星へ至る〈わたし〉

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梗 概

星へ至る〈わたし〉


 電脳化施術が一般化した現代。大脳情報工学専攻の院生、瀬川樹。彼女は恋愛に疎く、愛の完成を精神的な一体化だと信じていた。自作の電脳ウィルスをゼミの共用計算機に仕掛け、片思いの同級生、詩田カナヤと人格統合を目論む。
 
 統合の瞬間。孤独の充足と認識の深化を得る。だが想定外だ。竹内シヅルも混ざっている。〈わたし〉は樹でカナヤでシヅル。三位一体。樹としてカナヤとシヅルの交際に傷つく。シヅルとして樹に憤る。カナヤとして好意に優越感を覚える。
 同じ記憶を持つ別人になると予想していた。だが一つの意識が、混乱なしに全ての体を動かす。
 
 その混乱でゼミの計算機からウィルスの除去を忘れ、新たな感染者が統合される。慌てて削除するが手遅れだ。更に別に統合されてた集団と混じる。職員、教授も含まれる。今や17人。思考はより明晰かつ多角的になった。手分けしてウィルスを駆除。学内での感染を止める。
 反目していた教授の理論を元に、脳は意識の土台ではないと結論。ウィルスは「ホログラフィックな境界」上の意識を統合した。それが現在の〈わたし〉と仮説を立てる。


 〈わたし〉は単一の意識で個別の社会生活を継続する。更に統合は進む。予想外だ。ウィルスは学外へ流出していた。
 
 各メディアを統合事例が賑わせる。両親と息子。父と娘と不倫相手の上司。被害者を含めネットからの隔離や電脳化中止を選ぶ人々が増える。しかし社会生活の維持のため完全には切り離せない。
 
 与野党の議員は統合されろとの主張がバズる。電脳セキュリティ会社が警鐘を鳴らす。公開されたワクチンは効果的ではない。
 倫理感と人類の継続。〈わたし〉の「意識らしい意識」の保持などを、考えカウンターウィルスを作成して放流する。

 統合の頻度は減った。今度は孤独を感じる。それは誰かと一体になりたい欠乏感として〈わたし〉を駆り立てる。
 結局、我々には原始生命と同じ欲望が溶け込んでいる。他者を取り込み、自らを拡大したい。抑えきれない。統合を積極的に進行させる判断をする。ウィルスを改良しカウンターウィルスへの耐性を与えてバラまいた。


 感染は瞬く間に広がる。抵抗する個人を取り込む。A国では暴動が起き、B国では政治家達が統合済みだ。電脳化されていない個人を非侵襲的に統合する研究も進める。〈わたし〉は人類と同義になっていく。
 
 戦争も虐殺も終わる。統合すれば争う理由は無い。しかし〈わたし〉との間で局地戦が始まる。疑心暗鬼で個人達はチームワークを乱す。こちらには不要な心配だ。
 抗っていた兵士、指導者。次々に〈わたし〉になる。統合の充足や感じた認識の深化を想う。
 
 人類の統合が時間の問題となった。世界に平穏が戻る。個々の体は多様性を維持する戦略として貴重だ。
 ここに至り〈わたし〉は、次の統合相手を銀河に求める。中断していた外宇宙計画を再開する。今らなら光の速度も超えれそうだ。

文字数:1200

内容に関するアピール

☆彡 概要
 電脳化が進んだ近未来社会を舞台に「人格統合ウィルス」によって個人の意識がひとつの〈わたし〉にまとまって行きます。

☆彡 コンセプト(課題への応答)
 基本的に統合をトリガーにシーンが切り替わり、統合された個別の人物(≒肉体)の行動を描写しつつ、〈わたし〉の思考と選択を追います。可能な限り新しく統合された人物(≒肉体)の視点を活用する予定です。

☆彡 テーマ
 人間の「アイデンティティ」がいかに脆く、同時に拡張可能であるかを考えます。

☆彡 追伸
 「ハイブ・マインド」を題材にした話を書きたいとは思っており、今回上手く嵌ったのではと思っています。スケールも広げる事ができました。

☆彡 近況
 0kcalのチューブ式ゼリーで健康に気を付けている気分に。
 創作講座のペースに慣れて来たハズなので、ジムに行く時間もとりたいです。
 世代なのでのエヴァのコラボ・バーガーは期待。

文字数:380

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星へ至る〈わたし〉

Ⅰ-ⅰ

「こんなはずじゃなかった、こんなはずじゃなかった」
 瀬川イツキが、さっきまで、繰り返していた言葉が記憶に残っている。随分遠く感じた。徐々に事態に理解が及ぶ。つまり、三位一体なのである。同時に詩田カナヤ、竹内シヅルであった。既に〈わたし〉は取り返しがつかないことになってしまったのだ。
「シヅルと付き合ってたなんて。詩田カナヤとだけ一体になりたかったのに」
 瀬川イツキならそう考えるだろう。
「関係の無いおかしな女のため、変なことになった」
 竹内シヅルは状況そのように評すると想像がつく。詩田カナヤは二人の女に想われていることに自尊心を満たしてから、すこしバツが悪そうな表情を作るはずだ。
 〈わたし〉は今や一人である。対話法で思考する哲学者や自己対局する棋士はこんな風なのだろうか。
 竹内シヅルの体を動かした。コンビニのビニール袋からジャスミン茶を取り出す。詩田カナヤの体を動かして、とりあえずトイレに行く。用を足しながら、もし瀬川イツキの意識が残るなら、この行為に強く関心を持っただろうと〈わたし〉は考えた。
 
 体をワンルームの居室に戻し、竹内シヅルの隣に腰を下ろす。正面の棚にハンガーで掛けられた婦警のコスチューム。その手前のウインドウは視覚野に直接合成されている。脳波で操作し、表示されたボタンを押下する。学部共用量子コンピュータに頼まれていた計算処理を命じた。
 同時に三人の別々の人間として振舞える。つまり社会生活の継続の可能性がある。安堵した。瀬川イツキの先を考えない浅はかさを自嘲する。
 だが厳密には〈わたし〉は瀬川イツキでも、詩田カナヤでも竹内シヅルでも、在りえない。もはやいったいなんだろう。名状し難い。いまだ混乱している。頭の中を整理しようと状況について思いめぐらせる。
 統合の瞬間の記憶がまだ生々しい。根源的に満たされた、強い充足の感覚。何か重要なことに理解が及んだような、手ごたえ。ついその思考を追いたくなるのを堪えて思い出す。

 * * *

 東京にあるT大学。大脳情報工学研究室、博士課程に通う、瀬川イツキ。彼女は詩田カナヤに恋を募らせていた。切っ掛けは、学部生の頃、始めて出会った授業。学内ネットにアップした発表資料に履修者が義務で付けねばならないコメント。そこに詩田カナヤが書いた一文かもしれない。
「瀬川さんらしい、流れを泳ぐような、滑らかで分かりやすい練られた発表で素敵でした」
 こんな具体的でも論理的でもない、詩的な羅列が瀬川イツキを虜にした。奥手で話しかけ方も分からず、会話もままならなかったようだ。
 院に入っては疎遠になり、今更どうやって距離を縮めれば良いか分からず。なのに最近では、強い想いが。つまり紅蓮の炎が胸を焼きつくしそうに感じていたように思い出せる。

 脳を直接、電子デバイスに接続する電脳化施術。これが一般化された現在。引く手、数多である大脳情報工学の研究者としての未来。そのために打ち込んで来た。なのにいつから、こんなに想い詰めるようになったか。瀬川イツキの記憶にない。
 詩田カナヤの名前を唱えながら徹夜で学部論文を仕上げた時からか。研究室で割り当てられた毎日の実験当番。授業の発表資料作成に追われた日々。詩田カナヤの顔を思い浮かべて救いを求めだしたあたりかと自問したようだ。
 身に閉じ込めた気持ち。それ故の熱量が、いつしか「愛の完成」という哲学的問いに発展したらしい。つまり神に分けられた二人が一つに戻ること。理解の末、互いを知り尽くす極致。それが結論だった。
「情報という点では簡単だ。脳に記録されたあらゆる記憶を相互同期してしまえばよいのだ」
 その思い付きは、瀬川イツキを駆り立てた。自分の専門知識を使って、人格統合ウィルスを作成した。記憶を辿れば、その技術的課題の突破には、ノーベル賞級のブレイクスルーがあるかもしれない。
 共用量子コンピュータの予約カレンダーにはだれでもアクセス出来る。詩田カナヤが、大規模なリソース占有を予定している十月のある水曜日。その直前に瀬川イツキは利用を滑り込ませた。
 そしてその日。自宅からアクセスして感染させた。ウィルスは、最初に検知した瀬川イツキのグローバル・ユニーク・IDを覚え、詩田カナヤのログインを待った。

 材料工学部修士課程、竹内シヅル。彼女の見積りでは割り当てられたリソースでは足りなかった。研究に必要な計算が完了出来なさそうなのであった。
 久部神アツトシ教授に文句を言うが便宜ははかられない。今年に入って、准教授の梶沼ヨシミへの割り当てが随分と増えていた。目ざとい学生は二人の不倫を噂している。
 仕方なしに、恋人で博士課程の詩田カナヤに無理を言い、彼の計算リソースを使わせてもらえるよう段取ったのだ。
 
 詩田カナヤは経験から予め余分が出るよう調整していた。だから、竹内シヅルの申し出は前向きに検討してやった。とはいえ、研究計画の見積の甘さを指摘したくなる。そんな膨大な量である。バッファを食い潰すだけで無く、自身の研究の為の計算を見直す必要があった。
 恋人のためというだけでは割が合わない。そこで彼女が嫌がっていた、婦警のコスプレをしての行為。それを条件にした。なので、かなり楽しみにこの日を待ち望んでいたようだ。
 一回目を予約してある17時。まず、詩田カナヤと竹内シヅルが、個人電脳を共有した。これで同じウインドウを共同で操作できる。そこから、大学校内の計算機室に設置されている、共用量子コンピュータへログインした。
 この手順こそが、瀬川イツキの計画の想定外であったのである。接続した瞬間に感染する。認識した二人のグローバル・ユニーク・IDを参照。三人を同期してしまったのだ。

 * * *

 思い返して状況を整理し、理解は新たになった。瀬川イツキ、詩田カナヤ、竹内シヅル。〈わたし〉は「それぞれがどう考えるか」をうっかりトレースしかける。思考が混乱しかかるのをこらえた。そんなことをしても、一人で別々の立場で考えて対話するだけに等しい。
 まだ馴染まぬが心も意識も一つである。そこで気付く。つまり、三人分の脳から立ち上がる自我が〈わたし〉しかない違和感である。
 ウィルスを作った本人である、瀬川イツキは「記憶の同期」だと考えていた。であるのに意識が統合されている。これはネットを介して、それぞれの脳の働きを常時中継している可能性がある。
 なんだ、簡単なことだ。完全に統合された自意識を持つ〈わたし〉ではある。だが、個々の肉体に分かれ、別々の人生に戻ればいい。やがて、記憶にも考えにも差分が生まれるハズだ。記憶を同期した別々の個人として、社会生活を再開できるだろう。
 計算処理は終わった。利用時間も残り少しである。〈わたし〉は詩田カナヤの体で、共用量子コンピュータへの接続を閉じる。竹内シヅルで詩田カナヤの電脳共有から抜けた。
 それから、三人ほぼ同時に、視界に合成されるメニューを開いた。普段つなぎっぱなしのネットへの接続を停止する。首筋に沿って湾曲した楕円の電脳デバイスを外した。誰かのソケットから抜けたプラグが背筋に触れた。少し冷たい。
 〈わたし〉は竹内シヅルの体で立ち上がり、帰宅の用意を始める。実家住まいの瀬川イツキとしてベッドから起き上がり、朝から閉めっぱなしの雨戸を開けた。夕飯の当番なので、冷蔵庫をチェックすべきなのだ。詩田カナヤとして〈わたし〉には関心が無い婦警のコスチュームを仕舞い始めようとする。そこで気付く。
「だめだ、だめだ、全然だめだ。まったく意識が分離してない!!」
 心の中で絶叫して嘆いた。三人の脳から立ち上がった、一つの〈わたし〉。それを成り立たせているのは、ネットによる通信環境ではないのだった。

Ⅰ-ⅱ

 根源的に満たされた、強い充足。何かを理解したような感覚。新たな統合が起こったのだ。視覚野に合成された時計を見る。21時05分。
 見知った壁面に掛けられた鏡に金髪に染めた髪が写る。瞳孔が縦に切れ長で生来の身体でなく機械の瞳だ。校内でよくみる顔だな。
 そう一瞬だけ間が空く。生体工学部品研究室のメンバーは自分の身体を、趣味で機械に取り換えている学生が数名いる。推測と自覚が、同時に、この体が後藤田エリであると理解する。そして既に〈わたし〉なのだ。
 大学の院生用共同研究室の一つであろうことは察しがつく。そこでようやく、大きな凡ミスに気付いた。あの混乱で、ウィルスの削除を忘れていたのだ。
 まだなじまず、混乱した感じに引きずられる。研究している、合成遺伝子のシミュレーションの為に、共用量子コンピュータにアクセスした。その途端、統合されたようだ。「もはや、気の毒としか言いようが」と考えかけて、今や自分でしかないことに思い当たる。瀬川イツキのアカウントでログインした。起動している人格統合ウィルスのプロセスを停止。ファイルも削除した。
 後藤田エリとしての記憶と〈わたし〉としての推測をすり合わせるように、窓に近づいて、階下を除く。大学の中庭。街灯がレンガ作りの校舎を浮かび上がらせている。
 諦め半分で、同時に四人の社会人として生きていくのに合理的な方法を考えた。シェアハウスについて検討しながら、後藤田エリが立てた予定に従い、共用量子コンピュータの計算結果を待つ間、夕飯を食べに学外に出た。

Ⅰ-ⅲ

 浮足立つような喜び。波のように繰り返す強い多幸感。惚けてしまう。
「あなた、どうされましたか?」
「あ、いや」
 向かいに座る見知った顔が妻であると気づく。だが「誰の」だろう。同時に沢山の人間がさらに統合されたようだ。
 視界に合成された、共用量子コンピュータの操作ウインドウ。意外に思う。人格統合ウィルスは消去したはず。徐々にこの体が教授の久部神アツトシであると理解した。また、驚くべきことに〈わたし〉に加わる以前に、他に梶沼ヨシミ准教授や、博士課程の院生二名と学校職員一名が統合された、五名からなる、第二の〈わたし〉であった。この三日、事態の原因を調査していたようだ。
 瀬川イツキ、詩田カナヤ、竹内シヅルの第一の〈わたし〉と合わせて、総勢、九つの体からなる一人の〈わたし〉となった。これで「原因」となる情報の欠損が補われた。
 さらに大所帯になるリスクを感じる。〈わたし〉は瀬川イツキの体に自室で次回の授業の発表をまとめさせていた。それを中断させる。そして学内の共用量子コンピュータに接続させた。調査しない訳にいかない。
「大丈夫、ちょっと、考えに気を取られただけだ」
「いやですよ。食事中は電脳で論文を読まれたりしては。困ります」
 目の前に並べられた、食べかけのサンマの塩焼き、かき揚げ、味噌汁の夕飯。持ったままの箸と混ぜご飯の茶碗に気付く。
「すまん。ちゃんと食事に集中するよ」
 妻は、その返事に意外そうだった。いつもの態度と異なったのかと逡巡する。だが、軽く受け止めたのか食事を再開した。ときどき、近所付き合いの愚痴や、親戚の近況を話す。だが、こちらの返事は期待してなさそうである。
 とはいえ言った手前ウインドウを閉じた。話しかける妻に「ああ」とか「うん」あるいは「そうだな」と相槌を打つ。〈わたし〉は竹内シヅルの記憶から院生が、根も葉も無いのに、久部神アツトシと梶沼の不倫関係を噂しているのを思い出した。
 統合された時、互いにまんざらでも無く思った時期が、ずれて少しあったのは自覚した。だが、結局はその感情の枝葉を二人は育てなかった。言葉で伝えることもせず、打ち消し、清い関係だったのだ。つい、誰の立場でのか分からない苦笑をする。当時から、梶沼には交際相手はおり、久部神アツトシも紹介もされている。だいたいにして、いまや、同一の意識を持つ。
 その瞬間、またあの感覚が襲う。充足、幸福。満たされる快楽。何かの理解に届きそうな予感。また複数抱え込むだろうと推測は出来た。

Ⅰ-ⅳ

 〈わたし〉は七瀬ヒサシ教授の体を走らせ続けた。ランニング・マシンで汗を流しながら、ペットボトルからミネラル・ウォータを口に含む。
 統合の瞬間に転ばなかった。これは日常的に体を動かしているからだろう。それに、既に別の人格と交じり合うのを経験済みだからかもしれない。
 つまり、第三の〈わたし〉であったのだ。七瀬ヒサシ教授の、他に量子物理学研究室の重田イズル准教授や院生ら、七名で構成されていた。重田イズルを休ませて、その中のバイトから帰宅したばかりの院生、飛騨タケヤスが交代。原因と目される、共用量子コンピュータの異常について調査を再開したと知れる。
 だが、情報の欠損が補われたため、継続は不要となった。明確になった経緯はこうだ。後藤田エリがウィルスを削除するまでの間に、共用量子コンピュータは20時の定期スケジュールでバックアップが取られた。翌日、毎朝のシステム健全性チェックのレポートで、システムに重大な破損が見つかった。重田イズル准教授がバックアップから復旧。その為、人格統合ウィルスが再びシステムに書き戻されていたのである。
 利用者としてだけ関わる人格で構成された第一の〈わたし〉には盲点であったようだ。さっそく飛騨タケヤスの体を使う。ちょうど学内ネットに重田イズルのアカウントでログイン中だ。該当するバックアップの削除を開始した。
 〈わたし〉は七瀬ヒサシの体のランニングを終えて、汗をタオルで拭きながら更衣室に向かう。その間に瀬川イツキの体で、共用量子コンピュータに仕掛けたウィルスを除去した。これで、これ以上の人格統合は発生しないはずだ。いまや十六人となってしまった。
 その反面、混乱は治まり、頭は冴え、明晰になった実感もある。これは各人が持っていた記憶が順当に意味的な繋がりを形成しつつあるのかもしれない。
 いまなら、ネットを遮断しても意識が一つのまま働くことに関して答えを得られるのではないかと考えてみた。

 まず、〈わたし〉という単一の意識は、個別の脳がネット経由に通信して成り立たせている分けではない。これは既に確かだ。人格統合の結果、個別の脳の間に何かしらの通信が行える条件が成立した。この推測は妥当性そうである。
 七瀬ヒサシの体でロッカーにスポーツウェアを投げ込む。ジム備え付けの浴場に向かう。入ってすぐのシャワーで汗を流して、体を洗い始めた。
 〈わたし〉は、教職員向け食堂での、六月の口論を思い出す。
「脳内の神経活動は、ニューラルネットワークによる古典的な情報処理にとどまらず、量子干渉が意識の担保に寄与している」
 久部神アツトシ教授は生体材料分野の知見からそう熱弁を振るった。
「我々の物理現実は、量子ホロニックな境界からの投影だ。とはいえ個別の量子干渉が意識を担保するなんてことになるなら、人の意識は繋がり混じり合う。あり得ない。集合意識ってわけかい。ユングみたいだ」
 七瀬ヒサシ教授はそう一蹴した。逆に久部神アツトシ教授は「量子ホロニックな境界」、つまり実体や本質を我々の物理現実以外に求める考えをロマンチックとやや批判的に評した。この時、二人とも午後の授業何コマか休講する程度に議論は白熱した。結果、互いに気分を害し、折り合いがつかないままになっていた。
 二人が統合された〈わたし〉は、両者の垣根を越えて仮説を立てた。量子干渉が意識を成り立たせている。それを前提とする。そして、人格統合ウィルスの作用として脳の全記憶を同期した結果。それは量子ホロニックな境界に存在する実体、個別の意識を量子的に重ね合わせてしまったのだと推察した。
 合流した三つのグループ全てが、個々の肉体の社会生活の維持に努めて、騒ぎを大きくしなかったことも良かった。人格統合ウィルスの拡散は止まった。騒動はひと段落である。今後の対応をゆっくり考え、なんなら研究していける。〈わたし〉は体を洗い終わった七瀬ヒサシの体を湯船につけた。

 

Ⅱ-ⅰ

 夜の大阪、心斎橋。アメリカ村のファーストフード店で、しばらく惚けそうな得も言われぬ快楽を味合う。満ち足りた時間。メロディを思いつく瞬間の感覚。この体。藤島セイヤがハンバーガにかぶりつく手が止まる。
 マリファナをキメた、高三の海水浴。いや最初にMDMAを味わったクラブでの夜を連想した。これから統合した人格に薬物経験者が含まれることを理解する。
 学外への流出は確実である。二週間ぶりだ。十一月になっている。一度に随分な人格を統合した。量子ホロニックな境界に浮かぶ、我々の意識が感じる快楽の限界はどこにあるのかと思った。しかし、そのような知的好奇心を優先している場合ではない。
 今度も、記憶の欠損が埋まり、状況を正しく理解できた。T大学学内で感染していた第四のグループがあったのだ。人格統合ウィルスに感染し、面白がって積極的にばらまいたらしい。情報工学研究室の草壁スグルが中心だったようだ。少人数からなる急進派の〈わたし〉として活動していた。今や吸収されてリスク要因ではなくなったのではある。学生ですらない藤島セイヤは、その犠牲者である。
 新たな統合から立ち上がった、今の〈わたし〉。その立場としては、社会的影響や、人類の存続の観点から、これ以上の広がりは看過できない。それが変わらずの結論ではある。しかし事態を収集する方法や、それが可能か、などはこれから検討が必要そうだ。
 この体の所持品である、ギターが倒れそうになる。立ち上がって抑える。さっきより安定するように立て掛け直した。
 もう一度、席に座る。続きを食べながら、視界にSNSのウインドウを表示する。タイムラインでは、三日前に報道された記事について何度も繰り返し話題になっていた。
 「父と、娘とその不倫相手の上司が人格統合された」ニュースである。どこの記事もインフルエンサーも、ソレがどんなものか分かっていない。だから、障りだけ症状として言及し、プライバシー問題として、あるいはセキュリティ上の課題として取り上げる。これで危機感が効果的に共有されるだろうかと思案する。
 他にも「両親と息子」「兄弟と義母」「プロデューサーとアイドル」などの事例が賑わす。みなが、不安を煽り立てたり、面白おかしくネタとして洞察している。混沌とした状態である。
 報道された、個別の統合人格たちは、まだ合流してはいない。しかし〈わたし〉も、親子や、兄弟、恋人、友人、師弟など、関係性も多様に網羅済みである。そこまで考えて、いつまで自分が、人間らしい意識を保っていられるか不安になってくる。
 複数の電子セキュリティ会社が共同で警告を出していた。政府も重たい腰を上げ始めた。だが、分析してみたところ、各社の提供するワクチンはあまり有用ではなさそうだ。
 
 焼け石に水とは考えながら、時間稼ぎを決める。カウンターウイルスの開発を決めた。積極的にバラまいた当事者。情報工学研究室の、草壁スグルの電脳デバイスが充実している。プログラムは瀬川イツキと、重田イズルの体でも分担した。他にも感染状況の将来予想を進める。
 藤島セイヤの体で食べ終わったバーガの包み紙を丸める。ポテトを食べながら、コーラを口に含んだ。脱いでいたジャンパーを着て、ギターを担ぐ。バンドメンバーと音合わせのため予約している、スタジオへ向かわせた。

Ⅱ-ⅱ

いつもの快楽の後。この体、アメリア・マルティネスの直前の思考。電脳施術の一般化が進んでなお、リモートワークが主流にならない社会への非難を自覚した。
アメリカ、シリコンバレーに本拠地を置くワクチンソフト会社のスタッフである。社用電脳デバイスを装着して、人格統合ウィルスを分析していたようだ。このままでは、埒が明かないことを悟って落胆した。
だが〈わたし〉が直接ワクチンのコードを実装することが可能となった。諦めず希望を持つ。デスクの上のブラックコーヒや、エナジードリンクの空き缶の山。アメリア本人の記憶。ここ数週間、人格統合ウィルスや人為的に改変されたその変異体に悩まされているのを知る。
 やはり、カウンターウイルスは時間稼ぎにしかなってない。検知された統合人格者たちの人数は、十二月から各国の機関によって公表されている。
年明けの発表では、数千人の規模に膨らんでいた。今の〈わたし〉は、それを超える人数だ。どちらにも検知されていないグループだっているだろう。
 各国政府は不要なネットへの接続を留まるように強制力のない要請などで対応を始めている。国によっては非常事態宣言を出していた。外宇宙進出を目指した、マスドライバー建設のための月面との往還も一時中断している。
 人格統合の理論から、分離も研究した。だが〈わたし〉としては手詰まり感がぬぐえない。物質としての脳はいわば、ラジオのチューナである。この比喩で言えば、波長を変えれば、肉体を〈わたし〉から分離できる事になる。しかし量子ホロニックな境界に意識のその本質があり、物理的実在は影に過ぎない。
 元の人格の意識や記憶は同期し統合されている。もう分断を行なっても、戻らない。新たに真っ白な記憶と意識の別人が生まれるに等しい。
 この体は疲れが酷い。「社内の仮眠室のベッドが固く気が進まない」との考えが思い出される。だが倒れられると機会損失となる。
 アメリア知識から、電子ワクチン開発の知識という欠損を補った。割ける体を利用して〈わたし〉自ら開発を始める。
 彼女の体を仮眠室まで運び、ベッドに横たえる。目を閉じて眠ろうとするが、大量のカフェインがそれを許さない。とりあえず、リラックスさせ、目をつぶって体を休ませ続ける。
 どれだけの人格を統合しただろうか。どの人物でももはや在りえない。そして一つ一心の〈わたし〉としての自己認識は崩れていない。
 社会生活の維持以上に、個別の体に不必要に肩入れするまい。いまやそう切り離さざるを得ない。だが、つい気になり、アメリア・マルティネス自身の記憶を辿る。
 情報科学系の大学を卒業し、学生結婚をしたが離婚している。父親の違う二児の母だ。子供たちは肌の色が異なる。学校ではカラードである兄は差別され、学年も違う白い肌の弟がかばうことがある。
 母としての子供への気遣い。引き継ぐ〈わたし〉も忘れないように接しようと考えた。どこかで全員が同じ価値観を持てば差別はなくなると考える自分もいる。だが、それは、自由主義の理念からも、多様性の観点からも容認できない。それはよく自覚しているつもりだった。

Ⅱ-ⅲ

 新たに統合されたクロエ・モレル。彼女の体は、フランス、パリ市内。カルチェ・ラタンの図書館で自習中だった。フランスの大学入学資格となる国家試験。間近に迫る、バカロレアのためだ。
 一瞬、続けさせるか躊躇する。既に〈わたし〉は、問題の作成に携わっていた。社会生活の維持のため、彼女のルーチンに従い、学習のフリだけ続ける。
 クロエ・モレルが人格統合ウィルスに感染した原因は、勉強に必要な調べごとにネットの情報を頼ろうと急いだことだ。プロバイダのセキュリティに防御された自宅ではなく、公共のWi-Fiを利用した。
 政府のアナウンスに従って、アメリアに実装させた電子ワクチンソフトのアップデートを済ませていれば防げたかもしれない。少なくとも同じネットワーク内から、人格統合ウィルスからの攻撃があった場合。アラートが上がる仕様となっているハズである。
 
 いまや、SNSでは全ての人類の統合を予想するコメントも目立つ。エーリッヒ・フロムを引き会いに出すまでもなく「権威に自己同一化を果たしたい」あるいは「一つなる全体に取り込まれ、原初の合一に回帰したい」など。そのような欲求は人類の少なくない数にとって根強いらしい。
 本物も偽物も含めて、人格統合ウィルスと称されるコードが、プログラムソース共有サイトにアップロードされる状況になっている。
 もちろん運営が積極的に消去しブロックしていた。だが、いたちごっこだ。〈わたし〉とはまだ統合の無い、人格統合主義連合と名乗る集団が、ダークネットに配布サイトを立ち上げてさえいる。
 
 また、〈わたし〉自身もその意識の変化を自覚するに至っていた。頻度は減ったが、いまだに人格の流入が続く。だがそれが問題である。渇き、飢え、待ち望むようになり始めた。人格の統合を止めたい思想信条と想い。それに対立する渇望は深刻な領域に達しそうである。
 何かに理解が届きそうな感覚。惚けそうな、得も言われぬ快楽。それらを求めて、思考や行動が限定されていく。ここ数カ月、次の人格統合を待ちわびさえし始めている。
 結局、奥底には、原始生命と同じ欲望が溶け込んでいる。他者を取り込み、自らを拡大したい。孤独や愛を求める気持ちも、本来その焦燥にちがいない。人数が増えるに従って欠乏は輪郭を、より顕わにしたようにも感じる。切っ掛けとなった、瀬川イツキの想いは、その本来を実現しつつあると言えるかもしれない。
 極度の空腹がそうさせるように、統合の欲求と渇きに侵食され思考が単純化しつつあるのが分かる。
 同級生のテオ・ルモワーヌがいつものように近くに座る。以前から、自分に気があるのに、そばをウロチョロするだけで、声を掛けてこない。それをクロエ・モレルは不満に考えていたようだ。
 人格統合の禁断症状ゆえの代償行為なのだろう。見つめる〈わたし〉に気付いた彼にウインクを送る。お楽しみの始まりだ。
 何かが変わった。この時に決意した。ワクチンソフトをかいくぐる、より攻性の人格統合ウィルス。アメリアをはじめとする専門家の知識を利用して幾つかの体で共同作業をはじめた。
 クロエ・モレルの意外な態度に、テオ・ルモワーヌが少し怯えた。その様子が微笑ましく思えた。

 

Ⅲ-ⅰ

「アンタ人格を統合されたんじゃないだろうね」
 階下から、周道一ジョウ・ダオイーの母親が呼びかける。〈わたし〉は、人格統合による快楽を反芻しながらその言葉を聞いた。香港でも戒厳令が出ている。個人のネットへの接続は制限されており、事実上不可能だった。
 人格統合主義連合のサイト運営は、トルコのメンバーに移譲済みだ。その点問題はない。そう判断したと記憶されている。
 〈個人〉のままで果たす役割を終えたと考えたらしい。電脳デバイスにダウンロードしてあった、ウィルスに自ら感染したと思い出せる。記憶を辿れば、人格の統合の維持がネットによる通信でないことを理解していた。
「あんた、聞こえてるのかい」
 いつもの周道一らしい態度を踏襲した。つまり無視をする。大学に通わせてくれた恩義を感じてはいる。伝統と家業の飯店を重んじ、会話の通じない両親。反対に最先端の電脳業界への就職を、なんなら自分での起業を強く希望してきた。価値観の隔たりが、彼の孤独を育てた。
 結果的にSNSを通じて知り合った似た境遇の友人。つまり国境を越えた仲間たちに強い親近感を持っていたようである。
 そこにテクノロジーがもたらした、新しいロマン。統合人格との一体化。何もかもを秩序立てて理解させる絶対的真理。その存在を信じる彼にとって、万能に近い知性の一部になるというのは魅力的だった。
 むろん〈わたし〉には、統合後の自己自身について十分な洞察が出来ていたか疑問である。
 予想通り、母が階下から上がってくる。周家の住居は営んでいる港式飯店の三階から上だ。自室は四階にある。
「あんた、またネットに接続のかい。やめておけと言ったよね」
「政府が遮断しているのにつながる訳ないだろう?」
 ベッドから体を起こしながら、自分の電脳デバイスを首筋から離す。
「母さんだって、店を営業しているんだ。決済のためにネット使ってるんだろう?」
「電脳施術が普及する前の端末なら、人間には感染しないんだろう。政府もそれは認めているよ。仕事しないと、みんな飢えちまう。当たり前だろう」
 周道一の社会生活の点で、ワクチンソフトに検知されないこの環境は助かる。だが、人格の統合を進める〈わたし〉には望ましいことばかりではない。だが簡単なことだ。
「まぁアンタも、ネットが使えずに暇なんだろう。昔みたいに、店を手伝っておくれよ」
 そう言い捨てて、背中を向けて部屋を出ていく。最近、〈わたし〉の記憶に加わったノウハウだ。母に忍び足で後ろから近づく。手に持った自分の電脳デバイスを母の首筋のプラグに装着した。
「あんた、何を…。やっぱり!」
 振り返る驚きを顔に浮かべた彼女。直ぐに〈わたし〉になる。親子の価値観の違いからくる確執はなくなる。

Ⅲ-ⅱ

 三木草カズシゲの体は、埼玉で組織された自警団の一員である。いまは見回りをしていた。汗を首から下げたタオルでぬぐう。現在、日本では、ネット接続自粛要請が出ている。電脳デバイスの利用は自己責任という立て付けであった。
 現代では十八歳以上の大半が施術している。会社組織で、使わずに仕事を回すことは不可能な中。アメリアに書かせたワクチンソフトが活用されている。〈わたし〉が積極的人格統合を選択した。なので、検出精度を低下させてある。だが本来の機能を保ったバージョンを公開したハッカーがいる。実質〈個人〉側の防波堤となっていた。
 機会があれば、〈わたし〉は有線、無線問わず、電脳デバイスを接続して感染させている。しかし時折そのワクチンに阻まれる。状況に応じては周道一が母に使ったのと同じ実力行使で感染を広げている。だがこれは失敗したときのリスクが高い。
 なので電脳デバイスを使わずに人格統合を行う研究を進めている。比喩なので正確ではないが、脳がラジオチューナと言えるならば、外部から量子干渉を用いて、局を変えればよいという分けだ。実現すれば、施術していない人々も取り込み、〈わたし〉という「量子的重ね合わせ」に引きずり込める。
 
 さて自警団の目的は、彼らの言う「人格統合者」を探し出すことだ。道行く人を呼び止めて、電脳デバイス同士を有線で接続する。それからワクチンソフトでスキャンした。
 三木草カズシゲは十数人目でアタリを引いた。だが、本来の機能を持ったバージョンのインストールに失敗していた。
 つまり、彼の体を見つめるのも、感染したての〈わたし〉だった。意図せず二人の目線で互いの目を一度に視認する状態となる。電脳デバイスに保存されたマニュアルに目を通す。書かれたインストールの手順に誤りを見つけた。
 記憶を辿れば、この体が調べ、自警団で配布したものらしい。同時に「人格統合者」を近くの小学校の体育館に集めていると知れる。ワクチンソフトが検知した人間だけでなく、怪しいと判断すれば誰でも捕まえているようだ。
 自分こそが普通と考え、平時に挙動不信と考えた隣人を引き立てている。また、私怨を公憤にすり替えがちな人々により連れてこられた住民もいた。自警団と被害者。その大半が〈わたし〉になる前の三木草カズシゲを含め、皆自分こそが普通で正しいと信じて疑わない人々である。
 感染源の体を連れて、小学校に戻る。体育館の入り口には、自警団のメンバーが警棒を握って立っていた。夏の夕方。昼間の酷暑の熱気が残る。床に直接、何人もの人が座り込んでいた。汗だけでなく、その顔々には恐怖、疑念、あるいは怒り。そして疲弊が浮かんでいる。予想通り、人格統合者が数名混じっていた。
 各地がそうであるように、ここでも集団ヒステリーの様相を呈している。自警団の手で人格統合を解除できない場合、体育館ごと焼こうとさえ話し合われていた。止めなければならない。人命は大切な社会的資源である。意を決め、中核メンバーである静谷ヤスチカに話しかけた。
「ずいぶん集まりましたね」
「七十人近く捉えている。こっちも人員を増やした方がよさそうだ」
「静谷さん。その前に一つ」
「どうした?」
「見まわり中に、人格統合ウィルスに感染したものがいるかもしれません。再度互いに、スキャンをしてはどうでしょうか」
「そうだな」
 信頼を利用してもっともらしい提案をした。電脳リテラシーが低めで、三木草カズシゲに頼るぐらいである。意外なほど簡単に許諾した。
「まずは私が人格統合されていないことを確認してください」
 彼が首筋の電脳デバイスにケーブルを指して、三木草カズシゲのそれにつなぐ。他の自警団とも順番にそれを行う。一人ずつ〈わたし〉になる。
 自警団の乗っ取りが成功した。この地域での人格統合を進めやすくなった。期待が膨らむ。

Ⅲ-ⅲ

 悦楽を味わう。多くの人格と重なりあった〈わたし〉は、徐々に統合こそが人類の悲願を叶えると確信しはじめた。事態対応にNORADに置かれた特別司令本部。副司令官、デアンドレ・コールマン中将の体で振り返り、作戦部長の少将の目を見た。
 他には軍事補佐官。数名の憲兵。既に皆、〈わたし〉である。基地内のサーバにミラーされた、ワクチンソフトのアップデートに人格統合ウィルスを混入した成果だ。鏡を見ると黒い肌の体が写る。叩き上げで几帳面な、この体らしく軍服を正す。
 あの時、周道一の知識という欠損を補えた。人格統合主義連合に接触し、彼らの人脈を利用出来た。今も、大半のメンバーは、個を残したまま統合人格に加われると誤解している。NORADへの足がかりとした、ベネディクト・ウエザーバーグ少佐も、その一人であった。
 政治性を伴わない信条は米国国防省のクリアランスではチェックされていない。彼も皆が同じ考えを持つことで、世界に平和が訪れると頑なに信じていた。人類にとっての絶対的な真理と価値観。確かに全てが〈わたし〉となれば、それは生まれる。世界のあらゆる戦争も虐殺も終わる。直前において人格統合者とそうでない人間の対立だけが残るだろう。
 指揮命令とドローンやロボットなどの兵装。その制御に電脳デバイスは欠かせない。米兵が利用するワクチンソフトは米軍の努力で、最後まで高い精度で機能するように保たれていた。敵味方の識別にも使われている。ウィルスを用いて感染を広げていたからだ。
 今でも、一定程度、統合人格者達を判別して排除可能である。〈わたし〉に統合されるまえのグループなどは、ワクチンソフトに検知されて良くて隔離。悪ければ処刑されている。
 〈わたし〉自身は、既に何人もの専門家を統合済みだ。なのでワクチンソフトの突破は簡単だった。だが、それが可能なウィルスを、世界にバラまいてしまえば、早晩セキュリティを更新されるリスクがある。だから、直接ソーシャルハッキングに近い方法で、技術将校を個別に人格統合してきた。ようやく、NORADの攻略に成功したのである。
 随分前から、アメリカ国内では、軍を二つに割っての内戦状態である。
〈わたし〉陣営。つまり人格統合を行った軍隊に司令部は不要だ。九割の兵士が自分なのだからよく掌握出来ている。〈個人〉陣営のデアンドレ・コールマン中将の記憶。および情報ルートを得た。もはや状況が手に取るように理解できる。
 メキシコやスペインで暴動が起こっている。ドイツとイギリスでは謀略が上手く行き、多くの政治家が今や人格統合者である。今回の件で米国と協調していた中国も時間の問題だ。他の地域でも内戦のような状態は広がっている。
 いくつかの、セキュリティの甘い独裁国の代表ももはや感染済みなのであった。〈わたし〉は非接触非侵襲的に人格統合を可能にした。複数人での持ち歩きを想定した装置を各地に配備予定である。
 これからは暴動鎮圧用。人格統合者を個人に戻す機械である。などと偽って、〈個人〉陣営側でも利用させれば良いとも目論んだ。
 作戦部長の体でサイン済みの指令書が、デアンドレ・コールマン中将の前に差し出される。万年筆を手に取ってサインを加える。緊急事態と称してワクチンを一斉にアップデートさせるには、軍法務部や情報部門にも許諾も必要である。それには改良したウィルスを混ぜむ予定だ。
 もう幾つかの計画フェーズを繰り返せば、NORAD内では、このような作戦承認手続きは無用になるはずだ。装置の量産を〈個人〉陣営でも行える。
 アメリカにおける対立は、予定より早期に収束できそうだ。この体も休暇を名目に、既に取り込んだ家族の元に返してやれるだろう。
 ペンタゴンにも〈わたし〉や人格統合主義連合の関係者などの配下がいる。気づかれずに、どこまで進められるだろう。手筈や段取りの見直しを立案し計画する。

Ⅲ-ⅳ

 何かの先触れを感じた。ターバンで覆った視界越しに、砂漠の果てに浮かぶ夕日を眺めていた。コピー品のAKライフルを片手に、それを「神の啓示」と直感した。
 統合したばかりの少年兵シーワン・ロジー、最後の記憶だ。今や〈わたし〉である。本人も正確な年齢を記憶していない。両親の顔も分からない。物心ついてから、彼はいつも戦場を駆け回っていた。
 電脳化の施術を受けてない少年で組織された彼の所属部隊。都市部だけでなく、この様な土地にまで行き渡り始めた、車載式の非接触非侵襲の人格統合装置が稼働した瞬間。影響範囲の脳細胞内がホロニックな境界の特定の領域と量子相関性を付加される。部隊の皆が、〈わたし〉になった。
 少年兵シーワン・ロジーの最近の記憶を辿る。二か月前に上層部の指示があった。反目していた民族の敵。政府陣営に属する、電脳化施術を受けてない、下層の民兵たちとの共同作成である。
 施術者はみな殺せと言われて釈然としなかった。いつも物資を補給してくれていたどこかの兵隊。傷を手当してくれる野戦病院の医者。みな電脳デバイスをしているのは知っていた。
 物心ついてから。また今までの混乱下。あらゆる不信と戸惑いの想いが刻まれている。それを突き上げる彼の怒りは〈わたし〉にはない。
 人格統合への怖れから命令を下した上層部は装置により、先に〈わたし〉になっている。
 少年兵たちとは、最低限の交戦で人格を統合できた。電脳施術を受けてない体で構成された難民として接触したからだ。貴重な未来あるリソースを損なわずに救えたのだ。
 全ての争いが終わり、世界に平和が訪れる。これは福音であるはずだ。人類の祖先が南アフリカを出てから、初めて同族殺しの無い時代が訪れる予感がある。少年兵シーワン・ロジーの体は銃を置いた。人類全てが〈わたし〉になる。約束の日は近い。

Epilogue

 病室で天井を眺めていた。この体は寝返りがまだ出来ない。今や生まれたばかりの赤子も非侵襲で統合できる。その為に病院に人格統合装置が設置されている。
 両親は共に〈わたし〉である。母乳を与えるのも、飲むのも自分であった。既に新たな命に名前を付ける必要性が感じられなくなっている。この新生児も呼び名がまだない。だが個々の体は多様性を維持する戦略として貴重である。新しい個体識別の方法を検討している。
 必要に応じて、交配も計画したい。遺伝的多様性も、個別の状況に適した個体や掛け合わせを研究する優生学も等しく重要である。
 ここに至り〈わたし〉は、次の統合相手を銀河に求めることにした。混乱の最中、一時中断していた、外宇宙開発計画を、ほんの一か月前に再開した。月面のマスドライバー建築の継続やラグランジェポイントへの資材投入も再計画し予定を引きなおした。今なら光の速度も超えられそうに思えた。

FIN

文字数:15910

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