梗 概
月の輪に詠う鬼
【企画趣旨】
2025年は清少納言の没後1000年と言われている。彼女、そして彼女の生きた平安時代の人物や文学は、今なお小説や漫画、ゲーム、ドラマといったエンタテインメントの源泉として、多くの人々に親しまれている。この企画では、清少納言を新たな切り口でSFに昇華することを試みる。
【テーマ】
誰が味方か誰が敵か分からない
平安王朝×陰陽師×人狼ゲーム
【あらすじ】
正暦4年、清少納言は宮中に出仕し、中宮・藤原定子の女房となる。時は一条天皇の治世、朝廷では定子の父、藤原道隆が関白として実権を握り、藤原氏が栄華を極めていた。そんな中、内裏で惨殺死体が発見される。陰陽師・安倍晴明は、それを式神による仕業と看破する。朝廷を呪う何者かが放った式神は、他人そっくりに化けているらしい。疑わしい者たちが次々島流しにされるが殺人は止まない。誰もが疑心暗鬼になる中、清少納言はあるおかしな文に気付く。色が見えない。清少納言は他人の書いた文に色がついて見えるという超能力を持っていた。そのおかしな文の書き手こそ式神だった。晴明によって式神は退治されるが、新たな殺人が起こる。式神は1体ではなかったのだ。更に道隆が病に倒れ、その弟の藤原道長が権力を掌握しようと暗躍を始める。その魔の手は、道隆の娘である定子にまで及ぶ。定子を道長から守りながら、清明とともに式神捜索を続ける清少納言。しかし、その清明は道長と通じていた―
【登場人物】
清少納言
主人公。書かれた文字に色がついて見えるという超能力(共感覚)を持ち、その色を見て書いた本人の心情を推察できる。式神は人の心までは模倣できず、文字に色がつかないため、正体を見抜くことができる。その能力を清明に知られ、式神探しに協力させられることになる。定子の美しさと知性に心酔する。
安倍晴明
陰陽師。年齢不詳。相当な高齢のはずだが、若々しい姿をしている。人に化けた式神を見つけることはできないが、倒すことはできる。しかし、間違って本物の人間に力を使うと、跳ね返って自分が爆死することになる。陰陽寮に所属する官僚であり、道長に重用されている。
藤原定子
一条天皇の皇后。一族の政争に巻き込まれながらも気丈に振る舞う。
藤原道隆
定子の父。関白にまで昇り詰めるが、病死。
藤原道長
道隆の弟、定子の叔父。道隆の死後、権謀術数を巡らせる。
藤原彰子
道長の娘。入内し、中宮となる。
橘則光
清少納言の元夫。武にたけた人物だが風流を解さず、清少納言とは離婚。それでも二人の関係は良好で、妹背と呼び合う仲。清少納言たちに協力するも、文を見せようとしないことから疑いをもたれる。
藤原実方
内裏きっての美男子で数々の浮名を流したが、式神と疑われて左遷される。
藤原行成、藤原斉信
定子のサロンの常連。道隆の死後は道長側に付く。
紫式部
彰子の女房。
蘆屋道満
在野の陰陽師。清明に比肩する力を持ち、式神を使役する。
文字数:1321
内容に関するアピール
「売れそうな」というお題に対して最初に考えたのは、売る側にとって「売りやすい」本とは何か。これが著名な作家の新作であったり、大きな賞を獲った作品なら、宣伝もしやすいというもの。無名の新人の新作となると、どれだけ内容が良くとも、なかなか宣伝機会には恵まれないのではないか。
そこで、広く知られた題材で、かつ何かの特集ついでに関連書籍として紹介されそうな、近くアニバーサリーを迎える物を選んでみました。それが来年没後千年と言われる清少納言です。大河ドラマでも登場していますし、来年公開予定のアニメ映画もあるようですから、一応は旬ということにもなるか、と。そこに若者にも興味を惹きやすそうな人狼ゲームという味付けを加えてみます。これもSF人狼ゲームが来年アニメ化されるみたいですね。
ストーリーは正直全体まで考えついていないのですが、定子の断髪から再び宮中に上がるぐらいまででしょうか。史実は歪めて、途中で彰子の入内と紫式部の登場はさせます。清少納言は人狼ゲームの占い師にあたるポジションなので、紫式部にも能力と役職を与えたいなと考えています。
文字数:470
月の輪に詠う鬼
分厚く垂れ込めた雲が月を覆い隠し、平安の御所に闇が落ちる。
誰もが寝静まった夜更け、ましてや月明かりのささない闇夜とあっては、出歩く者などまずいない。軒に灯籠の吊られた殿舎を一歩離れば、そこには一寸先も見通せぬ暗黒がわだかまっている。古くから宮中に伝わる怪異話は、いずれもこんな真っ暗な夜が舞台だ。どれだけ豪胆な武人でも、尻込みせずにはいられないだろう。
だが、その闇が好都合な者たちもいる。
男が女の手を引いて、深夜の内裏を闇の濃い方、濃い方へと進んでいた。夜陰に乗じて逢瀬を遂げようというわけである。
「どこまで行かれるのですか」
女が問うても男は答えない。男の手に握られた頼りなげな手燭だけが揺れている。その弱々しい灯りに周囲の闇はかえって際立ち、今にもいずこから物の怪が踊り出てきそうな風情ですらある。女は思わず身震いをした。しかし、ほのかに照らされた男の横顔は、薄っすらと微笑んでいるようだった。
「もう戻りましょう。こう暗くては貴方様のお顔もよく見えませんし」
人目を忍んだ密会に、と連れ出された時は女の心も大層弾んだものだ。女房として、いかに公達たちが遊び好きか心得ていたとしても、これほどの美丈夫に口説かれては、ついその気になってしまっても仕方がない。ところが、当の男は一向に腰を落ち着ける気配がなく、女は先程から同じところをぐるぐると歩き回っている心地になっていた。
火照った体もすっかり冷え切ってしまっている。思えばまだ如月の始め、夜風はまだまだ肌寒い。堪えきれず女が更に口を開こうとしたその時、不意に男の手が離れた。次の瞬間には完全な闇が女の視界を覆ってしまう。
「な、何をなさるのです。戯れはおやめくださいませ」
慄く女の震える声が、むなしく闇に吸い込まれた。聞こえているのかいないのか、男から返答はない。大方、驚かせようと悪戯心を働かせ、手燭を吹き消したに違いない。女はそう考えて、努めて平静を保とうと、肩をそびやかして周囲に目を凝らした。だが女の目に映るのは、黒、黒、黒の闇一色ばかりである。
湿っぽい嫌な空気が辺りに漂い始める。物の怪が鼻先に突然現れる、そんな空恐ろしい妄想が膨らんで止まらない。女の心は早々に挫けてしまった。一人取り残された心細さと闇への恐怖、そして身を苛む寒さが、徐々に女の正気を奪っていく。
冷たい滴が一つ、女の頬を打った。
悲鳴を噛み殺し、思い切って女が天を仰ぐと、更に二つ三つ、頬を額を濡らすものが落ちてくる。
雨だ。月を隠していた暗雲は雨雲だったのだ。
そうとわかると妙なもので、先程までの恐怖が和らぎ、女は自分が冷静さを取り戻していくのがわかった。
「私は何をしているのかしら。本降りになる前に戻りましょう」
男には酷い振られ方をされたのだと思おう。そして、このことを明日には御所中に言いふらしてやるのだ。悔しさに湧いてくる目元の滴を、天からの滴が流し落としてくれるのを待ってから、女は決然と前を向いた。そしてそれを見てしまった。
闇が人の形を成している。まるで闇の中に闇を塗り固めたかのような、人の輪郭をした真っ黒な何かが、女に向かい合っていた。
闇が一歩また一歩と女に近づいてくる。逃げなければと頭ではわかっていても、麻痺したように女は身じろぎ一つできない。
降り注ぐ雨に女の体が濡れそぼつ。稲妻が閃く。闇が女に踊りかかる。遅れて轟いた雷鳴が、女の悲鳴を掻き消した。
「女房は胸を裂かれて見るも無惨な有様だったそうだ。幸い一命は取り留めたが、見つかるのがあと少しでも遅ければ、どうなっていたことか」
「まあ、怖い」
「一体なにがあったのでしょう」
御所後宮の一角、凝花舎の簀子縁で御簾越しに男女が話しこんでいた。よく晴れた昼下がりのことである。垂纓の冠と黒い袍姿の男は、高位の殿上人らしく物腰に気品が溢れている。対する女たちも、萌黄に蘇芳ととりどりの袿を重ね、実に華やかだ。とはいえ先程から語り合っている話題が、つい先日内裏で起こった凄惨な事件についてなのだから、心穏やかではない。
「彼女が意識を取り戻さないうちは確かなことは聞き出せないが、おそらく盗みに入った賊と鉢合わせたというところだろう」
「賊とは、また物騒なこと」
「しかもまだこの近くに潜んでいるかもしれない」
あなや、と女房の小兵衛と式部おもとは手を取り合って縮み上がった。そんな二人を見て、頭中将の藤原斉信は柔らかく微笑みかける。
「大丈夫、お二人のことはこの斉信がお守りするのでご安心を」
宮中でも指折りの貴公子に、そこまで言われて女房たちはぽっと頬を赤らめる。慌てて二人は手にした扇で顔を隠した。
「その話、何だかおかしくはない?」
女房が一人、まだ恥じらっている小兵衛とおもとを押しのけるように割って入った。
彼女の名は清少納言と言う。代々歌人の家柄に生まれ、夫と離婚したのを機に、昨年の冬から定子に仕えるようになった女房である。家系の名に恥じず博学で機知に富み、参内して日が浅いながらも定子や他の女房から一目置かれる女だった。
「これは清少納言、何か気になることでもあったか?」
斉信は御簾の向こうで愉快そうに目を細めた。
「女房が見つかったのは春興殿の裏手ということだけど」
「ああ。見回りの武士が雨のなか血を流して倒れる女を見つけた。丑三つ刻のことだ」
「どうして彼女はそんな時分に、そんなところにいたのかしら」
言われてみれば、とおもとと小兵衛も首を捻る。
「誰かその夜、彼女を見かけた者はいないの?」
「同じ局の女房に話を聞いたが、その夜は月の隠れた不気味な夜だったから、皆早々に床についたそうだ。もちろん襲われた彼女も含めて」
「では、彼女は皆が寝た後に起き出して、人気のない場所に向かった、と。一体何のために?」
清少納言が御簾越しに斉信を鋭くねめつけた。おもとたちが手を握りしめて固唾を呑む。彼女が男たちにおもねらないのはいつものことだが、今日はやけに食ってかかる。だが、斉信は彼女の視線を軽く受け止めると、闊達に笑った。
「やれやれ、なんだか私が責められているようだな」
「茶化さないで」
「茶化してなどないさ。だが、どうしてそこまでこだわる? 知り合いだったか?」
「別にそういうわけじゃないけど。はっきりしないのが気に入らないだけよ」
ふむ、と斉信はそこで少し考える仕草をする。
「なるほどな。では小納言の疑問に私なりに答えるとしよう」
今度は斉信が清少納言を見つめ返した。
「こういうのはどうだ。女房は床についた後に、はたとお使いを頼まれていたことを思い出した。これはいけない、と皆を起こさぬよう抜け出して、お使いを果たしにいこうとする。しかし、折からの雨で手元の明かりが消えてしまい、暗闇を迷ううちに不運にも賊に出くわしてしまった」
おもとたちが相槌を打つように何度も頷く。確かに話の筋は通っている。だが清少納言はまだ腑に落ちない。お使いにしてもいささか時間が遅過ぎるというものだ。
「…私の考えでは違うわね」
「聞こう」
「女が一人でそんな時間に出歩くとは思えない。でも誰かと一緒だったとしたら? 例えば、夜中人目を忍んで通ってきた恋人と」
「ふむ。つまり、君は女房が男と逢引きを図ったと言いたいのか?」
「ええ。局にいたら周りの目と耳が気にかかる。たまには二人だけで思い切り睦み合いたいと思っても不思議じゃない」
「は、はしたないわよ、清少納言」
何を想像しているのか、おもとと小兵衛は耳まで赤くして、ぱたぱたと扇で顔をあおいだ。
清少納言としては、その可能性に気がついてしまったのだから言わずにはおられなかった。相手が男でも女でも、時には身分の区別もなく、思ったことを口に出してしまう。好ましくないことだと彼女も自覚しているが、それが清少納言の性分なのだった。
だが、これは流石に出過ぎたことを言ってしまったかもしれない、と彼女は思った。彼女の推測通りだとしたら、それはつまり、
「つまり、君は我々公達の中に狼藉者がいると、そう疑っているのだな」
頭の中を覗かれたようで、清少納言は一瞬目を逸らしてしまう。斉信はあくまで微笑みを崩さなかったが、その目は笑っていなかった。
「梅壺が誇る才媛の言うことだ。参考にさせていただくよ」
その言葉はどこか冷たく、思わずおもとと小兵衛は身震いをした。清少納言の背筋に嫌な汗が流れる。
張り詰めた空気を打ち破ったのは、鈴の音のような愛らしい声だった。
「お話は終わりまして」
即座に清少納言たち三人、そして斉信までが部屋の奥に向かって身を伏せた。
四方に薄絹がおろされた御帳台の中に、この後宮で最も尊い女性が座している。彼女こそが、一条天皇の皇后、定子である。
「あまり物騒な話はよしてくださいね」
「はい、定子様。申し訳ありません」
清少納言が顔を上げる。薄絹に遮られ、その表情は伺い知れないが、いつものように朗らかに微笑んでいることだろう。清少納言は、胸の内にわだかまった穢れが清められるような心地がした。まだ仕え出して間もないが、定子の知性と気品、そしてその心優しさに、彼女はすっかり心酔していた。今も清少納言が危ういと見て、助け舟を出してくれたに違いない。
「失礼いたしました。小納言の話が面白く、つい向きになってしまいました」
斉信も、どこか毒気が抜けたように元の柔らかな物腰を取り戻していた。
「まったくです。小納言はまだ日も浅いのだから、あまり揶揄わないでやってくださいね」
「心得ました」
「ところであなた達、今宵が何の夜かお忘れではないかしら」
あ、と清少納言が気が付くと同時に、おもとたちも思い出したようで、にわかにそわそわとし出す。
「今からそんなにはしゃいで、夜眠たくなっても知りませんよ」
定子にやんわりと釘を刺されて、清少納言は頬が熱くなるのを感じた。
今宵は庚申待だった。庚申の日の夜、人の体に住まう三尸の虫が、宿主の眠っている間に天に昇り、天帝にその人の品行を報告するという。もしそこで罪が明るみになれば、寿命を縮められてしまうとされる。そうならないよう三尸の虫が天に昇るのを阻むために、一晩中眠らずに夜を明かす。それが庚申待だ。
「中宮様におかれては、どのような趣向で過ごされるおつもりですか?」
ただ起きているだけでは眠気が募るばかりで、何より退屈だ。そこで色々と遊びを催して気晴らしとするのだが、斉信はそこに関心があるようだ。
清少納言はなんとなく嫌な予感がした。
「皆で歌を詠もうと思っていますの」
「それは素晴らしい。そうだ、ぜひこの斉信にも同席させていただけないでしょうか」
おもとと小兵衛が色めき立つ。斉信といえば、優れた歌人としても知られる。それに女ばかりより、見目麗しい貴公子が参加してくれたら、場も華やぐというものだろう。
「折角ですから、行成や実方殿もお誘いしましょう。いかがですか、中宮様?」
藤原行成は斉信と同じく蔵人頭であり能書家として知られ、左近衛中将、藤原実方は宮中一と言われる美丈夫で歌才にも秀でている。いずれも今をときめく公達ばかりである。
清少納言としては、今夜の歌会は目立たないように過ごしたかったのだが、それだけの人物が集まるとなると、そうも言っていられなさそうだ。
「ぜひご一緒していただきましょう、定子様」
「小兵衛ったら。でもそうですね、人が多い方が楽しそうですね」
「ありがとうございます。それでは早速彼らに声をかけて参りましょう」
清少納言が顔をしかめる横で、おもとと小兵衛が小さく喝采をあげる。夜が待ちきれない二人は、あれこれと何を詠むか熱心に相談を始めた。
二人がどうしてそんなに楽しそうなのか、清少納言には理解できない。彼女は歌が苦手、もっと言えば嫌いだった。
彼女がいかに歌を詠まずに済むか思案していると、不意に呼びかけられた。見ると、御簾越しに斉信が手招きをしている。
「まだ何か?」
「そうつんけんするな。先ほどは悪かった。小納言の想像したことはもとより私も考えていた」
逆光で斉信の顔に陰が落ち、その表情は読み取れない。
「賊か、あるいは宮中の者の仕業か。だが、それを判じるにはまだ伝えていないことがある」
清少納言は眉を顰めた。
「女の胸を裂いた傷は、とても人の業とは思えないものだったそうだ。まるで獣か、あるいは鬼か」
彼女の背筋に冷たいものが走る。
「鬼だなんて、冗談を」
「陰陽寮が動いている、と言ったら?」
占いや天文学、暦法に通じ、時には魔を祓う儀式も行う、そんな者たちがこの度の事件追っていると言う。
「まさか、あの呪術師たちが」
「この平安の世、禍いをもたらすのが人ばかりとは限らない、だろう?」
不穏な言葉を残し、斉信は凝花舎の簀子縁を渡っていった。
賊、公達と来て、鬼である。身内を疑った意趣返しに、賢しい女を怖がらせようというのだろうか。だがそれにしては斉信の様子は真に迫っていた。清少納言は、何か漠然と胸が締め付けられるのを感じ、逃れるように御簾を上げた。
いつの間にか湧いた叢雲が空を覆おうとしていた。
文机に向かう父の背中を、幼い清少納言は見上げていた。
父はどこか遠くを眺めていたが、一つ頷くとおもむろに墨をすり始めた。甘く、そしてどこか野生の獣を思わせる香りが、けぶるように漂う。さらさらと紙の上を走る筆の音がした。清少納言がそっと父の手元を覗き込むと、純白の美しい紙に鮮やかな文字が輝いていた。
青から始まり深い碧へと光の明滅を繰り返している。寄せては返す波のように煌めく文字に、彼女はうっとりと見惚れる。そしてそうしていると、言いようのない思いが胸に迫ってくるのがわかった。
それは父の思いだった。悲しさ、愛しさ、寂しさ、様々な感情が、ないまぜになって文字の青に溶けている。
清少納言は思わずなんと書かれているのか父に問うた。幼い彼女にはまだその文字が読めなかったからだ。
父は一瞬躊躇ったが、せがむ娘に逆らえず、朗々とした声で詠じて見せた。
契りきな かたみに袖を絞りつつ
末の松山 波越さじとは
賑やかな笑い声が響いて、清少納言の意識は中宮定子のご座所へと引き戻される。
慌てて彼女は周囲に目を走らせた。
予告した通り、夜半になって斉信は宮中屈指の貴公子である行成と実方を伴って訪れていた。華麗な公達三人を前にして、おもとや他の女房も妙に浮き足立っている。
どうしても歌を詠みたくない清少納言は、定子に涙ながらに訴えて、とうとう歌を詠まない許しを得ていた。それで斉信たちが歌会を始めても、部屋の隅でその様子を眺めるだけにとどめていたのだが、何人もの歌を聞いていると次第に眠気に誘われて、ついうとうととしてしまったのだった。
見たところ、彼女が微睡んでいたことに気が付いた者はいないようだ。清少納言がほっとしていると、不意に名前が呼ばれた。
「清少納言、随分と退屈そうじゃないか。どうして歌も詠まずに一人離れているんだ?」
斉信だった。その目はかすかに笑っている。もしや見られていたのかもしれない。
「お生憎様。ちゃんとお許しを得て、歌は詠まないことになっているの」
ふんと鼻を鳴らして、清少納言はそっぽを向いた。
「斉信様になんて態度を」
「実方様たちも詠まれているのよ、失礼よ」
おもとを始めとした女房たちが非難の合唱を始める。これには清少納言もたじろいだが、彼女も引くことはできない。男たちも苦笑するしかなかった。
「清少納言」
騒々しい中でもその声は凛と響いた。ざわめきが静まっていく。
「はい、定子様」
皆の視線を集めながら清少納言が御帳台のそばに寄ると、薄絹の下から一ひらの紙片が差し出された。桜色に輝く歌が書かれてある。
元輔が 後と言はるる君しもや
今宵の歌に はづれてはをる
元輔とは、清少納言の父である清原元輔のことだ。偉大な歌人として知られる彼の娘だというのに、今夜の歌会から外れているのね、と定子が詠いかけている。
清少納言は自然と笑みが溢れた。
歌の意味だけ追えば、彼女を嗜めているようにも読める。だが清少納言には、そこに込められた定子の真心を、文字の色として見ることができた。
普通ならば墨の黒でしかない文字が、清少納言には色づいて見える。赤や青、緑や黄というように、それは書いた人、書かれた内容によって異なってくる。更には込められた思いの深さによって、色合いは複雑な濃淡を描き、強い輝きを放つようになる。そんな色づく文字の世界に生きてきた清少納言は、書き手の人となりや思いを、その色彩や輝きから自然と読み取ることができるようになっていた。
それを誰かに教えたことは一度もなかった。信じてもらえないだけならまだしも、不気味に思われるに違いなかったからだ。だから、この定子の桜色に輝く文字に込められた、慈愛も思いやりも、真に知ることができるのは清少納言だけなのだった。
「私が名だたる歌詠みの娘でなければ、もちろん真っ先に詠んでいたでしょう。ですが元輔の娘として、下手な歌を得意げに披露して、親の名を汚すような真似だけはできません」
きっぱりと言い切って清少納言は平伏した。女房たちが何事かひそひそと囁き交わす。見かねて声を上げたのは、実方だった。
「詠いたくないというのであれば、何も無理強いせずともよいではありませんか。そもそも歌とは胸の内に湧いてくる想いを自然に言の葉として紡ぐものです」
清少納言はぐっと奥歯を噛む。
実方の歌は以前に見たことがある。明るく橙に輝く文字は溌剌として、自信と情熱に満ち溢れていた。種類は違えど、その輝きはかつて見た父の歌と似ていた。
もちろん彼女も歌人の娘として、幼少より歌を学んできた。だが長じるにつれて否応なしに現実がわかってくる。自分は父の頂には近づけない。歌の巧拙以上に文字の色と輝きが、己の平凡さを自覚させた。どれだけ苦心して歌を書き付けても、みすぼらしく瞬くばかりで、そこに父のような輝きは宿らなかった。そうして次第に歌を厭うようになり、ただ勉学にばかり専念するようになったのだった。
「さすが実方殿はお優しいことだ。お前はどう思う、行成」
「さあ別にいいんじゃないですか。無理に詠ませても面白い歌が聞けるとは思えませんし」
行成の言い様が癪に触ることを別にすれば、歌は免除される流れと見て清少納言は胸を撫で下ろす。しかし斉信は余裕の笑みを崩さなかった。この男はまだ何か企んでいる。清少納言がそう見抜いたのと、彼が次なる提案を発したのは同時だった。
「わかった。皆がそういうならこれで歌会はお開きとしよう。だがまだ時間はたっぷりとある。どうだろう、ここは一つ趣向を変えて、肝試しに興じようではないか」
斉信の発案は、女房一人と彼ら三人のうち一人とが組になって、仁寿殿まで順番に行って帰ってくるというものだった。内裏の中央に位置する仁寿殿は、儀式などの特別な時にしか使用されていない殿舎で昼間でももの寂しい。こんな真夜中に訪おうという女房はほとんどおらず、名乗りを上げたのは怖いもの知らずの小兵衛と、斉信たちにいいところを見せたい式部のおもとの二人だけだった。
いつの間にか空を覆い尽くした雲は、月はおろか星の明かり一つ漏らさず内裏に闇をもたらしていた。紙燭の灯りを頼りに進みながら、清少納言はため息を吐く。
「嫌ならば断ればよかったのに」
隣を歩く行成が事もなげに言った。
「そういう訳にもいかないでしょ」
残る一人として、当然斉信が名指ししたのは清少納言である。歌も詠まない肝試しも参加しないとあっては、あの男に悪評を広められかねない。彼女も渋々承諾するより他になかった。くじ引きの結果、斉信と組にならなかったのは、不幸中の幸いと言えるかもしれない。
「それとも怖いの?」
「怖くない人がいる?」
「まあ何かあっても、僕があなたを守ることになってるから」
あんな事件のあった後だから、定子ももちろん反対したのだが、絶対に男たちが女房を守るから、と斉信は説き伏せてしまったのだった。
清少納言は行成の顔を盗み見る。朧げに照らされた彼の顔は、表情がよく読めない。蔵人頭藤原行成は、女房からの評判は様々だったが、あまり愛想がよくないということだけは概ね誰の意見も一致する人物だった。少なくともこの状況においては頼り甲斐があるようには見えない。
やはり自分の身は自分で守らなくては、と清少納言は前を向く。紙燭の灯りでは足元を照らすにも弱々しく、自然と歩みは遅くなる。先に出発した実方と小兵衛は、そろそろ仁寿殿に着く頃だろうか。
「仁寿殿といえば、南殿の鬼の話は知ってる?」
「もちろん。何、怖がらせたいの?」
「別にそういう訳じゃないけど」
かつて仁寿殿に夜な夜な灯火を盗む何者かが現れ、勇気ある弁官が待ち伏せて蹴りつけたところ、南殿の塗籠へと逃げていった。追いかけてみると、そこには何もおらず、ただ辺り一面血まみれだった、という話だ。
「その鬼が出た夜も、こんな月の出ない夜だったのかなって思ってさ」
「やっぱり怖がらせたいんじゃないの」
清少納言が抗議の声を上げたその時、甲高い悲鳴が闇を切り裂いた。
それが小兵衛の声だと気づく前に、清少納言は駆け出していた。後ろから行成の足音が続く。
賊が出たのか。実方は何をしているのか。それとも鬼の話をしたばかりに、鬼が出てしまったのか。走るに合わせて灯火が揺れる。血にまみれた小兵衛の姿が脳裏にちらつく。駆けながら清少納言は妄想を打ち払うように頭を振った。
「止まれ、小納言」
行成が叫ぶのと、暗闇に人影が浮かび上がったのは同時だった。危うくぶつかりかけて、行成が肩を掴んでくれたためにすんでのところで踏みとどまる。一際灯火が大きく揺れて、音もなく掻き消えた。
「実方、小兵衛は」
灯りの消える一瞬、清少納言はそこに立つ実方を見ていた。小兵衛はいない。なおも彼女が詰め寄ろうとすると、下の方から弱々しい声がする。
「小納言、そこにいるの」
清少納言は土に塗れるのも構わず、その場に膝をついた。暗闇に目を凝らすと、同じく地面に座り込む小兵衛の影がうっすらと見えてくる。
「どうしたの、大丈夫? 怪我はない?」
「大丈夫大丈夫、ちょっと腰が抜けちゃって」
清少納言は小兵衛に手を貸して、彼女を立ち上がらせた。
「私がついていながら、申し訳ない」
実方の言うには、彼らも丁度、南殿の鬼の話をしていたらしい。その時、突然紙燭の火が消えたものだから、すわ鬼が出たかと仰天し、小兵衛が悲鳴をあげてしまったということだった。
蓋を開けてみれば、なんとも人騒がせな話である。彼女の悲鳴は随分と遠くまで響いたようで、南庭を警護していた滝口武者が駆けつけてくる始末だった。とはいえ彼らの手にした松明のおかげで暗闇から解放されたのは怪我の功名と言えたのだが。
「どうした、何か出たか」
武者たちにわずかに遅れて、斉信とおもとも現れる。この分だと、凝花舎まで声が届いているかもしれない。早く定子に何事もなかったことを伝えなければと清少納言は気がせくが、小兵衛の腰は未だ定まらず、彼女が肩を貸して立っているのがやっとだった。
「ほう。風も吹かないのに灯りが消えたと」
武者の松明は紙燭などより遥かに明るい。実方から事情を聞いて、斉信が含み笑いを漏らす顔も赤々と照らし出された。
「やめなさいよ、こんな時に」
「なるほど灯を盗る南殿の鬼と言うわけか」
小兵衛の震えが肩越しに清少納言に伝わってくる。
「惜しいな実方殿、かの弁官のように鬼を討ちとれたかもしれぬのに」
構わず続ける斉信に、清少納言はつい声を荒げた。
「本当に鬼が出たらどうするの」
「何だ、昼間の話を信じたのか?」
「違うわ。暗き夜に鬼を語ることなかれ」
「…ああ、鬼を語れば怪至る、か」
まさにその言葉が合図となったかのように、辺りは再び暗黒に包まれた。
灯を盗られた。
慌てふためく声がする。明かりをつけろと誰かが怒鳴る。人の動く気配だけが闇の中から伝わってくる。
小兵衛の震えが伝わってきて、清少納言は安心させるように肩を抱く手に力を込めた。彼女の心臓も早鐘のように鳴って止まらない。やけに空気が湿っぽく感じられ、喘ぐように浅い呼吸を繰り返す。
不意に生温いものが清少納言の顔にかかった。引き攣れた叫び声が上がる。
思わず清少納言は目を閉じた。
瞼の裏も、また闇だ。その中を幻のように無数の文字の羅列が浮かんでは消えていく。和歌、漢詩、漢籍、物語、かつて目にしたあらゆる書が、様々に鈍い色を放ちながら乱舞する。その中に彼女は定子の歌を見た。桜色のその文字は、それとわかるとにわかに鮮やかな輝きを発し始め、視界を桜色に染め上げる。眩しい、いやこれは明かりだ。気づいた清少納言は目を見開いた。
提灯を下げた幼い女童が、いつの間にか清少納言たちの一間ほど先に立っている。その背後には、更にもう一人男が控えていた。
男は純白の狩衣をまとい、闇の中で照り輝いて見えた。立烏帽子からわずかにのぞく髪も真っ白だが、顔に目立った皺はなく、年齢が読めない。更に顔立ち自体、男とも女ともつかず、切れ長の瞳はどこか狐を思わせた。
その瞳が地面の一点を見つめていた。
気づくと斉信たちも皆、地面を見下ろしている。不思議に思って清少納言も視線を追うと、そこには男が倒れていた。
滝口の武者が、袈裟懸けに引き裂かれ、自らの血の海に身を沈めている。確かめるまでもなく、事切れているのがわかった。
あまりのことに誰も言葉を発することができていない。不思議なほど静かだ。
「参じるのが遅くなってしまったようですね」
ただ男の声が低く深く響く。
この男は一体何者なのか。清少納言の疑問に答えを与えたのは斉信だった。
「晴明、これはやはり、鬼の?」
「はい。間違いなく。宮中に鬼が紛れております」
陰陽師、安倍晴明、その人だった。
清少納言は眩暈がした。今日は多くのことがありすぎた。女房の襲われた噂話から、庚申待、歌会、肝試し、そして鬼の出現と陰陽師まで、なんと長い一日であることか。
だが、それがまだ始まりにすぎないことに、彼女は気づいていなかった。自らも鬼と疑われ、あるいは他の誰かを鬼と疑ってかからねばならぬ日が来ようとは、この時の彼女は知る由もなかったのである。
清少納言は空を見上げた。暗雲はまだ月を隠し、まるで宮中に覆い被さっているようですらある。朝日を恋しく思っても、夜明けがいつになるか杳として知れなかった。
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