訓練訓練、新新新校舎の理科室で火災が発生しました

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梗 概

訓練訓練、新新新校舎の理科室で火災が発生しました

夕陽山小学校の避難訓練は毎年1月。消防法でそう決まっているのでトイレの花子さんや深夜にピアノを弾く幽霊たちも避難させないといけない。ただし絶対に子供達にバレてはいけない。これが教員と地元消防署に代々伝わる伝統行事だった。

主人公は消防士の春日井ミカ。地域への防災指導も消防士の大事な仕事。ある日上司から、自身の母校、陽山小学校におけるその秘密を明かされ、担当を命じられた。

訓練前日、深夜の旧校舎を回りながら各怪異たちに避難経路を説明するミカ。例年経路は同じだが、みんな記憶が止まっているので話が噛み合わない。

ミカ「理科室から出火します」
旧校舎の元理科室の人体模型「ここか?」
ミカ「いえ、ここはもう使われていません。新校舎の理科室です」
人体模型「ああ、昭和60年にできた」
ミカ「それは新しい方の旧校舎」

徒労感に愚痴っぽくなるミカ。ちなみにミカの最近の悩みは結婚式の日程が決まらないこと。彼とは小学校で出会った。避難訓練で階段を踏み外し派手に転んだところを、同級生の助け起こされ、それ以来好きになった。彼は今自衛隊員で、この後PKOで日本を離れる。できればそれまでに式をしたい。だが結婚式場の日程が開いていない。
ということを階段の鏡の幽霊に話していたら、なんとその場を小学生に見られてしまっていた。なぜこんな時間に小学生がいるのか! 小学生が逃げ出す。


視点が小学生に映る。翌朝。実は小学生たちは、毎年避難訓練で先生たちが何かコソコソやっていることに気づいていて、悪戯好きの子達が調べていたのだ。当然鏡の話で持ちきりに。 彼らは考えた。当日、避難したふりをして校舎に残り、先生たちを監視しようじゃないか。立候補した小学生は5人。どうやって校庭での整列・点呼を誤魔化すか。被服室のトルソーに服を着せて誤魔化すことに。しかしトルソーが一個足りない。旧校舎から人体模型を持っていこう。小学生たちが旧校舎に忍び込む。

そのとき、教頭先生が訓練の放送を入れる時間を間違えてしまう。

「訓練訓練、新新新校舎の理科室で火災が発生しました」

ちなみにこの言い回しは、怪異たちとってわかりやすいようにという、伝統的な言い方だ。

これを聞いた人体模型が、「避難しなきゃ」と言って歩き出してしまう。小学生がパニックになり走り出す。たまたま増える階段を追い立てていたミカを追い越す形になる。予想外のタイミングで段が増えたので、一人の女の子が転んでしまう。それを助け起こす男の子。なんとなく恋が芽生えている雰囲気をみてミカがぼやく。

「お前だったのか」

小学生たちは、今見たことは絶対に口外しないとミカに約束させられ、校庭に連れて行いかれた。


その晩、結婚式のプランナーと電話。

「どうしても〇〇日は空いていないですか?」
「その日は法定の避難訓練が入っていまして、式の途中に避難訓練が挟まってもよければできますけども」

ミカはゲンナリした。

文字数:1193

内容に関するアピール

災害小説というのは一大ジャンルかと思いますが、避難訓練を題材にした小説って読んだことないなと思いました。多分、避難訓練を書くより本当に避難しなきゃいけなくなった時を書いた方が盛り上がるからだと思いますが、それなら避難訓練だからこそ一番面白いシチュエーションを考えようと思って出てきたのがこれです。

ちなみに次点は消防士が自分の結婚式の余興で本気の避難訓練をする、でした。そっちもいつか書きたい。

シーンを切りかえる、という課題について、ドラえもんを参考にしました。ドラえもんのアニメでは、「ここから大変なことが起こるな」という瞬間に視点人物が切り替わることに気づきました。

『誰かが大失敗する(加害者)』→『何も知らない人が通りがかる(被害者)』→『大パニック』→『加害者が戻ってきてフォロー』→『加害者達の反省会』というフォーマットがあることに気づいたので、それに則りました。

文字数:386

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訓練訓練、新新新校舎の理科室で火災が発生しました

深夜の校舎を歩いていた。足音が緑色の床にキチキチと響く。だが、それとは違う足音が遠くから聞こえた気がした。私は立ち止まる。音が反響を収めると、世界は無音に戻った。気のせいだ。自分にそう言い聞かせる。
夜の校舎は怖い。もしお化けが出たら? そんな不安が頭をもたげる。だが、何も出なかったときのほうが、もっと心配だった。

ポケットから鍵束を取り出そうとした拍子に手が滑った。鍵が床に落ち、甲高い音を立てる。心臓が跳ね上がった。誰かに聞かれたらどうしよう。この世のものではない“誰か”に。

署長から預かった鍵束には、金属の輪に無数の鍵がぶら下がっていた。それをそっと拾い上げ、理科室の鍵を選ぶ。
真鍮の鍵を鍵穴に差し込み、ゆっくり回そうとしたが、固くて動かない。息を止め、力任せに回す。ガコ、という大きな音に、心臓が止まりそうになった。
私は息を吐き、鍵を抜き取る。引き戸の取っ手に手をかけた瞬間。
扉が、勝手に開いた。
喉の奥から、かすれた悲鳴が漏れる。咄嗟に後ずさろうとしたが、足が氷に張りついたように動かない。上体を支えきれず、景色が前方に流れる。
腰から入った衝撃が頭頂部に抜けた。左手のひらに床の冷たさがじんと伝わる。
視界が定まった瞬間、私は叫んでいた。
開け放たれたドアの前に立っていたのは、懐中電灯に照らされた、人間の骨だった。

骨は腰に手を当て、呆れたように言った。
「失礼なやつだな。人の顔見て大声出すなんて」
一歩、こちらへ踏み出す。節々が揺れ、カチャカチャと音を立てた。私は足に力を込め、なんとか後ずさる。
「で、君だれ?」
甲高いだみ声は、どこかスネ夫を思わせる。
「あ、あの、夕陽山消防署の春日井ミカと申します」
骨は腰をかがめ、顔をぐっと近づけた。
「消防士? こんなちんちくりんが?」
ちんちくりん? 何のこと? 身長? まさか私の? 小さいから消防士に見えないってこと? それとも顔?
この春日井の顔つきが消防士っぽくないとでも言いたいのか、こいつ。
ガイコツのくせに?
気づけば、私は鼻先を押し付けるように詰め寄っていた。
「消防士です。地域の安全を守っております」
眼球のない瞳が、じっと私を見つめる。三秒、四秒——長い沈黙が続く。黒板の上の時計が、サクリと音を立てた。
「まあいいや」
ガイコツは体を起こし、再び腰に手を当てる。
「消防士が来るってことは、今年もアレの季節か」
「わかってるならいいです」
私は膝をたたんで立ち上がった。

幽霊たちの避難訓練
夕陽山小学校の避難訓練は毎年1月下旬に行われる。消防法で決まっているため、怪異の骨格標本や深夜にピアノを弾く幽霊たちも避難させなければならない。らしい。春日井には法律がわからぬ。
この行事は、夕陽山消防署と夕陽山小学校の一部の職員により、秘密裏に毎年連綿と伝えられてきたのだ。私もさっき知った。
「絶対に児童にバレないでネ」
と署長は言った。
そして秘密を明かされると同時にこの不名誉な担当を押し付けられた私は、こうして夜中にその準備にやってきたのだった。
私だって、本当に学校に幽霊がいるなんて信じていなかった。こいつを見るまでは。

「いやぁ、この季節になると舌骨がイガイガするよね」
深夜に動き出す骨格標本は、やれやれと両手を広げた。怪異にしては呑気なものだ。
「ねえ消防士、なんで避難訓練っていつも寒いの?」
「阪神大震災にちなんで1月、じゃないですか?」
「ああ、あれ。怖かったよね」
「生まれてないです」
「まじ? あんなにユラユラしたのに」
ガイコツが体中の骨を揺らす。いや、そもそも体中、骨しかないんだけど。
突然、彼は天を仰いで動きを止めた。……なんだ、MP切れか?
「ぶえぇぇくしゅっ! ああ、肋骨が!」
しゃがみ込み、自分の骨を拾い集めるガイコツ。哀れだ。あまり雑談に付き合っても時間の無駄だ。私は話を切り上げた。
「今から避難経路を説明しますので、よく聞いてくださいね」
肋骨を脊椎に引っ掛けながら、ガイコツはホイホイと適当な返事をした。やる気あんのか?

「まず、お昼の11時に『理科室から出火しました』って放送が入ります」
「理科室? ここ?」
「いえ、ここはもう使われていません。新校舎の理科室です」
「ああ、昭和60年にできた」
「それは新しい方の旧校舎」
どうやら記憶が止まっているらしい。
「子供たちは校庭に避難するので、私たちは鉢合わせないルートを通って裏庭に行きます。迎えに来ますから、大人しくしていてくださいね」
「避難くらい一人でできるわい」
私は彼の鎖骨を人差し指でつつき、低い声で念を押す。
「絶対に動かないでください。子供たちに見られたら大変なことになります」
そう言って、くるりと踵を返す。
「じゃ」
歩き出そうとしたそのとき、白骨の手のひらが肩に置かれた。本来ならホラーである。
「ちょい待ち」
「なんすか?」
仕方なく振り向く。骨格標本が、じっと私を見つめた。
「あんた」
「何?」
彼はたっぷり時間をかけて、私の顔をじっくりと見つめた。
「この学校にいたことある? 十年くらい前に」
「さあ、何のことでしょう」
「絶対そうだ。避難訓練で転んでた子」
舌打ちが出た。
「バレたか」
「なんで隠すのよ」
「妖怪に顔覚えられてるほど恐ろしいことないわ」
私は手を振り払って、その場を離れた。

次は、呪われた鏡の担当だ。

学校のどこかによからぬ鏡があるらしい。そんな噂は聞いていたが、それがまさか本館にある鏡だとは思わなかった。私が勝手に思い描いていたのは、旧校舎のどこかの薄暗い一室で青白く光っているような、一見して怪しげな鏡。ところが、昭和の終わりに建てられた比較的新しい本館に呪いの鏡があるとは意外だ。聞けば、竣工の際に旧校舎にいた古参の怪異が目撃されなくなり、その代わりにこの鏡がおかしくなったという。幽霊の世界にも人事異動みたいなものがあるのかもしれない。
署長の指示どおり、私は西側階段の一階と二階の間にある踊り場へ向かった。そこにはA4サイズほどの鏡が壁に貼り付けられていた。近づくほどに像が広がるから、確かに鏡であることは間違いない。それなのに、そこに私の姿は映っていなかった。やはり普通ではない。もしかしてだまし絵のようなトリックかも、と思っていろいろな角度から覗き込んでみる。しかし、鏡の中の天井や壁は、現実のそれと何ら変わらない。ただ私がいない、そこだけが違っていた。

署長から聞いていたとおり、鏡の枠まわりの壁には細い線が入っている。ここが私の明日の最大の任務に関係する部分だという。なんでも、この壁は鏡に沿ってくり抜かれていて、外側から鏡ごと外せる仕掛けになっているらしい。ちょうどジャガイモで作る空気鉄砲のように。
「だったら鏡を外して運べばいいのに」と言いったら、そうすると部屋ごと呪われかねないらしい。

では、壁を外してどうするのか。
窓を開けて壁の裏側を見てみると、四つのフックが取り付けてあった。私は命綱を装着し、窓から身を乗り出して、そのフックに四点ベルトを取り付ける。明日、私がこの壁を背負い、ロープで下まで降りるのだ。そんな無茶な。

「僕も昔やったなア」じゃないんだ署長。

部屋に戻り、あらためて鏡を眺める。すると、鏡の中に人影が映った。階段を降りてくる小学生の一団だ。思わず振り返るが、こちらの世界には私以外に誰もいない。静寂そのもの。再び鏡のほうに目を戻すと、子どもたちはつまらなそうな顔をしながら、最低限の秩序を保ちつつダラダラと踊り場を回って下へ降りていく。そして当然ながら、鏡の中にも私の姿はない。にもかかわらず、子どもたちは私を避けるような動きをしている。まるで川の流れの中にある岩のように、私の部分だけ人の流れがぽっかりと空白になっているのだ。

突然、何人かの小学生が後ろを振り返り、列が乱れた。後ろの子が迷惑そうに顔をしかめ、なにやら小声で呟いている。文句でも言ったのだろうか。しかし、その子も釣られるように後ろを振り返った途端、周りを突き飛ばしながら階段を駆け下り始めた。そこから一気に混乱が広がる。後方から別の列が追いついてきて、誰も何が起こっているのかわからない顔をしている。
危ない。群衆事故寸前だ。
そう思った瞬間、階段の中ほどで一人の女の子が転倒した。それが誰なのかはすぐにわかった。私だ。私は大根のように段の角ですりおろされながら、ずるずると滑り落ちていく。立ち上がりたいのに人波に揉まれるばかり。すると、私を助けようとする手が二つ伸びてきた。一つは当時仲の良かった女の子。もう片方で私を引き上げてくれたのは。
「宏太」
思わず声が出た。私は下町の酔っ払いのように二人に支えられ、階下へ姿を消す。その最後に宏太がこちらを振り返り、鏡越しに視線が合う。意地悪そうな笑みを浮かべる彼。それを見て私ははっとして後ろを振り返り、階段の下を覗き込んだ。うっかり一歩踏み出してしまい、腹のあたりに何かぶつかるような感触があったが、もちろん誰もいない。再び鏡を見ると、もうそこには誰の姿もなかった。

今目撃した幻は、私と宏太の関係が始まった頃の再現だ。意地の悪い鏡め。私はコレがきっかけで彼を意識し始め、中学卒業後は深い関係になった。高校を卒業して就職して、しばらく経ってから結婚。いま私は、彼が結婚相手としてふさわしくなかったことを後悔している。仕事が続かず、ギャンブルに浸り、実は高校時代からタバコを吸っていた。それがわかってからも私は見て見ぬふりを続けていたわけで、後知恵だとは言えない。当時から彼はいじめっ子で有名だったし、たった一度の優しさにほだされるなんて致命的な判断ミスだった。
どこで間違ったのか考えれば考えるほど、あの時に転ばなければよかったという結論に行き着く。人生の汚点というより、あの日からずっと誤り続けているのだから、これは汚線だ。

消防士として声を大にして言いたい。避難訓練は、まず安全第一でなければならない。こうした事故が起こりうるからだ。原因究明と再発防止を強く求める所存である。断っておくが、私は決して何もないところで転ぶような運動音痴ではない。

そのとき、鏡の向こうの階段上に、一人の女の子が立っているのが見えた。彼女はじっとこちらを見つめながら、一歩後ずさる。キュッという靴音がした。やっぱり懐かしい廊下の音。音?
私もはっと振り返った。少女はものすごい勢いで走り去っていく。フードが一瞬だけふわりとしたのが見えた。まずい。あれは幽霊じゃなく、本物の人間だ。この状況で人間に見られるのは、幽霊に遭遇するよりよほどまずい。
慌てて階段を駆け上がろうとして命綱に阻まれる。畜生め。

いけない。見られちゃった。
私は走った。学校の廊下は本来、走ってはいけないことになっている。けれど、消火栓のランプだけが頼りの暗い廊下を、全力で駆け抜けるしかなかった。後ろからは彼女の足音が追ってくる。追いつかれてはいけない。もし捕まったら、殺されるのか、食べられるのか。何しろあの女は、さっき鏡に映っていなかった。幽霊に決まっている。

背後から視線を感じる恐怖に耐えきれず、私はT字路を曲がって東階段へ。下り階段と上り階段があるなかで、頭では出口に向かう下りが正解だとわかっていた。それなのに、足は勝手に上りの段を選んでいた。さっき見た光景がフラッシュバックして、下からヌッとあの女が顔を出すイメージが離れなかったのだ。

一段目を踏んだら、もう戻れない。さらに左足は二段目ではなく三段目を飛ばして踏む。0.1秒でも早く上へ逃げたい。必死に踊り場まで駆け上がり、ようやく一瞬の呼吸を整える。階段の下では女が姿を現した。お願いだから、下りを選んで。そう祈ったものの、女はなぜか上り階段を選択した。私は慌てて残りの階段を一気に駆け上がる。

三階に着いても、学校の廊下はどこも同じだ。左右に教室のドアが並ぶだけで、夜間はすべて鍵がかかっているはず。となると、西階段まで走るしかない。でもそこまで走ったら、きっと追いつかれる。そんな不安が頭をよぎったとき、廊下の突き当たりにトイレを思い出した。私は迷わず飛び込む。

暗いトイレに入り込んだ瞬間、少しだけホッとした。こんな真夜中のトイレを心強いと感じる日が来るなんて思わなかった。暗さのおかげで、もし女が通りがかりに中を覗いても気づかれないだろう。
と安心したのも束の間、パチンと乾いた音がしたかと思うと、廊下の照明がついた。ほのかな明かりがトイレ内に流れ込んでくる。足音が近づいてきた。どうしよう。逃げ場がない。個室に隠れたら、だめ、かえって追い詰められる。ふと目に留まったのは、一番奥にあるスリガラスの窓だった。

私は一気に窓辺まで走り、そっと窓を開ける。校舎の外壁には、なんとか人が一人立てそうな程度の小さな足場がある。もうここしかない。窓から外へ身を乗り出し、その足場に飛び移る。思ったより高低差があって、着地したとき少し焦ったが、なんとか落ちずに立てた。背伸びすれば、ギリギリ窓から中を覗ける程度の位置だ。すぐに窓を閉めると同時に、トイレの電気が点いた。間一髪だった。女が中に入ってきた気配を感じる。私は身を低くして、じっと息を殺す。

吹きつける風が耳を叩き、暗い夜空を見下ろすと、ここは三階。下の様子がよく見えないけれど、もしかしたら私は今、とんでもなく危ない状況なのかもしれない。女はすぐにトイレを出ていった。私はほっと安堵し、そっと窓を開ける。中に戻ろうと窓枠に手をかけ、体を持ち上げる。ところが、思った以上に力が要る。だけど、この外壁そとかべにぽっこり出た足場が床と同じ高さにあるとは限らないんだ。
そういうこともあるわな、と気を取り直し、もう一回体を持ち上げる。上がらない。そんなバカな。今度は腕を引きながら、足のつま先を壁にこすりつけてみる。すぐに滑ってしまった。
もしかしたら私、とんでもなくピンチかもしれない。

明日必要なものをランドセルに詰め終わり、あとはもう寝るだけという時間になって、突然母に呼ばれた。
階段を降りてリビングに行くと、不思議そうな顔をした母が俺にスマートフォンを差し出す。
「電話。あんたにだって」

画面を見ると、表示されているのは「柿田ママ」。
柿田といえばクラスの柿田メグだろう。そんなに喋ったことない女子の母親が突然何だと思いながらガラスを耳に押し当てた。
「はい」
『拓也?』

電話口の向こうにいるのは柿田ママだろうという予想は大きく外れていた。まさかの柿田娘だった。
「……なんだ、メグか」
『志乃、探してほしいの』
切羽詰まったような、それでいて少し声を押し殺したような声だった。
「どうして?」
『志乃が行方不明になったの』
「そりゃ大変だ。そんなことなら警さ――」
『待って!』

いきなり遮られた。正直なところ、俺は普段からメグがあまり好きじゃなかった。いつも偉そうに指図してくるタイプだから。
『そこにあなたのお母さんいる?』
「いるけど」
『じゃあ、そういうこと言わないで。うまく返事して』
何様だお前。
『志乃がね、今日の夜に学校に行って、それから行き先がわからないの。今みんなで探してる。親にも学校にも警察にもいえない事情。拓也も手伝って欲しい』
こんな時間に外出できるわけないだろ。
『もう家、出れないよね』
「うん」
『じゃあ、なんとか抜け出してきて』
「無理」
『お願い。校門の前に集合して。とりあえず電話切るから。お母さんに何か聞かれても適当にごまかして。あと軍手持ってきてね。じゃあ』
本当に電話が切れてしまった。
そもそも何で志乃が夜の学校にいたのか、どうして俺に捜索を手伝わせるのか、親に言えない事情って何なのか、すべてが謎のままだ。

リビングで待ち構えていた母には、
「計算ドリルを写させてほしいから、明日早く来てって言われた」
とだけ説明した。

やむを得ない。こんなこと初めてだ。俺は家を抜け出した。

夜の道を歩いて学校へ行くと、校門の明かりの下に人影が二つ。どちらも同学年の男子らしいシルエットで、寒そうに両腕をさすっている。俺が坂を上がって近づくと、そのうちの一人が片手を挙げた。白い息が街灯に浮かぶ。
「諒もいたのか」
「ああ。清一郎もいるぞ」
見れば、確かにクラスメイトの諒と清一郎が立っていた。
「どういう事情なんだ?」
俺が訊いても、二人とも首をかしげる。
「僕も詳しいことは知らないんだ」
メガネをかけた清一郎が答えた。

そんな会話をしていると、校舎の方から女子が一人、夜闇に紛れて走ってくるのが見えた。
「お出ました」
小馬鹿にしたように諒が言った。
門扉の反対側に来たメグは開口一番言った。
「こんなところにいたらバレるでしょ」
そして背を向けて走り出した。俺たち三人が顔を見合わせていると、首だけ振り返り、
「早く来て」
と言った。

メグは本館の裏に周り、外階段の壁によじ登った。そこから排気口に足をかけ、校舎裏口の上に突き出たコンクリート製の日除けに跳び乗る。お腹の高さの網入りガラスをそっと開き、足をかけて中に入った。
彼女は窓から顔を出し、こちらを手招きする。仕方なしに俺たちも後を追った。諒は簡単に日除けに到達できた。俺と清一郎は、排気口から日よけに跳び乗るのがうまくできなかったので、諒に手を引っ張ってもらった。
窓から入った部屋、外の街灯の明かりがかろうじて入ってくるだけでとても暗く、ひどい埃の匂いしか感じられなかった。
「倉庫か?」
諒が聞いた。
少しずつ目が慣れてきた。細長い室内の両側にはスチール棚が立っていて、そこにはダンボールやカゴに入ったロープやボビンみたいな延長ケーブルがしまわれていることがわかった。
メグが答えた。
「開けておいたの。この倉庫、内鍵だから、窓の鍵開けとけば校舎に入れる」
そしてメグは部屋を横切ってドアの前に立つと、ドアノブを握って言った。
「絶対に先生にバレないでよ」
メグは慎重に金属製のドアを開けた。しかし、ドアは重く、立て付けが悪いようで、細く開けるだけで大きな音がした。
様子を伺い、忍び足で外に出た。俺たちも黙ってついて行く。メグは手に懐中電灯を持っていたが、頑なに点けなかった。月明かりだけが頼りの廊下だった。
階段の前に来てメグが、声をひそめて言った。
「じゃあ、分担。諒が三階、拓也が二階、清一郎が一階。隅々まで確認してドアも窓も全部、鍵が空いてないか手で確認すること。20分後にここに集合して。くれぐれもバレないでね。じゃ、私は別の校舎行くから」
メグが去ろうとしたところで、諒が言った。
「その前に説明しろよ。志乃はなんでこんな時間に学校にいるんだ」
「……忘れ物取りに来たんじゃない?」
「何でいなくなった」
「知らないわよ」
「じゃあ、いなくなったことを何でお前が知ってる」
メグは黙った。
「お前はスマートフォンを持っていない。なのに、志乃がいなくなったと知っているのは、お前も夜まで一緒にいたんだろ。学校に」
メグは数秒の間をおいて、突き放すように答えた。
「今は話す時間がない。早く見つけて」
「話さないなら俺は手伝わん」
諒が威嚇するように胸を張った。メグも腰に手を当て対戦モードに入る。暗くてシルエットしか見えないが、二人の顔はすごい形相になっていることだろう。火の粉飛んできませんように。
その時、恐る恐ると言った口ぶりで清一郎が切り出した。
「ねえ、ちょっといい」
清一郎は階段の踊り場の一点を指さしていた。しかし、何かを訴えようとした彼は諒とメグの影に睨みつけられ、喉の奥からヒッと音を出して固まってしまった。俺は、彼の言わんとすることがわかったので、代打を買って出た。
「あそこ、鏡あったことない?」
全員が一斉に階下の壁を凝視した。メグが階段を降りていった。諒が後に続いたので俺もついて行く。メグは懐中電灯をつけた。
「ネジ穴がある。壁の色の落ち方を見ると最近外されたみたい」
全員で繁々と壁を眺める。
その時のこと。
「おい、誰かいるのか?」
誰かがこちらを呼んだ。一階からだった。
俺たち三人はハッと顔を見合わせたが、メグはお構いなしに俺の胸ぐらを掴み登り階段に向かって走り出した。転倒しないよう慌てて足を動かすと、「音立てないで」と小声で一喝された。ひどい。
二階の廊下をすり足で走る。さっきの倉庫に戻りメグがノブをひねる。しかし、ドアは開かなかった。
「何でよ」
メグが毒づいた。そして再び走り出す。廊下の中程で、ドアが一つ開いていた。俺たちはとにかく飛び込んだ。紙の匂いでわかる。図書室だ。

書架の間に身を潜め、息を整える。俺たちを追ってきた足音は、図書室の前を素通りしていった。四人の息音だけが、小さく響いた。
ところが、突然人の声が聞こえた。
「明日の10時45分くらいにきますからね」
誰かと話しているようだ。メグが書架からそっと顔を出してそちらをみた。その下に諒も顔を並べる。俺がその下に頭を入れる。反対側からは団子三兄弟に見えるだろう。
月明かりに照らされて、女の人が一人立っていた。深い青をベースにオレンジのラインが入ったジャンパーと、角張った帽子。
「消防士?」
諒が囁いた。清一郎も見ようと俺のお腹の下に頭を差し込んでくる。短い髪が顎に刺さり俺はとっさにのけぞる。しかし、そのせいで、諒の顎を強打してしまった。
「おごっ」
諒が飛び退く。飛び退こうとした。しかし、当然その上にはメグがいるのだ。
「いっ」
最後の『た』はかろうじて飲み込んだものの、彼女を振り向かせるには十分な声だった。はっきりと目があってしまった。
「まずい」
メグは思案ゼロ秒で走り出した。諒も同時だった。俺も慌てて後を追う。
「ちょっとまって」
帽子の女性が叫んだ。

メグが階段を駆け上がる。俺も後を追う。振り返ると後ろから女が追ってくる。とにかく走らなければ。二人の足が速すぎて、階段のT字路にたどり着いた時には完全に見失っていた。足音も聞こえない。どこいったんだよ。ふらふらになった俺は途方に暮れながら校舎の反対側に向かって歩き始めた。と、突然横から腕を掴まれ、俺は闇に引き込まれた。
倒れ込んだここが何部屋の床か、匂いでわかる。
「トイレかよ」
「静かに」
……え、誰? 女の子の声だが、明らかにメグの声じゃない。廊下の電気が灯った。明るさが流れ込んでくる。これはまずい。この暗さなら追っ手をやり過ごせるかと思ったが、こうも明るくなってしまえば、覗き込まれたら終わりだ。個室に逃げ込むか、いや、一個だけ個室が閉まっていたら明らかに怪しい。相手が調べにきたら詰みである。全部の個室を閉めてからどれかに潜むか。良い手だと思ったが時間がない。どうしようか。というか、ここ小便器がないしスリッパが赤色じゃないか。女子便かよ。
「立って」
俺を連れ込んだ人が俺の二の腕を掴んだ。言われるがままに立ち上がる。
「振り向かないで」
そして、彼女に背中を押され俺はトイレの奥へ進んでいく。彼女は一番奥の窓に手をかざした。彼女と壁に挟まれたこれはカベドンというやつでは。彼女が窓を開けた。
「そこに隠れて」
「え、どういうこと」
「早く」
窓の下を見ると、二つのものが目に入った。まず、人が一人いた。
「志乃!」
体操座りの女がハッと顔を上げた。
「拓也……君?」
もう一つは、そう、窓の外には人が一人立てるくらいのコンクリートの出っ張りがあったのだ。
「ちょっとスペース開けてくれ」
「きちゃダメ!」
俺は窓のサンによじ登った。そして窓枠を握りしめて飛び降りる。一瞬、背中を押した女の赤いワンピースが見えた気がしたが、飛び降りる拍子に外腿を壁に擦ってしまい、それどころではなくなった。ここで横方向にバウンドすると俺は宙に投げ出される。腕に精一杯の力を入れて自分を壁に引きつけ、何とか踏みとどまった。
窓が閉まった。女が閉めたのだろう。その瞬間、窓が発光した。
「誰かいる?」
声の主は見えないが、声の距離から推測するにトイレの入り口ドア付近から叫んでいるようだ。
「誰かいますかぁ? 誰かぁ?」
哀願するような声を出しながらこちらに近づいてきた。おそらく個室を一つ一つ覗いているのであろうくらいの時間をかけて、彼女はこちらにやってきた。
「誰もいないのかなぁ」
俺は彼女の気配をアンテナに入れつつ、志乃に聞いた。
「お前、何でこんなところにいるんだ」
「逃げてきた」
「そうじゃなくて、何で夜の学校にいるんだよ」
「話せば長いんだけどね。去年」
急にスケールの大きな話になった。
「去年、塾の帰り道に学校の前を通ったの。そうしたら、なんか大人の人が何人もいて、コソコソ作業してたの」
「コソコソ?」
「電気もつけず」
「それで」
「その時はそんなこともあるかなと思って。で、後でその話をお姉ちゃんにしたのね。そうしたらお姉ちゃんも昔見たことあるって。それがたまたま避難訓練の前の日のことだったんだって。偶然かなと思ったんだけど。でも、お姉ちゃんがいうには、避難訓練の前の日と当日に先生たちがなんかコソコソやってるって、昔から噂だったらしいのね」
普通に考えたら避難訓練の準備だろう。
「っていう話をメグちゃんにしたら、じゃあみんなで見張ろうって言い出して、女子6人くらいで学校に忍び込んだの」
迷惑なリーダーシップもあったものだ。
「そうしたら、私幽霊みたいな女の人に見つかっちゃって、逃げてたらここに」
「何だ幽霊って」
「帽子かぶってた」
「ああ、それは多分、消防士だ」
「見たの?」
「見た」
「私も見たの。その女の人、鏡に映ってなかったの」
志乃は小声ながらも緊迫した口調で言った。
「……見間ちがいだろ」
志乃は傷ついたような顔を浮かべて俺の顔を覗き込んだ。そんな目で見るなよ。
「戻ろう」
もうあいつは去ったはずだ。俺は再び窓を開ける。サンに手をかけた。ところが、高すぎて乗り越えられない。腕の力だけでは絶対無理。落ち着け。壁に足をかけてみる。滑ってうまくいかない。ジャンプしてみる。
「おい、戻れないぞ」
「だから来ちゃダメって……」
志乃が泣きそうな顔を浮かべた。
「どうするよ」
「……背中に乗せて」
「どうやって」
「中腰になって背中を水平にして」
どうして女子はみんなこうも自己中なのか。仕方がない。俺は膝に手をついてしゃがんだ。彼女が土足を腰の上に置く。
「あげるぞ」
俺はゆっくり膝を伸ばす。志乃が俺を踏む力がふっと軽くなった。タンッと軽い音がした。彼女は窓の向こうに帰れたようだ。
「じゃあ、俺を引っ張ってくれ」
俺は再び両手をサンにかけた。志乃が俺の服の背中を掴む。力一杯引き上げる。しかし、俺の体は全く浮き上がらない。
「ごめん、無理」
急に彼女の腕の力が抜けた。
「ごめん、私じゃ無理」
彼女は、とても悲しそうな顔をしていた。悲しいのは俺だ。

その後、戻ってきた諒とメグに発見された俺は、二人に引っ張りあげられてことなきを得た。
メグによると、今日の事態はこういうことらしい。志乃が行方不明になったので、最初は残った女子5人で探していたのだが、4人が帰ってしまい、仕方がないので一度家に戻り、俺たちを呼び出した、とそういう話らしい。
毒気を抜かれた俺たちは、早々と立ち去ることにした。門を出て、夜のアスファルトを歩きながら、メグに聞いてみた。
「なあ、何でお前は調べようと思ったんだ?」
「気になったから」
「なんで」
メグは少し黙った。
「私、他の学校の友達に聞いたんだけどさ」
何の話やねん。
「その学校、他のクラスが音楽の授業を始めるとすごくうるさいんだって。歌とか楽器とか」
「へえ」
「拓也、今まで他のクラスの音楽の授業がうるさいって感じたことある?」
言われてみれば、ない。
「それ以来、何でうちの音楽室はあんなに防音してるんだろうって」
俺はふと、緑色のフェンスの向こうの音楽室を見た。四つの校舎の中では一番新しい、通称『新館』の4階。
「良いことじゃないか」
「まあ、そうかもね」
メグは俺の前を歩いていく。
「でも、時々夜に学校の前を通ると、なんかあの部屋に誰かいる気がする。姿は見えないんだけど。気配というか」
「先生でしょ? 仕事してるんじゃねーの」
「電気もつけずに?」
「電球切れてたんだろ」
メグは鼻を鳴らした。
「先生たちが、何か隠し事をしているんだろうなって思ったら調べたくなった」
そうかい。
「まあ、もういいわ」
何かを投げ捨てるような口調だった。メグは足を早めて俺たち4人を置いていった。

ところが話はそれで終わらなかった。翌日のことである。
志乃が教室に姿を現すと、教室がワッと湧いた。美由紀ら数人の女子に取り囲まれ、昨日はどうしたんだと質問攻めに合う。志乃は、ありのままをペラペラと喋った。俺はメグを盗み見た。メグは面白くなさそうな顔をしていた。分かる。分かるぞ。結局頑張ったのは俺たちなのに、なに同じ目線に立とうとしてるんだよ。でも、メグが黙って机を睨んでいるのに俺が口を挟むことじゃない。
「え、それ絶対見間違いだよ」
「ちゃんと見た?」
急に美由紀たちの声が大きくなった。志乃はちょうど鏡に映らない女を見たくだりを説明しているところだった。美由紀たちは全く信じようとしない。それは仕方ないとして、どこか志乃を馬鹿にしたような響きさえある。お前ら志乃を見捨てた分際でよくいえるな。
「そうしたら、拓也くんも戻れなくなっちゃって」
また笑い声が大きくなった。俺はつい我慢できなかった。
「おい志乃、もう良いだろ」
志乃はキョトンとして言った。
「何が?」
「その話」
ところが美由紀たちはそれを照れから出た言葉だと捉えたようで、より調子づき、続きを聞かせろと迫った。
「やめろよ」
今度はちょっと強く言った。すると、横からメグが俺に言った。
「放っときな」
とても冷たい言葉だった。最初は誰もその意味を考えなかった。だけど、みんながメグの顔をうかがったせいで、教室は少し静かになった。その静かさが静かさを呼び、ついに無音の空間となる。全員の視線がメグに集まる。
だが、メグは何も言わないし、誰とも目を合わせない。
美由紀が急に歩み出て来て言った。
「何アンタ、なんか言いたいことあるの?」
「なんも」
「ひょっとしてウチが先に帰ったこと言ってるの? あんな時間だから仕方ないでしょ」
「だから何も言ってない」
「じゃあその態度なに。元々アンタが言い出したんでしょ。私が仕方なくちょっと手伝ってあげたら、今度はそうやって仇で返すの?」
メグは何も言わない。するとさらに美由紀が近寄ってきていった。
「だいたい、アンタいつも命令口調で鬱陶しいんだよね」
それは俺も思ってた。チラッと諒を見ると目が合ってしまった。
「夜の学校で陰謀とか馬鹿なこと言い出して、結局なんか見つかったんかよ」
美由紀がメグの机の足を蹴った。
「おいやめとけ」
流石に注意した。だが、メグはボソリと言った。
「見つけたよ」
美由紀が一瞬驚いた顔を浮かべた。
「何を」
「まだ証拠を押さえてない」
急に嘲りの顔に変わった。
「ないんだろ」
「ある。先生たちは、私たちが避難訓練をしている間に何かをしている。私はこれからそれを調べる」
美由紀はついていけないというふうに、顔に疑問符を浮かべた。
「どうやって」
するとメグがスクっと背筋を伸ばし、高らかに宣言した。
「私は避難訓練が始まったら校舎に残る。それで、先生たちが何をしているのか見る」
その場にいる全員がドン引きしていた。最初に気を取り戻したのは美由紀だった。
「先生、要所要所で人数数えるよ。どうするの」
こいつ意外と頭回るな。
「被覆室からトルソー持ってくる。私の服と帽子着せるから、美由紀、アンタそれ持って歩きなさい」
ぶはっと美由紀が笑い出した。
「良いわよ。やってやるわよ。探偵様のために」
心底馬鹿にした笑いだった。

2時間目が終わったところで、俺とメグと諒と志乃と清一郎の5人は被覆室に向かった。だが、あいにく鍵が閉まっていた。当たり前か。
「旧校舎に人体模型があったはず。それで行きましょう」
メグがあっさりいった。
「絶対バレるだろ。てか、それ抱えて歩く人恥ずかしすぎでしょ」
「美由紀だから別に」
そういう問題かよ。
旧校舎の理科室の鍵はあいていた。しかし、そこに置いてあったのは内臓や筋肉が詰まったいわゆる人体模型ではなく、骨だけの骨格標本だった。
「流石にこれは無理だろ、メグ」
俺はガイコツの背中に腕を回していった。メグは骨格標本の胸を穴が開くほど見つめ、「ギリいけるか」などと呟いている。
「絶対無理。諦めてトルソーを取りにいこう。忘れ物したとか言って職員室に鍵取りに行けば貸してもらえるだろ」
その時だった。スピーカーから教頭先生の声が発せられた。
『訓練訓練。新新新校舎の理科室で火災が発生しました』
俺は無意識にスピーカーにむけていた視線を時計に移す。まだ10時30分。避難訓練は11時からのはずでは!?
全員で顔を見合わせた。何でだ。
すると、俺の腕に微かな振動が伝わった。
「動いた?」
俺がガイコツを見つめる。
「何が?」
諒がいぶかしげに聞いてきた。
「だからガイコツ」
「動くかよ」
だが、みるみる間に背筋が伸びていく。その揺れが節々に伝わり、風の日の竹林のように乾いた音を立てる。全員が一斉に飛び退いた。口を押さえ、瞼を広げに広げてその現象を見つめる。その顎が、上下に動きだした。
「もう時間か。避難しなきゃ」
骨格標本は自身を吊るしていた銀色の支柱から飛び降り、真っ直ぐこちらに向かってきたではないか。全員が我を忘れて走り出した。しかし、一人鈍臭い奴がいた。清一郎である。俺は清一郎にぶつかり転倒した。その衝撃で気を取り戻した清一郎がかけ出す。俺だけが残されたじゃないか。後ろを振り返ると、骨格標本がもうそこまできている。俺は体勢を立て直すこともできずに理科室を這い出した。
待ってくれよ。先に行った4人に遅れまいと階段をかけ下りる。二段飛ばしで。三段飛ばしで。
突然つんのめった。足の裏が半拍早く接地したのだ。脳内のイメージに比べて歩幅がやや小さかったのだろう。踵が想像より20cm上の段を打った。不慮のタイミングでの衝撃に膝が折れた。体を支えられず、俺は投げ出された。
咄嗟に両手を突き出すも、床の重さに耐えられず、額をしたたか打ちつけた。それでも自分の勢いが止まらない。体が滑り下りるたびに、胸が鰹節のように削りあげられていく。
痛い。でも逃げなきゃ。いや、体が動かない。もう俺はダメだ。
「大丈夫か」
すぐに諒が駆け寄ってきた。諒は俺の右肩に腕を差し入れた。そして、もう一方の肩にも。
メグ――、と言おうと思ったが、口内に激痛が走った。中を切っていたのだ。
「喋るな」
メグがそれだけ言うと、二人は俺を引きずって走り出した。痛くて身体中動かせなかった。唯一動かせたのは瞳だけだった。その瞳は、メグの指先を見ていた。それからちらと、メグの揺れる髪先と、その後ろの白い首を隠し見た。

こんなところにどうやってグランドピアノを運んだんだろう、と思うことはよくある。体育館、デパート、ビルの屋上。
実はピアノというものは分解できるそうだ。特に足は取り外ししやすくなっていて、あとは縦にするだけで大体の扉を通過できる。夢のない話だった。

夕陽山小学校でも、昔はそうやっていたらしい。だが今は違う。
「じゃあ頑張ろうネ」
ピアノの前に立った署長のおっさんがニッコニコでいった。
普通、音楽室に限らず学校の教室のドアなんて人が一人通れるくらいのものだろう。なのに、なぜかこの部屋のドアは2m以上に広げることができる。何と、この怪異のピアノを避難訓練させるための特注の音楽室なのだ。もはやどっちが主目的かわからない。しかも、この新校舎にはバカでかいエレベーターまでついているのだ。自分が通っていた頃は、何に使うんだと思っていたが、一つ謎が解けた。
「まだもうちょっと時間あるネ」
署長が時計を見ていった。
私はバインダーに目を落とした。夕陽山小学校の七不思議は、歩き出す理科室の骨格標本、呪われた鏡、秘密結社への入会方法が書いてある本、増える階段、勝手に鳴るピアノ、保健室のロッカーの血濡れの白衣、時々本が変わる二宮金次郎像。金次郎は外にいるから、今日は考えなくて良い。
「じゃあ私、最後に見回りしてきます」
署長は笑顔で答えた。
「頼むよ」

放送がかかってから最短で避難完了できるように、手順は設計してある。けれど、本人がそこにいてくれる確証はない。
特に血濡れの白衣は必ずロッカーにいるのだが、どのロッカーにいるかわからず、探してもモグラ叩きのようにおちょくられるだけなので、幹部教員がせーので開けるという人海戦術が取られている。
私はまず旧校舎の増える階段に向かった。
しかし、階段は増えていなかった。どこへいってしまったのか。一階ずつ段数を数えて回る。
「18、19、20……いた!」
反射的に叫ぶと階段が急に動き出した。まるでスマホの保護シートに入った気泡のように、一段が減ればその隣の段と段の間に新たな段が出現する。
「待って、いつもの場所にいてって言ったじゃん!」
慌てて後を追う。増える階段が流れるように登っていく。マリオカートのミュージックパークにこういうヘアピンあったな。
と、その時のことである。
『訓練、訓練。新新新校舎の理科室で火災が発生しました』
なんで!? まだ10時30分じゃん。あの教頭、時間を間違えやがった!!
ちなみに、この新新新校舎という言い回しは、いろんな怪異たちとってわかりやすいようにという、伝統的な言い方だそうだ。
すると、上の階から子供達の悲鳴が上がった。複数人だ。5人くらいか。この上にあるのは、理科室! 私は慌てて駆け上がった。増える階段が私の前を走る。
「ちょっと、おとなしくしてて」
だが言うことなんか聞きやしない。
子供達が駆け降りてきた。先頭は体格の良い男の子、背の高い女の子、お嬢様っぽい女の子、続いてひょろっとしたメガネの男の子。全員恐怖に顔が歪んでいる。在らん限りの力を尽くして叫びながら、言葉にならない言葉を発しながら階段を走っている。手すりを掴み、腕づくで体の向きを変えて踊り場を曲がっていった。その後ろからもう一人の男の子が駆け降りてきた。すると、何と運の悪いことに、増える階段とすれ違うタイミングで足を引っ掛けてしまった。スーパーボールのようにバウンドすると、そのままゴリゴリと音を立てて滑り落ちていった。
先頭の男の子が足を止めた。転んだ男の子を見て、躊躇いもなく引き返した。その子に肩を貸す。もう一人、背の高い女の子も習った。もう一方の肩を貸し、二人で転んだ子を担いで行った。
少年の表情が何ともいえなかった。じろじろ見過ぎだぞ。

そして私は、積年の疑問が一つ解けた。
「お前だったんかい!」
増える階段は逃げるように走り出した。私はバインダーを投げつけた。

「ウチに?」

2時間目の休み時間。突然肩を叩かれた。振り返るとトルソーを持った女の子が立っていた。
そういえば、バカがトルソーを持ってくるとか言っていたな。

「ありがと」
赤いワンピースの女からそれを受け取った。女はくるりと背を向けて教室を出ていった。自分で持って来ればいいのに。ウチが怖いのか。
その女の背を見ながら考えた。
「あんな子、この学年にいたっけ」

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