空に落ちる
その日、夜のうちに台風が東へ抜けたあとの空は、他の何とも混ざらない切り立った青だった。
雲は、遠くに千切れたように浮かんでいる。
空を背景に、山の輪郭がくっきりと濃い。
山からくねくねと曲がりながら降りる県道は、ふもとに建つ大学へと続き、そこからはまっすぐに、田んぼの中を通っていた。
道の左右に遠くまで広がっている田んぼでは、まだ緑の稲穂が風に揺れている。
車通りは、ほとんどない。
時々、軽トラがゆっくりと走る。
私は、片手に携帯電話を握りしめて、駅までの道を歩いていた。
今日は、休講で1限で終わりなんて、ラッキーだけど、来た甲斐がない。
私のほかに、駅へと歩く学生はいなかった。ぽつり、ぽつりと、大学へ向かう学生とすれ違う。
風が、時折、思い出したかのように、強く吹いてくる。
ようやく肩を越えたばかりの髪が、そのたびに顔にかかる。リップクリームを塗り直したばかりの唇にくっついて、うっとうしい。
久しぶりに履いたロングスカートが、バサバサとゆれる。裏地に静電気が起きて、足にくっつく。
帰ったらちょっとゆっくりして、来週からの保育園実習の準備をしよう。
夜はバイトだ。バイトして貯めて、1年生のうちに少しは遊んでおかないと。
手に持っていた携帯電話が揺れた。
同じ子ども学科の友だちからのメッセージだ。
冬休みに行く予定のテーマパーク旅行について、プランをたくさんあげてくれている。
歩きながらスクロールして、いろんなプランを見る。
テーマパークの楽しそうな写真が、次々と続く。
今月はシフトにたくさん入れるから、ちょっといいところに泊まれるかもしれない。
考えながら、母と弟の顔が浮かんでいる。
__前、ここに行ったのは、小学校最後の春休みの、家族旅行だったな。
画面を見ながら思い出す。
緑の稲穂は、大きく実って、風が吹くと大げさに揺れる。
そのとき、ちょっと大きいエンジン音が、後ろから聞こえてきた。
スポーツカーのような、もっと大きい車のような。
ブブブブブブブブブ…
スクロールしながらも、音が気になる。
音がだんだん、近づいてきた。
画面を見ていた視界が、急に光に包まれた。
顔を上げようとして見たのは、白い光の向こうで、緑の稲が風に揺れるところと、そして、それが即座に、光に飲み込まれていくところだった。
次の瞬間、足元をすくわれて、空に投げ出された。
鼻の奥がぐるんと回転する。
手に持っていたはずの電話が、放物線を描いて飛んでいく。
それは、ゆっくりと、音もなく地面に落ちて、ガラスの画面が粉々に割れ、フレームは曲がり、中身が無惨に飛び出した。
あ、と思ったときはもう、その光景を、頭の上に見ていて、それはペンの先ほどに小さくなった。
先程までいた大学の、校舎やグラウンドや全景が見え、駅前のビルが見え、すべては今や頭上にあり、それらは猛スピードで遠ざかっていく。
落ちる!
まぎれもなく、いま、私は「落ちて」いた。
底なしの空へ向けて、落ちているのだった。
激しいスピードの中、強い風に巻き込まれて、身体の自由がきかない。
手や足を動かすこともできず、顔に当たる空気が刺すように冷たい。
髪がうねるように吹き上げられて、左右へ激しく揺れる。
飛行機が向こうに飛んでいるのが見えた。
足もとには雲が近づいてくる。避けられない。
一面が灰色の雲の中、水の粒や、時には、氷の塊が、すごいスピードで身体にぶつかってくる。
痛みと冷たさに、身体がこわばる。
細かい水の粒子が容赦なく鼻や口の中に入ってくる。
息をしようと口を開くと、冷たい水の粒が、喉の奥に次々とぶつかり、気道を塞ぐ。
反射的に咳が出る。
息ができない、苦しい。
私は、雲の中を落ち続け、そこから、記憶が途絶えた。
目覚めていちばんに目に飛び込んできたのは、無数の星だった。
空は、青から紺に、そして黒へとグラデーションを描いて、静かにそこに在った。
透明な半球の中に、いくつもの色が重なり合い、一部は溶けて混ざり合っていた。
起き上がろうとしたとき、後頭部に痛みが走った。
「痛い……」
痛みが出ないよう、ゆっくりと起き上がって周りを見る。
私は、一面に広がる、白い半透明のものの上に寝転んでいた。
すくうように、そっと、触れてみる。
指先が向こうに透けて、つかむことができない。
それでもにぎろうとすると、爪の先へと逃げるようにふわっと揺れて、空気の中に溶けて消えた。
溶けた先に、まぶしい真っ白の太陽があって、強い光を放っている。
白い半透明のものは、座っているぶんには、身体をしっかりと押し返す質量を感じる。
私は、ゆっくりと立ち上がってみた。
白いもやの中に、足の甲まで埋まったところで、足の裏が底に当たった。
何歩か歩いてみる。
少しぐらつくけれど、歩けなくはない。
そのまま、しばらく歩いてみた。踏みしめるように歩ける。
歩くたびに、後頭部が少し痛んだ。
けれど、しばらくすると気にならなくなった。
髪が、さっきから、後ろからの風に吹かれて、顔にかかるばかりする。唇にもくっつく。
力なく透けて太陽光を反射しながら、目の前でさらさら揺れる。
この白い「地面」のようなものは、ゆっくりと、動いているようだった。
5分ほど歩いたところで、端に着いた。
白い半透明のものの、色が急に薄くなって、空の青色と混ざり合って、溶けていっている。
はじっこは、白い湯気か煙のようになって、ふわりふわりと風に揺れている。
ひざをついて、できるだけ端まで、にじるように近づいてみる。
下をのぞくと、ぽっかりと浮かぶ雲があった。
そして、はるか下には、濃紺の海と、大陸のようなものが見えた。
急に胸の底から冷えてきて、よろけて座り込んだ。
空だった。
ここは、空なのだった。
私は、這うようにして、どうにか真ん中まで戻った。
最初は、大声を出してみたりしたけれど、ただ虚しく空に吸い込まれるだけで、何がどうなるわけでもなかった。
しばらくして、あきらめて、ここに何があるか、探索してみることにした。
落ちないように気をつけて、全体をまわってみる。
ふわふわしたこの半透明の白いものは、学校の校庭くらいの大きさのようだった。
立っているだけで、髪がまた風で揺れる。
それは、移動による風だった。
ここは、空中に浮かんでいて、体感では、自転車くらいのスピードで動いている。
歩いているうちに、ほかの雲がときどき、近づいて、ぶつかってきた。
そんなとき、この白いものは、ほかの雲に溶けたり混ざったりすることなく、そのままの形で中を通り過ぎた。
私は、その間、白い地面に伏せるようにしてうずくまり、一面がもやに包まれる中、雲が通り過ぎるのを待った。
この場所の探索中、一番困ったのは、急に、人が足もとから現れて、宇宙に向けて「落ちて」いったことだ。
初めて見たのは、男の人だった。
ボスボスボスボス…
歩いていると、足の下の方から、くぐもったような音が聞こえてきた。
なんだか怖くて、音のする反対側に何歩かよけた。
すると、5メートルくらい向こうに、地面の白いものを切り裂いて、スニーカーを履いた足が現れた。次に、破れたズボン、曲がった腕、恐怖に歪んだ顔が順に現れ、叫び声を上げている男が、宇宙空間に向けてすごいスピードで「落ちて」いった。
私は、あっけにとられて、見送るしかなかった。
彼はそのまま、だんだんに小さく小さくなって、叫び声とともに、宇宙の黒い闇の中に消えていった。
その現象は、そのあともランダムに起こった。
落ちていく人は、女の人だったり、老いた人だったり、服装もいろいろだった。
中年から、初老くらいに見える人が多かったかもしれない。
みんな一様に、何か恐ろしいものを見たような顔をしていて、ただ、私を見た瞬間はちょっとびっくりした顔をした。
私はなすすべもなく、ただその様子を見守ることしかできず、彼らはそのまま落ちて消えていった。
ラッキーだったのは、突然地面の中から現れる「彼ら」に、ぶつからなかったことだ。
人が急に「落ちて」いくのは、心底びっくりするし、落ちていく顔や叫び声も本当に怖いので、私はできるだけ、彼らに遭遇したくなかった。
そのうち、彼らが現れやすい場所がなんとなくわかってきた。
どうも、西の端から四分の三くらいの場所が、彼らが通過するエリアのようだ。
私は、できるだけその付近に近づかないように決心した。
次の日、太陽は頭上にあった。
空は青く、じりじりと暑い。
地面の白いものに、強い光が反射して、目を細めないと歩けないほど眩しい。
遠くまで見ることができないから、頭を垂れて、足もとを見ながら歩く。
昨日は、ざっと見てまわったけれど、何も発見できず、疲れ果てて眠った。
今日は、もっときちんと探そう。
何か落ちていないか、何かここから出られるきっかけになるものはないか探すのだ。
端から白いものの形に沿って、うずまきを描くように、くまなく歩いていく。
決して見落とさないよう、最初は目を皿のようにして探したけれど、やはり、それは無駄だとすぐにわかった。
ここには、どこまでも、もこもことした白いものが、みっちりと隙間なく並んでいる。
それだけだ。
それしかない。
足取りは自然と重くなって、いつの間にか、いろんなことを考えていた。
__テーマパークのプラン、どれがいいか、返事してないや。
でも、そもそもこの状況じゃ、多分、行けないや。
ああ、昨日、バイトだったのに。
連絡できなかった。無断欠勤してしまった。
店長、焦ったかな。ホールがひとりになってしまっただろう。
実家には、連絡いったかな。
番号、知らないか。
いや、そうだ、履歴書に、実家の電話番号、書いてたよね。
店長は面倒見がいいから、多分、心配して、連絡してくれただろうな。
うまく連絡がいっていたら、今ごろ、お母さん、部屋に来ているだろうか。
そうしたら、「行方不明」ということになっているのかな、私。
そうだ、冷蔵庫に一昨日のカレー、入れたままだよ。
ちゃんと早くきてくれないと、ゴミ出しもできてないから、アパートが大変なことになってしまう。
お母さんも、弟も、びっくりするかな。
お母さんはともかく、弟は、興味もないか。
ふだんから喧嘩ばかりだったし。
家族に最後に会ったのは、数週間前、夏休みに帰省したときだった。
夕食のあと、くだらないことで、また弟と喧嘩してしまった。
「なんで皿のひとつも、下げられないの」
私が言うと、
「は? なんで俺がそんなことしなきゃいけないの」
そう言いながら、弟は携帯電話の画面から目を離さなかった。そんな様子を見るだけでイライラした。
「部活で疲れてるんだから、しょうがないのよ」
母は、いつものように弱々しく弟をかばった。
「母さんがさせないから、こうなっちゃうんでしょ」
怒ったけれど、こんなやりとりは、小学生の頃、三人暮らしになってからずっと続いていたことだった。
私が大学で出ていったあとも、変わらなかった。
母は、なんだかんだで弟の肩をもってばかりで、私のことはずうっと放ったらかしだった。
勉強はもちろん、受験や入学の面倒な手続きだって、私は自分でやってきたのだ。
ひとりで働く母の代わりに、ずっと家事を手伝ってきたのも、私だった。
仕事の大変さや、愚痴を聞くのも、私だったのに。
いつも、私ばかり家事をするのが当たり前で、母は、弟には、何も言ったりはしなかった。
母の弟に対する態度を見ていると腹が立つから、大学は、わざわざ、絶対に実家から通えないところを選んだのだった。
実家にいるより、卒業してから奨学金を返すほうが、まだよかった。
時々、休みながら歩いているうちに、日が暮れてきた。
喉の乾きと空腹をごまかせなくなってきて、さっきから、私はもう、食べ物のことしか考えていなかった。
昨日、ここに「落ちて」きてから、何も口にしていない。
食べられそうなものがないか、くまなく探したはずだ。
でも、どう探しても、すべてが、ただの「白」なのだった。
足もとに広がる白いもの以外、何も見つけることができなかった。
ここに唯一存在している、地面の白いものを、手のひらですくう。
持ち上げると、ふわっと揺れて空気中へと消えてしまい、触れることができない。
おなかが、また、ぐうと鳴った。
喉の奥がカラカラだ。
目に涙がにじんだ。
私は、その場にしゃがみこんで、ごろんと大の字になった。
空のてっぺんは漆黒で、白く眩しい星々が瞬く。
流星が、きらめく長い尻尾をなびかせて、流れては消える。
使い終わった人工衛星の壊れた機体が、時折寄り集まって流れていった。
行く先を目で追うと、漆黒の空は、紺色に変わり、その次に白になり、淡いピンク色になった。
向こうにある太陽は、濃く、今にも溶け出しそうなオレンジ色だった。
まわりの雲は、すべてが淡いピンク色に染まっていた。
地面の白いものに目を落とすと、これも太陽の色を反射して淡いピンク色になり、灰色の影は濃く長かった。
背中から、しっかりと身体を押してくる。
背中、手の甲、お尻、太ももの裏、かかとに、地面が当たる感触がしている。
でも、触れようとすると、たちまち溶けて消えてしまう。
「…桃みたい」
独り言を言ってみた。
オレンジと白とピンクのあいだの色は、おいしそうな桃にそっくりだった。
言葉に力が入らなかった。
宇宙に向けて、ぽそっと飛び出した言葉は、どこにも反射せずに、空気にまぎれて消えた。
「あるのに、ない。なんにもない。なあ…」
言葉はどんどん小さく、自分で出した音が、口腔から鼻の奥に反射して、ようやく小さく、耳に聞こえた。
聞こえたということは、きっと言ったのだろう。
それすら、定かではない気がした。
目からは、涙が溢れてきた。
涙は、頬を伝って、耳にまで流れて、止まった。
私は、手足をそのままめちゃくちゃに動かした。
たちまち、地面の白いものがちぎれて、もやのようにふわふわと乱れ飛び、私の顔や髪にかかった。
大声をあげて、もっと強く、手足を動かす。
どんどんちぎれて、小さくなった白いものは、どんどん私の上に積もる。
幼い頃、家族で行った雪山を思い出した。
小学校の、まだ低学年の頃だった。
もこもこしたスキー服を着て、まだ暗いうちから出発した。私も、弟も、朝早くから張り切っていた。着いたら、弟と母と、そりで遊んだ。
そのころはまだ父がいて、向こうを一人、スキーで滑っていた。
思い出す。
弟が、手のひらでいっぱいに雪をすくって、私にかけてきたこと。
私が、そりを使って、どっさり雪をかけ返して、弟が転んで埋もれたこと。
私も、弟も、母も笑っていたこと。
父も、遠くで、笑っていたこと。
空を見上げたら、今この瞬間のように、白い雪がどんどん降ってきたこと。
一面に、雪が、次から次へと、永遠に絶えることがないように、降ってきたこと。
今、ここがどこかわからない。
だけど、もう会えない。
それだけはわかった。
涙は耳の中にたまって、あふれて、髪を濡らした。
そのとき、指の先がふと、固いもの当たり、ふいに、地面が削れている感触に気づいた。
指の先を見てみる。
白いものが掘れて、1センチほどの穴になっている。
私は、起き上がって、涙を飲み込んだ。
ひっかくようにして、指先を突き立てる。
指先に感触があるうちに、掴むように素早く削り取る。
それを繰り返すと、白いものは削れて、山のように積み重なってきた。
小さく山になった白いものに、そっと触れる。
すると、やはり、ふわりと手の中からすり抜けて、消えてしまう。
「ああー、もう!」
私はさっきの感触を思い出しながらもう一度、今度は勢いよく、握りとる。
とれた。
私はすばやく、その白いものを両手でぎゅっとにぎった。
塊をじっと見つめる。
たぶん、大丈夫だ。
そんな直感を吟味する間もなく、感触があるうちに、口の中に放り込む。
なんの味もしなかったけれど、確かに、それは、口の中に存在していて、弾力があって、噛むことができた。
二三回、噛んだところで、口の中で溶けて消えていくような感触があったから、急いで飲み込んだ。
食べれた。
次も、その次も、おいしくはなかったけれど、「食べる」ことができた。
私は、嬉しくなってもっと穴をほった。
おにぎり状のものを次々につくる。
夕暮れの淡いピンク色に染まったところを掘って握って、桃の形を作った。
桃をイメージしながら口にいれると、ふわっと桃の匂いが鼻に抜ける。
気のせいなんだろう、気のせいかもしれない。
でも、気のせいで構わない。
私が、そう感じるのだから。
試しに、濃いオレンジ色に染まったところを掘って、丸く握る。
みかんを思い出しながら食べると、みかんの酸っぱさが口に広がった、気がした。
私はそのまま、たくさんの果物を食べ、おなかがいっぱいになった。
眠くなったので、白いものをたくさん削り出して、布団の形に整えた。
トイレも必要だったから、たくさん集めて、端に、ごく小さな、囲いのあるトイレを作った。
ついでに、布団のまわりに白いものを積み上げて、風よけの壁を作った。
白いものに、触れることができるとわかり、とりあえずものが食べられてから、私の身体には力が湧いてきて、たくさんの作業を一気にこなした。
布団をひいて、一息ついた。
もう、寝よう。
そっと触れたところは溶けて空気中に蒸散してしまうので、下手に触れて溶かしてしまわないよう、注意しながら布団に入った。
ちょっと重い布団くらいの、しっかりした質量がある白いものを、身体の上にかけてみる。
空気の層があるからか、意外と暖かい。
その夜、首元でふわふわと溶けゆく白いもやの上に、今まで見たことのないくらい大量の星が見えた。
宝石のようにまばゆく輝いて、光を放つ。
覚えている星座をいくつか唱えた。
目をつぶると、小さい頃にキャンプで行ったときに見た星空と、家族でくっつきあって眠った感触を思い出した。
翌朝、明るく眩しい朝日で目覚めた私は、昨日掘った穴をさらに掘って、朝ご飯を作ることにした。
朝日をあびて、地面の白いものは、いよいよ白い。
この色だと、おにぎり、できるかな。
そう思いながら手で掘っているうちに、ふいに穴の一部が崩れ落ちた。
その奥に現れたのは、直径15cmほどの横穴だった。
少し触れてみる。
ぼろぼろと崩れて、あっという間に、中に入れるくらいの大きな空洞があいた。
向こうには、内部へと降りていく階段のようなものが見える。
私は、おそるおそる中に入り、周囲の壁に触れてみた。
そっと触れると、気化したように溶けてなくなる。他と同じだ。
身体ごともたれかかってみると、大理石のように強く跳ね返す感触があり、固かった。
どうやら崩れる心配はなさそうだ。
私は、その階段を降りていった。
一階分くらい降りたところに、明るく開けた空間があった。
ちょうど、私が住んでいるワンルームマンションを、ひとまわり大きくしたくらいの、仕切りも何もない空間だった。
天井は低く、緩やかなカーブを描いていて、ドームのような空間だ。
中心部分には、手のひらくらいの穴があいていて、そこから、光が射してこんでくる。
白く弱々しい朝の光が、空間に満ちていた。
昨日、表面はくまなく見て歩いたと思っていた。
最後のほうは疲れていたから、地面に穴が開いていることに気づかなかったようだ。
空間の中には、壁に沿うようにして、白いものでできた家具が並んでいた。
たんすや棚と並んで、引き出しのある大きな机があった。
そして、真ん中にぽつんと、椅子があった。
大きな机からやや離れた位置に、引き出した斜めの格好で置いてある。
机や椅子は基本的に白く、足には、揃いの、アンティーク風の飾りのようなものも見えた。
机に近づいてみる。
上には、すべて、白いものでできた、小さなたくさんの道具が乱雑に置かれている。
ここには、誰かが、いた。
いや、いる?
今も?
身体のなかで心臓が大きく打つ音が聞こえた。
小さな部屋を注意深く見回す。
動くものは、いない。
今は、私だけだ。
私は、机の上を見て、そのうちのひとつ、ペンのような道具を持ち上げた。
最初はうっかり、そっと触れてしまったから、軸の一部が少し溶けて蒸発してしまった。
できるだけ大きな動きで持ち直す。
先が尖っていて、小指ほどの太さの、ペンのようなもの。
ただ、軸は少し歪んでいるし、表面には細かい凹凸がある。
これ、作ってある。
机の上にあるほかの道具にも目を向ける。
ペンのようなものが、2、3本。
ペン立てのようなもの。
けしごむのようなもの。
ものさしのようなものもある。
すべてが白く、表面には凹凸があり、形は少しいびつだった。
机そのものも、表面はでこぼこしていて、細かく表面に見える影は淡い灰色で、影のおかげで、それらの形がようやくわかるのだった。
時計に触れようと手を伸ばしとき、天井の中央にあいた穴から、大きな声が聞こえてきた。
ウエエエエエエ、ウエ、ウエエエエエ
泣いている。
赤ちゃんの泣き声だ。
まさか。
ここに?
私は、すぐさま階段を駆け上がった。
赤ちゃんは、白いものに埋もれるようにして、泣いていた。
西側の、あの、落ちてくる人がたくさん現れる場所だ。
口を大きく開けて、手をぎゅっと握りしめ、真っ赤な顔をして泣いている。
身につけているものは、肌着とオムツだけだった。
赤ちゃんが泣いて身体をよじるたびに、まわりの白いものがふわふわと蒸散する。
走り寄ったのはいいものの、何をどうしたらいいのかわからない。
この子、何ヶ月? 首は座っているの?
見てもわからないから、首を支えるようにして腕を差し入れ、そのまま両腕を使ってそっと抱き上げた。
自分の腕で赤ちゃんの首を支えていることを確認しながら、胸元まで引き寄せる。
温度を感じる。
あたたかい。
赤ちゃんは、少しだけ泣き止んだあと、まだ身体をよじらせるようにして泣きだした。
目は完全につぶっていて、涙が粒になって垂れ落ちる。
大きくあけた口の中、真っ赤に染まったのどが見え、声を出すたび、舌がブルブルと震えている。
そのとき、西の端、10メートルほど向こうの白い地面の中から、ヒールの靴を履いた足が現れ、30代くらいの女の人が、かん高い叫び声を上げながら空へと落ちていった。
私は、思わず、赤ちゃんを胸元にぎゅっと抱き寄せる。
女性は、他の人たちと同じように、すぐに小さくなって、黒い宇宙へと消えていった。
あの人たちは落ちたのに、私はここで止まった。
この子も、私と同じ。
落ちてきて、ここに「引っかかった子」なんだ。
それが、なぜなのかは、考えてもわからなかった。
泣きわめく赤ちゃんを、左腕と身体でしっかりと抱えたまま、我に返る。
右手をそっとはずし、足の付け根のオムツをちょっとめくってみる。
ここに来てからまったく無縁だった、強い匂いが立ち上がった。
「ウンチ出てる!」
もう、何がどうでも関係なかった。
とりあえず、左腕で赤ちゃんを抱えた体勢のまま、膝で落ちないようにガードし、右手で、そのあたりの白いものを掻き集める。
ボサボサと集まった白いものを、自分の太ももの横に叩きつけるようにして、ちょっと分厚い綿のかたまりのようなものを作った。
それで赤ちゃんのおしりを拭こうとして、まずは赤ちゃんをそっと白い地面におく。
火がついたように泣き出した赤ちゃんをあやしながら、必死で肌着のスナップを外し、オムツをとり、白いものを使っておしりを拭く。
ちょっと足りない。
また白いものを掘って掻き集める。
汚物は一箇所にまとめて、きれいに拭きあげた。
気持ちよくなったのか、赤ちゃんは泣くのをやめた。
顔の赤みがみるみるひいて、こちらを見ながら手をグーにして、そのまま手をなめ始めた。
抱っこしてみる。
腕に当たっている後頭部が、少しバランスが悪いというか、左側が大きくえぐれたように欠けている。
大怪我しているんじゃないの?
そう思ったけれど、特に血は出ていないし、赤ちゃんはなんともなさそうに手をなめて、こちらを見てくる。
まんまるな目が、私を見る。白目が青いように白い。黒目は濡れて光っている。
「かわいい、ね…」
私はそう言いながら、困り果ててしまった。
汚れたオムツを外してしまったので、赤ちゃんには、もう、はくものがない。
仕方なく、着ていたカーディガンを、おくるみのように巻き付けた。
「はあ…」
ため息が出た。
私のカーディガンが、ウンチかおしっこにまみれるのも、時間の問題だ。
どうにかして、オムツに代わるものを調達しなければ。
それからは、急に忙しくなった。
汚物入れ用の穴を、トイレの近くに掘り、そこに汚れたものをまとめて入れた。
手を洗いたかったので、白いものにそっと触れ、気化しそうになったところで、手のひらで挟んでゴシゴシと擦り付けると、水のようになって少しきれいになった。
それでも気持ち悪かったので、白い地面の中に手首まで突っ込んで、こすりつけてきれいにした。
もっと多くの水を調達する必要にかられ、私は白い地面に穴を掘り、スカートの裏地を破って、その上にかぶせた。
うまくいけば、結露がたまって水になるかもしれない。
汚物の処理が済んだら、赤ちゃんをあやしながら、おしりを拭くための白いものを、たたいてのばして、10枚ほど準備した。
さらに、もう何枚か作り、それを組み合わせて、形を思い出しながら、オムツを作ってみた。
T字形にととのえ、赤ちゃんに合わせてみる。
本物の赤ちゃんにオムツをあてるのは初めてだったから、活発に動く足をよけながらつけるのには苦労した。
何個目かでうまくフィットしたので、同じ形で何枚か作ることに決めた。
何より怖かったのが、今は大丈夫だれど、そのうち、おそらく時間をあけず、赤ちゃんのおなかがすいてしまうことだ。
月齢はよくわからなかったけれど、寝返りを打ったし、もう首はすわっているように見えた。
赤ちゃんは、寝転んだままで、機嫌よく自分の手を見て遊んでいる。
ただ、ここにはミルクも食べ物もない。
私が、どうにか、作ってあげないといけない。
でも、何を?
赤ちゃんを見ると、こちらを見ながら、握りしめた手をなめている。
時々大きく口をあけて、食べそうなそぶりまでする。
なんとなく、あやしい。
もしかして、もう、おなかがすいているのではないかしら?
考えている暇はなかった。とにかく、動かないと。
1週間が経つころ、赤ちゃんがいる空での暮らしも、見通しがつくようになってきた。
赤ちゃんは、おかゆをイメージして作った白いものを、大変よく食べた。
もう、離乳食が始まっていた赤ん坊なのだろう。
すると、食料の原料になる白いものを採る場所が気になってきた。
トイレの近くはさすがに避けたい。
しょっちゅう歩いて踏む場所や、「落ちる人」が出てくるところも、何かよくないものがついている気がして、採る気にならなかった。
さらに言うと、赤ちゃんが食べやすくて、安全で、クリーンなものでなければならないだろう。
そこで、白いものがとりわけもこもことして、やわらかそうな、中心部の穴の近くを、食料を調達する場所と決め、「畑」と呼ぶことにした。
毎日出る汚物は、端にしつらえたトイレの近くへ埋めることにした。
白いもので作ったオムツは、吸水性は良いけれど、なかなか水分が蒸散しないようで、すぐべちゃべちゃになるのが問題点だった。
そのため、オムツ替えはかなり頻繁に行わなければならなかった。
赤ちゃんに離乳食を食べさせたり、寝かしつけをしたりする合間をぬって、オムツの予備と、おしりふきを作った。
予備は、常に数日分になるよう作り置いた。
初日に作った布団は、内部にあった部屋まで抱えて移動した。
階段からすぐそば、棚の手前の空きスペースを、少し掘り進めて、ふとんが2枚並ぶくらいの広さの、円形の空間を作り、上に小さい窓を作った。
中には、白いものを積み重ねて高さを出し、その上に布団をおいた。
小さな布団をもうひとそろい作り、私と赤ちゃんはそこで一緒に眠ることにした。
天井の穴だけでは少し暗かったので、いつか赤ちゃんが立てるようになっても届かないよう、高いところの壁を削って、大きめの窓を作った。
そこからは、空の様子がよく見えた。
東側に位置するその窓からは、真上にある暗黒の星空はあまり見えず、東の空の様子だけが、窓枠に切り取られて見えていた。
朝、夜が明ける頃、布団から窓の外を見ると、真っ暗だった空は、時間が経つごとに刻々とうっすら白っぽくなってきて、そのうち色を帯びて、ピンクや紫に染まる。
昼、窓は、強い底抜けの青一色になる。
夜は、そこから、月明かりが差し込んだ。天井の窓からも、白く澄んだ月の光が入ってきた。
ドーム型の空間のなかに、月明かりが満ちて、白い家具はすべてがぼんやりとした影になった。
赤ちゃんは、小さな鼻からすうすうと寝息をたてて眠る。
その寝息を聞いていると、私も安心して眠ることができた。
私は、赤ちゃんのことは、赤ちゃんと呼ぶか、呼ばなかった。
どこの誰かもわからない赤ちゃんに、勝手に名前をつけるのは違う気がした。
ただ、少し慣れてきたとはいえ、赤ちゃんの世話は、大学の勉強で、教科書で読んでイメージしていたよりも大変で、一日のほとんどの時間をとられた。
食料の調達や、オムツ作りを含めると、忙しくて休む間もないほどで、毎日があっという間に過ぎていった。
1か月ほど経った。
私と赤ちゃんは、日中も、内部の空間で過ごすことが多くなった。
赤ちゃんは、はいはいを始め、上にいるのは危ないからだ。
この間、心のどこかで待ち望んでいた救助隊は来なかった。
私は、自分にあると思っていた未来が、来ないことを知った。
私は、疲れ切っていた。
昼も夜もなく続く赤ちゃんのお世話を、この1か月、たったひとりでしてきた。
実は、もうすでに何度か、上で、ちょっと目を話したすきに、危ない目にあっていた。
あるとき、赤ちゃんは、白いものの色が薄まるほどの端まで行っていて、伸びかけた茶色く細い髪が、下から吹く風にふわふわとなびいていた。
あるときは、西側の「落ちてくる人」の場所に迷い込んでいて、あやうくぶつかってしまうところだった。
しかもそれが幾度もあった。
何よりも私を疲れさせていたのは、毎日がすべて、赤ちゃんにあわせて進んでいくことだ。
赤ちゃんは、オムツが気持ち悪かったり、おなかがすいたりすると、大声で泣く。
存在のすべてをかけて、泣く。
泣き声を聞くことも、プレッシャーだった。
私がするべき仕事をしていないと、責められているように感じた。
私の癒やしは、先にいた「誰か」が、内部の空間に残した家具や道具だった。
扱うのが難しい、でもここにはそれしかない「白いもの」を、巧みに加工して作られた、道具の数々。
紙はないのに、ペンがあった。
インクはないから、書くことはできない。先が尖った、形だけのペンだ。
動かないのに、時計があった。
電池も、からくりもなく、ただ、形だけ。目覚まし時計のような、簡単な時計だった。
探すと、引き出しの中には、もっとたくさんの道具がしまわれていた。
手づくりでいびつだけれど、万年筆や、小さなフェイスの腕時計もあった。
棚には、コップや皿が入れてあり、お茶道具も少しあった。
茶碗のようなものや、小さな匙。
カップとソーサー。
別の棚には、口紅のようなものや、香水瓶のようなものもあった。
たんすには、たくさんの服がかかっていた。
もちろん、すべて、白いものでできていて、布地は薄いものもあれば、コートのように分厚いものもあった。
裾の長い、ワンピースがたくさんあった。
おそらく何十年か前の、私の知らない時代のデザインだったけれど、ひとつひとつが細かく作ってあった。
それらの道具や服を見ていると、作った人の気持ちがわかるような気がした。
きっと、彼女(作られているものを見て、多分、女の人だと思った)も、突然「落ちて」、たったひとり、ここに「引っかかって」しまったのだ。
私と同じように、最初は、白いものをどうにか使って、食事を作ったり、必要なものを作ったり、生活のために、試行錯誤したはずだ。
そのうち、長い、長い時間をかけて、この立派な部屋を、作ったんだろう。
ドームって、なかなかかっこいい。
あかりとりの天井の穴も、工夫して開けたのだろうな。
椅子にのったら、ちょうど手が届くくらいだった。
私と同じくらいの身長だったのかもしれない。
道具をじっと眺めていると、指のあとのつきかたや、形のつくりかたから、丁寧に、丁寧に、何度も手を入れたことがわかる箇所もあった。
私は、そういう箇所を発見すると、まるで、話のわかる大人と会話しているような気分になった。
もう、ひと月、誰とも会話をしないで、この、おそらく空の上の、何もない、どこともわからない場所で暮らしている。
赤ちゃんが来た当初は、少し嬉しかったけれど、言葉のわからない赤ちゃんに、何をいくら話しても、何も返ってこない。
私の気持ちは、日に日にふさいでいった。
誰とも喋らないということが、こんなにしんどいとは、思ってもみなかった。
なんなら、このひと月で、言葉をずいぶん忘れてしまったような気さえする。
唯一、この、誰かが作った道具たちに触れているときだけ、心が落ち着いた。
でも、なぜ、私たちは、「引っかかって」しまったんだろう?
この疑問は、ここに来てからというもの、そして、赤ちゃんがやってきてからは特に、何度も何度も考えたことだった。
他の、落ちていった人たちと、何が違うのか。
なぜ、私たちだけ、この場所に「引っかかって」しまったのか。
この部屋に、以前「引っかかって」いた人は、そして、どこかへ行ってしまった。
なんのきっかけで、どこへ行ってしまったのだろう。
考えてもわからないけれど、でも、それは、突然だったのではないか、と、思わずにはいられなかった。
あの椅子。
今にも誰か、そこから歩き出したようにあった椅子。
初めて、この部屋に入ってきたとき、他の家具や道具は、整然と並んでいたのに、椅子だけが、斜めに引き出されていた。
誰かに、ちょっと呼ばれたみたいに、乱雑に椅子を引き出したままで、彼女は消えたのだ。
椅子と、そのそばを好奇心いっぱいの目で這い回る赤ちゃんを見ながら、私は布団に横になった。
昼食がようやく終わったこの時間、窓からさす光の色は、ゆったりと落ち着いている。
いつもなら、赤ちゃんと私は、お昼寝の時間だ。
赤ちゃんは、はいはいで移動できることが楽しいのか、部屋の中をあっちやこっちに動いては、届くところに手をのばして、白いものでできた道具や家具に触ろうとしている。
その都度、家具の表面が少し溶けて蒸発し、ふわっと部屋の中に漂う。
それをいちいち止めてきたけれど、そのときは、止める気力すら湧かなかった。
赤ちゃんは、白いものでできた万年筆を持って、遊んでいる。
尖っているから、危ないかな、と思ったけれど、どうせ、同じものでできたものを食べているのだし、少々口に入れても大丈夫だと思い直した。
私は、そのまま、目を閉じていった。
もしかして、危険なこともあるかもしれない、と、一瞬、頭をよぎった。
でも、
「…私の子どもじゃ、ないんだし」
そのとき、何もかもが、どうでもいいことに思えたのだった。
★
眠りながら、夢を見た。
母が、私のそばにくっついて、眠っている。
寝息が聞こえる、浅い寝息だ。
薄く、軽くて、暖かい布団が、私と母の身体の上にふんわりかかっている。
私が目を覚ましたことにすぐに気づいて、母も目を開ける。
私の顔を見て、胸の上に手を置いた。
トン、トン、とゆっくり動かす。
動かしながら、うっとりと母は目を閉じる。
もう何もかもが完璧で、すべての仕事が終わったという雰囲気で。
布団は真っ白で、乾いていて、トン、トン、と母の手が動くたび、布団も一緒に上下に揺れる。
そのたびに、まわりの少しだけ冷たい空気が胸のところに入ってきて、新鮮な空気を吸いながら、私はあくびをひとつする。
腕にあたる母の身体の感触を感じながら、身体をよじってくっつけて、また目を閉じる。
小さな寝息が聞こえてくる。
ああ、これはほんとうにあったことだと、夢の中で、もう一人の私は思う。
いつか、ずっと前、弟が生まれるよりも前に、ほんとうにあったことだ。
すっかり忘れていたけれど、でも今は、匂いまで鮮やかに思い出す。
ふんわりと甘い匂いは、私の身体からしているのか、母の身体からしてくるのか。
たぶんどちらも、同じ匂いなのだ。
眠る小さな私、赤ちゃんの私を守るように、母の右手は肩ごと私のほうに投げ出している。
もう片方の、トントンする左手は、絶対に私の重しにならないように、ほんの少し浮かせている。
夜中の母、そして私。
ふたりきりでいた、私たち。
その様子を私は、夢の中のもう一人の私は、涙を流しながら見ている。
あの瞬間、私は完璧に愛されていて、そのことをずっとずっと、忘れていたのだ。
★
目が覚めた。
本物の私は、自分で作った白い布団をかぶっていて、その布団はやわらかに暖かく、涙が耳のところに流れていた。
隣を見る。
夢の中で、さっき私がいた布団の場所に、赤ちゃんはいない。
飛び起きた。
いつの間にか、眠ってしまっていたようだ。
素早く周りを見渡したけれど、赤ちゃんの姿はなかった。
先ほどまでなめて遊んでいた万年筆が床に落ちている。
拾い上げてみると、軸が曲がっている。
階段を見る。
まさか、もう上がれるようになったのだろうか。
まだ床のはいはいしかできなくて、階段は上がれなかったはずだった。
でも、そこしか考えられない。
私は気が動転しつつも、走って階段を駆け上がった。
一瞬、危ないかもしれないと思ったのに、それを無視した自分を激しく後悔した。
白い地面の上に出た。
いままで何度も、彼は、西側の「落ちてくる人」の場所に行っていた。
もしかしたら、今日もそこに行っているのかもしれない。
私は走った。
一歩踏み出すたびに、白い地面から、もやが上がって散った。
西の場所で、赤ちゃんの姿を見つけた。
やはり、「落ちてくる人」のエリアの中にいる。
何かを見つけたのだろうか、一心に何かを見つめて、そちらに這って行っている。
ひとまず姿を見つけたことで、私は安心して歩みをゆるめた。
あの場所になにかあるのか、どうしてそっちばかり行きたがるんだろう?
そう思ったとき、赤ちゃんの脇に、赤黒く汚れたスニーカーを履いた足が現れた。
「あ」
言う間もなく、黒っぽい服を来た男がすべての身体を現した。
目が合ったとき、その男は、獲物を見つけたように目を輝かせた。
ゾッとした。
それが、その男の手、そして腹部が、血に染まっているのを確認したのと同時だった。
男の暗い瞳は、すばやく私の視線をたどって、赤ちゃんを見つけると、歪んだ口元をキュッと結んで、あっという間に手を伸ばした。
攫われる!
私は地を蹴って飛んだ。
血しぶきのついた男の腕を素早く跳ね除け、赤ちゃんの上に覆いかぶさった。
赤ちゃんに触れる直前で、男の手は行先を失い、何も持てなかったその手で、男は私の上着の首元を掴んできた。
一瞬で首が締まる。
喉の奥が締め付けられて、ぐ、と音が出た。
そのまま、身体が浮いた。
苦しさの中で、咄嗟に考える。
この男、私を使って、ここに引っかかろうとしている。
__いや。
ただ単に、私を引きずり落とそうとしている。
いや、こういうことに慣れている。
そうだ。
誰でもいい、何でもいいんだ。
たまたま、そこにいたから。
たまたま、手をのばしたら、届いた。それだけだ。
男の目を見た。
目が笑っている。
次の瞬間、反射的に、左手に持ったままの万年筆を、男の手に思い切り突き立てた。
軸が曲がった万年筆は、手の甲に斜めに刺さり、私の上着を握る手がわずかに弱まった。
私はその瞬間を逃さず、右手を逆手にして、引きちぎるように男の指を外すと、そのまま空に放り投げた。
アアアアアアアアアア
男の手が何度も空を掻いた。
男は、こんどは驚いた目をして、私と赤ちゃんを見つめながら、真っ暗な空に、猛スピードで落ちていった。
私の服の首元は、たわんで破れた。
赤ちゃんは、飛び寄ったときに私の膝が身体にぶつかって、痛かったのか、驚いたのか、今にも泣きそうな顔をしている。
「あ、あ、ごめんね」
そう言って抱き寄せると、火がついたように泣き出した。
あたたかくやわらかな身体が、真っ赤な火の玉みたいになって、胸のなかで震えて泣いていた。
そのころには、私は腰が立たなくなっていて、揺らしてあやすこともできないまま、抱き寄せた赤ちゃんの背中をトントンと叩いた。
今になって、恐怖が涙に変わって、目と鼻から流れてくる。
「もう大丈夫よ、もう大丈夫」
呪文のように何度もそう言いながら、さっき見た母の夢を思い出しながら、自分にも言い聞かせた。
リズムを守って、トントン、トントン。
夢の中の母と同じようにして、赤ちゃんの背中を叩いた。
赤ちゃんは、すぐには泣き止まない。
「大丈夫」
私は何度でもそう言った。
私と赤ちゃんの命を救った、軸の曲がった万年筆は、今も机の上に飾ってある。
私は、飾るための特別な台を作って、それに乗せた。
勲章のように。
はいはいどころか、もう立って歩くことができるようになった赤ちゃんにも、台を形作るところを手伝ってもらった。
小さい手をそっと導くと、自分で振り回して叩いて、粘土を固めるみたいに、上手に私の真似をした。
もう、彼は、言葉を言えるようになった。
「いす」
はじめて彼が言ったのは、まさかの「椅子」だった。
前の住人が、引き出したままどこかに行ってしまったあの椅子は、座り心地がとてもよくて、今では私の特等席になっている。
赤ちゃんが一緒に座りたがるから、もうひとつ、デザインを似せて、彼のために子ども椅子を作った。
子ども椅子を作るのは、とても大変だった。
赤ちゃんが座ったり、いろんな動きをしても、倒れたり壊れたりしないように、安全性をしっかり考えなければいけなかった。
椅子を作ったこともないし、子ども椅子の形もうまく思い出せなくて、最初はとても難しかった。
でも、赤ちゃんの動きを想像しながら、どんな動きにも耐えられるようにと構造を考えるのは、楽しかった。
試作品を作って自分でも座ってみたり、赤ちゃんを座らせたりして、そのうちによい形ができた。
脚の部分には、私の椅子とおそろいのデザインを入れた。
真似して作る間、前の住人が作ったこのデザインは、何をモチーフにしたのだろうかとか、どんなところにこだわったのだろうかと、と考えたりした。
出来上がった椅子を赤ちゃんに見せたら、
「こぇ」
と言って、おそろいの箇所を指さして見せ、手をぱちぱちとたたいて喜んだ。
その姿を見て、私もうれしくなった。
私たちがこの場所に「引っかかって」しまった理由は、今もよくわからない。
ただ、あの日、様子のおかしな男が、赤ちゃんを攫おうとし、私を連れて行こうとした日、少しわかったことがある。
あの男は、血にまみれていた。
他の人の血だったのかもしれないけれど、男自身も怪我をしていたようだった。
落ちていった他の人たちも、よくよく思い出してみたら、身体のどこかに血がついていて、不自然に曲がっていたりしていたことに気づいた。
私たちが、あの人たちと、決定的に違うことと言えば、それだ。
実際、私はどこも怪我をしていない。
最初に痛みを感じた後頭部が、あとで触れたらびっくりするほどへこんでいたけれど、血は出ていないし、普通に動けているから、怪我ではないはずだ。
赤ちゃんも、後頭部の左側がへこんでいる以外は、どこもきれいだし、何より普通に動いている。
私は、何度か、ここに来たときのことを思い出そうとした。
でも、そのたびに気持ち悪くなった。
だから、これからも、あまり考えないようにして過ごそうと決めた。
ここでの暮らしにも、だいぶ慣れた。
ただ、暮らしのためにやることが多すぎて、がんばりすぎると辛くなってしまう。
だから、今はもう、一日にやることをできるだけ減らして過ごしていて、赤ちゃんがごはんを食べて、排泄して、寝れば、それで良しとしている。
いつの間にか少しずつ大きくなった彼は、私によくなついて、最近はいろんな意思表示をしてくるし、私のすることを真似てくる。
私の言葉も真似る。
最近、真似されだしてはじめて、私は、彼に、言葉や、ものを教える責任があることに気づいた。
なにしろ、ここには、白いもの以外、何もないし、私以外、誰もいないのだ。
私が彼に伝えることがすべてであると思うと、何となく怖くなった。
でも、そうするしかないのだった。
私が望もうが望むまいが、彼は、この場所で、私からすべてを学習するのだ。
そう思ったときに、言葉を伝える以前の「もの」が、この場所には圧倒的に足りていないことに気づいた。
言葉を伝えようにも、その言葉がさす「もの」がないから、教えることができない。
私は、まずは、前の住人が作ったものを使って教えることにして、その間に、自分で教えたいものを作ることにした。
そしてできる限り、その道具を使っていくのだ。
食器の種類。お箸、フォーク、スプーン。
文房具の種類。万年筆、ボールペン、えんぴつ。
日用品。鏡、くし、歯ブラシ。
作るために、なにかを思い出すと、一緒くたになって、昔のことや、友だちのこと、母や弟のことを思い出した。
お箸の形を作りながら、弟が修学旅行で買ってきたお箸を、私は結局、家を出るまでずっと使っていたことも思い出すという具合に。
ここには何もないけれど、私の頭の中には、しっかりといろんなものが記憶されて入っている。
忘れる前に、少しずつ取り出して、形にして残していこうと思った。
そうしているうちに、いつの間にか、すべてが遠くなっていくのかもしれない。
でも、そのぶんだけ、この場所にものが増えて豊かになり、彼の世界にも、少しずつ言葉がたまっていく。
昼下がりの眠たい空気の中、明るい日陰でおすわりして、私が作った積み木で遊ぶ彼を見ながら、私はひとつ決めた。
そろそろ、名前をつけよう。
「ねえ、名前、何がいい?」
本人に声をかけてみると、呼ばれたと思った彼は、積み木を持ったまま振り向いて、にっこりと笑顔を見せた。
表面が透明な、砂糖のように真っ白い下の前歯がのぞいた。
あ、上の歯も生えてきている。私は気づく。
ここで、一緒に生きていくには、彼にも名前がいる。
これから、できるだけたくさんのことを伝えるからね、と私は心の中で思う。
いつか、前にいた人のように、どこかに呼ばれる日まで。
少しだけ傾いた日はまだ明るく、空はかすんだような水色だ。
白いものにうつる影はほんの少しだけ黄みをおびた灰色で、赤ちゃんはよだれをたらしながら集中して積み木で遊んでいる。
その上の高いところには、大小の星が撒き散らされた黒い宇宙が広がっていて、また、人がちょうどひとり落ちていっているところだ。
私は、暖かい毛布を引っ張り出す。
夕方になって寒くなったら、赤ちゃんに掛けられるように。
文字数:19465
内容に関するアピール
この1年、あまりにも遅い歩みではありましたが、ゼロから考えると、何歩かは前に進めたように思います。
書くスピードがとても遅く、なかなか実作が出せませんでしたが、諦めることなく、書くことを続けられたことは収穫です。
先生や先輩方からアドバイスをいただいた、当初予定していたものとは変わりましたが、最終回にしてようやく実作を出せることを嬉しく思っています。
「私は詩人になりたいと思つた。けれど、私の詩稿はパンの代りにはなりませぬでした。ある時、私は、文字の代りに絵の形式で詩を書いてみた。」という竹久夢二の言葉が、ずっと心にありました。
詩のかわりに、絵のかわりに、物語の形式で、このようなことをしていきたいという気持ちで書きました。
実作が間に合わなかった梗概を、このあと少しずつでも形にしていきたいです。誰かと創作の話をしたこと自体今までなく、何もかもが新鮮でした。1年間、ありがとうございました。
文字数:395