重力蓄電殺人事件
◆ 登場人物
原園 ミサ 主人公。経産省の公務員。電気保安監督官
増永 係長
西村 主任
大鳥 華羅 新しくできた後輩
岩木 高重 蓄電所のオーナー
岩木 ヒカリ オーナーの娘。人工光合成研究所の社長
長戸 斤 蓄電所の所長
円楽 蓮太 クレーン技師
蟻子 律 プログラマー
雨谷 霧子 蓄電所作業員
◆ プロローグ
風の強い夜だった。
トラックの運転手は鹿島臨海工業地帯の製鉄所を出て、大通りへと車を滑り出させた。対向車線からワゴン車が車線を越えて進路を塞ぐ。
ハイビームが眩しい。こちらを完全に停めさせたところで、運転席から一人の男が降りてくる。
「また環境活動家か……」
運転手はそう考えた。製鉄所は抗議の標的になりやすいのだ。
窓を開けて声を掛ける。
「眠いんだ。抗議なら明日にしてくれ」
男は銃口を向けた。「活動家じゃない。積み荷を渡せ」
「バスジャックか?」
「トラックだ」
「猛毒だ。おすすめはしない」
「知っている」
荷台には、およそ八立方メートルのドライアイスが積まれている。大規模工場にCO₂回収が義務づけられて数年。回収された大半は固化して地中に埋められるが、時折買い手が現れる。この荷主は人工光合成の研究所で、高濃度CO₂を製鉄所から譲り受けていた。敷地内にドライアイス製造機を置き、電気代を払い、数日に一度こうしてトラックで運び出しているのだ。
「こんなことしなくたって、ドライアイスくれるところなんていくらでもあるだろ」
「すぐ欲しいんだ」
「今ならまだ見逃してやる。罪を犯すより一晩待って真っ当にもらいに来てくれ」
「申し訳ないが交渉は決裂だ。どうしても今必要なんでな。とりあえずそこを降りてくれ」
銃を向けられては仕方がない。運転手はトラックを降りた。
男が続ける。
「トラックは必ず分かる場所へ戻す。詮索はするな」
「じゃあ自分はどうやって帰ればいいんだ」
「歩け」
「乗せてくれよ。夜道は怖い」
「怖くない」
「現にこうして襲われてるんだが」
男は気まずそうに財布から一万円札を差し出した。
「駅前のマックで夜を明かせ。始発で帰れ」
そう言い残し、男はトラックを発進させた。
翌日、トラックは空き地で見つかった。GPSが付いていたため捜索は容易だった。犯人も承知していたようで、そこで荷を積み替え、別の手段で運び出した痕跡が残っていた。
事件はちょっとした話題になったものの、日本中で持て余されている二酸化炭素を盗んだところで、警察がまともに取り合ってくれることもなく、一週間も経てば人々の話題から消え去った。
CO₂の行き先は、いまだ不明である。
◆
台風が接近し、朝から激しい嵐が吹き荒れていた。
「コップを並べておこう」
私は腰を上げ、応接スペースのテーブルにグラスを四つ配置する。続いて冷蔵庫から冷えたコーラを取り出し、テーブルの中央に置いた。すぐに注げるように。
「温まるだろ」
西村主任の嫌味が飛ぶ。
そりゃそうだ。私はそれを冷蔵庫に戻し、席に戻った。
それならば、コップを冷蔵庫で冷やしておくと言うのはどうだ。私は立ち上がり、グラスを抱えて再び冷蔵庫へ。
「うろうろするな。鬱陶しい」
それでもじっとしていられないのだ。
七月一日は公務員の移動の日。そして、今年二〇三五年の七月一日は、私に初めて後輩ができる日なのだ。
公務員二年目。関東東北産業保安監督部はさいたま新都心合同庁舎にあるが、私は茨城分室勤務。酷い先輩たちを見てきて固く誓ったのだ。自分に後輩ができたら、そりゃもう甘やかしてあげようと。
「そういえばその子、名前は?」
増永係長が答えた。
「大鳥華羅。愛知県出身で、すごいな、大学一年で技官試験に受かったらしい」
「へえ、優秀なんだ。私なんてすぐいらなくなっちゃいそう」
「今はいらなくないと思ってたのか?」
「うるさい」
「競技プログラミングが特技だってさ。高校県大会四位、全国大会出場。強いな」
「それなら私のほうが強い」
後輩にプログラミングをあれこれ教えている自分を想像し、わき腹がむず痒い。
「ぐにゃぐにゃ動くな、気持ち悪い」
そのときノックの音。
「はーい!」
扉を開ける。期待していた後輩ではなくアイスクリーム屋だった。
そうだ。今日は二時にアイスが来るよう手配していたのだ。後輩が来るのは三時。まだ一時間も先のことを待っているのだ。
私は財布を取りに一旦席に帰り、もう一度扉に戻ると、アイス屋さんは物珍しそうにホワイトボードを眺めていた。
私はお金を払いながら言った。
「雨の中、すみません」
「全然平気です」
素敵な笑顔だった。配達員が帰ったあと、主任が咳払い。
「そんなことより、今日の立入検査の準備はできているのか?」
ホワイトボードを確認する。今日の訪問先は鹿島第一重力蓄電所。巨大な建屋にコンクリートブロックを吊り上げ、電力を貯蔵する施設である。
そして私は電気保安監督官。送電網に接続する発電事業者を監督し、指導する立場だ。時には立入検査もする。
「当たり前よ」
私はアイスを冷凍庫へしまい、保冷剤代わりのドライアイスを流しに捨て水をかける。白い蒸気がほとばしるのを見るのが好きだ。
「火災報知器、鳴らないか?」
「ならないよ。それにしても、最近ドライアイスのサービス増えたよね」
「原価はほとんどCO₂と電気だけだからな。どっちも今大安売りだ」
窓の外は横殴りの雨。まだ見ぬ後輩ちゃんは、ちゃんとここまでたどり着けるのだろうか。
そんな思いで、一時間待った。
一時間後、ドアが開いた。私は駆け寄った。だが、そこに現れたのは、銀髪に唇ピアス、鋭い目つきの女。紺とオレンジのプーマのジャージがやけに目立つ。
私を一瞥しただけで脇をすり抜け、空いたデスクへ荷物を置く。その姿に、思わず声が漏れた。
「こ、怖いよ……」
「君が大鳥華羅君かね?」
なにも問題がないかのように増永主任が声をかけた。
小さく頷く彼女。
意を決して近づく。
「アイス、食べる?」
「いらない」
あっさりと言われてしまった。
そんなことよりタメ口? いや待て。緊張しているだけかもしれない。
「じゃあ、コーラ飲む?」
「炭酸は飲まない」
取りつく島もない。
大鳥が口を開いた。
「作業服は?」
全員がポカンとした。
「行くんだろ? 臨海の重力蓄電所」
「更衣室にかけてある」
西村主任が廊下の奥を指差すと、大鳥は無言で歩き出した。
三人が目を見合わせる。
彼女のあの服装は大丈夫なのだろうか。経産省の人なんてみんな服装は適当だが、流石にあんなヤンキーな格好で庁舎にくる人は初めて見た。
私は自分のTシャツの裾をつまんだ。彼女のために注意しておいた方がいいのか、いや、人のこと言えた立場か。
増永係長が言った。
「先輩道がなっていないな」
「何がですか?」
西村主任が引き取る。
「自分を棚に上げて説教できるのが一流だ」
「そんなのお二人だけですよ」
増永係長が続ける。
「まあ、でもあんまり役割を意識しすぎるな。期待は人を狂わせる。これは期待されなくてもやるだろうと思ったことだけやればいい」
何か核心を突いたような言い回しで、何にも突いていない。
ドアが開き、大鳥が作業服姿で戻ってきた。
「車、運転できるか?」
と係長。
「できる」
「原園を乗せて先に行ってくれ。我々は後から合流する。行方ナンバーのワゴンRだ。原園君も早く着替えなさい」
「え、いきなり!?」
◆
大急ぎで身支度を整え駐車場へ出ると、大鳥はすでに白いワゴンRの運転席に座っていた。
公用車はすべて同型のワゴンRなので、職員たちはナンバープレートで呼び分けている。私は助手席に乗り込むと、彼女はためらいなく車を発進させた。
「重力蓄電所、見るのは初めて?」
こくりと小さく頷く。
「愛知出身なんだよね?」
わずかな間を置いて再び頷く。
「愛知にはああいう施設はないもんね。引っ越してきてまだ三か月だっけ? もう慣れた?」
「まあ」
大学を卒業して経産省に入省した者は、まず各種研修を経て七月の人事異動で配属が決まる。
「どこか遊びに行った?」
「あんまり」
私は気になったことを聞いてみた。。
「『ナメガタ』ってよくで読めたんね。茨城の人しか知らないと思ってた。将棋好きは『ナメカタ』って読みがちなのに。地理強いんだ」
その瞬間、大鳥の顔がわずかに強張った気がしたが、気のせいだろう。
フロントウィンドー越しに遠くそびえる奇妙な色の塔を指差す。
「あれが重力蓄電所」
重力蓄電所とは。高さ一五〇メートルの鉄塔中央にクレーンを据え、コンクリートブロックを吊り上げて位置エネルギーを蓄える施設である。
電気は作るのと同じくらい、貯めるのも難しい。ソーラーパネル優遇策で昼間の発電量が激増し、一部地域では二〇二三年に昼間の電力価格がほぼゼロになったが、日没後には1kWhあたり一〇〇円を超えることも珍しくない。
主力の揚水蓄電は大規模だが立地も環境影響も厳しくこれ以上増設できず、二番手のリチウムイオン電池は劣化と火災リスクで大規模投資が進まない。燃料電池や全固体電池は研究段階で、結局夜間は火力頼み。火力発電所がメンテナンスに入るたび電力価格は跳ね上がる。
そこで実業家・岩木高重が作ったのが、この重力蓄電所だった。
高さ150m。お皿は半径9mで、正方形68マスに5段積みする。
クレーン作業半径は15mなので、中心から9〜16mが下層部となる。
ブロックは一辺2mの8m³で、18.4tの重さになる。
1塔あたりブロック340個を積み上げるので、合計9511MJになる。
1kWhあたり100円で売れば、一晩約30万円儲かることになる。
せっかく塔を建てるのだから、もっとたくさんブロックを載せればいいじゃないかと思うが、二つの制約がある。一つは時間。電気が安いのは一日約6時間。クレーン1台で引き上げられるのは1分1個。なので340個というのは限界に近い。
もう一つは、クレーンの持ち上げ能力。力学的に、重いものを持つ能力は、マストからの距離に反比例する。これ以上ブロックを重くすると、クレーンがリーチできる範囲が狭まり、意味がないのだ。
ここで岩木高重のセンスが光る。1塔に多くを詰め込むという発想を捨て、塔の数で稼ぐ判断を下す。地盤が補強済みの1haの廃工場跡を買い取り、3×3=9本の塔を建設。一日の売上は約240万円、部品は汎用品で、人件費も安く、10年で投資回収の見込みだ。
ただし岩木には安全軽視の噂が絶えない。今日も台風の日にクレーンを稼働させる疑いで立入検査が行われることになる。
◆
鹿島臨海工業地帯の海岸沿いを車で走っていくと、荒れ狂う海が視界いっぱいに広がった。
この工業地帯は、マンデルブロ集合のように海へ向かって枝分かれし、海と接する面積を最大化している。その末端に芽吹いた胞子のような突端に、私たちの目的地はあった。半島のように突き出した敷地は三方を海に囲まれ、ひとたび大波が来れば、施設全体が海水に沈むだろう。
私たちは堤防上の駐車場にワゴンRを停め、階段を下りてゆく。巨塔の足元に立つと、その威圧感に思わず息をのんだ。今まさにクレーンから吊り下げられたピンク色のブロックがゆっくりと降下しているのが見える。
ここではSDGsをテーマに、ブロックを十七色に塗り分けている。
正門は海に面した側、敷地右端に設けられていた。
インターホンに指を伸ばそうとした瞬間。
「お客さんですか?」
背後から声が掛かった。振り返ると、合羽姿で自転車にまたがった少年がこちらを見上げている。高校生くらいだろうか。
「はい、そうですが」
「じゃあ――」
少年はインターホン横のカードリーダーに自分のカードをかざした。銀色の門扉がカコンと小気味よい音を立てて開く。
「所長、いると思いますから、案内しますよ」
誘われるまま門をくぐる。広大な敷地の九割以上が巨大な蓄電設備で占められ、事務所は右手前隅にひっそりと建っていた。ここから十メートルほどだろう。
「あなた、高校生?」
「ええ」
「ここで働いてるの?」
「はい。ここのソフトウェアを任されています」
少年ははにかみながら、いや、それよりも少し自尊心を滲み出させながら、もうちょっというと肩書をひけらかすように言った。そういうお年頃なんだろうか。
「クレーンの制御系?」
「ハード周りはメーカー製ライブラリですが、ブロックの配置最適化は自社開発で、そこを僕が担当しています」
「へぇ。お名前は?」
「蟻子。蟻子律です」
ひとしきり会話するうちに事務所に到着した。プレハブではないが質素な建物だ。
「所長、お客さんです」
蟻子が声を張り上げる。「お邪魔します」と私も後に続いた。
足音が近づき、二人目の人物が現れる。五十代、短く刈り上げた髪にがっしりした体格の男。所長の長戸斤だ。いかめしい表情で現れた彼は、蟻子を見るや否や顔をほころばせた。
「蟻子君、今日も頼むよ」
溺愛ぶりが一目でわかる。蟻子は軽く会釈し奥へと消えた。
「私は所長の長戸です。見学の方かな?」
「経済産業省・電気保安監督官の原園ミサです」
「ほう。そちらは?」
後ろの後輩を見やる。
「大鳥」
彼女はそれだけ告げた。無礼な態度だが、長戸は意に介さない。
私は立入検査通知書を示す。
「御社の業務に安全性上の疑義があるため、立入検査を行います」
「ああ、新人研修ですね」
ちがう、そうじゃない。そんな銀行員の営業修行みたいなことのために来たんじゃない。こういう時に、西村主任や増永係長のように圧を出せる人がいないのが辛い。二年目の私と一年目の大鳥ではナメられてしまう。
「では、こちらへ」
応接に通された瞬間、三人目が目に入った。メディアでお馴染みの実業家、岩木高重。歳は八十手前のはず。
「お客さんかね。ようこそ我が蓄電所へ。感想は?」
鉄塔の鉄脚が窓いっぱいに広がり、室内の調度は粗末そのもの。国内有数の富豪である岩木氏自身が年季の入ったパイプ椅子に腰掛けている。黒ずんだ木床は丁寧にワックスがかけられていた。唯一高価そうなのはBoseのホームシアターだけ。
壁には額装された鉛筆画。重力蓄電所の初期スケッチが掛けられている。現在の塔とは大きく趣が違っていた。
◆
「お疲れさまです」
部屋に新しい人物が入ってきた。二十代半ばほどの、日に焼けた精悍な男だ。
「お、お疲れさま。今日もよろしく頼む」
長戸所長が声を弾ませる。彼は従業員に挨拶する瞬間だけ、厳かな表情を一変させる。。これが人心掌握のためのテクニックらしい、と私は悟った。
「こちらは経産省の原園さんと大鳥さん。いろいろ教えてあげてくれ」
紹介のしかたに若干の違和感を覚えつつ、とりあえず頭を下げる。
「円楽蓮太です。クレーンの整備を担当しています。よろしくお願いします」
「円楽君はね、あの鹿島製鉄所の技師なんだけど、その腕前が群を抜いていてね。副業としてこちらにも来てもらっているんだ」
所長が胸を張る。
「いえいえ、とんでもありません」
そこへ奥の部屋からもう一人の影が現れた。さきほどのプログラマー、蟻子律だ。手にはヘルメットを抱えている。
「異物みたいです。処理してきます」
「じゃあ俺が行くよ」円楽が応じた。
「円楽さん、いいんですか?助かります。七号機です」
円楽はヘルメットをかぶり、雨の中へ駆け出していった。
窓辺で外を眺めていた所長が眉をひそめる。
「潮が上がってきそうだな」
塔の麓はすでに海水に浸かり始めている。
その時、細い女性の声がした。
「私、防潮扉を閉めてきます」
振り返ると、室内の隅に黒髪で華奢な女性──どこか影のある雨谷霧子が立っていた。
「雨谷さん、頼むよ」
「はい」
彼女も外へと駆けて行った。
「今の方は?」
「雨谷霧子さん。最近入ったばかりだ」
「そうでしたか。ところで異物とは?」
蟻子が答える。
「ブロックの上に枝やゴミが乗ると、積み重ねができなくなるんです」
窓外を見やると、九基のクレーンはすべて停止していた。
「その場合は塔に登って手作業で取り除くしかありません。厳密には、ブロックを置いて水平が出ない限り、クレーンは自動で荷を放さない設計です」
そう説明すると、蟻子はサーバールームへ姿を消した。
「あの部屋は?」
「サーバールーム兼オペレーション室だ。通常は自動運転だが、イレギュラー時にはあそこから手動操作する」
私は壁に掛かったスケッチへ目を移した。
「これかね?」
岩木が視線に気づく。
「私が最初に描いた構想だ。内側へブロックを五十個積み上げ、外側へ下ろす。原始的だが却下された。理由はわかるかね?」
答えは明白だった。
「内と外で高さが同じになってしまいます」
「その通りだ」
岩木は満足げに頷く。
「二メートル角のブロックなら、一個目のブロックは百メートル下ろせるけれど、二段目は九十六メートル。二十五段を超えると内の方がが低くなってしまう」
彼は隣の図面を指し示す。クライスラーのロゴように、幾つものヘアピンの線路が蓄電塔を中心に外に伸びている。
「先に下ろしたブロックが邪魔になるのが揉んだなら、レールカーで遠方へ運ぼうとした。しかし、これが却下された理由はわかるか?」
「土地代ですね」
「その通り。用地が中学校の校庭ほど必要になる」
「でも、よく考えられている」
突如、大鳥が口を開いた。
「なにを?」
レールのU字の点を指差す。
「向き」
岩木が膝を激しく叩いた。
「見事だ。君は賢い」
私は合点した。
「なるほど。正方形のブロックを敷き詰めるには、必ず向きを揃えないといけないけれど、クレーンは円運動だから、横に動かすと必ず角度が変わってしまうんですね。そこで、Uの字のどの時点で持ち上げるかによってブロックの向きをコントロールしようということですね」
私は大鳥を見つめた。その一瞬で答えに辿り着く彼女の聡明さに、思わず驚嘆する。
「スイベルと呼ばれる、クレーンの吊り荷を回転させる機構はありますが、18トン対応となると製品が少なく、故障時に現場の作業員だけで直せるかを考えると採用しづらいんです。地面に駐車場の回転台のような装置を置く案も検討しましたが……制限時間が6時間では効率が悪すぎました」
「そこで二人で頭をひねり続け、行き着いたのがこの案です」
「向きを揃えたいだけなら、天井クレーンではダメなんですか?」
「天井クレーンは整備のたびに誰かが天井へ上らねばならず、さらに高塔の天井だと建物の歪みでレールが壊れるリスクが高くてダメでした」
「あ、そうですか……」
私は己の浅知恵を恥じた。
「いえ、私たちも真剣に検討しました。私は技術者なので、技術的に可能かばかり考えがちです。そこに経営の視点を示してくれたのが岩木でした。最終的に① 量産品だけで構成する、② 可動部を極力減らす、③人手をできるだけ省く、という三原則を掲げ、突き詰めたんです」
「そして辿り着いたのが、この形だ」
岩木が窓の外を指差す。なるほど。図面と窓の配置は、その構造を示していたのだ。
「150メートルの鉄塔を立てられるゼネコンはいくらでもあるし、15メートル先で18トンを吊れるクレーンは現場では小型扱い。本体もパーツも中古で容易に手に入る。回生モーターも今では標準装備。つまり、ここには特別なものは何一つない。全体で見ると特殊に見えるが、構成要素はすべてありふれたものばかり。この技術的挑戦をしないという挑戦を成功させた長戸君こそ、真の技術者だと思う」
私は聴きながら、どこか薄気味悪さを覚えた。身内を褒めすぎではないか? 長戸と岩木だけではない。クレーン技師の円楽やプログラマーの高校生まで。これが今時の働き方なのか? 西村主任や増永係長を思い浮かべる。ないわー。
「ただいま戻りました」
クレーン技師の円楽蓮太が帰ってきた。彼はサーバールームの扉をノックし、「取ってきたよ」と声を掛ける。ほどなくして九台のクレーンが再び動き出した。
「そういえば雨谷さん、まだ戻っていませんね。防潮扉は閉まっているようですが」
長戸所長がつぶやく。
「確かに。足元も悪いし心配だ。ちょっと見てくる」
そう言って長戸と岩木は部屋を出た。
すると大鳥も雨合羽を羽織り、玄関から飛び出していく。
「ちょっと、どこ行くのよ!」
大鳥はブロックが並ぶ場所へ走り、ちょうど彼女のそばにブロックが降ろされる。
「危ない!潰されるよ!」
追いついた私は彼女の袖をつかんだ。次の瞬間、クレーンのフックが私たちの頭上をかすめる。
その刹那、背中に衝撃が走った。
「ぐへっ——」
肺の空気が抜け、私は濡れた地面に顔から倒れ込む。見上げると、大鳥が宙へ跳び上がっていた。人の背中をジャンプ台にしやがったのだ。
彼女は片手でクレーンのフックをつかみ、空へ舞い上がっていく。
「何してんの!?」
私は後を追う手段を探した。フックに飛びつく? 無理だ。冷静になれ。あの円楽氏だって上まで登ったんだ。方法はあるはず。
すぐに見つかった。マストに取り付けられたエレベーターだ。
私は飛び乗り、エレベーターは一気に150メートル上空へ私を運んだ。
◆
エレベーターを降りると、色とりどりのブロックで築かれた城の内部に足を踏み入れた。右側には高さ二メートルの壁、左側には同じ高さの崖。一メートルは一命取るの法則に従えば、私は二度は死ねる高さ。大鳥を探そうと、通路をそろりと進み始める。
上から見るとよく分かるが、これらのブロックは完全な立方体ではない。四辺にジグソーパズルのような凸凹が刻まれ、前後左右のブロック同士が噛み合う仕組みになっている。ただしジグソーパズルと異なり、各辺に凸と凹が点対称で交互に配置されている。中心から見れば、左が凸で右が凹。四方向すべてで連結できるように設計されているのだ。
ブロック同士を接続する大きな理由は座屈の防止にある。座屈とは、高く積み上げた構造物が崩れる際、最上部からではなく中ほどから折れる現象を指す。ゲジゲジのないストローを上下から強く押し込むと、わずかな偏心で真ん中がポキリと折れる。積み上げたコンクリートブロックにも同様の危険があるため、隣接ブロックと連結し、接触面積を増やして座屈を抑えている。
もっとも、コンクリートは引張強度が高くない。最悪の場合、凸部が根元から折れる。この点を保安監督部は繰り返し指摘してきたが、重力蓄電所側は、レーザー測量とソフトウェア制御でわずかなズレも検知し、即座にブロックを下ろして積み直しているから問題ないと強弁している。だが、安全軽視で幾多の労災を招いてきた岩木が、本当にそこまで手間をかけるかは疑わしい。
ブロックにはもう一つ特徴がある。中心部にフラスコのように奥へいくほど広がる空洞が穿たれており、クレーンのフックは雨傘と同じ構造でそこへ差し込まれる。油圧でフックを開けば内部に引っかかり、吊り上げられるというわけだ。開く方向に荷重がかかるため故障に強く、量産も容易である。海上コンテナで使われる四点ジョイント方式は角度制約があるが、この円形構造ならどの向きでも持ち上げ可能──重力蓄電所には打ってつけだ。ただし、その空洞ゆえにブロック上面は歩行に向かない。
「おーい、大鳥さーん!」
◆
言うことを聞かない後輩に、私は改めて自分が対人関係、とりわけ話し合いが苦手だと痛感した。
その自覚は小学校の遠足の日に芽生えた。学年で訪れた科学館には、発電する廊下というものがあった。子供が歩くと床が光る、そんな面白い展示だった。
教室へ戻ったあと、担任が言った。
「今日学んだことをどう生かせるか、話し合いましょう」
ある女の子が手を挙げる。
「あの発電する床を車道に敷けば、エコになると思います!」
思わず口を突いてしまった。
「無駄じゃない?」
するとガキ大将のような男子が立ち上がった。
「そうだ、エコなんて無駄だ。温暖化はウソだってYouTubeで見たぞ!」
いや、私はそういうことが言いたいんじゃない。車はガソリンで走るのだから、わざわざエンジンを回して車輪を回して床を踏んで発電するより、最初からガソリンで発電した方が効率的じゃないかと言いたかっただけだ。温暖化対策が無駄だと言ったわけではない。
けれど、一度傾いた空気は戻らず、全部無駄がクラスの結論になった。
それ以来、私のディスカッションはことごとく失敗続き。就活でも、グループワークで私と同じ組に入った就活生は全員その回で落ちるという伝説ができた。
そんな私は、後輩ができると浮かれていたのだから滑稽だ。先輩後輩だって一種の人間関係だ。どうせ無理なのだ。庁舎へ戻ったら、やっぱり先輩業は無理でしたといおう。一年半、何一つ成し遂げられなかった私が言うんだからみな納得するだろう。
「おーい、大鳥さーん!」
「ここだ」
かすかな声が返る。
「どこー?」
「ここ」
「いま何が見える?」
「空」
埒が明かないし、声を張るのも疲れてきた。
「通話しよ!」
風に混じって小さな「っ」が聞こえた。
「今、舌打ちしたよね! 今、舌打ちしたよね!?」
「……Teamsでいいか?」
「バカなこと言ってないでLINE教えなさいよ。ID言うからかけて!」
こんなあからさまな拒絶は初めてだ。
少しして通話がつながった。
「海を正面にして、どの塔?」
『真ん中の手前』
「同じね。マストはお腹側? 背中側?」
『背中側』
「じゃあ反対だね」
位置を確認し合い、なんとか緑色のブロック一つを挟んで向かい合える場所までたどり着いた。距離二メートル、壁の高さも二メートル。
しかし、このたった二メートルが厄介だった。左右にはさらに高い壁が立ちはだかり、懸垂でも届かない。凹部に足を突っ張って登ろうとしても、低摩擦塗料が邪魔をする。SDGsの恩恵のせいで這い上がれない。
そのとき、緑のブロックの上から袖が垂れた。
「つかまれ」
大鳥が自分の作業服の袖の片方をこちらに投げたのだろう。確かに、どちらかがもう一方を滑車のように引っ張れば簡単に登れる。賢い。だが、女性ものの作業着の袖から袖まで2メートルもあるはずがない。と言うことは、彼女はおそらく。
「あんた今なんて格好してんの?」
「いいから早く」
ロープを握り、私はよじ登った。ブロックの上から見下ろすと、大鳥はズボンを握ったまま壁に足を掛けている。
「うわ、そんな格好で登ってくんな!」
思わず手を放してしまったが、大鳥は軽やかに着地し、「濡れてて気持ち悪い」とぼやきつつ服を着直した。彼女を引き上げながら問いただす。
「どうしてこんなことしたの?」
「気になったんから。上に何があるか」
「コンクリートしかないに決まってるでしょ」
「そうとは限らんだろ」
「危ないじゃない、こんなところ!」
頭上では今もブロックが行き交っている。
「お前もここにいる」
「先輩だから。華羅を守るのが仕事。さ、帰るよ」
私は渋る後輩の腕を引いて歩き始めた。途中、互いの背中を踏み台にしたり、両手にぶら下がったりしながら山を越え谷を越え、ようやくエレベーターへ戻った。
「あと、私はミサ」
「だから?」
「私のことはミサって呼びなさい」
「ミサ」
「よし」
◆
事務所へ戻った。
蟻子と円楽は残っていたが、雨谷の姿は見当たらない。
そこへ長戸が戻り、皆に告げた。
「雨谷さんがブロックの隙間で倒れているかもしれません。これから一つずつブロックを上げて確認します。危険ですので、全員ここで待機しててください。絶対にタワーには近づかないで」
「操縦やります」と蟻子がサーバールームへ向かいかけたが、長戸が制した。
「いや、私がやろう。万が一の時、君に責任を負わせたくない」
長戸がサーバールームに入ると、部屋には私たち四人だけが残った。
「所長は雨谷さんが下層にいると考えているんですか?」
私は蟻子と円楽に尋ねた。
蟻子が身を乗り出し、「説明しますね」と口を開いた。
「まず防潮扉についてです。この敷地は満潮時の海面とほぼ同じ高さにあります」
「普通、もう少し高くするものじゃない?」
私は首をかしげた。
「元は船舶部品の工場だった土地だそうで、安く再利用したらしいですよ。で、堤防に面していない三方は、高さ二メートルの防潮壁でぐるりと囲まれています」
「じゃあ入った水は出て行けないわね」
「ええ。雨水や波が溜まるなので、一カ所だけ金網にして排水路を確保しているんです」
「でも今日みたいな高潮の日は、そのフェンスから海水が全部入って来ちゃうね」
「だから防潮扉があるんです。必要なときは手作業で閉めます。電動じゃありませんから、誰かが行かなければなりません」
次に蟻子は下層のブロックについて説明した。
「下層に並んでいるブロックは角度もバラバラで隙間も多い。いったん入り込むと、慣れた人でも脱出は難しいかもしれません」
「どうして雨谷さんがそんな所に?」
「外側を回るのが面倒で、ブロックの上を横切ろうとして足を滑らせたのかもしれません。隙間に落ちた可能性は否定できません」
「電話は? 気を失っているならともかく」
「二メートルのコンクリートは電波をほとんど通さないので。一応 Wi‑Fiのアンテナを各所に設置していますが、死角が完全になくなるわけではなくて」
なるほど、状況はおおむね把握できた。
「だから今、岩木さんが現場を確認しつつ、長戸さんがブロックを一個ずつ上げているんだと思います」
◆
それから数時間。私たちは事務所で声ひとつ発せずに待ち続けていた。
沈黙を引き裂いたのは、爆弾が炸裂したかのような轟音だった。私は咄嗟に両耳を押さえる。コップが震えたのか視界が歪んだのか。
サーバールームの扉が開き、長戸が飛び出してきた。
「すごい衝撃だったな」
私たちは顔を見合わせる。音源は窓の外、海に向かって左前方らしい。
長戸が玄関へ駆け出した。華羅、私、蟻子、円楽の順で続いた。
下層にはもはやブロックがほとんど残らず、足元はがらんとしている。
異変はすぐ目に留まった。海側左端の1号機と中央の2号機、その中間で緑色のブロックが真っ二つに割れている。破片は四散し、コンクリートの床は深く抉れ、鉄筋がむき出しだ。その斜めに裂けた断面に、老人が横たわっている。血を流したまま、微動だにしない。
ブロックが落下したのだ。
ブロックの天面にはクレーンのフックから伸びるワイヤが垂れ、見上げれば、フックを失ったワイヤが高所で風に揺れていた。
私は思わず頭上一五〇メートル、お皿に並ぶブロック群を仰ぎ見る。
「死んでるの?」
誰かの震える声。
華羅が老人に駆け寄り、全身を確認して手首に触れる。
「触っちゃダメ!」
私は慌てて彼女の脇腹を引っ張った。
所長が前に出る。ポケットから軍手を取り出し、血に触れぬよう岩木の首筋へ指を当てた。
「亡くなっています」
所長は一歩退き、軍手を外しかけて思い直したように再びはめ直す。そして血に濡れるのも構わず、岩木の両肩を強く揺さぶった。
「岩木さん、岩木さん……ダメか」
沈痛な空気が辺りを包む。
「あ、防潮扉が開いてるぞ」
円楽が声を張り上げた。フェンスの向こうまで海面が迫っている。
防潮扉は壁の内側に横スライド式で設置されている。円楽は駆け寄り、扉を閉めた。
その後、所長の指示で私たちは事務所へ戻ることとなった。
帰途、濃紺のブロックの陰から助けを求める声が上がる。雨谷氏だ。こうして彼女は無事に救出された。
聞けば、彼女は防潮扉を閉めた帰り、本来なら下層を迂回すべきところを近道しようとして、降りてきたブロックに囲まれ抜け出せなくなったという。
彼女は「防潮扉は閉めた」と証言する。しかし現実には開いていた。いったいどういうことなのだろうか。
◆
所長の背中を追いながら、少し後ろを歩く円楽と蟻子が、ひそひそと話していた。
「やっぱり、胡散臭いよな」
「まあ……そうかもしれませんね」
気になって、私が口を挟む。
「何の話ですか?」
円楽が振り返った。
「原園さんだっけ? 経産省なら、うちのオーナーの悪行は耳に入ってるだろ。あいつが死ぬときは殺されたときさ」
確かに、オーナーが興した会社はどれも労災の多発と強引な営業で世間の顰蹙を買っていた。
「律の家も、その被害者なんだぜ」
円楽の視線を受け、蟻子が微笑みを浮かべる。
「うちの親は、ソーラーパネルで破産しました」
どこか晴れやかな口ぶりに、私は少し面食らう。
「ソーラーパネル破産ってご存じですか?」
「補助金を当てにして高価なパネルを導入したものの、売電収入が伸びずに行き詰まる、あれですよね」
「ええ。岩木さんはもともとソーラーパネルの販売業者でした。彼は土地を所有する人々にひたすら営業をかけ、契約を取ると、一件ずつではなく一挙に着工しました。ソーラーパネルの設置費用は固定ですが、売電価格は他人の発電量によって変動するため、設置者が増えるほど利益は薄くなり、やがてパネルが売れなくなります。そこで彼は『現在の電力市場価格なら、年間これだけの利益が出ますよ』と説得し、十分な資金を集めたところで一気に工事を進めたのです。その結果、岩木さんからパネルを購入した人々は誰一人として利益を得られず、大きな借金を抱えることになりました。とはいえ、個人の力ではどうにもならない電力問題を、人々を一致団結させることで部分的に解決したのですから、彼は偉人です。クフ王とかそういうジャンルの」
蟻子の口調は、50も年上の老人を小馬鹿にしているようだった。
「ご両親も引っかかったんですか?」
「ええ。だから僕は、自分の腕で稼ぐしかないんです」
自己陶酔じみたセリフだ。私が彼に会った当初から抱いていた不快感は、まさにこれである。自分の能力で稼いでいるという誇りそのものは悪くない。だが、何者かになりたい、少し特別な存在でありたい、という高校生の欲求が、こんな形で満たされていることに対して、大人として心配だ。たとえるなら、ステーキガストで無邪気に走り回る子どもを眺めるときの。
「そして今度は、昼間0円の電気を買い取って、夜に1kWh当たり100円で売る事業を始めた。岩木さん、本当に天才ですよね」
円楽が、今度は幸薄そうな女に話を振る。
「雨谷さんも同じじゃないのか?」
雨谷は小首をかしげ、私に視線を向けた。
「私ですか?」
円楽が説明を続ける。
「雨谷さんは元々、岩木の紙再生工場で働いてたんだ。ああいう職場は粉塵と薬品だらけで、アレルギーを起こす人が多いんだよ。雨谷さんも症状がひどくて、ここに異動になったんだ」
本当なのかと目で問うと、雨谷は「ええ、まあ」と小さく頷いた。
「かなり過酷な環境だったらしいよ」
円楽がため息交じりに言うと、雨谷は再び「ええ、まあ」とだけ返した。
◆
事務所へ戻ると、長戸が状況を説明した。
「ご説明いたします。岩木さんは全体を確認するため上層へ上がり、まず1号機に、次いで2号機へ移ろうとしました。本来なら一度エレベーターで降りてから再び昇るべきところを、急いでいたため二基のクレーンが吊るしたブロックを橋代わりにしたんです。ところがその瞬間、ワイヤが切れ、ブロックもろとも転落しました。これは、全て我々経営陣の責任です。警察と消防にはすでに連絡してありますが、大雨による冠水で緊急車両はすぐには来られません」
「つまり僕たち閉じ込められたってことですか?」
高校生の声が弱々しく響いた。
「そのとおりです。この先、怪我人が出ても救急車は来られません。絶対に安全第一で行動してください。それと警察の指示により現場には触れないようお願いします」
「でも岩木さんをあのまま放っておくんですか?」
「かわいそうじゃないですか」
口では非難しながらも、従業員たちの表情はどこか他人事だった。
「警察の指示ですので」
それなら仕方ない、とみんなの安堵が伝わってきた。死体だ。それも酷く損傷した。
だが言い聞かせても保安監督官として腑に落ちなかった。もちろん、岩木のことなんかどうでもよかったが、保安監督官として見過ごせないことがあったのだ。
「長戸所長」
「はい」
「あのブロック、本当にさっき落ちたんですか?」
「ええ、そうですよ」
私は納得できず言葉を選ぶ。
「何が気に食わないんだ」
円楽は噛みつくようでいて、続きを促す口調だった。
「私、上層に並んだブロックを見ていたんです」
「数が合わないとか?」
「いいえ、色です。一番上の段は左から、赤・黄土色・臙脂・朱色・水色・黄色。隙間なく並んでいました」
「だからどうした。適当に置いただけだろ」
「その配色はSDGsのロゴの順番なんです。黄色は目標2『飢餓をゼロに』。臙脂は目標4『質の高い教育をみんなに』。その間にあるはずの緑の目標3『すべての人に健康と福祉を』があるはずなんです。それが落ちていました」
「だからたまたまだって」
「そうとは限りません。他の場所ではだいたい順序が守られています」
「それだけで、あのブロックが落ちたのは今日出ないと言い張るつもりか」
円楽は深い溜息をついた。根拠が弱いと落胆しているようだ。
「だから私は最初、本当にこれは今落ちたブロックなのかと疑いました。疑ってみるといろいろ怪しいんです。飛び散ったブロックの、濡れ方とか乾き方とか。警察が本気で調べれば必ずわかります。だから今、本当のことを教えてください」
所長は首を振るだけだった。
「機械のログは? 残ってますよね」
蟻子がサーバールームを指した。
「ありますが、お勧めしません。ログなんてHDDの0と1です。僕ならダミーデータを仕込んでから犯りますね」
もう道は尽きたか。そう感じた刹那、華羅が口を開いた。
「系統出力のログ」
私は膝を叩いた。
「そう。送電系統のログがある。電気保安監督官の権限で確認できます。これはどんな手を使っても書き換えられない。送電業者や私たち公務員にも、改竄は不可能です」
長戸の顔色がわずかに曇る。
ノートPCを開きSQLを叩く。仮説どおりなら、ここ数日、満充電時より150m×0.184t×gx回生効率で27MJくらい、発電が少ないはずだ。
SELECT 日付, SUM(出力) as 日付ごとの出力
FROM (
SELECT
CAST(時刻 AS DATE) AS 日付,
出力
FROM 民間業者系統出力
WHERE 時刻 > CAST(”2035-06-01” AS TIMESTAMP)
AND 発電所 = “鹿島第一重力蓄電所”
) as 日付ごとの発電量
電気代は天気で変動するが、蓄電所に貯められる位置エネルギーは変わらない。1ヶ月前は77051MJ。そこから24日間一定だ。ここからわかるのは、この施設の回生効率はちょうど90%であるということだ。ということは、ブロックが落ちたのが今日なら、昨日の発電量は77051MJ、77027MJ。このどちらかのはずである。
ところが予想はそのどちらとも違った。七日前、出力が突如76384MJに落ち込んでいた。
「あれ?」
「どうした?」
頭の中で計算する。
「1個じゃない。27個足りない。一週間前から下ろされていないブロックが27個ある」
結局、その27個とはなんなのか、答えられる者はおらず、その場は散会となった。
◆
「ねえ、華羅」
彼女がちらりとこちらを見た。
「あなた、何か知ってるんでしょう?」
「……別に」
「本当は気になっていることがあるんでしょ? 私が気づく前から所長を疑っていたように見えたもの」
しかし華羅は答えず、私の脇をすり抜けて行った。
「ちょっと、どこへ行くの?」
「別に」
「別にじゃないでしょ!」
返事のないまま彼女は玄関から外へ出て行ってしまった。もう放っておくことにする。
◆
私は私で、調査を続行することにした。
まずは高校生の蟻子律に話を聞く。サーバールームには彼と長戸所長が並んでいた。
「蟻子さん、ここではどんな業務を担当しているんですか」
「平たくに言えば、ブロックをできるだけ低く敷き詰める仕事です」
凸凹すぎた。眉をひそめる私を見て、蟻子は嬉々として説明を始めた。
「塔の仕様ですが、お皿の半径が九メートル、クレーンのリーチが十五メートルです。したがって下層の面積は」
(15×15)π−(9×9)π=
「144π」
「そのとおり。発電時には上層のブロックを下層へ降ろします。このとき下層が五段になるより四段に詰め込んだ方が発電量が増える。要は円充填問題ですね。そこで鍵になるのが二つ。第一は塔同士の間隔。クレーン同士がぶつからないように十五メートル以上離すとしたら?」
「三十メートル間隔」
「そう。でもその配置では非効率な点がある。何が問題かわかりますか」
「ダイヤモンドができる」
「正解です。どのクレーンにもアクセスできない、ダイヤ形が生じるんです。対策としてY軸方向に十五メートルずつ塔をずらして蜂の巣状に配置する手もありますが、不動産はふつう矩形で取引されるので端に大きな余白ができるのは好ましくない。そこで所長が提案したのが、塔間隔を二十四メートルにして、その隙間六メートルを共有地とみなす案。このレイアウトならダイヤ領域をほぼ消せます」
蟻子はそこで息継ぎをした。
「第二のポイントは角度です。お皿の上は隙間なく詰める必要があります。面積を最大限に生かし、またブロック同士をジョイントして座屈を防ぐためです。しかしタワークレーンは吊り荷を回転できません。つまり下層ではブロックをきっちり詰めるのを諦めざるを得ない。下層のブロックがばらばらを向いているのは、そういう理由なんです」
「要するに、この充填問題の難所はブロックが回転する点と、共有地をどう活用するかという二つなのね」
「はい、そのとおりです。それを解いています」
満足そうな長戸所長に私は話を振った。
「所長もプログラミングを?」
「多少は。この施設の初期プログラムは私が書きました。ただ私のコードでは七段が限界で。それを蟻子くんが改良してくれたおかげで、日々の売り上げが数万円も増えた。本当に彼は天才ですよ」
「ありがとうございます。では最後に。七日前、蟻子さんはこの場所で何をしていましたか」
蟻子は小さく首を振る。
「その日は来ていません。ちょうどテスト週間で、ここに来るのは七日ぶりでした」
そうだったのか。
◆
礼を述べて部屋を辞した。
「って話だったんだけど、どう思う?」
「知らん」
華羅は塔上、160メートルの高さでブロックの上をうろついていた。所長とオーナーが雨谷を捜索するためにブロックをほぼすべて上げたせいで、塔は満充電状態だ。私は華羅より一段高いところでブロックに腰を下ろした。祖父の畑仕事を眺めるけど手伝わない孫みたいだ。
「私ね、円に正方形を詰め込む問題を円充填問題って呼ぶのかなってちょっと気になったの」
「そんなの幾何学界隈の内輪ルールだろ」
「そうだけどさ。普通、中に入れるほうで呼ばない? 正方形に円を入れるなら円充填っていうし、円に正方形を入れる場合は正方形充填って言いそうだけど。まあ慣例の問題で、数学的に正誤はないんだけどね。なんとなく、あの子、ちょっとズレてる気がするなぁ」
「ミサ、お前は蟻子律を天才だと思うか?」
「どうして?」
「タワーが八台止まった」
「だから?」
「共有地、向き」
「そういうことか。華羅、鋭いね」
この施設に来た直後、七号機のブロック上に枝が落ちた際、九台すべてのクレーンが停止した。一機だけ止めれば十分なのでは、と私も疑問に思った。安全のためという理屈は分かるが、守銭奴の岩木高重が進んでそんな判断を下すとも思えない。
理由はおそらくこうだ。
クレーンは吊り荷を回転できない。そして、発電時に下ろしたブロックは、蓄電時に必ず同じ向き・同じ場所へ戻さねばならない。
たとえば上層A地点(方位0°)にあったブロックを、下層B地点(左へ15°)へ移動させると、ブロックは15°回転する。BからAに戻すときは-15°、つまり0°に戻る。他の位置には置けない。厳密にはマストとAを結ぶ線上、あるいはそこから90°回転したライン上のみだ。
よってブロックの移動順序は厳しく制約される。しかも共有地があり、タワーMがブロックXを動かそうとしても、その上にタワーNのブロックYが載っていれば作業できない。一台止めるのに九台停めた理由は、おそらくそのためだ。
とはいえ。私なら動的に順番を組み替えるプログラムを書けるし、邪魔なブロックを一旦どかす手もありえる。だが蟻子にはそれが書けなかった。少なくとも現状では。
「責めるのは酷だと思うが」
「だよね。つまりさ。彼は家が貧しくてバイトしてる高校生に過ぎないのに、周りが天才だ天才だって煽てるから、背負わなくていい重荷まで背負ってるんだよ。本人も辛いと思うよ。円楽さんに掃除を頼んだときの申し訳なさそうな顔とか。自己評価と現実がズレすぎてて、そのうち病むんじゃないかな」
「行き過ぎれば。けど、人生にそういう時期も必要だろう」
「そうかな。係長が言ってたのよ。期待は人を狂わせるって。『うちの会社は君のおかげだ』なんて大人に言われて張り切ってる高校生、普通に心配じゃない?」
「ま、学校には行っているらしい。大丈夫だろ」
「それはそうか」
◆
私は円楽蓮太を個室に呼び、静かに向かい合った。
「まず、ふだんの業務を教えてください」
「点検、微調整、そして壊れたときの修理だ」
「点検はいつ行うんですか?」
「未明だな。ブロックをすべて降ろし終えてから、持ち上げ始めるまでのあいだにやる」
「円楽さん以外で、その細かな作業まで担当できる人は?」
「ざっくりなら皆できるが、細部まで手を入れられるのは所長くらいだ」
私はメモを取りつつ畳みかける。
「直近7日間、何か普段と違う出来事は?」
「実は休みだった」
「ちょうど7日前も?」
「その日は……休みだった」
わずかな逡巡。嘘だ、と直感する。
「俺を疑ってるな? もうこの蓄電所の不利になることは何も話さないぞ!」
「いえ、事実を確認しているだけです」
二十代半ばの男は机を叩き、まくし立てる。
「俺には食わせなきゃならない子供が三人いる。ここを止めてみろ?子供三人の将来が宙ぶらりんだ!」
「ですが、見過ごせないこともあります」
「そもそもお前ら、最初からケチばかりつけやがって!」
「電力の安全を守るのが私の職務です」
「電力供給の安全を守ってるのは! 俺! た! ち! 俺たち!」
円楽は床を踏み鳴らした。
「涼しい部屋で鉛筆を舐めるだけの連中に、臨海の現場が分かるか!俺はな、この工業地帯を守るためなら、腕の一本二本くれてやったっていいんだ」
深く息をつき、彼は続けた。
「お前らも岩木ヒカリと同じだ」
突然飛び出した名に、私は目を見開く。
円楽の声はさらに熱を帯びた。
「面識あるんですか?」
「あるに決まってるだろ。あいつもここの従業員だよ」
岩木ヒカリとは。30歳くらいになる岩木高重の娘である。彼女も人工光合成事業を経営している。
「あいつは、ろくに働きもせず、塔に登ってはTikTokを撮影してばかりいる。正直、目障りだ。
そもそも人工光合成ってどうなんだ?同じCO₂を再利用するなら、人工光合成よりメタノールを合成したほうがエネルギー効率が高いって知っているか?」
「まあ」
「だったら、どうしてあんな施設に補助金をつぎ込むんだ?」
化学に詳しくなさそうな偉い方々が決めた、とはさすがに言えない。
「その金は誰が稼いでいる? 工業だろ、日本を支えているのは。製鉄所だ。ところがCO₂回収を義務づける法律を作って、そのコストを製鉄業者に押しつけている。そのCO₂にはただ乗りして、光合成プラントを建て、資金まで税金で賄う。あべこべじゃねえか」
円楽はますます熱を帯びる。
「火力発電所だって同じだ。意識高い連中はやたら敵視するが、あれほど確実に生活を支えている発電所はない。臨海の火力が故障したせいで、この界隈の工場は次々と倒れたんだ。SDGsの1番目、知ってるか?」
「貧困をなくそう」
「そうだろ? それなのに火力を止めたせいで臨海に失業者があふれ、子どもたちは腹をすかせたまま眠っている。おかしいと思わないか。CO₂なんて気にせず、もっと火力発電増やして、工場をフル稼働させたほうが、みんな幸せになれるはずだ」
「いや、そう言われましても……」
火力発電縮小は政府の決定、というのは少し正確さを欠く。形式上は電力会社の判断だ。ただ、炭素税導入の機運が高まったために電力会社は増設に二の足を踏み、その間に発電所が一基、また一基と老朽化で停止した、という話ではある。また、火力は建設に数年を要し、その間の技術進歩を見通せなければ踏み切れない。全固体電池の量産が間もなくと言われつつ思うように進まなかったこともあり、今では「あの時に火力を増設しておけば」とほとんどの関係者が振り返っている。
「お前も官僚様なら、そう思うだろ?」
「いえ、私は官僚というより」
一般には「官僚」といえば霞が関の総合職を指す。技官はふつうそう呼ばれない。
「私たちはただの歯車にすぎません」
「それでも、俺よりは日本でいちばん偉い人に近い場所にいるんだろう? 仕事を伝えるのが歯車なら、俺の反力をちゃんと伝えてくれよ。火力を動かしてくれよ」
まずい。あの日と同じ流れになってきた。
◆
「そんな過去があったのよ」
私は再び塔のラプンツェルのもとを訪れた。円楽とのやり取りを報告するはずが、いつの間にか昔話になってしまっている。
華羅が返事を寄越すまで五秒。無視されはじめたのかと不安になったころ、ようやく低い声が返ってきた。
「災難だったな」
「ほんと災難よ。私の人生ずっとこんな調子。いまは『安全な所で大人しくしてて』って言っても聞かない後輩に振り回されてるし」
「それは後輩が悪い。気を病むな」
「で、円楽さんの話を聞いてどう思った?」
「高炉って、火を入れるのに三か月かかるらしい」
「それ関係あるの?」
「さあ」
「つまり、深夜は電気代が高いからって止めるわけにいかないってこと?」
「たぶん」
「じゃあ仕事は減らないじゃん。どうやって朝起きてるんだろう」
「頑張ってんだろ」
所長の言葉がよみがえる。『彼は鹿島製鉄所の一流技師だ』。円楽も、あの高校生と同じく、身の丈を超える期待を背負わされているのかもしれない。
「でも、結局事故を起こしているわけでしょ?」
七日前に点検を担当したのが円楽で、その日に落下事故が起こったなら、責任は彼にある。
いくつもの床を覗き込んでいた華羅が、突然背筋を伸ばし振り向いた。
「工業ってのはな、どんな優秀な技師でも、どれだけ対策しても、事故るときは事故る」
「じゃあ前を向くしかないじゃない」
「私に言うな」
そりゃそうだ。
華羅はふいに向き直り、尋ねてきた。
「むしろ長戸の業務量、やばくないか?」
「言われてみれば。円楽さんと蟻子くんがいなかった間、クレーンの整備も操縦も全部ひとりで回してたんだよね。名ばかり管理職だ」
長戸所長は、部下の期待を巧みに操る天才である一方、自分自身も肩書きを杖にして死の行軍を続けているのだろう。
「で、華羅。あんた何を探してるの?」
「……なんも」
◆
次に、私は雨谷霧子のもとへ足を運んだ。
「雨谷さん」
背後から声を掛けてみたものの、彼女はスマートフォンの画面に視線を落としたまま、こちらにまったく気づかない。そっと肩越しに覗くと、高校の入学式らしい一枚の写真が映っていた。制服姿の少女と、その父親と思しき男性が、校門の柱を挟んで並んでいる。
タイミングを計りかねて立ち尽くしていると、雨谷がふいに振り返り、私が覗き込んでいたことに気づいてしまった。
「あっ、ごめんなさい」
私があわてて謝ると、彼女は照れくさそうに微笑んだ。
「この子がね、今の私の唯一の希望なんです」
「そうなんですね」
「英語が得意で、いつかそれを生かせる道に進ませてあげたいんですよ。そのためにも、少しでもお金を貯めなくちゃって」
「応援しています。ところで、今、今回の事故について皆さんにお話を伺っているんです」
私が切り出すと、雨谷は小さくうなずいた。
「円楽さん、急に熱くなるでしょう?」
「ええ、そりゃもう」
「仕事熱心な人ですからね。ここに来た当初は『どうしてこんな不格好な建物を造らなきゃいけないんだ』と相当憤っていました。電気代の高騰で臨海一帯が困窮していると知り、『こんな社会はおかしい』とも。彼にとってこの場所は、ゆがんだ社会の象徴だったのでしょう。けれど『この塔のおかげで夜の仕事が少し戻ってきたんだよ』と言われて以来、本当に一生懸命働いているんです。」
「なるほど。そういえば、円楽さんから岩木ヒカリさんもここで働いていると伺いました」
「はい、とても優しい方ですよ」
ご令嬢の話題になると、雨谷の頬がふわりと緩んだ。
「仕事は全部ヒカリさんに教わったんです」
「けれど円楽さんは、ヒカリさんはあまり働かないとも言っていました」
「そういうわけではないんです。二人とも熱心すぎて、そりが合わないだけでしょうね。円楽さんは黙々と頑張るタイプ、ヒカリさんは皆を集めて元気出してこう! ってタイプ。そんな違いです」
「なるほど。今日は姿が見えませんね」
「ええ、実は一週間ほどお見かけしていないんです。人工光合成の事業が忙しいのかも。オーナーや所長には連絡が入っていると思っていましたから、特に気にしていませんでしたけれど」
「最後にもう一つだけ。私は、あのブロックが一週間前に落ちたものだと疑っているんですが、もしそうだとして、従業員の皆さんが一週間も気づかないことはあり得るでしょうか?」
「誰かの意図があったのなら、あり得ると思います。下層の一段目は最後まで上がりませんからね。ブロックの上げ下げの順番を工夫すれば、完全に露出するのは日が傾いてからの一〜二時間だけですし、事務所からは塔の脚が重なって死角になります」
「なるほど。ありがとうございました」
私は深く頭を下げた。
◆
「その子、ほんとに可愛かったんだよ。鹿島港高校でね、英語が大好きなんだって」
「その才能、活かせるといいな」
「まあね」
「まあな」
「本気で思ってる?」
「偏差値35の学校だって、一科目くらいが得意な子はいるだろ。それが偏差値50なのか60なのか。知るチャンスないじゃん。周りの大人も。本当はもっと得意かもしれない」
「全国模試とか受ければ分かるでしょ」
「偏差値35の学校じゃ全国模試なんてやらないさ」
「そうなのか。でも華羅、鹿島港高校の偏差値よく知ってたね。もしかして制服で選ぶタイプ? あそこ、本当に制服が可愛いし」
華羅は顔を伏せた。よほど気恥ずかしいんだろう。
◆
私は塔を降り、不審な点がないか敷地内をくまなく見て回った。まず目に飛び込んできたのは防潮扉だ。
防潮扉は金属製で、内側へスライドして閉まる仕組みになっている。その表面には所々コンクリート片が突き刺さっていた。おそらくブロックが落下した際に跳ねた破片だろう。扉の右手に視線を移すと、扉と同じ長さだけ損傷のない壁が続き、そのさらに右側の壁面には再びコンクリート片が刺さっている。
取っ手にも目を凝らす。擦れて薄くなった血痕がわずかに残っていた。これでおおよその状況は読めた。
ふと顔を上げると、塔の上部からかすかな煙が立ちのぼっている。嫌な予感。私はエレベーターに飛び乗り、塔の頂上へ向かった。
その途中、携帯が鳴る。増永係長からだ。
『原園、お前はいま危険な場所にいる。すぐにそこを離れろ!』
「え、いきなり何ですか?」
問い返す暇もなく、エレベーターはお皿の高さに到達した。分厚いコンクリートブロックに囲まれ、電波は途切れる。
視界が再び開けた瞬間、私は息を呑んだ。二メートル角のブロックが白煙をもうもうと噴き上げている。ところどころ赤黒く染まり、不気味に脈打つように見えた。血の匂い。
私は慌てて華羅に電話をかける。
「モクモクしてるブロックを見つけた! どうすれば」
『ミサ、今すぐ離れろ!』
耳にしたことのない切迫した声。次の瞬間、視界が暗転し、私は意識の淵へと落ちていった。
◆
「それで、いつかそのフェスに行ってみたいんですよ。名古屋の庄内緑地公園駅ってところでやるんですけど」
少年の声が耳に届く。
「名古屋駅から丸の内駅で乗り換えて四駅だ」
応じたのは華羅だ。
高校生が得意げに旅程を語り、華羅が相槌を打っているのだろう。
私はソファに横たえられていることに気づき、ゆっくり上体を起こした。周囲には華羅、長戸所長、円楽、蟻子、雨谷。全員がそろっている。
華羅がこちらへ顔を向けた。
「大丈夫か?」
「うん。運んでくれたの?」
礼を言おうとした瞬間、誰かが叫んだ。
「浸水してきたぞ!」
床はみるみる海水に呑まれていく。
最初は椅子の上に正座してしのごうとしたが、水位は上昇しつづける。
「これ、どこまで来る?」
「防潮堤を越えてるんだから二メートルまでは確実だ。太平洋がここの敷地広い場合は」
「狭い可能性に賭けたいわね」
願いもむなしく、事務所はあっという間に二メートル近くまで浸水した。私たちはソファを立て、棚の上によじ登りながら必死に耐える。
数時間、まるでチェシャ猫のように書架の上で身を潜めた。気象庁の台風通過の報を信じて屋根を突き破り、外へ這い出た。
眩しい朝日が差し込む。
防潮壁に囲まれた構内だけが取り残された水盆となり、敷地内の海水面は外海より高い。
「防潮扉を開けてくる」
長戸所長が水面へ飛び込もうと身構える。私はその肩をつかんで制した。
「待ってください。事件について話をさせてください」
「今でなければ駄目なのか?」
「ええ。証拠を保全するためにも、どうしても」
全員がうんざりした視線を寄こす。
「……手短に頼むぞ」
「では、順を追って説明しましょう。まず事故が起きた本当の日付は七日前ですね」
「いや、さっき凄まじい音がしたじゃないか」
「おそらくBoseのホームシアターの音です」
「いくらBoseでも、あそこまでリアルな衝撃音は出せないだろう」
「Boseなら可能です」
「それにコップの水も揺れていたぞ」
「Boseなら水も揺れます。こんな心理学の実験をご存じですか。交通事故の映像を見せて『この車が〈衝突〉したときは時速何キロでしたか』と『〈激突〉したときは時速何キロでしたか』と尋ねると、後者のほうが速い数字を答えがちだというものです。長戸さんが部屋に飛び込んできたとき、あなたは『すごい衝撃だったな』と言いましたよね。普通なら音について触れる場面です。それなのに衝撃といった。つまり、思い込ませようとしたのです」
「さて、七日前の事故が公表できなかった理由。それは犠牲者が出てしまったからです。亡くなったのは岩木ヒカリさん。先ほど長戸さんが説明したように、彼女はコンクリートブロックを渡し板代わりに、一号機から二号機へ移ろうとした。しかしその瞬間、ワイヤが切れ、ブロックごと転落しました。十八トンの塊が百メートル落下すれば、地面は陥没し、鉄筋は裂ける。もはや隠蔽は不可能です。大手業者を呼んで補修するしかない。けれど業者に血痕や肉片を見られたら終わりです。そこで考えついたのが、同じ場所に家族を落とすこと。今時労災は袋叩きにされますが、オーナーが現場で安全軽視した結果の事故なら、世間も寛容に接してくれる可能性がある。しかも親子なら簡易鑑識もごまかせるかもしれない」
「ではヒカリさんの遺体はどこへ?」
「先ほど私はドライアイスの塊を見ました。あの中です」
「そんな物は存在しない」
「いいえ、確かに見たはずです」
「あなたはそこで気を失っていた。直前に幻覚を見てもおかしくない。本当に確認したいなら、皆で見に行きましょうか」
「もう消えているでしょう。海に投げ込む時間は十分ありましたから。そもそもそのドライアイスはどこから来たのか。七日前、この近所で八立方メートルのドライアイスが盗まれる事件がありました。犯人も品物も未発見。隠れ場所はここです。この一週間、二十七個のブロックが上皿に残ったままだと先ほど述べましたね。その理由がドライアイスです。二十七は三の三乗。中心に八立方メートルのドライアイスを置き、周囲を二十六個のブロックで囲えばぴったり二十七マス。コンクリートの熱伝導率は1.4 W/mKとすると。厚さ二メートルなら七日経ってもほとんど溶けません。目的は遺体の消失。遺体を隠すにはどうするか」
「最初に思いつくのは海へ捨てる。でも、これはすぐ発覚しますね。ブロックで潰すのは? 人間は繊維質多いので、シーツになるだけで、人間の残骸っぽさは残ります。だから、恐竜の胃石のようなものが欲しい。そこでドライアイスを使うのです。拳大に砕いたドライアイスを敷き、遺体を置き、その上からさらにドライアイスをかぶせ、その上にブロックを乗せる。凍っているからよく砕けるし、血も流れない。あとは高潮の日に地面へ落とせば、証拠は海水が洗い流します」
「だが君は今日、この発電所の電力出入りは外部にすべて記録されていると言った。もしドライアイスを下層に落としたなら、ブロック一個分、売電量が減るはずだ。実際はどうだ。ログを確認してみろ」
わたしは端末でログを開いた。確かに今日の送電量は77,204 MJ。落下していたブロックを除けば、すべてのブロックの位置エネルギーが売られている計算になる。
「ほら見ろ。エネルギー収支が合わない理屈など、似非科学と同じだ」
「いいえ、収支を合わせる方法はあります。ディーゼル発電でも用意しておけば、というのはありますが、私がログを見れることを教えたのは今さっきなので、あなたにそんな暇はありませんでしたね。ここにあるものだけで、ブロック一個を150メートル持ち上げるだけのエネルギーをどこから持ってきたのか」
◆ 読者への挑戦状
さて。長戸主任は、なんの準備もなく、ここにあるものだけで、ブロック一個を150メートル持ち上げるだけのエネルギーをどこから持ってきたのか、ぜひ考えていただきたい。
健闘を祈る。
谷江リク
◆
「浸水を利用するんです。まず下層の外周にブロックを隙間なく並べ、一つだけ余りを残します。その状態で敷地を冠水させ、余ったブロックをダイヤモンドゲームの要領で飛び越えさせる。水中で持ち上げる間は浮力が働き、乾いた場所へ下ろす際には塔の全高分の位置エネルギーを回収できます。この手順を全マスで繰り返せば、約 51 MJ。ちょうどブロック一個分を落とした時と同量の電力が得られる計算です。」
長戸が眉をひそめる。
「待て、向きはどうする? タワークレーンは回転できないだろう。そんなみっちり並べられない」
「二基を組み合わせれば可能です。たとえば目の前のブロックを10°回したいなら、まず左側のクレーンで5°傾け、そのまま向かいのクレーンに受け渡し–5°戻せば、結果として10°の回転が得られます。」
「理屈だけでは証拠にならん」
私は静かに頷いた。
「ええ、ではあなたが岩木高重を突き落として殺害したという証拠を出しましょう。壁です。防潮扉にはコンクリートの破片が刺さっていました。そして、その隣の壁には刺さっていなかった。そこから防潮扉と同じ長さの間が空いて、その隣にはコンクリート片が刺さっていた。つまり、コンクリートブロックが落下した時には、防潮扉が空いていたということです。しかし、雨谷さんは閉めたという。なぜ、みんなが駆けつけた時に開いていたのか。それは、しまっていたら矛盾してしまうから。だから閉めたんです。さて、長戸さんは岩木さんのご遺体に触れた時、軍手をされていましたね。一回目は血に触らないように、二回目は血に触れるように触りました。あえて、軍手に血をつけようとしたんでしょう。軍手に血がついていることに気づいたから。当然、あなたは岩木さんを殺害した時も、指紋が残らないよう、軍手をされていたはずです。その軍手に、いつ血がつくのか。それは岩木さんの血? いや、落とす前に血はつかない。防潮扉を開けた時についたんです。その前に防潮扉を閉めたのは雨谷さん。ご覧のように雨谷さんの指先は、勤労の証で少々荒れていらっしゃる。その血が軍手についているって、おかしいんですよ。それに気づいたあなたは、誤魔化す方法を考えた。もっと早く気づいていれば、海に投げ捨てることもできた。しかし、すでにみんなの視線が自分に集中している。なので、よりたくさんの血でカムフラージュした。長戸さん、あなたの軍手、警察が本気で調べれば雨谷さんの血が検出されるはずです、出してもらえますか」
差し出した手の上に、長戸は震える指で軍手を置いた。
「……降参だ」
「どうしてこんなことを?」
私が問う。
「ヒカリさんを死なせてしまったことを、岩木に言えなかったんです。あの人は私を見出し、チャンスをくれた恩人だ。それなのに、娘さんを私の管理下で死なせてしまった。言い出せなかったんだ」
「違います!」
円楽が叫ぶ。
「所長は悪くない。七日前、ワイヤーロープを検査したのは僕だ。見落としたのは僕で、所長は僕を庇おうとしているだけなんだ!」
長戸は首を振り、円楽の肩にそっと手を置いた。
「君の力は臨海を支える。責任は私が取る。それでいい。」
波音よりも小さなその声が、事務所の静寂に消えていった。
◆
警察が到着し、長戸と円楽の二人はそのまま連行された。
胸の奥に凍りつくような虚しさが広がる。
「なに青春してんのよ二人死んでるんだよ。結局、役割なんて背負った結果、みんな壊れていくんだから」
「そうかもな」
「やっぱり私、先輩なんて無理だわ」
「そんなこと言うなよ」
「じゃあ一つだけ。あなた、本当は誰?」
「……大鳥華羅、だけど?」
「嘘。愛知の人は丸の内駅で乗り換えたりしないの」
「は?」
「名古屋に八年住んでた谷江リクって人の保証付き。桜通線と鶴舞線のホームは離れすぎていて三十分かかる。東山線の伏見駅なら五歩。土地勘がある人は絶対に伏見で乗り換える。だからあなた、名古屋を知らない」
「たまたま知らなかっただけだ」
「大鳥華羅の通ってた大学の人間がたまたまはない」
「……ごめん。嘘をついてた」
「あなたは誰?」
「トラックの運転手。それとアイスクリーム屋」
「どうしてここに?」
「七日前、強盗に荷物を取られた。相手はこちらに気づかなかったが、私は顔に見覚えがあった。蓄電所の所長。ドライアイスの送り先は人工光合成研究所。その社長はここの従業員で、とても優しい人だった。銃を向けられて面倒になり、荷を渡してしまった。けれど次の日から社長が行方不明になった。自分がとんでもないことに加担したんじゃないかと怖くなった。そんな時、アイスを届けに行った先が経産省のオフィス。これから蓄電所に立入検査へ行くと聞いて、入れ替わることを思いついた。本物の大鳥さんは怪我もなく、縛って安全な所に寝かせてある。けど、本当に申し訳ない」
「そう」
「でもね、今日一日、あなたに先輩として接してもらえて本当に嬉しかった。こんな先輩がいたら、毎日がどれほど楽しかっただろうって思ったよ。私はもうあなたに会えないけれど、本物の後輩さんには、私にしてくれたみたいに優しくしてあげて」
そう言い残し、偽りの大鳥華羅は走り去って行った。
◆ エピローグ
振り返れば、最初からおかしかったのだ。あれほどヤンキーじみた装いの国家公務員など、いるはずがない。そう気づくべきだった。
私は庁舎へ戻り、本物の大鳥華羅さんに改めて挨拶をしようと足を踏み入れる。
古びたスライドドアを開けた瞬間、銀色の短髪と唇のピアスが視界に飛び込み、私はその場に崩れ落ちた。
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内容に関するアピール
登場人物一覧、見取り図、安楽椅子探偵、挑戦状、どんでん返しと、好きな要素全部入れました。
期待と成長、という軸で通したかったんですが、あんまり上手く料理しきれなかった感があります。反省です。
とりあえず、先輩と後輩の凸凹コンビものとして楽しんでいただければと思います。
重力蓄電所のアイディアは自力で作りました。
特許取りたいくらいです。
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