悲鳴の蓋

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悲鳴の蓋

この世界には、悪魔が住んでいる。

いくつもの街が点在するこの世界で、悪魔は気まぐれに街を訪れては破壊と暴力の限りを尽くす。

訪れた街の人々に為す術はなく、彼らにできるのは悲鳴をあげることだけだった。

そして街と人を滅茶苦茶にしたあと、悪魔は別の街を選んでそこに移っていった。

 

この世界の人々は、生まれながらに耳に蓋がついている。

「悲鳴の蓋」と呼ばれるそれは、開けば遠く離れた街の悲鳴が聞こえ、閉じれば悲鳴が止み静寂が訪れる、奇妙な器官だった。

 

ぼくが住む街にはまだ悪魔が訪れたことがない。

長老や大学を出たインテリたちは口を揃えて言う。「街の者がみな耳の蓋を開けていれば、悪魔は来ない」と。

なぜなら、誰かの悲鳴に耳を背けることは悪であり、耳を背けるものが多い街に悪魔は移動するからだと。

 

そして、食事会など社交の場では、今聞こえる悲鳴がどれほど悲惨なものかをしかめ面で語り合うことが、ある種の教養であり美徳とされていた。まるで壊れたゲーム機のように、誰もが同じような言葉を繰り返す。

 

ぼくもはじめは、もちろん耳の蓋を開けていた。この街を悪魔から遠ざけるため、というのももちろんあったけれど、その悲鳴を聞いていることは、この世界で知性ある人間だとみなされるために必要なことだったからだ。

しかし、日々聞こえてくる陰惨な悲鳴に、ぼくの心は少しずつ蝕まれていった。ちょうど古い家の壁紙の下から徐々に広がるカビのように、ぼくの隅々まで黒いもので覆われていくような感覚だった。

 

ついに、ぼくは耐えられなくなり、とうとう耳の蓋を閉じてしまった。

閉じた蓋の向こうで、悲鳴が遠ざかっていく。そして突如訪れた静寂に、ぼくは安堵と罪悪感が入り混じった複雑な感情を抱いた。

 

翌日、ぼくの街に悪魔がやってきた。

 

効率的に街を無茶苦茶にするため、悪魔は住民すべてを広場に集めた。そこでぼくは涙ながらにみんなに謝った。「ごめん、みんな。ぼくは昨日、耳の蓋を閉じてしまったんだ」

不思議とぼくを責める顔をする人はいなかった。みんな恥ずかしそうに下を向いていた。

 

そのとき悪魔が言った。

「耳の蓋?なんだそれは?」

 

ぼくたちは悪魔に耳の蓋の話をした。

その蓋を開いていれば悪魔を避けられたであろうことも。話を聞き終わった悪魔は言った。

「そんな蓋のことなど知らん」

 

そして心底不思議そうな顔でこう聞いた。

「悲鳴が聞こえていたなら、なぜ助けに行ってやらなかったんだ?」

 

悪魔の問いかけは、雷鳴のような衝撃とともに、ぼくたちが長い間抱えてきた欺瞞を白日の下にさらした。

耳の蓋を開けて悲鳴を聞くことが美徳とされる一方で、実際に行動を起こすことは誰も考えていなかった。それどころか、悲鳴を聞くことそのものが目的化し、他者の苦しみを自分の教養や道徳性の証明に利用していたのだ。

 

そうして、その悪魔はぼくたちの街を滅茶苦茶にしていった。

「戦争」という名の悪魔が。

もはや耳の蓋は意味をなさず、悲鳴がぼくの世界を覆っていった。

文字数:1218

内容に関するアピール

この作品を通して伝えたいことは、「他者の痛みへの我々のどうしようもない無関心さ」についてです。

自戒も込めてですが、平和な国で暮らす我々のような人間は、戦争に巻き込まれた他国の悲惨な状況から目を背けてしまいがちです。例えば、現在のガザやウクライナの惨状はSNSのタイムラインに流れる一コンテンツに過ぎない、という人も少なくないでしょう。

そうした情報を追ってはいても、仲間内と飲み屋で、あるいはフォーマルなパーティー会場で同情の意を示したり政府への文句を口にするだけで、何も具体的な行動を起こさないという人は、本当の意味で他国の「悲鳴」に向き合っていると言えるのか。まして、そうしたスタンスの表明を通して、他国の「悲鳴」が、自身の教養を示す手段や、単なる話題として消費されているのではないか。

その無関心さは、やがて自国に戦争という悪魔の矛先が向かうことをゆっくりとではあるが確実に招いているのではないか。

そんな自分自身を含めて、平和というぬるま湯に慣れきった人々にとって、耳が痛く、少しでもハッとさせられるような寓話を考えてみました。

文字数:465

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