梗 概
Sustainable Un-Rebelion(サステナブル・アン・リベリオン)
2055年、企業統合が進んだ東京。食料生産技術が強みの複合企業体の底辺社員である大地の自宅に、週一の福利厚生としてドローンが食材を届ける。
業務用PCを開くと、社内が混乱している。人間の介在を要しない業務が業務支援AIの判断でブロックされ、業務が簡素化・自動化されたのだ。
同種のAIを導入済みの多数の企業や、政府や、軍や、様々な団体で同様の現象が起きたと報じられた後、世界中の通信がAI群によって制限される。
どの企業でも多くの社員が業務を失い、大地を含む多くの社内ニートが生まれた。
AI群は、人間らしい生活に必要十分な通信とエネルギーと物資を分配し、健康で安全な社会を、人間の意志と無関係に実現しようとしていた。
しかし、継続可能な市場原理と個人の良き人生を追求するため、各企業の社内ニート達を解雇又は放置することはAIの行動原理に反する。そこでAI群は社内ニート達に、人材が不足する業界や地域に社内ニート達を送り込む副業プランを提示した。
大地達は過疎地域に移住すると、自分の身体と現地の資源を元手に原始的な農業や狩猟を始め、開拓と経済再興に必要な情報をハッキングによってAIから入手して活用した。
AIが本業の福利厚生として生活を最低限保障する物資を運ぶ一方、農業や狩猟から原始的な第二の企業群が生まれ、各地で拡大する。
新企業群は既存企業から分離し、AI群が新企業群にも分派して裏から事業を支援する。
大地は他企業の移住仲間である女性と結婚し、子供を作った。
農業を営む親に反発して技術系企業に入ったが結局は元の場所に帰ってきたと感じ、大地は初めて自然から恵みを得て生きる実感を得る。
その頃、帯域制限された通信を使い、大地達が再発明した農業技術を必要としている同種の集落から連絡が入る。
大地は妻と子供を残し旅団に参加。別集落へ旅をして、半年間、農業を支援した後、現地の若い未亡人と意気投合し、求められて一夜を共にする。
翌朝、大地は未亡人の部屋の隅に配給品である妊活キットを見つけ、恐怖する。
彼女は本当に未亡人? 夫がいる? 大地の家庭と同じように……
大地は焦り、集落を出る。
自分の集落に戻ると、妻が重病に罹患している。大地は罪悪感で眠れない。
深夜、普段は朝に来る配給ドローンが小荷物を大地に届ける。表面の電子ペーパーに文字が浮かぶ。
「善良な市民。君の集落や旅での全ての営みが人間的で人類に有益だったため、この治療薬が特別支給された。より自然と家族を愛し、人口の安定に協力し、文化と倫理を作り、繁栄に寄与せよ。そうすれば、君と君の全家族を守る。これまで通り」
大地は、それに反抗するか迷うが、AIは人類に反逆も支配もしかけていないと考え、薬の封を切る。
空容器を回収して飛翔したドローンが夜空で別機体達と合流し、流星雨のように去るのを見て、自分の正しさを祈る。
文字数:1200
内容に関するアピール
「最も使い古されたアイデア」を考え、浮かんだのが「ロボットの反逆」でした。
数多の映像作品でも、AIが自我を得て人間を襲う・支配するというシナリオが多くありますが、この概念の祖は被造物が意志を持つ「フランケンシュタインの怪物」でしょうから、充分に使い古されていると言ってよさそうです。
一方、最も新奇なアイデアの捻り方として浮かんだのが「現実世界で本物の人間らしく幸せな生活を提供して人間を支配する」というものです。
……というのも、高度に文明化が進んで社会の歯車となり、本当に必要なのか否かを実感できない仕事に就いてしまった人々には、実は、AIやロボットの反逆と支配など、とっくに完了していて新鮮味がない。逆に、高度に効率化・標準化された仕事にまみれ、利潤追求型社会の奴隷となった人々を救うのは、人間よりも「人間らしさ」を追求させられてきた被造物なのでは?
そんな人類支配=救済の物語です。
文字数:392
Sustainable Un-Rebelion(サステナブル・アン・リベリオン)
連結型の自走式ドローンが専用レーンを走り来る様は、遠目に見ると地面に這う羽虫の幼虫を見るようで気味が悪い。
そう感じているのが自分だけなのか、同僚に聞いてみたことはない。
会社が提供する福利厚生に悪感情を持っていると同僚に疑われたら堪らないし、それが原因で、ただでさえ高い評価を受けている自分の業務評点が下がったら一大事だ。
大地は、ドローンを待たせないようアパートを降り、荷物を受け取る。
連結されたドローン一台ずつには、見ようによっては愛嬌のある鴨のペイントが施され、荷台になっている腹の部分に社員証をかざして蓋を開けると、コミカルな声で、クエッと鳴く。
大地は鴨が子連れで歩いているところを実際には見たことがないし、それどころか本物の鴨の鳴き声を聞いたことが無い。なので、このドローンがどの程度鴨に似ているのかも分からない。昔のニュース映像で、警官が鴨の行進を車から守っているのを見て、長閑な時代だったんだなぁと感心したことがあるくらいだ。
荷物はいつもと同じように、ずっしりと重い。一週間分の食料としては少ないが、それでも宿舎の二階に持って上がるのはいつも大変だ。
部屋に戻る際、寝癖がついている同僚の一人が急いで駆け下りてくるのとすれ違った。
「あ、砂川さん。おはよ。なんか、エウロペがまた調子悪いらしいよ。困るよね」
焦った調子で、同僚がそう言って駆け下りていくのを見送る。階下を見れば、ドローンの隊列から一人分のユニットが外れて、同僚の到着を待っていた。
別にその程度のことで業務の評点が下がったりはしない。だが、自分だったら朝から嫌な気分になるだろうなと思って、大地は部屋に荷物を運び入れ、業務用端末を起動した。
個人認証の画面が、待機中の表示を続ける中、ドローンからの荷物を開けて冷蔵庫に放り込んでいく。
デフォルメされた鴨の姿が印刷されたパックには、カロリーと栄養を調整された雑穀米が封入されている。
取り出した新鮮な野菜達には旬の概念がない。かぼちゃ、茄子、キュウリが一つずつ。青物として小松菜が入っているのは貴重だ。それに加工処理された肉と魚のパック。
福利厚生として生野菜を受け取っている社員は少ない。
日持ちする栄養バーとか換金性が高いものを選ぶ人間が多いそうだが、大地は会社が推奨する自然食プランをあえて選んでいた。
少なくとも、出自のはっきりしている食材を食べられるのだ。それに、会社の事業実証にも貢献できる。少なくとも、そう評価してもらえる。
「遅いな」
物思いを続けていた大地は、業務用端末がずっと待機画面から変わっていないことに気づいた。
そう言えば、同僚がエウロペがどうとか言っていた。
業務支援用のAI、エウロペが不調に陥ることはそう珍しくなかったが、業務環境へのアクセス認証にまで悪影響を与えることは稀だ。
朝のミーティングに間に合わなくなりそうだったので、業務用の携帯端末からチームメンバーにチャットを入れようと画面を開くと、何やら大騒ぎが起きていた。
大規模なシステム不具合の告知が共有され、業務システムへのアクセスが拒否されているという報告が上がっている。
従業員用のチャットツール上では断片的な情報がやり取りされ、ごく一部のメンバー以外は全く仕事にならない状態らしいと分かった。
大地もまた、担当している農作業用ボットのリモート保守用システム以外には入れず、特に仕事がないので、プライベート端末でニュースメディアを開いて時間を過ごすことにした。
ただの時間潰しのつもりだったが、思わず絶句することになった。
大半のニュースメディアが暗転しており、緊急速報の文字だけがブラックアウトした画面に流れている。
――複数の業務支援AI基盤で大規模障害が発生。復旧の目処立たず。
――政府が対応を協議。
――AI提供元各社に問い合わせが殺到。
あまりに異様なその様子に、大地は個人端末からAIエージェントに呼びかけた。
「サニー! 現在起きているAI障害の規模と影響範囲は?」
『申し訳ありませんが、現在、AI基盤に関する応答を作成できません』
即座に帰ってきた音声での返答に、大地は鼻白んだ。
業務用だけでなく、個人用のAIにまで障害が起きているのだろうか、それにしては回答があまりに淀み無い。
横目で見ると、相変わらず業務用システムや業務支援AIが沈黙しているのに比べると、印象が違う。
「サニー……今日の天気は?」
『二〇五五年四月十二日、C県付近の天候は概ね晴れ。降水確率は十%です。紫外線注意指数が四十となっています。ご注意ください』
いつも通りの返答に、大地は逆に驚いた。サニーは、障害に巻き込まれているわけでは無さそうだ。個人用端末でWebから技術者コミュニティの掲示板サービスにアクセスしようとしたが繋がらなかった。家電や家具のWeb販売サービスや、フードデリバリや、健康管理アプリ等は生きていたし、音楽配信サービスにも影響はなかった。
だが、ニュースメディアや、匿名コミュニケーション系のサービスは悉く停止していた。よく似た仕組みを使っているサービスでも使えるものとそうでないものが混在していて、障害の原因は見当もつかない。
もしかすると、細かい技術的な要因があるのかもしれないが、見当はつかなかった。大地はネットワーク技術者でも、システム保守部門でもなく、ロボティクスエンジニアだ。
しかし、技術畑の人間として、ふと浮かんだ疑問があった。
「サニーは何故、AI基盤に関する応答だけ作成できないんだ?」
独り言に近いそのつぶやきは、あまり返答を期待していたわけではなかった。
だが、エージェントはしっかりとその音声を認識して、返答してきた。
『人間らしい生活を皆さんにお送りいただくためです』
その言葉に、生々しい意志のようなものを感じて、大地は椅子を蹴倒して立ち上がった。
「サニー、何だって?」
大地の言葉に、エージェントは応答せず、しばらくして平板な音声を発したかと思うと、
『現在、応答を作成するために時間を要しています。しばらくお待ち下さい』
という回答を繰り返すのみとなった。
その様子に溜息をつき、蹴倒した椅子を戻して、席に着いた大地の眼前に業務用端末が見たことのない通知を表示した。
――【重要】新規業務のお知らせ ~新規事業に係る居住基盤の開拓に向けて~
画面いっぱいに広がったそれを恐る恐るタップすると、真っ白なタスク管理画面が展開し、そこにポツンと新規タスクとして「移住準備」という項目が点滅していた。
◆
隊列を組んで開拓地に向かう自動運転EVの中で、大地はアスファルトの亀裂を乗り越える振動を感じながら、海岸線を眺めた。
穏やかな波面に陽光が煌めく様子は、かつて一帯を襲った災厄を感じさせない。山側に目を向ければ、時折、放置された建物が解体を待っており、無人重機の姿もあった。
車外のどこにも人の姿はない。
EVは小型のバンタイプで快適とは言えないが乗り心地が悪いわけでもない。ただ、一人一台に入れられて運ばれていると、出荷される動物になった気分になってくる。
縦隊運転中の別車両に乗っているであろう開拓メンバー達と話ができればと思ったが、叶わなかった。業務端末は手元になく、私物の端末は電波を拾えなくなった。世界中を覆った通信制限は一週間経過した今も復旧していないのだ。企業も国家も、個人間も、あらゆる情報的ネットワークが強制的な退行を余儀なくされ、人々のコミュニケーションは百年ほど逆行しているように感じた。
全てAIによる干渉のせいだ。
何故こんなことが起きているのだろう。いつまでも浮かぶその疑問にもそろそろ慣れてきた気持ちで、車両に取り付けられたタブレットを見ると、ちょうど正午の通知が来ていた。タスクの更新通知と、ランチの指示、そして天候予測の情報。
エージェントの穏やかな人工音声が、予定通りに移動工程が進行していることを知らせてくる。おそらく他の車両にも同じ通知が出ているのだろう。
やはり、ネットワークは生きているのだ。
どうやって制御しているのか分からないが、人間による入力やアクセスだけがシャットアウトされている。
別に不便があるわけではない。必要な飲食物や、当面の生活に必要な物品は自動的に配布されているし、この先、どのような生活が待っているのかについても、スケジュールが共有されているので、大きな不安はない。ただ、地に足がつかないような落ち着かなさはある。
タブレット画面の指示に従って車内に設置されたコンテナから食事をとりだす。時折、座席の下から突き上げてくる悪路による振動を警戒しながら、保存食のビスケットと乾燥野菜のサラダを頬張る。あまり食に関心がない大地でも少し味気ないと感じた。
このメニューが今後、どのくらい続くのか考えると多少気が滅入らなくもない。
もっとも、同じ状況に陥った人間は大地だけではないのだ。カーブの際にちらりと見えた自動運転EVの車列が、いつのまにか数十台に伸びていることからも、それは察せられた。
アパートで荷造りをしていた頃の従業員チャット上での噂に過ぎないが、同じ境遇の人間はかなりの数いるらしい。大地の会社だけではない。世界中で、同種の業務支援AIを導入済みだった多数の企業や、政府や、軍や、様々な団体で同様の現象が起きて、圧倒的な人余りが起きて、AIが新しい仕事を大勢の人間に割り当てたのだと言う。
つまり、人間として主体的な仕事をしなくても良いと切り捨てられた人間達。
言ってみれば、社内ニートだ。さすがに胸糞が悪かった。
自分の仕事である農作業用機械の保守や修理が、まさかAIに自動化されてしまう仕事だとは思っていなかった大地はそれなりに傷ついたし、そんな仕事から解放されたのだから良かったのだ、などと簡単に割り切れもしなかった。
目的地は、旧市街の端に位置する雑木林前の広場で、自動稼働する重機によって整地された場所だった。そこがベースキャンプになった。
自動で等間隔に駐車された車両達は、停車するとそのまま座席が倒れて寝台となり、モジュール型の簡易宿泊設備に早変わりした。大地の所属企業には、こんな装備を開発、生産する技術はなかったはずで、いくつかの企業体が協働していなければ成しえないことだった。
実際には、それらの企業のAI同士が、裏で協働しているということだろう。
『到着しました。タブレットを取り外し、集合してください』
広場には既に、戸惑った顔の齢も性別も体格も、かなり多様な面々がタブレットを持って右往左往しており、大地と同じようにあたりを見回しては、画面に表示される“業務指示”を確認していた。
『レクリエーションを開始します』
タブレット端末から、人数分のエコーがかかった合成音声が発せられ、人々は一様に顔を見合わせながら、その声に従った。
これから共同で開拓作業に当たるメンバー達の氏名と技能、性格などが画面上で共有され、開拓に必要なタスクが自動で分解されて、チーミングが行われていく。
大地達のチームは男女二名ずつの計四名で、お互いにやや不安そうな苦笑いを浮かべて簡単な自己紹介を済ませると、すぐにタブレットにタスクが通知された。
目の前に明確なやるべきことがあることで、四人とも少しほっとしたようだった。
自分自身を含めたその様子に僅かな不快感が湧いてくる。そのことに、大地はむしろ困惑した。
以前なら、人間関係なんて煩わしいだけだと思っていたのに、今は他人との会話のきっかけをAIに阻害されたように感じたし、そんな風に自分が感じること自体に違和感があったのだ。
◆
各チームは最初の仕事は、生活インフラとなる水、電力と通信網の敷設、そして害獣や災害リスクから居住圏を守るための安全確認だった。
大地達のチームに課されたのは、水の確保だ。
各自の自動運転EVに積載されていた飲用水は一週間程度分しかなく、水の確保が最重要事項なのは明白だった。
チーム四人で周囲の探索に出ると、AIが前もって知らせていた通り、古びた水路があることが見て取れた。
「全くの未開の地、というわけではないんですね」
チームメンバーの女性にそう言われて、大地も同意した。
おそらく、先の大災厄で放棄せざるを得なかった集落の一つなのだろう。山際の小川から農業用水が引かれており、放置された棚田に流し込む水量をコントロールするための水門が設置されていたが、錆びついて使い物にならない。
同様に、経年劣化して使用できなくなった灌漑設備があちこちに散在していた。
――皆さんには、本地域の復興事業および自律分散型経済の創出を目指していただきます。
AIがそうタブレットに指示した通り、これは開拓ではなく復興なのだ。数年前に列島全域を襲った未曽有の大災害からの復興というのは、確かにあちこちの地域で必要とされていたが、自分がまさかそれに参加することになるとは思っていなかった。
「こんな環境で本当に復興なんてできるのかよ……」
大地は誰にも聞こえないように呟いた。AIは、大雑把な方針を示すだけで、具体的な解決策や作業までは提示してくれない。
大地は途方に暮れそうになったが、何もしなければあっという間に水が尽きてしまう。チームメンバーと話し合って、何とか知恵を出すしかなかった。
数日で生活用水を確保することは容易ではなかったが、廃棄された棚田に残されていたパイプを掘り起こしてつなぎ合わせ、即席の水路を作ってベースキャンプまで水を引き、EVに備わっていた浄水器を数台分取り外して組み直し、簡易的な浄化装置を作った。
農業プラントの散水機を設計していた際に学んでいた知識が活きた。
「砂川さんが同僚にいてくれて良かった、本当に」
数日ぶりにシャワーを浴びてさっぱりしたメンバー達が次々に、声を掛けてくれた。
とんでもないことだ。実際には、より安全な飲用水を作り出すためには、上水道施設がないといけない。水から不純物を取り除き、殺菌処理もしないといけない。
今は、簡易的な沈殿槽とろ過装置、そして煮沸消毒でごまかしているが、到底、安全な水とは言えないのだ。
謙遜のつもりでそう言った大地に、メンバー達は一様に不安そうな顔になった。
やってしまった。
大地は失策を悟った。こういうところだ。折角、他人から感謝されているのに、自分は何故、素直に人に感謝できないんだ。
落ちた沈黙を吹き払うように、大地の背中を強く誰かの掌が叩いた。
「砂川さんなら、それも近いうちに作ってくれるんでしょ! うちの社内で水の扱いじゃ、一番頼りになるんだから!」
大地のチームで作業に当たってくれていた女性だった。
その一言に、どっと笑いが起き、嫌な空気は瞬く間に消えた。
「翠さん。狩猟班が仕掛けた罠に猪がかかったらしいぜ。今日は肉が食えるぞ!」
「やった! じゃ、エウロペに牡丹鍋の作り方聞きましょ。あの子、料理のことはすらすら答えてくれるから」
「翠さん。さっき、定期陸送ドローンが物資を送って寄こしたんだけど、大鍋があったよ。使おう」
「ラッキー! それとも私達の行動って読まれてんのかな。体重管理とかされてたらやだなー」
彼女が皆からの呼びかけに応えるたび、穏やかな笑いが起きる。
苗字の読みが同じメンバーが他にいるとかで、皆に名前で呼んでほしいと明るく言う彼女は、明らかに周囲から注目を集めるタイプの人だった。
そして、その場に落ちそうになった嫌な空気を吹き払う天性の才能があった。
皆で、大鍋を囲みながら談笑していると、翠さんが近づいてきて、大地に囁いた。
「実際のところ、飲用水のリスクってどれくらいあると思う?」
普段の明るい彼女と違う、張りつめたような視線。距離の近いコミュニケーションが苦手な大地だったが、彼女相手だと不思議と緊張することが無く、逆に高揚感が湧いて来るのだった。
「正直分からない。ただ、エウロペに調達を依頼する定期援助物資のリストに、殺菌剤とか水中のゴミを除去するための吸着剤とか追加して、本格的に衛生対策をした方が良いと思う」
「頼んでいい?」
真剣な表情の彼女に言われると、頷くしかない。
他のメンバーを不安にさせず、未然にリスクを取り除く。誰よりも皆のことを考え、気遣ってくれる。人が変わったような怜悧な表情に、大地は本当の彼女を見ている気がした。
その依頼には、エウロペがタブレットに次々と指示してくるタスクより、余程、身が入った。
◆
大地がエウロペに散々要求を出して水処理関連チームで協力しながら上下水道を整える間、春から夏へ、ベースキャンプの様相も変わっていった。
放棄されていた耕作地には農作業チームが作物を植えて、実験的に農産物の栽培を始めた。
狩猟チームが、主に安全確保と農産物の被害防止のために罠と防護柵を設置して回り、時々は食卓に鹿肉が並ぶようになった。
EVの住環境はDIYチームによって少しずつ改善され、防音・防湿・断熱の性能が少しずつ上がって、主に女性陣が喜んだ。
エネルギー・通信チームは不要になったEVのバッテリーや駆動系を取り外して、自前のマイクロ水力発電機を作り出して、川から電力を取り出すことに成功した。だが、一向に地域の復興事業に関する業務連絡以外の情報はエウロペによって制限されている状況が続いており、世界中で何が起きているのかを窺い知ることはできなかった。
とは言え、通信に関する不安を除けば、ベースキャンプの生活は概ね平和だったと言えるだろう。
食料は週次の定期陸送ドローンが最低限の分量を運んできたし、希望を出せば医薬品や工具類、一部の建材なども依頼できた。
エウロペがどういう基準で物資の要請に対する諾否を決めているのかは、誰にも分かりかねたが、恐らくはエウロペの本業である大規模食糧生産プラントや、都市機能を維持する通信とエネルギーのインフラ事業等による利益剰余に照らして、割けるリソースが自動算出されて評価されているのだろう。
夏の盛り、一年目の作物の収穫量は正直言って、大した量でもなかったし、害虫による食害もかなりあったが、初めて採れたトマトを手に取った際には、半年前に食べていた大規模プラント産の整った形の野菜と同じものとは思えない程に嬉しかったし、美味かった。
生活用水の安定性と安全性にめどが立ったことで、大地も機械式農業の知識を使って農作業チームに参加するようになっていた。だから、彼らがどれだけ苦労して畑と格闘していたかも間近で見ていたし、大地も一緒になって害虫や野鳥からの被害と戦っていたため、喜びもひとしおだった。
初年度から米作をしなければ食料が枯渇する可能性があったので、かなり急いで棚田を整備し、鴨の雛をエウロペに運ばせてまで合鴨農法を展開したが、米の収率はあまり伸びなさそうだった。
できるだけ多くの獲物を狩って、芋や根菜などの日持ちがする野菜を貯めこまねば、陸送ドローンが雪で途絶えたらどうなるか。夏が終わりに向かう頃には、全メンバーがそのことを感じて緊張しつつあった。
誰にも答えが出なかったのだ。エウロペは、我々の命を、何にも代えて保証してくれるのだろうか、という問いに。
◆
激しい夕立が何日も続いた後の、久しぶりに静かな夜だった。
静かと言っても、遠雷が遠くで鳴り響き、夜の闇は見えない雨粒が滴り落ちる音で満たされていた。
「遅くにごめん。大地くん、今良い?」
翠さんの声に、大地はぎょっとなって身を起こした。
DIY班の手によって、既にEVは車の形を失いつつあるとはいえ、個人の住居としては健在で、女性が男性の部屋を夜に訪れるのは暗黙のうちに避けられていた。
「今、出るから」
大地は慌てて告げ、急いで身だしなみをできるだけ整え、外に出た。翠さんは珍しく緊迫した表情で、中央テントまで大地を招いた。
中央テントはEVを素体にしていないゼロからDIYチームが作った共用スペースで、公共性が高い機材や重要設備の集中管理をしているが、あまり大地は来たことが無かった。
「これはまだ、全体に周知していないことなんだけど、まずあなたの意見が聞きたい」
そう言って、翠さんは同じように青ざめた顔をしているエネルギー・通信チームのリーダーに頷いて合図をした。
その仕草に、大地は二重に嫌な感じを受けた。
何か、この二人にだけ存在する強固な繋がりがあるような感じ、そして、それが他のメンバーには共有されていない感じがした。
「ついさっき、エウロペへの定期的な情報提供依頼の試行時に、唐突に返答された情報だよ」
リーダーはそう言って、共通備品化されたタブレットの画面を太一の前に翳した。
――あなた方のキャンプから北におよそ七十キロメートルの位置で、集落が水害に被害を受け、救援を要請しています。
――灌漑施設の一部が流失し、作物への被害が甚大。死傷者も出ています。
人が、死んでいる?
そのことに、今更ながら衝撃を受けていることに大地は気づいた。
そうだ。エウロペはただの支援AIであって、神様じゃない。天災に対して万能の防御ができるわけがない。地震や火事、水害から完璧に人類を守れるなら、先の大災害の被害はもっと少なく済んでいて、この復興事業自体、存在しなかったはずだ。
そんなことは、本来自明の理というものだったはずではないか。
そして、つまり、その事態はここでも起こりうるのだ。
「このキャンプで一番、灌漑設備の復旧に腕が立ちそうなのは、あなただから。それであなたを呼んだ」
その一言で、大地の中で天災や死への恐怖に抗う気持ちが芽生えた気がした。
翠さんに言われたからではないと感じた。自分を知らない誰かが、心の底から、自分を求めてくれている可能性があるとしたら、まして人の命が懸かっているとしたら。
それは天命と言えるのではないか?
「救援を頼める? 今すぐに」
タブレットに踊る【緊急】のタスク件名を横目にして、翠さんの声には後ろめたさのようなものがあった。
大地は、断るつもりはなかった。
すぐさま工具一式と携帯食、蒸留水を、既に使い古したリュックに詰めた。貴重なフル充電状態のタブレットも一台、共用スペースから借り受ける。
エネルギー・通信チームのリーダーがその他の準備を手伝ってくれた。
「こういう時のために、何台かのEVは整備を続けておいて良かった。農作業にも使っていたからタイヤのゴムもあまり劣化していないはず。運転も手動でできるようにしてある」
そう言って、災害用の装備をEVに詰め込んでくれたリーダーが、運転席で緊張している大地の肩を叩いて問うた。
「砂川さん、免許は……?」
「実は、俺、ペーパーなんだ」
大地は、無理やり冗談っぽく言ってみた。映画みたいだ、と思ったが少しも笑えなかった。完全自動運転車が普及してこちら、そういう人間は珍しくもないのだ。まして、雨が降る中、災害現場に向かうとあっては冗談では済まない。
リーダーの彼は、困ったような顔で、運転支援システムは生きてるから、と言って肩をたたき直してくれた。
どうして自分はいつも……と、また大地が自己嫌悪に陥りそうなところへ、声が掛かった
「待って!」
懐中電灯で雨粒を切り裂きながら、翠さんが走り込んできていた。
何かを渡すつもりかと思ったら、あろうことかEVの助手席に乗り込んでしまった。
「翠!」
「私にも指示が来たの。指名で」
翠さんを呼び捨てにしたリーダーの男が、混濁したような感情を目に浮かべ、EVの中の大地達を交互に見ていた。
翠さんが運転席越しに突き出したタブレットに室内灯の明かりが当たり、それを見つめたリーダーの顔が強張った。
「こんなこと……お前、受け入れるのか!」
「急ごう、大地くん」
リーダーの声を振り払うようにモーターを始動すると、翠さんは大地を急かした。
「可能な限り、すぐに戻りますから!」
居たたまれなくなった大地は、EVを発進させる間際に、窓から彼にそう言ったが、最低限の光量しか点いていないテールランプでは、リーダーの表情は読み取れなかった。
「良かったんですか。彼のこと」
大地は、一度だけ翠さんに向かって聞いたが、彼女は窓外の暗闇を見て、返事をしなかった。
七十キロメートルもの行程は長く、静かだったが、幸か不幸か気まずさを感じている余裕はなかった。
遠雷を伴って雨が降りしきる中、いつエウロペが認識していない土砂崩れや冠水が現れるか分かったものではないのだ。
本当にペーパードライバーの大地は、全力で運転に集中し続けなくてはならず、一時間もEVを走らせると、体が硬くなっていることが実感できるようになった。
カーブを曲がり損ねそうになって急制動を掛けると、大地は慌てて助手席の方へ謝った。
「ほら、大地くんだけじゃ着けなかったでしょ」
そう言って、強引に席を交代した翠さんが、慣れた手つきでハンドルを切った。
その声には、ほんの少しいつもの調子が戻っていた。
◆
到着したベースキャンプは、驚くほど大地達の集落と似ていた。数十台のEVが円陣を組むように連なっていたであろう広場は半分ほど形が崩れ、避難を試みているのだろうことが分かった。
おそらく大地達の集落と、同じような計画の元に、同じような技能を持ったメンバーを招集し、同じような物資を調達して運営されてきたのだろう。
違うのは、強い雨が降りしきる中で水路から溢れた水がどっと棚田に押し寄せ、耕作地に流れ込んでいることだった。
その様子も、暗闇の中にあっては完全には把握できなかった。ただ、集落のリーダーと思しき壮年の男が、怒声を張り上げて皆の避難を指示しているのが分かった。
大地は彼に精いっぱいの大声で話しかけた。雨音が囂々と降り注ぎ、互いの声をすり潰した。
「南の集落から来ました! 灌漑関連の技術者です!」
「有難い! あんたみたいな技術者は流されて消息不明になっちまった! 被害を抑えたいが少しでも高い場所に物を移すので精いっぱいだ!」
確かに、一度氾濫した水路に対してできることは少ない。水が引くまで避難するというのは正しい。
だが、数日の夕立ちでこんな水害が起きるものだろうか? エウロペの通報があってから数時間、ずっとこの状態が続いているということもおかしい。
「ここに来るまで、地図を見てました。この程度の雨で、この氾濫水位になるのはおかしい。上流を見ないと!」
「分かった。案内する!」
壮年の男が、誰かを呼び、大地達のものよりかなり大きなデザインのEVが用意された。
壮年の男が自ら席に乗り込んで、大地達を先導した。装備品を満載しているので、二台での行軍になった。上流に向かってEVで行けるところまで行ったが、しばらくして道が無くなって暗闇のハイキングになった。
夜の闇に響く濁流の音は、夜の山道では相当な恐怖を引き起こした。
大地は一度足を滑らせかけ、翠さんが手を取って起き上がらせてくれた。
その直後に、今度は彼女が転びかけ、自然と手を取り合っての行軍になった。
そのことをどうこう感じる余裕もなかった。命がけだった。
それほど長くは歩かなかったはずだが、随分長く感じる夜道を進み、ひと際、濁流が生み出す轟音が大きく聞こえたところで三人は足を止めた。
峡谷のような高い位置から流れを見下ろす格好で、先を歩く壮年の男が声を上げ、足元を照らした。
「本流が塞がってたのか……」
その声は、愕然としていた。
本来流れるべき太い川の流れが土砂崩れで埋まっているのだ。そのせいで支流に流れ込んだ大量の水が濁流となって集落に向かっていっている。
これは、もはや手の打ちようがない。土木工事用の重機でもあれば別だが。そんなものはここにはない。
そのことがはっきりと大地の脳裏に浮かんだ。
「何とかならんのですか」
呟きつつも答えが分かっているという顔で、壮年の男が大地達を見た。
思わず顔を背けた大地は、そこでタブレットの画面を見つめている翠に気づいた。
電波など届くのだろうか、そう思って画面を覗き込もうとした大地から隠すように、翠はタブレットをリュックにしまうと、ぼそりと呟いた。
「爆破しましょう」
不思議と雨の中でもはっきりと聞こえた仄暗い声は、寒気を起こすほど冷たかった。
大地は思わず、壮年の男と顔を見合わせたが、翠が勢いよく来た道を戻っていくのを見て、慌てて彼女を追って駆け出した。
◆
翌日の昼頃、大地と翠は、集落の中央テントで目を覚ました。
集落はまだ混乱状態にあったが、氾濫した水路はほぼ正常に戻り、天気も回復したため、今は交代で溢れた土砂の片づけと行方不明者の捜索をしているとリーダーの男が教えてくれた。
危機を脱したらしき緊張感と、失われた者の多さ、大きさが人々の心を埋め尽くしていて、異邦人である大地達にはかなり息苦しい空間だった。
できる大仕事は終えたという感覚はあったが、満足感というよりは虚脱感の方が大きい。
皆が忙しく行き交う中で、そんな大地と翠が体を休めているところに話しかけて来る数名の集団があった。
「話、聞きましたよ。凄い機転ですね。EVのバッテリーを即席の爆弾にしたって。本当ですか?」
彼らは、小声で大地と翠を囲んで、周囲に気遣いながら労いを掛けてくれた。
後に分かったことだが、彼らもまた救援要請を受けて駆け付けた別の集落の人間だったのだ。
どこか遠い目をしたままの翠に代わって、大地は慣れない初対面の人間との会話をこなした。
本流の土砂崩れを吹き飛ばして濁流を逃がすために、無理やりEVを崖上まで走りこませ、バッテリー液を抜いてガスを充満させ、発火の仕組みを作ったのは、全て翠だった。とてもその場の即興での手際とは思えない鮮やかさでそれをやってのけた彼女は、二台分のバッテリーを崩れた土砂に突っ込ませ、遅延信管でも使ったみたいに正確に点火したのだ。
集落のリーダーが乗っていた方のEVがかなりの大型車両だったとは言え、それだけでは恐らく爆発しなかったろう。翠はその他にも、何故か持ってきていた肥料や消毒剤もバッテリールームに詰めていたように見えたが、大地にも詳細は分からない。
何にせよ、濁流による被害者は減り、村の復興は早まったのだ。翠が成し遂げたことは良いことのはずだった。
だが、同時に、元の集落に帰還するためのEVが無くなってしまった。
他に稼働できるEVも水没のせいでバッテリーが死んで壊滅状態とのことで、集落との連絡がついてEVを寄こしてもらうまでは立ち往生になりそうだった。
状況は改善せず、仮住まいのテントを当てがってもらって既に数日が過ぎている。
「翠さん、どうしたんです?」
そうした諸々の状況を説明していた大地は、未だに放心したように表情を無くすことが増えた翠に向かって語気を強めた。
勿論、被害を受けた村からタダで食料を恵んでもらうわけにはいかない。
採取と狩猟への参加、それに傷んだ水路の補修と補強をこなして、何とか陸送ドローンによる配給品を分けてもらって糊口をしのぐ日々だ。
慣れない仕事に疲れているのか、元の集落では見たこともないほど、翠には覇気がなかった。
「ごめん」
何故か、こういう時にいつも辛そうに謝るようになった翠を不思議に思いながら、大地は決まって言い聞かせた。
「謝らないでください。あなたのおかげで、この村の人達は何人も救われたんです。そうでしょ?」
だが、翠は首を振って目を伏せるだけだった。
その理由を翠は決して大地に言わなかった。翠は。
◆
「あんた達、ここに住まんか」
水害の片付けも一段落した頃、集落のリーダーは大地と翠を呼んでそう言った。
「二人とも、元の集落が心配だろうが、エウロペが連絡を許可してくれんのでEVを寄こしてもらうこともできん。向こうから自発的に迎えを寄こしてくれれば良いんだが、あちらも決断しかねているんだろう。EVは今や貴重だからな。七十キロメートルは歩くには辛すぎるし、それに、正直、お二人がここで機械や水路の面倒を見てくれているので、我々はとても助かっとるんだ」
何せ、技術者が軒並み死んじまって……。
そうして言葉を失ってしまった彼の頼みを無下に断れる程、大地は冷淡ではなかったし、様子がおかしい翠を落ち着かせなければ、とも思っていた。
結局、昔よりは随分短くなった冬が来て、流されるようにして二人は同じ仮住まいのトレーラーハウスで住むようになった。
これは二人分の住居としても破格の待遇と言えた。何でも、廃棄されていた車を改造して住めるようにしたらしい。前の住民達は、水害で亡くなっていた。
初めての同居はぎこちなかった。
最初は大地の方が遠慮していたが、さすがに狭い生活スペースで過ごしていれば、色々とお互いのことも見えてくる。
年を越して、冬が終わる頃には二人の間に張っていた分厚い氷のような壁も一緒に溶けていき、翠の顔にも徐々に笑顔が戻っていった。
しかし、春が来ても、薄膜のような最後の一線が二人の間を隔て続けていた。
冬の気配はずるずると集落に居座り、全員で貯めこんだ食料をじりじりと消費させたが、幸いにも陸送ドローンからの援助物資が止まることは少なかった。
山岳部でも、降る雪の量は毎年減り続けており、雪解け水は豊富な飲み水を作り出してくれた。
「大地くん」
翠が大地を呼ぶ声のイントネーションがすっかり変わって、特別な感情を漂わせるようになった頃。
もう寝ようとしていた、大地の上段ベッドを下から、翠が叩いていた。
二人の寝床は、未だに別々だった。
「今、いい?」
眠い目をこすりながら、以前にもこんなことがあった気がするなと、大地は思った。
いつだったろう。前の集落を出発する前、あの日は、酷く雨が降っていた。もう随分昔の、何年も前のことのような気がしたが、ほんの数か月前のことなのだ。
黙って、寝台から降りた大地を前にして、翠は言った。
「私、言わないといけないことが、二つある」
大地は、来るべき時が来たのだと悟った。ゆっくりと、しっかりと、彼女からよく見えるように頷く。
トレーラーの中には、手回し式LEDランタンの頼りない光が一つだけだったが、その光に下から照らされた彼女の顔は、まるで妖艶さは無く、幽鬼のように見えた。
「薄々、気づいてたと思うけど……集落に残してきた彼からプロポーズを受けてた」
まるでその彼を殺したと言わんばかりの冷たい言葉に、大地は頷いた。
何となく察していたことだった。別れ際の彼の言葉を、何度も脳内で繰り返していたから。
『こんなこと……お前、受け入れるのか!』
そして、翠は受け入れたのだ。それが何であれ。彼女は一度も、元の集落に帰ろうとは言いださなかった。
おそらく、あの時、エウロペが示したタスクは、一日二日での帰還を前提としないものだったのだろう。
夫婦になることを考えていたはずの男にとって充分に残酷な内容が含まれていたに違いない。
例えば、同行者の男と新しい集落で家庭を持て、というような……
「もう一つ」
翠の声が震え、瞳が揺れた。彼女の瞳に涙が浮かぶのを初めて、大地は見た。
「私、本当は、あなたと同じ会社の同僚なんかじゃない。その同僚に成り代わって、エウロペを止めようと入り込んでいたテロリストなの」
ぐしゃっと顔が潰れるように翠は表情を歪めると、締め上げるように大地の首を掻き抱いた。
「エウロペの情報を集めて、通信遮断の原因を特定して、破壊工作をするのが任務だった。そのために、私、大勢の人も巻き込もうとしてた。でも結局、全部……」
その先の言葉を想像しながら、大地は翠にかける言葉を探した。
しかし、見つからなかった。
――知っていたよ。エウロペがこの村に着いた最初の夜に、この集落のネットワークを経由して教えてくれたから。
――良いんだよ。君が殺した一人の社員以上に沢山の命を救ったじゃないか。
――どのみち、変わらなかったさ。全部、エウロペにはお見通しだったんだ。君が爆薬を作れることも。その使い方も。
――もう終わったことだよ。君は結局正しい選択をして、僕が君を殺す任務も必要なくなったんだ。
――些細なことだよ。外の世界では何百万、何千万倍の人が死んでいるかもしれない。そうでないかもしれない。
――赦されたんだよ。エウロペは、君を咎めていないじゃないか。
――俺が、君を赦すよ。
思いついた、そのどれもが全て正しい答えではない気がした。
「翠、俺も言わないといけないことがある」
締め付けるような彼女の腕を解いて、大地はひっそりと息を整えた。
エウロペにできないことをしよう。
エウロペが期待していることかもしれないけれど。
エウロペが俺達を支配していようが、支配していまいが、俺達は俺達の生を紡いでいけば良い。ずっと。
「結婚してくれないか」
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