梗 概
幽霊との仕事
昔からいわゆる”幽霊”と呼ばれてきた人たちの存在が、科学的についに認められたのは約30年前のことだ。長らく、いるともいないともされてきて、ついに”発見”された彼らについて、まずは大々的な調査がなされた。彼らは「身体を持たない人」と呼ばれるようになり、その後、調査をもとに、彼ら専用の戸籍が作られ、徐々に、現実社会に参加してくるようになった。
これはぼくが生まれる少し前の話だ。ぼくは、市役所の「文化財課」に勤めて5年になる。
ぼくの仕事は、「身体を持たない人」から、過去の遺物や文書、その他歴史的な物の裏付けとなる証言をとることだ。
今年度、主な仕事相手は2人いる。神社の隅にずっといる「身体を持たない人」と、もう一人は、迷惑にも、ぼくについてまわっている人だ。コミュニケーションは一般的な方法では難しく、根気強くアプローチし、その人なりの方法を見つけていくしかない。
ごく正直に言って、彼らと仕事をすることは大変馬鹿馬鹿しい。
ぼくは、人は「いない」「いる」この二択だと考える。身体がなくてもいる、とされているのはどう考えてもおかしい
しかし、現実では仕事相手と、うまくコミュニケーションをとりながら、進めていくしかない。毎日のストレスは、家に帰って、メディアを見ることで紛らわせた。「身体を持たない人」を、単純明快な切り口で非難するカリスマのメディアがぼくのお気に入りだ。
ある日、廃校となった小学校について、古い校舎を取り壊すか、文化財として保存するか決めるため、ぼくは「身体を持たない人」に話を聞くことになった。
神社にいる人にまず聞いてみる。何日もかけて、1文字ずつ、ぼくに送ってきたメールによって、彼はその小学校に通っていたということがわかった。
ぼくについてまわっている人にもきいてみる。耳元で怒鳴られた。なんと言っているかわからない。
小学校にも足を運んだ。古い校舎で、もう使われることはない。文化財として保存する価値などないと思う。そもそも、文化財そのものが過去の遺物であり、必要だとは思わない。使わないものは捨てればよい。答えは単純なのに、なぜ人は保存したがるのか。
カリスマのメディアでも言っていた。役に立たないものにこだわることこそ時間の無駄だと。
ある日、そのカリスマが、連絡してきた。取り壊しか保存かで揺れていると話題になっている小学校を取り上げたいという。
彼は、ぼくの市にやってきて、小学校でライブ中継をした。
カリスマが歩くと、床から「身体を持たない人」が立ち上がり、行く手をふさぐ。それにも動じず、カリスマは力強く、未来を切り開くなら、過去の保存に労力を使うのは無駄だと論破する。ぼくはうっとりとそれを見る。
耳元で、ぼくについてまわっている人が怒鳴っている。聞け、聞け、お前の子どもの手が血に染まるんだ。ぼくの手を見て、こんなに血だらけなんだ、お父さん、と。
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