継ぎ接ぎの女

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梗 概

継ぎ接ぎの女

 かつて貧しい小国だったその国は、富国のために医療大国として地位の確立を目指した。
 国外から優秀な人材を招き、最新の設備を整え、瞬く間に世界有数の医療技術を獲得した。特にバイオ臓器の作製とその移植手術においては、他の追随を許さなかった。その裏には政府黙認による人権を無視した人体実験まで行われていた。
 歪に急成長したその国は内部に様々な問題を孕む。医療関係者がこの世の春を謳歌する一方で、貧民たちはスラムに住み、危険な人体実験の対価で糊口を凌いでいる。

 新聞記者の私は裁判所の傍聴席にいた。今日は医療関係者ばかりを狙った犯罪グループの裁判が行われる。彼らは病院を襲ったが、なぜか警察の待ち伏せにあい、逮捕されていた。リーダー格の女を含む何人かが死んだと聞く。
 右腕に包帯を巻いた男が証言台に立つ。彼こそ、病院襲撃の情報を警察に売った裏切り者だった。男は、グループに加わることになった経緯、ある女との出会いから語り始める。

 元は政府の役人だったという彼は、政府主催の医師との懇親会で、ある女と出会う。所謂高級娼婦だが、その女が他と違ったのは、肩、腕、腰、足、全身に移植手術を施していたことだ。全て別人それも多様な人種によって構成された彼女の体はモザイク画のようで、彼はそれを美しいと思った。
 彼は女のことが忘れられず、スラムに赴いた。そこは貧民の中でも移植手術の人体実験を受けた者たちが集う場所だった。彼はそこで悪漢に襲われる彼女を助け、親しくなる。彼は、彼女への好意を自覚すると同時に、彼女が犯罪組織の一員であることを知る。彼女の愛を得るために、彼はそれまでの生活を捨て、自らも犯罪に手を染めていった。

 彼の話に興味を持った私は更に詳しく取材するために彼に面会を申し込んでいた。面会室の分厚いガラス越しの彼に、私は違和感を覚える。彼は、彼女との間に何があったのか、詳しく語り始めた。

 彼の手引きにより、暴利を貪る医療関係者を襲撃していく。彼らは貧民たちの英雄として祭り上げられる。
 しかし、それも長くは続かなかった。
 彼らを匿う貧民たちへの制裁として、政府はスラムへの薬の供給を止めたのだ。それは移植手術による拒絶反応を抑える薬で、定期的に摂らなければ命に関わる。一転して犯罪者としてスラムを追われることになる。
 彼にとって苦しい状況はそれだけではなかった。女の愛までが、組織の別の男へと移ってしまっていたのだ。女の愛と貧民の支持を再び得るため、彼は拒絶反応抑制剤を保有する病院の襲撃を提案する。
 同時に彼はその情報を警察に売った。彼の狙いは初めから組織を捨てて彼女と逃げることだった。だが女は応じなかった。怒りに駆られた彼は女を殺した。

 刑務所から出ていく彼を私は見送る。私は抱いていた疑問、あなたは本当にあの彼なのか、と問う。彼は答えず、謎めいた微笑みを残し去っていく。その右腕はやけに細かった。

文字数:1200

内容に関するアピール

 「シーンを切り替える」という課題をいただき、ふわっと湧いたイメージが、裁判所で証言を聞く主人公という図式でした。
 大きく切り替えるシーンとしては、主人公による一人称の場面と、証言による伝聞系の場面があります。これは頻繁に切り替えても混乱するので、主人公が完全な主体となるのは梗概の通り大きく三回になるかと思います。証言の中身でもシーンの切り替えが発生しますが、そこでは証言という状況や伝聞という体裁を生かしていきたいです。そうして物語が進行する中で、主人公が証言の裏に隠された謎に迫っていく、ということができれば、と。

 実作にあたっては、女や男の心情を深掘りしなければいけないと感じています。また、ラストは女が男の体を移植されていたというつもりなのですが、この辺りの心情的、技術的納得感も補強していきたいです。

文字数:356

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つぎはぎの女

 雨季に入ったこの国では、日ごと長雨が降り続く。暑さは盛りを迎え、高い気温とやまない雨で自律神経は乱れるばかりだ。
 この国で穏やかで快適な一生を送りたいなら、自宅から一歩も出ないことだと思う。そうすれば、雨季にどしゃ降りの雨で身を腐らせることもないし、乾季に舞い上がる砂埃で目をつぶされることもない。安らかな居場所でのうのうと生きることができれば、さぞ幸せだろう。
 だがそうやって引きこもったとしても、安普請の薄壁の向こう側にある世界は変わらない。一度その世界を知ってしまったならば、どうして以前のままでいられようか。
 その日、私は降りしきる雨に肩を濡らし、裁判所を訪れていた。
 年季の入った木製の長椅子は、私が腰かけるとぎしぎし耳ざわりな音をたてた。
 首を伸ばして見まわせば、法壇に向かって劇場の客席のように長椅子が並んでいる。既にその半分ほどは傍聴人で埋まっていた。背広に身を包んだ者や半そで姿の軽装の者、ほとんどぼろを巻き付けたような者まで、様々な出自を思わせる人間たちが、雨に濡れた体を同じように拭っている。
 目線を床より一段高い法壇に向けると、そこに裁判官の姿は見えない。まだ開廷まで時間がある。今のうちに、この裁判の被告たちの記録を見直すことにする。
 上着の内から手帳を取り出すと、挟み込んでいた写真や新聞の切り抜きが、ばらばらと抜け落ちた。
「大丈夫ですか?」
 慌てて屈んで集めていると、隣から声がかかる。顔をあげると、いく枚かの切り抜きを差し出す手が見えた。
「濡れてしまいましたね」
「いえ、ありがとうございます」
 身を起こし、湿って黒くなった紙片を受け取りながら相手を確認する。自分とそう変わらない年齢の男性のようだが、どこか老成した雰囲気を感じた。先ほど見えた手の指にも、張りのある顔にそぐわない、深い皺が刻まれていた。整形済みなのかもしれない。この国では珍しくもないことだ。
「ずいぶんと彼らのことをお調べになっていますね。記者の方か、なにかで?」
「まあ、そんなところです」
 拾い集めた写真と切り抜きを挟みなおすと、手帳はずっしり重たくなった。それは、私が新聞記者として、彼らを、今日の被告たちを調べあげてきた記録の重みだ。
 この一年以上のあいだ、彼らのことを追い続けてきた。彼らがクリニックを襲ったと聞けば現場に出向いて取材をし、スラムに逃げ込んだと聞けばその足取りをたどった。そうして何本もの記事を世に送り出してきた。そして今日も、彼らの行く末を見届けるために、ここにいる。
「では、あなたの書いた記事をどこかで読んでいるかもしれませんね。私も彼らのことはずっと注目していましたから」
 男はそう言って微笑んだ。目尻に薄く皺がよる。
「おや、まだ落ちていますよ」
 男は大義そうに膝をつくと、前の長椅子の足元に隠れていた一枚をつまみ上げた。
 それは私が初めて彼らと邂逅し、自ら撮影した写真だった。写っているのは、夜の路上に身を伏せる人々と、そのただ中でこちらに指を立てる女。一見すると女が衆人をかしずかせているようだが、そうではない。人々は地面に散らばった瓶詰めの眼球に群がっているのだ。
 私はそのときのことを思い出す。
 月明かりを受けて、宝石のように輝く色とりどりの瞳。
 臙脂ダークレッド銀鼠シルバーグレイ群青ウルトラマリン翡翠ジェードグリーン
 貧しい身なりをしたスラムの住民たちが、争うように奪い合う。
 そんな彼らをどこか楽しそうに睥睨する女
 私は夢中でシャッターを切る。
 気づいた彼女がこちらに向かって指を立てる。レンズの向こうの誰かを挑発するかのように。
「この写真のことは覚えています。確か、とても扇情的なキャプションが付いていた」
「医療大国に弓引く群盗ローバー、現代の義賊」
 それです、と男は頷いた。もちろん知っている。なにしろ私が書いた記事だ。
 この国が医療大国と呼ばれるようになって久しい。医療ロボットによる低侵襲手術、ウイルスベクターによる遺伝子治療、ナノテクノロジーによる創薬、様々な先端医療技術を貪欲に吸収し、今の地位を築いてきた。
 中でも力を入れていたのは、3Dバイオプリンターを用いたバイオパーツ人工生体臓器・四肢の製造だ。心臓や肝臓、胃、肺、手、足、そして眼球。それらは単なる臓器不全や欠損部位のためのみならず、自らの外見を飾るための美容用品として、宝石やアクセサリーのように取り扱われていた。それらはこの国の主要な輸出品にもなっている。
 かつて、この国は貧しい農業国だった。
 雨季には稲を、乾季には乾燥に強い稲を、狭い国土の限られた農地で細々と育てていた。しかしそんなわずかな収穫を、雨季に氾濫した河川は残らず押し流す。かと思えば雨の少ない年には乾季の水が足りなくなる。国民の大多数を占める農民たちは貧困に喘いでいた。
 似たような周辺の国々が農業改革に努め出したころ、この国はまったく異なる選択肢をとった。
 それが医療大国への道だった。農業では国際的な競争力で他国に対抗できないと当時の政府は考えたのだろう。国外から優秀な医者や研究者を招聘し、最新の設備と機材を整えた。そして瞬く間に世界有数の医療技術を獲得し、現在に至る。
 雨脚が強まり、裁判所に降りそそぐ雨粒の音が地鳴りのように響く。傍聴席のあちこちで交わされるささやきが、一つに合わさって大きなざわめきとなる。いつの間にか傍聴席は満席になっていた。
 極刑にすべきだ、という声が私の右前の席から聞こえる。きちっとした身なりの男が隣の女性に話しかけている。医療関係者だろうか。その女性の反対には、見すぼらしい風情の男。スラムの者が、かつての英雄の最後を見届けに来たのだろう。女にはばかるように体を小さくしている。そうしてできたわずかな隙間が、この国の断絶を表しているように思えた。
 医療への特化が、この国に富をもたらした一方で、その恩恵にあずかれたのは、医療関係の職に就く、ごく一部の人間に過ぎなかった。私のように都市部で仕事にありつけた者はまだ運が良い。問題はその当時、国民の大部分を占めた農民たちで、政府は医療研究に予算を割くため、農業に関わる助成をことごとく減額、廃止した。大規模な農地を有する地主ならいざ知らず、貧農たちの多くが食うに困り、あるいは一攫千金の夢を見て、都市部へと集まった。その結果が近郊に膨れ上がったスラムだ。
 医療景気に沸く都会に、彼らの務まる職はない。低賃金の日雇労働で身を粉にするか、あるいは物乞いに身をやつすか。危険な人体実験の対価で糊口をしのぐ者さえいると聞く。
 群盗が標的としたのは、富裕層向けのクリニックや美容用バイオパーツを販売するメディカルブティックばかりだ。彼らは、その戦利品をスラムの住民に配りまわっていたという。だから私は義賊と銘打った。それによって会社からはしばらく謹慎を命じられたが構わなかった。
 富の象徴である医療に携わる者から略取し、スラムに施してきた彼らは今日、その罪を裁かれる。
「来ましたね」
 隣の男がぼそりと呟く。言われるまでもなく、私もそれを見ていた。
 向かって左手の扉から、囚人服姿の男たちが刑務官に連れられて入廷してくる。幹部格の主要なメンバーなのだろう。険しい表情の中にも、不安と緊張が読み取れる。彼らの中に写真の女の姿はなかった。逮捕の原因となったクリニックの襲撃の際、彼女は命を落としたと聞いている。
 傍聴人のざわめきはぴたりとやんでいた。雨音だけが重く響く。
 間をおかず、法壇の後ろの扉から黒い法衣をまとった裁判官が三人現れ、中央に座した一人が開廷を告げた。
 男たちが一人一人、証言台に立たされ、名前を確認される。スラムで取材を重ねていたときに聞いたことのある名前だった。顔はほとんど初めて見るのに、妙な親近感さえ覚える。
 検察官が起訴状を読み上げる。法律用語で固められていて、なにを言っているのかは、よくわからない。やがて儀式めいたやり取りが交わされ、その時が来た。
 再び左手の扉が開き、男が一人入ってくる。
 傷の手当てが体のあちこちに施され、特に右腕は隙間なく包帯で巻かれている。
 今日の最重要参考人であり、群盗の仲間だった男だ。この男が、警察と内通したがために、情報が漏れ、彼らが逮捕される原因となった。
 つまり裏切り者だ。
 この裁判でも、自らの刑の減免のために仲間を売るというのだろう。
 法廷の空気が冷える。
 この場のすべての視線が男に注がれる。
 証言台に立った彼は、自らの名を告げた。
「私はサフル・ミザン。司法取引に従い、彼らの罪を告発します」

 

 まず、これから始める証言は少しばかり長くなることをご容赦いただきたい。なにせ、すべてをお話しするには、あの女との出会いから始めなければなりませんので。
 あの女とは、もちろん今は亡きラウダのことです。
 我らが美しき女主人。
 皆さまからしたら、彼女は一介の娼婦に過ぎなかったかもしれません。ですが、あの女は、きっとこの国の誰よりも美しく、誇り高く、そして自由な女だった。
 私はいまだに思うのです。彼女が死んでしまったなどというのはでたらめで、今でもどこかで生きているのではないかと。
 彼女との出会いはまったくの偶然で、きっと運命だったのだと思います。
 私が農民の生まれながら苦学の甲斐あって公務員試験に合格し、保健省に勤め始めたころのことです。ある日、政府主催の大きなパーティがありました。医療関係者を招いた懇親会という体でしたが、要するに接待パーティというわけです。
 会場はホテル・ラポールのボールルーム。皆さまもご存知でしょう。この国で最も高い七十五階建ての高級ホテルです。そこの中でもとびきり豪華な宴会場を貸し切るわけですから、そりゃもう贅沢なのなんのって。
 あんなふかふかな絨毯、私はつまづいて転ぶかと思いました。いくつもぶら下がったシャンデリアは真昼のように明るく、ずらり壁際に並んだテーブルには見たこともない料理が山のように盛りつけられています。
 当時の私はその出自ゆえ、いつも雑用ばかりを押し付けられていて、その日の役目は続々やってくるお偉方の案内係でした。
 大物政治家のこの人は、あのテーブルに。有名な医学賞をとった研究者は、あのテーブルに。メディカルブティックの社長は、ここ。国営クリニックの院長は、あそこ。
 その時、にわかに会場の人々の視線が、一箇所に集中したことに気づきました。不思議に思っていると、日ごろ私を邪険にする同僚までが、あれを見ろよ、と耳打ちしてきます。
 そこに彼女はいました。
「つぎはぎのラウダだ」
 そう教えられながら、私は彼女から目を離せませんでした。
 両肩を大きく出した真紅のドレス。細かな刺繍が施された艶めく生地は、その体にぴったりと張り付き、均整のとれたボディラインを赤裸々に描き出していました。緑がかった黒髪は高く結い上げられ、細いうなじに垂れるおくれ毛がなんとも言えず悩まし気で。ほのかに蒸気した頬。瑞々しい唇。どこを切り取っても、彼女は美しかった。
 彼女がつぎはぎと呼ばれた理由はすぐにわかりました。
 まずその左右の瞳。右はドレスと同じ燃えるような緋色、左は髪と同じ深い黒。右腕は引き締まって筋張っているのに対し、左腕はふっくらと柔らかな肌をしています。よくよく見ると、腕だけでなく、肩や鎖骨のライン、喉元など、各部によって肌の色や肉付きが少しずつ違っていてグラデーションを作っています。彼女の体は色々なバイオパーツを繋ぎ合わせているようでした。
 普通の人には奇異に見えるかもしれません。しかし先ほど申したように、私には彼女のどこを切り取っても美しく見えたのです。
 ラウダを同伴させた男は、彼女を珍しい見せ物かのように周りへ披露していました。哀れな仕打ちに思えるでしょうが、彼女は意に介していないようで、むしろその堂々たる振る舞いと言ったら。私には返って、周りの男たちの方が哀れに見えるほどでした。
 しばらく私はそうやってラウダに見惚れていたと思います。いつの間にか、彼女はテーブルを一つ挟んだ私のすぐ前にまで来ていました。彼女が近づいてきていたのか、知らず知らず私が近寄っていたのか、まったく記憶にありません。
 不意に彼女は私の方を見て微笑みました。その瞬間です。周りの音も、シャンデリアの光も、絨毯の柔らかさも、すべてはどこか遠い世界のものとなり、ラウダと私だけがそこに立っていました。そしてまた次の瞬間には、彼女は同伴者に連れられて、人混みに紛れていきました。
 このとき私は、彼女にもう一度会わなければいけないと、強い確信を抱いたのでした。
 私が知らないだけで、ラウダは有名人でした。しつこく同僚に問うと、彼女は普段スラムに暮らしていると教えてくれました。仕事のときや、太客に呼ばれたときだけ、ああやって街に姿を現すのだそうです。
 私がスラムに出向いたのは次の休みの日でした。一応この頃はまだ勤め人だったので。
 ご存知の通り、スラムは街の北端、やや谷になった窪地の底に密集しています。そのような地形ですから、雨季には周辺に降った分まで雨水が流れ込むような有様で、私の訪ねた時分はちょうど雨季から乾季への変わり目でしたが、通りはどこもまだぬかるんでいました。
 時刻は昼を回った頃だったでしょうか。ぼろ家の立ち並ぶ細い路地で、腰に布切れを巻いただけの子供たちが泥遊びに興じています。その様子を母親らしき女たちが、おしゃべりをしながら見守っていました。どことなく故郷の村を思い出し、懐かしい気持ちになったことを覚えています。
 さて、勢いあまってスラムを訪ねたはいいものの、私は途方に暮れていました。いかに、街にこびりついたごみのような場所とはいえ、ざっと見ただけで似たような掘っ建て小屋が何十軒とひしめいています。実際の数はその何倍にもなるでしょうから、しらみ潰しに探していては、たった一人の女を見つけるのにどれだけ骨が折れることか。とにもかくにも人の集まる場所で情報を集めるのが得策と、私は一軒の食堂に入ることにしました。
 なぜ食堂とわかったか。他より小屋の間口が広いですし、通りまでなにやら香ばしい匂いが漂っていたのです。
 立て付けの悪い小さなドアを開くと、むっとした熱気と香辛料の刺激的な匂いが漂ってきました。同時に、なにやら口争う男女の声が聞こえてきます。
 まさしくラウダでした。
 こんなに早く出会えるとは。皆さまもやはり運命だと思いませんか。
 彼女は見上げるような大男に向かって啖呵を切っていました。
「だから、なん度も言わせんじゃないよ。いつから、あんたがアタシの亭主になったってんだい。ちょいと優しくしてやりゃ、図に乗りやがって。どぶ水で顔洗って出直してきな。そうすりゃ、もっとマシなツラになるってもんだ」
 男の肩が小刻みに揺れています。これはいけない、と思いました。
 男が毛深い腕を振り上げるのと、私が地面を蹴るのは同時でした。右肩を前にして男の脇腹に体当たりをくらわせると、不意打ちだったこともあり、男はテーブルを巻き込みながらもんどりうって地面に倒れました。
 驚く彼女と目が合います。けれど見惚れている暇はありません。男に向き直ると、もう立ち上がるところでした。
 男は顔を真っ赤にし、罵声を浴びせてきます。一際大声で吠えると両手を前にしてつかみかかってきました。そこで私は、さっと身をかわし、すれ違いざま足を引っ掛けてやったのです。またも男は面白いように転びました。今度は立ち上がらせません。両膝をついた男の足と足の間、つまり股間ですね、男性であるなら等しく急所であるそれを、力任せに蹴り上げてやりました。
 男は情けない声をあげながら、泥だまりの路地を這いつくばって逃げていきました。「やるじゃないか、あんた」
 振り返るとラウダが手招きをしています。
 誘われるがままに、テーブルにつくと、彼女は私の前に座りました。その日の彼女は、髪を下ろし、ドレスではなく通りの母親たちと同じような質の悪いワンピース姿でした。
「ありがとう、助かったよ。しつこい男で困ってたんだ」
 あの赤と黒の瞳が見つめてきます。
 私は緊張のあまり、ああ、とか、ええ、としか返せませんでした。彼女との初めての会話だというのに、情けないことです。しかし、、次の彼女の言葉に、私の心臓は止まりそうになりました。
「最近の役人ってのは、ケンカも強いんだね」
 驚く私を見て、彼女はくすくす笑います。
「気づいてないとでも思った? いただろう、ラポールに。あたしは人の顔は忘れないんだ。特にいい男の顔はね」
 止まるかと思った心臓が、今度は早鐘のように鳴りはじめました。
「会いにきてくれたんだ? アタシに」
 正直に告白する以外の言葉があったでしょうか。私は彼女を見て心奪われたこと、目が合った瞬間、二人だけの世界を感じたこと、もう一度会うべきだと確信したこと。包み隠さず話していました。
 流石に突然すぎたのでしょう。彼女はあっけに取られたような顔をして、でもすぐに笑い出しました。
「あのね、アタシはあんたに恋をする予感がするよ。でも、まだだ。まだその時じゃないんだ。けどせっかく会いに来てくれたんだ。今日のところは、この右手にキスすることだけは許してあげる」
 そう言って差し出した右手は日に焼けて、筋張って、そして美しかった。
 私はおそるおそる、その手を取ると、そっと指先に口づけました。
 これがすべての始まりの瞬間だったのです。
「この右手はね、これだけは本当のアタシのものなんだ。こんなこと、他のどんな男にもさせたこたぁないんだよ。それがどうしてだろう。アタシにもわからないや」
 あのラウダが頬を染めて目を伏せています。
 私もなんだか居心地が悪く、空気を変えようとまだ昼食をとっていないことを伝えました。彼女はまた笑いました。本当によく笑う女なのです。
「そうか、じゃあなにか食べようか。店にも悪いことしたしね。ここのシチューだけはスパイスがきいてて結構いけるんだ。それ以外はよしといた方がいい。どれも濡れた犬みたいな匂いがするから」
 それから私たちは、お互いのことを話しました。
 私が名前を告げると、なにがおかしいのか、サフル、サフル、となん度も口ずさみ、彼女はまたくすくすと笑います。
 私は自分が貧しい農民の出で、なんとか役人の職を得た今も、職場ではなかなか認められずにいることを話しました。あまり楽しい話ではなかったでしょうが、彼女は親身に聞いてくれて、それだけで私は救われたような気がしたものです。
 彼女の生い立ちも似たようなもので、職を求めて街まで出たものの、どこでも爪弾きにされて、結局身を売るより他なかったということでした。
 私たちはほんの短い間に、お互いを理解し合えたのです。
 そう。互いに理解し合えたと、私は信じていました。
 それから私は週末はスラムで過ごすようになりました。ラウダと会う、それだけのために。
「どう、サフル? 綺麗だろう?」
 彼女は度々、体のバイオパーツを新しいものに換えては、私に見せてくれました。時に浅黒い左手を付けてみたり、時に脂肪の代わりに筋肉の盛り上がる胸を付けてみたり。彼女はその時々で、自分が綺麗だと思ったパーツに入れ替えているのでした。
 しかし、それには金がかかるはずです。スラムの住民の中には、治験という名目で、試作品のバイオパーツの移植を受けている者も多くいましたが、彼女がそうしているようにも見えません。一体どう金を工面しているのか、問うても彼女は曖昧な微笑みを浮かべ、右手の人差し指を唇の前に立てるだけでした。なにか秘密めかしたいことがあるとき、彼女は決まってその仕草をするのです。
 きっと彼女は夜の仕事をしているのだろう。
 そう思うと、私は胸の内でなにかがざわざわとうごめくのを感じました。私が知るラウダは週末だけ。その状況に私は耐えられなくなっていました。
 誓って言いましょう。
 このときの私は、まだ彼女の正体に気づいていませんでした。
 それを知ったのは、私がついに我慢できず、仮病で休んでまで週末以外にスラムを訪れたときのことでした。
 彼女を探して路地をうろついていたところ、年老いた女が近づいてきて、私に言うのです。
「あの女は悪党だよ、あんた、騙されてんだ」
 なにを言うのかと思いましたが、同時にその必死な様子に、私は話だけでも聞いてみる気になりました。
 老女が言うには、ラウダは何人もの男をたぶらかして手駒にし、徒党を組んで悪事を働いていると。詐欺、強盗、恐喝、人さらい、その犠牲者は街の人間のみならず、スラムの住民たちにまで及んでいて、誰もが皆恐れているというのでした。
「あの女の手に口付けさせられたろう? あれは周りに見せつけてんのさ。この男はアタシのカモだ。手を出すんじゃないってね」
 確かに治安がよくないと聞くスラムで、初日以降トラブルにあったことはありませんでした。
「うちのバカ息子もラウダに入れ上げて、家を出ちまった。あの女の取り巻きにもいないし、どこでなにをしてるんだか」
 老女はさめざめと泣きながら、話を締め括りました。
 私はラウダと初めて会った食堂に向かいました。そこが普段彼女らが根城にしている場所なのだそうです。
 はたして、彼女はそこにいました。十人ばかりのむさ苦しい男たちもいて、中には見覚えのある毛深い大男もいました。
「意外と早かったな。ラウダ、俺の負けだ、持ってけ」
 大男は懐からくしゃくしゃになった紙幣を彼女に投げました。それを掴みながら、彼女は笑います。
「言ったじゃないか。サフルは他の男と違うんだよ。なんせ、アタシが恋をすることになってるんだからね」
 どっと男たちの笑い声が狭い店内に響きました。
 そう、運命などではなかった。
 皆さんは私が騙されていたとお思いでしょうね。現実はそうなのでしょう。のこのこスラムに現れた役人相手にひとつ芝居打ってみる。それで自分たちの仲間に加われば、なにかの時に役立つかもしれない。そうならなくとも、賭けの一つにでもなれば面白い。そんなところだったのでしょう。
 普通なら悲しむところでしょうか。怒るところでしょうか。
 でもおかしなもので私は嬉しかったのです。
 とうとう彼女の本当を知ることができた。
 それが私には嬉しかった。
 だから私は、決して自分が騙されたなどとは思っていなかったのです、このときは。
 どうすればこのまま彼女のそばにいられるか、どうすれば本気で彼女の心を掴むことができるかを、私はこの瞬間必死に考えていました。どうしようもなく私は愚かだった。そうして導き出した答えが、私の罪なのです。
 悪事には悪事を。
 堕ちるところまで堕ちる覚悟はできていた。
 私は思いついた計画を一気に捲し立てました。そして最後に、彼女に言いました。
 新しい色の目玉が欲しくはないか。
 彼女はにんまりと笑いました。

 

・視点が記者の私に戻る。記者の語りで、サフルが保健省から医療関係者のデータを盗み出し、強盗計画に利用していたことが明かされる。サフルは無軌道な犯罪集団に、医療関係者への対抗という目的を与え、自らが職場で受けた恨みを晴らすと共に、スラムでの彼らの地位向上を図った。
・ラウダの死の経緯は話されなかった。(直接被告の犯罪に関係ないため)
・私は取材で聞いていたサフルの人物像と実際の本人との乖離に違和感を覚える。
(再度私がサフルについてスラムで聞き込みをする?)
・私はサフルに面会を申し込み、直接ラウダの死の経緯を尋ねる。
・サフルは私が記者だと知り、ラウダの写った写真をくれるなら答えると返す。私はこれを承諾する。
・サフルによる語り。(大まかな顛末は梗概の通り)
・記者の私の視点で、サフルの出所の場面。私は最後に、サフルの写真を撮らせてくれと頼む。
・撮影しながら、私はサフルの人物像への違和感を述べる。
・サフルは右手の人差し指を唇の前で立てる。秘密めかして。その右手は、男にしては小さく、筋張って日に焼けている。
・私がファインダーから顔を上げると、彼は去っていった。

 

書きあげられませんでした…
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。申し訳ございません…

文字数:9886

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