フェイク・ミー・アップ

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梗 概

フェイク・ミー・アップ

羽鳥由衣は、嘘つきインフルエンサーだ。
ディープフェイクのスキルを使って、SNSやYouTube上で自分を別人のように捏造し、投稿している。
足を伸ばし、肌を滑らかにし、目を大きくした美女「ゆいりん」として。
その技術はとても無料アプリで真似できない。

彼女は本業として広告制作会社で『AIデザイナー』の仕事をしていた。
AIを操作して動画や静止画を作成し、合成やレタッチを組み合わせて仕上げる近未来の職業。
そのディープフェイク作りに最適なスキルを流用し、人気ファッション・インフルエンサーとして偽りの活躍をしていた。
ちやほやされ、企業の案件をこなし、承認欲求と金銭欲を満たしていた。

そんな彼女の嘘が、スマホを覗き見た同僚の営業の高田にバレてしまう。
「黙っててほしかったら、ちょっと言うこと聞いてほしい」
「脅すつもり?」
――高田に連れられて行った先には、ベッドの上の女性がいた。高田の妹、凛。

凛は「百名山をすべて登る」挑戦をしていた登山系人気YouTuberだった。
だが凛は、大きな怪我をしてもう歩けなくなっていた。
「あと、たった五つ。ディープフェイクで登った映像を作ってほしいんです。――そして、やり切ったことにして、事情を探られず、明るく引退したい」

自分と重ねた由衣は、高田と山に登って背景素材を撮影する。
「なんで、港区の飲みの日にこんなことを……」
由依はAIで凛を合成し、違和感のないクオリティで登山動画を仕上げて。
細かいリクエストも叶えられた凛の目は、本当に登山を体験したかのように輝く。
沸くコメント欄。
次の山に行く由衣は、少し愚痴が減っていた。口の悪い会話をする高田との登山は、楽しい時間に。バーチャルで山に登る凛も、笑顔になることが増えた。
由依はいつの間にか、嘘の更新をSNSでしなくなっていた。

残るは最後の山一つ。
迷いやつらさを由依たちに語る凛。下半身の制御さえできない自分を恥じていた。
凛は、最後に掲出する予定の引退文を見せる。それは嘘を明らかにするものだった。
居心地が悪くなった由依は、投げやりな凛にイラつき衝突。逆に自分のSNSを凛に糾弾され怒り、険悪に。

由依は久しぶりに、自分のSNSを開く。
たくさんの嘘とそれを評価する案件DM。
三人で過ごした時間を思う。
彼女は覚悟を決めた。AIに強く、拡散力があり、企業とつながり、そばに営業もいる自分にできること。

由依がつくった最後の登山動画を開く凛。
そこには、山道の空中いっぱいに広がる、バーチャルの広告の連なりがあった。
青空に翻る色とりどりのスポンサーのポスターの前を、『凛』が元気に登っていく。
頂上には、最新AIパワードスーツの企業があった。
神経とリンクし繊細に歩行を補佐する高額商品。スポンサーから集めたお金で由依は、それを凛へ贈ると言う。
「また高尾山からはじめない? 三人で」
凛は、笑ってアップロードボタンを押した。

文字数:1188

内容に関するアピール

承認欲求が目的化した、ディープフェイク技術を虚飾に使うインフルエンサーを主人公にしました。
私とは行動も思想も異なります。
けれど、本当に何もかも自分と違うのかというと、そうとも言い切れないと思います。

この課題は難しく、面白い課題だと思いました。

どれほど「思想が違う登場人物」でも、考えていくうちに、自分の中に「その人」を見出してしまう。題意と合っているか迷ってしまう。そんな体験でした。
自分との「遠さ」と「近さ」の揺らぎに、物語を考える意味の一つがあるのではないかと思いました。

なお、この小説は、以前この講座にて考えた、インフルエンサー×SFの連作短編集の企画の一つとして想定している作品でもあります(単品でお読みいただいて問題ありません)。
https://school.genron.co.jp/works/sf/2024/students/katagiri/8961/

文字数:385

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フェイク・ミー・アップ

 羽鳥由衣の夜は、ハイエンドPCの起動からはじまる。GPUはNVIDIAのRTX12000、メモリは256GB。ぶうんと冷却ファンが回り出す。
 いつもの3DフェイシャルベースのLoRAファイル「yuirin_v3.9.safetensors」を読み込む。鏡より見慣れた「ゆいぴん」の顔が浮かび上がる。由依の長所は残しつつトライ&エラーで鍛えたモデルだ。そこに流行に合わせた髪型とメイクのパッチを重ね、生成用パイプラインを走らせる。目元のウェット感と前髪の跳ねが今回のポイントだ。
 次にPhotoshopを起動。パスツールで眼と口元を選択し、色相と彩度を調整。
 背景のデータは先日行った、開店まもない渋谷のカフェだ。花瓶や鉢植えに花が飾られており、一際映える構図を選ぶ。座る自分のシルエットにマスクをかけて、『ゆいぴん』をはめ込む。顔の角度や奥行きはAIが補正するが、質感や光源が甘い。トーンカーブを調整し、レタッチを加える。修復ブラシとコピースタンプで指や髪などの破綻した箇所も修正。このあたりは素人には無理だと思う。
 テーブルの上のパンケーキの形が微妙に崩れていたので、Midjourneyで理想のパンケーキを生成して合成した。
 Instagram用の投稿画像を書き出す。プレビューを確認。谷間がちょっとだけ目立つよう微調整を加えた。

 次は、YouTube用の動画だ。
 昨日、自室で撮影したノーメイク・Tシャツの自分は、カフェでしゃべる演技をしている。照明は適当。原稿はWordで下書きしてChatGPTで整えておいた。
 まずは『FaceCraft Pro』を立ち上げる。表情モーションと音声波形からフェイシャルトラッキングを生成し、先ほど仕上げた「先週のゆいぴん」モデルをオーバーレイする。LoRAは、少し前のバージョンから動画素材生成にも正式対応していた。笑う、瞬く、喋る。動きが滑らかにつながる。
 細かい違和感はフレーム単位で調整する。髪や指先の破綻やリップシンクのズレなど。四角で囲って、ペンタブでの手作業とAIとの共同作業を加える。壁紙はリアルタイムマスクで除去、背景を先ほどのカフェに変える。さっきのパンケーキも合成する。
 カラコレは『DaVinci Resolve』。肌の色温度を一段階上げる。
 音声は『Adobe Audition Cloud』で加工。しゃがれた地声を、透明感ある『ゆいぴん』のボイスに変換する。
 プレビューを通して、由衣は『ゆいぴん』と目を合わせる。
 うん、こんな感じか。
「ちょっと贅沢しちゃいました♡」 
 パンケーキをついばみながら、自分じゃない自分がそう呟いた。
 インスタからYouTubeの投稿画面へ、キャプションをコピペする。
「#ゆいぴん #ご褒美時間 #カフェ巡り」あとはそれぞれにカスタマイズ。
 投稿ボタンを押すと、画像も動画も即座に公開された。

 インスタを親指で引っ張って再読み込みしながら寝転がる。最初の「いいね」は五秒、コメントは十五秒後。「早速行かれたんですね!」「かわゆい!」「笑顔癒されます」――コメントと数字が押し寄せてくる。企業アカウントからの案件DMも、早速ひとつ届いた。
由衣は、空のマグカップをくるくると回した。  ジャージの裾がめくれて、足首が少し冷えている。
画面の中の『ゆいぴん』は、端正な顔で幸せそうに微笑んでいる。
由衣は、リアルタイムでカウントアップしていく数字を見ながら、背中にぞわりと快感を走らせた。 

 羽鳥由衣は、嘘つきインフルエンサーだった。
 デザインとAI操作のスキルを使って、インスタやYouTube上で「別人のような自分」を捏造して投稿していた。爆美女・ゆいぴんとして。
 彼女はそれを、ディープフェイクになぞらえて、『ライトフェイク』と自分のなかで呼んでいた。犯罪っぽいディープフェイクとは違う、かわいい嘘。快楽ホルモンあふれる脳内で、そんなふうに処理していた。
 生成、合成、編集、演出を高度に組み合わせて作られる彼女の画像と映像。人物や事象に一貫性があって不自然さがない。トーンが心地よくコントロールされ、流行を反映させつつ、ときにエモい。要は魅力的だった。
 AIにプロンプトをぶちこんだ程度でクリエイター面している者だとか、いまだ無料アプリでフィルター加工している者だとかには真似できない――そんな自負を感じながら由依は、『作品』の前で鼻を小さく鳴らした。

 羽鳥由依の朝は、きっちり定時からはじまる。
 オフィスのドアを開け、窓近くの自分の席に向かう。服装は地味。グレーのカーディガンに白いブラウス、ベージュのロングスカート。通り道にいる同僚に、小さい声であいさつをしていく。先日チームで仕上げたサイネージ動画が、壁際のモニターで繰り返し再生されていた。
 席に着くと、彼女はAdobe Creative Cloudのアイコンをクリックする。自動でPhotoshopとFireflyが立ち上がる。画像編集と生成AIのソフトウェアだ。会社では法とか倫理とかデータ窃取の面でやばそうなアプリは使わない。
 昨夜、得意先から来ていたフィードバックに対応するべく、Fireflyで笑顔の家族写真を生成して、ベストなものを選びPhotoshopでレタッチを加えていく。コピーをFireflyのフィルターに投げる。タイポグラフィの輪郭をぐねぐねといじる。あっという間に、「きょう新しい家族になったにゃん ネコロイド®️」というコピーがぴったりの広告バナーが完成した。
 後ろの席に座る、担当営業の高田に声をかける。厚い胸板に精悍な醤油顔。由依とは同期入社で気心が知れた関係だった。Mac Book Pro Z のディスプレイを彼に向ける。
 「羽鳥、早いね! いいじゃん! こういうのでいいんだよこういうので!」
褒めてるつもりだが微妙に失礼だった。でも高田は基本的には素直でいいやつなので、得意先には好かれていた。
「……クライアントに送るのはやっといて」
 由依は短く言って、別の作業をはじめた。
 
 彼女は、本業として広告制作会社で『AIデザイナー』の仕事をしていた。
AIを操作して動画や静止画を作成し、デザインの技術を組み合わせて仕上げる近年生まれた職業。仕事の需要は大きかった。
 生成AIの黎明期は、「ボタンを押すだけで理想の動画や画像が出てくる!! そのまま広告だとか表紙だとかに使える!!」と興奮する人たちがいったん増えた。
 だがやがて、きちんとしたアートディレクションが施されなければ、ブランド価値を維持したり感情を動かしたりできないことがわかってきた。格のある企業の仕事ならなおさらだった。
 そこで需要が高まったのが、高度なデザインスキルとAIのオペレーションスキルを併せ持ち、アートディレクションのセンスでそれらを統合する職業だ。由依の職業、AIデザイナーである。
 撮影だとかキャスティングだとか、既存のデザインワークのコストや時間がかかる部分を圧縮できるのも魅力だったが、大事なのは、単体では微妙なAIのパーツを市場価値のある作品に仕上げる力だった。結局のところ、意図のないアウトプットのガチャを素人が回してこねくり回すより、プロの手を介することの方が、クオリティも生産性も高かった。AIデザイナーという職は、美大でもAIに関する授業が一般化した今では、徐々に成り手が増えている。
 由依にとって好都合だったのは、これがフェイクのインフルエンサーになるために最適なスキルだったということだ。
 最初は、ちょっとした衝動だった。ある日インスタで、友人の友人のモデルがちやほやされる投稿を目にし、羨ましさとむかつきがほとばしった。情動のままに、自分を露出度高めの美女に置き換えてインスタに投稿すると、すぐに反応が殺到。普段の自分のアカウントでは見たことのない数の「いいね」がついた。
 その日から、由依の脳汁が止まる夜はなかった。
 こうして由依は「ゆいぴん」というファッション・インフルエンサーとして活躍している。数十万のフォロワーに囲まれながら、企業の案件もこなしていた。新作の服だとかアクセサリーだとかを身につけて画像や動画をアップしては報酬を受け取るというものだ。由依は、こうして承認欲求と金銭欲を同時に満たしていたのだった。
 本当の自分とフェイクの自分とのあいだにある矛盾は、再生数やいいね数と比例するドーパミンの奔流に押し流され、まるで意識に上らなくなっていた。

 昨日アップしたカフェ動画も再生数いい感じだなあ。そんなことを由依が休憩所のベンチで考えていたら、ふいに缶コーヒーが目の前に飛んできた。
「ほいこれ、急ぎの対応のお礼」
 高田だった。由依は缶を取り損ねてあたふたした。
「これ、あんまり飲まないんだけど」
「そうなん? めちゃうまじゃん」
 と言いながら、高田はぐびぐびと喉を動かしながら缶を飲んだ。
 彼の満足そうな顔を見て、由依はなんだかばかばかしくなって言った。
「まいいや、これで」
 長い爪の先でプルタブを開く、気の抜けた音が休憩所に響いた。先に飲み終わった高田が休憩室を出ていった。
 たまらず、由依はスマホの画面をオンにする。YouTubeの自分のアカウントがすぐ表示された。
 伸びてる伸びてる。
 ふはは。と由依は心の中で笑った。あ。誤字だ。概要文を編集しようとした、そのとき――
 「それ、『ゆいぴん』じゃん!? ん?」
斜め後ろから、高田の声がした。スマホをのぞいている。トイレに行ったのか似合わないハンカチで手を拭いていた。
「おああっ!!」
 由依は間抜けな叫び声ととともに、スマホを落とした。高田の足元に落ちて、靴とぶつかる。
 「お前の、え? どういうこと?」拾い上げながら、容赦なく高田が画面を凝視する。
「まってまって!」
「あ、そゆこと? お前、『ゆいぴん』? そっか、お前なら」
 ひとり納得した顔の高田から、スマホを奪い取る。高田が手を伸ばしてくるのを必死でよける。
「違う! やってないから! 加工してインフルエンサーとか絶対やってない!」
 自白だった。

 高田は、自分のスマホでゆいぴんのアカウントをじっくり見ていた。丁寧に調べれば、ゆいぴん=由依の証拠はいくらでも出てきた。出張先の時期と場所が投稿写真と被っていたり、企業案件でもらった服をオフィスウェアに流用していたり。
うつむく由依。スマホは膝の上で裏返しになったままだ。高田が言った。
「こんな嘘ついてて虚しくないわけ?」
「ぜんぶ嘘じゃないもん。行ったお店とか、食べたものとか、着た服とかは、ほんとで……」
「それで企業から金もらってんのはタチ悪いな」
「…………お願いしますだまっててくださいなんでもしますほんと勘弁してお願いお願い」
 高田は、少し考えるそぶりを見せた。
「なんでも、って言ったな?」
「……あ、そういうのは無し!」
と言って、由依は両腕を胸の前で交差させて身体を抱えた。
「んなクズじゃねえよ。やべえ奴にやべえ奴扱いされたくないわあ」
 笑いながら高田は言った。
「……ごめん」
「まあ考えるわ、なんでもするっていうなら。せっかくだし」

 高田が由依を呼び出したのは、その三日後のことだった。
 由依は周囲をうかがいながら、休憩所の扉を静かに閉めた。あの日以来、意外にも高田はいっさい由依をこの件で弄ったり人前でほのめかしたりはしなかった。
 由依は捧げるように缶コーヒーを高田に渡した。戦々恐々としている。
「確認だけど、例の件、黙っててほしいんだよな?」
「…………はい」
「ならさ、ちょっと頼み聞いてほしいんだ」
「…………はい」
 由依は泣きそうな顔で高田を見上げた。
「ああ、悪いことじゃねえから。ただ、ちょっと変わってる頼みかもしんねえけど」

 翌日の土曜日。由依は、高田と駅前で待ち合わせていた。
「着いたら説明するわ。その方が早いから」
 とだけ言って歩き出す高田のあとを、由依はとぼとぼ着いていく。
 マンションビルに着いた。オートロックを手慣れた手つきで開錠する感じからは、高田が住んでいる場所のようだ。いぶかしげに高田を見上げる。
「だーかーら、そういうんじゃねえから。家族がいる」
 高田が廊下に面したドアを開けた。玄関の先にいたのは、こちらに向かい車椅子のホイールを転がす若い女性だった。ナチュラルなボブヘアに整った顔立ちだ。奥さん? でもそこに他の女を連れてくるってどういうこと? 頭がバグる由依に、女性はまっすぐな視線を注いでいた。
「ただいま、凛」
「おかえり、お兄ちゃん」

 3つのコーヒーカップから湯気がたちのぼる。
 目線の高さが普通の椅子と一緒だから、リビングのテーブルに座っていると、凛が車椅子に乗ったままだと忘れそうになる。
「ああもう、お兄ちゃん、なんでちゃんと説明してないの?
 あらためまして、凛といいます」
 高田は頭をかいてヘラヘラ笑っている。
「はじめまして、由依といいます」
 由依は、凛の顔にどこか見覚えがある気がした。つい立場を忘れて観察してしまう。
「悪い、妹に話した。その上で頼みがある。聞いてやってくれ」
 途端に、由依の居心地が悪くなる。
「これを見てください」
 そう言って凛の差し出されタブレットにあったのは、YouTubeのチャンネルだった。一瞬、自分のアカウントを突きつけられたのかと錯覚して、由依はビビった。
 しかし、よく見ると、そこにいたのは、山頂でバケツハットを被って微笑む女性だった。よく見るとその顔は、目の前に座っている女性のいまより日に焼けた顔だった。
 アカウント名に見覚えがあった。

RINの山々ばなし
チャンネル登録者数18.2万人

「あ、見たことある……RINって、じゃあ」
「はい、登山系YouTuberのRINです」
 そう言って凛は小さくはにかんだ。由依の視線が、タブレットと目の前の顔を往復する。
 彼女は本物のインフルエンサーだ。自分が情けなくなって、由依は思わず縮こまる。
「ええと、なんでそんな人気YouTuberがわたしなんかに。聞いてるんですよね? わたしのこと」
「はい、見せてもらいました、インスタのTikTokもYouTubeも――すごいですね」
「は、はあ」
「こんなにすごい技術もってるなんて。なにもかも全部本物っぽい。AIとデザインと編集のスキルを使ってるんですよね?」
「ええ、まあ」
 いまいち話の意図が見えない。由依は混乱した。すると凛は再びタブレットを操作し、動画一覧をスクロールした。
「ここを見てください」
そこには、「百名山ぜんぶ登る」という小見出しで複数の動画がまとめられていた。指を指しながら凛が言う。
「百名山、って知ってますか?」
「はい、なんとなく」
「日本の風光明媚な山を百座ですね。座、というのは山の数え方です。それをすべて登る挑戦をしてたんです」
 由依は無意識のうちに凛の車椅子を見た。凛の隣に座る高田が唇をぎゅっと結んだ。
「……すごいですね」
「95座」
「え?」
「わたしが登った百名山の数です。あと5つ……だったんです」
「……」
 由依はYouTubeの「百名山ぜんぶ登る」の再生リストをじっと見た。ほぼ一週間ずつ刻まれていた動画が、ある日を境に止まっている。
「……交通事故に遭ったんだ。酔っ払いが運転する乗用車にはねられて、複雑骨折で……」
 凛の手が、彼女のふとももに当たる場所を軽く撫でていた。
「……そんな……」
 サムネイルの中の凛は、まるで未来のことなど知らずに笑っている。
「凛は、もう歩けない」
 高田の端的な言葉に、凛は動揺を見せなかった。それが、兄妹の通り過ぎた時間の重さをうかがわせた。
「わたしから、お願いがあります。あと、五座だけ。残りの山を登る映像を、あなたのフェイク動画の技術で作ってほしいんです」
「え……」
「――そして、やり切ったことにして、事情を探られず明るく引退したい」
 リビングに、由依が唾を飲み込む音が響いた。
「あの、わたしがいうのもなんだけど……『いろいろ』報告して、やめるって方向は、ないですか?」
「きらきらした場所に、深刻なものをシミみたいに残したくない」
 凛が穏やかな口調で話し続けるのを、由依は頷いた。
「それに、かわいそう、ってみんなに思われるのは嫌なんです。
 そろそろ視聴者の人たちが心配してます。何かあったんじゃないかって調べようとしている人もいて」

 高田は駅まで送ってきてくれた。
「先に言っておいてよ!」
「俺から言ったら断られる気がしてな」
「断わるのアリだったんだ。てっきりガチで脅されてるのかと」
「俺からも頼む。中途半端になったアカウントを凛が何度も見返して悩んでる凛を見るのが、つらくてな」
「……わたしが、凛さんのために残りの五つの山を登るフェイク動画をつくる。そうすると内緒のまま気持ちよく引退できる、ってことだよね」
「ああ」
「ほんとにいいのかな? 凛さん」
「本人がそう願ってる。それに、そういう場所を『リアル』で汚したくないって気持ち、お前はよく知ってるだろ」
「うん、まあ……」
 そのとき、由依は初めて会った凛が、妙に近しく感じた理由を実感した。
 帰りの電車でスマホを開くと、自分の投稿の再生数やいいね数がいつになく伸びていた。
 けれど、コメントまで確認する気にはなれず、親指でアプリを弾いて画面の外へ飛ばした。
 もやもやする。断ってもよさそうな空気感だったけど……。
 由依は後頭部をぐしゃぐしゃとかいた。
 メッセージアプリを起動して高田にメッセージを打った。
「やるよ」
 するとすぐ、変なクマが『ありがとう』と言っているスタンプが高田から返ってきた。

 凛たちに会った日はなんとなくセンチメンタルで自己陶酔気味だった由依だったが、いざ約束の登山当日を迎えるとダルくて仕方がなかった。
 (百名山って、素人が登れるもんなの?)
 あくびを噛み殺しながら登山用のナイロンジャケットに袖を通し、防水のバッグパックを背負う。由依は、自分がクズよりのクズだったと思い出していた。
 メイクが終わらないのに連発する高田からの着信を無視していたら、マンションの外でクラクションが鳴った。
 由依は今日、高田とともに合成の背景素材を撮影するために登山に行くことになっていた。
 高田の運転するレンタカーで爆睡して、気づけば登山口に立っていた。ぴたっとしたマウンテンパーカを着た高田はやたら爽やかだ。
 高田の隣で山道を歩き始めると、由依は、土の上を歩くのが思い出せないくらい久しぶりだと気づいた。思った以上にでこぼこしている。横から草木が飛びてて避けながら歩かなければならない。
「はああ」思わずため息をつくと、高田が呆れたようにこちらを見る。
「しゃんとしろよ。お前が『監督』なんだからさ」
 彼はカメラを由依の方に掲げてる。
「分かってるよ、カメラマン」
 歩き方にも気をつけなければならない。凛の身体を合成する際、ベースとなるのは自分の骨格と動きなのだ。
 高田と確認しつつ、ときどき純粋な風景ショットを入れたり、光源を計算して、しゃべる用のカットを撮ったりする。妹の撮影に付き添っていた高田の経験もあり、また由依も凛の過去動画を研究していたので思いのほか撮影はスムーズだった。
 日差しがそれほど強くないはずなのに、汗が背中をつたう。小さなアブが頬に止まり、思わず手で払った。
 息が上がってきた。
 きつい。いたい。つらい。
 最初はわりと由依の弱音に親身に相槌を打っていた高田は、もはや飽きて受け流している。
 傾斜の激しい山道は、デスクワークで退化した由依の脚に乳酸を蓄積させていく。 
 ずんずん進む高田と距離が出来てきた。妹の活動を長く支えてきただけあって、高田は、山を歩くのに慣れていた。
「ま、待って」
「……」
「つか待てって、高田!」
「……情けねえな。まだ全然だけど、休むか」
「うん」
 憎まれ口をきく元気もなく、そこにあった切り株に腰を下ろす。水筒を傾けると、冷たい水が喉を通っていった。木々のあいだから覗く空が、やたら青い。
(なんで貴重な日曜にこんなことを……。六本木にオープンしたカフェ行くはずだったのに)
こんな空を背景にカフェのテラス席で撮影したら映えただなろうなー、と思った。
 高田が、小分けにしたつややかな黒いパックを由依に手渡した。
「これ何?」
「糖分を効率的にとれる。山登りの鉄板だ」
 それは羊羹だった。
 はああ、ファッション・インフルエンサーが、ここではおばあちゃんかよ。
 由依にとって、群馬の山は六本木とはるか遠くに隔てられていた。
 羊羹は美味かった。

 ぐるぐると高田がカメラを回している。まぎれもない頂上だった。
 山々が雲を突き抜け、青空へと溶け合っている。360度、はるか先まで見渡せる。突き抜ける風が、火照った身体に心地よい。
「すご……」
「やべえだろ」
 高田が、隣で得意そうにしている。
 自分の投稿にも使えるかも、と思ってスマホのパノラマ写真機能でずいーっと腕を水平に滑らす。横長の画面のなかで多様な緑色が連なっている。映えるな、と思ったが、由依はなぜだかその言葉を飲み込んだままにした。
 高田は凛に電話をつないだ。撮影データの一部はクラウドに順次上げて、凛が遠隔でチェックできるようにしていた。
 「よかった、大丈夫だな……ああ。いつもの2倍かかったけどな」
 高田はこちらをちらちら見ながら、にやけている。由依は彼を睨みつつ、澄んだ空気を思い切り吸い込んだ。
 高田が水筒で、由依の肩を軽く叩く。電話を代わってほしいらしい。
 スマホを耳に当てると、凛の芯のある声が聞こえてきた。
「ありがとうございます……頂上、綺麗ですか」
 一瞬、何と言っていいか分からず、由依は「うん、頂上、綺麗」とマルコフ連鎖の旧式チャットAIみたいに言葉を繰り返した。
 由依はスマホを高田に返し、並んで平たい岩の上に腰を下ろした。由依は、隣に座る高田に言った。
「羊羹」
「え?」
「さっきの羊羹、もうちょっと無いの?」

 完成した動画を見ると、由依はぱちぱちと拍手をした。
 動画の中には、あの登山道をいつもよりゆっくりと歩き、頂上で大きく息を吸い込んでいる凛がいた。
 由依はAIとデザインのスキルで、凛を山に合成し、違和感のない登山動画を仕上げていた。
「お前すげえな。ここまで出来ると思わなかった」
「まあね」
「普段の仕事、広告バナーじゃもったいないな、もっと難しい仕事持ってくるわ」
「いらんわ」
 凛は、二人のやりとりを見てくすくすと笑った。
 彼女はじっとAdobe Premiereの編集画面を見つめた。「あっ」
 由依は、タイムラインを止める。
 それは、紫色のとても小さな花だった。「カッコソウだ」
 花のヨリを入れてほしい。それが凛の撮影にあたってのリクエストだった。たしかに、ナレーションなしの花のヨリカットが、過去の凛の動画にはいつも入っていた。
 その花は凛によれば、世界で唯一その山で咲く花で、接滅危惧種なのだと言う。やばい、踏んでなかったかなと由依は焦った。
 凛の瞳は、Macの輝度強めのディスプレイを反射して、きらきらしていた。
 動画の概要欄に、凛の書いた「更新が滞っていたのはは学業が忙しかったから」という説明が入力された。

96座目! 鳴神山

 動画をアップすると、途端にコメントが殺到した。「ひさびさのアップ!」「安心した」「どうしてたの?」「RINちゃんおかえり」「編集の人代わった?」
 三人が、由依のMacに顔を寄せる。由依は凛の顔をこっそり見た。凛は、嬉しそうというよりどこか安心しているように見えた。
 カウントアップする数字に合わせて、高田がばん!と由依の背中を叩いた。由依は、それセクハラ、と言って笑った。

 次の山を歩く由衣は、少し愚痴が減っていた。
 あくびは何度も出たし、さっさと先を行く高田に舌打ちは出たが。
 
 由依は、道端の藪の向こうに花を見つけた。
「あっ」
 カメラマン役の高田が目線を辿り、かわいらしい花にカメラを向ける。
「イワカガミだね」
「お、花の名前とか覚えたんか」
「いや、Googleレンズで調べた」
「俺の感動を返せよ」
 ぐだぐた言う高田を、由依が追い抜く。モンベルの登山靴も、今日は靴ズレしなくなっていた。
 木立の向こうに、青が開けた。頂上だ。
  由依は、凛へとテレビ電話をかけた。映像のキメに使うカットを相談する。
「もうちょっと左の方がいい?」
「そこで大丈夫です。ああ、稜線が綺麗」
「うん――この景色、綺麗だよね」
 由依は、スマホのカメラをゆっくりと動かしながら、凛と言葉を交わした。
「お前ら、いつ連絡先交換したの?」
 高田の言葉に、画面越しで二人がにやつく。
 そのとき、由依の頭の中には、フェイク動画のなかで凛がどんな顔で絶景を眺めているのか、完璧にイメージできていた。

97座目! 達磨山

 高田の家で97座目の動画をアップした後、その興奮のまま、凛はいかに次に登る予定の山が素晴らしい場所かを教えてくれた。
「この山にもイワカガミが咲いてるんですよ。シラネアオイも。この花は――」
 さすがYouTuberだけあってストレートトークにキレがあるわ、なんて思っているうちに、うとうとしていた。
「こいつ失礼な奴だよな」「寝かせといてあげなよ」高田と凛の声が遠くなる。
 テーブルに突っ伏している由依の目が覚めたとき、二人はいなかった。背中には毛布がかけられていた。
 勝手にトイレを借りる。
 その先で、少しだけ明かりが漏れる部屋があった。つい好奇心でのぞいてしまう。
真剣な表情の凛がいた。車椅子から身体を上げ、脇に挟んだ杖に両手をかけようとしていた。杖は、「はてな」のマークのような形をしていて、脚部が四つ又に分かれている。それは歩行補助器だった。
「……っ」
 凛は腕に力を入れた。金属がきしむ音がした。
 凛は、ぐっと身体を浮かせては器具に体重を預けようとする。しかしふとももより下は動かない。中腰のまま震えたあと、凛は脱力して車椅子に腰を落とした。

 ひと息吐いた後、もう一度彼女は体を浮かせ、また車椅子に戻った。汗が頬に滲んでいた。
 高田はずっと心配そうに見ていたが、決して手を貸そうとしなかった。
 由依はそっと扉から離れてから、「トイレ借りるねー!」と大きな声を出した。

 マンションのエントランスホールまで二人は見送ってくれた。車椅子を器用に使ってエレベーターでボタンを押す凛の姿を見て、由依は、はじめて低い位置にもボタンエリアがある価値を目の当たりにした。マジで自分はなにも考えてこなかった、と思った。
 帰りの電車で由依は、低い位置から見送る凛の笑い顔をぼんやり思い出していた。
 クズの自分が、クズな方向に伸ばした技術で、あんな顔をつくれるのか。こんなことになるなんて思わなかった。なんだかふわふわする。けど、凛が出会った頃より笑顔を多く見せるのは素直に嬉しかった。
 握りしめたスマホは、暗い画面のままだった。
 由依はいつの間にか、嘘の更新をしなくなっていた。登山で疲れて寝てしまった夜からだった。

98 座目! 日光白根山

99座目! 霧ヶ峰

 残る山はたったひとつ。100座目の撮影に向けて、高田の家で打ち合わせをすることにした。
 絵コンテまで書いてきた由依を制して、凛が言った。
「話があるの」
 凛はタブレットを起動した。そこにはメモアプリがあった。

この動画で、わたしの「百名山ぜんぶ登る」チャレンジは一区切りとなります。
そして、この動画をもってわたしはYouTuberを引退します。

正直に話さなくてはならないことがあります。
最後の五つの山は、わたし自身が登ったものではありません。
嘘をついていました。

わたしが、事故で歩けなくなったためです。
山を登ることができなくなったわたしのために、映像制作に協力してくれる親切な方がいらっしゃいました。力を借りてフェイクの動画を作成していました。

本当にごめんなさい。

中断したとき、「やりきった姿を見たい」と言ってくださった方々がたくさんいらっしゃいましたよね。
わたしは、やりきったことにしてやめたかったのです。
この場所を、きらきらした場所のままにしたかった。でもそれは、欺瞞でした。
本当にこの場所を大切に思うなら、正直に言うべきだった。
でも本当のことを言う勇気もなかったのです。
かわいそうだと思われるのが嫌だ、なんて言いながら、本当はただ勇気がないだけでした。

最後の五つの山を歩いたのはわたしではなかったかもしれません。
でも、その登山も含めて、すべての『登山』がとても楽しかったのは嘘じゃありません。

お願いがあります。映像制作に協力してくださった人は、わたしが無理やり頼み込んだ人です。悪くありません。探らないでください。万が一どなたか分かったとしても、絶対に責めたりしないよう、お願いします。

裏切ってしまったこと、心から謝罪します。
今までありがとうございました。
またどこかでお会いできたら嬉しいです。

「これを、次の動画の最後に読みあげようと思うんです」
 由依は、目を瞬かせながら言った。
「ええと、嘘をばらすってこと? マジ? え、やめようよ。炎上するかもじゃん。あ、炎上してももうアカウントないのか。でも、お兄ちゃんとか、まあわたしも、ほら、会社員だしさ。うん、どっちかっていうと反対だなあ、わたし。考え直そ?」
「由依さんには、本当に申し訳ないと思っています。そして、本当に感謝しています。ありがとうございました」
「いやいや、なにいい感じにまとめてんの、ちょっと待って」
「もう決めたんです、由依さんには迷惑かけません。映像に撮影者の痕跡がないのはよく確認しました」
「正直に言えばいいってもんじゃないかな? ほら、幸せな嘘ってあるじゃん?」
「なんでそんな反対するんですか? 最初に正直に言わないの、って聞いたのは由依さんじゃないですか。そもそも、わたしの問題ですよ。兄さんは賛成してくれました」
 由依は高田を見た。高田は眉間に皺をつくって、唇を一文字に引き結んでいる。見たことのない顔だった。
「反対するの当たり前じゃん! だって、なんでかっていうと」
 あれ? その後の言葉が、出てこなかった。なんでダメなんだっけ? なんでこんなにイラついているんでるんだっけ? わたし?
「とにかく、ありえないってば。反対。さんざん手伝わせたじゃん! あー、登山靴だって買ったのに!」
 何が登山靴だ。自分でもわけわからなかった。めちゃくちゃなことを言ってる自覚だけはあった。
「もういいんです。やめたいんです。疲れちゃったんです」
「え」
「最後の動画、これまでの百名山を振り返るシークエンスを自分でつくろうと思って。由依さんが作ってくれた動画も見返しました。素敵で。行った気分になれて。わたしが前に作った動画も。何度も何度も見返しました。
 で、動画を見終わるたび、歩けない自分に戻ってきて。百パーセントの絶望がやってきて。現実との温度差すごくって。
――虚しくなって。ギャップがしんどくて。
 嘘がまばゆいほど、現実に裏切られ続けるんです。
 嘘も本当も、まばゆいもの一回全部なくさないとたまらなくなって。
 わかりますかね?? そう言う気持ち」
「わかる、んー、わかる! わかるよ。うん、でもさ、つらくてもいいことある? と思うんだよね、なんか、えーと例えば」
 あまりシビアなシーンにぶつかったことがないまま、ぬるっと生きてきた由依は頭が回らなかった。凛の目が吊り上がった。
「……あなたに、本当にわかるんですか? 嘘ばっかついて」
「は?」
「嘘つきのくせに、嘘に向き合うこともできてなくて」
「なんつった今」
 由依は興奮して席を立った。見下ろされる形になった凛は歯痒そうにその顔を睨みつける。「まあまあ」高田が制するように二人の視線の間に体を入り込ませる。だが二人の勢いは減らない。
「嘘つきに嘘つきって言って何がわるいんですか、嘘つき! おかしいでしょ由依さん、承認欲求の奴隷じゃん! よく平気ですね、嘘つき続けて!」
「そのわたしに頼ってフェイク動画上げたあんたも嘘つきじゃん!」
「だーかーら! 嘘つきをやめたいっつってんだよ!」
 そのときだった。
 ぽとり、とフローリングの上で音がした。
 最初に気づいたのは高田だった。彼の表情が硬直した。由依は、彼の一瞬だけ動いた視線の先を見た。
 椅子の下に、小さな水たまりがじわりと広がっていた。
 凛は、顔を伏せて肩を震わせた。
「……ああ、もういや! あぁぁぁ!」
 両手で顔を覆ったまま、凛は泣いた。
「……やだやだ! なんでわたしだけ!」
 由依がおろおろと駆け寄ろうとするが、凛が手を上げて制した。高田がいつの間にかタオルを持ってきて、無表情で様子で床に屈んだ。心臓の奥がぎゅっと痛くなった。
「……見ないで、見ないで……」
由依は立ち尽くしていた。何の言葉も思い浮かばなかった。

 高田に「いい、あとは大丈夫」と言われんがら、押し出されるように玄関を出た。
「ごめんな」
 家までどんなふうに帰ったか記憶にない。
 外着のままベッドに横になって、久しぶりに自分のアカウントを開いた。
 たくさんの嘘が、タイムラインに並んでいた。たくさんのコメントと、企業案件のDMが来ていた。更新が止まってるのを心配する声もあった。
 さっきの凛の様子を思い出す。
 ああ、むかつく。
 けど、落ち着いてくると、なんだか名前がよく分からない気持ちがわいてきた。胸の奥がむずむずするような、取り返しがつかない焦りのような。
 三人でテーブルを囲んでしたやりとりが、浮かんできた。
 同じ目の高さで話してると、凛が障害者だとか忘れてしまうのだ。そのせいでうっかり失礼なことも言った気がする。凛はそれでもいつでも笑ってくれた。なんか、山で咲いてる花みたいだった。
 山の頂上でいつも凛に電話をしていたことを思い出した。
 あのときは本当に、風景が綺麗だなあって思ったのだ。伝えたいって思ったのだ。確かに嘘つきだけど、その気持ちだけは本当で、凛に信じてほしいと願った。
 フォロワー欄を見る。ここにいる何人と、本音が言えるのだろう。
 凛。
 これっきりになるのかな。知り合ってそれきりになった、たくさんの人たちみたいに。ひどいこと言ったしなあ。
 ぐぐっ、と喉の奥が詰まりそうになった。
 そっか、わたしは。あの人たちが。

 由依は考えた。うまくまとまらなかったけど、考えた。
 いっぱい考えたあと、深夜の三時にChatGPT 7oに質問文を投げかけた。
「超優秀なコンサルになったつもりで答えてください。わたしにあるものは、以下です。デザインと動画編集とAIのスキル。拡散力、SNSのフォロワーは結構いる。
そこで案件受けるから、何個か企業とつながってます。あと、近くに営業もいます。できる広告の営業。この武器使って、以下のことやるにはどうすればいい? ――」

 高田家のドアホンを鳴らす。
 車椅子で迎えた凛は重苦しい表情だった。微妙にそっぽを向いている。高田は隣で頷いた。
 気まずい空気。いままでの由依だったらあたふたしてただろう。
 が、今日の由依は空気なんて読まない。よくもわるくも、興奮したときの脳内ホルモンが多めなのだ。
 リビングで彼女はMacを立ち上げた。
「凛ちゃん。これ見て」
 口を一文字にしたままの凛が、由依と高田を困惑して見上げる。
「凛、大丈夫。見てみてほしい」
 小さく首をかしげたあと、凛は再生ボタンをクリックした。

100座目! 乗鞍岳

 登山道の入り口に、『凛』が立つ。いままでのフェイク動画と同じ流れだ。
 山道へと踏み出す足元。
 そしてカメラはアオリに。
 ――頂上へ向かうはるか長い細い山道。その土の道に沿って、空中に半透明の色彩が連なっていた。
 凛は、目を凝らした。
 それは、バーチャルな広告の連なりだった。色とりどりのポスターが、山道と並行にパースをかけられ、まるで東京の駅広告みたいに合成されている。
 知っている登山関連の企業がいくつかある。アパレルの企業も目立つ。
 麓からポスターは連なって繰り返されて、頂上まで小さくなって続いていた。
 色とりどりの商品や広告写真が、青空に翻る。
 凛は、それが運動会の万国旗がひきのばされたみたいだと思った。
  画面のなかの『凛』は、その色彩の前をずんずん進んでいく。
「なんで? 広告? なんなのこれ?」
 凛が二人の顔を見る。
「あっ」
 凛がフラワーマーケットの広告を見つけた。凛が以前の登山で撮ったヤマユリのカットが使われていた。
 もうすぐ頂上だ。
『凛』が空を仰いだ。
 そこには、白い山小屋があった。『NEXT BODY ROBOTICS』という看板がある。
「この企業って、たしか」
 『凛』が、その店に入る。Apple Storeと整形外科の中間みたいな内装に、ベージュのマネキンがいくつも立っていた。マネキンの脚には、滑らかなラインの白くて細い網が装着されている。由依が凛に話しかける。
「AIパワードスーツって知ってるよね」
 凛は、この身体になってから高田と一緒に調べたことがあった。神経とリンクし、繊細に歩行を補佐するアイテム。
「はい、けれどそれって」
 超高額で、インフルエンサーをやっている自分でもとても手が出る商品では――。
 はっとして凛は由依の顔を見た。由依は静かに頷くはずが、若干ドヤ顔になってしまった。
 動画の中の『凛』は、ナイロンパンツの上から白い網を身につけていく。網からつながる薄いパネルを腰に当てる。さらにそこから連なる細い線を後頭部へとつなげた。その『凛』が屈伸する。網は絹布のようにやわらかく、関節の動きにぴったり追従している。
 そして『凛』は、小屋の外に出て力強く歩き出した。絶景を背景に、山の先端へ向かって。

 高田が言った。
「NEXT BODY ROBOTICSの最新型は、神経からの信号を読み取って、カーボンナノチューブ繊維が筋肉の代わりを果たす。
 まあ動画みたいに自然に歩けるかは本人のリハビリ努力次第だが……。
 この企業の方々がスポンサーになってくれるそうだ。ああ。確かにすげえ高額だけど口数を集めた。凛への贈与は、身に着けて登山動画を続けるのが条件だ。もちろんお前がよければだが。
 あ、待て。礼ならまずこいつに言えよ。お前の口から。その前にちゃんと謝れ」
「由依さん」
目の端で、液体がぷるぷるとしていた。
「本当にごめんなさい。とても失礼だった。それから、ありがとうございます」
「こっちこそ、ほんとにごめんね……」
 凛が、車椅子の上で腕を広げた。由依は身を寄せて、凛の背中に手を回した。
「ううん。大変だったでしょ?」
「うん、そりゃあわたしのフォロワー数もスポンサー説得するための計算に入れてるからね」
あれ、こんなこと言うはずじゃなかったのに。気持ちとまるで違う言葉が口をついて出てる。
「分かってるよ、本当にありがとう、うれしい」
 なんかかっこいいこと言いたかったんだけどなあ。でも、これ言えればいいっか。
「また高尾山からはじめない? 三人で」
凛は、笑ってアップロードボタンを押した。

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