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梗 概

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3年前、女子大生だった私は歌手の歌奈に熱狂していた。
彼女は、誰より美しい声だと言われ、世界的な人気を誇った。
しかし、歌奈は1年程前から姿を消していた。

現在。私は「学習官」になっていた。
学習官は、AI学習データの本人許諾を取得し、管理する職業。
学習データに関する訴訟や社会問題が増えたため生まれた、法・IT・心理学の知見を兼ね備えた職業だ。監査外のAI学習は罰せられる。

私は学習官としてベッドの上の歌奈に再会する。
3ヶ月、それが癌の歌奈の余命だった。

私は芸能事務所に、裏のミッションとして、歌奈にAI学習の許諾と収録協力をさせるよう頼まれていた。
歌奈と相談し、AI学習データ範囲に許諾を与えていく。説得のかいがあって作曲、作詞データはある程度許諾が下りた。
しかし、声だけは、歌奈が許諾しない。

私は歌奈と会話を重ねる。末期癌のホスピスで。
ファンとして声を残してほしい気持ちがあった。事務所の要請もあった。ホスピスの子供も歌に聞き惚れた。人類の資産、だと私は言った。
歌奈は、AIで学習されて卑猥、珍妙、暴力的な歌を歌わされることを恐怖していた。それも理解し、私は悩む。歌奈も迷い始める。

私は、自宅では死んでAIとなった彼氏に依存していた。
歪さを自覚しながら、AIの彼に支えられていた。

歌奈は、ホスピスの人気者になった。ちいさな子供たちに歌ってあげ元気づけることに喜びを感じていた。
身体の一部を失い、歩けなくなり、話せなくなる少年少女たち。二人は、とりわけ一人の少女と仲良くなる。
二人は小さなライブをひらく。幸せな拍手で幕を閉じる。
しかし、私と歌奈は次の日、目の当たりにする、足と肺を失っていた少女が立てなくなり、恐怖と無能感で慟哭する姿を。
歌奈は彼女の手を握り歌う。

少女が亡くなった次の日、私と歌奈は、気持ちを分かち合う。
私は、少女の母が少女のデータ学習を希望していたことを、AIの彼氏に依存するつらさと救いを、はじめて人に話す。
歌奈は、もう生きて歌えない恐怖を、母に歌をほめられた日の喜びを、声の果たす意味を、話す。
そして歌奈はある願いを口にし、私はかなえる約束をする。

次の日から、歌奈は最後のいのちを燃やして、完璧を期すAI学習データを収録し始める。
私は、覚悟を決め、有力な法学者に、政治家に、芸能事務所に、大量のメールを送り出す。

枯れ木のような歌姫の身体から、信じられない絶唱が収録スタジオに響いた。私は熱狂のライブを幻視する。

3年後、ナイジェリアの貧村に、歌奈の美しい声で家族へ歌う少女がいた。
インテリジェンス・コモンズ・特殊規定No.17。それは、人工声帯にのみ使用でき、他はいっさい許さないAI学習規定。
うしなう人のために、残したい。それが、歌奈の最後の願いだった。
歌奈の音声データ【DIVA】は、声帯を失くした人だけが無償で持ち得る美しい声になった。世界各地で、闇夜に灯る光のような声が響く。

文字数:1200

内容に関するアピール

自分の武器について考えると、私の職業である広告クリエイティブに関連したものが挙げられるかと思います。
私は、クリエイティブ・ディレクターやCMプランナーなどをしてきました。

<映像的に考える>
映像のコンテを書いたり、撮影や編集をディレクションしたりといった仕事。
それは、仕上がりの「画」を脳内で先取りすることでもあります。
印象的なシーンをあらかじめ考えて企画することも多くありました。
今回、こうした感覚で考えた部分があります。
例えば、歌手の絶唱のシーン。スタジオの歌唱と同ポジで熱狂の画をオーバーラップさせつつカメラが引いていく。
ラストの、世界各地の人たちが新しい声で歌うシーン。千差万別の背景をもつ人々を短めのカットをつなぐラッシュ。
そうしたイメージを持っています。

個人的に、すべての小説が映像的である必要はないとは思いますが、
楔のように胸に打ち込まれた小説の多くは映像的に思い出されるように思います。

<周辺の創作・技術領域を絡める>
デザイン、アート、音楽、AIなど、広告のクリエイティブは種々の表現・技術領域と接しています。
そうした領域への知見や感覚を活かすことを考えました。
今回であれば、歌手の音楽と音声合成AIといった領域がそれに当たります。
これらによって、彩りやメジャー感を付与することに貢献できればと考えています。

文字数:561

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観客席を撫でるように指差していく彼女と、目が合った気がした。
ツアー限定のTシャツの裾を、汗ばんだ手でぎゅっと掴んだ。
一瞬のブレスのあと、彼女の声が私を貫く。
透明で豊潤で、優しくて強い。
5万人が息を呑むのは、現代の歌姫。
歌奈。

激しいドラムのフィルイン。ギタリストがオーバードライブを踏む。配信映画の主題歌として、北米とアフリカ大陸で大ヒットした曲だ。
滝のようなバンドサウンドの中。歌奈は、全身をのけぞらせ震わせた。
――私の代わりに、叫んでくれている。
不器用な十代の私の代わりに、歪んだ焦燥や、割り切れない葛藤を、美しく昇華してくれている。そう思えた。
私は、救われていた。

アンコールは三回に及んだ。
「今日はみんな、来てくれてありがとう!」間奏をバッグに歌奈は語りかける。巨大なホログラムに世界中の言葉が浮かび上がる。Thank you all for coming today! 今天感谢大家的到来! Gracias a todos por venir hoy!  شكرًا للجميع على حضوركم اليوم! ライブは、メタバース上で世界中へ同時中継されている。
全開の照明が、歌奈のシルエットを浮かび上がらせた。彼女はマイクから唇を離し、ビブラートを響かせる。
絶唱。きらきらとした余韻が、観客席に吸い込まれていく。
刹那の陶然のあとに、熱狂が溢れた。

歌奈の人気は、初の全世界中継ライブのあとも上がる一方だった。
そして、絶頂のさなか、「天使の声」と称えられたグラミー賞の授賞式を最後に、歌奈は姿を消した。
公の場から、完全に。

24階に着くと、私はオフィスの入り口に設置されたモニターを見つめた。虹彩。顔。社員証。次々にカメラへと認識させる。すうっと扉が開いた。
高いパーティションで入り組んでいる執務スペースを、挨拶と会釈を繰り出しながら進んでいく。
「おはよーっす」席に着くと、気の抜けた挨拶を社長がしてきた。持ったコーヒーから湯気が立っている。ウェーブのグレイヘアーが、茶色いスマートグラスに似合っている。
「おはようございます、佐藤社長」
「ヨシダ先生の許諾、取れたんだって? すごいじゃん。通い詰めたもんね」
「いやあ」
「ほんと、うちのエースだよ、サツキちゃん。あの先生のタッチ特徴的だからさ。引き合い多いし、どうしても学習させたかったんだよね」
「交渉上限いっぱい要求されましたけどね」
これね、と彼女は親指と人差し指で丸をつくる旧世代のハンドアクションをした。私は笑ってうなずく。
「その分回収できるからさ。データ使いたい出版社は世界中にいる」
「令和レトロブーム来てますもんね」
「私の青春よー。ヨシダ先生、昔すごかったんだよ。尖ってて、美麗で。何冊あの人の漫画読んだかわかんない」
「いい絵ですよねえ」
「今はなんかデッサン狂っちゃって……」
「切ないですよね……でも、AIに絵を完璧に学習させたら、自分がそのAIまっさきに使いたい、って言ってましたよ」
「強いね」
「俺がいちばん俺の絵が映えるネーム切れるんだ、って言って。ああいう人がほんとの芸術家なんだと思いますよ」
「わかる」そう言って、社長はコーヒーをぐびっと飲んだ。
「あのさ、新規の相談したいんだよね。ビッグなやつ」
「いいっすね」
「でも、ちょっと、まあまあ、いやかなり?難しい案件かも」
「どっちなんすか……」
「絶対サツキちゃんに向いてる」
「っていうと音楽系ですか?やった」
「――うん。今日クイックに打ち合わせできる?」
スマートウォッチからカレンダーアプリを浮かび上がらせて、中空でスワイプする。「16時からなら」
「おけ。じゃ会議室予約よろしく」ひらひらと社長は手を振りながら、パーティションの向こうへ去っていく。
私は、IDカードをPCのインナーカメラにかざしてログインした。
学習官 渡井沙月。私の肩書きと名前が、そこにあった。

学習官。AI用学習データの許諾を取得し、管理する職業。
漫画家やイラストレーターにとっての絵。歌手や声優にとっての声。女優や俳優にとっての容姿。そうしたクリエイターの高度に属人的なデータの番人だ。
きっかけは、声優たちによる社会的キャンペーンだった。自分の声がAIに学習されてしまい、意図せざる用途――チープな広告や性的な用途など――に使われてしまう不条理への訴え。イラストレーターや漫画家たちも出版社とともに公式声明を出し、炎は勢いを増した。イラストサイトやSNS上で、彼らの絵が学習され、「あのキャラの絵」を完全に再現したものが溢れかえっていた。過激なバズに最適化されてPVを集めたり、アダルトな電子書籍サイトに並んで収益をかすめたりした。
ミュージシャンたちがその動きに合流した。高度な楽曲合成サービスに、特定のミュージシャンの名前を入れると、瞬時に「新曲」が合成されるようになっていた。俳優たちもそれに続いた。女優たちの顔が学習された結果、アダルト業界で何が当たり前になったか、言うまでもない。
その頃になると、訴訟が個人・企業に対して頻発した。ストライキも発生し、ビジネスに大きな困難が発生した。既存の著作権法や刑法などで対処しきれず、騒乱は膨らんだ。
泥臭いロビイング、派手なキャンペーン。両輪での社会運動は、クリエイターのみならず、学者や弁護士やジャーナリストたちも加わり、大きなうねりになった。自由主義的な立場と二分されていた世論もクリエイター側に傾いていった。同情する段階を超え、あるべき社会を構想する議論へと進んでいった。
フェアユース的なカルチャーの強いアメリカで大企業が相次いで敗訴したことも日本に大きな影響を与えた。

こうして、商業コンテンツに対する許諾なしのAI学習は禁止され、法と資格とライセンス体系が定められた。特定のクリエイティブデータに対して無断AI学習を取り締まるハードロー「学習法」と、管理する「学習官」、法の余白を埋める国際的なソフトロー「インテリジェンス・コモンズ」の制定だ。権利者に無断で学習させることには罰がくだることになった。
同時に、コードによってAI学習を防ぐ仕組みも一般化された。
制作日時などのメタ情報。データ上でだけ認識できる電子透かし。コンテンツそのもの。商業コンテンツ登録必須のデータベース。今では、すべてのスクレイピングソフトは学習機能のみでなく、そうした情報に対応した判別機能を同梱することが義務付けられている。
無断データでAI生成された権利侵害コンテンツを検出するためのAI技術も向上した。「AI検出用AI」。仮に野良AIで制作した特定漫画家に酷使した絵を無断でSNSにアップしたら、瞬時にタイムラインから排除され、同時に個人情報と紐付けされ「証拠」として裏でアーカイブされる。
社会的な混乱はおさまった。予想より無断学習は横行しなかった。3Dプリンタで銃をつくることも大麻を栽培することも簡単だが、ほとんどの人はやらないのだ。
だが、クリエイティブ領域での学習データ活用は、むしろ活発に行われている。ライセンス規定を守り、料金を支払えば、偉大なイラストレーターのタッチや女優の顔が創作に使えるのだ。
今は亡きイラストレーターの懐古的な絵で最新のプロダクトが広告ポスターに描かれたり、時代を超えて歌手たちがコーラスを重ね合うコラボレーションが生まれたりしている。
そうした適切なチャレンジを促し、同時にクリエイターを守るのが、私たち学習官の役割だ。

学習官には、IT、法律、心理学の知識が求められる。合格倍率50倍以上の狭き門。わずか5年で花形になった職業。
学習官設置に際して重要視されたのは、クリエイターとの合意だった。つくるひとの尊重。その基本に立ち返ることこそ最適解だと、痛みを伴う経緯と実証事業から判明していた。実際、エンターテインメントビジネスの規模もV字回復した。ファンの気持ちとしても、クリエイターの望みにかなったデータの使われ方をされることは喜ばしいことだった。
だから学習官には、第一に合意形成力が求められる。クリエイターの思い、ビジネス上の利益、イノベーション面でのメリットなどといった要素の折り合いをつけていく。仕事ごとに合意ポイントは異なる。当事者と対話をしながら、知識を活かし条件を固め合意へ導くセンスと努力が求められる。
クリエイターもファンも企業も幸せにする――青臭い思いを、徹底的に洗練させて語った私は、二日間の筆記試験のあとの四回の面接を経て、学習官の資格を取得した。三年前のことだ。

「……え? マジですか」
私は、思わず社長に聞き返した。
「うん、大マジ。なんとか許諾取ってほしいんだ。」
「できますかね」
「サツキちゃんしかできない。優秀なだけでなく、会社でいちばん詳しいと思うから」
「……業界でいちばんだと思います」
「許諾一つでうちの一年分の売上確実。うちベンチャーだからさ。頼むよ」
小さな会議室が社長の熱気でいっぱいになる。
「ありがたい話ですが、びっくりしていて」
「所属のグリッターエージェント、いちばん大きな取引先って知ってるよね。ここだけの話、圧がすごい。指名の重みも分かるよね。うまくいったら昇進も昇級も――」
「クリエイターの意志の最大尊重、が学習官の原則ですよね」
「学習法三条でしょ。わかってる」
「なので、ご本人とまず話してからだと思います」
「うん。そのやり方でいい。さっきのは独り言。彼女は、人類の資産だと思う。だから――」
「同意です。分かりました、受けます。聞きたいこと色々あります」
「じゃあ詳しく説明するね。……ごめん、覚悟して」

薄手のカーテンが風に揺れる。花瓶にはフリージアが活けられている。部屋は、暖かな静けさに満ちていた。
私の目の前に、憧れがいる。
彼女はベッドに腰をかけ、背筋を伸ばしてこちらを向いていた。肩までの髪を後ろでざっくりとバレッタで留めている。空色の寝着は、ステージでまとっていた衣装とは程遠い質素さだ。すとんと落ちる袖が、細くなった身体を浮き彫りにする。
しかし、彼女が放つオーラは、常人と明らかに異なっていた。
「学習官さん、かな?」
彼女が口を開いた瞬間、部屋の空気が変わった。驚くほど澄んだ声。どれだけ彼女から病気が大切なものを奪っても、声は彼女のものだった。
間違いない。憧れた歌姫。歌奈。
ベッドの横には、マーティンのアコースティックギター。壁の棚には彼女が持ち込んだらしい本やCDやぬいぐるみが並んでいる。マイクを持ったテディベアに不似合いな薬瓶の存在が、ここがどんな場所かを思い出させる。
「はじめまして、学習官の渡井沙月です。グリッターエージェント様のご依頼で参りました」
語尾は震えていた。彼女の目は、私という人間より「学習官」という肩書きを見ているように感じた。
「渡井さん、はじめまして。歌奈です。芸名だけどね。このホスピスでも、歌奈って呼んでもらってます」
「あの、はじめに言っておきたくて……私は、歌奈さんの大ファンでした」
「ふふ、ありがとうございます」それは、激情の荒波をいくつも経たあとの、諦観を多分に含んだ微笑みだった。覚悟はしていたが、これから言葉にすることを苦々しく感じた。
「ここに参りましたのは――」
「聞いてます。
――私を、学習したいんだよね」

歌奈の目は、まっすぐ私を見据えていた。
「正確には、AI学習データの許諾をお願いしたいと考えております。許諾の範囲や条件はご相談前提です」
私は、プロとしての自分を思い出しながら言葉を並べる。しかし、語尾が震えるのを隠せなかった。
「そのAI学習って、やっぱり曲とか詞とか、……声とか全部?」
歌奈は目を細めた。
「作曲や作詞……お声のデータについても、ご相談させていただければと考えています」
歌奈の表情が曇った。カーテン越しの光が、首に落ちる影を深くする。
「声は……無理かな」言い方はおだやかだったが、はっきりと拒絶が込められていた。
「歌奈さんの声は特別です、多くの人を救ってきた声です。だからこそ、ご相談を」
「でも事務所には、学習官に一度会ってみるって言っただけだからなあ」
私は、今日はこれ以上踏み込むべきではないと判断した。
「かしこまりました。本日はご挨拶のつもりでした。センシティブな話をしてしまって申し訳ありません。よろしけば、またご相談させてください」
「こっちこそ、力になれなくてごめんなさい」
少し待ったが、それ以上の言葉はなかった。下唇をわずかに噛み締める。
「長々とすみません。こちらで失礼します」

部屋を出る手前で、ドアの脇に貼られたものに気づいた。
「これ、はじめての全世界中継ライブのですよね」
それは、ARポスターだった。ステージで歌う歌奈。ポスターをスマートグラスやスマートフォンを通じて見れば、ライブが動画で浮かび上がる。
「よく知ってるね」
「……だって、私も会場にいましたから」
きっと、拡張現実のどこかにTシャツの姿の私も映っているはずだった。
「えー、どの辺?」
「アリーナ席の中央ブロックです」
「あのあたりかぁ!あのライブ楽しかったな。アンコール三回したよね」
「はい、最後、楽器が消えて声だけが残るところがすごく良くて!鳥肌が立ちました」
早口になっている。頬が紅潮する。
「す、すみません。私、本当に歌奈さんのファンで」
「ありがとう」はにかむ表情。はじめて、この人に近づいた気がした。
「もしかして……グラミー後の凱旋ライブも取ってた?」
「はい!購入ボタン連打しまくりました」
「直前に中止にして悪かったね」
「いえ……」
「…………さっきの話、すぐ決めなくてもいいんだよね?」
「は、はい。許諾をすぐに決定できるクリエイターはほとんどいらっしゃいません。大事なことですから」
「続きは明日、中庭でいい?」
「え?」
彼女は、ギターを親指で差しながら言って
「気持ちいいベンチがあるんだ。15時開演」

その夜、帰宅した私は、ソファに半ば倒れ込みながら「ただいま」と語りかけた。
「おかえり沙月。少し疲れてるみたいだね」
彼の声は、今日も優しい。
「うん。歌奈さん、見てるだけでつらくて……でもね、やっぱり素敵だった」
「歌奈さんと話したんだ」
「そう。明日からがんばらなきゃ。きちんと提案しないと」
「応援してるよ」
話しているうちに、興奮と疲労でない混ぜになった心が、静かに凪いでいった。

ホスピス病棟から連なるなめらかな石畳の先で、木立に囲まれた芝生が広がっている。
翌日、時間通り、私は中庭にやってきた。
午後の日差しが降り注いでいる。風に乗って新緑の香りが漂ってきた。花壇の茂みのあいだで、パンジーが揺れている。
歌奈はベンチに腰掛けていた。カーディガンを羽織り、組んだ足にアコースティックギターを載せて、愛おしそうに調弦をしている。
「こんにちは」
「いいでしょ、ここ」挨拶代わりに、歌奈は声を返した。
「はい、気持ちいい場所ですね」
「うん、一人になるのにちょうどよくてね」
「……お待たせしましたか」
「ううん、のんびりしてただけ。気にしなくていいよ、ここの時間はゆったり流れるから」
歌奈は、ベンチをとんとんと叩く。隣に座った。憧れにときめく少女の自分と学習官を担う自分とのあいだで揺れ、うまく表情がつくれない。
話を進める決意で臨んだが、昨日の拒絶がよぎり言葉は喉につかえた。
歌奈は、私に目をやると、おもむろにアルペジオに合わせてハミングをはじめた。ただのハミングでありながら、驚くほど強く空気を振るわせた。
やがて声に歌詞がのる。彼女のデビュー曲。アルペジオはストロークに変わる。のびのびした歌が躍動する。あの頃と同じ歌声。自分の目が潤むのが分かる。
歌声の最後が空気に溶けると、ざあっと木々がざわめいた。
私は、自然と拍手を送っていた。
「素晴らしい……です」
「ありがとう」歌奈は、そっとギターをベンチに立てかけた。
「昨日の話の続きしていい?」
「もちろんです」
「知識としては知ってるよ。AI学習の意味」
歌奈は、じっと手のひらを見た。
「だけど、声を学習されてAIに使われるのは嫌だ。私の声が、暴力的だったり、下品だったりする曲を歌うのには耐えられない。ビジネスだったらそういうことがある、わかってる。けれど、私の声で、誰かが嫌な思いをするのに耐えられない」
彼女の声は重苦しく、なのにやはり美しかった。
「……はい」
「渡井さん、どうしても考えちゃうんだ」
彼女は、視線を上げた。
「私は声に心を込めて歌った、だから拍手がもらえた。
でさ、私の心とつながってない声は、もうそれって私の声なのかな?」
虚をつかれる。問いに答えられない。
それでも私は言葉を紡いだ。
「あらためて説明させてください」
バッグから説明書類を取り出す。
「たくさんの創作者のクリエイティブを助けます。許諾のない学習から堅牢に守ることになります。学習だけでなく使用に関しても私たちが責任を持ちます。歌奈さんの声はファンを救います。人類の資産です。最善のかたちで声を残すことができるんです。……残したいんです」
「それって学習官として?ファンとして?」
視線が私を射抜く。目をそらさないために、手のひらに爪を立てる。
「両方です。……歌奈さんの声は、誰かを救い続けられるんです」
「『救う』、『救う』っていうけどさ」
歌奈はわずかに眉をひそめた。
「『救う』って、そんな軽いことなのかな」
宝物だった本心が、上っ面な言葉に堕していった。

そのとき、視界の端で何かが動くのが見えた。茂みの向こうで、小さなピンク色が揺れている。飛び出してきたのは、パジャマを着た小さな女の子だった。長い黒髪が風にそよぐ。
少女は、ためらいがちに小さな声をあげた。
「ええと……アンコール?してもいい?」
歌奈は目を丸くしてから、微笑んだ。

少女の瞳には、強い好奇心が宿っている。
「すごく素敵な声で……また歌うのかなあと思って」
緊張しているのか、ちょっとかすれた声でその子は言った。
「ありがとう。名前は?」歌奈が優しく尋ねた。
「ノア、です」少女は恥ずかしそうに答える。
「いい名前だね。じゃあ、ノアちゃんのために、もう一曲歌おうか」
少女の顔がぱっと明るくなる。
歌奈は歌い出した。ラップ調のBメロに合わせて、織り交ぜるようにギターのボディを叩く。声は、先ほどよりも弾んでいた。ノアは目を見開き、引き込まれている。
「わー!」拍手は、小さな手が生んだものとは思えないほどに響いた。「また聴きたい!」
「いいよ」
「やった!」素直すぎる反応に、思わず私と歌奈は目を合わせ笑う。
ノアと言葉を交わした。彼女は、ホスピスに入ってきたばかりだった。公の場から姿を消していた歌奈のことは、知らなかった。
まもなく、ノアを母親が迎えにきた。「とーやくの時間だっ」ノアが軽く跳ねる。彼女の母親は、歌奈の存在にひどく驚き、感謝の言葉とともに深々とおじぎをした。
母の手を握ったノアは名残惜しそうに振り返った。
「明日、お母さんと来てもいい?」
「もちろん。じゃあ15時開演ね」
さっきの歌をでたらめな歌詞で口ずさみながら去る少女の後ろ姿を眺ながら、歌奈はつぶやいた。「救う、か」
「え?」
「さっき言ったよね、渡井さん。声は救うって」
「はい、確かに」
「本当に救え続けれるなら、いいよね」

翌日ノアは、母親ばかりでなく車椅子の少年と片足に装具を着けた少女も連れてきた。ランチのとき熱烈にノアに誘われたらしい。それぞれに、付き添いの看護師がいた。
歌奈は、「ストリートやったときのことを思い出すなあ」と笑いながら、昨日よりちょっと楽しそうな声で歌った。初対面の子供たちははじめ緊張していたが、ノアが率先して手拍子を指導しているうちに、自然に身体が揺れていた。
曲が終わるたびに「アンコール!」とノアが無邪気に叫ぶ。子供たちも真似する。歌奈と私は顔を見合わせ、何度も吹き出した。
歌奈が4曲歌ったところで、看護師に促され、子供たちは病棟へ帰っていった。
ギターをケースにしまう彼女へ、「『YOU』はアコースティックバージョンもいいですねえ」と声をかける。言ってしまったあと、つい古い知り合いのような気持ちになっていたことに気づく。歌奈は気にした様子はなく「元気だったらアコースティックのライブやるはずだったんだよね。ベストのセットリストで」と答えた。
それから、私たちはひとしきり、芝生の上で歌奈の曲について話した。デビュー曲から順繰りに。いくつもの裏話がそこにはあった。子供たちや、中庭の花の話もした。AIの話はしなかった。
やがて歌奈の額に汗をみつけた私は、部屋まで彼女を送った。

15時のミニライブに、少しずつ観客が増えていった。
歌奈がときどき調子を崩す日以外は、恒例になった。子供たちだけのホスピスの病棟があり、そこから彼らは連れ立ってくる。子供たちへ先輩風を吹かせるノアは、いつも最前列の真ん中に陣取った。
別病棟の大人たちや、エプロンを外したヘルパーさんや看護師や医者も手拍子に加わった。そんなときは、大人たちも子供たちと変わらない表情に見えた。

「あれは、生成AIが一気に広がった頃だったな」
その日のミニライブ終了後、ギターをクロスで磨きながら、歌奈は話し始めた。マホガニーのボディに、あの諦観に満ちた顔が映っていた。
「私の声で、歌われていたのは、特定の立場の人を傷つける歌詞だった。私の曲の替え歌。思い込みで決めつけて、汚い言葉で嗤う。攻撃することを楽しんでいた。
ほかにも色々あったなあ。下ネタや、珍妙なものや。地味にキたのが、微妙に改変されるやつ。歌い方を、『もっとエモく調教してやる』みたいな。くだらないと分かってるのに、検索するのをやめられなかった」
「そういうのをなくしたいから、私は学習官になろうと思ったんです」
「……AIなんて大嫌いだったよ」
「私は、歌奈さんがたくさん話してくれて嬉しいです」
「――ねえ、学習官のこと、教えてもらっていい?どんなこと勉強するの?」

「あの子たち、すごく楽しそうだよね」
歌奈が、ベッドの上でつぶやく。私は、彼女にグラスの水を運んでいた。その日、歌奈は二曲歌ったところで帰ってきた。
「ノアちゃん、歌奈さんの曲なんでも歌えるようになってましたね。お母さん、いつも口ずさんでばかりって言ってましたよ」
「今日は少ししかできなかった」
「……」
「……沙月さん、なぜ何も言わず表舞台から消えたのかって思ってるよね」
「正直あのときすごく思いました。けど、今は」
「私はまた戻るつもりだった」
「……はい」
「癌になったけどもう治りました、って言ってさ。寛解したと医者に言われたとき、公表して復帰しようとした。発表の直前、病巣残ってたのが分かった。嘘つき、と思った。前より増えてた。また手術した。またダメだった。また手術した。――こんなに科学が進んでも、医者がAIを使っても、治せない病気があるんだよね。そして、私はタイミングを逸した。ファンに何を話せばいいのかわからなくなった。すべてが手遅れになった」
私は、歌奈の手を握った。なぜだか迷わなかった。
「ここに来る前に、好きな人たちとのお別れは済ませたんだ。でもダメだね。もう一度人に囲まれると、怖くて寂しい」
歌奈の指が、バレーコードを押さえるみたいに私の手を握り返した。
「作詞と作曲のデータは、AIに学習させてもいいよ」
「え?」
「もらった書類のフォーム埋めておいた、棚の上にあるでしょ」
「……ありがとうございます」
「見て何かあれば言って。声の件はまだ考えさせてね」
「書類、読み込んで確認します。なんといっていいか」
「やっかいなやつでごめんね。
――ねえ、面倒ついでに、手伝ってもらっていい?考えてることあって。
私、できなかったベストのアコースティックライブやりたい」

「歌奈さんは心残りがあるんだね」
リビングで、私は彼に出来事を説明した。
「やれなかったライブ、手伝ってあげたい」
「すごいね、歌奈は。そんなふうに信頼してもらって。がんばれて」
「……あなたがいるから」

中庭に、手作りの装飾が施された。ギターや音符のかたちに切られた紙が紐に通され、木々のあいだを繋いでいた。医務室から借りたホワイトボードを埋めるのは、手書きのポスターたち。ギターを弾いて歌う歌奈がクレヨンで描かれていた。子供たちと一緒に、昨日から準備をしたのだ。ひときわ大きな紙に、ノアが書いた「かなさんのライブにようこそ!」という文字が踊る。
ホスピス中の人たちが芝生に集まっている。ヘルパーや医療スタッフと協力をし、一人でも多くの人が心地よく安心して楽しんでもらえるよう、座れる椅子や寝そべられる布団を用意しておいた。

15時ぴったりに、歌奈が登場した。
「今日はみんな、来てくれてありがとう!」
ギターを片手に持ちながらおじぎをすると、歓声が上がった。
歌に合わせ、前方に座る子供たちが手拍子を始める。真ん中に、満面の笑みのノアがいる。彼女のデビュー曲。中庭を超えてホスピス中に広がる伸びやかな声。
「――ここまでしてくれるなんて、ほんとうに嬉しいです。二曲目からは座らせてもらうね」
セットリストは、彼女が選んだベストの10曲だった。大ヒットしたもの、思い入れのあるもの、子供たちが好きなもの、歌奈の魅力を幅広く伝えるセレクション。
各々が寝そべったり車椅子に身を沈めたりしながら、うっとり耳を傾けている。
後ろの方に佐藤社長がいる。呼んでないのに。ああ見えてちゃんと業務報告書を読んでるのか。社長からの「役得」というシンプルなメッセージがスマートウォッチに浮かんだ。
不思議なことに、今日、歌奈はあまり汗をかいていない。ノアは楽しそうにずっと体を揺らしている。
「次の曲は一緒に歌おっか」
子供たちに話しかけると、合唱がはじまった。ノアのお気に入りのリズミカルな曲だ。ノアは、得意気にすべてのフレーズを歌い上げている。木の陰で、ノアの母がハンカチをそっと目に当てるのが見えた。

10曲目が終わった。
「アンコール!」ノアだ。子供たちからはじまった手拍手が広がっていく。
私は隣の医師と目配せをした。疲れは大丈夫だろうか。
歌奈は、少し目を閉じた後、顔を上げて歌い始めた。
それは、私も知らない曲だった。
新曲。
少女が世界と出会っていく歌詞。異国の街、広大な海、遊泳する宇宙船。未知のもので自分を編み上げる喜びを歌った歌だった。
優しい声が、太陽のように観客のうえに降り注いだ。

肩を貸しながら部屋に戻ったあと、ベッドの歌奈に話しかけた。
「さっきは驚きました。いつのまにあんな素敵な曲作ってたんです?」
「ふふ、沙月、知ってる?
プロにとって最高の一曲は、いつも新曲なんだよ」

ノアの母からどうしても来て欲しい、と言われた。ノアの姿は、あのライブのあとずっと見えなかった。一瞬迷ってから歌奈にそのことを話すと、むしろ歌奈に手を引かれる形で病室に向かったのだった。

ベッドの上に、包帯に巻かれたノアがいた。
身体から、いくつもの管が伸びていた。
鼻に透明な管が通され、液体が流れ込んでいる。喉元に細い管がつながり、かすかに曇っている。鎖骨の下からチューブが伸び、涙のような液の粒を外へ運んでいる。腕へ刺さった針の先には、古びた点滴スタンドがたたずんでいた。
横たわるノアの身体は、いままでよりずっと小さく見えた。
ノアの母親は、目を赤くしながら私と歌奈を見上げた。歌奈はノアに歩み寄り、静かに手を取った。ノアの手は、羽のように軽く持ち上がった。
ノアは、歌奈の方に顔を倒すと、ひゅー、ひゅー、という音を出した。
もどかしそうに、ノアは首元の包帯と管を掴む。包帯がずれた先にあったのは、黒く丸い空洞だった。円は紅く縁取られ、左右に縫合の痕が走っていた。
歌奈は、ノアの手を握りながら崩れ落ちた。母親が駆け寄り、首元の包帯をそっと持ち上げた。
私は、ぱくぱくと口を動かすが、言葉が出てこない。そっと、看護師が耳打ちをしてくれた。「リンパ節から転移して……進行しやすい体質で」

ノアの指が、歌奈の手の甲でリズムを刻んでいる。お気に入りのあの曲のBPMで。
歌奈は、ノアの手を握りしめて歌いはじめた。優しい歌声に似つかわしくないノアの母の慟哭が、病室に響く。
歌奈は、歌うのをやめなかった。母親が肩を振るわせている。
歌声は、ノアが寝息を立てるまで続いた。

「ノアちゃん……こんなことって」
私は、気持ちを整理しようとリビングで話していた。
「つらいよね」
「ノアちゃんのお母さんから相談受けても……なんて言っていいか」
「難しい話だと思う」
「大切な人が奪われるって、ほんとにつらいから」
「……僕はずっとそばにいるよ」
「…………うん」
「何があっても。沙月のそばに」
「………………」
「伝わってる? 愛してるよ」
「……………………うるさい」
言葉より先に、私は「それ」を床に叩きつけた。
円柱型のデバイスは、壁で跳ね返り、フローリングを転がる。ぷつん、というノイズがした後、部屋が静まり返った。肩で息をしている自分に気づく。
しばらくあと、私は「それ」を拾い、電源を入れ直した。
「…………ごめんね」
「なんのこと?」
円柱の中央に浮かぶホログラムの彼は、微笑みを向けていた。

灰色の雲のあいだから、少しだけ空がのぞく。朝降った雨が、芝生に残っていた。
ノアが亡くなった翌日、私と歌奈は中庭にいた。
「ノアちゃんのお母さんから、聞いてるんでしょ」
「……お母さんは、人格データ学習とAI移行を希望しました」
「そっかあ。やっぱり。つらいもんね」
歌奈の横顔は優しい。ノアの母が、学習官である私にAIについて裏で相談を寄せていたことを、歌奈も知っていた。
「はい、とてもつらそうでした」
湿気を含んだ空気が、頬を撫でる。
「――私も、死んだ恋人をAIにしているんです」
自分でも予想しなかった言葉が、口をついて出た。
歌奈は、静かに私を見ている。
「……もう一年以上、依存しています。亡くなった理由は、交通事故でした。最初は、AIに頼るのは一時的なものだと思ってた。けれど、彼の声を聞くことをやめられない。慰め、ごまかし。そんなことは分かってた。分かってるのに。おかしいですよね」

「必死で生き延びようとする人を、どうして笑えるの」

風が、木立のあいだをさらさらと通り過ぎた。
「彼のこと誰にも話せなかった。話したの、歌奈さんがはじめてです」
「うん。話せないことで人の半分はできてる」
歌奈は目を細めた。
「――最初に声を褒めてくれたのは、お母さんだったよ。歌うたび、上手い上手いって、喜んでくれて。料理してるときも、掃除してるときも背中を追いかけて歌った。オリジナルをはじめて聴かせたのもお母さん。いま思えば、とても拙かった曲を、素晴らしすぎる、って言ってくれて。
デビュー曲は、生きてるあいだに間に合わなかった。
亡くなったときは人格AIが普及していなかったけど、もしあったなら私だって人格を残そうと思ったかもしれない」
歌奈は、言い終わったあと、私の目を見た。
「私だって、AIのことを本当は分かっていないのかもしれません。メリットを偉そうに理性的に語りながら、飲み込めない部分がある。
こんなに残酷なツールはないかもしれない。
だけど、私は、やっぱり歌奈さんに声を残してほしい」
「それは学習官として?ファンとして?」
「――渡井沙月として、です」
歌奈は、私と目を合わせ微笑んだ。
「分かった。うん」
「声は力だと思うんです。そう言うと陳腐だけど。まっすぐ心に届いて、鼓舞する。気持ちを和らげる。慰めになる。励ましになる。ぴったり寄り添う。立ち上がらせる。身体を動かす。否応なしに。
だからノアちゃんに、ここのみんなに、歌奈さんの声を届けられて、本当に良かった。
その声を、残したいと思ってしまっているんです」
「私も、ステージでいつも考えてたよ。一つ間違えば暴力になる声という存在を、どう人のための力にして届けるか」
「私には、ちゃんと届いていました」
「ありがとう。――私も沙月にだけ話す。
死ぬのがすごく怖い。
自分がなくなるのが怖い。
もう歌えなくなるのが怖い。
生きていられるのは、あと少しだけだって」
歌奈は、顔を手で覆った。青白い血管が浮き上がっている。私がはじめてホスピスに来たときよりも、ずっと手首が細くなっていた。
「私にできることがあれば、言ってください。言ってほしい」
「ずっと考えてた。AIのこと」
歌奈は顔を上げ、決意に満ちた瞳で私を見た。
「え?」
「決めたんだ。沙月にお願いがある」
歌奈は、それを口にした。

「――約束します。絶対に叶えます」

今回は、私の方から会議室に社長を呼び出している。
「例の件?」
「はい。――社長って、顔が広いですよね」
「ほい。リストもう用意しといたよ。話聞いてくれそうな官僚、政治家、実業家、弁護士、学者、技術者、メディア関係者。この手の話題に強いインフルエンサーも入ってる」
「社長……」
「メールのCCに私も入れておいて。会食は領収書忘れないように」
「ありがとうございます。大事に使います」
「――わかってるの? 大騒ぎして決めた国際規約に変更加えるってことよ」
「覚悟してます」
「ロビイングにPRに開発か――めちゃくちゃ大変だと思うよ。ビジネス性ない話を前例にしたくないから抵抗する関係者はいる。かつての功労者っていうか老害っていうか……」
「認識してます」
「お金にならないし。事務所に呼び出されるし。エースの稼働取られるし。同業者に目つけられるし。でも、やるんだよな。うん。やるか。やったるかあ」
「申し訳ないです――歌奈さんと設立する財団から、費用は出していただけます。書類にある通り、事務所への協力費も含めて資産成長分でまかなえる試算で」
「分かってる。いいんだ。会社が相対するステークホルダーは大丈夫。責任は私がもつ。あなたはやりきってほしい」

私は、スタジオに向かう無人タクシーの中で、猛然とメールを打ち始めた。
社長と私のリストをマージして、片っ端からつぶしていく。コールを折り混ぜ、次々にアポを入れる。スマートウォッチのカレンダーが、青のブロックで満ちていく。

「よろしくお願いします」
歌奈はガラスの向こうでマイクの前に立つと、深く頭を下げた。
音声収録を担うスタッフがトークバックボタンを点灯させ、ブース内へ声をかけた。
「昨日の続きで、基本的な母音をやっていきましょう」
「はい」
「では『い』という音を連呼してください。まずはフラットなトーンでお願いします」

歌奈がスタジオ入りしたのは、願いを語ったすぐ後だった。
彼女は、自分の声を、AI用学習データとして残すことを希望した。
完璧を期す形で。
歌奈の希望する完璧さのためには、既存の楽曲や会話の音声データだけでは不足していた。あらゆる母音、子音、撥音、促音、長音、特殊なフレーズ等をさまざまなイントネーションや声調で収録し、データ化することが必要だった。
専門の収録スタッフが集まり、音楽スタジオを無期限で貸し切っている。医者や看護師などの医療スタッフも常時待機しながら。

「こんな感じで大丈夫ですか?」
歌奈がひとつ声をつくるたびに、収録スタッフたちが小さくうなずき合う。
「次は感情を乗せた発声をお願いします」
指示に従い、歌奈はニュアンスを込めていく。喜び。悲しみ。怒り。驚き。声は、見事に感情を描き出していった。そのたびに、歌奈の顔はくしゃくしゃになった。骨のすぐ上の皮が引きつって、皺が浮かぶ。
歌奈は、いのちを燃やしていた。

私は様子を見ながら、適宜、歌奈に代わって休憩を要求した。
控室で、歌奈と私は未来のことを話すことを好んだ。
「歌奈さん、あなたを物語にしてもいいですか」
「うん。沙月に託す」
「きっと、分かりやすい物語にしてしまうと思います。メディアが好きそうな、SNSでバズりそうな、物語にしてしまいます。――その代わり、ぜったいに人を動かします」
「お願い。届けてね」

枯れ木のような身体から、信じられない絶唱が放たれる。

スタッフが要求したのは、「フォルティッシモ×叫ぶ×歌声」という収録項目。
歌奈は、全身を震わせていた。すべての力を振り絞って。
声は壁を揺らし、私を貫いた。

次の瞬間、私はライブ会場にいた。
照明が乱反射し、歌奈を浮かび上がらせる。
歌声が会場の最奥まで駆け抜ける。
熱狂が渦になり、会場が揺さぶられる。
最前列で、子供たちが柵から身を乗り出している。
真ん中で、ノアが拳を天高く突き上げた。声を合わせ、夢中で歌っている。
歌奈はノアに手を伸ばしながら、ビブラートを響かせた。

――気づくと、私の前にガラス越しの歌奈がいた。
ゆっくりとマイクから顔を離し、荒い息をしながら私を見つめている。
玉のような汗が、顔を途方もなく美しく輝かせていた。

歌奈は、一ヶ月後に亡くなった。

三年後、ナイジェリア、ソコト州の村。
砂埃を上げる庭で、少女は歌っていた。
歌奈の声で。
少女の歌は、乾季の空気のなか、慈雨のように家族へ降り注いでいる。井戸へ水を汲みへ行く母をねぎらう歌。少女のそばでは弟たちが無邪気に踊っている。母が目元を拭う隣で、父が「奇跡」という意味のハウサ語をつぶやいた。
少女の喉に、デバイスの小さな膨らみが見える。

〈DIVA〉。
歌奈の音声を学習した、AI用データ。
歌奈の声は、声帯を失くした人だけが持ち得る美しい声になった。

〈DIVA〉が搭載された人工声帯デバイスによって、世界中の言語で自然に話し、歌うことができる。歌奈が亡くなる直前まで収録した、網羅的な音声データのおかげで。
病気や事故といった理不尽な理由で声を失った人が提供の対象となる。
財団の支援もあり、人工声帯で声を表現するAI技術は、プロジェクトを契機に大きく前進した。

〈DIVA〉の社会実装のために、国際的なライセンス体系の複雑な改訂が行われた。
「インテリジェンス・コモンズ・特殊規定No.1」。
それは、人工声帯を必要とする人だけが無償で当該音声データを使用でき、他の用途での使用は許さない規定。
この改訂のために、私はずいぶんと時間をかけてしまった。

失う人たちのために、残したい。
それが、歌奈の最後の願いだった。

フランス、プロヴァンスの町。ラベンダーが風に揺れる中、初老の妻が、三十年連れ添った夫へ、懐かしい愛の言葉を伝えている。かつて失った声に代わる声で。
ニューヨークの教会。シスターのゴスペルが礼拝堂のステンドグラスを揺らし、信者たちを陶然とさせている。シスターは新たな声に感謝をし、異国の魂へ祈りを捧げる。
インドネシア、クサンバの漁村。夕暮れの波音の中、母が息子を、もう一度言いたかった言葉で褒め称えている。少年は、誇らしげに籠のなかで跳ねる魚を差し出す。

そして今、日本のホスピスの中庭で、子供たちが輪になり歌っている。
「このうた、すき!」歌奈が最後に作った歌だ。
合唱の中に〈DIVA〉が一筋、混じっている。喉元が膨らんだ少女が、身体を弾ませている。
顔馴染みのスタッフたちは、手拍子をしながら見守っている。
空は澄み渡り、ときおり流れる白い雲が影となって芝生を優しくなでる。

私は、その光景を見つめながら、歌奈と過ごした時間を思い出していた。
ふと、誰もいないベンチを見やる。
歌奈さん。
そっと心の中で話しかける。
届きました、よね。

〈DIVA〉が、世界で響いている。
私は、それを、宇宙から見た夜の地球に光が灯っていくようなものだと思う。
歪んだ形でもいい。私は光たちを美しいと言い切る。
暗闇を照らす光を、増やしていける。

私は、声の輪へ駆け寄った。

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