梗 概
花冠(かかん)が種子を宿す頃
荒廃した遠未来の地球。
ある古く巨大な植物型都市で、住民達は都市に隷従し、都市の保護を受ける関係にある。
住民の一人“ユゥ”は都市に奉仕する“栽培士”の少女である。
栽培士は都市構造の基盤である巨大植物群と住民の生活を維持・管理する一種の公務員であり、一級栽培士は都市の最上層である特権階級専用の居住区“花冠”で、希少な植物群の世話をし、世界を見渡す景色と贅沢な生活が保証される。
栽培士の二級試験に合格して近隣住民達から祝福された夜、ユゥは手負いの少女“香”に出会う。ユゥは亡き両親からの“困っている人を助けなさい。お互い様だから”という教えに従い、自室に香を匿う。
香は、自分は世界を旅し、様々な危機を都市に知らせ、変化を促すための旅団に属していると言い、この植物都市が老いて滅びかけていると警告に来たが、治安部隊に追われていると言う。ユゥは都市が滅ぶ未来ではなく、何百年もの環境変化に耐えた都市の力を信じようとする。一方で、香が「困っている人」であり「捕らえるべき侵入者」である事実に、両親の教えと都市の規律の間で葛藤する。
翌日、香は姿を消しており、治安部隊がユゥの部屋に踏み入る。部隊は都市中枢である“花冠”から、ユゥが呼び出されていることを告げる。
高揚と不安を覚えながら最上層に着いたユゥは、そこで都市を司る組織である“指導部”から、新たな植物型都市を育てるための極小の種子を授かり、その種子を旅人である香に飲ませるよう指示を受ける。
種子を飲んだ人間は、一か月後に苗床となって動けなくなり、身体から根が伸びて大地に固定され、新たな植物型都市の基盤になる。そのようにこの都市も成長したのだと指導部は語り、ユゥは戸惑う。
外界から来て、型破りで様々な植物や生物や都市を知っていた香を、人ならぬ存在に変えてしまうことにユゥは抵抗を覚えるが「役目を果たせば、特例で一級栽培士に昇格させる」と指導部に言われ、ユゥは種子を受け取ってしまう。
自宅に戻ると、治安部隊に追われ、部屋まで逃げてきた香がユゥを出迎える。
ユゥは指導部の指示通り「栽培士の権限で都市の外へ逃がす」と告げ、身体に良い料理を作ると言って、スープの椀に種子を入れる。
香はスープを飲み、事情を分かっている笑顔で告げる。
「いいの。これも私の務めの一つだから」
ユゥは、自分も外の世界に憧れていたのだと気付く。
翌朝、二人は都市を出発。香はできるだけ新しい都市に適した環境を目指し、ユゥを故郷に帰そうとする。だが、ユゥは香から離れず、寝る間を惜しんで世界を感覚する。
一か月後、新たな都市の根が、ユゥの身体から生えてくる。
種子が入った椀をユゥは自分で選んでいたのだ。
ユゥが香に告げる。
「故郷もあなたも好きだから、裏切りたくなかった。大丈夫。私が種を宿す頃、あなたを継ぐ人が私を助けてくれるでしょう? お互い様だよ」
文字数:1200
内容に関するアピール
自分と全く違う思想を考えるため、内省から始めました。
私は、割と色々いい加減で、自分に甘いダメな奴というのが自己評価ですが、一方で、「人生を掛けて自分がやりたいことを精一杯やることが一番大事。そのためにどこへ行き、何をしても良いのだ」という思想を重視しています。
基本的に、その思想を正しいと思っていますし、これからも貫く予定ではあります。
そんな私ですが、ある年に実家へ帰った際「お前は故郷を捨てたんだな」と叔父に言われた一言が、いつまでも胸に残っています。
私は、故郷を顧みないことを良しとして、そのことにどこかで罪悪感があるのでしょう。
よって、主人公は私の逆に「素直で元気で懸命で、故郷と周囲を何より大事にし、それでもどこかで自分の気持ちを大事にしたいと考えている少女」としました。
メインの二人は「ハマユウ」と「ハマゴウ」という海岸の植物からの着想です。
よろしくお願いします。
文字数:387
花冠が種子を宿すころ
ユゥは、共同住宅である朝陽荘の屋上から、夕闇の空を覆って眼前に迫るような巨大な葉の台地を見上げた。
その巨葉は中層都市の裏側だ。
「ユゥ姉、おめでとう!」「お祝いが遅くなってごめんね」
共同住宅の共用部からわざわざ運び上げてもらった長卓でご馳走とお祝いの言葉に囲まれ、ユゥは幸せな気持ちでいた。
人口密度が高い下層の街区には広場などという上等なものは無い。住宅の住民が何かを祝いに集まるには、屋上が最適なのだ。
「樹体に感謝を、そして、我らがユゥ栽培士の昇進に!」
同じように都市を見上げ、都市への祈りを捧げていた共同住宅の代表が笑顔になり、大食卓についた住民全員が乾杯を唱和した。
その後は、大騒ぎだった。
いつもお世話になっている隣室の親子が、ユゥがどれだけ熱心に夜遅くまで勉強に励んでいたか語り、隣接街区まで土木作業に出ている兄さん達が、偉そうに指示を出す現場監督の四級栽培士よりユゥがいかに人格的に優れているかを話した。
お祝いの席にしても少しやりすぎに感じるくらい、皆、ユゥに優しい。
「お前は朝陽荘の出世頭だな! 今日は倒れるまで飲んでいいぞ!」
そう言って、共同住宅の代表であるおじさんが蜜で作った酒を注ぎにきては、奥さんに後ろから、若い娘さんに無理させないの、と咎められている。
確かにユゥは若く、身体も大きくはなく、肌も色白く、ひ弱に見られる。
だが、栽培士という仕事は、都市設計の専門家であると同時に、樹体全般の健康管理を行い、一抱えもある大きさの害虫を駆除し、時に都市外からの敵との戦闘まで求められる苛烈な仕事でもある。
「ユゥ! 今度、うちの子にも勉強を教えてやってよ!」
「母ちゃん! ユゥ姉ちゃんは一人で勉強したんだから、俺も同じようにやるって!」
母親にどやされる反抗期の少年の頭をユゥは優しく撫でた。
「お兄ちゃんは、自警団の訓練を頑張ってるもんね。勉強も、大丈夫だよねぇ」
赤くなって、慌てて“そら見ろ”という顔で母親を見る少年を、照れてないでユゥが集めた本でも借りなさい、と彼の母親が笑って小突く。
周囲から、どっと温かい笑いが起きる。
皆、笑顔でユゥが試験に受かったことを祝ってくれている。それが誇らしかったし、皆が自分のことのように喜んでくれることが何より嬉しかった。
二級栽培士試験とは、それ程に難易度も職務内容も、高度だ。
ユゥ達のような下層住民にとっては特に。
この広大な“樹体”の根本で、巨大な葉の台地に陽光を遮られて生きる下層民達には教育の機会も少ない。日々、この巨大樹を生かし続けるための労働と引き換えに、樹体から供給される樹蜜の養分にすがって生きているからだ。
下層民が、この巨樹の下層から中層に出入りする唯一の方法が、栽培士になることだ。
そんな存在となったユゥだから、好奇心旺盛な幼い子供達にはよく囲まれる。
「ユゥ姉ちゃん、上の方のお話、して」
「私も聞きたい!」
そうして話をねだる近所の女の子達が知識を得るきっかけになればと、ユゥはいつものように珍奇な植物の話や、都市を支えている様々な仕組みを、面白く聞かせる。 露出した巨大な地下茎上の街、つまりここが“下層街”、それらを覆うように拡がる葉の上に建造された“中層街区”、そのさらに先、一番上の“上層区”の三階層構造。
まるで、二階建ての茸みたい。
そう子供達が言う複合都市が“樹体”の全景だ。そして、樹体には、茸ではなく、様々に有益な植物相が拡がっている。
陽光と熱を蓄える、蓄熱光葉や、内分泌物の刺激によって多様な動きをする発条蔓。堅固な樹皮を組み合わせて造られた様々な乗り物等が人々の生活を便利にしている。
「見てごらん」
ユゥが上空を見上げ、星々に代わって上空を覆っている巨葉を指して子供達に言う。その巨大な葉の裏側には、琥珀鏡と呼ばれる美しい珠が散りばめられるように存在し、そこから中層都市の灯りが鈍く漏れている。
その光が、下層と全く異なる都市の在り様を予感させ、子供達は想像を膨らませる。行ってみたい、お姉ちゃんが羨ましい、どんなところなのか教えて、そんな言葉に交じって、ぽつりと呟かれた言葉があった。
「あれ、落ちてこない?」
すっと、周囲に沈黙が下りた。
その一言を放った心配性の女の子が、不安げにユゥを眺め、そして周囲の大人達に拡がった表情の陰りに気づいて、怯えた様子でユゥに取り縋った。
「大丈夫。そんな事故が起きないよう、私達、栽培士が点検しているからね」
ユゥは優しく言って、その背を撫でる。
皆はさりげなく話題を変え、不安の影を残しながらも宴の活気は元に戻っていった。
大人達は、皆、自分達が落陽の時代を生きていると分かっていた。
遥かな昔には、全世界に人々がもっと大勢いた頃は、多くの都市があり、都市と都市を結ぶ交通があり、星の裏側まで声を届ける技術もあったという伝説もある。
だが、今、人類はこの星の覇者ではない。
この“樹体”のような完全とは程遠い脆い街を守り、険しい自然の中で辛うじて生き永らえるしかないのだ。
◆
宴会の後、ユゥは朝陽荘の最上階にある自室で、一人、出窓から外を見ていた。
実際、夜の下層街は美しくもないし、心安らぐものでもない。
巨葉が頭上を覆うため、陽光が直接届くのは朝夕の僅かな時間に限られ、いつ頭上から何かが落下してくるとも知れない。
特に、近年はそうだ。樹体の基部を構成する三叉の大幹を挟んで反対側の区画とは言え、中層街区の一部が剥離して落下した事故があり、それからまだ一年と少ししか経っていない。
そんな事故は記録にある限り、この数百年で初めてのことだ。
逆に言えば下層の街区には、中層の住民達のように自宅が巨葉ごと落下する危険は無い。だが、ほとんどの下層民がそうであるように、ユゥが住む朝陽荘もまた、隣の建物と支えあって何とか立っているような共同住宅で、子供達の寝息が隣から聞こえるくらい壁も薄い。
ここには中層より上のような灯りが煌めく都市の姿はない。昼は薄暗く、夜にはほとんど闇一色だ。
それでも、ユゥはこの街区と、そこに住む人々が好きだった。
朝陽荘の無遠慮で豪快な住民達の笑顔も、栽培士として昇進するたびに祝ってくれる皆の優しさも好きだった。
皆の優しさがあるから、過酷な訓練も、厳しい試験も突破できる。
生かされている。そのことを強く感じる。
普段は上空に重くのしかかるような中層の街区が放つ明かりでさえ美しく見えるほど、ユゥは気が昂っていた。
眠れそうになかったため、ユゥはそっと音をたてないよう部屋の扉を開け、街に繰り出した。
労働以外で夜に外出できることも栽培士の特権だ。咎められる理由はないし、そもそも、住民同士の揉め事も殆どない。一つの街区が大きな家族のようなものだ。
だからこそ、しばらく歩いた街角で、嗅ぎ慣れない匂いが鼻に届いた際は、一瞬で酔いが吹き飛んでしまった。
後から考えれば、それはユゥが慣れ親しんできた世界とは異なる、異邦の匂いだった。
栽培士に支給され、携帯が義務付けられた堅枝の護身棒を握りしめ、ユゥは匂いが漂ってくる路地を覗き込んだ。
異臭を放つ闇の奥に、輝く鋭い二つの光が見えた。
◆
ユゥは人を助けるのが好きだ。
いつも『困った時はお互い様。周りで困っている人がいたら必ず助けなさい』とユゥに言い続け、実際、周囲にいつも笑顔で挨拶しては、ちょっとした掃除や料理のお裾分けや、お年寄りの相手もよくしていた両親がいたからだと思う。そしてそれが結局、彼らの娘であるユゥを皆が助けてくれることに繋がったからだろう。
だから、ユゥも両親を真似て、周囲への親切を心がけた。栽培士になって身に着けた剪定と植生管理の能力を活かして、共同住宅の古びた導水管を整備したり、給金の一部で蓄熱光葉を中層から取り寄せ、木漏れ日が落ちる場所に設置して、夜でも僅かな照明がつくようにした。
その度に、これまで自分がお世話になってきた人達は皆、驚き、喜んでくれた。
そうした心がけが自分なりの恩返しであり、誇りだとユゥは思っていた。
だから、今こうして異臭に塗れた不審者を背負って自室への階段を上がっているのも、また人助けだ、とユゥは自分に言い聞かせていた。
ほとんど自力で歩けない人間の体は予想以上に重く、饐えた匂いが鼻腔に突き刺さる。
「もう少しだから、頑張ってください……!」
ユゥは自分に言うように声を押し殺し、震える足に力を込めた。襤褸くずのように傷ついて脱力している怪我人の身体を持ち上げ、何とか自室の中へと押し込んだ。
深夜とは言え、隣人のおかみさんはまだ起きているかもしれない。
苦労して、極力、音を殺した。
「――水、もらえる?」
すぐ傍で発せられたごく若い掠れ声に、息も切れ切れのユゥは飛び上がりそうになった。
体の感触から女だとは思っていたが、こんなに若いとは思っていなかったのだ。
慌てて汲み置きの樹蜜を器に注いで持ってくると、女は、音を立てて一気にそれをあおり、咳き込んだ。
「何、これは」
貴重な樹蜜が床にこぼれ、ユゥは慌てて器を受け取る。不審者は何か悪態と共に、荒い息をついて頭を振った。
――樹蜜を飲んだことがないんだ。
直感的にそれが分かり、室内灯に照らされた彼女を見て、ユゥは息を呑んだ。
都市のどこでも見かけたことのない彼女の服は頑丈そうな革製で、あちこちに物入れが付いていた。縮れた髪隠が乱れて顔を隠し、全身が埃と汚れに塗れている。よく見れば、腕と脚には黒ずんだ染みがあり、濃い血の匂いがそこから溢れ出していた。
「あの、怪我、見せてください。手当てしないと」
彼女は低く唸ったが、衰弱しているのか強い抵抗はしなかった。見たことのない構造に手間取りながら強引に服を脱がせると、程なく彼女の身体と怪我の様子があらわになった。
筋肉質な四肢と引き締まった腰回りからは、明らかに肉体を酷使する日常を送っていることが伺えた。それも、単に痩せているとか身体を鍛えているというのではない、動物的なしなやかさがあった。
そうだ、いつか教本の挿絵で見た山猫や虎に似ている気がした。
害虫や敵との戦いに備えて鍛えている栽培士達とは根本的に違う野生の身体。街ではなく自然の中で獲物を捕らえ、敵から隠れ潜み、駆け、生き残るための身体だ、と直感した。
「寒いよ。手当て、してくれないの?」
彼女の呆れたような掠れ声に、慌てて棚から消毒薬と止血帯を出して傷口に使った。どちらも栽培士に支給されているもので、後々使途の報告が必要だったが、そんなことを考えている余裕はなかった。
目の前にいる女性が“困っている人”なら助けるのが道理。そう念じるようにして手を動かした。
されるがままに手当された姿のまま、疲れ切っていたのか寝息を立てる彼女を見て、彼女を助けると自分自身がむしろ“困ったこと”になるのではないか、という思いが、ユゥの中で膨らんでいった。
◆
翌朝、眠ったままの彼女を部屋に残し、ユゥは仕事に出た。
今日の作業は下層街で都市計画以上に伸びすぎた茎の剪定だったが、自宅の様子が気になって身が入らないどころではなかった。
しかし、夕刻に帰宅したユゥの心配に反して、彼女は部屋の隅で身を起こし、ユゥが置いていった樹蜜の器に不味そうに口をつけていた。
「おかえり」
おどけた様子でユゥを迎えた彼女は、“香”と名乗った。その四肢にユゥが巻いた止血帯は、滲んだ血が既に固まっており、全身を覆っていた体臭と血臭は丁寧に身体を拭ったことで収まっていた。
しかし、それが、却ってそれ以外の匂いを際立たせていた。強い植物の青い香りに、脂の匂い、それに血に似て異なる湿った匂い。
「あなた、“栽培士”なんだね」
名乗ったユゥにそう呟いた彼女の縮れた黒髪は整えられ、まだユゥと変わらない歳と思える若い相貌が露わになっていた。肌の血色はまだ悪かったが、その瞳は太陽のように明るく、鋭い。
「助けてもらって失礼だけど、凄い味だね。これ」
隣室の気配を気にしてか囁き声の香は、からかうような調子で空になった器を指した。
「上層のはもっと美味しいらしいですけど、それでも貴重なんですよ。樹蜜は」
ユゥの声に、彼女は顔をしかめた。
「シロップを海水で割って混ぜたみたい」
彼女が呟く言葉にユゥの鼓動が速まり、直感が確信に変わった。
「あなたは、外から来たんですね?」
ユゥが思わず訊いてしまった言葉に、香はじっと見つめ返した後で、黙って微笑んだ。
「だったら? 治安維持隊に突き出す?」
囁き声で香が言い、ユゥは身を固くした。
彼女の身体の傷は、まさに外敵から街を守るために治安維持隊がつけたのだろう。ならば、彼女は都市の客ではなく敵ということになる。
栽培士の規則でも、都市外から侵入した敵対者は“外敵”として通報、拘束が鉄則だ。反すれば罰則を科せられる。
しかし、ユゥは彼女の言葉に反応できなかった。彼女の陽光みたいに暖かな視線に警戒心を溶かされたのもあるし、初めての都市外の存在との接触に戸惑っていたこともあるが、何より自分の内側から湧いてくるむず痒い感情に突き動かされていた。
ユゥは、彼女をもっと知りたくなっていた。
「……あなたが本当に外の人か、私は確かめようがありませんから」
「それは、そうかも」
そう言って、香はユゥの寝台の上で横向きになって静かに笑い、そっと耳元に手をやった。
香が伸ばした手からユゥの掌へ、指先ほどの大きさの欠片が転がった。小さな渦巻き型のそれは、香の耳たぶに付いていた七色に光る装飾品だった。
鉱物にしては軽すぎ、“樹体”由来の物にしては触感が硬質だった。
「貝。海に棲む生物の殻だよ。手当てのお礼に、あげる」
まじまじと欠片を見つめるユゥを面白そうに見返した後、香は目を閉じて寝息を立て始めた。
◆
ユゥは、寝台を占領して眠ってしまった香を横目に、ヒカリゴケを繁殖させた灯り台に七色の欠片を翳し、胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
海については、ユゥも知識として知っていた。
それは雨水が行き着く先、あらゆる水の源であり終端地。星の半分以上を覆っているという巨大な水の半球だ。水の層が厚く、深さがありすぎて沈んでしまうので重量物は建造できず、海上の移動には船という乗り物を使う。
ユゥが知っていたのはそこまでだった。
しかし、この七色の小さな欠片をきっかけにして、体がまともに動くようになるまでの数日間、香は様々なことを教えてくれた。
まず、海の生物の存在。この小さな“貝”のように、陸生とは別系統の進化を遂げた生物がいる。
そして、その生物や残骸を回収して装飾品に加工する人間達がいる。七色の欠片は透明でごく薄い皮膜で覆っており、極めて精密な構造の螺子で耳朶に固定する仕組みだ。
こんな高度な技術を装飾品に使用できる技術と生活の余裕があり、全く別の文明圏であるこの植物都市に侵入し、こうして意思疎通できる技術を持った別の都市があるのだ、ということは香が言うまでもなく、察していた。
香は自分が身に着けた革製の服を指して「これは海獣の革」と事も無げに言う。
使われているのは、見たことがない材質の継ぎ目がない一枚皮だ。その精緻な造りから、香が何も言わずとも、ユゥが知るより洗練された縫製技術が存在することは明らかだった。
高い技術を有する生活圏と、それを支える生物層、もしくは“樹体”のような人間が寄生できる巨大生物が、そしてここと同じような都市が存在する?
ユゥがぶつける推測に、香は言葉を濁した。香が教えてくれるのはこの星や自然のことだけで、彼女がどこに住み、どんな生活をしてきたかは語ってくれないのだった。
やがてユゥの疑問は一つに収束した。
高度な文明と文化を持つであろう都市のある外部。そんな外の世界から訪れた香は、一体何者か。その目的は?
「あなた、何のためにここへ来たの?」
ユゥは、数日間、香の面倒を見ながら、度々そのことについて問うてみた。
香は、あなたを巻き込めないから、と言ってその度に黙った。
たった数日で、驚くほど速く香の傷は回復していき、寝台から容易に立ち上がれるようになった。
最初のうちは、知らない街の知らない女の部屋で眠ることに緊張を覚えていたらしい寝顔も、今では随分穏やかだった。
「私は、あなたを助けて良かったの?」
ユゥの囁き声に、香は眠り込んだまま答えない。
彼女の横顔を視界の端に収めたまま思索を続けるうち、ユゥも香の横でいつしか浅い眠りに引き込まれるのだった。
意識が遠のく感覚に、ユゥは海に沈んでいく自分を想像した。
◆
夢現になりながら、ユゥは栽培士になった日のことを思い出していた。
下層民の中から栽培士になった者達は、樹体の基部である三叉の大幹に集められ、上層から来た“指導部”の遣いから訓示を受ける。
黒布の面で顔を隠した指導部の高官は、くぐもった典雅な言葉でユゥ達に教えを述べる。
一、樹体の健康を保持せよ。
一、市民の安全を確保せよ。
一、都市の繁栄に貢献せよ。
この三大原則に続く多くの規則の中に、脅威への対応があった。
一、都市を脅威から守護せよ。都市の防疫機能の一翼を担い、異物と変化を排除せよ。
それは、数ある教えのうちの目立たない一文に過ぎない。
“樹体”には外敵など滅多に近づかなかったし、不用意に近づいた害獣や野鳥も“樹体”の防衛植物群が食い散らす。稀にそれらから漏れた獣は治安維持隊が駆除してしまう。
下層の集落は住民相互の信頼で成り立っていて、ごく稀に乱暴者が現れても、ほとんどが都市の教えによって改心する。
人々はみな結局、家族を、都市を、“樹体”全てを、等しく愛しているのだ。
ユゥ自身、そのことに疑問を持ったことはなかった。
香に会うまでは。
◆
体を激しく揺さぶられ、ユゥの意識は急激に浮上した。
半覚醒になったユゥの耳に、香の言葉が届く。
「起きて。私、急いでここを出なくちゃいけなくなった」
押し殺した声が耳元で聞こえ、ぼやける視界の中で早朝の光が窓から横殴りに差し込んでいるのが見えた。
知らぬ間に眠り込んでしまっていた。慌てて、香に返事をしようとして言葉が出てこないことに気づいた。
背後から、強い力で口を覆われている。
驚いて体勢を変えようとして、手足を紐状の何かで縛られて動けないことが分かった。
「ごめんね、こうしないとあなたが困ると思って」
香のすまなそうな声と、思いのほか強い掌の力を口元に感じ、ユゥは恐怖より安心感を覚えていた。
数日の間に、彼女はかなり回復したらしかった。
しかし、その香が続けて囁いた言葉を、ユゥは掴みかねた。
「あなたがいなければ私は使命を果たせなかったから、あなたには感謝してる」
ずっと聞けなかった問いの答えが、明かされていた。
「だから、私の言うことをよく聞いて。私は……この街が滅びないよう、警告しに来たの。この都市は老いて、気候の変動にも耐えられなくなり始めている。様々な重みを支える力も衰え始めている。遠からず、この都市は死ぬよ」
少しの間、香が言葉を切り、周囲の音に注意を払う様子が伺えた。
早朝、勤勉な住民達が動き出す気配がわずかに感じられる。その気配の中に、いつもとは違う音が混じっていることに気づき、ユゥは身じろぎした。
それを敏感に察したのか、香が口早にユゥに向けて囁いた。
「樹体の、都市の死は止められないよ。都市は生き物だから」
ユゥは、香の言葉に不思議なほど強い反発心を覚えながら、目を逸らしてきた事実を突きつけられるのを感じた。
「もし、私がこの都市の中枢を説得するのに失敗したら、その時は、あなただけでも逃げて。そして私達のところに来て。海辺で灌木を燃やして狼煙をあげれば、私達、“救世旅団”が駆け付ける。あなたと、世界中の――」
そこで言葉は途切れ、部屋の入り口の方で何かが爆ぜる音がして、同時に背後から香の気配が搔き消えた。
大きく放たれた窓から人間が飛び出していく音がして、ユゥは解放されていた。
抱えられていた体勢を崩して床に転がったユゥは、乱暴な複数の足音が部屋に踏み入り、怒号が飛ぶのを聞きながら、寸前に聞こえた香の声を頭に刻み付けていた。
――あなたと世界中の都市の、命を守るために。
◆
部屋に踏み込んできたのは予想通り治安維持隊の男達だったが、予想に反して彼らはユゥを解放せず、そればかりか、ユゥに何も問わず、弁解の猶予さえ与えてくれなかった。
彼らはユゥの部屋を勝手に荒らし、部屋の緊急用伝声管を開いて、どこかに向かって報告をしていた。
その内容からして彼らは香を単純な侵入者、敵として探しているらしかった。口汚く香を罵る治安維持隊の面々に、ユゥの中でもどかしさと不安が沸き起こった。香は、この都市を救うための重要な情報を持っているはずで、保護こそすれ、敵対する理由はないはずだ。
しばらく後、香がユゥを縛った麻紐のうち足首の方は解かれたものの、ユゥは後ろ手を縛られたまま、男達に移送されることになった。
部屋を出る際、隣室のおかみさんが気づかわしげに扉から顔を出したが、無骨な治安維持隊の男達を前に、声を掛けてくることはなかった。
そのおかみさんの戸惑いの表情が、ユゥは何より辛かった。
今まで、あんなに良くしてくれた人に不安な思いをさせてしまった。栽培士が“敵”を匿ったとなれば、朝陽荘が治安維持隊から目を付けられる可能性だってある。そうなれば、どんな生活上の不利益があるか……
いや、今は共同住宅の皆のことより、自分の身に差し迫った危険、つまり厳罰処分の方が大事なのかもしれない。
それでも、いくつもの窓から顔を出してこちらを見つめる住民達の不安そうな表情に、ユゥは胸が締め付けられた。
◆
治安維持隊の男達は、黙々とユゥを都市の中央区域へ移送した。
都市の全区画を支える巨大な三叉の大幹は今日も朝の陽光を受けて雄々しく屹立している。
ユゥは、こんな時でありながら滅多に間近で見れない雄大な立ち姿に陶然となった。幾万、あるいは数十万人に達するという中層から上層の住民達を何千年も支えている巨大な生命のうねりが、年老いてなお力強い巨樹に宿り、豊かな水と滋養を無数の管が送り届けている。
思わず立ち止まっていたユゥは、治安維持隊に小突かれて再び歩かされ、三叉の大幹の中央に据え付けられた昇降籠の一つに押し込められた。何かを聞く前に、安全柵も閉められてしまった。
余程質の良い発条蔓を使っているのか、音もなく身体を持ち上げられていく感覚は、不安よりも驚きの方が大きい。
ユゥが中層へ上がることは実は少ない。実際のところ、下層の栽培士は、下層で仕事をすることがほとんどだ。
同じ栽培士でも、上と下で、見えない身分の格差が存在する。
だから、ユゥは貴重な陽光に照らし出される下層の全景と、眼前に迫る中層の基部を安全柵にかじりつくようにして見つめた。
絡み合う三叉の大幹から大きく張り出し、編み上げたような幾つもの太い枝々と葉々に建造された居住街区は、ユゥ達が住む下層域を覆うようにして陽光を享受している。
樹体に接ぎ木をして栽培されている果樹園と共に、清潔に整然と区画整理された住宅街が拡がる。その多くは下層のような密集した共同住宅と違い、平屋か二階建ての一軒家だ。
畑には下層で見ることも稀な果実があちこちで色彩豊かに実り、太い束になった維管束があちこちで露出して、耕作地に水と滋養を送り込む養液が煌めいて見える。
地下茎構造から運搬されてくる芋や、街区外の無法耕作地帯で採れた怪しい作物ばかり食べている下層とは比べるべくもない。
いつか、下層にもあんな豊かな畑を作れたら――
自分が置かれた状況も忘れて、その光景に見惚れていたユゥは、昇降籠が中層の枝々で止まらず、更に上へと向かっていることに気づいた。
昇降籠は、一度も踏み入れたことのない未知の領域、上層への直通だったのだ。
ユゥは、茫然となって上空に拡がる真っ白な三枚の巨葉が近づいて来るのを見つめ、やがてその基部に開いた穴へと昇降籠が吸い込まれるのに身を任せた。
意識しなければ感覚できない滑らかさで昇降籠は止まり、まるで雲の上にいるかのように清浄な空気の中、ユゥの前で安全柵が開いた。
そこに立っていた黒布の面をつけた高官が、聞き覚えのある声でユゥに告げた。
「二級栽培士、ユゥ=ハマミ。お前を“花冠”へ連れていく。従え」
ユゥは、恐れ入って目礼をしながら、全身の神経が研ぎ澄まされていく自分に気づいた。
何が起こるのかは分からなかった。しかし、恐らく、自分の命を左右するやり取りが起こるだろうことは想像できた。
◆
高官に連れられて歩く間も、ユゥは周囲に目を配って観察を続けた。
上層都市は下層を覆うような広さがあった中層と違い、巨葉の台地自体がやや小ぶりで、建造物の数も少なかった。
ユゥがこれまで読むことができた上層に関する文献は多くないが、栽培士が知るべき基本的な組織や“樹体”の構造として、知識は頭に入っている。
中央から放射状に広がる三枚の巨葉をそれぞれ、軍事、立法、学術を司る各機関が占有して互いを牽制しあっていること。
遠く見える緑水晶でできた神殿が“智翠宮”で、栽培士が属する学術機関であること。
てっきりそこに連れていかれると思っていたユゥは、神殿を横目に素通りして、“樹体”の頂点を目指して歩かされていることに気づいた。
――お前を“花冠”へ連れていく。
そうだ、高官はそう言っていた。ただ、実感が湧いていなかった。
都市の中で唯一、巨大な複数枚の花弁によって構成されている都市行政の最高意思決定機関にして、特権階級民が住まう中枢区域“花冠”。そこは本来、一級栽培士の中でも選ばれた者しか入ることができない場所だ。
樹体の中をくりぬいて造られた螺旋階段を上った先の巨大な城郭が“花冠”の正体だ。その中では下層や中層はおろか、上層の葉々にも流通しない稀有な植生が育まれ、各層の情報が“樹体”を巡る様々な管を通して集められていると言われる。
花冠は、栽培士だけでなく、全ての住民にとって憧憬と畏怖の対象だ。
先を行く高官から離れないよう、苦労して巨大螺旋階段を歩き、やがて城郭の中へ招かれたユゥは、いくつかの扉を抜け、まっすぐにその中心に建造された薄暗い大広間へ歩み入っていった。ほぼ真円を描くそこは、周囲に百を超える席を持つ大きな円形議場だった。
ユゥを連れてきた高官は声も掛けずに空いていた席に着き、薄闇に紛れて他の高官たちと見分けがつかなくなった。
見上げれば、透明な天窓から帯のような光が降り注ぎ、眩しいくらいに議場の中央だけが輝いている。
その光景に言葉を失っていたユゥに声が掛かった
「こちらへ」
議場の中心、円形劇場の舞台にも見える場所から、一人の女性が両手を拡げてユゥの方を向いていた。付けた布の面が黒ではなく、美しい装飾を施した白い色であることから、恐らく高官の中でも更に高貴な身分であることが伺えた。
ユゥが彼女の立つ場所まで進み出ると、彼女は意外にも柔らかい調子の声で告げた。
「御覧なさい。そのほうが早いでしょう」
そう言って示された円を描いて座る高官たちの席に、無数の映像が浮かんでいるのが見えた。
議場に入った瞬間には気付かなかった。席に座る高官達には自分の眼前の映像が、そしてこの円形議場の中心からは全ての映像が見える仕組みらしかった。
「“琥珀鏡”からの映像です。あなたも夜の中層を見上げた時、光を見たことがあるでしょう?」
琥珀鏡? あれにそんな力が……?
高官の言葉に、ユゥは返事もできず、映像の数々に唖然としていた。
それは確かに都市の様々な場所の映像だった。低層の治安維持隊、広場に集って何かを話す中層の人々、清潔で格調高い衣服を身に着けた学者や軍人の上層の人々まで、都市の全てが映っていた。
と、議場の中心に投影された特に大きな映像に、香が映り、ユゥは息を呑んだ。
香は、低層都市の共同住宅を屋根伝いに走って、逃げ続けていた。映像は香の緊張した表情が分かるほど鮮明だった。
「あの娘を知っていますね?」
高官の柔らかい声に、ユゥはずっと考えていた説明の文句をぶつけようとした。
「はい。あの……彼女は…その…害を成す存在では……」
結局しどろもどろになった言葉に、高官は穏やかな声で告げた。
「ええ、知っています。だからこそ、私達はあなたをここへ呼んだのですよ」
白い布面越しにも彼女が穏やかな笑みを浮かべている空気が伝わってきて、それが不気味だった。
「見ての通り、我々、“花冠”は、常に都市のあらゆる場所と人を見守り、敵対者を追跡し、排除し、この都市を守ってきました。それは栽培士も例外ではありません。そう、あなたは博愛と良識を持って周囲と都市に尽くしてきた、とても良い娘です。長年のご両親の教育の賜物でしょう」
言外に、人生を丸ごと監視されていたことを匂わせる言葉に、ユゥはただ圧倒されるしかなかった。
「ユゥ=ハマミ。あなたは本当にひたむきで素直な娘です。この美しい“樹体”都市を信じ、貢献してくれている。あなたが、あの女性を助けたのも、都市とご両親の教えによって、彼女の本質を見抜いたからではありませんか?」
ユゥは高官の滑らかな声に戸惑うしかない。
自分はただ、夜の街で倒れ、傷ついていた人間を手当てしたに過ぎない。香は弱りながらも、どこかに向かおうとしていたし、必死で背負った何かを果たそうとしていた。放っておけなかった。
高官はユゥの背後に回り、秘密をそっと打ち明けるように耳元で囁いた。
「あれは、“救世旅団”の者でしょう?」
耳孔に柔らかな声が滑り込んで来るや、ずっと後ろ手を縛っていた麻紐が何かに断ち切られ、両手が自由になったのが分かった。
滑らかな肌をした高官の手によって、自由になったユゥの両手が前に回され、その掌に小さな袋が一つ、そっと乗せられた。
「これは、上級栽培士としての、あなたの最初で最大の仕事」
手振りで促され、恐る恐る小袋を開ける。
中には砂のようにざらついた質感の黄色がかった粒子が、ごく少量入っていた。
「これをあの娘に飲ませること。この都市に住む、全ての人々を救うことになる、大事な仕事です」
◆
帰路の昇降籠の稀少な景色がユゥの心を動かすことは無かったが、 それでも、都市の周囲まで拡がる景色を見るユゥの視線は止まらなかった。
都市の下部に拡がる非合法の畑と荒野。その向こうに見える緑の平原と遥か先に拡がる山稜。
静かで雄大な景色を前にすると、この都市が世界の中心だと言われても不思議ではなく感じる。
だが、山裾に拡がる森の上空を名も知らぬ鳥が飛んでいるのを見れば、そんなことはないと気づく。
そして、その先に恐らくあるはずの、海。
世界は広く、未知で、未開だ。
だからこそ、この都市は尊く、そこに住む全ての人々は愛おしい。
そう思っていた。
でも、そのために、この世界に住む他の人々を犠牲にする必要があるとしたら?
白い布面をつけた高官の、隠された顔面が、その言葉と共に思い出された。
――この都市が、老いて、朽ちようとしているのは本当です。
――しかし、都市が崩壊するまで、十数年は猶予があります。
――その間に、我々は新たな都市を創造し、そこへ移住することができます。
――そのためには、都市外を旅する人間に“樹体の種”を飲ませ、都市を生み出す苗床にする必要があるのですよ。
――聡明な栽培士であるあなたには、もう分かりましたね? あの娘の信頼を既に得ている貴方なら、何の問題もなく彼女に“種”を飲ませ、都市の外へ導くことができる。
――“救世旅団”が遣いを送って寄こした今こそ、千載一遇の好機。この都市の誰をも犠牲にせずにことを成すことができる、これは最初で最後の機会でしょう。
――あなたにしかできない。崇高な仕事です。あなた自身と、あなたの愛する全ての人を、ひいてはこの都市全てを守るために。この“樹体”都市がかつて同じ営みによって生まれたように。
それらの言葉を反芻しながら、昇降籠を降り、歩いて、いつの間にかユゥは朝陽荘の自室の前にいた。
扉を開けて中に入ると、奥の窓際に、香が座り込んでいるのが分かった。
一日中、治安維持隊に追い回され続け、この部屋へ追い込まれたのだろう。夕陽が斜めに入り込んで逆光になった部屋の中でも、疲れ切っていることがよく分かる彼女の表情を見て、ユゥは手に持っていた小袋を強く握った。
「似合ってる、それ」
そう言って笑った彼女の言葉と視線に、ユゥは思わず左耳に手をやった。
七色に輝く貝殻の硬い感触が指先に当たって、鼓動が弾んだ。
「ねぇ、何か食べるものある? できれば、“樹蜜”以外でさ」
ユゥは、彼女の冗談めかした言い方に、笑いを返そうとした。
けれど、出てきた声は、しゃくりあげるような嗚咽にしか聞こえなかった。
◆
幼い頃、ユゥは身体が弱く、よく母が滋養が付く様にと薬草類を入れた汁物を作ってくれた。父は“樹体”に生える様々な植物の鑑定と採取を生業にしていたから、生薬の知識も豊富で、家にはいつも不思議な匂いが溢れていた。
幼い頃は癖のある匂いの薬草汁が苦手だったが、両親が亡くなった後、最も作り慣れ、最も想い出に残っているのはこの料理だった。
「また、これなの?」
笑みを浮かべながら、ゆっくりと炊事場へ歩み寄ってきた彼女に、ユゥは心臓が跳ねるような気持ちがした。
小袋は服の袖口に入れたままだ。ユゥは、緊張が声に出てはいないかと冷や汗をかきそうになりながら、ゆっくりと声を出した。
「すぐできるから、休んで待ってて」
「早めに頼むよ。くたくたで、空腹なんだ。治安維持隊の奴らしつこくて」
鍋をかき混ぜ、椀を二つ取り出す。
部屋に戻っていく香の背中を見つめ、小袋を開いた。
日が落ちた薄暗い炊事場の中で、それは希少な砂糖の粒にしか見えなかった。
それは一瞬だったが、ユゥにはとてつもなく永い時間に思えた。
両親の言葉、この街の景色、共同住宅の皆、栽培士になった日のこと。高官の言葉。
椀の一つに震える指で袋の中身を落とした。
音もなく滑り落ちていく粒の光が恐ろしく、その存在を隠すように汁物を注ぎ、匙でかき混ぜた。
湯気を立てる二つの椀を盆に載せて部屋に入ると、出窓の外を香がぼんやりと眺めていた。
「この都市は堅牢だね。とても中枢には近づけない。明日にもここを発つよ」
吹っ切れたようなその言葉を聞いて、ユゥの中で、ふつっと糸が切れるような感覚があった。
そっと、出窓に椀の一つを置くと、ユゥは香に向かい合って座った。自然と、視線は手元の自分の椀に落ちた。
「熱いから、気を付けて」
自分のものではないような言葉が口をついて出た。
「ユゥは、優しいね」
香のそろそろ聞き慣れた笑いを含んだ声に、心臓を貫かれる思いがした。
見抜かれたのだろうか?
いや、それは、見抜いてほしいという願望だ。
人を助けることばかり考えてきた自分が、本当に求めていたのは自分への救済だったのだと気付いた。
偽善者め。
ユゥは、とても、香の方を見ることができなかった。
息を吹きかけて椀の中身を冷ます音と、そっとそれを啜る音が部屋に響いた。
「うん、美味い」
香の一言に、もう後戻りできないことが分かり、凍えそうな寒気を覚えた。
ユゥは、必死に震えを抑えながら自分の椀を慎重に持ち上げ、口をつけた。
口の中に入ってきた熱い液体からは、何の香りも、味も感じなかった。
◆
「本当に大丈夫なのか?」
翌朝、どこかに隠していたらしい旅荷物を持ってきた香を連れ、ユゥは堂々と都市の外郭へ向かった。
「栽培士の権限があれば、治安維持隊は手を出せないし、都市の外壁も通過できるから、大丈夫。安心して」
ユゥの乾いた言葉は嘘ではない。栽培士の職務に治安維持隊が文句をつけることは無い。まして、今は“花冠”直々の任務を遂行している。
文句があるなら“花冠”に言え、の一言で済む。
香は、訝しむ表情でユゥを見つめていたが、やがて何かを納得したのか、真剣な表情で頷き、並んで歩き出した。
ユゥは、不思議な程に心が昂揚していた。
何か精神の箍が外れた感じだった。
半日かけて辿り着いた外壁の監視塔には、偶然にもユゥの顔見知りの青年が詰めていて、ユゥが頼み込むと二人を城壁に通してくれた。
振り返り、天頂からの陽光を浴びて輝く“樹体”の全景を見上げ、ユゥはその荘厳とも言える巨大な存在に、挑むように大きく息を吸った。
自分が生まれ育った街区が小さく見えた。
「行こう」
外壁を降り、恐ろしく小さな門をくぐり抜け、荒野に出ると空気が一変したのが分かった。外は、とても冷たかった。
ここまでで良いよ、と呟いた香に、ユゥはかぶりを振った。
「私も行く。務めだから」
その言葉に、香が同じようにかぶりを振った。
「大丈夫。ちゃんとここから離れて開けた場所まで行く。こんな場所で“発芽”したら、大変なことになる」
この人は何を言っているんだ?
ユゥの息が詰まり、目の前がちかちかした。香の声が響く。
「これも“救世旅団”の務めだよ。この務めを、都市の苗床になることを条件に、孤児が生活を保障されるのが旅団の仕組みなんだ。私は十分生きて、苗床になれるぎりぎりの齢になった。そして使命を受けて、ここへ来た」
香の良い匂いがする腕に抱きしめられて、ユゥは声を詰まらせた。
「だから、ユゥが責任を感じる必要はない」
その一言に、涙が出てきた。どうしても止まらなかった。
ユゥは涙声のまま、言葉を選んだ。
「せめて、最期の旅を、一緒にさせて」
ユゥは、香を抱き返しながら、“発芽”の時までできるだけ遠くへ、香と一緒に行こうと心に誓った。
海を見たい。
そんな少しの我儘を、香はきっと赦してくれるだろう。
私は、世界を視たかったんだな、とユゥは初めて自分の本当の欲望に気づいていた。
香には一つだけ嘘を告白しなければならないが、彼女も嘘を隠していたのだから、これも一つの『お互い様』だろう。
この嘘は、きっと“花冠”も、香も気づいていない。琥珀鏡でも捉えきれなかったに違いない。
炊事場の奥でどちらの椀に“種”を入れたかなんて。
誰も犠牲にせず、“樹体”も滅ぼさず、望みも叶えた。そして、孤独でもない。香はきっと最後まで私と一緒にいてくれる。
そんな静かで傲慢な空想をして、ユゥは微笑んだ。
腹の底に、ごくわずか、しかし確かな“発芽”の痛みを感じながら、祈った。
再び“花冠”に種子が宿る頃、香と私の意志を継ぐ者が現れるまでに、みんなが救われていますように、と。
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