砂かぶり

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梗 概

砂かぶり

力士の真照楽シンデレラは兄弟子から、「ちゃんこの味が違う」などといじめられていた。
真照楽の所属する寿山部屋は成績が低迷し、協会から親方の引退と部屋の統廃合を勧められている。

親方はなんとか部屋を存続させたいと考え、岡田に相談した。
岡田はかつて力士を志したが、夢破れ、現在はデータ分析のエンジニアとして働いている。
親方は「データ分析の力で部屋を立て直せないか」と依頼したのだ。
岡田自身、現役時代に勝つために何が必要かわからず、迷いながらトレーニングしていたことを悔やんでいた。もし力士の成長を後押しできるならと引き受けた。
近年、相撲界では力士の体重の重要性が増しており、過去50年で平均体重は約30%増加しているが、体格に優れた新弟子は人気のある部屋に集まる。
ところが分析を進めると、上位の力士はスピードにも優れていることがわかった。解析した結果、立ち合いで秒速3.8メートル以上出れば勝率がぐっと上がる。
岡田は「立ち合いのスピードを重視したトレーニング」を提案する。

弟子たちはこれに反発した。理由は、立ち合いで勢いよくぶつかると、相手に変化(突進をかわす技)を使われやすくなるからだ。
変化をつけられて敗れるのを恥ずかしいと感じ、岡田の提案を受け入れなかったのだ。
岡田は「お前たちは勝率が低いんだから、たまの変化を恐れるより、それ以外の取り組みで勝ち星を拾う方が期待値が高いだろ」と説得するが、響かない。

そんな中、ただ一人、真照楽だけがこの提案を受け入れた。彼は部屋で最も小柄で、もともと勝率も低く、失うものがなかったからだ。
真照楽は足の瞬発力を鍛えるトレーニングを開始する。少しずつ勝率が向上した。
そんな折、地方巡業が決まる。親方は真照楽の兄弟子である駿河炎と伊勢の森を連れていくことにし、新しいまわしを買い与えた。彼らは意気揚々と出発する。
一方、真照楽は稽古場でボロボロになったまわしを手入れしながら、ぽつりと「巡業、行きたかったな」とつぶやいた。

その姿を見た岡田は真照楽を巡業の会場へ連れて行くことを決めた。
巡業の体育館に、ボロボロのまわしで現れた真照楽。それを見た駿河炎は怒り、「稽古をつけてやる」と彼を土俵へ呼び出した。

二人の取り組みが始まる。真照楽は鍛え上げた高速立ち合いを繰り出す。駿河炎はそれを予想してかわす。しかし真照楽は驚異的な反射神経とステップワークで進路を変え、駿河炎に突撃した。彼は完全にこのスタイルをものにしていたのだ。
敗れた駿河炎に変わり、今度は伊勢の森が土俵に上がる。真照楽は再び鋭い立ち合いを仕掛けた。伊勢の森も変化をつけようとするが、それを上回る速度で組み付き、そのまま寄り切った。

会場の拍手が真照楽に注がれる。
そこへ、時の大横綱・城ノ王寺のが歩み寄り、勝負を申し入れた。
二人の力士が向かい合う。

真照楽は、ゆっくりと仕切り線に拳をついた。

文字数:1188

内容に関するアピール

二人は末長く立ち会いましたとさ。

世界で一番擦られてるであろうシンデレラをチョイスしました。
シンデレラに力士を掛け合わせ、力強さとかわいさとを融合させた点が斬新だと思います。

相撲xセイバーメトリクスも新しいと思います。

ただ、シンデレラはあまり現代人の感覚に合わないところもあると思います。
なので、あえて全員に選択肢が与えられた中で、コンフォートゾーンを捨てて努力した真照楽が幸せになる話にしました。

シンデレラならガラスの靴のくだりも必要かと思いましたが、この辺で終わっとくのが一番面白いだろうと言う判断です。

 

 

文字数:253

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砂かぶり

子供の頃、僕の家は貧しかったけれど不満はなかった。
おかずが漬物だけの夜もあった。でもそれだけでご飯を何杯も食べられた。熱々の白米を大きく頬張りかみしめる。じわりと滲む甘みと、漬物の塩気が絡み合う、幸福な味。それを見て、両親は微笑んだ。
僕は知った。自分がただ食べるだけで、誰かを幸せにできるのだ、と。

三月の河川敷には、まだ冬の名残があった。冷たい風が肌を刺す。
土手の上から、何気なく下を眺めていた。広いグラウンドに、ふんどし一つの大男が集まっていた。力士である。
中央の土俵で二人が組み合い、他の力士がそれを見守る。
筋肉の塊がぶつかり合うたびに、低い地響きが響いた。ぶつかり、投げられ、押し込まれ、倒される。勝った者は満足げに頷き、敗者は悔しげに空を仰ぐ。
僕にとっては、勝ち負けなどどうでもよかった。その戦いが美しく、純粋にかっこよかった。
気づいたときには、もう走り出していた。土手の斜面を駆け降りる。スロープまで回り込む時間が惜しくて、垂直に駆け下りた。濡れ草に足が滑ったが、脚力は並外れていたので転ぶことはなかった。

やがて、土俵の近くまで来ると、大きな男たちが気づいてこちらを見た。
息を切らしながら、彼らの前で立ち止まった。そして、力を振り絞って叫んだ。

「相撲を教えてください!」

それから十年が経った。僕は真照楽しんでれらという四股名を与えられていた。

朝の空気は眠そうだ。土の匂いが立ちこめる稽古場はまだ薄暗い。

部屋の雑用はすべて僕に押し付けられていた。本来、掃除や洗濯は当番制のはずなのに、結局いつも僕がやっている。でも文句を言わず、嫌な顔も見せず、ただ雑巾を絞る。

カラカラと小さな音を立てて、お掃除ロボットのルンバが集まってきた。元々ゴミ捨て場で拾ってきたもので、修理して使っているうちに、すっかり懐かれてしまった。
「よく眠れたか?」
小さく声をかけると、ルンバがビープ音を鳴らした。僕には、ルンバの動きや音から、なんとなく彼らの気持ちが分かった。
「じゃあ、掃除も頑張ってもらおう」
そう言うと、ルンバたちは不満げにその場でぐるぐる回ってから、勢いよく散っていった。自分は水回りの掃除に取りかかる。ふと窓の外を見ると、駐車場にはオープンカーが止まっていた。真っ白なスポーツタイプの自動運転車。ということは、今日は親方がいる日だ。

掃除を終えると、すぐに自主練習に取りかかる。

すり足、四股、鉄砲。
体格がものをいうこの世界で、自分はあまり大きくなれなかった。少年時代の自分が知ったらがっかりするだろう。だからこそスピードを磨いた。小さくても勝つために、できることは全てやるしかない。
特に四股は重要だ。ただ漫然とやっていては意味がない。四股をスロートレーニングと捉えるのだ。スロートレーニングには瞬発力を鍛える効果が見込める。速筋は通常、高負荷・高速な動作によって刺激されるが、あえてゆっくり負荷をかけると、限界まで追い込まれたときに「サイズの原理」が働き、Type IIa繊維が成長するとされている。

稽古場に十人ほどの兄弟子がやってきた。一番年上の駿河炎が、ふとこちらに目を向けた。
「真照楽、今日のちゃんこ番、お前がやってくれよ」
これには驚いた。相撲部屋では、稽古は朝に行われる。昼ごはん作りは「ちゃんこ番」と呼ばれる当番制で、担当者は稽古を早めに切り上げて台所に立つことになる。
「今日こそ稽古させてくれるって言ったじゃないですか」
「お前みたいな弱い奴が稽古してもしょうがないだろ」
「そうだ、しょうがない」
駿河炎の腰巾着である伊勢の森も混じって囃し立ててくる。
「なんでそんなこと言うんですか」
「俺、十一月場所で昇段かかってるんだ。だから調整に集中することにした」
「次の本場所が大事なのは僕も一緒です」
「お前が昇段なんて無理だって」
すると、伊勢の森が無茶な提案をした。
「じゃあ、真照楽と俺たち二人で勝負して決めるってのはどうかな?」
「おお、それいいな」
「負けた方がずっとちゃんこ番。どう?」
勝手に二人で盛り上がり出す。そうやって脅かせば僕が引き下がると思っているかのように。もちろん、ここで今日のちゃんこ番を受け入れれば終わる話だ。でも、そんなことではこの先ずっと雑用を押し付けられる。ここは、戦わないといけない時だ。
僕は精一杯の勇気を振り絞った。
「わかりました」
駿河炎は一瞬驚いたような意外そうな顔を浮かべた。
「約束は守ってくださいね」
「おお、当然だ」
周りの兄弟子たちまでニヤニヤと笑いはじめた。僕が無様に負けると思っているのだ。でも、負ける気などなかった。
駿河炎が土俵に上がり、踵を合わせてしゃがむ蹲踞の姿勢をとる。両手を広げ、胸の前で打ち合わせる。これは塵手水という作法で、本来、指先一つ一つの所作に礼儀が宿っているのだが、飼い犬の前で手を叩くようなその緊張感のなさは、僕を馬鹿にしているようにしか見えない。
駿河炎は仕切り線に進み出ると、線の中央からずいぶん離れた左側に立ち、四股を踏んだ。なんでそんなところに構えるんだ? すると、伊勢の森まで土俵に上がってきて、その右隣にどかっと腰を落とした。
「なんで二人同時なんですか」
待ってましたと言わんばかりに伊勢の森が言った。
「『二人と』って言ったよな?」
これには兄弟子たちも一斉に笑い出した。わざとらしく駿河炎も乗じる。
「おお。ちゃんと聞いたぞ。約束は守れよ」
バカにしたように手招きをする。もう逃げられない。勝つしかない。
仕方なく土俵に上がった。2本の仕切り線の間隔は70cm。その一方に真照楽が立つ。2対1は圧倒的に不利だから、なるべく早く片方を倒すしかない。
三人がゆっくりと手をついた。多くのスポーツは用意ドンの合図で始まるが、相撲は両者の呼吸があったときに始まる。三人いてもカラクリは同じ。胸の律動は、あうべきときにあう。
三人が同時に飛び上がった。筋肉の塊が土俵の中心点に殺到する。

まず伊勢の森を捕まえにかかった。御しやすいのはこちらだ。初撃で腰の伸びた伊勢の森を、つっぱりで叩き出す。まずは一人。振り向くと、駿河炎が突進してくる。一旦かわし、間合いを測る。駿河炎は大きいが、スピード勝負なら勝てる。助走をつけてあたれる間合いを慎重に測る。こちらが前後左右に体を揺すると、駿河炎も細かく足を組み替えて構える。
この先の戦いをシミュレーションする。潜り込み、右を刺し、吊り上げ、内から左足をかけて投げる――。いけそうだ。
土俵内を動き回り、駿河炎の足を動す。フェイントを混ぜると駿河炎が一瞬遅れた。今だ。僕は踏み切った。

その瞬間だった。稽古場の引き戸が開いた。
「真照楽」
低く響く声。部屋が静まり返る。
「親方」
親方が、目の高さにルンバを掲げていた。
「マックイーン!」
「マックイーン?」
「ええと、ルンバです。拾ってきました」
親方はそれを地面に叩きつけた。プラスチックの破片が飛び散った。直したルンバを壊されて、胸が苦しくなる。それでも親方には逆らえない。
「掃除は修行だ。手を抜くな。やり直せ」
「はい」
その瞬間、右半身に衝撃。乾いた音。
駿河炎がぶつかってきたのだ。バランスを立て直そうとしたが、その胸に駿河炎がのしかかる。
土俵の冷たさが背中に伝わった。
「じゃあ、真照楽、ちゃんこ番よろしくな」
しばらく呆然としてしまった。気づいて叫んだ。
「こんなの、おかしいですよ」
立ち上がり、仕切り線に戻る。
「やり直しです」
すると親方の低い声。
「勝負は勝負だろ」
「そんなのないです」
なぜ親方まであんな奴の方を持つのか。しかし親方は鼻を鳴らした。
「いいだろ、ちゃんこ番くらい」
「よくないです。稽古ができないじゃないですか」
「どうせお前、やる気ないんだろ?」
「ありますよ」
「いや、ない」
人を侮辱するにはあまりにも軽い口調だった。
なんでそんなことを言われるのかわからない。自分はこの部屋で誰よりも強くなりたいと思っている。自主練習だって一番頑張っている。それなのに。
結局、親方は自分の新しい考え方が気に食わないのだ。
もちろん、どうするべきかは分かっている。強くなって認めさせるしかない。

僕はマックイーンの破片を拾うしかなかった。

日が落ちると、ぐっと冷え込む。
スーパーマーケットで明日の食糧を買い込み、帰り道を歩いていた。

電柱の影に、130cmほどの人影が立っていた。驚いて立ち止まる。よく見ると人ではない。
直径70cmほどの円柱。ファミリーレストランの猫型配膳ロボットだった。
「なんだ、捨て配膳猫か」
顔が表示されるはずのディスプレイは真っ黒だ。サッと全体を眺める。それだけで機械の状態がおおよそ把握できた。タイヤのすり減り具合から、かなり使い古されているとわかる。レジ袋を両肘にぶら下げたまま、それを左手で抱え上げ、右手の人差し指でタイヤを回してみる。一周ごとに「カコン」と小さな抵抗を感じた。軸受が損耗している。きっと壊れて、捨てられたんだろう。
「よし、直してあげよう」
配膳猫を右肩に担ぎ、そのまま持ち帰った。直せば、また元の仕事に戻れるはずだ。
親方の相撲部屋の隣には、この町で古くから工務店を営むタニマチさんの工場こうばがある。相撲部屋の内装や練習器具には独自のものが多いため、タニマチさんは「自由に工場を使っていい」と言ってくれている。工場内には電子機器や工具が整然と並び、作業に必要なものはひと通りそろっている。弟子の中で工作が得意なのは僕なので、だいたい僕が工場に立つことになる。そのため、夜の工場は僕のプライベートスペースのようになっていた。夜は寒いが、電気は使える。
床の上に配膳猫を横たえ、修理に取りかかる。配膳ロボットは、大きく二つの部位で成り立っている。タイヤのついたフロアフレームと、食器を乗せる4段のお盆を備えた本体。それらはモーター付きの軸でつながっている。
ルンバたちが寄ってきて興味深げに周囲をうろちょろしている。
まずはモーターごと交換だ。一番強力なものを選び、バッテリーも新品に取り替える。体を起こして電源を入れると、ディスプレイが灯った。そこに浮かんだのは、不安げな表情。ルンバのピーターがこつんと体をぶつけた。驚いた配膳猫は、そちらに体を回す。動作は問題なさそうだ。イリスも別の角度からぶつかる。配膳猫はくるりと回る。三方向、四方向からちょっかいをかけられ、混乱する配膳猫。
「こら。いじめちゃダメ」
ルンバたちはしおしおと下がっていった。
「君、名前は? そうか、マルコか。みんな、マルコと仲良くするんだぞ」
ルンバと同じように、配膳ロボットが首を振ったり、体をゆすったりする仕草でロボットの気持ちを読み取ることができた。
試しに、お盆に食器を乗せてみる。
「マルコ、配膳できるか?」
次の瞬間、ものすごい勢いで発進。壁にぶつかる寸前で急停止。まだ新しいモーターが馴染んでいないらしい。今度は逆方向に走り出し、止まろうとするも失敗。最終的に、その場でぐるぐる回り始めた。
遠心力でお盆の食器やお箸が飛び出した。
慌ててキャッチする。頭上を襲った土鍋が視界の上へ消えていく。振り向いている暇はない。髷に伝わる空気の流れだけで位置を感じ取り、そこに両手を差し出す。
スポンッと土鍋が収まった。
「危なかった」

ホッとしたのも束の間、回転を止められないマルコが盛大に転倒した。
壁にぶつかり、大きな音を立てる。

「うるせえぞ!!」
突然、扉が開いた。怒鳴り込んできたのは、駿河炎だった。
「あ、すみません」
「真照楽、明日のちゃんこの仕込み、やったのか?」
今度は伊勢の森が口を挟む。
「これからやります」
「これから? そんな油まみれの手で料理する気かよ」
すると、背筋の凍る親方の低い声が響いた。
「本場所前にずいぶん余裕だな、真照楽」
「あ、いえ、これは……」
「掃除はサボる、ちゃんこ番は嫌だ、稽古も出ない。いい身分だ」
「稽古は出ようとしています」
邪魔したのは親方の方じゃないかと、理不尽な思いになった。
親方は鼻で笑った。
「どうせわざと負けたんだろ」
あまりの失礼な物言いに何もいえなかった。すると親方が続けた。
「真照楽、お前、相撲やめろ」
親方の冷たい言葉が突き刺さる。
「いえ、辞めません」
親方は鼻を鳴らし、去っていった。

親方は、機械なんて嫌いなんだ。
稽古だってそうだ。今の相撲界では、科学トレーニングが普及している。自分も情報を追い、練習に役立てている。だが、親方はそういう考えが嫌いだ。気合、気合。いつもそればかり。相性が悪いのは分かっていた。

それでも、自分はもっと強い力士になろうと思っている。自分の考えを貫いた上で強くなり、親方に認めてもらう。それしかない。

部屋に戻ると、親方が椅子に座り、その周りを弟子たちが囲んでいた。
「なんの話ですか?」
「お前には関係ない」
親方は冷たい。それでも、机の上に置かれた『冬巡業のお知らせ』というしおりを見て理解できた。巡業の季節が来たのだ。
「僕も巡業に連れて行ってください!」
僕は精一杯頭を下げた。しかし、親方は即座に否定する。
「お前が出ても恥をかくだけだ。やめておけ」
「恥なんてかきません。僕は昔、地元に巡業が来たとき、すごくかっこいいと思ったんです。勝った力士も、負けた力士も、みんな輝いていました」
正確にいえば巡業期間中に河原で稽古をしていた弟子たちだけれど。
親方はため息をついた。それでも僕は続けた。
「僕はあんな人になりたくて、力士になったんです。だから巡業に連れて行ってください」
「無理だ」
と言ったのは駿河炎。伊勢の森が上辺だけ同情する声で説明した。
「知らないのか? この部屋では本場所で結果を出した力士だけが巡業に行けるって決まりなんだ。残念だったな、真照楽」
それから親方に視線を向ける。
「ですよね?」
親方は表情を変えずに言った。
「こうしよう、真照楽。お前を巡業に連れて行ってやる」
その言葉に、一瞬、部屋が静まる。親方の言葉の裏に何かを感じ、不安を覚えた。伊勢の森が顔を突き出し、抗議するように言う。
「いいんですか? 親方」
親方は淡々と続ける。
「条件は一つ。11月の本場所で全勝することだ」
本場所は15日間。力士の格によって試合数は変わる。横綱ら上位の力士は15試合。番付の低い力士は飛び飛びで7試合。その7試合すべてに勝つことは十分可能だ。
「全勝すれば、12月の巡業に行けるんですね?」
親方は頷きながら答えた。
「そうだ。だが、もし負け越したら、お前は部屋を出ていけ」
巡業に行けるか部屋を出るかなんて釣り合いが取れない。あまりにも理不尽な話だ。
「どうする?」
だが、迷いはなかった。
「わかりました」

それから、僕は特訓に明け暮れた。
僕の武器はスピードだ。立ち合いの爆発的な加速で有利を取り、そのまま押し切るのが僕の相撲だった。何度も柱に向かい、立ち合いの練習を繰り返す。
勝つために。巡業に行くために。

拾ってきた配膳猫、マルコの世話も忘れてはいなかった。マルコは新しいモーターにもすっかり慣れ、倉庫の中を元気に走り回っていた。
「君はどこのファミレスで働いていたんだ?」
ビールケースに腰掛け、マルコに尋ねた。
「そうか、2丁目のサニー・オーブンか。もうすぐハロウィンだし、君をハロウィン仕様に仕上げてやろう。君が帰ってきたら、きっとみんな喜ぶぞ」

僕は塗装スプレーやアクリルのカラーシートを並べ、マルコを飾りつけた。顔は猫目・猫耳・猫ヒゲのジャックオーランタン。胴体はギャルソンをイメージしたおしゃれなデザインに仕上げた。鏡を見せると、マルコは嬉しそうにぐるぐると走り回った。

間もなく開店時間だ。力士・真照楽はかぼちゃ顔のロボットを担ぎ、朝日に向かって走った。

2丁目のサニーオーブンは一階が全面駐車場になっていて、店の入り口は外階段を上った二階にあった。

「すみませーん」
ドンドンと扉を叩いたが返事はない。試しに扉に手をかけると、開店前なのに扉はあっさり開いた。店内はBGMも流れていない静かな空間だった。壁に馴染んだチーズの香りが食欲を刺激した。
「あの、お客様」
赤いチェックのエプロンを着た店員が厨房から出てきた。
「申し訳ありませんが、まだ開店前で……あれ、お相撲さんですか?」
「ああ、はい」
「どうぞ、どうぞ。こちらにお掛けください。たくさん召し上がってくださいな」
店員は広いソファ席を案内する。
「いや、僕はお客ではなく……」
戸惑う店員を見て、僕は一歩横にずれ、背中の後ろに隠していたものを見せた。
「戻ってきましたよ」
おめかししたマルコを見て驚くだろう、喜ぶだろう、そう思っていた。頭の中では天使がファンファーレを鳴らしていた。だが、店員が浮かべた表情はとても微妙なものだった。気まずいような後ろめたいような顔。
「そんな配膳猫、うちにはいません」
何を言っているんだ? どういうことかとマルコを振り返ると、マルコは蒼白な表情で店の奥をじっと見つめていた。その視線を追うと、厨房からもう一台の猫型配膳ロボットが様子を窺いに出てきた。店員も振り返り、叱るような声で叫んだ。
「ジョニー、奥にいなさい」
ジョニーと呼ばれたそのロボットは、明らかに最新型のきれいな配膳ロボットだった。

突然、マルコが振り返り、逃げるように走り出した。タイヤなので階段を降りられるはずもなく、勢いよく転がり落ちた。破片が散らばる。慌ててそれを拾った。転がったマルコは奇跡的に階下で立ち、そのまま道路へと飛び出した。

力士・真照楽は朝日を背に、かぼちゃ頭のロボットを追いかけて走った。

走り続け、息は切れ、額から流れる汗が頬を伝い地面に落ちた。そのまま膝をつき、視界がぼやける中で河川敷の土手に寝そべる人影に気がついた。人ではなかった。
「……マルコ」
接地しない車輪が力なく回っている。

「まだやれることはあるはずだよ。新しい職場を探したらどう?」
しかし、マルコは諦め切っていた。自分のような旧式モデルなんて、誰も雇ってくれない、と。
確かにマルコは、壊れたからではなく、いらなくなったから捨てられたのだ。僕は唇を噛んだ。慰めなければという責任感と、迂闊なことを言えないというためらいが土俵の真ん中でのこったのこったをしている。
いろんなことを考え、やがて一つの結論を出した。マルコをまっすぐ見つめて言う。
「なら、僕の稽古相手にならないか?」
マルコのディスプレイがほんの少し明るくなった。

マルコを倉庫に連れ帰り、すぐに改造に取り掛かった。溶接マスクを被る。相撲でなく、こんなことに火花散らす力士がいるとは。
まず、マルコの細いフレームを頑丈な鉄製に取り替えた。そして料理を載せていたお盆部分に鉄塊を詰め込む。総重量は200kgにしよう。前面には衝撃を和らげるシリコンを貼り、タイヤには強力なスプリングを組み込んだ。

立ち合いの練習が始まった。土俵は半径7尺半。その中央で何度もぶつかり合う。
「秒速3.8メートル、これわかるか?」
マルコはピンとこないようだった。
「僕の体重で勝つのに必要な初速。秒速3.8メートル」
現代の相撲界にはセイバーメトリクスが浸透していた。選手の体重や身長、取り組みの技術データがダークウェブでやり取りされ、匿名のアナリストが勝利のための分析を日々行っている。次の取り組みに勝つため、僕はその分析を参考に、必要なスピードを割り出したのだ。

毎日、仕切り線を挟んで激しいぶつかり稽古を繰り返した。ある時、僕が勢いよく立ち上がった瞬間、マルコが予想外に横に動いた。当たろうとして当たれず、バランスを崩した僕は、背中をとったマルコに押し出される。
「おいおいマルコ、卑怯だぞ。そういう技は相撲道に反する。いいな?」
マルコはディスプレイを赤く点滅させ、恥ずかしそうにうなずいた。

僕は何度もマルコとぶつかった。肩が切れ、血が流れた。いくらシリコンを張って柔らかくしても、皮膚は鎖骨と鉄の塊に圧迫され続ける。それでもぶつかり稽古をやめなかった。血は渇き、かさ蓋となり、鎧になった。腫れ上がった肩峰も筋肉に変わっていく。

そしてある日の稽古中。踏み込んだつま先が地面を激しく抉った。鍛え上げた脚から生まれた爆発的な威力が200kgの塊を吹き飛ばした。マルコのディスプレイには『3.8m/s』と表示された。ついに到達したのだ。
僕は空に胸を突き上げ、獅子のように吠えた。

十一月場所の初日が訪れた。

対戦相手の海皇山は、大柄な割にはパワーに欠ける。これ以上なく勝ちやすい相手だ。ここからの七試合が巡業への道だ。胸が静かに高鳴った。

仕切り線に両の拳をつき、海皇山を待った。海皇山がゆっくりと深呼吸をしながら腰を沈める。

一拍の沈黙。

海皇山が立ち上がった。僕もここぞと飛び出す。この鋭い立ち合いをまともに受ければ、海皇山の巨体は簡単に起こされ、抵抗は不可能となる。そのはずだった。だが、突き出した手が空を切った。気づいた時、海皇山は右側にいた。

変化。背後を取られた僕はなす術なく、そのまま土俵の外へ押し出された。

頭が真っ白になった。一日目で巡業への道が閉ざされてしまった。なぜこんなことに。

次の取り組みも、僕は敗れた。立ち合いをかわされ、足を掛けられて転がされた。さらなる次の取り組みでも相手はまた変化を仕掛けてきた。今度は踏ん張ったものの、一度止まった僕に巻き返す術はなかった。体格で劣る僕は、そのまま土俵を割った。

対戦相手が微かに笑ったように見えた。その視線の先を追うと、満面の笑みを浮かべる駿河炎と伊勢の森、そして渋い表情をした親方の姿があった。その瞬間に状況を理解した。彼らは僕の特訓を知り、その情報を対戦相手に流したのだ。

「どうしてそんな意地悪をするんですか」
涙をこらえながら親方に詰め寄った。
「意地悪などしていない。勝負は常に平等だ。お前が負けただけのこと」
「あんなの卑怯です」
親方はため息を一つついた。
「変化も立派な技だ。対策をしなかったお前が悪い」
親方の言い分が理解できないわけではなかった。確かに、横綱など位の高い力士が変化技を使えば非難されるが、それ以下の取り組みでは勝負の一部として広く認められている。むしろ変化で敗れることは、力士として油断であり、恥ずかしいというのが一般的な受け止め方だ。
しかし、僕は変化技を恐れず最速の立ち合いを繰り出すことを美徳としていた。
「自分は横綱のように強くなりたいんです。横綱と強い相撲を取りたいんです。だから変化の対策なんてしません」
親方は静かに言った。
「確かに横綱が変化技を使うことはほぼないな」
そこで、親方は息を深く吐き、もう一度吸った。
「だが横綱と戦うには、それなりの勝ち星を積まなければいけない。勝率を上げる努力をしないお前のやり方は、言っていることと矛盾している」
何も言い返せなかった。

次の取り組みに負ければ、部屋を去らねばならない。その重大な一戦を前にしても、僕は僕の相撲を見失っていた。高速の立ち合いで攻めるべきか、それとも変化に備えて待つべきか。迷っている間に始まっていた。何も抵抗できず押し出された。僕の相撲は終わった。

親方が言った。
「そもそもお前は速くない」
いや速い、と言い返したくなった。統計分析を軽視する親方に何がわかるものか。だが、続く親方の言葉は意外なものだった。
「秒速4.2メートル」
「何のことですか」
「横綱・城ノ王寺しろのおうじ関が体格に劣る力士に負けたのは、過去わずか四回。そのすべてで相手は秒速4.2メートルの初速を出している。それ以下で負けたことは一度もない。つまり、お前は遅い」
絶望が襲った。

僕は荷造りをしていた。行くあてなどないけれど。

駿河炎と伊勢の森は、親方に新しい稽古廻しを買ってもらった。廻しを身につけた二人を見て、親方は満足そうだった。やがて親方に連れられた二人は、意気揚々と巡業へと出かけた。

残された僕は、古い稽古廻しを手入れしながら、小さく呟いた。
「巡業、行きたかったな」

私物を取りに稽古場へ入ったが、何をする気にもなれず、ただぼんやり土俵を眺めるばかりだった。
マルコが寄ってきて、身体を優しくつついた。
「もう、稽古なんてしなくていいんだよ。僕は、終わったんだから」
しかしマルコは頑なだった。僕を土俵の中央へと押し、執拗に稽古を促す。
「仕方ないな」
気乗りしないまま、仕切り線に立ち、形ばかり両の拳をつく。マルコが猛然と突進してきた。軽くいなし、200kgの鉄塊を土俵に転がす。
「ほらな、君は弱い」
倒れたマルコを起こしながら、小さく呟いた。
「僕も弱いんだ」
親方の言葉が蘇る。秒速3.8メートルは遅すぎる。4.2メートルが必要だと。そんな速さ、出せるはずがない。それでもマルコは諦めない。しきりに再戦を求める。
「これ以上速く当たったら、君が壊れるよ」
マルコが何度も何度も体当たりしてきた。やがて、我慢の限界を超えた僕は声を荒らげてしまった。
「邪魔なんだよ! 無駄なんだ! 全部、全部無駄だったんだ! お前とこんなことをしたって、僕は強くならない!」
マルコは動きを止めた。ゆっくりと後ずさりながら、その言葉の意味を受け止めようとしていた。数秒後、信じられないと言わんばかりに頭を激しく左右に振った。高速で自転し、稽古場中を荒々しく走り回る。機械の体が激しく揺れ動く。その動揺が痛いほど伝わってくる。200kgもの機械が暴れては、さすがに危険だ。
次の瞬間、マルコの盆に取り付けられていた40kgの重りが外れ飛んできた。咄嗟に避けるも、土俵から転げ落ちる。落下地点の土がえぐれた。自分の内臓がああなっていたかもしれないと想像し、背筋が凍る。
もう一つ、重りが飛ぶ。捻って避ける。さらに一つ、今度は壁に向かって飛んだ。壁が壊れたら親方にどれほど叱られることか。無意識に腕を伸ばし、それを受け止める。静かに床に置いたその瞬間、髷を通じて空気の揺れを感じ取った。
別の鉄の塊が頭上に接近しているのだ。振り向く暇もない。感覚を頼りに両手を差し出した。
「ふんぬっ」
冷たい鉄塊が、掌に納まる。だが、安堵したのも束の間、マルコは扉を抜け、外へと飛び出していってしまった。

気づけば、周囲にはルンバたちが集まり、自分を取り囲んでいた。
「なんだよ、僕が悪いっていうのか?」
ピーターが体を半回転させる。まるで扉と僕を交互に見るように。追いかけろと目で訴えるように。
「行かないよ」
僕はルンバたちに背を向け、土俵の縁に座り込んだ。回り込もうとするルンバたちから、また身を捩って身を背ける。攻防は1時間続いた。

すると、外から不快なほどのクラクションが響き渡った。一台や二台ではない。町中の自動車が押し寄せてきたかのような騒音だ。嫌な不協和音である。

我慢できずに外へ出ると、道路を埋め尽くすように何百台もの自動運転車が整然と並んでいた。その先頭には、マルコが堂々と立っている。
「この車たちと、稽古をしろっていうのか?」
マルコは僕の瞳を真っ直ぐに見つめ、微動だにしない。その決意が、沈黙の中で伝わってくる。
僕は深く息を吐き、ゆっくりとうなずいた。
「わかったよ。やろう」

河川敷に、数百台ものテスラが一直線に整然と並んでいる。その無機質で滑らかな車体が夕陽に煌めいていた。対峙するのはただ一人、廻しひとつの僕。風が肌をなでる。

最前列のテスラが音もなく滑り出す。僕はぐっと腰を落とし、大地を踏み締める。70センチの距離まで迫った瞬間、僕は猛然と飛びかかった。テスラもアクセル全開。衝撃音が河川敷に轟く。肉体と機械の激しいぶつかり合い。

力は釣り合ったか。いや、徐々に押され、上体が反る。一歩後退を強いられた。足元の土が、力に耐えきれず滑り始める。それでも全力をこめ、テスラのバンパーを持ち上げた。車輪が宙に浮く。そのまま自分の左側へと投げ転がした。僕の足元には、激しく抉れた二本の線が刻まれていた。それを右足で静かに均し、「次!」と叫んだ。

続くテスラもまた、僕の身体を押し込もうと迫る。しかし怯まず、押されながらも右へと車体を投げ捨てる。
もっと速く。もっと強く。僕は一台ごとに己の限界を超えて身体をぶつけた。何度も繰り返すうち、動きは加速していく。

今なら横綱にも勝てるかもしれない。そんな自信が心に浮かんだ瞬間、目の前のテスラが突然右に曲がった。不意を突かれて体勢を崩し、車の側面に激しくぶつかった。変化だ。倒れかけるが、このまま後輪に轢かれては大変だ。地面を転がって回避する。
やってくれたな?

次のテスラの挙動を警戒している間に立ち合いが遅れ、そのまま後方へと押し出された。やはり体格で劣る自分にとって、後攻という選択肢はない。

ならば前へ出るしかない。次の一台は左へと躱した。足で急ブレーキをかけ、瞬時に身体の向きを変えると、車体の横腹を押し込んだ。しかし車体は微かに凹むだけだ。だめだ。一度止まってしまっては力が入らない。

僕はステップワークを研究した。最高の初速を出しつつ、不意の変化にもスピードを落とさず横方向に攻撃できる足の組み替えを模索した。数百台のテスラを相手に己を鍛え続ける。三十度日が沈み、昇った。雨が降り始めた。河川敷には無数の壊れたテスラが山を成していた。僕の肌は擦り切れ、廻しはボロボロになっていた。

そして最後の一台。白いオープンカーだった。衝突と同時にバンパーが大きく歪んだ瞬間、それが親方の愛車だと気づく。運転席にはマルコ。そのディスプレイには『秒速4.2m』と鮮明に表示されていた。ついに、その境地に達したのだ。

僕はそのまま渾身の力で親方のテスラを押し込み、七尺半後退させる。男の咆哮が、空高く響き渡った。

 

僕は走り出した。巡業の地へ。猫型配膳ロボットとルンバたちも後を追ってくる。

雨上がりの風は重い。凍った空気が肺に擦れる。ただ前を見つめ、ひたすら走り続けていた。巡業の最終日に間に合うかどうか。道の両側の鬱蒼とした森は、まるでここまで必死になる自分を軽蔑しているようだった。

限界はとうに過ぎていた。息が切れ、視界がぼやけ、足元がふらつき始める。思わず立ち止まり、膝に手をつく。喉がひゅうひゅうと鳴った。
僕が見つめる自身のつま先をピーターとイリスがつついた。まるでまだ諦めるなというように。
「乗れって? 無茶だよ、君たちが壊れてしまう」
だが、2台は無言で足を小突き続けている。仕方ない。その丸い体の上にそっと足を載せた。ゆっくりと動き出す。二台は完璧なまでの調和でバランスを支える。
ならば自分もと、僕はローラースケートのように地面を蹴った。速度はみるみる増していく。道は再び開ける。山を越え、丘を越え、力士は巡業の地へ滑走した。

親方のテスラのことを思い出した。テスラには内燃エンジンがないので、ボンネットの中は収納スペースになっている。ひしゃげたボンネットの中かから出てきたのは、見慣れた機械だった。スピードガン、ハンダゴテ、オシロスコープ。でも僕のものではない。栄養学の教科書もたくさん入っていた。
親方も、実はデータや科学を重視するタイプだったのだ。だけど、いやだからこそ、それだけでは強くなれないと僕に教えようとしていたのだ。
もしかしたら、ダークウェブにデータを流してくれていたのも親方かもしれない。
それは後で聞いてみよう。

ピーターの動作が突然止まった。電池切れだ。
「仕方がないな」
ピーターを抱え上げマルコに乗せる。マルコのお盆はちょうどルンバ一台が収まる大きさだった。マルコのバッテリーからケーブルを伸ばしルンバに繋ぐ。強力なバッテリーに交換しておいてよかった。マックイーンに履き替えて先を急ぐ。

耳の奥に熱い鼓動を感じながら、僕とその機械の仲間たちは、再び一心不乱に走り始めた。

僕は霧の向こうの町を見据えた。もうすぐ巡業の地に到着する。

地方体育館の扉を突き破らんばかりの勢いで開いた僕に、会場中の視線が集まった。土俵の上ではちょうど伊勢の森と駿河炎が取り組み前の練習をしているところだった。
「なんでお前がこんなところにいるんだ」
伊勢の森が怒鳴った。
「みっともない」
駿河炎は僕のボロボロの稽古廻しを見て言った。黙って睨み返す。すると、駿河炎は口元に侮蔑の笑みを浮かべて言った。
「よし。稽古をつけてやれ、伊勢の森」
望むところだった。僕は静かに土俵に上がる。駿河炎は土俵から出る際、伊勢の森に耳打ちした。伊勢の森は笑った。

両拳をついて待つ。伊勢の森も両の拳を叩きつけた。僕は鍛え上げた高速立ち会いを繰り出す。伊勢の森は左に交わした。前回の本場所では、これで簡単に負けてしまった。だが今回は違う。鋭い足捌きで方向を変え、勢いそのまま伊勢の森の脇に突撃した。巨体が宙に浮き、間もなく、伊勢の森は土俵下へと転がり落ちていった。
静まり返る会場に、小さな拍手が一つ響いた。それを皮切りに、徐々に拍手の波が広がる。しかし、駿河炎が不機嫌そうに鼻を鳴らすと、再び静寂が訪れた。
次は駿河炎だ。彼はまるで自分など相手ではないと、緊張感のない足取りで土俵に上がった。
僕は再び拳をつき、目を凝らした。駿河炎も、正面衝突で勝ち目がないことくらいわかっているはずだ。どっちだ。右か、左か。どっちでもいい。練習通りのフットワークを使えば、負けるはずがない。駿河炎が土俵を叩いた。仕切り線から二人が飛び出す。右か、左か。さあ動け。しかし、駿河炎の足には重心が偏る気配がない。まさか、正面から当たるつもりか? 駿河炎の重心がぐっと下がり、次の瞬間、視界から消えた。どこにもいない駿河炎を探して僕のつっぱりが宙を彷徨った。どこだ、どこへ行った?
その時、髷の先がわずかに空気の流れを察知した。この感覚、覚えている。マルコが投げ飛ばした土鍋が僕の頭上を通過した、あの時の感覚だった。
つまり、上だ。立ち会いで相手を飛び越えて背後を取る、八艘飛び。それならば! 振り向いている暇はない。感覚だけを頼りに両手を頭上に掲げた。その両の手のひらに駿河炎の廻しがすっと収まった。

まさか、こんな手があるとは思わなかった。やはり人間を相手にしなければ得られない経験がある。

―― そうか。そういうことだったのか

僕はその意味を、今はっきりと理解した。

―― 僕は自分は横綱みたいに強くなりたいと思っていた。目の前の相手に勝てればそれでいいという考えはしていないと。本当の強さを手に入れて、横綱と戦うんだと

でもそれを口にした時、親方は鼻で笑った。あの日から、僕は迷い続けてきた。自分は強くなりたいのか、勝ちたいのか。でもそうじゃない。親方が言ったのはそういうことじゃない。
強くなるには、強い力士と戦う他ない。戦うチャンスは勝ったものにしか与えられない。一つずつ、星を重ねるしかない。

―― 勝つか強くなるか、ではなく、強くなるために、勝つんだ

僕は駿河炎の廻しを握りしめ、身体中の力を込め、駿河炎の背中を土俵に叩きつけた。
体育館の床を這った衝撃が伝わり、会場が沸騰した。大歓声と雷のような拍手。僕は観客席を360°見渡した。来場者一人一人の目を覗き込み、その拍手が、高揚が自分に向けられていると実感した。自分は今、あの日巡業で見たあの力士たちになれたんだ。

しかし、余韻に浸る間もなかった。もう一度背後を振り向いた時、無意識に背筋が伸びた。土俵に上がってくる、まるで鋳造された鋼のような男と目があったのだ。
時の大横綱・城ノ王寺 関である。
肩から腕にかけては、無駄な贅肉ひとつない隆起した筋肉が張り詰めている。広く分厚い胸板は、まるで岩盤のようにどっしりとしており、その下に腹筋が整然と刻まれていた。腕の動きに合わせて、豹のような僧帽筋が波打つ。
歓声が小さくなっていく。横綱が蹲踞から手を打つと、建物全体に悲鳴が満ちた。横綱は仕切り線に進み出る。右足を天高く掲げ、打ち下ろす。会場の熱は最高潮に達していた。城ノ王寺が僕の目を見据えた。

僕はゆっくりと仕切り線に拳をついた。

 

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