彼方カナタ泡沫ウタカタ

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彼方カナタ泡沫ウタカタ

俺は50億人を殺した。

子どもの頃、俺はまるで価値のない人間として扱われた。父親と教師、そして周りのクソみたいな大人たちから罵倒され、殴られた。俺と肌の色が同じ母親は俺を顧みることなく父親に媚びた。世界の破滅を願った俺は人生を賭けて国家元首にまで登り詰めた。そして、終末兵器の発射ボタンを押した。

無数の弾道ミサイルが世界中の都市で炸裂し、報復のミサイルが自国を蹂躙するのを俺は見た。世界の終わりを見届けるつもりだったが最期は自軍の将校にあっけなく殺された。これが俺の人生。

三途の川を渡った俺に閻魔大王がこう言った。

「お前は刑期1000億年の虚無地獄行きだ。場所に難儀したが銀河系外の超空洞に魂を転送してやる。周囲1億光年に何もない宇宙空間だ。ここに送られる罪人はお前が初めてだ」

「宇宙空間だと?地獄っていうのは焼かれたり切り刻まれたりする所じゃないのか」

閻魔大王が俺を睨む。

「それは人間の作り話だ。魂は肉体的苦痛が続くとそれに適応する。特にお前のような心が死んでいる人間には効果は無い。だが何も無い空間に捨て置かれた魂は誰であれ発狂する。大罪を犯したお前には宇宙で一番広い暗闇の中で孤独を味わってもらう」

閻魔大王がそう言い終わると俺の魂は時空を跳躍した。虚無地獄とはつまり罪人の魂が罰としてこの世の宇宙空間に半永久的に放置されることなのだ。そして俺はかつてない殺戮をしたから前例が無い銀河系外の空間に追放されることになった。

俺の魂はいま、超空洞の中心に浮かんでいるらしい。超空洞とは無数の銀河に囲まれた何も無い広大な空間。塵すら浮かんでいない虚無だ。いつだったか学者が教えてくれたが宇宙にはそういう空洞が泡のようにそこかしこにあるらしい。

魂になっても五感がある。俺は“目”を開くが何も見えない。俺は“耳”を澄ますが何も聞こえない。俺は“手”を伸ばすが何も触れない。1億光年先の彼方に銀河系があるはずだがその光は霧散し感じることができない。

数時間が経った気がするが、まだ数分しか経っていないかもしれない。無音の暗室に閉じ込められる拷問があると聞いたことがある。常人は数十分で発狂するらしいが俺はどうだろう。

1日経ったのか、あるいは1週間が経ったのか。思考と記憶が曖昧になるのを感じる。閻魔大王が言ったことは本当なのか?ここは本当に宇宙なのか?死んだ魂が宇宙空間に転送されるなんてばかげている。俺は数を数え始めた。1秒に1数え上げれば時間を測れる。

数を数えて1週間が経ったはずだ。俺は叫ぶが何も返ってこない。どこまでも果てが無い闇。その刹那、俺は“無”を知覚した。自分の周りに広がる圧倒的な無。その中心に存在する自分。周囲の空間がねじ曲がり、俺をすりつぶしてくるようだ。

1か月が経った。数分おきに押しつぶされる感覚。そのたびに鼓動が早まり身震いし不快な苦みが味覚全体に広がる。身体はないはずなのに。

1年が経った。時間の感覚が薄れている。だがそれでも繰り返し無が襲いかかってくる。

10年が経った。虚無は際限なく、執拗に、容赦はしない。

そして100年が過ぎた。俺は無の中で永遠に彷徨う悪夢にいる。

 

1億年後。

男の魂はただそこにあり続けた。暗黒の空間以外何もない緩慢な時の経過。

その時だった。男は光を感じた。遥か遠い、暗黒の空洞の先に連なる光の筋。細く、儚く、しかし確かな光の連鎖。

「おい」

誰かの声がした。

「あの光が見えるか」

閻魔大王の声だった。

「…ああ」

「あれは人間が銀河間航路を建設している光だ」

「人間…」

「そうだ。お前が抹殺しようとした人間だ」

「…」

「銀河系に広がった人間文明が他銀河の開発に着手しているところだ」

「…なぜそれを俺に」

「恩赦だ。お前の虐殺が結果的に人間を救った」

「…なんだと」

「お前を殺した将校は人間全てを殺せる細菌兵器を作っていた。だがそれは使われる前に全て焼き払われた」

男は啞然する。

「そしてお前は母親の母国にはミサイルを打たなかった」

人間だったころの男の記憶が微かに蘇る。

「生き残った人々は終末兵器を放棄すると誓い人間の存続を国是に定めた。あの光を放つのはその国民の子孫たちだ」

閻魔大王は朽ちた男の魂に語りかけた。

「恩赦はこの事実を話すことだけだ。お前の刑期に変更は無い」

男は聞いていなかった。ただ光の筋を見ていた。銀河よりも明るいその光を。一つの航路が二つ、三つと分岐して、銀河を繋いでいく様を。地獄から這い上がった人間たちが宇宙を征服していく様を。

男の魂が嗚咽する。

もうここは虚無ではない。

超空洞を覆う銀河団に人類のネットワークがどこまでも広がっていく。

文字数:1886

内容に関するアピール

銀河は集団で集まり網目のように分布している一方でところどころに何もない泡のような超空洞(ボイド)があるそうです。この空洞は直径にして数億光年という大きさがあります。超空洞の中心に一人取り残されたらどんなに恐ろしいだろうというのが本作の着想です。

現実にそんなところには行けないので、死んで地獄に落ちたら実は地獄がそこだった、という設定にしました。主人公が地獄に落ちるということで「蜘蛛の糸」を意識しました。

物語は一人称の男の独白から始まりますが、最後は1億年という長い時の経過を表現するために三人称に変えてみました。

文字数:257

課題提出者一覧