ふさわしい楽園

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梗 概

ふさわしい楽園

近未来。あるサービスが高齢富裕層に人気になりだしていた。
パラダイス。それは、「望む世界へ帰れる」サービス。
過去の写真やコンテンツを学習素材に、AIを活用して3Dのバーチャル上に理想の世界を構築してくれる。

ある高齢者は「初恋がかなえられる青春」を。
ある者は「秘密基地で遊んでいた放課後」を。
ある者は「イケメンたちから寵愛を受ける女子高生時代」を。
ある者は「勇者になれる懐かしのRPG異世界」を。

そのVR世界は鮮やかで生々しい。高齢者たちはヘッドセットを被り、郷愁や願望へ没入し続ける。

パラダイスチームは法も権利もルールも無視して、世界をカスタマイズして提供する。
富の集中が加速した高齢者を夢中にさせる。
溢れ出るドーパミン。それを止めない徹底的に媚びたアーキテクチャ。非常に高いサービス継続率。払われ続ける高額サブスクリプション。

高齢者が語りかける、ビデオ通話上でアバターの「再現士」たち。
彼らは、実は高い技術と怒りに満ちた子どもたちだった。
リーダーの少年、カノウ。No.2の少女、ニーナ。天才AIプログラマ、シヴァン。
中学生の年齢の三人を中心とするギャング的チーム。彼らは徹底的に高齢者を搾取することを決めていた。
そこへ三人に憧れる優秀な新人、ジュードが加わる。

「富の再移転だ」カノウは、分断された上の世代へひそかな宣戦布告をしていた。
「僕たちは怒ってるんだ。高齢者が富を独占することを。政治が彼らだけ優遇することを。もらえない年金料金を払うことを。AIに仕事を奪われていくことを。格差が再生産されることを。だから奪い返す」

日本有数の富豪から要望が来る。チームは、街丸ごと、膨大な人物AIを配置する最もリッチな「楽園」を作る。富豪は、叶えられなかった初恋を、美化した少女と成就させ感涙する。完璧なギャルゲームのように。
膨大な金額が、チームのクリプト・ウォレットに加わった。
「ノルタルジーに溺れろ。現実逃避し続けろ。フィクションを拠り所にしろ。脳汁の奴隷の老害どもめ」

増えすぎたイーサリアム残高は、チームに不協和音をもたらす。
ニーナに思いを寄せる少年二人。三角関係が生まれる。
「楽園」内の初恋のような初々しい思いを、カノウは冷笑的にしか処理できない。
リンダは、祖父がパラダイスで現実逃避をはじめたことを苦々しく思う。
シヴァンは、幸福を感じる高齢者と気持ちが通じる経験を経て悩み出す。

分解しそうなチームに、破綻がもたらされる。
ジュードは、警察のスパイだった。
アジトに踏み込まれ、壊滅に追い込まれる「パラダイス」。
捕まる寸前、シヴァンが身を挺して二人を逃がす。
証拠隠滅の強制終了。すべての楽園が爆散する。

NOT FOUND。多くの高齢者を社会復帰困難に追い込む結果とともに、パラダイスは消えた。

一年後、ダークウェブの一角で、あるサイトが見つかる。
パラダイス・リボーン。あのパラダイスとよく似たサイト。
誰が作ったものかは、まだ分からない。

文字数:1213

内容に関するアピール

課題に対しては、富裕高齢者たちの「理想の3Dのバーチャル・ワールド」と、若年層たちの「理不尽を押し付けられたシビアな現実」のシーンの切りかえで応えることを意図しています。

3Dのバーチャル・ワールドの様々な願望充足的なありようを切りかえていく演出もスパイスになると思いますが、上の世代の「天国」と下の世代の「現実」の切りかえが引き立つように描ければと考えています。

その切りかえは、社会の「分断」を行き来する体験でもある、と考えています。
と同時に、「分断」を分断として放置し完結させない地平まで行けたら、と考えています。

文字数:258

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ふさわしい楽園

秘密基地_for_miyata_shigeo_ver1.09.pvar

まぶしい夕焼けに、茂雄は目を細めた。
彼は、林の奥にそびえる大きな樫の木に、枝を立てかけていた。
「ミカ、長い枝ちょうだい!」
「はい、これ!」
ミカは、ふざけて枝の先で茂雄の頬を突ついた。
茂雄は「やめろってば」と笑い、仕返しにミカの頬へと持つ枝でやり返そうとする。
「手が止まってるぞ」
ケンがあきれた声をあげた。少し背が高いケンは、茂雄の届かない位置に手を伸ばして枝を組んでいる。
「ケンちゃんサンキュー!」
そう言いながら、茂雄はごっそりと枝を渡す。ケンは苦笑いをした。
三人は、充分に重ね合わせた枝の上から、大きなブルーシートの隅をつかんでかぶせた。
薄暗くて高揚する空間が生まれた。
三人は、段ボールを敷き詰めて床を作った。試しに座ってみると、まだ小さな石が残っている。お尻が痛い。段ボールをめくって石をかき出す。
ケンが確かめるように大の字に身を横たえた。
「ケンちゃん、もうだいじょぶそ?」
「うん!」
平らになった段ボールの上に、茂雄はケンの真似して寝そべった。背中越しに、やわらかい土を感じる。
秘密基地。
完成の達成感とともに思い切り手を伸ばすと、ブルーシートに指先が触れた。
ケンはイビキをする真似をした。ミカが鼻をつまむと、ケンは吹き出す。ミカは二人の間へ倒れ込んだ。密に寄り添う、川の字がうまれた。
ミカの顔が、茂雄のすぐ隣にあった。
その横顔は、「初恋」という言葉をその後の人生で見るたび、よぎる顔そのものだった。
三人の息が、小さな空間をあたためていく。安心感に、まどろみへ落ちそうになる。
だが、不意に茂雄は息苦しさを覚えた。先ほどまでの心地よさが嘘みたいに、ブルーシートが覆い被さるような――。

骨張った手でヘッドギアを外すと、宮田茂雄は喉に絡みつく痰を感じた。洗面所に向かい、嗚咽のように痰を吐き出す。痰は排水溝の手前でへばり付き、なかなか水道水で流れなかった。
鏡に目をやると、皺に満ち、眼窩は落ち込み、髪の生え際が頭頂部まで後退した老人が映っていた。視線を逸らして茂雄はタオルを取り、乱暴に口元を拭う。
もう片方の手で握りしめたヘッドギアのディスプレイには、一時停止のマークともにゴシック体のロゴが明滅している。

PARADICE

――それが、宮田茂雄がダイブしていたバーチャル・ワールドのサービス名だった。

アルファベットの形をした原色のネオン管が、コンクリート打ちっぱなしの部屋を照らしている。

PARADICE

六本木の古ビルの九階。ひび割れた壁、カーペットの染み、淀んだ匂い。
外には、台湾式マッサージ店の看板をそのまま残している。中に入ると、間接照明が廊下から奥の部屋までを照らしている。金属製の重い扉を開けた先、ネオン管の下に三人の姿があった。
「傑作だったな、あの顔」
そう言って笑う細い目の少年、カノウ。15歳にして集団のリーダーとして『CEO』を名乗っていた。彼らは符牒として企業風の肩書きを用いていた。「俺らのスキルを散々疑っておいて、ざまーない」
「だらしなく幼女に涎たらしてたね」
応じるのは14歳の『CTO』、シヴァン。クルド人二世の少年で、メンバーの中で屈指のプログラミングスキルを誇っていた。彫りの深い顔をモニターで照らしながら、キーボードを休むことなく叩いている。
「二人とも、相変わらず悪趣味ね」
15歳の少女である『COO』のニーナが、ゲーミングチェアをくるっと反転させて言う。ツーサイドアップにまとめた髪の赤いインナーカラーが、透き通った肌に映える。言葉とは裏腹に、共犯者の笑みが口元に浮かんでいた。

カノウの目の前の32インチモニターには、宮田茂雄用パラダイスのログが表示されていた。360度の録画のみでなく、感情判別AIと連携した脳波や表情筋や心拍数のデータが映し出され、興奮度や没頭度が赤裸々に示されている。彼らは健康面をモニタリングする機能をハッキングしてパラメータを自作していた。
画面の左上にPARADICEのロゴが光っている。

彼らが運営するそれは、望む世界へ「帰れる」サービス。
その世界はどれも、鮮やかで生々しい。彼らは、高齢者クライアントが提供する<素材>と、窃取をいとわない<コンテンツ>と、AIのインタラクションを掛け合わせ、バーチャル上に3Dの世界を構築した。
クライアントは、所有する過去の写真や動画といった<素材>を供与する。故郷の、学校の、デートの、肉親の、友人の、思い人の……データ。それは、ときに解像度が低いガラケーの写真や、色褪せたアナログの写真や、肝心の人物が見切れている動画だったりした。
それらと掛け合わせるのが<コンテンツ>だ。彼らは、世の中にある映画やゲームや写真集やアニメや漫画や企業内サーバから、ビジュアルや人物やテキストなどのデータを抜いて活用する。法も権利もルールも倫理も無視していた。
そのワールド上では、AIを活用した会話などのインタラクションが可能になっている。
叶えられなかった夢も、ここで叶えられる。高齢者たちは、視聴覚と脳神経を刺激するヘッドギアを装着し、最適化された願望へ没入し続けた。

ニーナは、デスク脇の小型冷蔵庫を開け、エナジードリンクを二人に放り投げた。いつもの休憩の合図だった。「ほい」
受け取ったカノウが、ログの確認を中断してプルタブを弾いた。「うめえっ」
「もうちょっと女キャラの会話の改善できそうな気がするよな」
「分かる、もっとメスガキっぽく振った方が興奮度上がりそう」
シヴァンがすでに何か思いついたらしくキーボードを叩きはじめる。
「あれ以上、性癖強くするの? もう結構、下品だけれど」
ニーナが苦笑いする。カノウは、ニーナが手で隠した口元をちらっと見て言った。
「この方向でハマらせてキャラ触感オプションに繋げるか」
シヴァンはうなずき、プロンプトから長大なコードを生成した。カノウはシヴァンの肩越しにモニターを覗き込んだ。老成した皮肉っぽい表情が、子供の艶々とした顔に混じった。
「宮田はサブスクの年契まだだよな。契約させて三千万取るぞ」
「うん、絶対契約させよう。秘密基地までのエモい田んぼ道も再現したい」
「要件定義できたらCGチームに投げるか」
「営業アポ取っちゃうね。キャラ触感オプションも見積もりに入れとく」ニーナがすかさず言う。
「待ってろー。溜め込んだ老後資金!」シヴァンがわざとらしくはしゃぐ。
「ああ、稼ぐぞ。『富の再移転』だ
カノウは缶をデスクに叩きつけるように置いた。
「ノルタルジーに溺れろ。
現実逃避し続けろ。
フィクションを拠り所にしろ。
脳汁の奴隷どもめ」

閉めっぱなしのカーテンの隙間から、夜を照らすホログラムの屋外広告がのぞいている。バイオ・プリンティング整形とヒューマノイド家政婦の広告。
このフロアが、「いま」はパラダイスの本部アジトだ。重要なファイルはこの場所のストレージにあり、大量のGPUを載せた分散処理サーバはクラウド上で稼働している。
パラダイスのメンバーは全国に82名。カノウ、ニーナ、シヴァン――本部の三人だけが、メンバー全員の情報を把握している。組織はピラミッド構造を成しており、いつでも下部構造をトカゲの尻尾のように切り離せるようにしている。彼らはそれを過去の詐欺グループから学んでいた。もっとも、メンバーすべてが数人のAIエージェントを使役する末端の構造は、前時代とは異なっていた。

「次はどっちのパラダイスを詰めよっか?」
ニーナが大型タッチパネル型モニターを操作して、スプレッドシートを拡大した。
直近で納品予定の二つの依頼が大きく映された。

石川恭子(76):女子高校生になってイケメンたちから寵愛を受けるハーレム・パラダイス
吉永雄史(75):勇者になって異世界を救うRPG『ドラゴンファンタジア3』パラダイス

「どっちもわりとあるパターンかな。こういうの尽きないよね」
「Aはこないだの校舎コピペで使えるかも」
「青春ゾンビものは作りやすいよな」
カノウが片方の口角を上げて言う。
「にしても最近案件多すぎ!」
ニーナがスクロールしながらため息をつく。「手が足りないね」
急速に増える需要に対して、作業要員以上にディレクションやマネージメントができる人材が不足していた。
シヴァンは息を吐いてから二人へ目を配る。
「すごい使える奴がいる。どうしても『本部』で働きたいって言ってる」
「そいつなにもん?」
「十四歳で海外の大学出てる、飛び級。インタラクションチームの柱になっててPMやらせても優秀」
「そんなすごいの?」
「うん、実際すごいよこいつ。僕の次くらいに」
そう言ってシヴァンはいたずらっぽく笑った。「あと、とってもいい奴だ」
「まあ、『面接』してみてもいいか。四千万人も高齢者いるんだ、こっちの主力も増やさないとな」
カノウがそう言うと、二人はうなずいた。

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「おはよう、恭子ちゃん!」
朝日が差し込む通学路。歩く生徒たちの向こうから、背の高い男子が声をかけてきた。
「今日の髪型、いいじゃん! めちゃ似合ってるっ」
金髪のやんちゃ系男子、リョウだ。隣に並んできた。
恭子の髪型は耳上の髪を結ぶハーフアップ。こぼれる黒髪が風を受けてふわふわと揺れる。
「いつもかわいいけど、今日のは特に最高だな」
片方の隣に歩み寄って笑顔を向けるのは、爽やかなスポーツマンのマコト。
「おい、俺が最初に気づいたんだぜっ」「なんだと?」
リョウがマコトに絡む。「やめなよー」と恭子は間に入ってしどろもどろだ。
「恭子ちゃん、好きな男の子でもできた?」
小動物系男子のナオトが合流して聞いてくる。
「そんなことないよ!もー!」
恭子は照れて手を横にぶんぶん振る。
「お前らうるさすぎ。朝から騒ぐな」
苦言を呈してきたのは、離れたところを歩いていた俺様系男子のタクミだ。
「――あなた、私のことはいいけど、みんなのことは悪く言わないで!」
「俺に口答えするのか……おもしれー女」
タクミの鋭い目から放たれたきらめきに、恭子の頬は赤らんだ。
校門を過ぎる頃、恭子は学園のアイドルさながらに注目を集めていた。
男子生徒たちの視線で、鼻先がくすぐったい。
恭子は、靴箱の前で小さくつまずいた。男子たちが気遣う。
「危ないよ」「大丈夫?」「気をつけろ」「ほらよ」
「う、うん……ありがとう」
差し出された手のどれを取ればいいか、恭子は迷った。

石川恭子は、高級独居用マンションの電動ベッドの上で、ヘッドギアの向こうにこの光景を見ていた。今は、膝の不調も大人用紙おむつの違和感も感じない。
皺だらけの手を伸ばす。そこはただの空中だったが、確かに石川恭子はひとりの男子の手を取ったのだった。

裏路地をアジトへと向かう一人の若者。スマートグラスの中で、真剣な目がスマホ上のメモに向かって往復していた。

・溢れ出るドーパミン
・徹底的に媚びたアーキテクチャ
・高いサービス継続率
・払われ続ける高額サブスクリプション

それは、「これから」のための復習だった。
彼は、金属扉を小さな音でノックした。
ニーナがチェーンをつけたまま合言葉を問いかける。「黙示録2の7は?」
「勝利を得る者に、パラダイスにあるいのちの木の実を」
彼は答えた。
「入っていいよ」「失礼します!」
黒髪をセンターパートに分けた、人懐っこい笑みの少年が会議室に入ってきた。
ジュードです。面接にお呼びいただき、ありがとうございます」
「お前が噂の大学卒の優等生か」
「とんでもないです。皆さんの方がすごいです。尊敬してます」
カノウは満足そうに顎をしゃくる。
「こちらへどうぞ」ニーナが、ジュードを折りたたみ椅子に座らせる。
「シヴァンから聞いてる、モーションとかインタラクション設計が得意なんだって?」
ジュードは、カノウの言葉に答えながらスムーズに自己紹介に繋げ、豊富なプログラム経験を語った。
「じゃあテストしていい? ディレクターの立場でこのハーレム・パラダイスを調整するとしたらどうする?」
シヴァンの示した仕様書やログを斜め読みすると、たいして時間をかけずしてジュードは言った。
「刺激に対して順化している気がしますね。素直な会話が多いのかもしれません。順化が進むタイミングでキャラが裏切る方向にAIの発言を変えるようにすれば、もっと興奮度が上がるはずです。例えば……」
ジュードはキーボードを借りて叩き出した。
シヴァンが興味津々で覗き込む。ジュードはAIでコードを生成したあと、数行を追加して、モニター上でイケメンキャラのセリフをリアルタイムで変化させた。
「心拍数がトリガーに当てはまったら『嫉妬イベント』を挟む、というようにしてみました。このタイプのユーザーには相性いいはずです。バーチャルツインをあてがってシミュレーションしてみると……うん、うまくいきそうですね」
「なるほど、フラグを細かく割り振るわけか」シヴァンが口角を上げる。
「はい、もっと言うと」そこから、しばらくの間、二人は面接であることも忘れ専門的なトークを続けた。
ニーナが程よいところで咳払いをした。「……そろそろ続きいい?」
ニーナとジュードが人柄に関するやりとりをしたあと、コードを読んでいたカノウが顔を向けて言った。
「まあ腕は認めるが。お前はなんでこの仕事をしたいんだ?」
ジュードは正面からカノウを見て言った。
「最短距離の政治だからです」
「……ほう」カノウが前のめりになった。
「ボクたちは生まれた瞬間、国に払う金ともらう金が、差し引き生涯1億円以上マイナスになるのが決まってる。1.5人で高齢者1人を養わなきゃいけない。
その状態は悪くなりこそすれ、よくなることはない。
奴らの1億円はボクたちの1億円だ。だから、取り返すのは道義にかなってる。正義のアービトラージです。
だけどこの歪みを是正する配分を、政治家は、有権者の大多数が老人だから行えない。なのでいますぐテクノロジーで、資産の再配分を、つまり代わりの政治を行うべきなんです」
「分かってんじゃん」
「奪い返しましょう!」
カノウは満足気に手を叩いた。「仮合格だ」
「いきなり一人前扱いはしないけどな。シヴァンについてくれ」
シヴァンはジュードの肩をポンと叩いた。
「ようこそ、パラダイス本部へ」
ジュードは、ほっとした顔を見せた。
「よろしくお願いします。先輩の皆さん!」
ニーナはシヴァンに重ねるように肩へ手を置き、「なんでも聞いてね」と嬉しそうに言った。二人からすれば、はじめての、顔が見える部下だ。
カノウは手が重なった肩に目をやると、「三ヶ月は『試用期間』だからな」と微かに唇を歪ませて言った。
「じゃあ早速、これの仕上げに入ってね」シヴァンがファイルを指差す。
ドラゴンファンタジア3_for_yoshinaga_takefumi_ver1.1.pvar。
「ROMからぶっこぬいたマップ、キャラ、音楽、イベントムービーのデータとかはこのフォルダに入ってるよ」フォルダには合計で数テラバイトにのぼる膨大なファイルが並んでいた。
「ペース上げてくぞ」高揚するカノウに、ニーナが続ける。
「それが終わったら部活ものが待ってるからね」
ネオン管が、パーティを盛り上げる照明のように明滅した。

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蝉の声と夏の日差しがグラウンドを満たしている。ユニフォーム姿の少年たちが、声を張り上げながらキャッチボールをしていた。錆びたバッグネットがグラウンドを縁取っている。
エースナンバーを身につけた透は一人、小高いピッチャーマウンドに立つ。腕をしならせてオーバースローでボールを投げた。肩の可動域が広い。懐かしい感覚だった。小気味良い音がして、ストレートがキャッチャーミットに吸い込まれた。キャップを取り、裾で汗を拭った。
「先輩、タオルどうぞ!」
不意に後ろからの声がした。坊主頭の少年が、タオルを差し出している。
「サンキュ、タケシ」
まぶしそうに眉を寄せ、透はタオルを受け取る。後輩のタケシは、タオルを渡しながら、そっと透の指先に触れていた。白いロジンバッグを、自身の指先へ移すように。
「前割れた爪、大丈夫っすか。休憩も取ってくださいね」
「……ああ」
透は、タケシの高い鼻梁に汗が流れるのを見つめる。タケシは、タオルの下で透の手を握りしめてきた。透は、鼓動が早くなるのを感じた。
「今日の練習のあと……二人きりで話したい」。
透は、かつて言おうとしてどうしても言えなかったセリフを言った。それは、透がパラダイスチームへ提出した日記データの中にあったものだった。
「はい……! 一緒に帰りましょう」
タケシは嬉しそうにはにかむ。蝉の声が遠くなった。

山田透がヘッドギアをずらして顔をあげると、寝室だった。キングサイズのベッドの枕元には、毎日飲んでいる肝臓の薬とペットボトルの水。壁際の棚には、三年間控えだった劣等感を埋めるように打ち込んだ資格の合格証。退職時にもらった色紙。孫まで映る家族写真。その写真から、透は目を逸らした。指定時間どおり薬の服用を終わらせた彼は、終わらない夏へ戻った。



「変わってるよな、この山田透のパラダイス。シヴァンが一人で仕切ったやつだっけ」
「うん、そう。要望通り作った」
「こういうBL? って女子が好きなやつじゃん」
「いやこれは無理!」
三人が話す様子を見ていたジュードは、笑みを浮かべながら口を挟んだ。
「偽名っすよね、この名前」
「発注のとき顔も声も隠してたわよ」
「必死で隠さなきゃいけない妄想をかたちにする方の気持ちにもなれよ」
カノウは笑った。「ん? どうした、シヴァン」
輪の中で一人だけ笑っていない様子を見て、カノウは聞いた。
「……この人すげえ喜んでたから、年契もいけると思うよ」
そう言って、シヴァンは薄い笑いを作った。

ビルの外では風が吹きつけていた。
シヴァンは、はためく髪を押さえるニーナに言った。
「忙しいところ、ごめん」
そこは、アジトの隠し扉の先のベランダだった。隠し扉は壁と同じ色に塗り込まれていた。ベランダからは隣のビルの非常用階段へ木板を渡し、つなげることができる。いくつかある逃走経路の一つだった。
「そこは『ありがとう』でいいでしょ?」
冗談めかした言い方は、ニーナなりの気の遣い方だった。
「――泣いてたんだ、この山田って人」
「え、……うん」
シヴァンは遠くの、LEDがドット欠けした東京タワーを見上げた。
「ありがとう、ありがとう、って僕に何回も言って。もういいって言ってるのに。
「……」
ニーナは真剣な表情でうなずいた。
「思いを果たせた、会いたかった人に会えて、言いたかったこと言えたって。
変なこと言うけど、――なんか、胸がすごく痛くなって。あれ、なんでこのパラダイス作ってたんだっけ? って、わかんなくなって」
「割り切れば?――だってただの」
「大丈夫、今は割り切ってる。なんかさ、なんとなくニーナに聞いてもらいたかっただけだから」
「……最近ちょっと元気なかったの、そのせい?」
「そうかも」
「また聞いてあげるよ。プロジェクトがスタックするの嫌だし」
目を細めるニーナへ、シヴァンは久しぶりに心から笑った。「ありがとう」
扉の方をちらちら見るシヴァンの心配そうな表情を見て、ニーナは隠し扉の外鍵が壊れているのに気づいた。

壁に貼り付けたモニターに、長大なリサーチ結果が表示されている。カノウが老人の顔をタップした。
「額田壮一郎。資産は少なくても7000億」
「SNSで漏らしたウォレット・アドレスや株の所有報告、不動産の登記からも間違いないです」ジュードが補足する。
「テレグラムでやりとりした感じ、まじ金払い良さそうだったわよ」
「要望もすごそうだね」
「安売りしないようにな、こういうのは足元見られたら終わりだからな」
「絶対十代ってバレないようにしましょ」
「にしても、この人、匿名じゃないの度胸あるよね」
「自分の<素材>を提供しまくって、めっちゃカスマイズしたいパターンでしょ」
「信頼されてるとも言えますね」
「こんなギャングを信頼とか笑える」カノウは鼻で笑った。「――時間だ。ジュード、会議の用意してくれ」
ジュードが操作をし、特殊なVPNと、フィルターをかませたウェブカメラをオンにする。
画面に現れたのは高齢の男性。背後に豪奢なシャンデリアとシャガールの絵画が映り込んでいる。
その横のウィンドウにアバターが4体。羊、牛、鳩、蛇。
「お時間いただき、ありがとうございます。パラダイスの『再現士』チームです」

「――いくらかかっても構わない、か。言うじゃん、爺さん」
通話が切れた瞬間、カノウは短く笑った。
「街まるごとって規模すごいね。AIのNPC、1000人か」
「モーションも会話もリアルタイムで自動的に制御するわけ?」
「いけると思いますよ。建築物は大丈夫ですか、シヴァン先輩。昭和の完全再現とか要求水準高すぎですよね」
「喫茶店、学校、本屋、水族館、ゲームセンター、レンタルビデオショップ……青春ぜんぶ詰め込んでくれ、か。使える<コンテンツ>探さないと。ひとまずフォトグラメトリックの技術を応用してみるよ」
シヴァンが大量の提供<素材>をスクロールしながら言った。
「手伝います。そういえば、CGチームのチャンネルへのアクセス権ってもらってましたっけ?」
「付与しとくよ」
「フルメンバー、下請け総出で十週間はかかるわね」
ニーナはガントチャートを眺めながら、嬉しそうなため息をつく。
「いくらでも下請けでも隙間バイトでも使っても構わねえ、この報酬だ」

カノウがアルコール度数9%のチューハイ缶を取り出した。
「前祝いといこうぜ」
ジュードがエナジードリンクで割っていく。
4人はグラスを合わせた。喉を焼くような刺激にジュードがむせて、三人は笑った。ニーナが背中をさする。
カノウは、赤くなった顔で、グラスの液体を飲み干した。
俺たちは怒ってるんだ。
年寄りが富を独占することを。
政治がやつらだけ優遇することを。
帰ってこない金を払うことを。
格差が再生産されることを。
だから奪い返す

ジュードが興奮気味で相槌を打ち、カノウのグラスに次の液体を注いでいく。
ニーナは「久しぶりにそれ出たね」と笑っている。
シヴァンは、出会った頃のカノウを思い出していた。

かつて団地といわれた住宅の、ふやけた畳の上で、幼いカノウがタブレットを手に寝そべっていた。ソーセージが挟まれた菓子パンを、炭酸飲料片手に齧っている。いつも母がキャバクラに出勤する前に置いていくメニューだ。カノウは、YouTube上での情報学者の語りを子守唄のようにしてまどろんだ。
目が覚めると、窓の外は暗闇だった。母はまだ帰っていない。寂しさが空っぽの胸を満たす。孤独に向き合うには、カノウは幼過ぎた。
AIは、いつまでも話し相手になってくれた。汚い言葉にも弱音にも理知的な質問にも、丁寧に返してくれた。母のように飽きたり嫌な表情をしたりせず、気持ちを慰撫する言葉で。そうやってカノウは語彙と知識を増やしていった。
その夜は、AIと話しながら、コードを組み立ててゲームを作りあげていった。落下する旧団地の建物をテトリスのように組み合わせると、爆発して消えるゲーム。いくつもの建物が空から降ってきて、派手な炎と煙幕のエフェクトとともに、コンクリート片と肉片を撒き散らしながら爆発する。出来がいい。母に教えたいと思ったが、あのしかめ面を見るかもしれないと思うと萎えた。
隣の部屋で、異国の男女が絡む卑猥な声がする。カノウはタブレットのボリュームを上げた。

旧団地の裏手に、雑草と芝生が混ざり合う公園があった。大通りにつながる道路が割れたまま補修されないため、住人だけが使っていた。
首が伸びたTシャツを着たシヴァンは、ブランコでタブレットをいじる少年を、「夕食」を食べながら見ていた。自分と同じように、よく一人きりで公園にいる少年だった。
目が合うと、その日はなぜか少年がこちらにやってきた。シヴァンには彼が睨んでいるように感じられた。
「ごめんなさい」それは、シヴァンが知っていた数少ない日本語であり、クルド語だと乱暴な父親が日本人によく使っている言葉だった。
「べつに怒ってない」
カノウはウエストバッグからパンの袋を取り出して、隣で食べ始めた。
そのパンは、シヴァンが食べているのと同じパンだった。カノウは二つを交互に指差して言った。「俺もあとからソーセージ食う」
なんて言っていいか分からず、代わりにシヴァンは泣きそうな顔で笑った。
カノウは横でタブレットをいじり始めた。菓子パンの油分でベタベタだった。
シヴァンは画面に釘づけになった。派手な演出のパズルゲーム。建物が爆散するのを見るたびに、シヴァンの脳内でホルモンが放出された。
カノウはタブレットをシヴァンの方に向けた。
「やる?」
夕日が指紋だらけの強化ガラスに反射して煌めいた。シヴァンは、適切な日本語が出てこず、ただ、こくん、とうなずいた。

シヴァンは、カノウの部屋に入り浸るようになった。
カノウはAIの使い方や、コードの書き方や、好きなYouTuberを教えた。ゲームでもプログラムでも、一度カノウがやってみせると、シヴァンはすぐ真似して体得した。二人はYouTubeとAIを教師にしながら、パズルゲームを作ったり、企業サイトにイタズラを仕掛けたり、オンラインゲーム内の貨幣を増殖させたり、仮想通貨の高頻度取引Botをつくったりした。学校にも行かず、二人はその自由な世界にのめり込んだ。
『知の高速道路』を走るんだ。人生は『攻略』できる。カノウはそんな大人びて聞こえる言葉を好んでいた。
いつの間にか、二人はプロと遜色のないプログラムとAIオペレーションのスキルを手に入れていた。

二人は、元新聞記者のYouTuberを観ていた。人文書やビジネス書をざっくりと要約して、センセーショナルなサムネイルを作るのが得意なYouTuberだった。
格差。階層。固定化。貧困。孤立。たくさんの用語が、熱っぽくデータとともに語られる。この国には、分断が放置されていた。
シヴァンは、「外国人は義務教育の対象外」で「15.8%の外国籍児童が不就学」であり、自分が「小学校中退」だと知った。いまさら、出自を揶揄される小学校に行きたくはなかったが、烙印の酷さに吐き気がした。
隣では、カノウが自分のことのように熱くなっていた。
「わかったろ」
「僕らは『上流」に『搾取」される『犠牲者』か」
シヴァンは、まだ声変わりしていない声で言った。抱き続けてきた負の感情に輪郭が生まれた気がした。
怒り」。それは黒くて熱っぽかった。
「ああ。逃げ切ろうとしてる奴らから、徹底的に『搾取』し返すんだ」
彼らは、怒りをぶつける対象を欲していた。わかりやすい敵を。
宣戦布告だ」
その旧団地の一室から、パラダイスははじまった。

二人は手始めに、オープンワールドのゲームでよく一緒にPK――プレイヤー・キル――して遊んでいた筋肉質の黒人アバターに声をかけた。チャットの内容から、同世代で首都圏に住んでいて頭の回転が速いのは分かっていた。それがニーナだった。

街全再現_for_Nukata_Soichiro_ver2.2.pvar

壮一郎は大通りを走り抜ける。急げ、あの娘のもとへ。二人で行った場所が横目に流れていく。偶然出会った本屋。寄り道した公園。友人に付き合わされてダブルデートした水族館。すべての建物は高解像度の3Dで再現されている。
数百人を超えるNPCたちが自然な会話と身振りをしながら街を歩いている。
二人の行きつけのカフェのマスターとすれ違う。あの娘を見なかったですか? 指差す先は、やはりあの場所だ。
坂をのぼると、壮一郎の前に空が広がった。何度も聞いたオープニングムービーのテーマソングが耳もとのイヤホンから鳴り出す。坂の下へ桜並木が続いている。夕焼けに照らされた桜は満開だった。
走り抜けた先で風が吹いた。サビに合わせて薄紅の花びらが舞った。
「……壮一郎くん」
桜吹雪の向こうに、セーラー服姿の美しい少女が立っていた。「恵麻!」
「待ってたよ」
その声は、現実では、ついに聞くことがなかった優しいトーンをしていた。
熱を帯びた頬をかすめて、桜の花びらが一秒間に5センチメートルの速さで落ちていく。
壮一郎は歩みを早める。恵麻の黒髪がふわりと揺れた。指先が触れ合う瞬間に花びらが舞い上がる演出までも、計算されつくされていた。恵麻が、潤んだ目で壮一郎を見あげた。
「伝えたいことがあるんだ。……こっちへ」
握る手から、恵麻の緊張が伝わる。並木の上で、橙色が藍色に混ざり合っていく。上弦の月がのぼり、街の灯りがともる。
大きな桜の木。そこで告白を成功させたカップルは、永遠に結ばれるという伝説がった。壮一郎と恵麻は距離を縮めていく
「恵麻。ずっと……好きだったんだ」。
甘い香りが鼻腔を満たした。
「私も好き……大好き……」
桜を照らす街灯が、ドラマチックにスポットを落とす。壮一郎が抱きしめる。セーラー服の下に膨らみを感じた。恋慕と劣情が一体となって溢れる。実際よりも、胸部の曲線は要望に沿って大きく押し上げられていた。
「もう離さない」
多幸感が、壮一郎の全身を貫く。六十年を経て、初恋は成就した。

「すごい金額……!」
ニーナの指が、モニター上でクリプト・ウォレットのトランザクション履歴をなぞる。トルネードキャッシュで資金洗浄された残りのイーサリアムが入金され、桁は先月までを軽々と超えた。
「今回の配分を言うぞ」
カノウは三人を見渡した。
「え? いつもの割合じゃないの?」ニーナが聞き返した。
「ああ。俺が考えた数字を言う」カノウは数字を端的に述べた。カノウがいつもより一話割多く、ジュードがシヴァンより二割多い数字だった。「総合的に判断した」
「「え?」」「ありがたく頂戴します! カノウさん、今回まじ勉強になりました!」
二人の戸惑いにかぶせるようにしてジュードが声をあげた。
「ジュードも活躍したな」
カノウとジュードは目配せし合っている。もう話はついているようだった。
「……そ、そうだね、ジュードがんばったもんね」
シヴァンは、プライドを保つように笑顔を作った。
「がんばったっつうか、今回ほとんどジュードがやったからな」
「……シヴァンもがんばったじゃん!」ニーナが口を尖らせた。本気で怒っていた。
「お金のことっていうより、いやお金のことなんだけど、認められるの大事っていうか、正当な対価っていうか」
シヴァンは顔を上げてニーナを見た。彼の目は、うっすらと潤んでいた
「正当な評価だ。身が入ってないのバレてんだよ、シヴァン。ニーナは妙にシヴァンをかばうじゃねえか」
「いや、私はただ」
「――二人で、最近こそこそしてんのと関係あんのか? 色気付いたんか、あのジジイたちみたいに」
鼻から息を抜いてカノウは嘲笑した。
「……そんなことない」「……そんなことないよ」
「息合ってんじゃねえか。付き合ってんの? やることやるわりにニーナって、気のあるそぶり誰にでもするよな」
「ああもう、ほんと違うから……今回、シヴァンの下で結構、下請けも使ったんだよ」
「分母もデカいだろ。フルメンバーと下請けの配分ならジュードがやってる」
手際よくジュードはモニターに縦に長いスプレッドシートを表示させた。
「すべての人件費と経費とAI想定満足度を計算した数字です。問題ありません。ウォレットから自動配布するBotも組んでます」
ニーナには、ジュードが笑いをこらえているように見えた。彼はあんな顔をしていただろうか?
シヴァンは画面も見ずにうつむいている。
「なんか言いたそうだな、シヴァン」
「……いや、何もないよ」
「組織に『健全な競争』が生まれるのって素晴らしいよな」
シヴァンはうつむいたまま立ち上がり、部屋の外へ駆け出した。ニーナはすぐ追いかける「シヴァン!」
翻った短いスカートの中の太ももが、カノウの目に妙に白く映った。
カノウは、その感情に名前をつけることができないでいた。戸惑いの代わりに、カノウは冷笑した。
「なんだあいつら」
「青春でもしてんじゃないですかね」
ジュードは機械的に答えた。
「あの老人どもみたいだな」

カノウは、深夜まで一人PCで数字を見返していた。起動時間、心拍数、興奮度、没頭度、ポリゴン数、キャラクター好感度、入金額、サブスクリプション継続率……。
ふと部屋の片隅のヘッドギアが目に飛び込んできた。カノウは、引き寄せられるようにそれを被った。なぜか、そのときそれが自然に思えた。
仮眠室のベッドに横になる。
目を開けると、秘密基地だった。
カノウは、「秘密基地を改造しよう」と少年に言われた。彼に渡されるままに枝を重ねる。何度やっても下手で、隣の少女に笑われた。カノウは会ったことがあるはずもない少年と少女を、懐かしく感じた。
ダンボールの上で眠りに落ちたカノウの夢のなかで、いつしか少年と少女はシヴァンとニーナの顔になっていた。
ヘッドギアを取るまで、彼は頬を涙が流れていたことに気づかなかった。

激しく揺さぶられ、カノウは仮眠室のベッドで目を覚ました。必死な表情でニーナとシヴァンが覗き込んでいる。
「「カノウ!」」「ウォレットが空に!」「データベースに誰かが!」
飛び起きるようにカノウはPCに向かう。おかしい。このアクセスログは――。
「警察ですよ」さっきまで近くで心配顔をしていたジュードが言った。「すぐここに来ます」
「……うそ、うそだよね? ジュード、冗談きついよ」
震えながらシヴァンが問う。内ポケットから令状をちらつかせながらジュードが言う。
「本当ですよ、バーチャルじゃなくてリアル」
「まさか、……スパイだったってこと?」
ニーナが問いかけた相手は、もう後輩の表情をしていなかった。
「――尻尾出さないから潜入したらドンピシャ。でもわりと時間かかったわ、フルメンバーと関係者のリスト手に入れるの。意外と固いんだもん。暗号資産は弁済用の特別保全措置ね。おっと、PCには触れるなよ。玄関も塞いでる」
扉の向こうのエレベーターホールで革靴の音が重なった。
「クソが」カノウは吐き捨てた。
三人を見渡しながらジュードが言う。

ずっと見てきたけどよ、君たちはさ、ガキなんだよ。早熟だとか言って調子のってるけど未熟。世界の複雑性を知らないガキ。理不尽さを感じるのは分かるけどよ、信じる正義で犯罪が正当化されるわけないだろ。人間性をハッキングする金稼ぎが正当化されるわけないだろ。社会で戦うって、地道な方法を取るしかないんだよ。お子ちゃまには難しいか? 気持ちよかったでちゅね、大人を手玉に取ったつもりになって! 本当に賢い人ってのはな、決めつけないんだよ。ゼロかヒャクじゃねえんだよ。奪うか奪われるかじゃねえんだよ。『当事者性の欠如』と『高みに立つ』を履き違えてイキってんじゃねえ。厨二病どもが。理想と後悔で引き裂かれても人生を積み重ねる人たちを馬鹿にすんじゃねえ。デジタルをハッキングするみたいに人をハッキングすんじゃねえ。だがオレも大人だからな。君たちを決めつけない。まだ少年たちには未来があるわけだ。だから少年院からやり直せ。さすがに本名にデジタルタトゥーは刻まれると思うけどな

ジュードは、自分の言葉に興奮していった。
カノウが殴りかかった。腕を単調にふり回す。
ジュードは軽やかに避けて、手首を締め上げて背中に回した。カノウの喉から動物のような呻き声が出た。
ノックの音が猛烈になる。そのときだった。
「うあああああああああああああああああああ!!」シヴァンが地を這うような低姿勢からタックルした。彼は、父が路地裏で日本人に振るった暴力を思い浮かべていた。シヴァンは、思い切りよくボールペンをシヴァンの太ももに突き刺す。
不意をつかれたジュードがバランスを崩し、カノウを掴んでいた手を離した。
「いってえ!……こいつ!」ジュードはシヴァンの腹を強く殴り、顎を蹴り上げる。もう手加減していなかった。
玄関の扉が、ぎい、と開く音がする。
「逃げろ!」
血と言葉を一緒に吐くシヴァンの目が、一点を指す。はっとしたニーナが、呆然とするカノウの手を引き、隠し扉へ開け飛び込む。駆け寄ろうとするジュードの腕を、シヴァンが強く歯を立て噛んだ。ジュードは顔をしかめ、シヴァンを床に叩きつけて壁に投げた。ネオン管が落ちて破裂する。ジュードの手が隠し扉に届く一瞬前に、外から錠がかかった。
転がるようにカノウとニーナは階段を落ちていく。上の方で男たちが争う激しい声と物音が響いた。
月光も街灯も、階下の闇を照らしていなかった。

「ああ……俺の、俺の」
引きずられた先で、カノウはうわごとを繰り返しながら、へたり込んだ。
手足がひどく脱力している。
「リーダーでしょ!!ちゃんとしろ!!」
ニーナがカノウの頬を平手で張った。
考えろ!!!!
シヴァンと仲間を!」
震える手でカノウはスマホを取り出した。
「……シヴァン」
闇の底が照らされる。
「ごめん」
ほの昏く、カノウの黒目が覚悟で染まった。
密かに用意しておいたリモートアクセスのルートは、まだ塞がれていなかった。
彼は、いま最も意味をもつコードを打った。

pvar_nuke –all –recursive –confirm=”D3STR0Y”

その瞬間、
秘密基地が、
通学路が、
学校が、
校庭が、
桜並木が、
故郷が、
幼馴染が、
後輩が、
家族が、
恋人が、
――すべての楽園が、爆散した。
ユーザーの周りに派手な爆炎のエフェクトが広がり、大切なものが砕け散り、ポリゴンが吹き飛ぶ。証拠の強制削除。それは、警官たちがローカルのpvarファイルをコピーしはじめる直前のことだった。
そして、画面にはただ文言が残った。

NOT FOUND

Smart Trend Online
『パラダイス』突然の消失――“仮想郷愁”にハマった高齢者の末路

先報の通り、ここ数ヶ月一部の高齢者コミュニティを中心に『パラダイス』なるVRサービスが話題を集めていた。
10月8日、この『パラダイス』が突如消失した。「サービス終了のお知らせ」もなく、すべてのVRファイルが使用不可となった。サイトにはエラーメッセージが表示されるのみ(10月12日時点)。
問題は、使用していたユーザーの多くが日常への復帰に困難を感じていることだ。都内在住76歳の被害女性は、親類によれば、消失の瞬間をVRで体験しPTSDに近い症状をともなう茫然自失の状態にある。他にも「気力を失くした」「資産の多くを注ぎ込んだのに」「データだけでも残してほしかった」といった意見が報告されている。だが、一部では犯罪グループを庇うような意見もあり事態は混迷している。
臨床心理の専門家である中島樹教授は、「ゲーム依存以上に危険な『ノスタルジー依存症』が起こっていた。一層の調査が必要だ」と警鐘を鳴らす。
警視庁は、詐欺罪・私電磁的記録不正作出罪・業務妨害罪・著作権法違反・不正アクセス禁止法違反・組織犯罪処罰法違反・犯罪収益移転防止法違反などの容疑で捜査を進めている。一部では被疑者が未成年である可能性が指摘されているが、警視庁は「捜査中のため回答は差し控える」としている。

一年後、73歳の小室光太は、ダークウェブの先で目的のサイトへ到り着いた。

PARADICE REBORN

そのユーザー・インターフェースは、あのサービスとよく似ていた。運営元の記述はない。
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