梗 概
この世界の片隅で
近未来。スマトラ島トバ火山が噴火。数年の噴煙の硫黄化合物でオゾン層は破壊され強酸性雨で海は弱酸性化。紫外線由来の癌や生態系変化での疫病が蔓延するも、カブトガニが絶命したため医薬品は希少となり人類の平均寿命は約50歳。
医療は政府承認制となり、医療官なる公務員が個人情報抜きのカルテと病者との面談で判断。面談は専用施設の、教会の懺悔室を模したソルという部屋で変成器と顔を隠す仕切りで隔て行う。医療官は面談後に治療承認か不承認を告知。ただし不承認でも病者が治療に非常に積極的な場合、承認と告げてプラセボ治療が行われる事もある。
豪:医療官
蘭:豪の中学の同級生。豪の初恋
結:蘭の娘。小学5年
1幕
・豪のソルの仕事。豪は世界に虚無を抱いている
・豪と蘭がソルで面談。カルテには早期悪性腫瘍、境界性人格障害、シングルマザー、職歴等が記載。蘭は自暴自棄に人生を語るが、昔話から豪は相手が蘭と気づき半年の告知保留とする
・豪は蘭に会うため同窓会を開く。蘭は人の前では機知に富んだ美人。豪は蘭に話しかけ何も知らない振りで蘭の心を癒そうとする
・同窓会後に二人で散歩。蘭が娘(結)と3人の旅行を提案
2幕
・3人で旅行。結は年の割に大人びている。結は豪にお母さんに優しくしないでと意味深に言う。蘭はまるで3人が家族のよう振る舞う
・宿泊先の夜。蘭が豪の部屋に来る。蘭は情緒不安となり実は癌でソルで面談したと語るが、豪は相手が自分だったと明かさない。蘭は豪を押し倒し豪は経験したことない激しいセックスで襲われる
・豪のソルの仕事。豪は蘭が頭から離れない。豪と蘭は逢瀬を重ね徐々に頻度が高くなる。豪は結のネグレクトを訝しみつつも逢瀬を止められない。蘭が二人の旅行を提案する
・豪と蘭で旅行。豪は自責や二人で逃げたい気持ちで揺らぐ。二人は釣り船を借りて夜の海に出る。蘭の様子が変、と思ったら豪は自分も変と気づく。出航前に蘭が豪に食べさせたクッキーは麻薬入りだった。蘭との船でのセックスで豪は神秘体験をする
・豪の家で3人は密かに同棲を始める。豪は医療官の規則違反を自覚しつつも蘭と結への保護愛を深め共依存に堕ちる。会話から豪は次のソル面談への蘭の心を探るも、蘭は、自分が治療を望んでも噂されてるプラセボだよ!と豪に泣き縋る
・豪のソルの仕事。病者と面談する程、豪は蘭が救いようない人間と判断せざるを得ないと感じる。しかし豪は職権濫用で蘭を治療承認にすると決意
3幕
・豪と蘭がソルで面談。豪は蘭に承認と告げるが、蘭はプラセボでしょ!と叫び部屋を出る
・夕方に豪の仕事が終わる。豪は帰宅後に蘭に全て打ち明け、望むなら3人で逃亡する決意をする。しかし家に帰ると結が一人で泣いている。蘭は荷物をまとめてどこかへ消えた
・豪と結は車で蘭を探す。豪は蘭が時期に死ぬと自覚しつつ、いつか蘭が帰ってくると幻想も捨てず、結を育てる決意をする
文字数:1200
内容に関するアピール
「正解のない葛藤」の作風を武器にしたい。ディストピアでも生きる希望を感じさせる作風にしたい。
本作世界は現代文明をギリギリ保ちつつも人々は刹那的。そこで公務員という固い仮面の主人公を軸に、世界への虚無や怒りも伝わるドラマにしたい。旅行やドライブ描写を通して、滅びに向かう地球の視覚的な美しさをSF的に楽しんでもらいたい(酸性雨でビルは崩れ、世界中で砂漠化が進行)。
作中の逃亡とは、世界から逃げたい無秩序な破壊衝動です。
現代の創薬はカブトガニの青い血から取れるライセート試薬なるものに頼ってると思われ、カブトガニの生態が崩れると医療制度は維持できないかと。なお作中のソルという部屋はラテン語のSol(太陽)が由来。
人に買って頂ける小説が書けるよう上達したいので、皆さまのX、DM、または僕のHPのコメント欄(匿名可)で一言でも感想を頂けるとすごく嬉しいです!
文字数:400
この世界のまぼろしに
1
この世界では誰もがまぼろしを求めている。自分の残酷な運命を誰かのせいにしたいのだ。僕の仕事の大体は、静かに剣を前に突き出し、幻を求め近づいてくるこの人達が安らかに貫かれるのを見届ける事。誰かがやらねばいけない仕事だ。
「あなたの治療承認の面接を始めます」
教会の告解室を模した小さな部屋に変声機を通した僕の声が生まれる。柔らかく囁く120ヘルツの低音美声。僕は訓練どおり1分間に275文字のゆっくりしたテンポで、文末はイントネーションを下げて喋る。かつての時代の最も優れたシェイクスピアの朗読を模した技法だと、医薬官の任期一年目の研修で習った。
「これがソルって部屋か。うわさどおりまっ白だな。窓もねえじゃねえか」
「窮屈で申し訳ありません」
「床から布なんてはりやがってよ。なんであんたらは姿をみせないんだ?」
「あなたのお姿を見ず公平な審査を行うためです」
「まあいいよ。俺は死ぬんだろ。俺みたいなやつに政府さまが医薬品をご支給くださるわけないもんな!」
「全ての国民は治療の権利を平等に審査されます」
「なにいってんだ。俺が治療に値するってわけがどこにある!」
カルテをめくる。32歳。男。悪性皮膚癌の肺への遠隔転移。抗がん剤治療を行わない5年生存率は1割未満。経歴はどうか。中学までの成績は悪く高校進学もなし。軽犯罪逮捕が9回。強盗。納税記録がないので食いぶちは非合法の仕事からか。カブトガニの絶滅で医薬品製造が困難となり、入院に医薬官の承認が必要となった今、これほど犯罪歴がある者に治療承認と告知するのは確かに不可能だ。
せめて彼が安らかな余生を送らんことを。
「あなたはなぜ承認されないと思うのでしょう」
「カルテにかいてるだろ。まともな仕事だってしたことない。何回もパクられてる」
「ご自分を責めないでください」
「そんなことしてねえよ!」
「非合法の仕事をされるとは辛かったでしょう」
「同情なんていらねえよ!」
「あなたの苦しみは我々の責任です」
「……」
3分ほど経った。
「なあ医薬官さまよ。医薬品をもらえるのはどんな奴なんだ?」
「申し訳ありませんがその質問には答えかねます」
「やっぱまともな仕事についてる奴なのか?」
「政府としては正規の仕事を推奨しています」
「は! 正規の仕事なんざお勉強をがんばった奴しかつけねえだろ。あんたらはいいご身分だな!」
「……」
「……」
ソルの静寂が、ゆっくりと、男の憤りを溶かす。
「犯罪歴ってだいじなのか?」
「正直に申し上げ判断に影響があります」
「人のこともしらず大層なご判断をくださるこった」
「……」
「……」
「俺にだってよ、それなりのわけがあるんだ」
「おっしゃる意味はわかります」
「強盗したのもよ、しかたなかったんだ」
「とても悲しいことです」
「まともな仕事してればよ。クソみたいな世界だ」
「みな同じ痛みを感じています」
「面接なんかしたってよ、医薬品がもらえると思ってねえ。それになおったってどうせすぐ死ぬんだ……」
「政府を代表してお詫び申し上げます」
「まったくクソだよ……お前らも。この世界も」
これ以上の言葉が出る気配はない。
男に治療不承認を告知した。
2
一つ告知をしたら煙草を一本吸うと決めている。防護服を取りに執務室に戻る。ドアの名札は大層な名前だ。『上席医薬官 志村豪』。両親は力強い名前をつければ子供が長生きすると願ったのだろうか。そんな彼らも僕が高校3年の医薬官試験を終えるとすぐに死んでしまったが、二人とも50歳近くまで生きたのだから立派なものだ。
電力だけは豊富にあるので、庁舎の38階までエレベーターで上がる。のろのろと避難階段を登りながら防護服を羽織る。こんな布でもだいぶあの紫外線から遺伝子を守れるらしい。非常扉の手前で煙草に火をつけ屋上のヘリポートに出る。煙草といっても屋外の植物は殆ど死滅しているので、かつてあったというものの模造品だ。鉄骨街の売人は、水耕栽培の野菜の根を粉末乾燥させキノコを練りこんだ品だと言う。先程の男も売人かキノコ狩りでもしていたのだろうか。それにしてもキノコだけはこんな世界でも活き活きしている。
ヘリポートを横切り屋上のふちに立つ。煙草を何度か吸い眼下の砂だらけの街に吸い殻を弾く。少しでも地球を温めようと乱立した石炭発電所の黒煙が風に乗り僕の鼻を刺す。かつては多くの公園が自慢だったというこの街だからこそ砂漠化がよく目立つ。小学校のテストで定番の問題。西暦2049年。インドネシア領スマトラ島トバ火山が噴火。噴煙の硫黄化合物によるオゾン層破壊で紫外線が強毒化。pH1.7の強酸性雨による土壌汚染と海洋酸性化。世界の終わりの始まり。
歴史的には7万年前のトバ火山噴火は、10年ほど地球を曇りにした後に、6000年の寒冷期を人類にプレゼントしたらしい。その寒冷期で人類は約1万人まで減少。しかし生き残った逞しい1万人は、まずゆっくりと、そして急激に地球を満たし、西暦2050年に100億人に達そうとしていた。
そう、していた。
執務室に戻ろうと振り返り歩き出すと、非常扉横の電波基地局を風よけにして彼女が待っていた。
「防護服はちゃんと着てください。先輩。顔が出てます」
「僕の顔の遺伝子は固いから大丈夫よん」
「本気で言ってるんですか?」
そういう彼女は真っ黒な防護服を口元まで引き上げ、目元も網目状の布で覆っている。かつてこのような衣装はブルカと呼ばれ、噴火以前の西洋諸国では宗教対立で着用禁止だったらしい。しかし今や全人類がこの防護服を纏っている。信仰など儚いものだ。
「えーと、ごめん。君の名前は……」
僕が屋上に来てからまだ数分だ。真田君はまた後を付けてきたのだろう。
彼女は目元の布をはずし大きな瞳で僕を見ながらはきはき発声する。
「真田です。昨年より先輩の班の所属です」
「あーそうそう。真実の真に田んぼの田だよね。医薬官むきの名前だよね」
「ふざけないでください」
ふざけてなどいない。彼女は医薬官に向いてない。
「先輩、折り入ってお願いがあるのです——」
「ダメだよ」
睨みつける彼女のまなざしを受け止める。僕は口角を少し上げ、ぼんやりした表情を作り彼女の両目を力強く真正面から見続ける。
灰まみれの風が鳴り続く。沈黙には慣れている。僕の方は。
真田君が目を逸らす。
「仕事に戻ろうか。レディーファーストね」
彼女のために非常扉を開け、どうぞと仰々しく手で促した。
3
「治療承認の面接を始めます」
録音機をスタートし変声機を口に当てる。今日の最後の面接だ。カルテをめくる。25歳。女。膝裏に悪性皮膚癌。またか。リンパ節へ転移済み。無治療の5年生存率は4割未満。
経歴の頁をめくる。出身地は瀬戸内海。僕と同郷か。こういう時にカルテは氏名や写真が黒塗りなので助かる。余計な感情が湧く余地がない。
「ご自分についてお話されてください」
「……」
「どうか気持ちを楽に。時間もたっぷりあります」
「……」
布の向こうの女は口を開かない。再びカルテを眺める。中学までの成績は良くなんと上位2%だ。ボランティア活動をし学校では生徒会長だったという。しかし奇妙だ。高校進学をしていない。よく見ると中学も卒業していない。
中学すら未卒業なら面接で新たな情報が得られても治療承認の告知は不可能だ。しかし水準に至らずとも有能と判断される者にはプラセボ効果を見込んで偽薬処方も検討すべきと医薬官規程にある。医薬官のみが知るとされる規定、通称『プラセボ告知』だ。実際にプラセボ告知で入院し、自分が医薬品を与えられていると信じ込み回復する者もいる。
この女が治療に積極的ならプラセボ告知をしても良いかもしれない。
「私は……治療は望んでないんです」
おやおや……。
「私は、自分で、自分の人生を台無しにしたんです。ここに来たのは……ごめんなさい。なぜここに来たのかわかりません」
このような病者はたまにいる。死刑宣告を求めて来たのだろう。この女にはプラセボ告知も功を成さない。僕に出来るのは彼女のわだかまりが言葉となるのを助け、少しでも安らかな死に導くことか。
「仰ることはわかります。あなたは自分をよく知る人です」
「まさか……違う。本当に違います。私は子供の頃から自分を持っていません」
「それはあなたが自分に厳しい人なのでしょう。経歴を拝見しました。よければ中学を卒業しなかった理由を聞かせてもらえませんか」
明らかに呼吸が乱れる気配が布の向こうからした。
「それは……すみません。言いたくありません」
「そうですか。ところでここは特別な場所です。仰りたいことがあれば何でもお聞きします」
「……」
ソルに静寂が満ちる。しかし確信がある。彼女は何かを言いたがっている。まずは単純な質問が良いだろう。それにしても何だ。何か違和感がある。
「あなたは中学の時にボランティアをしていたと。どのようなものを?」
「私は……図書館をお手伝いしてました。〇〇図書館と言い、海の側にあって、対岸の山並みがよく見える場所でした」
「図書館ですか。あなたは本がお好きなのです——」
息が詰まった。
瀬戸内海の出身。上位の成績。生徒会長。中学を未卒業。僕と同じ25歳。そして〇〇図書館は僕の出身地にある。そこでボランティアをしていた子を知っている。そして僕は、そうだ、僕はこの声を知っている。
この女は桐山蘭だ。蘭ちゃんだ。
なぜだ。蘭ちゃんは中学3年の冬に突然消えた。僕は彼女を探したんだ。いや本当に探したのか。いつも図書館で一緒に勉強したんだ。彼女の手紙は今でも机の引き出しに——
「……医薬官さま?」
「あ、ええ」
駄目だ。声が乱れている。頭が真っ白だ。告知をしなければ。仮面をつけろ。でも蘭ちゃんは生きてたんだ。もしもう一度会えるなら。どうにかして。
「……面接の時間が過ぎてしまったようです」
「期日を指定するので特例として再度お越し下さるようお願いします。申し訳ありません」
4
ソルを出て深呼吸する。落ち着け。こんな時は指をつかめ。左手薬指の付け根を右手で握る。5、4、3、2、1……。よし。
執務室に戻りたいがこんな時に真田君と鉢合わせると面倒だ。今日はこのまま家に帰ろう。念のため非常階段でおりよう。くそ、防護服もバイクの鍵も執務室だ。電車を使うしかない。
無事に1階にたどり着き荷物検査を抜けて駅に向かう。夕方だし紫外線も多少は弱いだろう。防護服を着けていない僕への人々の視線を感じる。歩を早めるほど靴に砂が入る。駅はまだか。
駅に着くとちょうど電車が出ようとしている。駆け込み、席を探して座る。この電車も酸性雨で乗車口のドアが溶けて剥がれている。警報が鳴り電車が動き出すが防護服の群れが次々と飛び乗ってくる。
電車は腐食したレールを走り続ける。……やっと落ち着いた。不快なはずの走行音が妙に心地よい。瞼が重く眠気がする。疲れが出ているようだ。
深く息を吸い、ゆっくりと吐く……
……蘭ちゃんの告知をのばして何が変わったんだ。僕はまた彼女に会えるのか。どこに住んでるのかもしらない。彼女はまたソルにくるだろうか。でもまた会ってどうするんだ。必死に布のむこうへ、生きろとはげますのか。……そんな事は医薬官の仕事でもない。
……僕は彼女のいたみをふやしたんじゃないか。彼女はすくいをもとめてきたんだ。おおきな決意だったろう。でもなにも得られなかった。僕が面接してしまったから。
かのじょはいまどんなきもちでいるのだろう……
……妙に騒がしい。寝てしまったのか。瞼がまだ重い。
同じ車両で誰かが叫んでいる。「やめろ!」「やめなさい!」。 叫んでいるのは一人じゃない。「落ち着いて!」「 話を聞け!」。人々が混乱している。
瞼を持ち上げる。
何人かの乗客が少し離れた距離から、開けた乗車口の前で立ちつくす女に声をかけている。女の横顔に見覚えがある。
蘭ちゃんだ。
蘭ちゃんは手すりも掴まず外を眺めている。電車が揺れる度に蘭ちゃんが投げ出されそうになる。吹き上げる風で蘭ちゃんから防護服が剥がれ飛んで行った。
足が動かない。
何が起こってるんだ。
ひときわ揺れた。電車が橋に差し掛かった。
蘭ちゃんが投げ出された。
足が走り出した。
僕が宙に飛び出る。蘭ちゃんと目が合う。
大きな水しぶきが聞こえた。
……ここはどこだ。
からだがいたい。かおがぬれてる。服がべとべとだ。
「あの、ありがとうございます」
だれかのかおが目の前にある。女の子だ。手のひらが砂でざらざらする。僕はねそべってるのか。あたまのうらがやわらかい。この子の膝?
「助けて頂いて。大丈夫ですか」
たすけていただいて?
……そうか。僕は電車から飛び出した。そして——
「……蘭ちゃん?」
「…………豪くん?」
5
「豪くんってコンドーム使うんだね」
僕のおなかにあたまをのせた蘭ちゃんがこちらに顔をむける。ざあざあの雨で外ではまた何かがとけている。蘭ちゃんと歩いていた時はまだ暖かかったのに降りだしてからはこごえるぐらいさむい。蘭ちゃんにブランケットをかけようとするとアサガオのつるみたいに彼女は僕の肩までのびてきた。
きのうのあの出来事のあと、僕らは次の日にあおうと約束した。夕方にまちあわせて蘭ちゃんは僕の家に来て、まるでずっとまえからあたりまえだったように僕らはなんども抱きあった。
「何だか信じられない」
「うん」
蘭ちゃんは僕のほっぺにおでこを合わせたり手のひらと手のひらを合わせたり、まるで僕が10年前と変わらずほんものなのか確かめるみたいにさわっている。
「少し大きくなったね」
「お互いさま」
「豪くんの手のひらってやっぱまるいよね」
「蘭ちゃんの髪の毛も変わらずふわふわ」
「あの傷はまだある? 幼稚園の時の」
「あるよ。ほら」
僕は前髪をかきあげる。
「階段から落ちたんだよね。すごい泣いてた」
「よく覚えてるね」
「ずっと同じクラスだったし。幼稚園から数えて11年」
「お遊戯会でもらった手紙まだ持ってるよ」
「嘘!」
「その引き出しにある」
「信じられない」
「僕は嘘つきだし信じなくていいよ」
「何よそれ。でも何だかすごく昔に感じる」
蘭ちゃんはそういうと「お水のみたい?」と僕にきいてからブランケットを巻いてベッドをはなれた。僕は床におちていた毛布をひろいあげてもぐりこむ。蘭ちゃんはコップをふたつ持ってきてサイドテーブルにおくと電気を消した。ブランケットが床におちる音がして毛布がうごくと僕と蘭ちゃんの指が絡まる。
「今日も寒いね」
「もうすぐ氷河期だしね」
「本当なのかな」
「データではそうらしいよ」
「そっか。政府はそういうけど嘘だと思ってた」
「まあ政府は嘘つきだけど」
「あ、豪くん。ハブラシある?」
「さっき買っておいたよ」
「うわ。やっぱ頭いいね」
「でも毛布からでたくないし歯磨きは明日ね。おやすみ」
そういうと蘭ちゃんはふざけて僕の唇をふさぎながらからだをかさねてきた。くちもとが蘭ちゃんの息とかおりであたたかい。
「豪くんは高校に入れたんだよね」
「なんとか」
「いまどんな仕事してるの」
「……うまくいえない。専門職」
「法律関係とか?」
「とおくはない」
「公務員?」
「どうだろう」
「ふーん」
「やっぱ歯をみがこうか」
「え……。うーん。いまさら服きたくないよ」
「いいよそのままで。電気つけるね」
僕は起きあがりあかりをつけるとブランケットをふたつひろいあげてひとつをベッドの蘭ちゃんに巻いた。ふたりでキッチンで歯をみがく。冷蔵庫の写真をみて蘭ちゃんが「これって牛?」という。写真は図書館でコピーした噴火前のもの。広い草原で牛がのびのびしている。
そうだよね。昔の写真だよね。でもさ、どこか旅行しようよ。どこかさ、遠くにいこうよ。
きっとそれもいい。
ふたりでベッドにもどりおやすみという。
あめはやまずにふりつづく。
……豪くん、おきてる?
ねてる
あのね、じつはきのう
うん
……ごめん、なんでもない
……
蘭ちゃんは僕の仕事を知らない。
僕は蘭ちゃんの過去を聞かない。
僕は彼女の膝の包帯がメラノーマを隠すものだと知っている。
霧が晴れれば彼女はまた消えてしまうかもしれない。
幻のように。
近くて遠い彼女を離さまいと指を重ねる。
6
隣町の鉄骨街へ最高出力750kWの大型バイクを走らせる。高架道路でモーターは滑らかに加速し時速150kmでも安定している。地平線まで広がる砂は丘として連なり自分がとても小さく感じる。アクセルを開けると目の前の景色は更に小さな点となり高まる音で何も聞こえなくなっていく。
街に着く。今日も変わらぬ景色、ではない。新たに崩れたビルで迂回を余儀なくされる。コンクリートはアルカリ性だ。雨は鉄筋コンクリートのコンクリートを崩壊させ鉄筋がむき出しの残骸を生み出し続ける。
鉄骨街に踏み入る。揮発した塗料が全身の毛穴から染み込み眩暈がする。鉄も雨で錆びるが塗装で防げる。秩序ある庁舎の鉄骨塗装と違い、ここは色も頻度も無秩序だ。通りは虹色とシンナーで満ちる幻想世界で、人々は息を吸っては嘘を吐き、僕を安心させる。
防護服の目元の布を上げて馴染みの売人に目配せする。裏通りに入り煙草を買おうとしたら背後から腕を掴まれた。
「いいんですか、医薬官がこんな所にいて」
「別に禁止されてないよ」
「医薬官規程1条の倫理条項違反です」
真田君が僕と売人の間に割って入る。顎を上げて売人に逃げろと合図する。
「僕とデートしたいなら場所は選びなよ」
「素敵な場所です。ご飯でも食べましょう」
真田君はご飯と言ったくせにお茶しか頼まなかった。僕は鞄から弁当を出して自分の前に置き、食べきれないぐらいの養殖カエルとヘビ肉を注文して真田君の前に並べた。彼女はにこやかに全部たべると豚の脳を2つ追加して1つを僕の前に置いた。悪くないデートだ。
「どうやって僕がここにいるとわかったの」
「企業秘密です」
「僕はそんな秘密しらないんだけど」
「撤回します。私の趣味です」
「へー……。デートなのに防護服とらないの。室内だよ」
「脱ぐと下着なんです」
「いい趣味だね。でも話をしたいなら顔をちゃんと見せないと」
彼女が防護服を脱ぐと見事にぴっちりのライダースーツが現れた。
僕の顔を見て一瞬とまり、胸元のジッパーに手をかけ少し下に開いた。
真田君も成長したものだ。
僕の目を彼女が捉える。
「私を上席医薬官に推薦してください」
「どうして」
「昇級試験には合格してます。同僚5人の推薦も得てます。後は先輩の推薦だけです」
「だからどうして僕がそうすべきなのかな」
真田君は準備してきたようでスラスラ答えた。
「若手の医薬官の間でプラセボ告知を廃止すべきと声が上がってます。プラセボ告知に倫理的葛藤を覚える医薬官もいます。また国民の間でプラセボ告知の存在が疑われ始めています。上席医薬官の権限で廃止を稟議にかけたいです」
「そうかい。あの僕、豚の脳は苦手なん——」
彼女は僕の前から皿を取ると賞賛すべき速度で優雅に平らげた。
「先輩は嘘つきです。この鉄骨街の人のように」
「ふーん。ところで鉄骨街の人はなんで嘘をつくと思う?」
「話をそらさないで下さい」
「真田君、これは面接です」
彼女は目を逸らさずしばらく沈黙する。
「自分の生活を守るためです」
「うん。じゃあプラセボ告知は誰を守るため?」
「プラセボ効果で寛解する可能性を病者に与えるためです」
「医薬官規程はそう書いてるね。ところで君は病院を訪れてるかい」
「規定の回数は行ってます」
「まあいいか。君は誰か入院中の人と話して何を感じる?」
「……一様ではありませんが政府に感謝する声を聞きます」
「うん。貴重な医薬品の支給対象に自分が選ばれたんだもの。プラセボ告知の存在が疑われてるなら、断固と否定しないと治る病気も治らないよ」
「……」
「治療不承認ならカウンセリングに切り替えるのはなぜ?」
「……病者に自分の死の理由を与えるためです」
「嘘だろうが、それがないより安定をつくり国民を守る。それが政府というものだよ。君がプラセボ告知の廃止で守りたいのは、国民ではなく自分ではないかな」
真田君がうつむく。僕は勘定を払い席を立つ。
鉄骨街を歩く。
真田君の言うことは一理ある。
国民のプラセボ告知への疑念に火が付けば止まらず、この世界の幻はあっと言う間に霧散するだろう。
人を守るための嘘は優しさのはずだ。
でも僕は蘭ちゃんに仕事を聞かれた時に避けてしまった。
いつもは心地よい鉄骨街の空気が今日は肌に合わない。
7
「治療承認の面接を始めます」
僕はベルベットボイスで布のむこうの蘭ちゃんにささやく。
「判断に時間を要しお詫び致します」
そうだ蘭ちゃんの命は蝕まれている。今日この瞬間も。
何を話そう。プラセボ告知で蘭ちゃんを病院に送りたくない。でも不承認といったら彼女は今のままでいられるだろうか。
「少し事情が変わりました。医薬官さま」
ふいに蘭ちゃんが喋りだしびっくりする。彼女に敬語を使われなぜか苦しい。
……仮面をつけなければ。
「前回、中学を卒業しなかった理由を尋ねられました。それをお伝えできればと思います」
「そうですか。どうか無理はなさらず」
「その前に……最近、私の幼馴染と再開したのです。男の子です。偶然に」
「それは偶然ですね」
「とても嬉しいです。信じられないぐらい」
「喜ばしいことです」
「しかし彼と過ごすほど、私は治療を望むのかわからなくなるのです」
……
「続けてください」
「私は彼の優しさに値しません。それが私を苦しめます」
「……人の価値はご自分では分からないものですよ」
「小さい頃は違ったかもしれません。私は色々と努力していました」
「そのようですね」
「みなの期待に応えたかったのでしょう。勉学にも励みました。その幼馴染ともよく一緒に図書館で勉強しました」
「素敵な思い出ですね」
「でもある時すべてがむなしくなったのです。理由はわかりません。そんな時……」
彼女は止まった。
大丈夫。沈黙には慣れている。
左手薬指を握る。
大きく息を吸う音が聞こえ彼女が堰を切ったよう喋りだす。
「ある日の夕方でした。うしろからバイクが走ってきて私の前に止まりました。その人は卒業していた生徒会の先輩でした。私は嬉しくなり彼と話したのですが、何だか彼は私が知ってる彼ではないようでした。彼は慣れ慣れしく私に触りましたが、なぜかそれが嫌ではありませんでした。彼は私にどこか行こうと言い、なぜか私は彼のバイクに乗りました。
彼の運転は乱暴で私は投げ出されそうになったり頭がガクガクしました。今日死んじゃうのかなと思いました。けれどもなぜか感じたことないほど楽な気持ちになったのです。私は彼から両手を離して後ろにのけぞったりしました。雲がすごい早さで流れていました。それを見たのか彼が叫んだり笑い出しました。私も声を出していました。
彼は私を家に連れていき……その後もたくさん会いました。なぜそんなことをしたのかわかりません。気がつくと妊娠していました。私がそれを話すと、彼は真顔になって私のお腹を思い切り蹴とばしました。私は体調が悪くなり、何が起こったのかわかりましたが、どこにも行く場所がありませんでした。そのまま彼の家にいて、……血の塊が出るまで家も出ませんでした。その後もしばらく人目を避けて彼の家に泊まりました。彼が私を追い出した時には中学も終わっていました」
……
「どうぞ続けてください」
「それからはお話しすることもないよう思えます。私は私でないようただ時間を過ごしてきました」
「けれども、その幼馴染と再開して、もしあの時に彼にたすけてと言えていたらどんな人生だったのだろうと……」
……
「きっとその冬あなたはこの世界のまぼろしに囚われたのでしょう。そんなことでご自分を投げ出してはいけません」
「その幼馴染と手を繋ぎたいと想うほど、苦しくなるのです」
「……あなたはその男性を愛しているのかもしれませんね」
「愛しています。けれどそれを伝えてもし彼がどこかに行ってしまったら。それに私は病者の身です」
……
「われわれ医薬官は様々な方を面接しますが、判断で最も重要なのは生きる意思です。正直に申し上げ、生きる意思を持たずソルに来られる方もいます。前回お会いしたあなたもそうでした。
その男性との関係にあなたが希望を覚えるなら、彼に打ち明けてみることを推奨します。きっとその男性もあなたを愛しています。彼は全てを受け入れるでしょう。あなたが生きる意思を得るなら、われわれには喜ばしいことです。告知の判断はその後に致しましょう」
8
「これが植物……思ったより固いね。キノコと全然ちがう。え、痛い!」
図鑑によると蘭ちゃんがつついてるのはイバラという植物だ。小川のほとりに寄り集まり生えてるので、地図の通りこの上流に鍾乳洞というのがあるのだろう。彼女は怖いと言いながら『茎』や『棘』をゆっくりなでている。僕も水耕栽培の野菜は見たことあるが屋外の植物は違うなとしげしげ眺める。
どこか遠くへ行きたいと言った彼女に、植物を探しにいこうと提案した。僕らの街から西へ向かうとカルスト台地がある。そこにはアルカリ性の石灰洞窟があり、強酸性化してない土壌がちらほら残ってると聞いた。
「そのイバラってのは黄色い『花』が咲くらしいよ」
「花? 花って柔らかいんでしょ。こんなゴワゴワのものに出来るの?」
「たぶん。5月とかに出てくるって」
「そっか。また来なくちゃね」
僕と蘭ちゃんは小川をのぼる。洞窟入口で火を焚いて夜は眠る予定だ。無事に洞窟を見つけて中に入ったが、少し先は崩れ落ち真っ赤な土で埋もれていた。そういえば石灰とは大昔の貝殻やサンゴの死骸らしい。そんな石灰洞窟も崩れてしまうなんて世界は本当に終わりに向かってる。
テントを張りおえて家から持ってきた石炭に火をつけると、蘭ちゃんが地面に落ちていたイバラを集めて持ってきた。イバラを燃やすと炎は僕たちが見たことない形となる。なんだかゆらゆらしている。
寝る準備をすませ岩にならんで座って煙草を吸う。洞窟の外では風が止んできている。なんだか星が大きくない? と蘭ちゃんがはしゃいでいる。
「ね、煙草、もう一本すわない?」
「いいよ。ほら」
「ありがと」
彼女の唇をおおって火をつける。
煙は滑らかにたゆたっている。
空気はしっとり冷ややかだ。
月はゆっくり動いている。
霧が静かにはれていく。
「豪くん。愛してるよ」
「うん」
「豪くんが好き。愛してる」
「豪くんとしぬまで一緒にいたい。豪くんの子供を生んで育てたい。でも私、話さないといけないことがある」
蘭ちゃんの手をにぎる。
「無理しなくていいよ」
「大丈夫。それに今日しかないと感じるの」
彼女が、ゆっくりと、とだえることなく、昔いなくなった理由を語り出す。
蘭ちゃんはメラノーマのことも話し、膝の包帯に手を伸ばした。
「いいよ。取らなくて」
「そっか……。ありがとう」
僕は蘭ちゃんの手をにぎり続ける。
僕にもなにか言うべきことがあるはずだ。
それをつたえるとなにかがきえてしまうのでは。
でもぼくは彼女の勇気にこたえられる自分でありたい。
「蘭ちゃん、あのさ」
彼女は繋がれた手を僕のくちもとにあてた。
「豪くんにも何か言えないことがあるのかなって感じてる。……仕事のこと?」
「……うん」
「なにか事情があるんだよね」
「いくつか大事な仕事がのこってる」
「わたし待ってるから。わたしはどこにもいったりしないよ」
その夜、僕は蘭ちゃんをどうしようもなく激しく抱いた。
9
今日の面接は全て終わった。執務室の応接椅子に座り外を見る。黒塗りの紫外線遮断ガラス越しに太陽を眺める。こいつは自分が何してるかわかってるのか? 医薬官になってからよくそう考えてきた。ソルという名前も何故なんだ。ソルとはラテン語で『太陽』を意味する。いや、その質問にはむかし先輩が答えてくれた。政府は政府なりに希望を創造しようとしていると……。
先輩は僕にいずれこの国を任せたいと言った。しかし僕はここを去る。4日後の面接で布の向こうの蘭ちゃんに打ち明け、報告書には不承認と書こう。上に辞表を提出し、真田君を推薦しないとも伝えよう。彼女は肝は据わってきた。しかし医薬官に向いてない。これは彼女を守るためだ。
ドアがノックされる。
「どなたでしょう」
「真田です」
「ごめん。忙しい」
構わず入ってきて鍵を閉める。
……
「何の用事」
真田君が反対側に座り机に何かを置く。
蘭ちゃんのカルテだ。写真の黒塗りも取れている。
「美人だね。誰?」
「よくご存じかと」
「黒塗りがないカルテなんて珍しいね」
「不自然な個人的対話の面接記録がありましたので、査問委員会に資料を提出したところ開示されました」
「資料?」
「写真です。これ以上いわせないでください」
……僕と蘭ちゃんを盗撮したのか。
「いま公安への推薦状かくね」
「結構です。ところでこの方の担当は私が引き継ぎます。4日後にまた面接ですよね」
「君は悪党だったの?」
「あなたがまいた種です」
「肝が据わりすぎだよ」
「先輩にはおよびません。少しは驚くと思ったのに」
驚いている。しかし勝負はまだついていない。
「上席医薬官に推薦すればいい?」
「それも結構です」
「じゃあ何がほしいの」
真田君は口角を少し上げ僕の目をぼんやり見る。やれやれ、いったい誰に似たんだ。
「志村先輩。私は医薬官を辞めます。向いてません。でも最後に先輩のPCを使わせてください」
「……なんのために?」
「どうして答えるべきですか?」
「断ったら?」
「その女性の面接の際、彼女が私をペンナイフで脅したと叫び公安に突き出します」
……
よく考えてるじゃないか。こんなことを僕に仕掛ける時点で彼女は本当に医薬官を辞めるつもりだ。面接で狂言だって実行するだろう。そして蘭ちゃんが不正に公安に突き出されたとして、僕が査問委員会に意見しようが、僕が蘭ちゃんの利害関係人である証拠が既に上がっている。そしてこの場に公安でも呼べば疑わしいのは僕の方だ。
見事なチェックメイトだ。
しかし何が彼女をここまで動かすのだろう。
僕は壁のガラス棚からウイスキーを取り出し机に置いて再び真田君の向かいに座る。僕を推薦した先輩にもらった物だ。この時代にお酒なんてひどい贅沢だ。でもここを去るのだし今日あたりが飲み頃だろう。
真田君に目配せすると頷いた。2つのショットグラスにストレートで注ぐ。僕がグラスを空けると彼女も真似て一気に飲み干した。きっと人生で初めてのお酒だろう。そうとう喉が痛いはずだが真田君は微動だにしない。
「完敗だ。上司として誇りに思う」
「本当にそう思ってそうですね」
「個人的な頼みだけど僕のPCで何するのか教えてくれない?」
答えの代わりにグラスが僕の前に置かれる。再び2つのグラスが満ちる。グラスが空く。
「先輩には色々教わりました。ですので正直に答えます」
「5年前の母の死の真相を知りたいです。母の治療告知が真実かプラセボのどちらだったか、今はアーカイブなので先輩の権限でアクセス出来るはずです」
「……それが医薬官になった理由?」
「きっかけではあります」
「私の母も癌でした。母は高校には進学できませんでしたが真面目な人でした。ソルで面接を受け、治療承認されました。私と母は、それは本当に喜びました。
その後に私は病院に母を見舞い続けました。そこで気が付いたのです。病院にはどう見ても治療承認されると思えない自堕落な患者も沢山いました。
もしかしたらソルには何かの嘘があるのではないかと疑い始めました。私がそう感じたのだからきっと母も同じだったでしょう。その頃から母の病状はどんどん悪化し、そのまま亡くなりました。
……母の治療は本当だったのか。それを確かめようと医薬官を目指しました」
僕の前にグラスが置かれる。
「大変だったね。でも余り飲むと家に帰れなくなるよ」
「いいんです。こんなこと人に話すの初めてですから」
ウイスキーはゆっくりと減り空になった。
「一応きくけど、どうしても僕のPCを使うんだよね。上司としてでなく、友人としておすすめしないよ」
真田君と僕の目が時が止まるぐらいかっちり噛み合う。
「……はいはい。君は何があっても真実に向かう。そうだよね」
「よくご存じで」
「ご飯を食べてくるね。帰ってきたらドアを8回ノックする」
「わかりました」
10
庁舎を出て防護服を纏う人々に混じり歩く。太陽が沈みかけている。
……真田君は大丈夫だろうか。
プラセボ告知なんてものは存在しない。
すべてがプラセボ告知なのだ。
この国で生産されるわずかな医薬品は、石油やレアメタル輸入のため全て輸出されている。
それでも何とか、病める国民に幾ばくかでも希望を与えようと、政府は医薬品を承認制などと打ち出し医薬官なる組織を作った。
病院の医薬品は全て食塩水とブドウ糖だ。
入院中に寛解する者はプラセボ効果で自己治癒している。
だから面接で病者を揺さぶり生きる意思を判断するのだ。
真田君、君は知っているだろうか。
ラテン語のプラセボが意味するところは、「私は喜ばせます」だ。
政府が国民を喜ばせようとしているのは真実だ。
医薬官規程にプラセボ告知なんてものがあり、それは医薬官のみが知るという建前も、医薬官を精神的苦痛から守るための嘘だ。
上席医薬官にはこの果てしない嘘の重みに耐えられる者しかなれない。
自分が嘘をついていると感じていては、プラセボ効果で治る病気も治らないしね……。
しかし君の姿勢に感銘を受ける。
人々は真実をもとめているのか。
優しい嘘とは麻薬なのだろうか。
過保護な親を突き飛ばすような強い意思こそ、終わりに向かうこの世界に必要なのかもしれない……。
庁舎に戻り執務室を8回ノックする。
反応がない。ドアの下にメモが挟まっている。
『鍵が落ちていたので守衛室に預けました。真田』
11
この景色を見ながら煙草を吸うのも今日が最後か。辞表は出してきた。屋上に吹き付ける風に目を細める。今日は発電所の黒煙がひときわ強い。
「……なにしてるんですか?」
「見てわかるでしょ。煙草だよ」
真田君が僕の横に来た。
「まだ朝ですよ。告知もしてないのに」
「本当によく知ってるね。僕のこと好きなの?」
「……ノーコメントです」
「そうかい。でも君と会うのも今日が最後だ。先ほど辞表を出したよ」
「私のせいですか?」
「あの件とは関係ない。それより君が今日、彼女の面接をするんだよね」
吸い殻を投げ横を見る。
……防護服を着ていない。
「防護服は?」
「私の遺伝子は固くなったので大丈夫です」
「本気?」
本気なはずないだろう。
嫌な予感がする。
「先輩、ご飯でも食べに行ってくれませんか」
「いくなら一緒に行こうよ」
真田君は動かない。
不自然に長く僕の顔を見つめる。
「わかりました。先にお伝えします。これは先輩のせいではありません」
そういって彼女は携帯PCを取り出し何かを打ち込んだ。
『緊急警報。訓練ではありません。対テロコード03。全てのドアをロックします。直ちにドアから離れてください。繰り返します……」
「……なにしてるの?」
「見てわかりませんか。テロです。これで公安は当分ここまで来れません」
そういって真田君は電波基地局に近づきPCを繋いだ。
「電波ジャックします。国民に真実を伝えます」
「……それが国民の為になるかい?」
「先輩の考えはわかります。これが正解なのかも自信ありません。しかし人々が嘘を暴いてしまえばこの国は終わります。優しい嘘だろうと関係ありません。この状況に私は終わりをつけます」
彼女はそういって変声機を取り出す。
「真田君、逃げる算段はあるんだよね」
「当然です」
「わかった。信頼する」
「僕がやるよ。いちおう夕方まで君の上司なんだ」
真田君の変声機を持ち街を眺める。
太陽が人々を痛々しく照らしている。
この世界のまぼろしに囁く。
これが僕の最後のベルベットボイスだ。
「……国民の皆様。私は一人の医薬官です。この声を聞いたことある方もいるでしょう。本日はこの国の真実を伝えます。プラセボ告知という噂をご存じですか。医薬官が偽りの治療承認をするとのことです。これは事実です。プラセボ告知は存在します。しかし真実は更に残酷です。この国に医薬品はありません。つまり本当の治療承認なるものもありません。
偽りであろうと希望を生み出さねばならない。その信念で我々は治療承認なる制度を作りました。しかし誤りでした。皆様の期待に応える為なら嘘も辞さない。それ自体が不安と混乱を生んでいます。
その幻を晴らした今、我々は自身を戒めねばなりません。この国の未来は厳しいものです。しかし以後、我々は真実を持って皆様に尽くしていく事を誓います……」
12
真田君と非常階段を駆けおりる。僕達が中層まで降りた後にまず上層だけドアを解除する。公安は屋上に向かうだろう。
25階で真田君が止まった。この階は……ソルの階だ。
「防護服を着て下さい。来庁者に紛れます。全てのドアを開けます」
ビルに音が鳴り響いた。非常扉を開け階に立ち入る。人々が混乱している。
「君はこれからどうするの」
「医薬官を続けます。気が変わりました」
「またどうして?」
「今はノーコメントです。いつかあなたを探しにいってお伝えします」
彼女が手を差し出したので取る。
珍しく真田君がうつむいている。
握手にしては妙に長い。
「……先輩が面接していた方は第8待合室にいるはずです」
「ありがとう。じゃあ元気でね」
真田君はそれには答えず去っていった。
けさ辞表を出した僕は公安に目を着けられるだろう。急がねば。面接の来庁者の多くは室内でも防護服を脱がない。黒い濁流をかきわけ進む。
第8待合室につく。ここも黒い渦でごった返し先が見えない。
僕は防護服を取り叫ぶ。
「蘭ちゃん!」
「……豪くん?」
「今は聞かないで。行こう」
僕はもう二度と離さまいと彼女の手を強く握り、人々をかき分け進む。
13
庁舎の地下駐車場を抜け、街をバイクで駆け抜ける。僕たち二人は一つの光となり、幻の残骸を置き去りにして遠くへ向かう。
街はずれの充電スタンドまで来た。バイクを止めて蘭ちゃんが降りるのを手伝う。
遠くに僕たちがいた街が見える。もう戻ることはないだろう。でもそこにいたからこそ僕たちはまた会えた。
大きく息を吸い込み蘭ちゃんの方を向く。
「蘭ちゃん。話したいことがある」
そう言うと彼女は何だか申しわけなさそうに不思議な表情をした。
「ごめん。たぶん、わかってる」
「私を勇気づけてくれた医薬官の方がいたのだけど……その人なぜかあの事があったのが冬と知っていたの。確かそこまで言ってなかったような気がして」
「それをさっき面接前に考えてて……そしたら豪くんが来て、すごくビルに詳しくて、駐車場にバイクあったし……」
なんてことだ。完敗だ。
再び蘭ちゃんを後ろにのせて僕もバイクにまたがる。
「これからはふたりでずっと一緒だよ」
蘭ちゃんがそっと僕の首に手をまわす。
「えっと、実は、ふたりじゃないと思う」
そういって彼女が僕のおなかをぽんぽん叩く。
——そうか。もうふたりじゃないのか。
バイクのキーを回した。
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