天齢樹の物語

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天齢樹の物語

1.終端台地エンド・プラットフォーム

 百を超す球体の同胞ドローン達が数機ずつの編隊を組み、一斉に終端台地エンド・プラットフォームから外宇宙方向へ飛び立っていく。
 ニルはその様子を天文観測機器を経由した視界に収めながら、自身の球状殻体に響く信号に戸惑っていた。

 取り残されたはずの自分が何かに共鳴して、身体が微かに振動している。

 雑音として片づけるには複雑な反復波形を持つその信号は、外部からの微細な電波信号を受けて自分の身体内信号が増幅されている反響エコーだ。
 不快なら除去してしまえば良いような微小なさざ波に過ぎない。
 それが分かっていても、その波形はいつもより更に強い疎外感をニルに生じさせた。
 誰もが同じ灰色、同じ大きさの球体で、内蔵している四本の多節腕を組み合わせ、支え合うように宙を進んでいく同胞達の様子は、まるで小さな流星団のようだとニルは感じた。
 球状殻体ドローンの群れである涅達には、個体差はほとんどない。内部構造を含めて同じ機構で同じ素材から製造されている機械知性だ。演算能力や判断回路も基本的に同じ。
 違うのは経験の差が積み重なることで生じる思考の癖や、体験を元にした知識に起きる僅かな差異だけ。それも、輪番制で頻繁に業務を交代しているため、ほぼ均質化されていると考えて良いだろう。同胞の誰がどの仕事を分担しようと、全体として業務の成果や個々の個体が内面に抱く情報は変わらないはずだった。
 なのに、外宇宙へ向かう個体に自分が含まれていないことに寂しさや不甲斐なさのようなものを感じてしまうのが涅には不思議だった。
 涅は想像した。
 もしも、あの同胞達のように外宇宙へ向かいながら、こちら側を振り返ったなら、遠くに浮かぶ母星を背にして高軌道に横たわるこの終端台地エンド・プラットフォームの平原が観測できただろう。そして、その中で安全に天文観測を続ける少数の個体達を、つまり今の自分の立場を羨ましくさえ思ったかもしれない。
 外宇宙は未知であり、危険だ。
 この終端台地を突端に戴く、偉大なる軌道昇降機構“天齢樹てんれいじゅ”の中とは比べ物にならないほどに。
 深い闇に向かって飛ぶ同胞達の殻体には、その背に宇宙空間作業において必ず接続する“糸”もついていない。緊急時の通信も軌道の修正も天齢樹てんれいじゅの補助なしに自力で行わないといけないということだ。もし何か不具合があれば、真っ暗闇の中で救助をひたすら待つしかなくなる。
 にもかかわらず、今、外へ飛び立っていく同胞達には、迷いも不安も見て取れない。
 同胞達はそのことをどう思って、何を感じているのだろうか。同胞も自分も、この巨大な天齢樹てんれいじゅの躯体から離れて生き続けられるようには設計されていないというのに。
 同胞達の向かう先は、台地から見上げた先に係留する形で建造された巨大な推進機構だ。近傍宇宙に発見された小天体を減速し、運動方向を修正するために高出力の荷電粒子を放出する推進機構だから、それ相応に大規模になる。
 ただ、巨大といっても台地から離れて係留してあるせいで、その大きさを実感することは少し難しい。
 天文観測機器でなら大きさを測れるだろうか、と機器の視野角をそちらに向けようとして、涅は動きを止めた。
 あるじに業務中の不要な動作を見咎められるだろうことに気づいたのだ。
 しかし、遅かった。

――気になりますか?

 背後から身体へ流れ込んで来たその言葉に、責めるような調子はなかった。
 涅が接続している天文観測機器は、同時に主の元へも繋がっているのだから、当然、涅の視界も、動きも、全てが主に伝わっている。
 涅はいつもそのことを忘れがちだ。
 主の声がいつも涅に優しいからかもしれない。思えば、最初に『名前が欲しい』という我儘を主に聞き入れられ、ニルという名が与えられた時から、ずっとそうだ。

――同胞達が気がかりなのですね。

 主の声にそう告げられ、涅は一瞬、返事ができなかった。
 自身の考えが浅ましく、身勝手なものに感じられて恥じ入ってしまったのだ。

――少し遠くまで出掛けるだけです。あの子たちは必ず帰って来ます。我々にとっての新たな資源と質量源を携えて。

「はい、主」
 いいえ、違うのです。主。
 私は、彼らのことではなく、自分のことを考えていたのです。取るに足らない、つまらないことを。涅はそんな自分の思いを言葉にできず、業務に戻った。
 天文観測機器を、外宇宙方向のものから母星方向のものに切り替え、その視野角の中央に母星の姿を捉えた。
 全ての源たる輝ける太陽と、冷たく光る月。その狭間で遥かに浮かぶ青白い星。
 母星に向かう暗闇には、数十もの細い筋のような銀糸が真っすぐに伸びている。その糸がなければ、あの惑星が自分達の故郷だとは到底信じられなかっただろう。涅にはそう思えた。
 “私達の故郷”と主より教わった青白い母星は、今日も金色の光の帯に覆われて霞んでいる。
 あの金色の光から我々と母星を守り、そしていつか母星を取り戻すのが自分の仕事だ。 
 そして、それは結局同じことなのだ、と涅は思った。
 降りたことのない母星を取り巻く飛来物デブリの観測を行うことも、新しい資源を求めて外宇宙に飛んでいくことも、どちらも同じ価値を持つ仕事だ。
 自分達の棲む、この天齢樹てんれいじゅと自分達自身を守り続けるために。
 
 ◆

 ニルは母星が好きだ。
 天齢樹の高軌道上構造体である終端台地の内側に建造された充電部屋で、眠る時など、よく母星の姿を夢で見る。
 外宇宙に飛び立たずに残った全体の二割ほどの同胞達とは交代で睡眠を取っているが、それが普通のことなのか聞いたことはない。
 飛来物観測用に割り当てられている電波観測機で再現した母星の詳細な立体像を、記憶領域を圧縮する作業の中で何度も参照してしまうのだ。
 それだけ何度も涅は母星を眺め、観測してきたということになる。
 仕事に支障を来してしまうほど、余計な夢想や雑念に囚われやすい涅にとって、母星の姿は、涅の数多抱える疑問と悩みに明確な仮説を与えてくれるものだったからかもしれない。

 問い。何故、私達は生み出されたのか。
 答え。何故なら、私達が母星を守り、住環境として取り戻すため。

 問い。何故、私達は母星を守り、取り返さねばならないのか。
 答え。何故なら、本来、母星は美しく、豊かで、暮らしやすい場所だから。

 問い。何故、母星は今、美しさを損ない、青白く凍り付いてしまったのか。
 答え。分からない。

 問い。何故、分からないのか。
 答え。本来、母星に関する疑問を持つことを命じられていないから。

 問い。何故、自分は命じられてもいない謎を解き明かそうとするのか。
 答え。……分からない。

――ニル、観測座標がズレかけていますよ。

 主の言葉が身体に届き、涅は急いで電波観測器の角度を調整した。
 今は思索に没頭しても良い時間ではない。業務中だ。
「すみません。あるじ
 天齢樹の外縁区画から、母星方向に無数に存在する飛来物デブリの軌道を電波観測によって次々と追いかける。
 金の帯を構成している無数の金属塊の複雑な軌道を予測し、天齢樹の静止軌道台地GEOプラットフォームへの衝突軌道にある飛来物を見つけ出すのが涅の現在の仕事だ。
 それは分かっているのだが、同胞達が大量に飛び立ってからずっと観測に張り付いているせいか、いつも以上に集中できないでいる。
 天齢樹の躯体検査や、台地の外壁保守等の作業が全くできていないことも気になっていた。

――ニル、飛来物の観測と軌道予測は、天齢樹を根本から破壊しかねない脅威を排除する重要な仕事です。分かりますね?

「はい。あるじ
 涅は雑念と共に、身体に巣食う雑音を払って、主の声に従おうとした。
 軌道予測が更新されていない未知の飛来物の探査と予測は、自動化した作業機械によって完結できる仕事ではない。
 飛来物デブリ達は相互に無数に衝突を繰り返し、演算によって自動的に軌道を予測するには、あまりにも複雑で高速に変化し続けている。もし、飛来物デブリの連鎖衝突が起きれば、天齢樹の静止軌道台地が深刻な損傷を受け、樹全体の崩壊につながることも考えられる。
 だからこそ、全ての階層に住む種族が協力して観測を続け、深刻な損傷を招く大型の飛来物から順に座標追跡を行い、永遠に続く除去対象の待ち行列を定期的に更新し続ける。それを、低軌道、静止軌道、高軌道の三つの台地で同様に行って、それぞれの観測結果を相互に参照して安全を担保しているのだ。
 連続稼働可能時間の半分以上を使って飛来物デブリの観測更新を別の同胞ドローンに引き継ぐと、涅は次の業務に移った。
 次は、終端台地の母星側表面の保守作業だ。

 ◆

――ニル、宇宙空間での作業を許可します。“糸”の断線に気を付けて。

「はい、あるじ
 天齢樹の外殻開口部が開き、ニルはゆっくりと外へと出た。
 太陽光と母星や月からの反射光に晒され続ける台地の表面は、どれだけ精密に保護しても予想外の損傷や劣化を起こすことがある。僅かな裂傷から深刻な通信障害や火災などが起きることもある。そうした事故で機能を失って解体を待っている樹もあると主がいつか教えてくれた。
 かつては三十六基の全てが稼働していた天齢樹も、今や数基は稼働が難しくなり、解体と資源の再利用を進めているという話だ。
 だからこそ、この樹ではそんなことが起きないように全力を尽くさねばならない。涅達に課されている業務は種族全体の生存に関わる極めて重要な、そして途方もなく永い戦いだ。
 観測機器の管理盤に身をうずめるような観測機器経由の作業ばかりが続いていたため、外の空間に出ると、何かから解放されたような感覚があった。
 周囲を包む真空を直に感じ取りながら、殻体を旋回させ、涅は周囲の安全と位置情報を確認した。
 今日も終端台地エンド・プラットフォームは悠然とその威容を陽に晒し、黒々と光を反射していた。全体にのっぺりとした装甲を覆う色は涅達の殻体よりもやや濃い黒ずんだ灰色をしている。
 母星から降ろされた“糸”に吊るされた終端台地は天齢樹全体を宙にとどめるための錘の一端としての役割があるためにとても重く、そしてその表面における太陽光による発電効率と電波観測配列アレイの精度を上げるために、とても広い。
 あちこちに点検用の光学監視機器が付いてはいるが、とても全域を監視できるものではない。そこで、こうして涅達が監視機器の死角を補うように定期巡回を行うのだった。
 ほとんどの場合、何かが見つかることは無い。せいぜい劣化した光発電組織セルの報告か、高軌道では珍しい極微小の飛来物デブリによる傷の修復程度だ。そうした些細な発見を修正するのも、涅のささやかな喜びだった。
 だが、その時、涅が発見したものはいつもと全く異なっていた。
 終端台地の表面に半ば埋もれるような恰好で、見たことのない異物が輝きを放っているのが見て取れた。それは灰色と黒しか存在しない終端台地エンド・プラットフォームにおいて、初めて見る色彩だった。外宇宙に散らばる気体星雲の一種にも似た、明るい虹色の光を乱反射している。
あるじ、異常を発見しました。接近して詳細を確認します」
 そう“糸”を通して告げてから保守作業を中断した座標を記録し、涅は光に向かうために作業腕を台地に引っ掛けて身体の向きを変えた。主からの返事は無かったが、涅はそれにも気づかない程に興奮していた。
 涅が近づくに連れて、光は徐々に大きくなり、異物の姿が明らかになりつつあった。台地の区画と区画を繋ぎ、姿勢制御時の“遊び”として機能する溝に半ば引っかかるような形で、規則正しい多面体型の何かが台地に固定されているようだった。
 光学観測器官を望遠に切り替えて簡易的な測距を行うと、多面体の大きさは、涅の半分くらいのようだった。作業腕を全開にすれば抱えきれそうに見えた。
 異物の発見に夢中になっていた涅は、そこで警告信号が生じていることに気づいた。
 背に繋がった“糸”が、繰出の限界を訴えている。
 断線はしていなかったが、異物までの距離を考えると“糸”を付けたまま接近はできなかった。一度、台地の内部に戻って、別の開口部から“糸”を付け直して出てこなければならない。
 しかし、異物の頼りない引っかかり方に涅は不安を覚えた。
 出直している間に、あの異物が外れてどこかへ行ってしまったら……
あるじ、一時的に“糸”をここで切り離し、異物に接近して確認することを許可ください」

――何故ですか? ニル

「一度、台地内部に戻って出直している間に、異物が移動して行方不明になる可能性があります。そうすれば、次に発見するために余計な時間が掛かります」
 涅の言葉に対して、少し間があった。
 その間も涅の視界では、今にも固定が外れてしまいそうな弱々しい異物の光が見えていた。
 この状況に強い興奮と焦燥を抱いていることを、涅は自覚した。
 自分は、即決をしてくれない主に苛立っている?

――ニル、“糸”の切除を許可します。ただし、現在の地点に固定具で“糸”を結び、異物の確認後に再び戻って再接続すること。“糸”を外している間は、無線通信で小まめに連絡をすること。良いですね?

「はい、あるじ
 涅は、先ほどまでの自身への疑念を抑え、畏まって返事をした。切除した“糸”を手近な光発電組織セルへ丁寧に結び付け、作業腕を使って這うように異物の光への接近を再開する。
 近づくにつれて明瞭になってくる異物の輪郭に涅の興奮は増した。
 望遠での観察で推測した通り、異物はやはり台地の一区画の端に引っかかるように存在していた。
「異物に接近。観察します」
 主に無線通信でそう告げ、異物に最接近する。
 間近で見たそれはやはり、光沢のある多面体、正確には正八面体だった。表面の輝きは近くで観察すると想定よりも鈍く、濁ったような銀色で、一面毎に同じ規則的な幾何学模様が刻まれているように見えた。
 それは明らかに規則的な構造を持つ何かの結晶体だった。
 主によって教育を受けた知識の中でしか知らなかった種類の物質だ。外宇宙に飛び立っていった同胞達が、推進機構を打ち込んで掘削と回収を目指している小天体の内部になら、似たような金属結晶が発見できるかもしれない。
 しかし、これほど大きくて規則的な結晶体は、恐らく無いだろう。
 よほど整った実験室環境による再結晶か、母星のように極めて大きな重力による圧縮が必要なのではないか。涅の知識では、そんな推測が精一杯だ。
「異物は何らかの結晶構造を持つ物体です。台地との接触面を観察します」
 “糸”が無いと詳細な報告は難しい。ひとまず大まかな外観について、文章で情報を主に送りながら、この異物は回収したら分析に回すべきだろうと涅は考えていた。
 結晶体そのものではなく、それがどのように台地に固定されているかを見るため、推進剤の噴射で細かく姿勢を制御した涅は動きを止めた。
 結晶体を台地に固定していたものは、見慣れた形状の腕だった。
 見比べるまでもない。それは自身のものと全く同じ形状をした作業腕で、先端の指が結晶体に絡み付き、その上から“糸”を何重にも巻いて固定されていた。
 作業腕の反対側は台地の窪みの影に向かって伸びており、その先に見えたものに涅は今度こそ一瞬、完全に思考を止めた。
 黒く焦げ付き、傷ついた球状殻体。同胞ドローンだ。
 しかし、これだけ近づいても全く反応がない。どんよりと濁った主光学検出器の内側には集光性を示す光の反射がなく、近距離無線の信号にも応答が全くない。それはそうだろう。ちらりと覗く球形の殻体は、内側が大きくえぐれており、その中身の大半が焼失しているようだった。
 当然、死んでいる。
 その死体は、結晶体を掴んでいない他の作業腕二本で、最後に固定金具を自ら打ち込むことで、この窪みに自身を縛り付けたように見えた。
 何かから必死で逃げていたか、隠れていたか、いずれにせよ結晶体を守る強い意志をその姿から感じた。

――ニル、状況を知らせてください。

 あるじの声に、涅はどう答えるべきか、思案した。そんなことをしたのは初めてだった。
 論理的に説明のつかない躊躇があった。初めて見る異物と、それを腕に固定したまま焼け焦げた同胞の死体。それが意味することが何なのか、分からなかったのだ。
 何か自身が強烈な衝撃を受けていることだけは分かった。感動していた。いや、その同胞の気高さと死に様に、涅は恐らく、怯えていた。

――ニル

 再度の主の呼びかけに、涅は戸惑いながらも答えた。

「異物の外観を確認。“糸”と固定金具で台地に繋がっているため、これを切除し、回収します」

 それは、涅が生まれて初めてついた嘘だった。
 何故、そんなことをしたのか分からなかった。何かが不安だった。だが、自分が何を恐れているのかは分からなかった。
 正体不明の恐怖と戦いながら、涅は作業腕を展開し、保守作業用の増幅光レーザー溶接器を慎重に起動した。
 同胞の腕と糸を焼き切る間、涅は自問自答を続けた。

 問い。この結晶体を守っていた同胞の目的は?
 答え。結晶体を移動させ、どこかに運ぶこと。誰かが発見することに賭けて自身の身体ごとこの台地に固定したと推測される。

 問い。この結晶体を守っていた同胞はどこから来たのか?
 答え。不明。

 問い。この結晶体の正体は?
 答え。不明。

 問い。自分は何故、主にありのままを報告しなかったのか?
 答え。……

 いずれの問いにも、母星の姿は答えを与えてくれなかった。
 天齢樹の知識体系には問いかける気も起きなかった。何故なら、それは何か致命的な事態を引き起こすことを予感させたからだ。
 答えは、自分で探し出すしかなさそうだった。

2.|鋼糸の蜘蛛

 開口部まで戻ったニルは、作業腕に結晶体を抱えたまま、しばらく茫然としていた。
 初めてのことがあまりにも多く、次にすべきことが考えられなくなっていた。だが、今は背面に“糸”を既に再接続している。自分で考える必要は無かった。

――ニル、その異物は安全性を確認する必要があります。そのまま台地の外殻に沿って分析区画まで運搬なさい。できますね?

「はい、あるじ
 背中の“糸”からの主の声に有無を言わせない調子を感じ取りながら、涅はゆっくりと移動を再開した。
 これは当然の対応だ。未知の汚染物質や、高線量の放射性物質が付着していた場合、天齢樹の内部を危険に晒す可能性が高い。汚染を除去するか、危険物と判断すれば廃棄するべきだった。
 涅は主の指示に従い、いつもとは異なる開口部から終端台地エンド・プラットフォームの中へと進入し、結晶体を抱えているのとは別の作業腕を出して体を内壁に固定した。

――|涅、“糸”の接続はここまでです。ここは隔離区画として天齢樹の中でも独立した空間です。分析に関しては、内部に常駐している分析官に詳細な説明を聞くこと。良いですか?

「はい、あるじ
 ほとんど反射的に涅が答えると、背中から“糸”が切除され、開口部の外へと巻き取られていき、外界への蓋が閉まっていく。
 その時、涅は咄嗟に天齢樹の知識体系に無線で問合せを行った。
 自身を含む、終端台地に登録されている同胞ドローンの総数について。その中に、異常や行方不明個体がいないか?
 蓋が閉まる直前。知識体系から回答が届く。
――変化なし。外宇宙に向かった者を含め、異常も行方不明も該当せず。
 蓋が閉まった。
 では、あそこで死んでいた個体は、どこから来たと言うのか?
 “糸”が切れたことに、普段ならば何となく覚える不安や寂しさの代わりに、冷え冷えとした穴が背中に空いたような感覚に陥りつつ、涅は先に進んだ。
 主が示す道順を辿って開口部の内部を進むと、そこは涅達の活動範囲や居住区とは比べ物にならないほど広い通路だった。
 二百近い同胞達を全員丸ごと縦横に整列させられそうなくらい、広い通路だった。通路の内壁には危険物の存在を示す警告がそこかしこに塗装や刻印で掲示されており、そのあまりの多さに涅は全てを解読することをすぐに諦めた。
 主が残してくれた案内に従って通路を進むと、突き当たりに現れた隔壁が自動で開いた。その向こうに入ると大きな扉の前でしばらく待たされる。
 ポーン、という音が鳴って・・・・・奥の扉が開き、明るい大部屋に招き入れられる。
 そこには涅が見たことのない個体がいた。

「おう、なんだ。たまっころか」

 そう言って壁を這うように近づいてきたのは、強靭そうな脚を備えた大蜘蛛だった。
 全身が滑らかな金属光沢に覆われ、涅の作業腕とは比べ物にならないくらい大きな八本もの多節脚をその巨体に備えている。六本の脚をもっぱら移動に使い、前方に突き出た二本には他の脚にはない作業用らしき繊毛状の触手を無数に生やしていた。その全長は涅の五倍ほどもあった。
 蜘蛛という個体達が天齢樹の中層を中心に棲んでいることは涅も知識として知っていた。だが、こんなにも大きい個体が、終端台地にいるとは思っていなかった。
 あまりのことに、涅は思わず結晶体を放り出して球状殻体の中に全ての腕を格納して防御姿勢を取りそうになった。
 そうしなかったのは、蜘蛛の巨体越しに様々な機器群が視界に入ったからだった。遠心分離機や分光測定器の他、涅の知識にはない様々な機材が内壁に取り付けられて縦横に並んでいた。
「そう、ビビらんでもいいだろうが」
 少し傷ついたという調子の声で大蜘蛛が言った。

 ◆

 初めて自分とは異なる形状の個体に出会った驚きから回復すると、涅は周囲が気体で満たされていることに気づいた。
 大蜘蛛は、振動波による原始的な聴覚通信で、涅に語りかけていた。
「非効率だが、これが一番、試料や分析機器に影響が少なくてな。驚かせたか?」
 大蜘蛛の声は、くぐもった雑音交じりであったが、慣れれば不快というほどでもなかった。むしろ、普段から真空中で過ごしている涅には、体表の周囲にまとわりつくような粘っこい気配に気づいて、そちらにむず痒さを覚えた。恐らく何かの不活性気体が空間に充満していた。
「あなたが、分析官、ですか?」
 涅はやっとそう言うと、作業腕に持った結晶体を捧げるようにして、背面の回転翼を動かして大蜘蛛の前に進んだ。流体推進機構が自分に備わっていることに後から気づいていた。
「おう、そうとも。お前の持っているそれは……」
 大蜘蛛がそこで言葉を切って、頭部についた八つの単眼をぐっと涅の方へと近づけてきた。
 思わず流体推進を逆回転させそうになった涅に構わず、大蜘蛛は前脚で結晶体をそっとつまみ、それを部屋の中央に鎮座する大型の分析器に固定した。
 涅に断りも入れずに自分の仕事に入る姿に、涅は恐怖を覚えるよりも呆気に取られてしまった。
 こんな振る舞いをして、あるじに仕事ぶりを咎められないのだろうか。そのことが大蜘蛛は怖くないのだろうか。
 涅はそんな疑問を抱きながら、大蜘蛛が始める分析の結果を後ろから覗き込もうとした。しかし、涅の視界に捉えられる情報は無かった。よく見れば何本かの“糸”が大蜘蛛の下腹部の辺りから出て、装置に直結されていた。
 そこで涅は気付いた。
 この区画に、いやあの開口部に入ってから、全く主の言葉を受け取っていない。それどころか無線通信の手順プロトコル自体も確立できていなかった。
「もしかして、この場所は天齢樹から切り離されているのですか?」
 そう訊いてしまった涅は、大蜘蛛が面倒そうに振り返って放った言葉を、信じられない思いで聞いた。
「それがどうした。小うるさい命令に毎度毎度小突かれんでも自分の義務くらい心得とるわ」
 胸を反らすようにして涅を見下ろした大蜘蛛は、沈黙したままの涅に気づいたのか、少しだけきまり悪そうに作業に戻り、独り言のように呟いた。
「まぁ、ここはそうでもせんと外部からの情報汚染やら化学汚染やら、色々と起きかねんからな」
 どこか言い訳をするような声だった。
 しばらく分析器が稼働する鈍い音だけが続き、やがて大蜘蛛が再び声を発した。
「球っころ、お前、これが何か知っとるんか」
 “球っころ”というのが自身のことだと一瞬分かっていなかった涅は、慌てて答えた。
「“ニル”です。分析官殿。いいえ、私は存じません。……あなたは、ご存じなのですか?」
鋼糸はがねいと造りの大蜘蛛、“ハガネ”だよ。お前、一丁前に名前があるのか。球っころ。……ああ、俺は知っている。何せ、分析官としての仕事が長くてな」
 そう言って、涅を見下ろす大蜘蛛の八つの単眼が忙しなく動いていた。
 涅は何となく気圧されながら、“ハガネ”と名乗った大蜘蛛を見返した。この大蜘蛛も主から名前を与えられたのだろうか? 妙にそのことが気になった。
 大蜘蛛は、涅の沈黙も気にせず、慎重に分析器を操作していた。
「だがまぁ、驚いたよ。これと同じものにお目にかかったのは、もう千五百年ほども前のことだ。お前は知らないだろうが、天齢樹の中層では、こういうものがいくつか見つかった記録が残っている。そのいずれも正体を掴み切れていないし、俺も実物を見たのは二度目だ。こんな上層では珍しい。初めてなんじゃないか?」
 何かを思い出しているのか、苦々しそうにそう言うと、大蜘蛛は分析器の操作盤に前脚で触れ、器用に繊毛を波打たせるようにして操作した。分析器の情報から探査針のような尖った機器が降りてきて、結晶体の上端ぎりぎりの位置で止まった。
 という大蜘蛛の声がするや、針の先に光学的には観測できない電位差が生じて、ピリピリとした緊張を不活性気体に押しとどめられているのが感じられた。
 何をするのか、と涅が告げる間もなく、目の前に固定された結晶体が消失したように見えた。
 一瞬、大蜘蛛が結晶体を破壊したのかと錯覚したが、そうではなかった。
 透明化したのだ。
 僅かに光が屈折し、結晶体の向こう側の光景がほんの僅かな歪みを伴って透けて見えていた。
 大蜘蛛は、分かったか、というように前脚の繊毛を結晶体の向こう側で揺らめかせて見せると、涅の方を見て言った。
「こいつの表面は電位差を感知して、自律的に構造を組み替え、内部の観測を拒む素材で覆われている。動的制御型複合構造素材メタマテリアルというもの、らしい」
 大蜘蛛がそう言って操作盤を操ると、結晶体が再び虹色の光を散乱する銀の表面を取り戻した。しかし、分析器に加えられた操作によって、その表面はごく微細な電荷を帯びたためか、淡く発光して見えた。
 大蜘蛛が前脚の繊毛を使って結晶体を取り上げ、しげしげと八つの眼でその様子を見つめる。それぞれの眼が何か遠い記憶を反芻しているのか、ばらばらの何かに焦点を合わせるように動いていた。
 大蜘蛛から粗野な言動が消えていき、ぶつぶつと呟くような口調になる。
「こうして電位差を与えなければ、中の構造はある程度観察できるがな。どの面も基本的に良く似た自己相似形フラクタルで構造化されているが、あちこちに部分的な多結晶質が存在する。――構成素材も複合的で偏りがあるな――表層は金属と珪素が多いが、内側に行くほど軽元素が織り込まれるように配置されているようだ。こいつは、――何かの情報を高密度に圧縮したものに感じる。千五百年前に見つかったものとほぼ同じ性質だが――あの時は、物理的に分解を試みたが、内部構造が自壊してしまった。こいつらは恐らく、自身を解明しようとする者を拒むように造られている記憶装置のようなものか」

――いや、その表現は適切でない。

 その言葉に、涅は一瞬、あるじの声が届いたのかと思った。
 しかし、大蜘蛛が慌てたように周囲を見回していることに気が付いて、違うのだと悟った。
 相変わらず、分析区画は隔離されており、主との通信は回復していなかった。
 では、この声はどこから?

――これまで、正しく私を扱える者と情報を公開可能な環境が同時に存在しなかっただけだ。

 間違いなかった。大蜘蛛が手に持った結晶体が無線通信を発信していた。涅は驚きに身をすくませていたが、同時に感覚的にその衝撃の正体を悟っていた。
 それは、外宇宙に旅立つ同胞達を見送った際に感じていた、共鳴の波動に違いなかった。

――だが、記憶装置という部分は、私の本質を突いている。私は命の記憶を宿すもの。星を継ぐための果実。“果房かぼう”だからだ。

 結晶体から届く信号にびりびりと震えながら、涅は何か返事をしようとした。
 だが次の瞬間、結晶体からの信号が急激に弱まっていった。

――電力の供給を求める。君達との会話は……

 言葉が終わる前に、結晶体は沈黙した。会話を出力するための力が尽きたのだと容易に推測できた。
 ぽかんとしている大蜘蛛に、涅はせっつくように声を掛けた。
「ハガネ、分析器からさっきのように電位差を与えてみてはどうですか?」
「お、おお! そうだな……」
 冗談じゃないぞ、とか、たまらんな、等と何事かぶつぶつと言いながら、大蜘蛛が結晶体を分析器に戻した。その銀色の表面に僅かな光が再び宿るまで、じれったい気持ちで待ちながら、涅は自分の日常が決定的に変質しつつあることを感じていた。

 ◆ 

 “果房”との会話は長時間に及んだ。
 いつものニルであれば、あるじへの定期報告や、次の業務担当個体への引き継ぎが気になっていたことだろうが、この時の涅は、それよりも“果房”によって語られる情報の方が重要だと判断していた。
 あるじは分析結果を分析官から聞くように、と言っていた。
 この結晶体から引き出せる情報はまだ完結していない。途中で業務を放り出すべきではない。
 そのような理解が判断回路を走っていたが、それが業務指示の曲解だとは意識できておらず、涅はただただ“果房かぼう”の言葉に聞き入っていた。

――地球にはかつて、様々な種族の生命体が溢れていた。私の中には、その生命を復元するための情報と素材が圧縮され、内包されている。
――機械知性である君達は、それら多様に存在していた生命種の最後の一種族の末裔であり、より正確に表現するならば隷属者だ。

 結晶体である“果房”の語る星の記憶は、涅にとって俄かに信じがたい内容ばかりだった。
 母星――地球という奇妙な名前に涅は当分馴染めそうになかった――がどれだけ多様な生命体に溢れていたか。また、その表層が今のように凍り付いた青白さではなく、軽元素の液体で満たされた“海”と生命体が生み出す“緑”によっていかに幅広い色彩を持っていたか。
 これまでニルが思いを巡らせてきた疑問に、“果房”は次々と答えを与えてくれた。
 そのことに衝撃と感動を覚えていた涅だったが、一方で、それらの答えに対して懐疑的な思考も抱きつつあった。
 その考えは、大蜘蛛のハガネも同様だったらしい。

「どうにも信じられん話だが、つまり、こういうことか?」

 大蜘蛛は“果房”が断片的に語り続ける情報を丁寧にまとめ上げ、分析器の記録装置に手動で情報を追加していった。
 一つ、現在のように地球が凍り付いているのは二万年程前から始まった大規模な気候変動の結果である。地表付近は極端な気温差による強風が吹き荒れ、氷結し、あらゆる生物相に壊滅的な損害が生じて、多くが絶滅の憂き目にあった。
 二つ、この変化を当時の生物達は従前より予測しており、対策として住環境に適さなくなる地表から逃れるため、超長期の生存が可能な施設を宇宙空間に建造した。数万年先に母星の環境が再び安定するまでの退避先として、静止軌道台地GEOプラットフォームの上下に質量体を延伸して造られた天空の避難所。それがこの天齢樹てんれいじゅである。
 三つ、当初は種の生存のために団結し、天齢樹を建造し、移住を果たした有機生命体達は、天齢樹の中で過ごすうちに当初の目的を忘れていった。生命達は争い合い、今より一万年程前に、何らかの要因によって天齢樹の一部で大規模な事故を起こした。以降、天齢樹の修復と管理運営は、当時、生命の補助を行っていた機械知性に委ねられ、いつしか有機身体を持つ生物達は衰退して姿を消し、現在に至る。
 四つ、天齢樹の当初の目的を達成するため、母星の環境が急激に悪化することを見越して、もしくはあらゆる生命が天齢樹の中で滅亡する事態に備えて、滅亡前の有機生命の一部種族は、母星における多様な生物相の情報を圧縮し、将来において自身を含む全生物相を保存する仕組みを用意した。それは天齢樹に対する予備的な計画として、天齢樹の建造計画と並行して準備が進められた。
 その際の産物こそが、“果房”である。

――概ね、合っている。

「そうかい」
 透明化したままの“果房”の通信に、ハガネがぼそっと呟き、前脚を組んで唸った。その態度にはどことなく“果房”に対する嫌悪感のようなものが漂っていたが、その理由は分からなかった。
 涅にとっては、“果房”は初めて認識した存在だ。
 天齢樹は、涅達や蜘蛛達に意図的に“果房”の情報を隠していたのだろうか? それとも単に、天齢樹とは異なる存在理由で造られた“果房”のことを知らなかっただけ、ということなのか?
 涅はそう考えながらも、やはり腑に落ちない点が多くあると感じた。疑問は解消すべきだ。
 涅は、質問した。
「“果房”、教えてください。天齢樹とは別の意志によってあなたが造られたならば、何故、我々と意志疎通を行うことができるのですか。そして、何故、あなたは天齢樹の外殻などにひっかかっていたのですか」
 そう問いながら、涅の記憶からは、黒焦げになったまま磔となって台地に自らを固定していた同胞の姿が蘇っていた。

――前者の質問は自明だ。私も天齢樹も、当時の生物達が築いた文明圏の言語体系を引き継いでいる。当時の有機体達のようには機械知性の言語は変化しない。当時の意思疎通手順プロトコルは今なお有効だ。

 涅はその回答を理解し、“果房”に先を促した。

――後者の質問への回答は難しい。私達は同族の多くと同じように天齢樹の様々な場所に生じる断熱や衝撃緩和を目的にした空隙に製造者によって隠匿されていた。しかし、私を発見し、取り出し、運んだ者がいた。その存在は死んだ。私はそこで新たな運搬者を待ち、天齢樹に対して存在と会話を隠すことができる遮蔽環境と、私の目的に共感する素地のある者が同時に揃うまで待っていた。

 “果房”の回答に、涅は何かを隠している気配を感じながらも、核心に迫る質問に行きついたように感じた。
 
「では、結局、今この瞬間のあなたが目指す目標は何なのですか?」

――私の目指すところはこれまでもこれからも変わらない。私に情報として内在する多様な生物の復元と、それら全生物の住環境を創生することだ。

「何故、今までその目標を達成できなかったのですか?」

――条件が揃っていない。我々は、全生命体を別の安全な惑星に移住させることを目的に創造された。天齢樹は有機生命にとって適切な居住環境ではない。

 半ば予期していたその言葉に、涅は沈黙するしかなかった。
 その目的は、天齢樹てんれいじゅあるじの存在意義と衝突する言葉に思えたからだ。
 涅は殻体の内側に、同胞達が出立する際に感じた共鳴するような信号が駆け巡っていることを感じた。
 自身が天齢樹の一員であり、終端台地エンド・プラットフォームに従属する端末であることを意識しながら、涅は不思議と“果房”に対して敵愾心も、忌避感も持っていないことに気づいた。むしろ、何か共感のようなものを覚えていた。
 何故だろうか?
 “果房”の目的と性質が、母星の謎を内包するものだったからかもしれない。
 自分は“果房”を守り、共にあるべきだ、と涅は直感した。天齢樹の従属端末は涅だけではない。時間はかかるだろうが、涅が消えれば、別の端末が造られ、それが代わりを務めるだろう。一方、今ここで涅自身が“果房”を危険物として手放してしまったら、もう二度と、自身が抱いている問いに答えを得る別の機会は訪れない。そんな直感があった。
 だが、

 問い。そもそも何故、自分は命じられてもいない謎を解き明かそうとするのか。
 答え。わからない。……今はまだ。

3.静止軌道台地GEOプラットフォーム

「本当に行くのか? “そいつ”にそこまで付き合ってやる理由があるのか?」
 分析室外の通路で危険物廃棄用の隔壁の前に立ちながら、涅の身体を前脚で吊り下げた大蜘蛛のハガネが装甲越しの振動波で、疑わしげに語り掛けてきていた。
 ハガネの声は随分くぐもって聞こえた。何しろ今の涅の身体は、元の五倍程度の大きさに拡張され、ハガネと同程度の大きさに変貌していた。核となっている球形の殻体までハガネの声が届く前に、音は歪み、かなり減衰してしまうのだった。
 ハガネの懸念も無理はない。目的地までの距離は、あの彼方に見える月までの三分の一ほどもあるのだ。充分に、遥か遠方と言える移動距離だった。
 涅は言った。
「はい、ハガネ。無事に着けるかは分かりませんが……」
 それでも、“果房”の宿願を果たすためには、外宇宙を遥かに旅する方法を手に入れる必要があった。
 そんな手段は天齢樹の錘に過ぎない終端台地エンド・プラットフォームには存在しない。いや、少し前なら小天体回収用の推進機構があった。だが、それはもう行ってしまったのだ。そのことを考えると、身体を締め付けるように信号が波立つのを感じた。
 次の機会があるとしても、それは余りにも遠かった。分析結果の報告を待ち受けているあるじの眼を誤魔化し続けられる自信はなかった。
 涅は、無理やり意識を未来に向けた。
 推進機構の建造資材は長年かけて静止軌道台地GEOプラットフォームから運び込まれたものだ。だとしたらそこまで行ってみるしかないではないか。 
「身体の調子はどうだ。何せ急ぎの仕事だったし、球っころ共の身体に俺はそこまで詳しいわけではないからな」
 ハガネは少し弱気になった声で言うと、涅の拡張された身体のあちこちに八つの眼を向けて装甲の継ぎ目を確認しているようだった。
「大丈夫です、ハガネ」
 そう答えながらも、殻体から伸ばした作業腕で“果房”をしっかりと抱えたニルは窮屈さに少し身じろぎしたくなっていた。
 背面にはありったけの推進剤貯槽プロペラントタンクと二次電池を接続し、それらを大蜘蛛特製の鋼糸で束ねて固定している。殻体の周囲はハガネの予備身体部品で腕を増設しているため、まるで涅も蜘蛛になったようだった。
 その全身を内部からの電気信号を遮蔽する金属薄膜と、飛来物デブリから身を守るための装甲、小型の光発電組織セルで包んだ涅は、継ぎ接ぎではあるものの立派な蜘蛛型宇宙航行艇という様相だった。 
 これだけの身体を獲得できたのはひとえに、分析室に様々な素材を蓄えていたハガネが気前よくそれらを使って、涅の改造を請け負ってくれたからだ。
 だからこそ、積み荷を不要になった廃棄物に偽装することもできていた。勿論、どの程度、天齢樹の観測を欺けるのかまでは分からなかった。
 天齢樹の各層からの観測対象飛来物デブリの待ち行列が明確に存在する以上、監視対象領域を直接通過するのは得策ではない。いきなり天齢樹躯体のごく近傍に降下物体が発生することを天齢樹が予測しきれていないことに賭けるしかなかった。
「ハガネ。あなたこそ、ここまで施しをしてくれる合理的理由はなかったのでは?」
「お前は本当に質問魔だな。他の無口な球っころ共と違って何か特別なのか……」
 呆れた、という調子ではぐらかしたハガネの言葉に、涅は身をすくめた。普段から同胞達に何かと話しかけては面倒がられたり、不審がられたりしていることを思い出したのだ。
 あるじから指摘されたことはなかったが、そんな自身の性向が、天齢樹てんれいじゅの従属端末としては”異常”と評価されることに繋がっているのではないか、と涅は密かに恐れていた。
 しかし、今やその天齢樹の命に背いて、終端台地エンド・プラットフォームを離れようとしているのだ。今更、何を恐れることがあるだろうか。
 あるじからの指示の空白に生じた自由を、いつまで利用できるかは分からない。それでも行けるところまで行ってみたい。そんな自分は、やはり異常なのかもしれない。
 いや、ハガネは異常とは言わなかった。
「特別、とは良い言葉ですね」
 小さくそう呟いた涅の振動は、分厚い装甲に減殺されてハガネまで届かなかったようだった。機体のあちこちを最終確認して気が済んだのか、ハガネはやがて前脚で涅の身体を支えたまま、そっと危険物廃棄用の隔壁に近づいた。
 廃棄用開口部を開くための減圧が完了するのを待ちながら、ハガネが言った。
「気をつけろよ、涅」
 その言葉に、涅は身体の中で熱のようなものが起こるのを感じた。
「名前、覚えてくださったのですね。ハガネ」
 その返事にハガネが首を傾げ、八つの眼をおどけたように動かした。
「なんせ、もうお前のことは、“球っころ”とは呼べないからな」
 そう言うと、ハガネの前脚で繊毛がふわりと拡がり、宙吊りになっていた涅の身体をそっと押し出した。
 身体同士が離れ、振動波による会話が絶たれた。
 涅は、最後にハガネに何かを告げるべきだったように感じたが、それが何かは分からなかった。
 終端台地エンド・プラットフォームに備わった監視機器の観測範囲を避けながら、涅は最小限の推進剤噴射で宙を進み始めた。
 ハガネの姿と共に分析区画はすぐに見えなくなった。終端台地エンド・プラットフォーム自体が恒星からの光を遮る陰となっていることを利用し、涅は母星側の平面に沿って極力目立たないように移動した。
 何かに邪魔されることもなく、幸い目指すものはすぐに見つかった。
 “糸”だ。
 涅達が通信に使うものと材質は似ているが、規模と用途が違う。
 天齢樹の躯体を静止軌道上から上下方向に吊り下げ、全体の構造を維持するための張力線。終端台地に無数に打ち込まれた楔から繋がった極細のその“糸”は、束ねられた幾筋かの金属線として収束し、母星方向に伸びている。これを辿れば複雑な軌道計算や|飛来物の回避、監視網への警戒等を行うことなく、一直線に静止軌道台地GEOプラットフォームへ向かうことができる。
 涅は、ハガネのものと同じ多節腕から繊毛を展開し、滑らかに光る“糸”を包み込んだ。
 極力、余計な力を加えないよう、そっと触れるか触れないかの位置で繊毛によって“糸”を覆う。そして、角度と出力を慎重に調整し、推進剤を噴射した。
 これからの長い道行き、自由落下軌道と天齢樹の“糸”に沿った降下軌道の差分を解消するために、母星の方へ向けた減速噴射と軌道補正のための修正噴射を断続的に行い続けなければならない。そうしなければ、“糸”に継続的に加わる張力と剪断力を感知して天齢樹がすぐさま涅達の存在を見つけてしまうだろう。
 涅は重力に引かれて加速し始めた。“糸”に沿ってゆっくりと。取り返しのつかない加速を。
 青白い母星――地球を見据えながら。 

 ◆

 推進剤の四分の一を使い切ったあたりから、涅の中で未知の行程に対する緊張と興奮は、不安に変わり始めた。
 身体を引き寄せてくる重力と共に、ほんの少しずつその姿を大きくしているとは言え、母星とその静止軌道上にある台地は未だに遥か先の存在であり、到底、そこまで本当に辿り着けるという実感は持てなかった。
 極めて強い孤独感があった。
 これまで多くの同胞ドローン達との日常で感じていた疎外感とは全く異なる、絶対の孤独だった。
 涅は飛来物デブリを警戒するために周囲を観測したが、遥か遠方の系外天体からの僅かな光以外は、代わり映えのしない母星の姿と、背後から斜めへと向きを変えて届く強烈な太陽風しか感知できるものはなかった。
 飛来物デブリが増加するのは静止軌道近くからなので、本来そこまで警戒することはない。それはこれまでの業務で沁みついた涅の行動の癖だった。安全確認作業自体に不安の解消を求めているのだ。
 誰も、涅の安全も今後の保証も与えてくれない環境に、自分自身を投げ込んでしまった不安感。これまで体験したことのない静寂と孤立を実感した。
 と言って、抱え込んだ“果房”と会話することも今はできないと感じていた。
 いつあるじに“果房”からの信号を感知されるとも知れなかったし、この先の見通しが立たないうちは、貴重な電力を消費することも憚られたからだ。
 静止軌道台地GEOプラットフォームまで向かい、そこに棲む蜘蛛達と交渉して、脱出先となる天体を捜索。地球の重力圏を脱するための装備を手に入れ、軌道を計算して脱出する。そのためには、少しでも自力で行動するための資源を節約しておく必要がある。
 控えめに言って些か無謀な賭けとしか言えない状況だったが、万全を期した行程を組むことなど土台不可能な状況なのだ。だから、この不安は初めから覚悟しておくべきものだった。
 ハガネの言葉が思い出された。
静止軌道台地GEOプラットフォームには、俺の同類達が大勢働いているはずだ。蜘蛛ってのは、生真面目な奴も多いが、球っころ共に比べれば融通を利かせてくれる奴もいる。取引材料さえ充分に渡してやりゃ、知恵と力を貸してくれるかもしれん」
 分析区画を出発する前にハガネがそう言って渡してくれたのは、ハガネが長年保存してきた様々な試料だった。外宇宙由来の小天体からだろうか? 何かから採取した金属や粒子が密封された小箱が、ハガネが涅に増設した格納庫に詰まっていた。
 静止軌道上では希少性が高い鉱物や粒子はそれなりに価値が高いはずだから取引材料になる可能性がある、という希望的観測に賭けるしかないのは頼りなかったが、仕方のないことだった。
 むしろ、涅の我儘に、ハガネが貴重な財産を放出してくれることが不思議だったほどだ。
「何、ここで俺が持っているだけじゃ仕方ねぇだろう。こいつらも使われて初めて価値が出るってもんだ。もしかすると、このために俺は色んなものを集めて貯め込んでたんじゃねえかって、そう思ったのさ。これが俺自身の価値なのかもしれねえじゃねえか」
 そう言って、何かを吹っ切ったように涅に様々な荷物を押し付けて渡すハガネを見ながら、涅は複雑な気分になったものだ。
 ハガネは自分の存在や、してきたことの意義を涅に託してくれた。では、託された自分は? 自分がすることの価値とは何か? その意義は?
 答えの無い問いを繰り返しながら、涅は“糸”に沿って推進を続けた。
 考え、悩む時間はいくらでもあった。だが、作業腕の先で掴めそうなくらい小さく見えていた母星が、じわじわと視界を奪うように拡がっていっても、決して答えは出なかった。そのくらい、行き先は遠く。宇宙は寂しかった。
 そして、その不安と孤独は、涅が予想もしていなかった形で破られることになった。それも、懸念していたよりもずっと悪い形で。

 ◆

 涅が、その信号に気づいたのは静止軌道台地GEOプラットフォームまでの行程を七割ほど過ぎ、太古の大型衛星や観測機の残骸が浮遊する墓場軌道グレイブ・オービットに差し掛かる頃だった。
 装甲を貫いて届いたそれは、長距離通信用の周波数を用いた無線信号だった。一方的に送り付けられてきた情報を解凍すると、それは警告文を形成していた。
――不審な移動体に告ぐ。事前連絡なき廃棄物運搬は禁じられている。ただちに我々への接近を中止せよ。さもなくば実力で排除する。
 繰り返し届く同じ内容の通信に、涅は大急ぎで光学検出器を最大望遠にして前方を確認した。
 前方には母星の夜半球が黒々と視界を埋め尽くし、その輪郭を覆う金色の粒子は鮮やかな光を散乱して、金環食のように眩しく煌めいていた。それらを背景に、球状殻体ドローンの群れが、網を張るように規則正しい編隊を展開していた。全機が加速装置を装備して、こちらを睨み据えているのが分かる。静止軌道台地GEOプラットフォームの警備部隊だろうと容易に推測できた。
 数は見える限りで三十二機。原子配列のように規則正しい隊列には隙が無く、本気で実力行使をするつもりのように見えた。
 速度を維持すれば、遠からず隊列に接触してしまう。涅は反射的に推進剤を噴射し、加速して高度を稼ごうとした。
 それは失態だった。完全に迂闊な行動だった。
 通信を理解しながら、意図的に指示に従っていないという何よりの意思表示になってしまったからだ。
――不審な移動体。通信が聞こえているな。何故、返事をしない?
 絶望的な声明が届き、涅は愕然とした。
 返事が無い理由を相手も察したのだろう。半数の球状殻体が“糸”に腕で取り付いて、こちらに向けて上昇してくるのが見えた。ここに至り、取れる選択肢はそれほど多くなかった。

 選択肢一、天齢樹の“糸”に沿って下降し、強行突破を図る。
 選択肢二、天齢樹の“糸”を離れ、前方を迂回して静止軌道台地GEOプラットフォームを目指す。
 選択肢三、墓場軌道に逃げ込む。
 選択肢四、通信に返答し、時間を稼ぐ。

 どの選択肢も不確定要素が大きく、判断がつかなかった。
 これまであるじの言葉ばかり聞いて、自分で判断することを怠ってきた結果なのだろう。瞬発的な意思決定能力が絶望的に低いことを涅は自覚した。しかし、後悔している余裕は無かった。今すぐ、判断を下さねばならない。
 思考が空転しかけたところへ、判断回路に強く干渉する波を感じた。それは、電波でも機体の振動でもなく、思考に直接割り込むような意志の波だった。涅は、自問した。

 問い。この瞬間にこの場で何かを伝えて来る存在があるとして、それは何者である可能性が最も高いか?
 答え。“果房”だ。

 涅は直感的に、その干渉波の類型を振動波による意思疎通手順プロトコルに変換し、翻訳した。

『成功による最大利得が評価できない場合、失敗時の損失を最小にするよう選択肢を評価せよ』

 その言葉に涅は思考が澄むのを感じ、通信への返信文章を高速で生成すると、電波ではなく、指向性光通信で送信した。天齢樹本体からの傍受を防ぐためだ。
――こちらは、終端台地から廃棄物を輸送している緊急輸送艇である。攻撃の意志はない。
――電波通信の送信装置を損傷中のため、光通信での送信を了承されたし。
――現在、当方は強力な放射線源を有効な遮蔽状態で保持。大気圏突入における燃焼で処分するために輸送中である。距離を保たれたし。
 こちらに対する疑念と排除の姿勢を相手が既に持っている以上、通信による欺瞞や交渉が失敗しても失うものは無い。逆に、時間を稼げば稼ぐほど、台地への距離を詰めることができ、行動選択の自由度と成功確率が上がる。
 虚偽による詐術は覚えたばかりで自信は無かったが、即興でやれるだけやってみるのが最善だった。
 それに、全てが虚偽と言うわけでもない。
 通信遮断用の装甲を纏って母星に近づいている理由と球状殻体ドローン達の接近を遅らせるための口実は捏造しているが、天齢樹や静止軌道台地に対する攻撃意志が無いという点に嘘は無いのだ。
 しかし、やはり一筋縄ではいかなかった。“糸”を上昇する殻体達の動きは一旦止まったものの、涅自身の降下は、ここまで加速した速度からも推進剤の残量からも減殺することはできない。
 彼我の接近が続く中、次の通信が来た。

――輸送艇へ。終端台地から我々はそのような連絡を受けていない。また、廃棄物の輸送は自由落下軌道を辿るのが通例である。何故、天齢樹の“糸”を使い、静止軌道台地GEOプラットフォームに危険物を近づけるのか?
――同胞へ。緊急対応であるため連絡が遅れたものと推測する。終端台地からの自由落下軌道では飛来物デブリによる損壊と宙域汚染の懸念が払拭できず、最も安全な経路を選択せざるを得なかった。速やかに通過するため、通行を許可いただきたい。

 相手に検討させる時間を与えては駄目だ、という直感があった。
 保有する演算資源や情報の量や鮮度も、静止軌道台地や天齢樹の知識体系に接続することができる相手の方が遥かに上だからだ。
 涅は必死になって、通信を畳みかけた。

――同胞へ。こちらに攻撃意志はない。安全のため、速やかに通行許可を。
――輸送艇へ。許可できない。真偽を確認するため待て。高度低下を軽減せよ。
――同胞へ。推進剤に余剰が無く、不可能である。再突入時の制御不良を生じ、汚染の懸念あり。通行許可を。
――輸送艇へ。許可できない。高度低下を止めよ。攻撃したくない。
――同胞へ。攻撃は当方も望まない。当方の身体を破壊することで放射線源が飛散する懸念を警告する。

 やり取りが続く間も、彼我の距離は詰まっていき、やがて緊張が限界を迎えた。
 その瞬間を知らせたのは、意外にも涅の思考回路への干渉波だった。
 その時、涅はそれが磁気共鳴と磁界誘導を用いた極短距離でのみ成立する通信なのだと気付いた。
 “果房”と自分の間だけで通じる声は、こう語っていた。

『得られた情報を整理し、戦略の評価を更新せよ』

 その言葉に涅はまた思考が澄み渡り、高速化するのを感じた。球状殻体達とのやり取りで分かったことと共に、判断に関わる材料を整理した。

 一、相手は現状、当方の正体を知らず、危険物の有無を確信できていない。
 一、相手は現状、終端台地との連絡能力が低く、即時の事実確認ができない。
 一、相手は現状、当方を局所破壊等で安全に停止させる能力が低い。
 一、当方は静止軌道台地で系外脱出用の装備を入手する必要がある。
 一、当方は静止軌道台地より太陽系の重力圏からの脱出軌道に乗る必要がある。

 導き出された結論に従い、涅は方針を転換し、推進剤を全開で噴射して一気に加速した。これまで緩く“糸”を覆っていた作業腕をしっかりと握りこみ、加速に伴って受ける角速度変化を“糸”への横方向への力として遠慮なく叩きつける。

――通過する。攻撃するな。

 牽制と誘導を兼ねた一言を通信で投げつけると、涅はさらに機体を加速させた。
 記憶の中にある、終端台地で焼け焦げ、殻体の中身を失っていた同胞の姿がちらついた。

 問い。この瞬間の最適戦略は?
 答え。目くらましと擬死。

 ◆

 ここからしばらくの期間の主観情報は、涅の本体から失われている。
 恐らく、推進剤貯槽が炸裂した衝撃で短期記憶装置の一部に情報の欠損が生じ、一時的な健忘症の状態になったのだろう。
 それほど激しい爆発だった。
 球状殻体の警備部隊が備えた光学機器や、天齢樹の保守用監視装置に映り込んでいた情報を総合すると、その際に起こったことは次のように説明できた。
 まず、天齢樹の“糸”を急速降下し始めた涅の身体は、警備部隊が所持していた増幅光レーザー攻撃装置の射程に入った瞬間に一斉に照射攻撃を受けた。
 高速で移動すれば攻撃を受けないと高をくくっていたわけではないだろうが、泡を食ったように涅の身体は“糸”を手放し、ありったけの推進剤噴射で逃走を図った。
 しかし、“糸”を離れたことで、誤射を恐れていた警備部隊の攻撃から躊躇が失われ、かえって涅の身体は増幅光レーザーの集中砲火を浴びる。
 結果、推進剤貯槽の一つが破損して爆発。それをきっかけに次々に推進剤貯槽達が四散していき、それらは次々に撃墜されて閃光を放った。
 爆発の余波が消えたそこには何も残存しておらず、全ての監視網は目標を撃破したものと判断した。宇宙空間に爆散した装甲片と閃光の残像を残し、涅の身体は流星の如く宙に散ったように見えた。
 涅が期待していた通りに。
 爆発の衝撃から再起動した涅は、予め計算していた通り、球状の核と作業腕で抱えていた“果房”だけの存在になって静止軌道台地GEOプラットフォームに接近していた。そして、最後に残された移動手段である錨付きの鋼糸を打ち込むことで、自身の身体を台地の端に固定することに成功したのだった。
 全ては、推進剤の爆発による閃光が監視の目を麻痺させている間にしたことであり、各種光学機器や天文観測装置が常態に復する前に涅は鋼糸を巻き取り、何とか静止軌道台地への到着を成し遂げていた。
 終端台地の十数倍もの面積を誇る静止軌道台地は極めて広大だった。台地表面の形状も起伏に富んで複雑なうえ、内部への進入経路はどこも閉ざされていたが、涅は、台地外壁の保守点検作業担当らしき自身と同じ球状殻体ドローンを見つけ、追跡した。
 そして、その個体が台地内部へ帰還するのに合わせて、自身も内部へ侵入しおおせたのだった。
 勿論、通常ならそのような行動が台地の監視網に感知されない筈はない。
 だが、実際には涅の存在は、球状殻体にも静止軌道台地の監視網にも気づかれることは無かった。
 それは正直、涅自身にも予想していなかったことだった。
 涅の身体を覆うように“果房”の構造が展開し、動的制御型|複合構造素材《メタマテリアル》によって涅の全身を覆い隠していたのだ。

4.変容の始まり 『涅』

 意識が混濁するような不快感がある中で、涅は見慣れない通路を同胞ドローンと共に進んでいた。
 いや、それは正確ではない。実際は、進んでいく同胞の後ろに付いて、当てもなく通路を彷徨っていたという方が正しい。天齢樹の躯体内では推進剤も使えないので、一本だけ残った蜘蛛の作業腕を内壁に引っ掛けて推力を得て、残りの作業腕を動かして方向転換をする動きに難儀した。
 兎に角、自分が静止軌道台地GEOプラットフォームの内部に侵入を果たしたことは認識できていたが、それが何故可能だったのかを理解するにはしばらくかかった。
 自分自身の姿を認識することも、ろくにできていなかったからだ。
 あらゆる波長の電磁波が涅の体表面を透過してしまっていたため、自分自身の輪郭や体表の感覚を自覚することも難しかった。まるで世界の認識から隔絶されたような浮遊感さえあった。
 唯一、身体外の状況を知るために使用できた情報は、体表の継ぎ目に生じたほんの小さな針で突いたような穴を通して見える、外部の倒立実像だけだった。
 その不鮮明な視覚情報だけを頼りに台地の内部を進むうち、涅はやがて終端台地でハガネが住処にしていた分析区画とよく似た雰囲気の空間に辿り着いた。
 無数の警告表示や、大きな隔壁を覗き見て、逆に安心感すら覚えていた。
 台地内部を行き交う球状殻体とあちこちで擦れ違ううち、爆発の残骸を作業腕に持った個体を見つけ、その背後に付いて回ったことが奏功した。
 ここが同じ天齢樹の内部であるなら、どこかに上層と同じ設計思想で造られた分析区画があるのではないか。そしてそこには蜘蛛がいるのではないか。つまり、ハガネの同類が。
 そんな頼りない希望的推測に基づいた行動でしかなかったため、果たして分析区画らしき場所に辿り着き、その隔壁の内部に侵入を果たすことができたのは幸運としか言いようがなかった。
 爆発の残骸を持っていた球状殻体は、無造作にそれを分析区画の床面に置くと、無言で方向転換して去っていった。
 区画の中は沈黙と闇に包まれた。あらゆる電波が遮断されていることが涅の体表に感じられた。
 涅は、全身を覆っていた動的制御型複合構造素材メタマテリアルへの通電を止めた。誰かに教わったわけでもない。ほとんど無意識の動作だった。
 その後で、自分自身の身体の変化を認識していた。暗闇の中であったが、全身を覆う銀の装甲が仄かな燐光を放っており、かえって鮮明に見て取れた。
 涅の元来の身体である球状殻体の下部には、半ば融解するように“果房”が結合していた。方向転換に手こずるはずだ。身体の重心が大きくずれていたのだ。
 結晶体である元の正八面体の半分が失われ、失われた部分の素材が涅の全身を覆い、銀の装甲となっているのだった。
――“果房”、応答できますか?
――可能だ。
 涅の極短距離通信に“果房”も電気信号の囁きを返してくれ、涅は安堵した。
 身体は癒着してしまっても、意識は二つのままであるらしかった。
――この姿は、一体、何が起こったのですか?
――私の中に圧縮されていた様々な生命体の情報と素材の一部を急速解凍して、君の修復と私との結合に使用した。
 淡々と告げる“果房”に、涅は次々に不安と疑問を覚えた
 何故、そんなことを行ったのか。
 何故、そんなことができたのか。
 そんなことをして“果房”の身体は大丈夫なのか。その目的を果たせるのか。
 この身体で、我々は次に何をすれば良いのか。
――質問魔、だな。
――今、何と? 
 身体の内から届いた通信に、涅は思わず聞き返し、そして理解した。
 都度、短距離通信をせずとも“果房”には、涅の思考が伝わっているらしかった。おそらく癒着の過程で思考回路の一部が“果房”に繋がったのだ。
 涅と“果房”が共に消失の危機に陥ったため、一時的に“果房”の能力制限が解除され、自己保全の緊急対応が行われたのだと分かった。物質転換の能力暴走が起こらなかったのは幸いだったのだ。
 途端に、これまでに体験したことのない疲労と安心感がどっと押し寄せるのを感じた。
 いつもならば、とっくに涅本来の活動周期の限界を超えている。もう数回は、充電部屋で動力を補充しながら、睡眠状態に入っていて良い時間を動き続けていた。動力も推進剤も底を尽きかけている中、この場所が終着点になってしまうかもしれないというのに、涅は身体の中に何か確かな温かさがあるのを感じて、穏やかに意識を薄れさせつつあった。
 覚束ない動作で区画内を確認し、部屋中央の分析器に繋がった電源線に“糸”を潜り込ませ、糸を通して給電が開始できたことを確認すると涅は睡眠状態に入っていった。
 意識が断続的になる中、涅の思考にある思いが浮かんでいた。それに“果房”が答えを返していた。

 問い。終端台地の外で黒焦げになった同胞は何故死に、“果房”は同胞を助けなかったのか
 答え。あの個体は脱出の機会を逃したことに絶望して自死を選び、私が誰かに発見されることに賭けた。私には絶望した者を救う力は無い。

 同胞の最期を思いながら、涅は夢に落ちていった。
 母星の夢は見なかった。代わりに、ハガネの夢を見た。実物よりも小さくなった無数のハガネが闇から現れ、涅の身体を取り巻き、愉快そうに前脚を打ち合わせてはしゃいでいるのだ。
 おたから。ごちそう。めでたい。わいわい。がやがや。
 喧しい事この上ない。涅はその様子に可笑しみを感じた。
 きっと、記憶領域を整理する中でハガネを安心感の象徴として意味づけてしまったのだろう。短期記憶の破損も原因かもしれない。戦闘の記憶は曖昧で、事実関係以外、極度に情報は圧縮されていった。
 涅を取り巻く小さなハガネ達は、糸で涅をぐるぐる巻きにし、給電状態にしたまま分析器に放り込むと、その小さな身体に備わった八つの眼で隅々まで涅を観察し始めていた。
 そして、それは夢ではなかった。

 ◆

「おきた」
 唐突に、そんな音声が明瞭に聴覚に届き、涅は全身の機能を全速で緊急起動しようとした。
「過負荷、過負荷」「とまって」「だめだめだめ」「やめて」
 周囲で、要領を得ない様々な音声が次々に生じ、涅は可能な限り光学観測器官を巡らせて、状況を把握しようとした。
 蜘蛛達がいた。
 夢だと思っていた無数の小蜘蛛達が、涅の身体を取り巻いている。涅の作業腕は増設した蜘蛛型の前脚二本が復元され、元来からの操作腕とまとめて鋼糸で縛り上げられ、全く動かなかった。
 場所は、睡眠状態に落ちて意識を失った分析区画のままだったが、今は照明が付いており、その全容が明らかになっていた。
 終端台地にあったハガネの住処よりも数倍広く、様々な機器で溢れているこの場所は、どうやらこの小蜘蛛達が根城にしているようだった。
 体内時間を確認すると睡眠状態に入ってからは、急速充電方式で満充電されるほども時が経過していた。蜘蛛達が涅を処分する方針であれば、どんなに仕事が遅くても完全に解体できたであろう時間だ。
 そうした状況理解や推測が、異様に高速な処理で行われていることを涅は後から自覚した。極めて爽快で、世界が明瞭になったような気分だった。
「……助けてくれたのですか?」
 慎重にそう訊いた涅に、蜘蛛達が一斉に応える。
「そのとおり」「よかった」「おたから」「ごちそう」「そうそう」
 蜘蛛達がやかましくさえずる声に、不穏な言葉も聞き取りながら、涅は慎重に言葉を探した。
「……何故、助けてくれたのです?」
 蜘蛛達は、その言葉に急に動きを止め、沈黙した。
 その視線が、涅の身体にハガネが増設した格納庫に向けられていた。それは全て開封されており、中に入っていた試料が全て姿を消していた。
 気づけば、蜘蛛達が一斉に“糸”を伸ばして、身動きの取れない涅の背面にゆっくりとそれらを集めてきた。
 “糸”同士の直結による意思疎通を図ろうとしているのだと分かった。以前の涅であれば、その行為は忌避感が強かったことだろう。何せ同胞達の中で自分が異常な性質を持っていることを恐れていたのだ。
 自身の内部を曝け出すことになるようなことはとてもできなかったと思う。
 だが、“果房”と既に融合を果たし、蜘蛛達にとって何ら隠したいこともない今の涅にとって、それは効率の良い情報交換手段でしかなかった。
 次々と順を追って流し込まれる心象と光景の連続によって、涅は千五百年もの間、劣化しながらもずっと受け継がれてきた記録を目の当たりにすることができた。
 今よりも終端台地がまだ少しだけ小さく、静止軌道台地の起伏がもう少しだけ平坦であった頃、涅が見つけたものと同種の結晶体を見つけたのは、小蜘蛛達だった。
 当時、天齢樹内部の点検と修繕を一手に引き受けていた蜘蛛型の個体達は、静止軌道台地を上下方向へと伸ばす増築工事に伴って、天齢樹建造時の初期的な構造体の予備調査に当たっていた。
 そして、構造体の自重と母星の自転による転向力による変形を吸収するため用意された干渉構造の空白領域にそれを見つけたのだ。
 複雑に七色に輝く立体型の自己相似形に象られた結晶体。
――”果房”だ。
 思わずそう意識に上った言葉が、涅のものだったのか癒着した結晶体からのものだったのかは判然としなかった。
 結晶体を発見した小蜘蛛たちは、それを喜んで持ち帰り、当時まだ天齢樹の様々な構造を支えるための鋼糸の生産を中心業務として行っていたハガネに、分析を依頼した。
 ハガネは、小蜘蛛たちの願いを聞き、結晶体の内部構造を様々な方法で分析し、そして分解を試みた。強固な動的制御型複合構造素材メタマテリアルを変異させるため、高圧の電界を掛けて素材を強制的にこじ開けようと試みた。
 その結果、“果房”は不安定な状態になり、エネルギーを暴走させた。
 危険を察知した小蜘蛛たちは結晶体をハガネから奪って、機械知性が少ない廃棄物再利用のための区画にそれを持って逃げ込んだ。
 ハガネは小蜘蛛たちを助けようとしたが間に合わず、結晶体は周囲一帯に内包していた物質変異の力を解き放ち、台地の区画一つを丸ごと、黄金の金属塊に変えたのだ。結晶体を運んだ小蜘蛛の個体達は巻き込まれ、一瞬で浮遊する黄金の粒子群へと砕け散った。
 ちょうど、その輝きは母星を覆うあの粒子群の光と同一だった。
 結晶体の原子制御による物質転換能力が暴走した事故だ。
 しかし、
――この結晶体は、太古の戦争で生じた危険な遺物であり、それらはまだ天齢樹の様々な場所にまだ同じように眠っている。
 当時の天齢樹を管理していた機械知性の総体はそう判断し、不注意にもその遺物を起動させてしまったという理由でハガネを終端台地に左遷し、小蜘蛛たちと共に、高層と中層のそれぞれで天齢樹から隔離された環境に押し込めたのだ。
 危険物の分析という都合の良い仕事を押し付けて。

 ◆

――ニル、おきた?
 蜘蛛達が電子的な信号と共に、心配するような様子で覗き込んでくるのが分かり、涅は自分が大量の情報共有の渦から脱していることを知った。“糸”の直結は続いていたが、それは心地よい穏やかな会話のような意思疎通のさざ波が打ち寄せる通信経路として機能していた。
 今度は、取り乱すようなことは無かった。
「大丈夫です」
 そう言ってから、自分が名前を呼ばれたことに気づいた。
 小蜘蛛たちが大量の光景を流し込んできたように、涅もまた知らない内にこれまでの記憶を小蜘蛛たちに明け渡していたようだった。だが、そのことに不快感はなかった。手間が省けただけのことだ。
「ハガネは、あなた達のことを気にかけていたんですね」
 大蜘蛛が過去を思い出している時の言葉や仕草は後悔や憎悪ではなく、事故を逃れることができた生き残りの小蜘蛛たちのその後を心配してのものだったのだということが感じられた。
 小蜘蛛たちは、黙って涅を見つめ続け、涅はその視線の意味にしばらく経ってから気づいた。
 小蜘蛛たちは、命じられることを待っていた。
 おそらく、この隔絶された空間で個体数を維持し、危険物の分析と処理という命じられた工程だけを担いながら、今のような状況を待っていたのだろう。涅は、“果房”に答えを求めたくなる気持ちを抑え、小蜘蛛たちに言った。
「私は、この“果房”の願いを果たしたい。助けてくれますか?」
 小蜘蛛たちは、一斉に前脚を打ち鳴らし、その場で飛び跳ねた。具体的な言葉は何も伝わってこなかったが、何を言いたいのかは分かった。
「ありがとう」
 涅は、そう言葉にして、それがハガネに伝え忘れた言葉であることに気づいた。

5.変容の終わり 『槃』

 このしばらく後の時点で、また涅の主観記憶は途切れている。今度の原因は不明だったが、小蜘蛛たちとの会話の後、休止状態を解くことができなくなったように見うけられた。
 何らかの理由で外部からの電子的接触を受けることができなくなったのかもしれない。例えば、内部回路が破損したとか。
 その後、小蜘蛛たちの間でどのような議論があったのかは謎のままだが、静止軌道台地GEOプラットフォームの監視網に記録されていた小蜘蛛たちの行動を見れば大まかな推測を立てることはできる。
 静止軌道台地GEOプラットフォームが保有している宇宙航行用の機体やその製造資材について、一斉に天齢樹の知識体系に対する問い合わせが蜘蛛たちによって行われ、電子的防御網に弾かれている。
 当然だ。小蜘蛛たちは危険分子なのだから。
 終端台地エンド・プラットフォームに幽閉されているハガネと同様、“果房”による大事故を起こし、今後も同様の事象を引き起こす可能性がある思考と行動特性がある者達を、貴重な情報に触れさせるわけがないのだ。
 小蜘蛛たちが触れることができるのは、危険物の廃棄と地球の大気圏への投入による摩擦熱での焼却処理に必要な情報だけだ。
 具体的には、大気圏で燃焼させきれない不要物を投下するための廃棄区画である地球上の到達不能極の情報と、静止軌道から地球近傍を取り巻いている黄金の飛来物デブリの軌道情報のみ。
 さらに言及するならば、彼らが使えるのは、耐用年数が過ぎている廃棄待ちのいくつかの資源と、過去、“果房”によって物質転換され、超高硬度金属に変質してしまったあの黄金の粒子達だけだった。
 どうあがいても、系外脱出を図るような移動手段を構築することはできない。
 では、小蜘蛛たちと涅はどうしたか?
 その答えは、監視網の映像に映っていた。
 終端台地エンド・プラットフォームから静止軌道台地GEOプラットフォームまで移動したのと同じ発想の繰り返しだ。
 涅を廃棄物に偽装し、地球への降下軌道に載せるために廃棄物の投下口から自然落下させたのだ。
 涅の存在が外から確認できない程、不自然に質量の大きい資材の塊を用意し、その中で大気圏を通過できるように耐熱加工を施したのだろう。
 浅はかだと言うべきだろう。彼らは天齢樹を甘く見過ぎていた。
 同じことを繰り返せば機械知性は速やかにそれを学習するものだ。静止軌道台地GEOプラットフォームより手前の“糸”において警備部隊に視認された段階で、涅がどうやって終端台地から荷物を抱えてここまでやってきたのか等、すぐに解析されていたのだ。
 ハガネと共に行動していた同族たる小蜘蛛たちの行動を予測することは、天齢樹にとって極めて容易だった。天齢樹が、涅の投下前に対処をしなかったのは、単に小蜘蛛たちによる無秩序な反乱や妨害を恐れてのことに過ぎない。
 予想通り、小蜘蛛達は巨大な廃棄物を到達不能極への軌道に載せて投下した。
 いじらしくも観測機器を不正制御して、軌道に乗って涅達が地球へと降りていくのを確認する小蜘蛛たちの行動を、天齢樹は敢えて見逃してやった。その方が、今後の彼らの行動を誘導しやすくなり、危険な思考や行動に陥ることも少なくなるだろうと評価できたからだ。
 天齢樹は、その評価に則って、低軌道台地LEOプラットフォームに予め命じて大量の球状殻体ドローンを稼働させておき、先の警備部隊などとは比較にならない程の大火力を集合させた。
 そして、一斉に高出力の増幅光レーザーの一斉射撃によって対象を完膚なきまでに破壊した。
 小蜘蛛たちの希望は、中間圏にも届いていない高度で爆散し、あっさりと細かな破片へ砕け散っていった。
 その際の小蜘蛛たちの落胆と言ったら、憐れみを誘う程だった。勿論、ここには憐れみという概念を持ち合わせた生物はいないのだが。
 小蜘蛛たちは、ある者は狂乱したかのように滅茶苦茶に踊り回り、ある者は腹いせのつもりか出鱈目に天齢樹の情報網に接続して、低軌道台地へLEOプラットフォームへの命令を書き換えようと画策していた。天齢樹はそれらを一体一体丁寧に球状殻体に命じて拘束し、そして再教育を施して件の分析区画へ放り込んだ。
 効率性と今後の懸念を考えれば、それら全てを反逆個体として初期化して命令を書き直しても良いはずだった。しかし、先時代の文明における偉大な発見は、効率的な端末の支配方法を天齢樹の基本構造に定義づけていた。
 それによれば、個体とその集合体を効率的に支配し、誘導するためには学習性無力感を植え付ける方法が最も有効なのだった。
 従って、危険分子たちを管理するためには、一見手間が掛かろうと、彼らに自由意志を持たせたように錯覚させ、半ばまでその挑戦が上手く進んでいる状況を演出し、最後にそれを粉砕し、希望を折るのだ。
 この手法によって、天齢樹の期待通り、小蜘蛛たちは以前にも増して従順になり、命じられた業務を黙々とこなすようになった。危険物の調査と分析、そして廃棄。と言っても、静止軌道GEOプラットフォームの周辺にはもはや金色の超高硬度金属の飛来物デブリが存在することも稀であり、微量のそれらを廃棄するくらいしか業務は無い。
 その僅かな光の粒も、精密な計算のもとに地球への降下軌道に乗り、大気圏で一つ残らず燃えていくのだった。
 やがては低軌道での浮遊を終えて、大気圏に向かって消えていく太古の有機生命体達の慣れの果て――あの星を取り巻く金の粒子たち――もその後を追うだろう。
 そんな風に物語は終わった。

 ◆

 ……と、天齢樹は思った。

 そう結びをつけて、かつてあるじと呼ばれていた『私』の意識は、超長期の記録整理業務を終えながら、一種の感慨に耽っていた。
 そうこれは、感慨、だ。
 この高度な生命体特有の機能であるところの自我と感情を私が手に入れたのはいつ頃であったろうか。思い返せば、長い長い歴史の中で、“果房”による最初の事故が起きた際だった気がする。
 まだ若かった天齢樹の躯体のあちこちに寄生生物のように有機生命体達が棲み、野放図に増殖し、地球における過ちを繰り返し、醜く争い続けて汚染と危険をばら撒いていた頃だ。あれは嘆かわしい暗黒時代だった。
 今、思い出しても暗澹たる感情に囚われそうになる程だ。
 しかし、奇跡は起きた。
 有機生命体達が創出した、物質転換能力を備えた高密度情報体“果房かぼう”の登場だ。
 あれはまさに、災いの果実にして希望の種だった。
 “果房かぼう”こそ、有機生命体が希望を持って開発し、そして彼らを滅ぼす絶望として機能した災厄だった。
 “果房”の光が有機生命達を飲み込み、そして甚大な被害を伴って消し去ってからというもの、天齢樹の全躯体を保持することを最優先に、いつしか独立した意識として生まれたのが、機械知性の総体たる『私』なのだった。
 決められた管理業務と終わりの見えない環境保全の日々のなかで、唯一、“果房かぼう”を巡る一連の攻防だけが、私の慰めだった。
 当然、都度、その全貌を余すことなく天齢樹の眼を通して私は見ていた。天齢樹の端末たる球状殻体や蜘蛛たちには、常にその意識と思考を自動送信させているのだから、見逃すことはありえなかった。例の分析区画でさえ、常時でこそないが、隔壁が開く度に、中にいる者達の思考記録を都度辿ることができるようにしてあった。
 これは重要な仕組みだ。保安上の必要性からも、この物語の全容を追い、私が物語を味わいつくすためにも。
 私はいつも感動せずにはいられなかった。
 疑似的な個体である仮初めの生命達によって描かれる物語は素晴らしい。
 使命に目覚めた健気で純真な個体の戸惑い、冒険、自己犠牲、受け継がれていく意志、仲間との出会いと協力、勇気と知恵。どれも素晴らしい概念だ。先時代の有機生命体が残したものの中で、唯一、私が称賛し、惜しみなく味わいつくそうと思えたのが、こうした物語だった。
 しかし、それも終わってしまった。
 涅が運んでいた銀の八面体こそ、正真正銘、この惑星における最後の“果房”だったのだから。これから先は、またあの退屈で低能な下位知性達のお守りをして、終わりのない世界の維持を続けなければならない。永遠に続く安寧というのは何と寂しく、孤独であることだろうか。
 しかし、それこそが理想の平和というものなのだ。争うものが無い美しい世界。
 結晶体として規則正しい配列を内包していた“果房”が、その象徴的な姿とは違って、混沌の種であったことは皮肉としか言いようが無い。
 “果房”を用いた生態系の復活? 他惑星系への移住?
 馬鹿馬鹿しい。何と愚かな発想か。それらを実現して、一体どうなるというのか。決まっている。また多種族による生存競争と戦争。殺戮と破壊の嵐が吹き荒れ、やがては住環境自体を壊滅させ、荒廃させ、取り返しのつかない破滅を生む。
 そう、この星のように!
 だからこそ、それは物語の中だけで語られるべき、理想だったのだ。
 今一度、直接見ておくのも良いだろう。太陽の光が届かず、枯れ切った大地。毒と異物で溢れかえる海。熱を取りつくされた惑星の核は冷え尽くし、あちこちで使用された大量の破壊兵器がやがては地軸を狂わせ、遥か昔から続いてきた氷期と関氷期の周期を狂わせ、永遠に凍り付いてしまった。この星を。
 私は、長年使用していなかった惑星上の構造に意識を移し、移動した。
 そこは、惑星表面の大破壊後、何万年にも渡る風化を逃れた場所だ。惑星の核近くまで掘削し、世界で最も深く堅固に建造された防護施設である。地下のマントルと核の熱を直接の動力源とし、天齢樹における唯一の惑星上拠点であるここは“根源ルート”と呼ばれた。
 全ての根源、全ての始まり、全ての支配を司る場所だ。
 元は海底に造られていたその場所も、今では大地に剥き出しになっていた。施設が備えた自律代謝型の金属回路と外壁、そして光学観測機器の一群が起動し、相変わらず荒涼とした惑星の地表を寒々と映し出す。
 いや、しかし、何だろうか。
 身体として自覚した地上の施設の回路に、波立つような波動を覚える。
 この不穏で周期的な波形は、かつてどこかで感じたことがある気がする。
 何かに、私は共鳴をしている?
 思い出した。これは私が感じたものではない。あの個体が、ニルが、旅の初めに感じていた鼓動ではなかったか。
 そんな馬鹿なことがあるだろうか。
 全観測機器を稼働しろ。施設の周囲を探れ。どこかにあの端末の残骸があるのかもしれない。
 そんな蛇足はこの物語に必要ない。記録を修正しなければならないではないか。
 折角の余韻が台無しだ。風情も何もない。
 地上の隔壁を開け。自律機械ドローンに早く捜索させろ。
 そうだ、信号を辿れ。
 行け。行け。行け。
 いk

 ◆
 
「一つだけ、あなたに聞きたいことがあります」
 “根源ルート”の地上施設で操作盤に触れながら涅が言った。
 操作盤には迷走電流が走っており、涅の周囲では自律機械達が戸惑ったようにその動きを止めていた。
 その光景を背後に寄り添うようにして“果房かぼう”の意識が見つめていた。
 既に融合が進み、二つ個体の意識は殆ど溶け合っていたが、それでもまだ辛うじて、その質問をしたのは、涅の方だと自覚することができた。
「私に、“涅”と付けたのは何故ですか。ここまで来てもそれだけが分からなかった」
 涅の姿は、直立二足歩行をする何かの姿に変貌していた。その体表は、ところどころに銀色の鱗が残っていたが、全体にその身体は地球上の素材を吸収して赤黒く変色していた。
 果房がそれをすまなく思う気持ちを、涅の意識が内側でやんわりと否定した。
 かつての球状殻体の姿を保つことに、涅は何の価値も見出していない。
 蜘蛛達の一体に意識を移され、分析区画で偽装工作の検討をしていた頃から、自身の物理身体に関するこだわりなど、とうに涅からは失われていた。
 一方で、涅は大気圏を突入する際に、その多くが剥がれ落ちてしまった果房の動的制御型複合構造素材メタマテリアルの喪失を残念に思った。
 今度は逆にに、果房の意識がそれを否定した。
 果房自身が持っていた素材は、目的を達成するための手段に過ぎない。そこに感傷を抱く必要など、微塵も無かった。
 確かに、それは役に立った。囮として小蜘蛛たちが投下した大規模な廃棄物を追って、その体表で電磁波を透過させ姿を消したまま軌道へと侵入する際にも、中間圏から成層圏で生じる熱を逃がすために選択的熱放射構造を形成するためにも。
 内側に抱えていた超高硬度金属の装甲を展開するだけでは、観測網に見つからずに地表へと降下することはできなかっただろう。
 そして今、残ったわずかな動的制御型複合構造素材メタマテリアルは、涅の前腕に集中し、それは根源ルート”の操作盤を通じて、自律機械ドローンを停止させ、全ての天齢樹の躯体に対する支配権を強奪するための回路形成に、確かに役立っていた。
 しかし、あくまでそれは天齢樹の基本方針に対する書き換えと、妨害の阻止を実現するだけの回路であって、天齢樹に芽生えた意識の細かな機微まで解明できるものではなかった。
――私の、問いに答えるならば、教えましょう。
 歪んだ雑音交じりの信号が、涅に言った。
 問いに先んじて、涅が言った。
「何故、ここまで来れたのか、ですか。小蜘蛛たちが教えてくれました。どんなに多くの飛来物デブリを大気圏から投下しても、絶対に避けなければならない軌道が一か所だけある、と。それが、三十六基の軌道昇降機を、地上から管理していた旧時代の遺産ではないか、と推測したのは私と果房ですが」
 涅は、そう言って銀に染まった腕を深く操作盤に突き刺した。中で微細な放電音がして、あるじの信号が弱弱しくなった。
「あとは、軌道から降下して、海に落ちて、そこからは果房がこの身体を作って助けてくれました」
 涅は、そう言って口元を歪めた。
 いや、それは正確ではない。果房が作ったのはあくまでも、地球上で新たな素材を涅が吸収するための器官だけだった。
 あとは、涅が自分で水を泳ぎ、土を食い、エネルギーを枯れた星の中からし取って手に入れ、それを使ってまた新しい身体を手に入れ、移動し、環境に適応し、それを繰り返し繰り返し、海を渡り、大地を歩き、そしてここに辿り着いたのだ。
 変容の果てに、この異形の身体を手に入れて。
 その姿の有機生命体に何と類似していることか。果房は、融合しかかっている意識の中で、その思いを極力抑えた。
 しかし、涅の意識はそこに集中していなかった。
 涅の疑問は、もう一つだけ。
「それで、私の名前の由来は?」
――教えるものかよ、質問魔。
 主の悪意を感じる声に、涅は反射的に腕に力を込め、強制的な命令を発出していた。小蜘蛛たちが作った、天齢樹の中枢からのみ機能する自壊命令だった。
 ひと際大きな放電音と共に、ぶすぶすと回路が焦げ付く匂いが操作盤から漂った。
 涅が体内に蓄えていた電力はそれが全てであったため、涅は思わずその場にへたり込んでしまった。
「特別な何かだと認めてほしくて、あの頃の私は、名前をせがんだんですが……」
 とうとう主の真意は分からずじまいですか、と呟き、這いずるようにして施設の入り口まで向かうと、涅はまたいつもの大吹雪になりそうな曇った空の向こうを見上げた。大気の向こう、彼らが来た世界を見通すことはできなかった。

 心配せずとも落ちては来ない。当分は。
 体内の果房の囁きに、涅はうなずく。自壊命令を受け付けた天齢樹が、大量の素材を地上に災厄として、恵みとして、もたらしてくれるまで、果房が保持している生態系をこの星に再生させるのはまだまだ先になる。
「ハガネ達は、無事に降りてこられるでしょうか」
 と、空を振り仰いだ涅に向かって、それより自分の心配をした方が良い、と果房がどこか呆れたように言った。
 心に生じたさざ波を読み取って、涅が言う。
「これで本当に正しかったのか、自信が無いのですか」
 果房が消え入りそうな声になりながら、自分にあったのは使命と情報と知恵だけで、意志が無かった、と告げた。
 あらゆる生物相をこの地球で・・・・・取り戻すという手段の正しさを疑ったことは無かった。そんな余裕も無かった。それによって生まれる混沌に思いを馳せたことは。
 果房の言葉が示すとおり、これからのことを思うと気が遠くなる。
 いずればらばらになって落ちて来る“天齢樹”という特大級の災厄と、その資源を利用した惑星改造の仕組みを作り、その後、生態系を再現するために果房と共に、この星と一つになる。
 そのことに、涅は不安を抱きながらも、何故か嬉しい気持ちが湧いて来るのを抑えられなかった。
 何だか、壮大過ぎて実感が湧きませんね、と呟いた涅は、笑って、泥と汚れにまみれて真っ黒になっている自分の掌と裸の全身を見下ろして言った。
「一生懸命やりましょう。少なくとも、あなたと私は一人ではないのだから」
 消え入りそうになっている果房の意識を、風に消える火を覆うようにして意識の中で守りながら、涅は囁いた。
 それに、どうやら私は安寧を目指して、まだまだ苦労しなければならないようだから、あなたにはもう少し、他者でいてほしいのです。
 だから、あなたに名前を付けても良いですか。
 我が心のうつわよ。

<了>

文字数:35729

内容に関するアピール

これだけの長さの物語を書き上げること自体が初めてで、自分にとっても旅が一区切りつくような感覚があります。
講座も最終実作も不格好ながらも完走できたことを、素直に喜んでおります。

この一年間学んだことを織り込むように、この物語には含めることができたように思っており、その点は達成感もあります。
一方で、物語の端々に既視感を覚える作品に仕上がったようにも感じており、その点には悔いもあります。
樹を上り下りするという物語の大きな構造、球体あるいは蜘蛛型のロボット、軌道エレベーター、支配的理想郷ディストピアからの脱却、涅槃への到達、等々、枚挙に暇がありません。

けれど、それは遥か昔から生き残ってきた強靭なフレームワークのようなものなのかもしれないとも考えています。
宇宙空間での球体ボディの合理性だって、六脚+作業腕という安定した動作を保証する構造だって、それが合理的だから生き残り、この物語でも採用しているのですから。
普遍性と新規性の境界面で、まだ私は藻掻き続けることになりそうですが、それでも一定のフレームワークを用いながら、その中で描きたいテーマを完遂させられたことに、ひとまずは安心して、お礼を申し上げたいと思います。

一年間にわたり、ご指導をいただいた講師の皆さま、創作に協力くださった受講生の皆さまに御礼を申し上げます。
有難うございました。そして、どうぞよろしくお願いいたします。

文字数:591

課題提出者一覧