感情の名前

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感情の名前

1

祖母が亡くなった。
父からの電話はだいたい、嫌な報せだ。大学の事務に行き、忌引き手続きを済ませ早退した。

 

私の実家は、東京から電車で1時間半の距離にある。車窓から見る風景は寒々しく、コートを着てきてよかったと思う。
祖母の顔を思い出そうとした時、jelly ジェリーが耳元で波音を流した。

jellyはユーザーの心を守るAIだ。耳たぶのピアス型デバイスからは心拍数、皮膚電位を取得しストレス計測し、介入する。

機能は3つ。1つ、ユーザがストレスを感じると精神を安定させる波音を発生させ、同時にストレス源となる会話を聞こえにくくする。2つ、人を傷つけそうになるとビープ音で止める。3つ、jelly同士が通信し、近くにいるユーザのストレス状況を知らせる。

 

2

葬儀の間、祖母のことを思い返す。

 

紀美きみ にとって、祖母は口うるさい人だった。子供の頃、走ったり、はしゃいだりすると、怪我するからか止めなさいと先回りして私を窘めた。
そんな祖母の目を盗み、私は塀に上って薄紫のあけびに手を伸ばした。
瞬間、落ちた。足を派手に擦りむき、血がぽたぽたと垂れた。
何故か泣かなければと思った。

かけつけてきた祖母は私を見て『この、無能』と言った。その先は聞こえない。冷たい目だった。

 

3

葬儀の後、東京で私を待っていたいのは、非日常だった。友人や、大学の先生たちがいつもより優しい。
jellyの通信を通して、彼らは私を傷つけない言葉を選び話しかけてくる。

 

優しさに嫌気がさし、教室を出た。音のない雨が降っていた。
私は、人が来ない文学部棟横の喫煙所に足を向けた。軒下の小さなスペースにベンチと灰皿が置いてある。

先客がいた。友人のあかね が煙草を吸っている。
ジーンズに厚手の黒いセーター。黒髪は、ボブで綺麗に切りそろえられている。彼女は、日本文学専攻で、感情を表す言葉を研究している。
「お疲れ」
「煙草がおいしい。良い感じにだるい」いつもの茜だった。
吐き出される白い煙、雨の匂い、静かだ。急に、祖母の話しをしたくなった。
私は気がつくと、あけびが綺麗だったことを誇張して話していた。

「不思議な話しだね」彼女は笑った。

 

4

週明けには日常が戻ってきた。3限の講義のあと、喫煙所に向かった。

茜はベンチに座っていた。私は隣に座り、先日のお礼を言った。

「紀美はさ、ラッセルの円環感情モデルを知っている?」
「感情モデル?喜びとか?」
「そうそう。感情は、快-不快と覚醒度の2次元にマッピングできるというモデルなんだ。例えば不快で覚醒度が高い感情は怒り」
文脈が見えないが、分かる気がすると返す。
「でもね、今ではjellyによって不快状態が奪われてしまった。だから負の感情を捉えられない人が多い。しかも、日本語には不快な感情と文脈を組み合わせてたくさんの感情表現がある。もはや文学の化石だ」

茜は、煙草に火をつけた。切り出した。
「お婆さまのことだけど、本当に紀美を傷つけようとしたと思う?」
急な話題に、心臓が跳ねる。jellyから波音が響く。
「まって、jellyをオフにして聞いて」
「でも・・・」
「その感情に名前をつけないと、ずっと理解が進まないと思う。確かめてほしいことがある。ここでまっているから」

 

5

父に電話した。
私は思い切って、祖母のこと、そして怪我をした日のことを聞いてみた。

「あの日のことか。覚えてたのか」
父はぽつぽつと話し始める。

私が生まれた時からjellyはいた。祖母は初めてのjellyを通した子育てに、当初は孫とのコミュニケーションが楽になると、言っていた。
しかし、そうはならなかった。
私のストレスが見えることで、日に日に祖母は接し方がわからなくなっていった。そして私が傷つかないように、先回りするようになった。

そんな中で起きた事件だった。
あの時、祖母は高いストレスにさらされた。しばらくカウンセリングに通うほどの。
孫を傷つけたと、祖母は父に何度も謝った。

 

6

戻ると茜は、寒いなか煙草を吸っていた。周囲は暗くなっていた。
「おかえり」
私は、父から聞いたことを伝えた。

 

「私の推測だけど、お婆さまの言葉は紀美にではなく、自分に言ったのだと思う」
私は頷く。
「本題だけど、紀美に生じた感情は恥だ。泣いてごまかそうとしたろ?」
そう言われたとき、顔の温度が上がった。私はなんとか声を出す。
「煙草もらってもいい?」
「一本だけね」
茜は火をつけてくれた。
鼓動がうるさい。これが恥かと思うと、jellyが急に邪魔に感じた。口が苦い。
「私はね、嫌なことがあるとjellyをオフにする。煙草を吸いながら、自分のストレスとその原因を反芻して名前をつけてあげる。感情を知りたいから」
秘密を打ち明けるように彼女は言った。

 

夜、私は初めて祖母を思い出して泣いた。思い出は、恥を後悔に変えた。
Jellyは波音を出しているが、私が得たものを検知できないと思うと、すこしおかしかった。

文字数:2000

内容に関するアピール

人を傷つけること、人から傷つけられることに過剰に反応する社会になったら、どうなるだろう?というところから思考実験をしてみました。
デジタルにストレスが管理されていくことで何がおきるのか、答えをだしてみたいと思い書きました。

また、SFを書いていると自分でも考えていなかった発見があるので新鮮でした。感覚の喪失は、言葉の喪失につながりそうだ、という答えが出たのは発見でした。

読んでいただけると、幸いです。

文字数:199

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