梗 概
記憶と海の出来事
きれいに折り目のついた、白く清潔な布の上には、一台の眼鏡型の機械がある。
長年の夢であるそれを、私はようやく作り上げ、ここに手にすることができたのだ。
これは、人の記憶をスキャンして”学習”し、取り出した人物を、VR空間のなかに再現する機械だ。
VR空間の中で”再現”された人物は、あらかじめ”主人”が思い描いたストーリーに沿って、まるで現実のその人のように動き、会話する。
私はゆっくりと、試運転のスイッチを入れる。
息子がいきいきと草原を走っている。傍らに妻が笑っている。試運転は成功だ。
これを作るため、医療、コンピュータ、AIやVR関連会社など、分野をまたいで様々な会社で身を粉にして仕事をしてきた。
息子は生まれつき、自由に歩行することができない。
妻は、育児に疲れ果てており、私は生活のために働き詰めだった。
VRの中だけでも、息子の身体を自由にして、家族の時間を持ちたいと思って、これを開発したのだ。
この機械とサービスは瞬く間に爆発的な人気になり、私は名声と莫大な富を得た。
付き合う人が変わり、今まで雲の上の存在だった人々がすり寄ってきた。
妻や息子との会話は日に日に減り、ついに家族とは別れることになった。
しばらくすると、サービスを悪用するものが出始めた。
勝手に再現した人物との勝手なストーリーを、ウェブに拡散する者が後をたたず、”再現される側”の権利が社会問題になる。
さらに、現実と、自分の描いたストーリーとの境界線がなくなってしまった人々は、思ったとおりに動かない現実の人物に対して憎しみを抱くようになり、それに伴う犯罪も頻発するようになった。
再現される側の権利を保障する法案ができたことをきっかけに、私に対するバッシングは苛烈なものになり、微罪にて逮捕間近と報道された。
私は、夜間に国外へ船で脱出するため、持てる限りの財産を持って、別荘がある島へ逃げた。
しかし、側近の裏切りにあい、夜の島へ警察がやってくる。そのとき、裏口に船が到着した。
私は、橋から服のまま海に飛び込んだ。
服を着ているからか、手足が重く、必死に水をかいてもなかなか進まない。船まではあと少しだ。水をかくごとに夜光虫が光る。息を呑む美しさ、妻と息子にも見せたかった。鼻や口の奥まで水が溢れてくる。苦しい。もうお終いだ。
そのとき、若者の手で、男の目からそっと眼鏡型VR装置が取り外された。
白く清潔で、折り目のついたベッドのリネンの上に機械が置かれる。
涙を浮かべた若者と女性が、臨終の時を迎えた男を見おろしている。
父さん、ストーリーで、主人の”恐れ”を過剰に拾ってしまうバグが観測されたよ。ぼくが直しておくからね、と若者は言い、車椅子で自由に部屋を移動し、作業にかかる。
動かない身体で、男はそれを見る。鼻の奥の水は、目の奥にまで溢れて、流れた。あたたかな水の中に、そのまま溺れていった。
文字数:1200
内容に関するアピール
100年と少し前の、アメリカの名作短編の枠組みを使って、内容をどうにか反転できないかと思って試行錯誤し、このような形になりました。
(「アウルクリーク橋の出来事」アンブローズ・ビアス)
文字数:91