梗 概
地球に紡ぐ歌
22世紀初頭、前世紀の有人火星探査競争に敗れた中国は威信をかけて宇宙エレベーターを建設した。あるとき宇宙エレベーターからの月旅行が富裕層向けに企画されアイドル歌手の天野紬は超富豪のファンからチケットをプレゼントされる。
スマトラ島沖に建造された宇宙エレベーターを見上げる紬。青い空に一筋のケーブルがどこまでも伸びている。紬は月旅行に無関心だったが周囲の期待を裏切れずしぶしぶ月面ライブまで引き受けてしまった。紬を乗せたエレベーターが静止軌道ステーションまでゆっくり上昇していく。
その約140年前、ケネディ宇宙センターで月に向かう最後のサターンVのF1エンジンが火を噴く。爆発的な推力が史上最大のロケットを重力から解き放ち、地球周回軌道に12分で到達させた。
静止軌道ステーションで月往復シャトルが待機していた。紬以外の乗客は政府要人か富豪だった。その中にアフリカ統一連邦の外交大臣アディサ・マトゥンバもいた。AUFは国力誇示のため大臣を派遣していたが近隣諸国への軍事侵攻で批判を浴びていた。ステーションを離れるシャトルから地球を眺める紬。「地球って本当に青いのね」
「うん、何度見ても地球は美しい。月に行くとさらにそう思うよ」アポロ17号船長のユージン・サーナンは同行するシュミットに声をかけた。第三弾ロケットエンジンS-IVBが再点火し宇宙船を月へと送り出した。
3日間の往路で紬は紳士的なマトゥンバと親しくなる。乗客たちがくつろぐ中、紬はたびたび無線をライブモードにしてファンサービスにいそしんだ。月軌道に入り怖くなる紬。「本当にここに降りるの?」
「うまくやってみせるさ」サーナンは手動操縦で巧みに岩塊を避け月着陸船チャレンジャーを着陸させた。
月着陸機は自動操縦で着陸した。乗客たちは月面歩行を楽しむがマトゥンバが挙動不審になる。彼はAUFの軍事侵攻とその犠牲者に責任と絶望を感じ、ここで自死すると言う。彼の家族も戦争の犠牲になっていた。紬は彼の深刻な状況に戸惑う。そのとき二人は空に浮かぶ地球を見る。月から望む地球は大きく、群青色の海、純白の雲、赤茶けた砂漠が見えた。「宇宙も月も怖い。でも地球は綺麗だね……」それはアポロ宇宙飛行士が感じた畏敬の念と同じであった。紬はいまからでも停戦交渉するようマトゥンバを説得する。自分の行動に驚く紬。二人の会話は紬の無線を通じて全世界が聞いていた。
月面で地球を眺めるサーナン。アポロ計画は平和を謳っていたがベトナム戦争は凄惨を極めその欺瞞を感じぬサーナンではなかった。それでも去り際に希望を込めてメッセージを地球に送る。人類が必ず再び平和とともに月に戻ると。
地球を背景に初の月面ライブを行う紬。曲名は「君に紡ぐ歌」。ありふれたバラード曲だが世界の人々には平和の賛歌に聞こえた。紬の歌声が祈りとなって戦地に届く。
文字数:1200
内容に関するアピール
最初に想起したのは月面で一人地球を眺める少女です。
宇宙エレベーターがある未来では月旅行は高価だが快適になると思います。一方、そのとき(あるいは既に)人々は宇宙に関心を失っている気がします。
本作では、技術は進歩したが宇宙への関心が失われた未来と、熱狂と希望が人間を月まで送った宇宙開発黎明期とをシーンを切り替えることで対比させ、その一方で変わらないであろう月旅行の体験価値を書きます。
登場人物紹介
天野紬:19歳のアイドル歌手。仕事に疲れ歌への情熱を失いかけている。
劉志遠:ベテラン宇宙飛行士。月旅行をアテンドする。
アディサ・マトゥンバ:アフリカ統一連邦の外交大臣。平和主義者だがその理想が軍事侵攻の一翼を担ってしまう。
ユージン・サーナン:アポロ17号船長。アポロ計画で最後に月面を歩いた男。
ハリソン・シュミット:アポロ17号クルー。科学者として初めて月面に立つ。
文字数:400
地球に紡ぐ歌
「みなさん、紬です! おはようございます。今日は2100年12月19日、いよいよ宇宙エレベーターにやってきました。見てください、この大きな建物! ここチャイナポートから空に向かってケーブルがどこまでも伸びています。ここから月への旅が始まります。私はいまものすごくワクワクしています!」
小柄だが凜とした佇まいの少女がドローンカメラの前に立っていた。海風が栗色の髪を揺らしている。天野紬が広大なヘリポートでライブ配信していた。
「まずはここからエレベーターでケーブルを登り、静止軌道ステーションというところまで行きます。なんとそこからは丸い地球が一望できるそうです!皆さんにもいっぱい見てもらえるように頑張って配信しますね」
ドローンカメラが宇宙エレベーターのケーブルを見上げる。ここはスマトラ島沖に建造された世界初の宇宙エレベーターの発着場で通称チャイナポートと呼ばれていた。海上油田のプラットフォームの数倍はあろうかという巨大なフロートに強化繊維からなる3本のケーブルが垂直に接続され、その周りを高さ約500メートルのトラス構造のタワーが覆っている。ケーブルはタワー頂上を突き抜けて遙か宇宙空間まで伸び、高度3万6000キロにある静止軌道ステーションに繋がっていた。
「……それでは、出発は明日です。私はドキドキし過ぎて今日眠れるか心配です!明日は宇宙エレベーターの中から実況するのでぜひまた見てください。ライブ配信を見てくださった方の中から毎日抽選でサイン入りグッズのプレゼントもあります! チャンネル登録まだの方はお願いしま~す」
紬は満面の笑顔でカメラに手を振った。マネージャーの橘玲奈がその様子を見守っていた。
ライブ配信が終了し紬は玲奈に向かってぼやいた。
「玲奈さん、今回、ちょっときついかも……」
「紬、おつかれさま。大丈夫?」
「はぁ……ほんとにこのまま月まで行かなくちゃいけないの……?」
「このところプロモーション続きだったから疲れているのよ。今の配信よかったよ!ライブ視聴者数もチャンネル登録者もどんどん増えている。月旅行の効果抜群だよ」
「そうみたいだね」
「人ごとだねぇ。世界に紬を売り込む千載一遇のチャンスなんだよ」
「……玲奈さん、この間も言ったけど私いま何のために歌っているのかわからなくなってきちゃってる」
「大丈夫、紬はやるべきことをやってるよ。今回は長旅だから考える時間もきっとあるわ。それに帰ってきたらちゃんと休暇を取れるから、もう少しがんばろうよ」
「はぁ……。はい、やりますよ。プロですから。でもね、いまどき宇宙旅行なんて流行らないでしょ」
「そんなことないでしょう。ライブ配信注目されているし」
「それは私みたいなローカルアイドルが宇宙にいくから物珍しいわけで……あ~! そんなことより月面ライブよ、問題は。よりによってなんであの曲を歌うわけ?」
「あら。あの曲いいじゃない。月面から初の全世界ライブ配信、歌うのは19歳のアイドル天野紬で純和風のバラード! 斬新なプロモーションで新規のファン獲得間違いなしよ」
「簡単に言いますけどね、日本語の歌じゃあ世界には受けないんじゃない?ライブ配信だって見ているのほとんど日本の人でしょ」
「大丈夫よ。出発したら英語配信も予定してるし。世界中の人に注目してもらえるように広告もいっぱい打つよ。せっかくもらったチャンスなんだからいつもの反骨精神で世界に打ってでよう!」
紬は玲奈の言うことはビジネスとしてもっともだと思ったし、自分自身、これまでに売れるためにできることは何でもしてきた。売れなければ価値はないと思って生きてきた。月旅行ほど目立つプロモーションもないだろう。単に最近モチベーションを失っている自分が反発しているだけだ。だけど……売れて何になるの? 私は何がしたいんだっけ? 歌手になりたかったのはなんでだっけ……。
宇宙エレベーターは有人火星探査競争に敗れた中国がその威信をかけて建造した。宇宙エレベーターは安価な軌道投入手段として様々な活用が期待されていたが、財政難と多発する戦争によりもっぱら軍事目的利用が進められている状況だった。そんな中、民間宇宙旅行会社が宇宙エレベーターからの月旅行を企画した。ある日、紬のファンを名乗る匿名の大富豪から紬に月旅行の高額チケットをプレゼントしたいと申し出があった。紬はまったく乗り気ではなかったが、事務所が前向きに反応し月面ライブ開催を企画していることが世間で話題になってしまい、断れなくなってしまったのだった。
月旅行ねぇ。紬はまったく興味を持てなかった。お金持ちの道楽じゃない。みんな日常を生きるのに精一杯だし、今の時代、娯楽は仮想現実で足りちゃってるよね。月なんて行ったってどうせ何にもないのに。
「ジャック、科学者である君から見て月に行く意義はなんだ?」
1972年12月6日。ケープ・カナベラルのケネディ宇宙センターでアポロ17号の船長ユージン・サーナンがクルーのジャック・シュミットに尋ねていた。二人が見つめる39A発射台には今夜の打ち上げに備える全長111メートル、総重量3000トンの偉容、サターンVロケットがあった。
「いまさらなんだい。君だって地質学の授業を受けただろう。月に行く意義は決まってる。まず太古の岩石を採取してその起源を解き明かすこと。そして地球の起源を解き明かすことさ。そういう君は?」
今度はシュミットがサーナンに尋ねる。
「海軍パイロットにとってアポロ計画はそれ自体が目的だね。他の宇宙飛行士も皆そうだろう。だけど……」
「なんだい」
「10号で月軌道を回ったとき感じるものがあった。月面すれすれに飛んでいるとき、地平線から昇った地球を見たときさ。それは言葉では説明が難しいんだが月という場所を象徴する体験だった」
「そうかい。そいつは楽しみだ。さぁ出発前の最後のランチに行こうぜ」
シュミットはそう言うといつものステーキ定食が待つ食堂に足早に向かった。実直で合理的な男だな。サーナンは思った。こういう男だからこそ科学者としてただ一人アポロ計画の宇宙飛行士に選ばれたんだろう。
サーナンは最後の船長として月に行くことに思いをはせた。アポロ11号の熱狂は過ぎ去り、世論はアポロ計画を税金の無駄遣いだと批判していた。サーナンは昨日のテレビインタビューでこれまで何度も口にしたことを話したのだった。
「僕たちを最後に今世紀もう人類は月に行かないだって? バカ言ってるんじゃないよ」
17号はアポロ計画最後のミッションであり最も長く月に滞在する計画の集大成だった。必ず成功させる。サーナンはミッション完遂に燃えていた。
「うう、めっちゃ乗りたくない……」
紬は静止軌道ステーションに向かうクライマー、宇宙エレベーターのかごにあたる乗り物、の前で独りごちた。玲奈が声をかける。
「じゃあね、紬。がんばって! タイムスケジュールは私に任せてね。ここから配信の撮影は自分でよろしく。何か不安なことがあったら私に連絡してね。あとは道中、宇宙飛行士の劉さんが面倒を見てくれるからね」
そう言いながら玲奈は写真を撮りまくっている。紬がクライマーに乗るところは配信用に動画で撮るだろう。今は最悪な気分だけどマネージャーと離れられるのはちょっといいなと紬は思った。
「はーい。玲奈さん、頼りにしてます。いってきます」
紬は笑顔で手を振る。
クライマーは旅客機ほどの大きさがあり、客席、個室、共用スペースなどを備えていた。地上から静止軌道ステーションまでは一週間かかる長旅だった。
クライマーに搭乗した紬を劉志遠が出迎えた。
「はじめまして、紬さん。宇宙飛行士の劉志遠です。今回の月旅行をアテンドさせていただきます」
「天野紬です。劉さん、よろしくお願いします!」
「ようこそ、我が中国の宇宙エレーベータへ」
この時代の人々は言語野強化デバイスによって母国語の他に英語も不自由なくしゃべられるようになっていて共通語として使うことができた。ひとしきりクライマーの中を案内すると劉は紬を客席に案内した。
「ゆっくりしてくださいね。分からないことがあれば私に何でも聞いてください。事前にお伝えしたとおり他の乗客の皆さんは一足先に静止軌道ステーションに到着されています。この便には紬さんと私、CA1名、作業員2名が搭乗しています」
「はい。ありがとうございます。あの、出発したらライブ配信でクライマーの見学ツアーをしてもよいでしょうか」
「もちろんです。お仕事大変ですね。私も手が空いているときは撮影をお手伝いしますよ」
「ありがとうございます!」
定刻となり、紬を乗せたクライマーがゆっくりと上昇を始める。クライマーは通常のエレベーターのように引き上げられるのではなく、ケーブルに沿って敷設されたレールを自走するモノレールだった。
クライマーがタワー頂上を超えると眼下一面にインド洋が広がった。陽光が反射してきらめく海面には無数の白波が立ち、1隻のセーリングクルーザーが強風に翻弄されているのが見えた。
「うわぁ、海だ」
紬は窓の外の景色を撮影しながら思わず声をあげた。紬の後ろの座席に座っていた劉が声をかける。
「見事な眺めでしょう」
「はい。それにとっても快適ですね」
「そうでしょう。現在時速200km。これがクライマーの最高速度です。あと数分で空が黒くなってくるのでもうすぐ宇宙を実感できますよ」
「凄く速いんですね」
「そうですね。しかしロケットに比べればカタツムリのように遅いです」
「劉さんはロケットで宇宙に行かれたこともあるんですよね」
「はい。宇宙エレベーターができる前です。でも今のほうがいいですよ。きつい訓練をしなくてよいですし、なにより身体に優しいですから」
劉は笑った。紬もつられて笑う。
「最初期の月への旅はそれは大変だったそうですよ。アポロ計画をご存じですか」
「はい、あの、実はあまり知らなくて」
「空き時間に少しお話させていただきましょうか。話のネタとして紬さんのライブ配信に役立つかもしれません。静止軌道ステーションまで時間はたっぷりありますので」
「ありがとうございます。ぜひお願いします!」
そう答えながら紬はライブ配信の準備を始めた。明るく振る舞っていたがこれからの長旅を想像した紬は暗澹たる気分になっていた。
サーナンとシュミット、そしてロン・エヴァンスの3人は小さな司令船の中の窮屈な座席でじっと待っていた。座席の下では燃料のケロシンと液化酸素を満載したロケットが目覚めようとしていた。月に向かう最後のサターンVロケットであり、次はなかった。
日付が変わった午前0時33分、轟音とともに第一段ロケットのF1エンジンが火を噴く。真夜中に突然現れた太陽がフロリダの大地を明るく照らす。爆発的な推力が史上最大のロケットと3人の宇宙飛行士を重力から引き剥がした。重力の4倍の力がサーナン達を座席に押さえつける。ロケットは40秒で音速を超えさらに加速し続ける。F1エンジンは発射から2分40秒でその役目を終え、切り離された第二段ロケットエンジンS-Ⅱに使命を引き継いだ。SーⅡエンジンは8分45秒後に停止し、第三段ロケットエンジンS-ⅣBが最後の跳躍を任される。そして11分30秒後、第三段ロケットは時速2万8000km/hに到達し、司令船と3人を地球周回軌道に押し上げた。
「飛んでいるぞ。全て順調!」
サーナンは初めての飛行に高揚する二人のクルーとともに再び宇宙に飛び出した。星がきらめく空を飛びながらサーナンは中止ボタンを押さずにすんだことに安堵した。
「もう引き返せないのよね……」
紬はクライマーの個室の中で眠れぬ夜を過ごした。昨日はライブ配信をした後で劉からアポロ計画の概要を教わった。20世紀に二つの大国が争い、初の有人宇宙飛行から10年足らずで人類は月面に着陸したこと。ロケットからコンピューター、宇宙飛行士の生命維持まで全てが始めてて命がけであったこと。
「冒険の時代でした」
と劉は言っていた。
「それでは今は何の時代でしょうか」
紬は聞いてみた。劉は通信がオフレコなのを確かめて答えた。
「そうですねぇ。どこに向かうのか分からない漂流の時代、でしょうか。世界人口は100億人を超え、医療科学によりがんはついに克服されそうですが、相変わらず国家の分断と戦争は無くなりませんね。人類は火星に到達し宇宙エレベーターまで建造しましたが、冒険心は感じないです。新しい冒険が必要なんじゃないかと個人的には思います」
流石ベテランの宇宙飛行士、劉さんはそれっぽいことを言う。私もいま漂流しているのかな。子どものころ紬は自分の歌が好きだった。自分の歌で世界中の人を感動させたいと思った。人工知能や仮想現実では表現できない生身の人間の歌で勝負してNo.1になる。デビュー前にそう決めてから紬は目標達成に邁進した。20世紀に流行った歌って踊れるかわいいアイドル。自身をそうブランディングし、売れるために徹底的に差別化をはかった。こどもや子育て世代、シニア世代に向けてもそれぞれキャラメイキングをして違う曲を提供した。あるときは同世代を魅了するアイドル。あるときは歌のお姉さん。あるときは往年の歌謡曲を歌う孫娘。またこの時代、人々は五感で没入できる仮想現実内で多くの時間を過ごしていた。紬は仮想現実の中でゲリラライブを行うので、その場所と時間を占う今日の紬予報なる有志のコンテンツが生まれた。結果、国内では幅広い層から支持される独自の地位が得られつつあり、これから世界に売りだそうというタイミングだった。
「でも歌を聴いてもそう人は感動しないし、感動したと思ってもそれは一時的なものだわ」
キャラクターとして消費され、歌は一時的な余興として楽しまれる。それが商業主義の中での歌手の役割だと分かっていたが、売れれば売れるほど空しさを覚える紬であった。
「こんにちは。紬です! 宇宙エレベーターに乗って早くも一日が立ちました。現在クライマーの高度はなんと約5000km。窓の外は黒い空が広がっています。つまり宇宙です! こんな簡単に宇宙に来られるなんてびっくりですよね。そして下を覗くと大きな地球が見えます。地球は本当に青いです! チャイナポートは朝ですがまだ夜の側は真っ暗です」
自席に移った紬はカメラを手にライブ配信を始めた。映り込んだ劉が手を振る。
「それからもう一つびっくり、身体が軽くなってきています! 宇宙飛行士の劉さんに教えてもらったんですが、地球から離れるほど重さが無くなってくるそうです。3日目には月面と同じぐらいの重力になるそうなので歩く練習をしたいと思います!」
紬は気持ちを整理していた。とにかくこのプロモーションをやりきろう。帰ったら無期限の休みがほしい。玲奈さんは話が通じないので社長に言おう……。
「カリフォルニアは晴れているが、南西から嵐が来ているようだ」
打ち上げから3時間。シュミットが眼下の雲の様子を淡々と実況していた。地球を二周したところでヒューストンから月遷移軌道投入、TLIのGoサインが出る。第三段ロケットエンジンS-ⅣBが再点火し、宇宙船は時速3万9000km/hまで加速して地球軌道を離れた。人類最後の月への旅。自ら否定していた言葉がサーナンの頭をよぎる。いいだろう、その使命を果たしてやろうじゃないか。第三段ロケットを切り離し、司令船アメリカと月着陸船チャレンジャーはドッキングした。アポロ17号は月への旅路へついた。
「やっと着いた……」
静止軌道ステーションは引力と遠心力がちょうど釣り合う場所、つまり無重力環境だった。紬はクライマーの中ですっかり無重力に慣れていた。ライブ配信の視聴者は静止軌道ステーション内を宙返りしながら移動する紬の姿を追った。撮影しているのは劉だった。壁から壁へジャンプした紬がふと窓を覗くと真っ暗な空間に地球が浮かんでいた。静止軌道から見ると肉眼では地球はちょうどサッカーボールを手に持ったときぐらいの大きさに見える。そのあまりに非現実的な光景に紬は言葉を失った。
「どうです。ここから眺める地球は素晴らしいでしょう」
劉がカメラを向けたまま声をかける。
「はい。きれいですね。でもなんというか現実感がない景色です。仮想現実の中みたい」
「初めてここを訪れる方は皆さんそう仰います」
劉は他の乗客たちが集まるラウンジに紬を案内した。今回の月旅行の乗客は紬を入れて6人、紬以外は皆大富豪か政府要人であった。中国の実業家夫婦、中東の政府高官、インド内務大臣、そしてアフリカ統一連邦の外交大臣、アディサ・マトゥンバがいた。AUFは国力誇示のため大臣を派遣していたが、近隣諸国への軍事侵攻が批判を浴びていた。先月AUFのドローン部隊が紅海を超えて中東諸国の領空を侵犯したため、中東の政府高官はマトゥンバを睨みつけていた。皆、日本からアイドルの少女が参加することは知っていたが紬と簡単な挨拶をすませると何を話せばよいか分からず目を伏せたり社交辞令だけ話すと自席に戻ったりしてしまった。
気まず! これはお呼びでない感じ……。明るく挨拶した紬だったがその場の空気に押しつぶされそうになる。見かねた劉が声をかけた。
「紬さん。シャトルをご覧になりませんか」
劉が反対側の窓に紬を連れて行く。月周回用のシャトルが静止軌道ステーションに接舷していた。シャトルは円筒形の宇宙船で燃料タンクとロケットエンジンがついている分、ここまで乗ってきたクライマーよりも大きく見えた。シャトルには月着陸船が二つ、ドッキングしていた。
「月着陸船には別れて乗るんですか?」
「いいえ、一つの月着陸船に全員ご搭乗いただけます。もう一つは予備です」
この時代も月面着陸はアポロ計画と同じく月軌道ランデブー方式が採用されていた。月周回軌道でシャトルから月着陸船を切り離して着陸し、帰還する時は月着陸船が軌道上に待機するシャトルにドッキングする。最もエネルギー効率がよい方法であった。
「このあと皆さんシャトルに搭乗いただきましたら、ロケットエンジンでステーションを離れて月軌道に向かいます」
「いよいよですね!」
「紬さん、大丈夫ですか? お疲れのようですので無理しないでくださいね」
「ありがとうございます。このところ気持ちが参っていて……わかっちゃいます?」
「宇宙飛行士は人のメンタルに敏感なほうだと思います。でも紬さんのライブ配信の時は疲れを感じませんよ。流石ですね」
「はは……。劉さんはごまかせないですね」
「私にも紬さんと同じ歳の娘がいます。娘は配信を見て紬さんのファンになりましたよ」
「そうですか。ありがとうございます!」
紬は劉と話して少しほっとしていた。
出発の時刻になりシャトルには乗客6名のほか、劉を含む宇宙飛行士3名が乗り込んだ。紬の隣の席になったマトゥンバが声をかけてきた。
「こんにちは。さっきはどうも。あらためましてAUFの外交大臣アディサ・マトゥンバと申します」
「日本から来ました天野紬です。よろしくお願いします」
「日本の人気アイドルの方とご一緒できて光栄です」
「あはは……ありがとうございます。皆さん偉い方ばかりで緊張してます」
「大丈夫、私は偉くありませんから。私は日本のことを知らないのでいろいろ教えてください」
「はい! あ、そうだ、日本では月にはお餅をつくウサギがいると言われています。ご存じですか?」
マトゥンバと話しながら意外に腰の低い人だなと紬は思った。見た目は50代後半、白髪がだいぶ目立つものの贅肉のない身体で、にこやかな表情だが眼光はどこか寂しげであった。ああ、この人はさっき私と同じように浮いていたな。紬も最近のニュースでAUFのことは耳にしていた。21世紀後半、中国やインドの後ろ盾で急速に経済成長したアフリカ諸国はAUFを組織し発展していたが、気候変動により農業生産が壊滅的な影響を受け、食糧危機と水不足が深刻化した。AUFは加盟を拒否していた周辺国に保護の名目で軍隊を派遣したが、想定外の反攻で衝突が起き、国境付近の都市で互いに多数の民間死傷者を出す事態になってしまっていた。AUFが今度は中東の石油と水資源を狙っている。そんな噂が囁かれていた。
シャトルは静止軌道ステーションをゆっくりと離れた。ロケットエンジンが静かに点火して月遷移軌道に入る。紬はシャトルの窓から地球を眺めた。真っ暗な宇宙の空間の中に不自然に浮かぶ青い球体。海と雲のコントラストが眩しい。紬はAUFの軍事侵攻のニュースや劉の言葉を思い出していた。こんな綺麗な星の上で人間はずーっと争っているのね。
「うん、何度見ても地球は美しい」
サーナンは月への慣性飛行中、司令船の窓から遠ざかる地球を眺めていた。同時に宇宙空間の圧倒的な虚無を感じていた。無限に思えるこの虚無の中で何物にも支えられず地球が浮かんでいる光景に神秘と儚さを感じずにはいられなかった。
サーナンは相変わらず地球を見ながら気象状況をヒューストンに報告しているシュミットに声をかけた。
「ジャック、いつか月まで旅行でいけるようになると思うか? つまり誰でもチケットを買ってバスに乗るように月に行ける日が」
「僕は無理だと思うね。お金がかかりする。それにアメリカもソ連も宇宙開発の大義名分は掲げているがその本当の目的は弾道ミサイルの技術開発だ。それが達成できた今、月ロケットはお払い箱じゃないかね」
科学者のくせに実に世の中をよく見ている男だ。そうだ。アポロ計画はソ連との戦争なのだ。そしてアメリカは勝利した。しかしだからこそこの最終ミッションを成功させる必要がある。単なる政治的なショーではなく……人類にとって意味があるはずだと確かめるために。
「こんにちは、紬です! みなさんは月に行ったら何をしてみたいですか? まず月の石はお土産に欲しいですよね。そして私はなんと、今回初の月面ライブをやらせてもらう予定です。宇宙服を着るのでうまく歌えるか不安ですが、劉さんに撮影をしてもらえることになりました。劉さんよろしくお願いします!」
そういうと紬は劉を招いてカメラを向けた。慣性飛行中のシャトルは無重力のため劉は上下逆さまで手を振った。後ろにいたマトゥンバも画面に映りこんでしまいぎこちなく笑った。ライブ配信が終わるとマトゥンバが紬に声をかけた。
「撮影大変ですね。毎日されているのですか?」
「そうです。マネージャーがしっかり管理していて大変です!」
「はは。お若いのにしっかりしていらっしゃいますね」
「ありがとうございます。はい、自分で言うのもあれなんですけど、歌うことについては結構ストイックにやってます」
紬は照れながらも答えた。
「歌うことがお好きなんですね」
「はい。それで売れるためにがんばってきたんですけど。最近なんだか疲れてきちゃいました」
劉もそうだったが、落ち着いた雰囲気のマトゥンバを前にして紬は本音を漏らした。歌手を目指してアイドルになった自分。これまでの努力。これまでの葛藤。気づくととめどなく話していた。マトゥンバは優しい目で頷いて聞いていた。
「あ、すみません、なんか語っちゃって……」
「いえいえ、紬さんのような若いプロフェッショナルとお話することはなかなかできませんからありがたいことです」
そういうマトゥンバの顔はどことなく沈んでいた。つまらない自分語りで飽きさせてしまったな、と紬は反省した。
紬が黙っているとマトゥンバが口を開いた。
「ビジネスのことは私にはわかりませんが売れるためには大変な努力が必要ですよね。私は政治家ですが国という大きな獅子の中で自分の意見を通すというのは本当に大変ですので何となくですが想像しました」
「きっと政治家のほうが何倍も大変だろうと思います……!」
「どんな仕事もきっとそうなのでしょう。私は元々国際平和を研究していました。その知見を買われてAUFで役職を得たのですがね。結果はご承知の通りでAUFは軍拡を進め、ついに軍事侵攻を止められませんでした」
「そうだったんですね……」
「話を戻しますがね紬さん、紬さんの歌を聴いて救われる人が間違いなくいるはずです。売れるか売れないかは私にはわかりませんが、それだけは確かです。仕事をお辞めになるのも選択肢ですがあなたがどうしたいかをよく考えてみてはどうでしょう」
そういうとマトゥンバは窓のほうを向いて黙ってしまった。なんか機嫌悪くしちゃったかな……? そう思いながら紬は考えていた。私がどうしたいか、そうよね。
3日間の慣性飛行を終え、シャトルは月の重力に引かれ始めていた。月軌道に入るためにシャトルが反転して逆噴射を行うと突然紬の座席から月が見えた。灰色の地表に無慈悲に空いた無数のクレーター、巨大な山脈と谷が高速で流れていく。色がまったくない。それは優しく輝く夜の精霊ではなく、荒々しく広がる死の大地であった。
「え、本当にここに降りるわけ……? 冗談じゃなく?」紬は急に怖くなった。
「うまくやってみせるさ」
サーナンとシュミットの二人はエヴァンスを一人司令船に残し、月着陸船チャレンジャーで降下していた。アポロ17号の着陸予定地点タウルス・リトロウ渓谷はその複雑な生成経緯から、月最古の岩石と比較的最近の火山岩の両方を採取できる候補として選ばれていた。問題はその幅が約7kmしかないことで静かの海に着陸したアポロ11号のときとは難易度が段違いであった。サーナンは手動操縦に切り替え、着陸船を慎重に降下させていく。その下には自動車ぐらいの岩塊が転がっている平地が広がっていた。シュミットが計器を読み上げ続ける。
「よし、秒速3メートル、高度60メートル。秒速3メートルで降下中。もう少し前進しろ」
サーナンは小さな窓から見える月面に最大限の注意を払っていた。ロケットエンジンを操作するスティックを握る手が痛くなってくる。岩に衝突しても穴に落ちても一巻の終わりだった。
「もう少し前進。秒速90センチ。高度12メートル。土埃はほとんどない」
しかし最後にエンジンの噴射が埃を舞い上げ、サーナンの視界を遮る。
「7.5メートル。秒速60センチ。燃料は大丈夫だ。6メートル、3メートル」
月着陸船の足についている感知針が月面に触れて青いライトが点灯する。サーナンはロケットエンジンを停止する。ドン! と衝撃がありチャレンジャーはタウルス・リトロウ渓谷に着陸した。
紬たちの乗る月着陸船は自動操縦で静かの海に難なく着陸した。そこはあらかじめ無人機で資材や緊急避難シェルターを設置している基地で着陸地点は目標ぴったりの誤差ゼロであった。宇宙飛行士たちからレクチャーを受け、宇宙服を着た乗客たちが早速月面を歩き始めた。中国人実業家の夫婦がはしゃぎすぎて派手に転び、劉から注意を受ける。月面で転ぶと細かい砂がすぐにこびりつき宇宙服が真っ黒になってしまった。
紬も宇宙服を着て恐る恐る着陸船から降りる。紬の宇宙服は皆と同じデザインであったがライブ配信をするためにマイクと無線機能を特注で改造してもらっていた。地球の6分の一の重力では不用意に地面を蹴ると身体が斜めに飛んでいってしまう。慎重に慎重に、転ばないように。紬は足元を見つめて一歩を踏み出した。聞こえるのは自分の息とバックパックで作動する生命維持装置の音だけ。薄いヘルメットを隔てた目の前には灰色の砂漠と絶対真空の空間が広がっていた。
「いや、怖……」
紬は息苦しくなった。前に初めてのダイビングでいきなり深い場所に連れていかれたことがあったが似たような感覚を覚えた。これは誰でもいけるとか言っちゃダメなやつでしょ……! しかし周りを見るとほかの乗客たちはジャンプしたり転んだりしながら月面探索を楽しんでいるようだった。
「紬さん、大丈夫ですか。ゆっくり、息をして、ゆっくり動いてくださいね」
近づいてきた劉が声をかけてくれた。
「はい、ありがとうございます。ちょっとずつ、がんばります」
緊急避難シェルター近くの資材に腰かけた紬に、無線通信が入る。
「紬ー。聞こえる?」
玲奈の声だった。地球に残る玲奈が早速連絡をとってきたのだった。紬は慌てて無線の操作パネルを確認する。
「玲奈さん。はい。聞こえます」
「着陸の様子見てたわよー! すごかったね。おめでとう!」
「うん、ありがとう」
「早速でごめんね。ライブ配信の音声を確認したくて。もし大丈夫だったら無線をライブモードにしてみてほしいの」
「はーい」
紬はモードを切り替える。
「玲奈さん、聞こえますかー」
しゃべりながら紬は相変わらず飛び跳ねている乗客たちを眺める。結構遠くまで行ってるな。大富豪のフィジカル、恐るべし。落ち着いてくると自分も案外大丈夫かもしれない。紬は昼間なのに真っ黒な空とどこまでも広がる灰色の世界をぼーっと見つめた。空気がないので遠近感がまるでなかった。あのぴょんぴょん跳ねてるインドの人、どれくらい遠くまで行っちゃったんだろう。インド式月面歩行……。わたし何言ってんのかな。
「ちょっと、どうしましたか!?」そのとき劉の大きな声が無線で聞こえた。紬はどきっとして劉の姿を探す。
「マトゥンバさん! どうされましたか」ほかの乗客たちから少し離れた小さなクレーターの淵で劉がマトゥンバに声をかけていたのだった。
「はぁはぁ……」
マトゥンバの荒い息が無線越しに聞こえた。マトゥンバはうつむいた状態で動かない。明らかに様子がおかしかった。
「マトゥンバさん……?」
紬はゆっくりと近づき声をかけた。劉がマトゥンバの肩に手を当てて様子を伺っていた。
「はぁはぁ……。劉さん、紬さん、見苦しいところを見せてしまいました」
「……どうしたんですか?体調が悪いのですか?」
「いえ……」
マトゥンバは立ち上がると、大丈夫というジェスチャーをして見せた。しかしヘルメットの中で尋常ではない汗をかいているのが見えた。
「いや、お恥ずかしい」
マトゥンバは弱弱しく笑っていた。顔を見合わせる紬と劉。
「私はここに死ぬつもりできました。ですが、はい、簡単には死ねないですね……」
「え、どうして?」紬はびっくりして大声を出してしまう。
「紬さん、紬さんにはここへ来る途中お話ししましたが私はAUFの大臣としてこれまで職務を全うしてきたつもりでした。ですが私の推進する平和主義はかえって排他的な軍国主義を強めてしまいました。結果は皆さんニュースでお聞きになった通りです」
「マトゥンバさん、一度船内に戻りましょう。ゆっくり休まれたほうがよいです」
劉が刺激をしないようにゆっくりと話しかける。
「劉さん、ありがとうございます。大丈夫です、ご迷惑はおかけしませんから。奥歯に詰めものをしてきたのです。毒です。かみ砕けば大丈夫です」
いや! 大丈夫じゃないじゃん! 紬は劉の顔を見る。劉もどうしたらよいかわからない様子だった。
「マトゥンバさん、どうしたの? 戦争はあなたのせいじゃないんでしょう……?」
「紬さん。西アフリカ戦線で起きたアケソナの空爆を知っていますか」
「え……」
「今も軍事衝突が起きている地域です。私の妻と娘はそこに住んでいました。しかしAUFの軍事侵攻が招いた空爆で妻と娘は死にました」
「……」紬は絶句してしまう。
「マトゥンバさん、船に戻りましょう……」劉がマトゥンバの手を取ろうとするがマトゥンバは振り払った。
「私のやったことは間違っていたどころじゃあない! 取り返しのつかないことをしてしまったんです……!」
後ずさるマトゥンバ。
この人は、自殺をしようとしているのね。奥さんと子どもが爆弾を落とされて死んじゃって。自分のせいで戦争が起きちゃって。大臣として。夫として。父親として。それでドローンが領空侵犯して睨まれて。紬は頭の中が真っ白になる。なんで? ここは月でしょ? 月旅行でしょ? 私はプロモーションをしたら帰るのよ。休みを取るの……。アイドル活動についてゆっくりと考えるの。私がどうしたいか考えるの。呆然とマトゥンバを見つめる紬。劉もその場に立ち尽くしている。無線を共有している他の乗客たちも遠くからこちらを眺めていた。ライブモードのまますべての会話を拾っていた紬の無線は長い沈黙を全世界に流していた。
「あれ……」
「マトゥンバさん、あれを見て」
紬が指さす方向をマトゥンバが振り返った。
二人は空に浮かぶ地球を見た。月から望む地球は大きく、群青色の海、純白の雲が絡み合い、赤茶けた大地が見えた。紬が誰にともなく語りかける。
「わたし、宇宙も月も怖い。宇宙は底なしだし。月は全部砂漠だし。こんな世界にいたら毒なんて飲まなくたって死んじゃうでしょう……?」
「なんで月なんかに来るのかな。地球がいいですよ。息できるし。水もあるし。草生えてるし。そうでしょう?」
「友達もいるし、家族もいるし、マネージャーも社長もいるし……」
「でも地球がきれいだって、ここからわかりますよね。ここに来たから。宇宙に来て、月を歩いて、死にそうな気分で見上げるから、地球がいいって」
「地球以外の場所ないですよね。みんなで住むのは地球ですよね」
「だからぁ、戦争しちゃあ、ダメですよね」
紬は自分が泣いていることに気づく。私は何を言ってるの? あ……いまライブモードだ。配信されていたらやばいやつ認定確定のお知らせ。全員その場に固まっているし。あ、マトゥンバさんも固まっている。
「マトゥンバさん」
「マトゥンバさん、言ってくれましたね。私の歌で救われる人がいるって。仕事を辞めてもいいけど私がどうしたいか考えてみろって」
「歌で感動したって、死んじゃった人は帰ってきません。戦争は止まりませんよ」
「でもマトゥンバさんは、大臣なんだから、戦争止められませんか? そうしたら、これから爆弾で死ぬ人が死なないんじゃあないですかね」
紬はマトゥンバに近づいて手を握った。マトゥンバは黙って紬を見つめている。
「今から私が歌うんで、救われたと思えたら、死なないでください」
月面で手を止めて地球を眺めるサーナン。完璧な眺めだった。黙々と作業をするシュミットに話しかける。
「おーい、ジャック。ちょっと手を止めて、山の向こうを見てみろよ」
「なに?」
「地球だよ。地球を眺めてみなよ」
「地球は一度見れば十分だよ」
シュミットは限られた時間の全てを月の地質調査に捧げようとしていたのだ。サーナンは苦笑した。
アポロ計画は平和を謳っていたがベトナム戦争の状況は凄惨を極め、その欺瞞を感じぬサーナンではなかった。それでも月を去る時にサーナンは希望を込めてメッセージを地球に送った。
「いま、私たちがタウルス・リトロウ渓谷を去るときは、来たときと同じように、再び人類がここを訪れるときと同じように、平和と希望とともに去ります」
サーナンは月面を最後に歩いた男になった。そして思いをはせた。この場所を訪れる子供たちのことを。
「紬、準備はいい?」
玲奈が問いかける。劉がカメラを構えている。
「OKだよ、玲奈さん」
「さっきのライブ配信ね、すごいから。視聴者40億人。ぶちかましてね、紬」
「ははは。いつのまに配信してたの。うん、がんばるよ」
「それとね。これは伝えておく。さっきチャンネル登録してくれたアメリカ合衆国のアメリアさんからのメッセージだよ。紬さん、あなたは21世紀を救った」
「ありがとう」
地球を背景に初の月面ライブを始める紬。曲名は「君に紡ぐ歌」。
静まり返る月面。紬は静かに息を吸い込む。
「君の歩くその道が
最初の声が静寂を破る。
どんなに遠く見えても」
語るように歌いだす紬。
「うつむかないで 大丈夫
ちゃんと届いてるよ」
声が震えてくる。紬は手を胸に当てて歌い続ける。
「こぼれた涙の理由も
こらえた痛みも全部」
ありふれたバラード曲。特別売れたわけでもなかった。
「私は知ってる だから今
君に手を伸ばすよ」
でも不思議と仮想現実のライブで歌うと受けが良かった。
「君のことを信じてる
どんな明日が待っていても」
紬の声は透明で柔らかく、しかしまっすぐと地球に届いた。
「ひとりじゃないよ 私が
風になって 君を包むから」
平凡な歌詞だったが日本語がわからない世界の人々には平和の賛歌に聞こえた。
紬の歌声が祈りとなって戦地に響く。日付が変わり22世紀の幕が開けた。
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