空に落ちる

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空に落ちる

 その日、夜のうちに台風が東へ抜けたあとの空は、他の何とも混ざらない切り立った青だった。

 雲は、遠くに千切れたように浮かんでいる。

 空を背景に、山の輪郭がくっきりと濃い。

 山からくねくねと曲がりながら降りる県道は、ふもとに建つ大学へと続き、そこからはまっすぐに、田んぼの中を通っていた。

 

 道の左右に遠くまで広がっている田んぼでは、まだ緑の稲穂が風に揺れている。

 車通りは、ほとんどない。

 時々、軽トラがゆっくりと走る。

 私は、片手に携帯電話を握りしめて、駅までの道を歩いていた。

 今日は、休講で1限で終わりなんて、ラッキーだけど、来た甲斐がない。

 私のほかに、駅へと歩く学生はいなかった。ぽつり、ぽつりと、大学へ向かう学生とすれ違う。

 風が、時折、思い出したかのように、強く吹いてくる。

 ようやく肩を越えたばかりの髪が、そのたびに顔にかかる。リップクリームを塗り直したばかりの唇にくっついて、うっとうしい。

 久しぶりに履いたロングスカートが、バサバサとゆれる。裏地に静電気が起きて、足にくっつく。

 帰ったらちょっとゆっくりして、来週からの保育園実習の準備をしよう。

 夜はバイトだ。バイトして貯めて、1年生のうちに少しは遊んでおかないと。

 

 手に持っていた携帯電話が揺れた。

 同じ子ども学科の友だちからのメッセージだ。

 冬休みに行く予定のテーマパーク旅行について、プランをたくさんあげてくれている。

 歩きながらスクロールして、いろんなプランを見る。

 テーマパークの楽しそうな写真が、次々と続く。

 今月はシフトにたくさん入れるから、ちょっといいところに泊まれるかもしれない。

 考えながら、母と弟の顔が浮かんでいる。

 __前、ここに行ったのは、小学校最後の春休みの、家族旅行だったな。

 画面を見ながら思い出す。

 緑の稲穂は、大きく実って、風が吹くと大げさに揺れる。

 そのとき、ちょっと大きいエンジン音が、後ろから聞こえてきた。

 スポーツカーのような、もっと大きい車のような。

 

    ブブブブブブブブブ…

 

 スクロールしながらも、音が気になる。

 音がだんだん、近づいてきた。

 

 画面を見ていた視界が、急に光に包まれた。

 顔を上げようとして見たのは、白い光の向こうで、緑の稲が風に揺れるところと、そして、それが即座に、光に飲み込まれていくところだった。

 次の瞬間、足元をすくわれて、空に投げ出された。

 鼻の奥がぐるんと回転する。

 手に持っていたはずの電話が、放物線を描いて飛んでいく。

 それは、ゆっくりと、音もなく地面に落ちて、ガラスの画面が粉々に割れ、フレームは曲がり、中身が無惨に飛び出した。

 あ、と思ったときはもう、その光景を、頭の上に見ていて、それはペンの先ほどに小さくなった。

 先程までいた大学の、校舎やグラウンドや全景が見え、駅前のビルが見え、すべては今や頭上にあり、それらは猛スピードで遠ざかっていく。

 

 落ちる!

 

 まぎれもなく、いま、私は「落ちて」いた。

 底なしの空へ向けて、落ちているのだった。

 激しいスピードの中、強い風に巻き込まれて、身体の自由がきかない。

 手や足を動かすこともできず、顔に当たる空気が刺すように冷たい。

 髪がうねるように吹き上げられて、左右へ激しく揺れる。

 飛行機が向こうに飛んでいるのが見えた。

 足もとには雲が近づいてくる。避けられない。

 一面が灰色の雲の中、水の粒や、時には、氷の塊が、すごいスピードで身体にぶつかってくる。 

 痛みと冷たさに、身体がこわばる。

 細かい水の粒子が容赦なく鼻や口の中に入ってくる。

 息をしようと口を開くと、冷たい水の粒が、喉の奥に次々とぶつかり、気道を塞ぐ。

 反射的に咳が出る。

 息ができない、苦しい。

 私は、雲の中を落ち続け、そこから、記憶が途絶えた。

 

 目覚めていちばんに目に飛び込んできたのは、無数の星だった。

 空は、青から紺に、そして黒へとグラデーションを描いて、静かにそこに在った。

 透明な半球の中に、いくつもの色が重なり合い、一部は溶けて混ざり合っていた。

 起き上がろうとしたとき、後頭部に痛みが走った。

「痛い……」

 痛みが出ないよう、ゆっくりと起き上がって周りを見る。

 私は、一面に広がる、白い半透明のものの上に寝転んでいた。

 すくうように、そっと、触れてみる。

 指先が向こうに透けて、つかむことができない。

 それでもにぎろうとすると、爪の先へと逃げるようにふわっと揺れて、空気の中に溶けて消えた。

 溶けた先に、まぶしい真っ白の太陽があって、強い光を放っている。

 

 白い半透明のものは、座っているぶんには、身体をしっかりと押し返す質量を感じる。

 私は、ゆっくりと立ち上がってみた。

 白いもやの中に、足の甲まで埋まったところで、足の裏が底に当たった。 

 何歩か歩いてみる。

 少しぐらつくけれど、歩けなくはない。

 そのまま、しばらく歩いてみた。踏みしめるように歩ける。

 歩くたびに、後頭部が少し痛んだ。

 けれど、しばらくすると気にならなくなった。

 髪が、さっきから、後ろからの風に吹かれて、顔にかかるばかりする。唇にもくっつく。

 力なく透けて太陽光を反射しながら、目の前でさらさら揺れる。

 この白い「地面」のようなものは、ゆっくりと、動いているようだった。 

 5分ほど歩いたところで、端に着いた。

 白い半透明のものの、色が急に薄くなって、空の青色と混ざり合って、溶けていっている。

 はじっこは、白い湯気か煙のようになって、ふわりふわりと風に揺れている。

 ひざをついて、できるだけ端まで、にじるように近づいてみる。

 下をのぞくと、ぽっかりと浮かぶ雲があった。

 そして、はるか下には、濃紺の海と、大陸のようなものが見えた。

 急に胸の底から冷えてきて、よろけて座り込んだ。

 

 そらだった。

 ここは、そらなのだった。

 

 私は、這うようにして、どうにか真ん中まで戻った。

 最初は、大声を出してみたりしたけれど、ただ虚しく空に吸い込まれるだけで、何がどうなるわけでもなかった。

 しばらくして、あきらめて、ここに何があるか、探索してみることにした。

 落ちないように気をつけて、全体をまわってみる。

 ふわふわしたこの半透明の白いものは、学校の校庭くらいの大きさのようだった。

 立っているだけで、髪がまた風で揺れる。

 それは、移動による風だった。

 ここは、空中に浮かんでいて、体感では、自転車くらいのスピードで動いている。

 歩いているうちに、ほかの雲がときどき、近づいて、ぶつかってきた。

 そんなとき、この白いものは、ほかの雲に溶けたり混ざったりすることなく、そのままの形で中を通り過ぎた。

 私は、その間、白い地面に伏せるようにしてうずくまり、一面がもやに包まれる中、雲が通り過ぎるのを待った。

 

 この場所の探索中、一番困ったのは、急に、人が足もとから現れて、宇宙に向けて「落ちて」いったことだ。

 初めて見たのは、男の人だった。

 

    ボスボスボスボス…

 

 歩いていると、足の下の方から、くぐもったような音が聞こえてきた。

 なんだか怖くて、音のする反対側に何歩かよけた。

 すると、5メートルくらい向こうに、地面の白いものを切り裂いて、スニーカーを履いた足が現れた。次に、破れたズボン、曲がった腕、恐怖に歪んだ顔が順に現れ、叫び声を上げている男が、宇宙空間に向けてすごいスピードで「落ちて」いった。

 私は、あっけにとられて、見送るしかなかった。

 彼はそのまま、だんだんに小さく小さくなって、叫び声とともに、宇宙の黒い闇の中に消えていった。

 

 その現象は、そのあともランダムに起こった。

 落ちていく人は、女の人だったり、老いた人だったり、服装もいろいろだった。

 中年から、初老くらいに見える人が多かったかもしれない。

 みんな一様に、何か恐ろしいものを見たような顔をしていて、ただ、私を見た瞬間はちょっとびっくりした顔をした。

 私はなすすべもなく、ただその様子を見守ることしかできず、彼らはそのまま落ちて消えていった。

 ラッキーだったのは、突然地面の中から現れる「彼ら」に、ぶつからなかったことだ。

 人が急に「落ちて」いくのは、心底びっくりするし、落ちていく顔や叫び声も本当に怖いので、私はできるだけ、彼らに遭遇したくなかった。

 そのうち、彼らが現れやすい場所がなんとなくわかってきた。

 どうも、西の端から四分の三くらいの場所が、彼らが通過するエリアのようだ。

 私は、できるだけその付近に近づかないように決心した。

 

 次の日、太陽は頭上にあった。

 空は青く、じりじりと暑い。

 地面の白いものに、強い光が反射して、目を細めないと歩けないほど眩しい。

 遠くまで見ることができないから、頭を垂れて、足もとを見ながら歩く。

 昨日は、ざっと見てまわったけれど、何も発見できず、疲れ果てて眠った。

 今日は、もっときちんと探そう。

 何か落ちていないか、何かここから出られるきっかけになるものはないか探すのだ。

 端から白いものの形に沿って、うずまきを描くように、くまなく歩いていく。

 決して見落とさないよう、最初は目を皿のようにして探したけれど、やはり、それは無駄だとすぐにわかった。

 ここには、どこまでも、もこもことした白いものが、みっちりと隙間なく並んでいる。

 それだけだ。

 それしかない。

 足取りは自然と重くなって、いつの間にか、いろんなことを考えていた。

 

 __テーマパークのプラン、どれがいいか、返事してないや。

 でも、そもそもこの状況じゃ、多分、行けないや。

 ああ、昨日、バイトだったのに。

 連絡できなかった。無断欠勤してしまった。

 店長、焦ったかな。ホールがひとりになってしまっただろう。

 実家には、連絡いったかな。

 番号、知らないか。

 いや、そうだ、履歴書に、実家の電話番号、書いてたよね。

 店長は面倒見がいいから、多分、心配して、連絡してくれただろうな。

 うまく連絡がいっていたら、今ごろ、お母さん、部屋に来ているだろうか。

 そうしたら、「行方不明」ということになっているのかな、私。

 そうだ、冷蔵庫に一昨日のカレー、入れたままだよ。

 ちゃんと早くきてくれないと、ゴミ出しもできてないから、アパートが大変なことになってしまう。

 お母さんも、弟も、びっくりするかな。

 お母さんはともかく、弟は、興味もないか。

 ふだんから喧嘩ばかりだったし。

 

 

 家族に最後に会ったのは、数週間前、夏休みに帰省したときだった。

 夕食のあと、くだらないことで、また弟と喧嘩してしまった。

「なんで皿のひとつも、下げられないの」

 私が言うと、

「は? なんで俺がそんなことしなきゃいけないの」

 そう言いながら、弟は携帯電話の画面から目を離さなかった。そんな様子を見るだけでイライラした。

「部活で疲れてるんだから、しょうがないのよ」

 母は、いつものように弱々しく弟をかばった。

「母さんがさせないから、こうなっちゃうんでしょ」

 怒ったけれど、こんなやりとりは、小学生の頃、三人暮らしになってからずっと続いていたことだった。

 私が大学で出ていったあとも、変わらなかった。

 母は、なんだかんだで弟の肩をもってばかりで、私のことはずうっと放ったらかしだった。

 勉強はもちろん、受験や入学の面倒な手続きだって、私は自分でやってきたのだ。

 ひとりで働く母の代わりに、ずっと家事を手伝ってきたのも、私だった。

 仕事の大変さや、愚痴を聞くのも、私だったのに。

 いつも、私ばかり家事をするのが当たり前で、母は、弟には、何も言ったりはしなかった。

 母の弟に対する態度を見ていると腹が立つから、大学は、わざわざ、絶対に実家から通えないところを選んだのだった。

 実家にいるより、卒業してから奨学金を返すほうが、まだよかった。

 

 時々、休みながら歩いているうちに、日が暮れてきた。

 喉の乾きと空腹をごまかせなくなってきて、さっきから、私はもう、食べ物のことしか考えていなかった。

 昨日、ここに「落ちて」きてから、何も口にしていない。

 食べられそうなものがないか、くまなく探したはずだ。

 でも、どう探しても、すべてが、ただの「白」なのだった。

 足もとに広がる白いもの以外、何も見つけることができなかった。

 ここに唯一存在している、地面の白いものを、手のひらですくう。

 持ち上げると、ふわっと揺れて空気中へと消えてしまい、触れることができない。

 

 おなかが、また、ぐうと鳴った。

 喉の奥がカラカラだ。

 目に涙がにじんだ。

 

 私は、その場にしゃがみこんで、ごろんと大の字になった。

 空のてっぺんは漆黒で、白く眩しい星々が瞬く。

 流星が、きらめく長い尻尾をなびかせて、流れては消える。

 使い終わった人工衛星の壊れた機体が、時折寄り集まって流れていった。

 行く先を目で追うと、漆黒の空は、紺色に変わり、その次に白になり、淡いピンク色になった。

 向こうにある太陽は、濃く、今にも溶け出しそうなオレンジ色だった。

 まわりの雲は、すべてが淡いピンク色に染まっていた。

 地面の白いものに目を落とすと、これも太陽の色を反射して淡いピンク色になり、灰色の影は濃く長かった。

 背中から、しっかりと身体を押してくる。

 背中、手の甲、お尻、太ももの裏、かかとに、地面が当たる感触がしている。

 でも、触れようとすると、たちまち溶けて消えてしまう。

 

「…桃みたい」

 独り言を言ってみた。

 オレンジと白とピンクのあいだの色は、おいしそうな桃にそっくりだった。

 言葉に力が入らなかった。

 宇宙に向けて、ぽそっと飛び出した言葉は、どこにも反射せずに、空気にまぎれて消えた。

「あるのに、ない。なんにもない。なあ…」

 言葉はどんどん小さく、自分で出した音が、口腔から鼻の奥に反射して、ようやく小さく、耳に聞こえた。

 聞こえたということは、きっと言ったのだろう。

 それすら、定かではない気がした。

 目からは、涙が溢れてきた。

 涙は、頬を伝って、耳にまで流れて、止まった。

 私は、手足をそのままめちゃくちゃに動かした。

 たちまち、地面の白いものがちぎれて、もやのようにふわふわと乱れ飛び、私の顔や髪にかかった。

 大声をあげて、もっと強く、手足を動かす。

 どんどんちぎれて、小さくなった白いものは、どんどん私の上に積もる。

 

 幼い頃、家族で行った雪山を思い出した。

 小学校の、まだ低学年の頃だった。

 もこもこしたスキー服を着て、まだ暗いうちから出発した。私も、弟も、朝早くから張り切っていた。着いたら、弟と母と、そりで遊んだ。

 そのころはまだ父がいて、向こうを一人、スキーで滑っていた。

 思い出す。

 弟が、手のひらでいっぱいに雪をすくって、私にかけてきたこと。

 私が、そりを使って、どっさり雪をかけ返して、弟が転んで埋もれたこと。

 私も、弟も、母も笑っていたこと。

 父も、遠くで、笑っていたこと。

 空を見上げたら、今この瞬間のように、白い雪がどんどん降ってきたこと。

 一面に、雪が、次から次へと、永遠に絶えることがないように、降ってきたこと。

 

 今、ここがどこかわからない。

 だけど、もう会えない。

 それだけはわかった。

 涙は耳の中にたまって、あふれて、髪を濡らした。

 

 そのとき、指の先がふと、固いもの当たり、ふいに、地面が削れている感触に気づいた。

 指の先を見てみる。

 白いものが掘れて、1センチほどの穴になっている。

 私は、起き上がって、涙を飲み込んだ。

 ひっかくようにして、指先を突き立てる。

 指先に感触があるうちに、掴むように素早く削り取る。

 それを繰り返すと、白いものは削れて、山のように積み重なってきた。

 

 小さく山になった白いものに、そっと触れる。

 すると、やはり、ふわりと手の中からすり抜けて、消えてしまう。

「ああー、もう!」

 私はさっきの感触を思い出しながらもう一度、今度は勢いよく、握りとる。

 とれた。

 私はすばやく、その白いものを両手でぎゅっとにぎった。

 塊をじっと見つめる。

 たぶん、大丈夫だ。

 そんな直感を吟味する間もなく、感触があるうちに、口の中に放り込む。

 なんの味もしなかったけれど、確かに、それは、口の中に存在していて、弾力があって、噛むことができた。

 二三回、噛んだところで、口の中で溶けて消えていくような感触があったから、急いで飲み込んだ。

 食べれた。

 次も、その次も、おいしくはなかったけれど、「食べる」ことができた。

 私は、嬉しくなってもっと穴をほった。

 おにぎり状のものを次々につくる。

 夕暮れの淡いピンク色に染まったところを掘って握って、桃の形を作った。

 桃をイメージしながら口にいれると、ふわっと桃の匂いが鼻に抜ける。

 気のせいなんだろう、気のせいかもしれない。

 でも、気のせいで構わない。

 私が、そう感じるのだから。

 試しに、濃いオレンジ色に染まったところを掘って、丸く握る。

 みかんを思い出しながら食べると、みかんの酸っぱさが口に広がった、気がした。

 

 私はそのまま、たくさんの果物を食べ、おなかがいっぱいになった。

 眠くなったので、白いものをたくさん削り出して、布団の形に整えた。

 トイレも必要だったから、たくさん集めて、端に、ごく小さな、囲いのあるトイレを作った。

 ついでに、布団のまわりに白いものを積み上げて、風よけの壁を作った。 

 白いものに、触れることができるとわかり、とりあえずものが食べられてから、私の身体には力が湧いてきて、たくさんの作業を一気にこなした。

 布団をひいて、一息ついた。

 もう、寝よう。

 そっと触れたところは溶けて空気中に蒸散してしまうので、下手に触れて溶かしてしまわないよう、注意しながら布団に入った。

 ちょっと重い布団くらいの、しっかりした質量がある白いものを、身体の上にかけてみる。

 空気の層があるからか、意外と暖かい。

 

 その夜、首元でふわふわと溶けゆく白いもやの上に、今まで見たことのないくらい大量の星が見えた。

 宝石のようにまばゆく輝いて、光を放つ。

 覚えている星座をいくつか唱えた。

 目をつぶると、小さい頃にキャンプで行ったときに見た星空と、家族でくっつきあって眠った感触を思い出した。

 

 

 翌朝、明るく眩しい朝日で目覚めた私は、昨日掘った穴をさらに掘って、朝ご飯を作ることにした。

 朝日をあびて、地面の白いものは、いよいよ白い。

 この色だと、おにぎり、できるかな。

 そう思いながら手で掘っているうちに、ふいに穴の一部が崩れ落ちた。 

 その奥に現れたのは、直径15cmほどの横穴だった。

 少し触れてみる。

 ぼろぼろと崩れて、あっという間に、中に入れるくらいの大きな空洞があいた。

 向こうには、内部へと降りていく階段のようなものが見える。

 

 私は、おそるおそる中に入り、周囲の壁に触れてみた。

 そっと触れると、気化したように溶けてなくなる。他と同じだ。

 身体ごともたれかかってみると、大理石のように強く跳ね返す感触があり、固かった。

 どうやら崩れる心配はなさそうだ。

 私は、その階段を降りていった。 

 一階分くらい降りたところに、明るく開けた空間があった。

 ちょうど、私が住んでいるワンルームマンションを、ひとまわり大きくしたくらいの、仕切りも何もない空間だった。

 天井は低く、緩やかなカーブを描いていて、ドームのような空間だ。

 中心部分には、手のひらくらいの穴があいていて、そこから、光が射してこんでくる。 

 白く弱々しい朝の光が、空間に満ちていた。

 

 昨日、表面はくまなく見て歩いたと思っていた。

 最後のほうは疲れていたから、地面に穴が開いていることに気づかなかったようだ。

 

 空間の中には、壁に沿うようにして、白いものでできた家具が並んでいた。

 たんすや棚と並んで、引き出しのある大きな机があった。

 そして、真ん中にぽつんと、椅子があった。

 大きな机からやや離れた位置に、引き出した斜めの格好で置いてある。

 机や椅子は基本的に白く、足には、揃いの、アンティーク風の飾りのようなものも見えた。

 机に近づいてみる。

 上には、すべて、白いものでできた、小さなたくさんの道具が乱雑に置かれている。

 

 ここには、誰かが、いた。

 いや、いる?

 今も?

 身体のなかで心臓が大きく打つ音が聞こえた。

 小さな部屋を注意深く見回す。

 動くものは、いない。

 今は、私だけだ。

 

 私は、机の上を見て、そのうちのひとつ、ペンのような道具を持ち上げた。

 最初はうっかり、そっと触れてしまったから、軸の一部が少し溶けて蒸発してしまった。 

 できるだけ大きな動きで持ち直す。

 先が尖っていて、小指ほどの太さの、ペンのようなもの。

 ただ、軸は少し歪んでいるし、表面には細かい凹凸がある。

 これ、作ってある。

 机の上にあるほかの道具にも目を向ける。

 ペンのようなものが、2、3本。

 ペン立てのようなもの。

 けしごむのようなもの。

 ものさしのようなものもある。

 すべてが白く、表面には凹凸があり、形は少しいびつだった。

 机そのものも、表面はでこぼこしていて、細かく表面に見える影は淡い灰色で、影のおかげで、それらの形がようやくわかるのだった。

 時計に触れようと手を伸ばしとき、天井の中央にあいた穴から、大きな声が聞こえてきた。

 

  ウエエエエエエ、ウエ、ウエエエエエ

 

 泣いている。

 赤ちゃんの泣き声だ。

 まさか。

 ここに?

 私は、すぐさま階段を駆け上がった。

 

 赤ちゃんは、白いものに埋もれるようにして、泣いていた。

 西側の、あの、落ちてくる人がたくさん現れる場所だ。

 口を大きく開けて、手をぎゅっと握りしめ、真っ赤な顔をして泣いている。

 身につけているものは、肌着とオムツだけだった。

 赤ちゃんが泣いて身体をよじるたびに、まわりの白いものがふわふわと蒸散する。

 

 走り寄ったのはいいものの、何をどうしたらいいのかわからない。

 この子、何ヶ月? 首は座っているの?

 

 見てもわからないから、首を支えるようにして腕を差し入れ、そのまま両腕を使ってそっと抱き上げた。

 自分の腕で赤ちゃんの首を支えていることを確認しながら、胸元まで引き寄せる。

 温度を感じる。

 あたたかい。

 赤ちゃんは、少しだけ泣き止んだあと、まだ身体をよじらせるようにして泣きだした。

 目は完全につぶっていて、涙が粒になって垂れ落ちる。

 大きくあけた口の中、真っ赤に染まったのどが見え、声を出すたび、舌がブルブルと震えている。

 そのとき、西の端、10メートルほど向こうの白い地面の中から、ヒールの靴を履いた足が現れ、30代くらいの女の人が、かん高い叫び声を上げながら空へと落ちていった。

 私は、思わず、赤ちゃんを胸元にぎゅっと抱き寄せる。

 女性は、他の人たちと同じように、すぐに小さくなって、黒い宇宙へと消えていった。

 

 あの人たちは落ちたのに、私はここで止まった。

 この子も、私と同じ。

 落ちてきて、ここに「引っかかった子」なんだ。

 

 それが、なぜなのかは、考えてもわからなかった。

 泣きわめく赤ちゃんを、左腕と身体でしっかりと抱えたまま、我に返る。

 右手をそっとはずし、足の付け根のオムツをちょっとめくってみる。

 ここに来てからまったく無縁だった、強い匂いが立ち上がった。

 

「ウンチ出てる!」

 もう、何がどうでも関係なかった。

 とりあえず、左腕で赤ちゃんを抱えた体勢のまま、膝で落ちないようにガードし、右手で、そのあたりの白いものを掻き集める。

 ボサボサと集まった白いものを、自分の太ももの横に叩きつけるようにして、ちょっと分厚い綿のかたまりのようなものを作った。

 それで赤ちゃんのおしりを拭こうとして、まずは赤ちゃんをそっと白い地面におく。

 火がついたように泣き出した赤ちゃんをあやしながら、必死で肌着のスナップを外し、オムツをとり、白いものを使っておしりを拭く。

 ちょっと足りない。

 また白いものを掘って掻き集める。

 汚物は一箇所にまとめて、きれいに拭きあげた。

 気持ちよくなったのか、赤ちゃんは泣くのをやめた。

 顔の赤みがみるみるひいて、こちらを見ながら手をグーにして、そのまま手をなめ始めた。

 抱っこしてみる。

 腕に当たっている後頭部が、少しバランスが悪いというか、左側が大きくえぐれたように欠けている。

 大怪我しているんじゃないの?

 そう思ったけれど、特に血は出ていないし、赤ちゃんはなんともなさそうに手をなめて、こちらを見てくる。

 まんまるな目が、私を見る。白目が青いように白い。黒目は濡れて光っている。

 

「かわいい、ね…」

 私はそう言いながら、困り果ててしまった。

 汚れたオムツを外してしまったので、赤ちゃんには、もう、はくものがない。

 仕方なく、着ていたカーディガンを、おくるみのように巻き付けた。

「はあ…」

 ため息が出た。

 私のカーディガンが、ウンチかおしっこにまみれるのも、時間の問題だ。

 どうにかして、オムツに代わるものを調達しなければ。

 

 それからは、急に忙しくなった。

 汚物入れ用の穴を、トイレの近くに掘り、そこに汚れたものをまとめて入れた。

 手を洗いたかったので、白いものにそっと触れ、気化しそうになったところで、手のひらで挟んでゴシゴシと擦り付けると、水のようになって少しきれいになった。

 それでも気持ち悪かったので、白い地面の中に手首まで突っ込んで、こすりつけてきれいにした。

 もっと多くの水を調達する必要にかられ、私は白い地面に穴を掘り、スカートの裏地を破って、その上にかぶせた。

 うまくいけば、結露がたまって水になるかもしれない。

 汚物の処理が済んだら、赤ちゃんをあやしながら、おしりを拭くための白いものを、たたいてのばして、10枚ほど準備した。

 さらに、もう何枚か作り、それを組み合わせて、形を思い出しながら、オムツを作ってみた。

 T字形にととのえ、赤ちゃんに合わせてみる。

 本物の赤ちゃんにオムツをあてるのは初めてだったから、活発に動く足をよけながらつけるのには苦労した。

 何個目かでうまくフィットしたので、同じ形で何枚か作ることに決めた。

 

 何より怖かったのが、今は大丈夫だれど、そのうち、おそらく時間をあけず、赤ちゃんのおなかがすいてしまうことだ。

 月齢はよくわからなかったけれど、寝返りを打ったし、もう首はすわっているように見えた。

 赤ちゃんは、寝転んだままで、機嫌よく自分の手を見て遊んでいる。

 ただ、ここにはミルクも食べ物もない。

 私が、どうにか、作ってあげないといけない。

 でも、何を?

 赤ちゃんを見ると、こちらを見ながら、握りしめた手をなめている。

 時々大きく口をあけて、食べそうなそぶりまでする。

 なんとなく、あやしい。

 もしかして、もう、おなかがすいているのではないかしら?

 考えている暇はなかった。とにかく、動かないと。

 

 

 1週間が経つころ、赤ちゃんがいる空での暮らしも、見通しがつくようになってきた。

 赤ちゃんは、おかゆをイメージして作った白いものを、大変よく食べた。

 もう、離乳食が始まっていた赤ん坊なのだろう。

 すると、食料の原料になる白いものを採る場所が気になってきた。

 トイレの近くはさすがに避けたい。

 しょっちゅう歩いて踏む場所や、「落ちる人」が出てくるところも、何かよくないものがついている気がして、採る気にならなかった。

 さらに言うと、赤ちゃんが食べやすくて、安全で、クリーンなものでなければならないだろう。

 そこで、白いものがとりわけもこもことして、やわらかそうな、中心部の穴の近くを、食料を調達する場所と決め、「畑」と呼ぶことにした。

 毎日出る汚物は、端にしつらえたトイレの近くへ埋めることにした。

 白いもので作ったオムツは、吸水性は良いけれど、なかなか水分が蒸散しないようで、すぐべちゃべちゃになるのが問題点だった。

 そのため、オムツ替えはかなり頻繁に行わなければならなかった。

 赤ちゃんに離乳食を食べさせたり、寝かしつけをしたりする合間をぬって、オムツの予備と、おしりふきを作った。

 予備は、常に数日分になるよう作り置いた。

 

 初日に作った布団は、内部にあった部屋まで抱えて移動した。

 階段からすぐそば、棚の手前の空きスペースを、少し掘り進めて、ふとんが2枚並ぶくらいの広さの、円形の空間を作り、上に小さい窓を作った。

 中には、白いものを積み重ねて高さを出し、その上に布団をおいた。

 小さな布団をもうひとそろい作り、私と赤ちゃんはそこで一緒に眠ることにした。 

 天井の穴だけでは少し暗かったので、いつか赤ちゃんが立てるようになっても届かないよう、高いところの壁を削って、大きめの窓を作った。

 そこからは、空の様子がよく見えた。

 

 東側に位置するその窓からは、真上にある暗黒の星空はあまり見えず、東の空の様子だけが、窓枠に切り取られて見えていた。

 朝、夜が明ける頃、布団から窓の外を見ると、真っ暗だった空は、時間が経つごとに刻々とうっすら白っぽくなってきて、そのうち色を帯びて、ピンクや紫に染まる。

 昼、窓は、強い底抜けの青一色になる。

 夜は、そこから、月明かりが差し込んだ。天井の窓からも、白く澄んだ月の光が入ってきた。

 ドーム型の空間のなかに、月明かりが満ちて、白い家具はすべてがぼんやりとした影になった。

 赤ちゃんは、小さな鼻からすうすうと寝息をたてて眠る。

 その寝息を聞いていると、私も安心して眠ることができた。

 

 私は、赤ちゃんのことは、赤ちゃんと呼ぶか、呼ばなかった。

 どこの誰かもわからない赤ちゃんに、勝手に名前をつけるのは違う気がした。

 ただ、少し慣れてきたとはいえ、赤ちゃんの世話は、大学の勉強で、教科書で読んでイメージしていたよりも大変で、一日のほとんどの時間をとられた。

 食料の調達や、オムツ作りを含めると、忙しくて休む間もないほどで、毎日があっという間に過ぎていった。

 

 

 1か月ほど経った。

 私と赤ちゃんは、日中も、内部の空間で過ごすことが多くなった。

 赤ちゃんは、はいはいを始め、上にいるのは危ないからだ。

 この間、心のどこかで待ち望んでいた救助隊は来なかった。

 私は、自分にあると思っていた未来が、来ないことを知った。

 私は、疲れ切っていた。

 昼も夜もなく続く赤ちゃんのお世話を、この1か月、たったひとりでしてきた。

 実は、もうすでに何度か、上で、ちょっと目を話したすきに、危ない目にあっていた。

 あるとき、赤ちゃんは、白いものの色が薄まるほどの端まで行っていて、伸びかけた茶色く細い髪が、下から吹く風にふわふわとなびいていた。

 あるときは、西側の「落ちてくる人」の場所に迷い込んでいて、あやうくぶつかってしまうところだった。

 しかもそれが幾度もあった。

 

 何よりも私を疲れさせていたのは、毎日がすべて、赤ちゃんにあわせて進んでいくことだ。

 赤ちゃんは、オムツが気持ち悪かったり、おなかがすいたりすると、大声で泣く。

 存在のすべてをかけて、泣く。

 泣き声を聞くことも、プレッシャーだった。

 私がするべき仕事をしていないと、責められているように感じた。

 

 私の癒やしは、先にいた「誰か」が、内部の空間に残した家具や道具だった。

 扱うのが難しい、でもここにはそれしかない「白いもの」を、巧みに加工して作られた、道具の数々。

 紙はないのに、ペンがあった。

 インクはないから、書くことはできない。先が尖った、形だけのペンだ。

 動かないのに、時計があった。

 電池も、からくりもなく、ただ、形だけ。目覚まし時計のような、簡単な時計だった。

 

 探すと、引き出しの中には、もっとたくさんの道具がしまわれていた。

 手づくりでいびつだけれど、万年筆や、小さなフェイスの腕時計もあった。

 棚には、コップや皿が入れてあり、お茶道具も少しあった。

 茶碗のようなものや、小さな匙。

 カップとソーサー。

 別の棚には、口紅のようなものや、香水瓶のようなものもあった。

 たんすには、たくさんの服がかかっていた。

 もちろん、すべて、白いものでできていて、布地は薄いものもあれば、コートのように分厚いものもあった。

 裾の長い、ワンピースがたくさんあった。

 おそらく何十年か前の、私の知らない時代のデザインだったけれど、ひとつひとつが細かく作ってあった。

 

 それらの道具や服を見ていると、作った人の気持ちがわかるような気がした。

 きっと、彼女(作られているものを見て、多分、女の人だと思った)も、突然「落ちて」、たったひとり、ここに「引っかかって」しまったのだ。

 私と同じように、最初は、白いものをどうにか使って、食事を作ったり、必要なものを作ったり、生活のために、試行錯誤したはずだ。

 

 そのうち、長い、長い時間をかけて、この立派な部屋を、作ったんだろう。

 ドームって、なかなかかっこいい。

 あかりとりの天井の穴も、工夫して開けたのだろうな。

 椅子にのったら、ちょうど手が届くくらいだった。

 私と同じくらいの身長だったのかもしれない。

 道具をじっと眺めていると、指のあとのつきかたや、形のつくりかたから、丁寧に、丁寧に、何度も手を入れたことがわかる箇所もあった。

 

 私は、そういう箇所を発見すると、まるで、話のわかる大人と会話しているような気分になった。

 もう、ひと月、誰とも会話をしないで、この、おそらく空の上の、何もない、どこともわからない場所で暮らしている。

 赤ちゃんが来た当初は、少し嬉しかったけれど、言葉のわからない赤ちゃんに、何をいくら話しても、何も返ってこない。

 私の気持ちは、日に日にふさいでいった。

 誰とも喋らないということが、こんなにしんどいとは、思ってもみなかった。

 なんなら、このひと月で、言葉をずいぶん忘れてしまったような気さえする。

 唯一、この、誰かが作った道具たちに触れているときだけ、心が落ち着いた。

 

 でも、なぜ、私たちは、「引っかかって」しまったんだろう?

 

 この疑問は、ここに来てからというもの、そして、赤ちゃんがやってきてからは特に、何度も何度も考えたことだった。

 他の、落ちていった人たちと、何が違うのか。

 なぜ、私たちだけ、この場所に「引っかかって」しまったのか。

 この部屋に、以前「引っかかって」いた人は、そして、どこかへ行ってしまった。

 なんのきっかけで、どこへ行ってしまったのだろう。

 考えてもわからないけれど、でも、それは、突然だったのではないか、と、思わずにはいられなかった。

 あの椅子。

 今にも誰か、そこから歩き出したようにあった椅子。

 初めて、この部屋に入ってきたとき、他の家具や道具は、整然と並んでいたのに、椅子だけが、斜めに引き出されていた。

 誰かに、ちょっと呼ばれたみたいに、乱雑に椅子を引き出したままで、彼女は消えたのだ。

 

 椅子と、そのそばを好奇心いっぱいの目で這い回る赤ちゃんを見ながら、私は布団に横になった。

 昼食がようやく終わったこの時間、窓からさす光の色は、ゆったりと落ち着いている。

 いつもなら、赤ちゃんと私は、お昼寝の時間だ。

 赤ちゃんは、はいはいで移動できることが楽しいのか、部屋の中をあっちやこっちに動いては、届くところに手をのばして、白いものでできた道具や家具に触ろうとしている。

 その都度、家具の表面が少し溶けて蒸発し、ふわっと部屋の中に漂う。

 それをいちいち止めてきたけれど、そのときは、止める気力すら湧かなかった。

 赤ちゃんは、白いものでできた万年筆を持って、遊んでいる。

 尖っているから、危ないかな、と思ったけれど、どうせ、同じものでできたものを食べているのだし、少々口に入れても大丈夫だと思い直した。

 私は、そのまま、目を閉じていった。

 もしかして、危険なこともあるかもしれない、と、一瞬、頭をよぎった。

 でも、

 「…私の子どもじゃ、ないんだし」

 そのとき、何もかもが、どうでもいいことに思えたのだった。

 

 ★

 

 眠りながら、夢を見た。

 母が、私のそばにくっついて、眠っている。

 寝息が聞こえる、浅い寝息だ。

 薄く、軽くて、暖かい布団が、私と母の身体の上にふんわりかかっている。

 私が目を覚ましたことにすぐに気づいて、母も目を開ける。

 私の顔を見て、胸の上に手を置いた。

 トン、トン、とゆっくり動かす。

 動かしながら、うっとりと母は目を閉じる。

 もう何もかもが完璧で、すべての仕事が終わったという雰囲気で。

 布団は真っ白で、乾いていて、トン、トン、と母の手が動くたび、布団も一緒に上下に揺れる。

 そのたびに、まわりの少しだけ冷たい空気が胸のところに入ってきて、新鮮な空気を吸いながら、私はあくびをひとつする。

 腕にあたる母の身体の感触を感じながら、身体をよじってくっつけて、また目を閉じる。

 小さな寝息が聞こえてくる。

 ああ、これはほんとうにあったことだと、夢の中で、もう一人の私は思う。

 いつか、ずっと前、弟が生まれるよりも前に、ほんとうにあったことだ。

 すっかり忘れていたけれど、でも今は、匂いまで鮮やかに思い出す。

 ふんわりと甘い匂いは、私の身体からしているのか、母の身体からしてくるのか。

 たぶんどちらも、同じ匂いなのだ。

 眠る小さな私、赤ちゃんの私を守るように、母の右手は肩ごと私のほうに投げ出している。

 もう片方の、トントンする左手は、絶対に私の重しにならないように、ほんの少し浮かせている。

 夜中の母、そして私。

 ふたりきりでいた、私たち。

 その様子を私は、夢の中のもう一人の私は、涙を流しながら見ている。

 あの瞬間、私は完璧に愛されていて、そのことをずっとずっと、忘れていたのだ。

 

 ★

 

 目が覚めた。

 本物の私は、自分で作った白い布団をかぶっていて、その布団はやわらかに暖かく、涙が耳のところに流れていた。

 隣を見る。

 夢の中で、さっき私がいた布団の場所に、赤ちゃんはいない。

 飛び起きた。

 いつの間にか、眠ってしまっていたようだ。

 素早く周りを見渡したけれど、赤ちゃんの姿はなかった。

 先ほどまでなめて遊んでいた万年筆が床に落ちている。

 拾い上げてみると、軸が曲がっている。

 

 階段を見る。

 まさか、もう上がれるようになったのだろうか。

 まだ床のはいはいしかできなくて、階段は上がれなかったはずだった。

 でも、そこしか考えられない。

 私は気が動転しつつも、走って階段を駆け上がった。

 一瞬、危ないかもしれないと思ったのに、それを無視した自分を激しく後悔した。

 

 白い地面の上に出た。

 いままで何度も、彼は、西側の「落ちてくる人」の場所に行っていた。

 もしかしたら、今日もそこに行っているのかもしれない。

 私は走った。

 一歩踏み出すたびに、白い地面から、もやが上がって散った。

 

 西の場所で、赤ちゃんの姿を見つけた。

 やはり、「落ちてくる人」のエリアの中にいる。

 何かを見つけたのだろうか、一心に何かを見つめて、そちらに這って行っている。

 ひとまず姿を見つけたことで、私は安心して歩みをゆるめた。

 あの場所になにかあるのか、どうしてそっちばかり行きたがるんだろう?

 そう思ったとき、赤ちゃんの脇に、赤黒く汚れたスニーカーを履いた足が現れた。

「あ」

 言う間もなく、黒っぽい服を来た男がすべての身体を現した。

 

 目が合ったとき、その男は、獲物を見つけたように目を輝かせた。

 ゾッとした。

 それが、その男の手、そして腹部が、血に染まっているのを確認したのと同時だった。

 男の暗い瞳は、すばやく私の視線をたどって、赤ちゃんを見つけると、歪んだ口元をキュッと結んで、あっという間に手を伸ばした。

 

 さらわれる!

 

 私は地を蹴って飛んだ。

 血しぶきのついた男の腕を素早く跳ね除け、赤ちゃんの上に覆いかぶさった。

 赤ちゃんに触れる直前で、男の手は行先を失い、何も持てなかったその手で、男は私の上着の首元を掴んできた。

 一瞬で首が締まる。

 喉の奥が締め付けられて、ぐ、と音が出た。

 そのまま、身体が浮いた。

 

 苦しさの中で、咄嗟に考える。

 この男、私を使って、ここに引っかかろうとしている。

 __いや。

 ただ単に、私を引きずり落とそうとしている。

 いや、こういうことに慣れている。

 そうだ。

 誰でもいい、何でもいいんだ。

 たまたま、そこにいたから。

 たまたま、手をのばしたら、届いた。それだけだ。

 

 男の目を見た。

 目が笑っている。

 

 次の瞬間、反射的に、左手に持ったままの万年筆を、男の手に思い切り突き立てた。

 軸が曲がった万年筆は、手の甲に斜めに刺さり、私の上着を握る手がわずかに弱まった。

 私はその瞬間を逃さず、右手を逆手にして、引きちぎるように男の指を外すと、そのまま空に放り投げた。

 

 アアアアアアアアアア

 

 男の手が何度も空を掻いた。

 男は、こんどは驚いた目をして、私と赤ちゃんを見つめながら、真っ暗な空に、猛スピードで落ちていった。

 

 私の服の首元は、たわんで破れた。

 赤ちゃんは、飛び寄ったときに私の膝が身体にぶつかって、痛かったのか、驚いたのか、今にも泣きそうな顔をしている。

「あ、あ、ごめんね」

 そう言って抱き寄せると、火がついたように泣き出した。

 あたたかくやわらかな身体が、真っ赤な火の玉みたいになって、胸のなかで震えて泣いていた。

 そのころには、私は腰が立たなくなっていて、揺らしてあやすこともできないまま、抱き寄せた赤ちゃんの背中をトントンと叩いた。

 今になって、恐怖が涙に変わって、目と鼻から流れてくる。

「もう大丈夫よ、もう大丈夫」

 呪文のように何度もそう言いながら、さっき見た母の夢を思い出しながら、自分にも言い聞かせた。

 リズムを守って、トントン、トントン。

 夢の中の母と同じようにして、赤ちゃんの背中を叩いた。

 赤ちゃんは、すぐには泣き止まない。

「大丈夫」

 私は何度でもそう言った。

 

 

 私と赤ちゃんの命を救った、軸の曲がった万年筆は、今も机の上に飾ってある。

 私は、飾るための特別な台を作って、それに乗せた。

 勲章のように。

 はいはいどころか、もう立って歩くことができるようになった赤ちゃんにも、台を形作るところを手伝ってもらった。

 小さい手をそっと導くと、自分で振り回して叩いて、粘土を固めるみたいに、上手に私の真似をした。

 

 もう、彼は、言葉を言えるようになった。

 「いす」

 はじめて彼が言ったのは、まさかの「椅子」だった。

 

 前の住人が、引き出したままどこかに行ってしまったあの椅子は、座り心地がとてもよくて、今では私の特等席になっている。

 赤ちゃんが一緒に座りたがるから、もうひとつ、デザインを似せて、彼のために子ども椅子を作った。

 

 子ども椅子を作るのは、とても大変だった。

 赤ちゃんが座ったり、いろんな動きをしても、倒れたり壊れたりしないように、安全性をしっかり考えなければいけなかった。

 椅子を作ったこともないし、子ども椅子の形もうまく思い出せなくて、最初はとても難しかった。

 でも、赤ちゃんの動きを想像しながら、どんな動きにも耐えられるようにと構造を考えるのは、楽しかった。

 試作品を作って自分でも座ってみたり、赤ちゃんを座らせたりして、そのうちによい形ができた。

 脚の部分には、私の椅子とおそろいのデザインを入れた。

 真似して作る間、前の住人が作ったこのデザインは、何をモチーフにしたのだろうかとか、どんなところにこだわったのだろうかと、と考えたりした。

 出来上がった椅子を赤ちゃんに見せたら、

「こぇ」

 と言って、おそろいの箇所を指さして見せ、手をぱちぱちとたたいて喜んだ。

 その姿を見て、私もうれしくなった。

 

 

 私たちがこの場所に「引っかかって」しまった理由は、今もよくわからない。

 ただ、あの日、様子のおかしな男が、赤ちゃんをさらおうとし、私を連れて行こうとした日、少しわかったことがある。

 あの男は、血にまみれていた。

 他の人の血だったのかもしれないけれど、男自身も怪我をしていたようだった。

 落ちていった他の人たちも、よくよく思い出してみたら、身体のどこかに血がついていて、不自然に曲がっていたりしていたことに気づいた。

 

 私たちが、あの人たちと、決定的に違うことと言えば、それだ。

 実際、私はどこも怪我をしていない。

 最初に痛みを感じた後頭部が、あとで触れたらびっくりするほどへこんでいたけれど、血は出ていないし、普通に動けているから、怪我ではないはずだ。

 赤ちゃんも、後頭部の左側がへこんでいる以外は、どこもきれいだし、何より普通に動いている。

 

 私は、何度か、ここに来たときのことを思い出そうとした。

 でも、そのたびに気持ち悪くなった。

 だから、これからも、あまり考えないようにして過ごそうと決めた。

 

 ここでの暮らしにも、だいぶ慣れた。

 ただ、暮らしのためにやることが多すぎて、がんばりすぎると辛くなってしまう。

 だから、今はもう、一日にやることをできるだけ減らして過ごしていて、赤ちゃんがごはんを食べて、排泄して、寝れば、それで良しとしている。

 いつの間にか少しずつ大きくなった彼は、私によくなついて、最近はいろんな意思表示をしてくるし、私のすることを真似てくる。

 私の言葉も真似る。

 最近、真似されだしてはじめて、私は、彼に、言葉や、ものを教える責任があることに気づいた。

 

 なにしろ、ここには、白いもの以外、何もないし、私以外、誰もいないのだ。

 私が彼に伝えることがすべてであると思うと、何となく怖くなった。

 でも、そうするしかないのだった。

 私が望もうが望むまいが、彼は、この場所で、私からすべてを学習するのだ。

 

 そう思ったときに、言葉を伝える以前の「もの」が、この場所には圧倒的に足りていないことに気づいた。

 言葉を伝えようにも、その言葉がさす「もの」がないから、教えることができない。

 私は、まずは、前の住人が作ったものを使って教えることにして、その間に、自分で教えたいものを作ることにした。

 そしてできる限り、その道具を使っていくのだ。

 

 食器の種類。お箸、フォーク、スプーン。

 文房具の種類。万年筆、ボールペン、えんぴつ。

 日用品。鏡、くし、歯ブラシ。

 

 作るために、なにかを思い出すと、一緒くたになって、昔のことや、友だちのこと、母や弟のことを思い出した。

 お箸の形を作りながら、弟が修学旅行で買ってきたお箸を、私は結局、家を出るまでずっと使っていたことも思い出すという具合に。

 ここには何もないけれど、私の頭の中には、しっかりといろんなものが記憶されて入っている。

 忘れる前に、少しずつ取り出して、形にして残していこうと思った。

 そうしているうちに、いつの間にか、すべてが遠くなっていくのかもしれない。

 でも、そのぶんだけ、この場所にものが増えて豊かになり、彼の世界にも、少しずつ言葉がたまっていく。

 

 

 昼下がりの眠たい空気の中、明るい日陰でおすわりして、私が作った積み木で遊ぶ彼を見ながら、私はひとつ決めた。

 そろそろ、名前をつけよう。

 

「ねえ、名前、何がいい?」

 本人に声をかけてみると、呼ばれたと思った彼は、積み木を持ったまま振り向いて、にっこりと笑顔を見せた。

 表面が透明な、砂糖のように真っ白い下の前歯がのぞいた。

 あ、上の歯も生えてきている。私は気づく。

 

 ここで、一緒に生きていくには、彼にも名前がいる。

 これから、できるだけたくさんのことを伝えるからね、と私は心の中で思う。

 いつか、前にいた人のように、どこかに呼ばれる日まで。

 

 少しだけ傾いた日はまだ明るく、空はかすんだような水色だ。

 白いものにうつる影はほんの少しだけ黄みをおびた灰色で、赤ちゃんはよだれをたらしながら集中して積み木で遊んでいる。

 その上の高いところには、大小の星が撒き散らされた黒い宇宙が広がっていて、また、人がちょうどひとり落ちていっているところだ。

 私は、暖かい毛布を引っ張り出す。

 夕方になって寒くなったら、赤ちゃんに掛けられるように。

文字数:19465

内容に関するアピール

この1年、あまりにも遅い歩みではありましたが、ゼロから考えると、何歩かは前に進めたように思います。

書くスピードがとても遅く、なかなか実作が出せませんでしたが、諦めることなく、書くことを続けられたことは収穫です。

先生や先輩方からアドバイスをいただいた、当初予定していたものとは変わりましたが、最終回にしてようやく実作を出せることを嬉しく思っています。

「私は詩人になりたいと思つた。けれど、私の詩稿はパンの代りにはなりませぬでした。ある時、私は、文字の代りに絵の形式で詩を書いてみた。」という竹久夢二の言葉が、ずっと心にありました。

詩のかわりに、絵のかわりに、物語の形式で、このようなことをしていきたいという気持ちで書きました。

実作が間に合わなかった梗概を、このあと少しずつでも形にしていきたいです。誰かと創作の話をしたこと自体今までなく、何もかもが新鮮でした。1年間、ありがとうございました。

文字数:395

課題提出者一覧