、より奥側に位置する部位ほど、より原始的な機能を担っている。例えば脳幹は、大脳基底核より更に奥、鼻の裏あたりにある、成人の親指ほどの小さな部位だ。脳幹は妊娠7週目、まだ胎児が1㎝にも満たない段階で最初に形成され、呼吸や消化など、人の無意識の身体活動、いわゆる自律神経を統制する。脳幹や間脳のニューロン発火は、人が意識と呼ぶものに影響を受けづらい。例えば、人がストレスに晒された時、愛する人を抱きしめた時、性欲を感じる時、それらの瞬間の脳幹や間脳のニューロン発火パターンには個人差が少なく、観測データの一般化がしやすい。
「怒っても仕方ないよ。繭も子供は欲しいと言っている。でも何かの不安が、その選択を邪魔してる。だから二人でその原因を見つけよう」律がそう口にした瞬間、自分でも驚くほどの苛立ちが胸に広がった。「そうじゃないの!」私は、私達がどうすべきかを聞いているんじゃない。ベッドから出て、顔を見られないようトイレに逃げ込んだ。律は追って来ない。そんな事をしても私を追い詰めるだけと判断したのだろう。私は裸で、顔は涙で濡れて火照っているのに、身体はどんどん冷めていく。彼だけじゃない。オプトをしている人もそうでない人も、今では誰もが、何をどう感じ、どう行動すべきか、賢く理解している。私はそれが何か違うと感じるけれど、その怖さを誰かと分かち合うことも出来そうにない。
 脳幹や間脳のニューロン発火パターンの解析には、数百本の糸で数千の電極を脳深部に埋め込む必要がある。その為に開発された技術が、磁気浮上手術(Magnetic Levitation Surgery:MLS)だ。磁気浮上とは、磁場の制御で物体を移動させる技術であり、リニアモーターカーなどで使われる。MLSデバイスは、36本の超伝導電磁アームで被術者の顔全体を覆い、3次元の強力な磁場を形成する。そしてまず、従来のMRIと同じ原理で脳を3Dスキャンし、その後、コントロールされた磁場と糸型電極に発生させる磁場を感応させて動かし、糸を脳深部に立体的に縫い込む。
 それから数日後、律が起きる前の凍てつくような冬の明け方に、私はリュック一つだけに荷物を詰めて家を出た。律は私の研究部署宛に何度か手紙を出したけれど、訪ねては来なかった。7年ぶりの一人暮らしとなり、夜ひとりでシャワーを浴びる時、自分でもむちゃくちゃだと呆れるのとは裏腹に、決まって同じ気持ちが込み上げた。――子供を産んでみたい。それはわかっているのだ。でも私は、私が感じる不安の分析や解決は望んでいない。律や多くの人のように、それを何かの正解に向けて調整したくもない。私は、自分は自分のままで、私の曖昧さと向き合い、何をするか選択したい。私は一つの決断をした。
 MLSでの電極手術で脳深部の正確な測定が可能となったことで、ホルモンや自律神経のニューロン発火パターンにつき、一般化されたAIモデルが完成した。そしてリアルタイムで脳幹や間脳を観測しつつ、AIモデルに基づき電気刺激を与えることで、ホルモン分泌や、血圧、心拍数、体温等の調整が可能となった。これがオプトである。
 この段階でオプトは商業化に乗り出した。とはいえ、医療的必要がない脳インプラントへの偏見は強く、保険適用もないため手術費用も高額となる。これを解決したのが、被術者はオプト装着に伴い、大脳の観測データを提供する事で、月々の研究協力金を得る、というマーケティングだ。大脳は人間の高次機能を担っており、思考・記憶・判断・感情などを司るが、そのニューロン発火パターンは個人差が大きく一般化が難しい。また大脳の活動は、ホルモンや血圧など観測時の身体状況にも影響を受けるため、それらのオフセットが必要だ。しかし前者の問題は、研究協力金の名の元で大量にデータを収集することで克服でき、後者も大脳の観測データをオプトと連動させることで解決できる。
 こうしてオプトは、数万の糸で数百万の電極を、脳幹、大脳、そして小脳や中脳に至るまで、脳の隅々に縫い合わせる手術となった。これを通して、大脳を含む全脳AIモデルも研究が進んでいる。全脳AIモデルが正式認可されれば、大脳へのリアルタイム介入で思考能力の強化などが実現され、オプトの名称も、人間を増強Augmentするデバイスとして《オーグ》に代わるだろう。その時には人体の最後の謎が解かれ、意識や感情、魂に関わる哲学的議論にも終止符が打たれるかもしれない。これが律と私が所属する、メッシュ社の事業だ。
 こんな電話を一人きりの家からするのは怖い。私は職場の休憩中に、律に電話した。「子供を産みたい。あなたとの。でも私一人で育てる」。律は珍しく、質問も提案もせず、少し沈黙して、「わかったよ」と答えた。電話を切った後、手が汗でびっしょりだと気がついた。私は話し合いも妥協もせず、自分の願望を突き付けた。罪悪感が押し寄せた。
 そのあと私達は病院を使って妊娠した。私は、体調不良を消し去るために病院が提案してくる、ありとあらゆる薬を飲まなかった。薬を使えば楽になるけれど、それはこの体験が私に与える何かを、均質的なものにしてしまうだろう。オプトのように。そして、ああ、月並みなことに、妊娠は驚くほど私を変えた! 私は、私が選んだ吐き気やむくみを、乗り切ることが出来た。調整されていない、私を揺さぶり、振り回したこの感覚は、私だけのものだという確信があった。データにしてしまえば、きっとそのニューロン発火パターンは平凡で、オプトを通して他の誰かに再現すら可能なのかもしれない。そんな嫌な想像も、当時の私は切り離すことができた。
 少し強くなった私は、今なら律に謝り、「子供を二人で育てよう」と言える気がしていた。胎児が男の子と分かった時は、これにもきっと何か意味があるのだろう、なんて考えたりすらした。そんな妊娠22週目だった。少し怖いぐらい澄み切って晴れた初夏の空の下、公園を歩いていた私の腹部に鋭い痛みが走った。太ももを伝う生暖かい液体。予定日は4か月以上先だ。涙が勝手に出て来た。止まらなかった。医師として私は、希望は薄いと、その場で十分すぎるほど分かってしまった。

 静かな部屋で、人工呼吸器は膨らんでは閉じ、心電図モニターの電子音が規則的に鳴っている。私は瞼を開いた。いつの間にか私は椅子で眠っていた。NICU新生児集中治療室の保育器で横たわる私の赤子は、脳波センサーで頭を満遍なく包まれている。私はその子の指に触れてみたけれど、脳波モニターの線は、僅かな上下を繰り返すだけで乱れなかった。数日そこで過ごしただろうか。その子の命は白昼夢のように消えていった。あの日の公園の後、私は一度も泣かなかった。私は、私がこの子を授かった意味を考えていた。

 更に数日たった朝、「恐らく、今日の夜が限界です」と医師が言った。その予告通り、その夜に看護師は医師を呼び、医師は赤子の脳死を告げた。そして医師は直ちに、私の申請どおり、彼を検体としてメッシュ社に移送する手続きを開始した
 それは研究所で耳に挟んだ仮説だった。オプトで外部から自律神経を動かせているのだから、例え人体が脳死に至っても、オプトで呼吸を維持する存在として蘇生できるのではないか? 答えはNoだ。脳死とは脳幹を含む大多数のニューロンが不可逆的損傷を受けることであり、死んだニューロンに電気刺激を与えても、人体が動くような連鎖反応は生じない。しかし例外が考えられる。胎児や赤子の場合だ。
 赤子の脳は非常に高い可塑性Plasticityを持っているため、脳の一部が損傷しても、別の部位で生きているニューロンが新たなシナプス接続を形成し、損傷した機能を再編成する能力が高い。よって脳死判定に至っても、僅かでも生きたニューロンがあるなら、人工呼吸器で心臓を維持しつつオプトで脳に電気刺激を与え続けることで、新たなシナプス接続を構築させ、脳機能を蘇らせることが出来るかもしれない。まして、仮にその個体が妊娠25週以前の胎児なら、まだニューロン自体も活発に生まれ続けているため、その可能性は十分にあるだろう……

 悲しみ、怒り、罪悪感、希望。私の決断は、そんな言葉には当てはまらない、もっと曖昧な何かに動かされていた。この選択を後悔するかもしれない。「子供の死を受け入れて前に進む」。そんな世界中が認めてくれそうな道を選べば、胸が楽になる気もした。でも私は感じた。こうなってしまったのには、何か意味があるはず。私は自分の感覚を信じた。
 真っ暗闇の中、病院から赤子と共に移送車で研究所についた私を、律が出迎えた。律には検体申請の前に相談をしていた。「繭……」私と赤子を見た律は、ただそう呟いた。それ以外に何も言わなかった。私は初めて律の涙を見た。
 赤子が横たわる保育器付きのベビーストレッチャーにドレープをかけ、研究所の中を、2人で手術室までゆっくり押して運んだ。ホイールが段差にぶつからないよう気を付けながら、私が頭側のフレームを押し、律が足側を支えて後ろ歩きに歩いた。夜の研究所は廊下の照明がまばらで薄暗く、私達は誰ともすれ違わなかった。ふと妄想に駆られた。――私の両手が押しているのが、ベビーカーだったなら。ダメだ、今は感傷的になってはいけない。私は眉間に力を入れて、こみ上げてくる何かを抑えた。
 手術室までたどり着き、私は電子ボードの手術予定表を確認する。
『手術室3 担当:Dr.長谷川律(麻酔科標榜医) 手術内容:オプト装着開脳術 患者識別:渡辺繭 現在の状況:開始22時00分予定 終了03時00分予定』
 赤子についてメッシュ社に知らせる気はなかった。病院が受け取った検体受入承諾書は、律が書いたものだ。そして私の方は、オプト装着をメッシュ社に申請した。私に使用するものとして、オプトが一つ提供された。
 私達は手術室の扉を閉め、赤子を手術台に乗せ、人工呼吸器を繋ぎ直した。手術室にはいくつもの机に器具が並べられており、律が全ての準備を済ませてくれていた。私は手術無影灯を点け、完璧に照らされた赤子の顔をまっすぐ見据えた。「本当に、繭がやるんだね?」律が、彼らしくない、恐れと憐みが混じったような声色で私に聞く。律は調整が効かないほど動揺しながら、必死に私を労ろうとしている。私は脇の机に置かれたオプトに祈りたくなる気持ちに駆られた。「ありがとう。私がやる」
 そして私は、その時はまだ慣れていなかった言葉を、しっかりと発声した。「皮膚消毒」「切開線マーキング」「切開します。メス」

 手術は予定より早く3時前に終わり、私と律は研究所に着いた時と同じように、二人でベビーストレッチャーを押して駐車場に向かった。梅雨の兆しがする深夜の外気は少しひんやりしていた。予め準備しておいた私の車のハッチを開けて後部座席を倒し、ベビーストレッチャーと人工呼吸器を置く。瞼を閉じたままの赤子の胸には空気が送り込まれ、さざ波のように、ゆっくりと胸が上下していた。
「今日は、ありがとう。それと……いや、今更、こんなこと言ってもしょうがないよね」私がそう言うと、律は思いつめたような表情で私をしばらく見つめた後、何も言わずに顔をそらした。私は自分がしたことをよくわかっていたけれど、それは私を少し傷つけた。でもその時の律の態度は、本当に彼が感じて私に見せたものだと感じた。
 私は、落ち着いたら連絡する。本当にありがとう、と言って車に乗り込んだ。律は少しだけ車の側に佇んだ後に、ほどなく研究所の方へ歩いて行った。車のエンジンボタンを押して、目的地を私が一人で住む家にセットする。車が発進し、自動運転で進みだす。アドレナリンが切れたのか、何かから解放されたかのように身体がシートに沈み込む。後ろに横たわる赤子を今一度みてから、私は瞼を閉じた。
 ……目的地が近づいたという案内が聞こえた。ぼんやりと、ふと見上げると、真っ黒だった空がピンクで染められていた。朝焼けだ。
 私は産まれてくる赤子の名前は考えていた。でもその子は私の手をすり抜けていった。この子には、別の名前をつけなければいけない。
 死んでしまった子は、何も悪いことをしていない。もし人間に魂があるのなら、その子の魂は天国にいっただろう。
 その子の魂はもう帰ってこない。ではこの子の魂はどこにあるのだろう。そもそも、この子には、何かの人間性が宿っているのか。魂とはなんなのだろう。
 でも私は、この子が瞼を開き、息を吸い、泣き声を上げ、魂を得て、いつかは朽ちて空に帰る存在となってほしい。そんな願いが押し寄せた。
 私は赤子を『空』と名づけた。

 

「ママ、人間には魂があるよね。でも僕に魂はあるのかな」
 空は6歳らしい無垢な声で言うと、右手に筆を持ったまま手首で前髪を払った。空は私の向かいに座り、机の上で油絵に取り組んでいた。どうやら描き終えたらしい。彼は大きく息を吸い込みウッドデッキの椅子から立ち上がると、室内に戻ろうと網戸に手をかけた。屋根の下のツバメの巣で雛たちが驚いたのか、か細いけれど力強い鳴き声が響く。私の視線の先に広がる森では、若葉がそよ風に揺れてざわめいている。あまり人目につかず空を育てるために買ったこの山岳部の家は、春の息吹に包まれていた。私も大きく息を吸った。
 空が飲み物を持ってきて再び椅子に座った。「空に魂はあるわよ。ママが保証する」私は読んでいた本を閉じて語りかけた。6年前、私は空の育児のために、研究所から地方の提携病院への異動を申請した。最近では時間に余裕ができ、専門外の本を読む機会も増えた。これも空が私にくれた思いがけないプレゼントだ。
 私は立ち上がって空の側に歩み寄り、A4サイズの油彩紙に描かれた絵を眺めた。どことなくルネサンス風だ。野原に二人の男が立ち、積み上げた石の上で何かを燃やしている。宗教の儀式だろうか。私の心を読むように空が言う。「模写したんだ。その絵は旧約聖書の話で、『カインとアベルの捧げ物』だよ。人類最初の生贄の儀式。兄のカインは穀物を、弟のアベルは子羊を捧げたんだ。16世紀のアルベルティネッリって画家の作品だって」
 私は膝を折り曲げて絵に顔を近づける。まだ乾いていない油が放つ人工的な匂いが鼻を刺した。絵の脇に置かれたパレットを見る。計算し尽くしたかのように、油絵具はきれいに使い切られている。タブレットで検索し、空が描いた絵と原画を比べてみる。驚くほど見事に再現されている。しかし机には模写のための原画写真はない。空は細部まで記憶した上で、必要な顔料と油の量すら計算したのだろう。まして彼は下絵すら描かずに完成させる。私は少し複雑な気持ちになる。例えどれだけ才能に恵まれていても、人間にこんなことは不可能だろう。空は思考能力も到底6歳のものでない。これも彼のニューロンを刺激する大脳AIモデルの影響なのだろうか。
 ふと我に返る。「生贄の儀式、ね。昨日からこの絵を描いていたのも、魂の話と関係があるのかしら?」そう聞くと、空は横から私にうなずいた。
「『魂の歴史』ってキーワードで調べたら、その絵が出て来たんだけど、生贄の話の意味が、なんだか気になって」空はポケットからオーツ麦のペレットを取り出して右の手の平に置き、屋根の下へ伸ばした。親鳥が巣から飛び立ち空の手首に止まり、ついばみ始める。
「そっか。何が気になったの?」
「アベルの子羊は神様に受け容れられて、カインの穀物は拒絶されたんだって」
「それは、興味深い話ね」
「うん。だから絵を描きながら、その理由を考えたんだ。きっとこれは、動物には魂があるけど、植物にはないっていう、大昔の人の感覚なんじゃないかな」
「なるほどね」そう言った矢先、私の口から疑問がこぼれた。「私には不思議な感覚。今の科学では、動物も植物も『生命』と分類されるわ。魂は生命に宿るのだから、どちらにも魂はあるんじゃないかしら」
「僕もそう思うよ」空は答えると手首からツバメを逃がし、庭を眺め出した。しかしどことなく私を気にしているようだ。何かを話したいのだろう。「どうしたの? 言ってみて」
「でもね、動物に魂はないと言う人もいたんだ……デカルトっていう哲学者。彼の理論だと、動物は環境に応じて反応するだけの《生きた機械》だから、魂はないんだって」
 ふいに発せられた《生きた機械》という言葉が私の心に波紋を投じた。空は、その言葉を知って動揺しているのだろう。「デカルトの哲学は少し知ってるわ」私はそう言って、静かに空の肩に手を置いた。空はうつむき、肩に少し力が入っている。
「ママ、僕は自分が機械みたいなものだって、理解してる。僕は《生きた機械》なの?」
 私はそっとしゃがんで、空の目をのぞきこんだ。空はじっと私を見返した。
「空は、機械に近い存在かもしれない。それでも空には、ちゃんと魂があるよ」
「機械に魂があるなんておかしいよ」
「デカルトは、人間だって身体は機械だと言ったんじゃないかしら」
 私の答えに空は少し驚いたようだ。「うん、そんな事も書いてあった」
「それなのに、どうして人間には魂があるとデカルトは言ったの?」
「それは――人間には自由意志があるからだって。自分で考えて、悩んで、決断する。それが魂だって」
「デカルトの有名な言葉はね、『我思う、ゆえに我あり』よ。空は、立派に悩んでいるじゃない。だからあなたには、魂があるのよ」
「そっか。そうだね。確かに僕は、自分で考えて、悩んでる。僕には、自由意志がある」
 その言葉が胸に染みて、私は温かな気持ちに満たされた。空に微笑み、ゆっくりと膝を伸ばして立ち、ツバメの巣を眺める。しかし次の瞬間、空の言葉に息をのんだ。
「でも僕にとって、『我』って何なんだろう? 最近、わかってきたんだ。僕は『空』だけど、僕は僕だけじゃない。僕は、ここにいるけど、別の場所にもいる」
 時間が止まったように感じた。
 空の言葉を思索する。空とオプトの関係が、私の理解を超えたものになっている? 空は、自分の自我が、自分の身体の外にも存在すると感じている
 6年前に空を手術した時、既に完成していたホルモンや自律神経のAIモデルだけでなく、私はプロトタイプの全脳AIモデルを空のオプトと連動させた。オプトの電気刺激で脳全体に広く働きかけ、空の脳から失われたシナプス接続の再形成を可能な限り促すためだ。とはいえ全脳AIモデルは、原理的に自我とは関わりがない。AIが自我を持つのは理論的には可能であり、例えばアンドロイド開発で研究されている全脳シミュレーションは、リバースエンジニアリングで人間の脳をデジタル上に再現し、自我を創造することを目的としている。しかしメッシュ社が取り組むのは、人間の脳に意図的な影響を与えるための、ニューロン発火パターンの解析と一般化、そして特別に優れた能力を持つ脳に見られる特異点の抽出に過ぎない。
 私は空の左手に目をやる。空の左手首には常にポリエステルスカーフが巻かれている。スカーフの下には磁界共鳴方式の時計型デバイスが巻かれており、オプトへのワイヤレス充電とデータ通信を行っている。普通の人間ならオプトの充電が切れたり、時計型デバイスが故障しても、命に危険はないだろう。しかし空の場合、それは死を意味するかもしれない。だから空は左手をあまり使わない。
 この時計型デバイスは、メッシュ社のサーバーとも常に通信している。オプトが測定したデータをメッシュ社のサーバーに送り、メッシュ社のAIモデルから出力されたデータを受け取り、脳内のオプトに電気刺激パターンを指示するためだ。しかしオプトと人の脳の関係は、人の脳に元々そなわる機能をオプトが調整したり、強化するだけに過ぎない。メッシュ社のAIモデルに備わる認知機能も、ニューロン発火パターンの解析と出力に限られており、人間の自然言語処理機能は実装されていないはずだ。
 しかし空は、再び命を宿した瞬間からオプトを着けているのだ。人は、赤子の段階ではまだ自己と外界の区別がなく、2歳頃に自我が芽生え、6歳頃に自己概念が確立するという。彼の脳が0歳から徐々に発育し、変容するにつれ、空は電気刺激の送信元を知覚し、それを自我の一部と認識するようになったのかもしれない……
「ママ?」
 ツバメの巣に顔を向けたまま凍り付いていた私の手を、空がぎゅっと握った。
「ごめん、ちょっと考え事をしてた」私は空の手を握り返し、先ほどまでの考えを脇に退けた。
 私にとって大事なのは、空が生きていて、私の側にいることだ。いずれ空が大きくなり、私の元から飛び立つとしても、私達にはまだ時間がある。空の自我の事は、彼とゆっくり話を続けていけばいい。
「さっきの話はね、ママにはわからなかった。勉強するね。また今度はなそう」
「わかった、勉強してね!」空が元気よく答えた。私は彼の髪をくしゃくしゃにしてから、昼食の準備のために二人で室内に戻った。

「また今度はなそう」とは言ったものの、その後、私と空は魂や自我について話をしなかった。彼の自我に関わる謎は気になったが、私から切り出す話じゃない。まして、まだ6歳の子供に。もし空から自我のことを聞かれたら、彼がオプトというものをつけていると伝え、その仕組みだけを話せばいい。彼はその理由に疑問を抱くかもしれないが、自分なりの答えを見つけて受け入れるだろう。子供とは、きっと大人が思うより(そしてもしかしたら私たち大人よりも)、たくましく、確かなアイデンティティを持っている存在だ。空は私の人生で一番大切な存在だけれど、私のお腹を出た時から、私とは切り離された存在だ。普通の子供だろうと、オプトで生を得た特別な子供だろうと、その子の問題はその子が解決するしかない。私は彼の隣に立ち、助けを求められたときに手を差し出すだけだ。
 空は6歳を過ぎると、もともと関心を示していた美術の他に、宗教や物理学に興味を抱いた。それも空のアイデンティティと関わりがあるのかもしれない。残念なのは、空は戸籍がないので、学校に通わせられないことだった。親として残酷なことをしていると感じた。代わりに私達は、リュックに衛星通信端末をつけてよく旅行をした。船舶免許を取って船で海に出て釣りをしたり、地平線のカーブが見えるぐらい高い山に登ったりもした。
 ある夏に本州から離れた離島を旅した時、私は空をバイクの後ろに乗せて、真夜中の海岸沿いを走った。車では入れない細い砂利道を見つけたので入り、ゆっくりとアクセルを回し続けると、その先は開けた砂浜だった。人里から更に離れたそこでは、星空はまぶしく、夏のそよ風で波は静まり、私たちは宇宙の静寂が広がるような静けさに包まれた。
 その時、隣の大陸の街の灯りがぼんやり見えた。空は「今度は海外にいってみたい」と呟いた。それは難しい話に思えたが、世界には入国が簡単で、戸籍がなくても問題なく暮らしていけそうな島国もあると頭に浮かんだ。あと9年ほど働いて、私が50代半ば、空が15歳になったら、二人で船に乗って海外に移住してもいいかもしれない。きっとそういう島はこの国より発展していなく、私は3日に一度は空に文句を言うかもしれないけれど。
 いつかは空に、彼が一度は死んだ存在だと伝えなければいけないだろう。でもそれは、ずっと先のこと。

 梅雨のただなかの7月の初日、私は少し早く起きて二人分の珈琲を淹れていた。その頃に14歳となった空は「僕はもう大人だよ」と主張をはじめ、珈琲を飲むようになっていた。その前の年の夏から、空は地域ボランティアが主催する絵画教室に通っていた。有名な美術大学を定年退職した人が講師をしているらしい。空は昨日も夜おそくに、ボランティアの人の車で家に帰ってきた。その後も部屋で何かをしていたのか、なかなか起きてこなかった。
 一人で朝食を食べながら、私は少し緊張していた。その日は、上京して5年ぶりに律と直接会う予定があった。少し前に律から「ちょっと話がしたい。メールでは言いにくいから、電話できるかな」と連絡があった。私もちょうど律に聞きたいことがあった。その頃に私は、空と海外に行くためにメッシュ社に退職願いを出そうとしていたからだ。しかし空のオプトは私が装着者と登録されていたから、出国すると何か問題が生じるかもしれない。私達は直接会うことにした。
 空には律のことを話していなかった。そして律も、空について尋ねてこなかった。空が産声をあげ、成長する中で、空に会いたいか何度か聞いたことがある。律は彼らしい丁寧な口調で、「僕には彼に会う勇気はないよ」と言った。
 約12年ぶりに訪れた研究所は、記憶の中の姿そのままで、私はふと、自分がどれほど変わったのかを感じた。律の研究室を訪ね、会議室に通される。ほどなくして律が部屋に入ってきた。「久しぶりね。元気そうでなにより」私は椅子から立ち上がって律へと歩み寄り、彼の肩に触れようと手を上げかけたけれど、そっと引っ込めた。律は左手の薬指に指輪をしていた。「繭も元気そうで何よりだよ」律は私の気まずさを察したのか、私の手首を軽く叩いた。
「ここじゃなんだから、外でも歩こうか」律が私を促した。その物言いに私は違和感を覚えた。外では梅雨の雨が地面を湿らせている。私は、律が思いつめた表情を浮かべているのに気づいた。彼が普段どんな顔をしていたか、その記憶はだいぶ薄れていたけれど、彼は弱さを人に見せるような人ではなかったと思う。
 何か嫌な予感がした。
「律、どうしたの? その、あなたが暗い顔をしてるのなんて、初めて見る気がして」私が聞くと、律は反射的に取り繕うように少し表情が和らいだ。「ああ、ごめん。せっかくの再会なのに。それと実は今、オプトは止めているんだ。研究上の都合でね。……ここじゃ話しにくい。外を歩こう」

 研究所の敷地を歩きながら律は語った。全脳AIモデルのプロトタイプ運用に問題が生じ、全面的な再開発が決定した。その理由は、脳細胞が減少した高齢の治験者で、自分の人生とは無関係の記憶を具体的に語りだすなど、不可解な意識混濁が発生しているためだという。律は「人の集合的無意識や、ミラーニューロンと関わりがあるかもしれない」と言った。あり得る話だ。なぜなら全脳AIモデルとは、多数の大脳活動の共通項を統合・平準化して構築されたものであり、オプトが測定した被術者の脳データに応じて、その出力が脳にフィードバックされる仕組みだからだ。
 問題は空の事だった。「それで……モデルの再開発に伴い、2か月後から治験者の大脳への電気刺激が停止することになったんだ。少なくとも数年間は」その意味は直ぐにわかった。それは空の大脳に大きな影響を与える。恐らく、意識が混濁、または消失するだろう。律は提案した。自律神経への電気刺激は継続されるので、空の最低限の生体機能は維持される。しかし筋肉や内臓の維持には、病院などで専門的措置を継続して受ける必要がある。戸籍がない空にこれは難しいが、律は研究所で空の身体維持に協力できると言う。そしてモデルの再開発が完了すれば、その時には空の蘇生も恐らく可能だろう……

 帰りの車の中で、私は自分でも驚くぐらい落ち着いていた。気が付くと車は高速道路を降り、私達の家がある山岳部を走っていた。紅葉が散りかけた山の斜面には、枝がうっすらと透けてみえる。冬が来れば骨となるこの樹々にも、雪が解ければ若葉が宿る。そんな当たり前のことが、とても不思議に感じた。
 家についた私は、律から聞いた事を少しぼかして話してから、オプトのアップデート中に空が昏睡状態になってしまうと伝えた。そして律の提案について話した。空は質問もせず黙って聞き終えると、何も言わずに自分の部屋へと入っていった。
 翌朝、空が聞いてきた。「まだ2か月あるんだよね?」それは確かだと答えると、空は私を真っ直ぐ見つめて言った。「来月の終わりに、あそこに行きたい。隣の国が見えた島」

「今日が最後の日だね」空が呟いた。ライフジャケットを着た彼は船べりに腰をおろし、夕暮れの静かな海に足を浸している。私たちは8月末のその日にこの島を再び訪れた。空が「船に乗りたい」と言っていたので、予約していた全長5mほどの小さな船を借り、二人で夕方の海へ出た。太陽が水平線へ近づくにつれ、重なり合い流れる雲が鮮やかなグラデーションで染められ、まるで私達は巨大な抽象画に包まれているようだった。
 私も空の横に腰を下ろし、足を水面に浸した。私達はそのまま夜を待った。この2か月、空は私が伝えた律の提案に答えず、私も問い返すことはなかった。私達は毎日をそれまでと変わらず過ごした。私は、空が律の提案に答えることを望んでいた。いざという時のために、今日ここに来ることも律に伝えていた。
 ほどなく海は黒くなり、月が浮かび上がった。対岸のあの国の街に、ぽつりぽつりと灯が広がっていった。「前に見たより明るいな」空がぽつりと言った。あのとき砂浜から見たのは真夜中だった。今日、あの街の人々の夜は始まったばかりだ。
 8時頃になると、風が止まり海は凪いだ。私は星がよく見えるよう、いちど立ち上がって船の灯りを弱めた。辺りに他の船はなく、遠くに小さな漁船らしき灯が見えるだけだ。波が静かに揺れる気配だけが残った。私が再び慎重に空の横に座ると、彼の表情は見えなくなっていた。
 空が語りだした。
「ずっと前に、植物の魂の話をしたこと、覚えてる?」
「もちろんよ」
「たぶん、似てると思うんだ」
 私は空の言葉の意味がわからなかった。
「その集合的無意識っていうの、ずっと前から感じてたよ。笹の葉みたいなものだよ。地面の上では一本一本が別に見えても、地下では同じ根で繋がってる。僕は僕であるけど、僕は僕だけじゃないんだ」
「そうなんだ……」私はただそれしか言えなかった。
「ママ、僕は、いちど死んだんでしょ。他の人と違って、僕はオプトがないと生きていけない。それも何となく感じてた」
「……ごめん、今まで言えなくて」
「いいんだよ。それはママの優しさだよ。それでね」そこまで言うと、空は立ち上がった。
「だからぜんぜん怖くないんだよ。死ぬのは」空はそう言って立ち上がると、ライフジャケットの紐を少し緩め、リュックに手を伸ばし、小さな重りを取り出した。空はそれを足首に巻いた。
「これは僕にとっての選択、魂の証明なんだ。律さんという人の提案は考えてみたよ。でも、そうやっていつかまた目を覚ましても、きっとそれは僕じゃない。僕は僕が消える前に、空として死ぬよ」
 空が船の床に膝をついて、船べりに座っていた私のお腹にそっと頭をつけた。私は空の肩に手を回し、抱きしめた。言葉が出てこなかった。私が空に言えることは何もなかった。ただ、この14年に思いを巡らせた。それはいつかはかならず色あせてしまうけれど、この記憶が私の一部であり続けてほしいと、強く願った。
 空が私の腕を抜け、立ち上がり、海と向かい合った。
「……最後は、星を見ながら沈みたいんだ」そういって空は、静かに海に滑り込んだ。ぽちゃんと音がした。空は水面に浮かび、顔をあげて星空を見上げた。
「本当にきれいだ。生まれてきてよかった」
 私は船に立ちつくし彼を見つめていた。それがどれだけの時間だったかわからない。永遠とも感じた間が終わり、空が言った。
「ありがとう、ママ。――さようなら」
 空がライフジャケットの紐に手をかけた。
 その時、少し近くを何かの船が通った。船の灯りが空の顔を照らした。
 空は泣いていた。
「待って!」
 私の足が床を蹴り海に飛び込んだ。空を抱きしめた。悲しみと感謝がどうしようもなく胸に押し寄せた。私は大声で泣きだした。
「空……空……」
 冷たい海の中で、空はまるで私を気づかうように、私の首に手を回した。私を抱きしめる空の腕は、とても暖かかった。その暖かさは、空のオプトがそうさせたのかもしれないし、そうでないかもしれない。
 空がふいに何かに気づいたように、小さく声を上げた。私に回していた腕をほどき、彼は両手で胸元を押さえた。空は左手首からスカーフを外した。「プレゼントだよ」空はスカーフを私の首にそっと巻いた。
 そして空は、左手の時計デバイスを外し、海へ静かに落とした。
 私の前で、空はだんだんと呼吸が浅くなった。空の瞼がゆっくりと下がった。空は閉じた目でライフジャケットを外した。
 空の呼吸が止まった。肺に残された最後の空気で、空が囁いた。
「ありがとう。産んでくれて」

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