億まではまだ

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億まではまだ

 彼をそこで見かけたのは、偶然だった。

 午前5時、長い長い海岸沿いの道を、夏だけ開催されるという朝市に向けて車で走っていたときだ。

 瀬戸内の海は穏やかで、煙るように立ち上がる朝靄に、朝日がにじんで空は薄い紫色に染まり、小さな島々が静かに佇んでいた。

 後部座席には、行きたいとせがんだ子どもと妻が眠っていた。

 運転しながら、岩場と岩場の間の、くぼみのような砂浜に、ちらりと見えたのだ。

 スーツを着て、あぐらをかいて座っている男が。

 それが上司の藤代さんだと気づくのに、時間はかからなかった。

 真っ直ぐに伸びた背筋に、清潔な襟足。そして何より、髪の色。

 彼の髪色は、薄く緑がかった茶色で、地毛だという。

 僕はその髪の中、うなじの奥にかつて偶然見てしまった、古い傷跡を思い出した。

 そのまま、姿を見失い、僕と家族を乗せた車は、海岸沿いの道を走り抜けていった。

 

 翌朝、給湯室で会った藤代さんは、いつもとまったく変わらなかった。

 ほどよくだるそうに、

 「よう、佐藤くん。月曜が来ちゃったねえ」

 と、人懐っこい笑顔で話しかけてきた。おそらく、もともとすっきりした顔立ちだ。40代で独身なのに、細身の身体、シワのないスーツ。でも、しょっちゅう鞄が開いていたりと、隙がある。

 いつもどこか楽しそうな藤代さんは、仕事がものすごくできる。あの笑顔のまま、用意は周到で、相手がどんなに気難しい人でも、外国人でも、商談を難なくまとめてくる。語学にも堪能らしい。

「藤代さん、昨日の朝、何してたんですか?」

 僕は、かなり率直に聞いた。藤代さんなら答えてくれると思ったからだ。

「ああ…見た?」

 そこまで言って、何か考えるように視線をそらし、藤代さんはひと息に答えた。

 

「波の数を数えてたんだよね」

 

 僕は黙った。

 藤代さんは、「あはは」と笑った。

「あ、そうそう、A社の打ち合わせ、今日10時だから、よろしくね」と言ってデスクに戻っていった。

 

 翌日から、藤代さんは出社しなかった。

 パソコンやほんの少しの私物もそのままに、彼だけがいなくなった。

 しばらくの間、何があったのかと社内は噂で持ちきりになった。けれど、結局、誰も答えを見つけられなかった。最終的に、どこか、海外の商社に引き抜かれたということで噂は落ち着いた。

 僕は、藤代さんの抜けた大きすぎる穴を埋めるため、しばらくの間、馬車馬のように働く羽目になった。

 藤代さんのパソコンや取引資料を引き継いで、必死に働いているうちに、いつしか、少しずつだけど、彼の思考を辿れるようになった。

 彼は本当に用意周到で、相手の事情、どんな人が、どんな経緯でプロジェクトに関わっているかを調べ、常に、二の案、三の案まで考えていた。

 何度、彼があらかじめ作っていた資料に助けられたか知れない。

 そのうち、僕は、彼と同じような仕事ができるようになった。

 

 その日、僕は、彼のパソコンの中に、不自然なファイルがあるのを見つけた。

 ファイル名は文字化けしていて、容量は軽い。テキストのようだ。

 きれいに整理されたフォルダの中で、明らかにそれは異質だった。

 僕は、ためらわずそれを開いた。藤代さんなら、こんなもの、真っ先に削除するはずだと思ったからだ。

 つまり、

 「これは、意図して置かれている」。

 

佐藤くんへ

 

 僕の仕事を引き継いで、日々忙しくしていることでしょう。君にはもちろん、お子さんと奥様に、申し訳ない。

 その時が来たので、僕は去ります。

 すぐにわかると思うけれど、全部、仕方のないことです。

 

 いつか君が見た、僕の頭の傷、驚いたでしょう。

 小さい頃、“彼ら”にいじめられて、もう髪の毛なんかいらないと、自分でね。

 子どもの頃はまだ“同化”が下手で、問題は髪の色なんかじゃなかったのに。

 

 僕は、使命に忠実に、努力してきたつもりです。

 この星に生まれた時から40数年、ずっと彼らを観察して真似てきました。“同化”するために。

 でも、それも、もう終わりです。

 

 瀬戸内の波はいいね。

 穏やかで、一つ一つが細やかに、違う色の光を反射する。

 一秒ごとに、消えては生まれて、きりがない。

 いくつまで数えたかな。

 億まではまだ。

 

 君も、街の暮らしで”減った”ら、時々行くといい。

 パターンが細かいから、短い時間でもすぐ”満たされ”る。

 

 __最後に、君は、僕よりも優秀です。

 完全に”同化”して、使命の記憶まで隠してしまったのだから。

 ただ、そのままではいけないから、記憶を開く「鍵」をこの中に配置しました。

 ここまで読んだということは「鍵」を開けたのだから、思い出したでしょう。

 それでは、次回の報告にて。

 

 僕は、静かにパソコンを閉じた。

 黒く染めた髪に触れると、根本に、手触りの違う緑の地毛が数ミリのぞいていた。

 ああ、そうだった。

 小さく、ため息をついた。

「藤代さん、海辺の”食事”に、スーツは、無しでしょう」 

文字数:1999

内容に関するアピール

今回のお題を知って、はじめに思い浮かんだのは、ガアグの『100まんびきのねこ』でした。
『100まんびきのねこ』のことを考えていると、
十代のころ、海を眺めていて、波の数っていくつくらいあるのかな、と考えたことを思い出しました。

その疑問はいまだに解決していないので、今も、海を見たら、「波の数っていくつくらい…」と、ふと考えてしまいます。

海の波の、規則的なパターンや、反射する光の点滅、単調な繰り返しは、
まるでデジタル信号のようでもあり、
数えきれない大量の数は、
細胞ひとつひとつのようでもあり、
誰かにとっては、エネルギー源=栄養になるのではないかと考えて、
今回の話を書きました。

文字数:287

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