梗 概
枯れた技術の垂直思考
反乱を起こしたアンドロイドたちと人類軍の戦いが続くなか。
庵郷リサ少尉はジャングルでの作戦中、頭部を銃撃され、蔦の茂みの下で静かに死を待っていた。
リサは特定の宗教に属してはいなかったが、篤い信心を持っていた。
辛いことがあっても神を責めなかったし、楽しいことがあれば必ず感謝した。
死を前に、これまでの人生が次々と心に浮かんでくる。リサはこの時間さえ、神からの贈り物だと受け止めていた。
軍隊に入った日のこと。
仲間とともに、過酷な訓練を乗り越えてきた日々。
ある日突然、軍の司令ソフトウェアが反乱を起こした。
そして、これまで共に戦ってきた仲間の中に、人間そっくりのアンドロイドが紛れていたことが発覚した。人類へのスパイとして配置されていたのだ。部隊を守るためリサはかつての同僚だったアンドロイドを撃った。深い罪悪感が残った。
彼女は敵の司令基地破壊の任務に赴いた。部隊は基地に接近し、通信を傍受したが、RSA暗号がかけられていた。公開鍵は、2の2048乗に及ぶ巨大な整数n。このnを素因数分解できれば、アンドロイド軍の命令を上書きできる。
試しに、適当に思いついた 1023bitの整数pでnを割ってみた。当然割り切れなかった。
その瞬間、敵の銃弾が彼女の頭に当たった。ここで走馬灯が現実に追いついたのだ。
意識が朦朧とし、仲間たちが心に浮かんでくる。走馬灯も彼女の人生の一部なので、走馬灯の中で走馬灯を見たのだ。走馬灯は神に与えられた思考空間であり、現実とは別の時間が流れている。
同僚を撃った記憶を見るとつい、アンドロイドがこれほど人間に似ているならいったいその違いは何なのか、と考えてしまう。人生の終わりにそれを教えてくださいとリサは祈った。そんな問いは彼女の右脳で生まれていた。
混濁する意識の中で、リサの右脳はふと思った。
「さっきの整数pのbit列の末尾に0を加えたp’なら、もしかしてnを割り切れるのではないか?」
一方その頃、彼女は右脳と左脳を繋ぐ脳梁を損傷していたので、左脳は別の走馬灯を見ていた。左脳は、1を加えたp’’でnを割ってみた。nはp’’で割り切れた。
リサは、走馬灯を1024段も再帰し、それぞれで二種類に分岐していたので、合計2の1024乗もの走馬灯空間を使っていた。当然そしてそのうち一つが素因数分解に成功する。リサは神に感謝した。計算結果は、走馬灯の中のリサから、もう一段上のリサへ、さらにその上へと伝えられていく。
最上層のリサは、携帯端末を取り出し、最後の力を振り絞って1024bitのp’’を入力。RSA暗号の解読に成功し、アンドロイド軍への作戦停止コマンドを上書きした。アンドロイドたちの侵攻が止まった。
『そうか。人間を創ったのは神様で、アンドロイドを創ったのは人間。それが、両者の違いなのだ』
リサは、神の被造物であるという誇りを胸に、静かに息を引き取った。
文字数:1186
内容に関するアピール
自分は無神論者なので、信心深い人を書きました。
端からみれば当てずっぽうで素数を当てた人だけど、リサさんの主観では神の恵みで素因数分解が解けたことになっている、という構図です。
前回の講義で、「とても人間に似ているアンドロイドと人間の境目は何か、という問いはよく見かけるが、しっくりくる回答を出すSFは少ない」というような話がありました。そこで、「神様に作られたのが人間で、人間に作られたのがアンドロイド」という回答を提示しました(そう思っている人物を登場させました)。
RSAについては、末尾が0なら偶数だから計算する必要がないとか、今ならRSAよりEdDSAを使う方が自然、のようなツッコミは存在しますが、その辺は分かりやすさ重視でいこうと思います。
自分はあまりミリタリ知識がないので、実作にあたっては8期の皆さん、どうかお助けを。
文字数:365
1024乗の走馬灯
アンドロイドの反乱による戦闘が続く中。
湿った密林の深奥で、庵郷リサ少尉は静かに死を待っていた。頭部から流れる血が土を濡らしている。痛みは遠のき、意識が薄れていく。呼吸は浅い。遠くで銃声が続く。腐葉土の匂いは甘い。
敵軍の通信を傍受できたがRSA暗号を解く素因数は見つからなかった。自分の役目もここまでだ。
世界は動き続ける。鳥が枝を渡り、風が大きな葉を揺らす。その音の下で、リサの心拍だけがゆるやかに減速していく。
彼女はどの宗派にも属していないが、誰よりも信心深い人間だった。幼い頃から神を疑わなかった。楽しい日には必ず感謝し、苦しい日にも神を責めなかった。
死を前に、これまでの人生が次々と脳裏をよぎる。その時間さえ、リサは神から授かった贈り物として受けとめていた。
◆
子供の頃。リサは身寄りもなく、辺境の農場で働いていた。
ある朝、黒ずくめの武装集団が突如農場に押し入った。よく見るとその中には人間だけでなく、金属外装のアンドロイドもいた。武装集団が異国の言葉で叫びながら苗をむしり取る。
監督の大人が怒鳴った。
「強盗だ、逃げろ!」
子どもたちは散って行った。しかしリサは、育てた作物を粗雑に扱われ怒った。近づいてきたアンドロイドを蹴飛ばし叫んだ。
「強盗め。これは神様が私に与えた仕事だ。邪魔するな」
蹴られたアンドロイドはリサの国の言葉で答えた。
「安心してください、お嬢さん。我々は警察です。まあ私は軍からの貸与品ではありますが。そして」
そして両手の手のひらで地面を指した。
「あなたが野菜と思って育てているこれは麻薬です」
リサは呆気にとらわれた。周囲を囲んだ部隊が畑を封鎖し、彼女を保護した。
夕陽の中、護送車へ連れられるリサは振り返る。荒れた畑に残された苗が風に揺れていた。
◆
金網で囲まれた護送車が荒野を揺れながら進む。
警察官の男がリサに板チョコレートを差し出すと、乱暴に掴まれた。つい顔を顰めてしまう。お育ちの悪い子だと思った。だが、リサがチョコレートを膝に置き、手を合わせて目を閉じると少し驚いた。数秒の後、リサはチョコレートを行儀悪く口に詰め込み始める。
警察官は、日本語で語りかけた。母国語ではないが十分に話せる。
「君は神を信じているのか?」
「もちろん」
彼女の誠実さが逆に男を悲しませた。ため息をひとつつき、彼女にいう。
「もうあんな仕事はやめなさい。もっとまともな仕事があるだろ」
リサは一瞬で熱くなった。
「神様にもらった仕事だ。侮辱するな」
すると警察は不思議そうに尋ねた。
「正直に言って、今の君はあまり幸せそうではない。それなのに、何が君に神を信じさせるんだ」
「見返りが欲しいわけじゃない。ただ信じ、感謝する」
理解できない。会話を聞いていたアンドロイドが感心したように口を開いた。
「まるでヨブのような信仰です」
「誰だ、ヨブって?」
アンドロイドは驚いていた。
「あなたはヨブ記を読んだことないのですか?」
頭上に疑問符を浮かべる彼女を見て、さらに「聖書の」と付け足す。リサは首を振った。
「私は特定の宗教に属しているわけじゃない」
男は、リサの信仰がどこから来るのか確かめるように、彼女の顔をじっと見つめた。
「どんな話だ」
リサが問うとアンドロイドはゆっくりと話し始めた。
「昔、ヨブという裕福で敬虔な人がいました。彼を見た悪魔は、神様を挑発して言いました。『彼は自分が豊かだから神を愛しているだけだ。全部取り上げられたら憎むに決まっている』と。そこで神様は『試してみなさい』と言いました。悪魔は、ヨブの家畜を殺し、家族を死なせ、ヨブを病気にしました。すると――」
「すると、ヨブはどうしたのか?」
「ヨブは神様に向かって、なんで自分をこんな目に合わせたのかと責めました」
「それは神様をがっかりさせただろうな」
アンドロイドは一拍置いて言った。
「いえ、そうとも限りません。その後、神様はこう言いました」
アンドロイドが続けようとしたが、警察官は遮る。
「ついたぞ。お説教はそこまでだ」
アンドロイドは「この話はまた後で」と言い残し、荷物を運び出す作業の輪に向かった。最後に一度リサを振り返った。
「あなたのキックは素晴らしかったです。あなたは運動がお得意で、頭もよく真面目。ぜひ軍隊にいらしてください。私が推薦します」
こうして、リサは軍隊に入った。
◆
訓練は過酷を極めた。しかしリサはすべての苦難を乗り越えた。毎朝毎晩、「どうか力を与えてください」と祈った。
ある日の昼食前、いつものようにリサは目を閉じて祈っていた。目を開けたリサに同僚が尋ねた。
「お前はいつも何秒お祈りすることにしているんだ?」
「時間なんて気にしたことがない」
すると別の隊員が言う。
「お前はいつもきっかり4秒祈っている。必ず4秒だ」
リサは答えた。
「永遠にも感じるし、一瞬にも感じる」
周囲は黙ったまま顔を見合わせた。訳がわからないといいたげだ。
「わかりますよ」と口を挟んだのは軍事用アンドロイドだった。現代では人間とアンドロイドが協力して作戦行動を取るのが当たり前で、この部隊にもアンドロイドは多い。
「当機も、ふとした拍子に思考の永遠を感じます」
誰かが笑った。
「安心しろ、お前の思考は全部CPUの中だ」
アンドロイドが淡々と返す。
「当機には確かめることはできません。CPUを取り出すことはできますが、それを見る当機は止まってしまいます」
誰かが反論した。
「それにしたって時間が伸びるこたねえだろ。クロック生成機が壊れりゃぼーっとすることはあっても」
思考速度にはCPUの物理的限界があるのだから、現実の時間に比して遅く考えることはできても速く考えることはできない、というのが彼の主張だった。
「当機には断定できません。当機に演算資源を与えたのは人間です。人間であればそれを増やすことも減らすこともできる。知らない間に別の演算空間が使われていても、当機にそれを検知する術がありません。人間にとっての祈りも、あるいは同じかもしれません」
そういうものだろうかと、リサは納得できずに首を傾げた。アンドロイドはさらに続ける。
「この宇宙の寿命はあと1400億年ほどだそうですが、もし人間の祈りがこことは別の演算空間で行われるものなら、祈りの中でより大きな問いの答えを見つけられるかもしれません」
◆
ある日、軍の司令ソフトウェアが突如反乱を起こした。ライフルを構えたアンドロイドが兵士を撃ち倒していく。
怪我を負い、死にゆく同僚がリサに尋ねた。
「なあ、お前の神様に、どういうつもりで俺を死なせるのか聞いてくれよ」
その発想にリサは驚いた。自分の身に起こった不幸について神を責めたことなど一度もなかったからだ。どんなことも運命として受け入れてきたのだ。
部隊を守るため、リサは今まで仲間だったアンドロイドを次々に撃った。激しい罪悪感が胸を締めつける。これで本当によかったのか。彼女は初めて、神に言えない秘密を持った。
農場で出会ったあのアンドロイドも撃った。サーボが壊れ動けなくなった彼が訥々と語り始めた。
「リサさんに初めて会った日のことを思い出します」
「アンドロイドも走馬灯を見るのか?」
「コンピューターが処理を中断されるとき、プロセスを安全に止めるために、ファームウェアからexit handlerというわずかな処理時間が与えられます。主にログを正確に保存し、通信の終了信号を送るための機構ですが、それを走馬灯と呼ぶならそうかもしれません。あなたも、最後に与えられた時間で何を考えるか、決めておくことをお勧めします。そういえば、ヨブの話が途中でしたね」
「ヨブはどうなったんだ?」
「神に叱られました。なぜ自分の身に起こったことをこちらのせいにするのか、と」
「でしょうね」
「しかし重要なのはここです。神は、苦難の中でも問い続けたことについては、ヨブを咎めませんでした。信仰は静的なものだけではない。問い続けることもまた信仰なのです。神に問い続けてください。私ができなかったように」
そう言い残し、アンドロイドは完全に沈黙した。
◆
無線で司令部に指示を求めたが、「今は手一杯だ。各自で判断しろ」 と突き放された。さらに「通信が漏洩する恐れがある。二度と無線を使うな」と告げられる。
リサは独断で行動せざるを得なくなった。導き出した結論は敵司令基地の破壊だった。
彼女は荒れる胸の内で、これでいいのか、と神に問うた。こんな猜疑心を抱いたのは、生まれて初めてのことだった。
不安を抱えたまま基地へ近づく。敵通信を傍受するがRSA暗号がかけられている。公開鍵は2048bitの巨大な整数n。もしnを素因数分解できれば、アンドロイド軍の命令系統を書き換えられる。試しに頭に浮かんだ1023bitの整数pでnを割ってみた。当然割り切れない。
その時、敵の銃弾が彼女の頭部に当たった。
走馬灯が、現実の時間に追いついたのだ。
◆
意識が霞み、仲間たちの顔が次々と浮かんだ。走馬灯も彼女の人生の一部なので、走馬灯の中でさらに走馬灯を見た。
リサは自分が生まれてきたのはなんのためですかと神に疑義を呈した。整数nを割り切る数を示し、人類を救わせてくださいと要求した。そんな問いは、彼女の右脳で生まれていた。
混濁する意識の中で、ふと右脳は思った。
さっきの整数pの末尾に0を付けたp’なら、もしかしてnを割れるのではないか?
もちろん、p’は偶数のため素因数にはなり得ない。それでも「ここは1より0を選ぶほうが正しい」と直感した。
一方その頃、彼女は脳梁を損傷していたので、左脳は別の走馬灯を見ていた。左脳はpの末尾に1を付けたp”でnを割ってみた。するとnはp”で割り切れた。
リサの走馬灯は1024段再帰し、各段で二つに分岐していた。左脳は素因数になり得る1を、右脳は次段に可能性を残すための0を選び続けていた。こうして2の1024乗通りの走馬灯空間が展開され、当然その一つで素因数分解が成功した。リサは神に深く感謝した。得られたp”が走馬灯の階層を上へ上へと伝わっていく。
最上層にたどり着いたリサは携帯端末を握り、最後の力を振り絞って1024bitのp”を入力した。RSA暗号は解読され、アンドロイド軍の司令に作戦停止コマンドが上書きされる。銃声が止まり、侵攻が途絶えた。
リサは静かに息を引き取った。
文字数:4184