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1 ながい葬式のはじまり
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「おれ、おっきくなったら、クルマのうんてんしゅになるんだ!」
「すごい、はるくん!」
「うんてんしゅになったら、みっちゃんをいちばんさいしょにのせるからな!」
「じゃあ、ぼくはおっきくなったら、そのクルマをつくるひとになる! さいきょうのクルマつくる!」
「みっちゃんがつくったクルマで、おれがうんてんしゅになって、ドライブいこうぜ!」
「ずるい、おにいちゃん、わたしものせて!」
「クルマにのるとさ、すっげーとおくへ行けるんだぜ……」
田宮晴汰の通夜は家族葬で妹の翠だけが参列していた。翠だけ、というのは割と正確な表現で、通夜式が始まる前に翠のそばにいた上坂光行は式が始まる直前に立ち去ったからだ。
「僕はハルタの家族ではないからね、正真正銘の家族は翠ちゃんだけなのだから、しっかりと見送ってあげてください。こちらまで僕が出しゃばっては、何なので」そう言って去っていったが、翌日の告別式のほうは上坂のほうが盛大に見送る手はずである。
僧侶が大きな花輪のふもとで、経を読み上げる。花輪はひとつだけだが、「ファードライブAI株式会社代表取締役社長 上坂光行」とある。
「お兄ちゃん」翠は棺に向かって話しかけた。「どうしてこんなことに……」
棺の中の晴汰は、自分が通り魔に刺し殺されたことなど嘘のように、穏やかな表情だった。
翌日の告別式は、家族葬ではなく、ファードライブAI株式会社が社をあげた社葬になった。
「ハルタは、私の運転手であるより何より、幼い時からの、心からの友でした」マイクを使って涙ながらに光行は話す。それを翠は黙って見つめている。いや、他にも翠が見たものがあった。参列した社員たちの表情だ。
いくら親友といったって、運転手ごときに社葬? という困惑の表情を隠した社員たち。そんな裏の表情を読み取ってしまうのは、単に翠の心労が過ぎたせいだけかもしれなかった。
光行はそんな社員を知ってか知らずか、晴汰の視線やドライブ操作を記録分析したデータがいかにAIに役立っているかを説明し、会社に多大な貢献をした重要人物である旨を強調した。
ファードライブAI株式会社は、ベンチャーである。
葬儀委員長は、光行と共に起業した副社長の城戸善一が担っていた。光行とは大学で出会い、意気投合して二人で会社を立ち上げた。車の製造までを担うような大手自動車メーカーと異なり、頭脳部分の設計・開発のみに特化して開発を行う企業のため、社員は百人程度と少ない。会社の目下の一番の目標は、自動運転レベル5、すなわち、走行場所を問わず運転手の同乗が不要な完全自動運転を実現するAIを作り出すことだが、現在でもAI関連ビジネスでかなりの年商をあげていた。
百人程度なので、翠、善一、光行、招待客に次いで焼香する社員は、代表者ではなく、全員がぞろぞろと行った。運転手ごときに、と思うような社員にとっては馬鹿らしい参列ではあっても、普段はむしろホワイトな職場ということもあり、仕事と割り切って皆口には出さない。
式は社員の内心をくすぶらせながらも、つつがなく終了した。
「遠くへ行けるんだぜ、とか言って……本当に遠くへ行ってしまった」火葬場に向かう車には、霊柩車の助手席に位牌を持った翠が、それに続く車の後部座席に光行と善一が座っている。運転手は見も知らぬ人物だった。「約束したんだ。最強のクルマ作るって」
「作ろう」善一がそれに答えた。
「ああ」光行は前を見据えた。「作らなきゃいけない」
◇
晴汰は大きくなったら本当に運転手になった。18歳になってすぐに免許を取れるよう、誕生日前から教習所に通い始めて最短で取った。
そして本当に助手席に光行を最初に乗せた。レンタカーではあったが、親友同士のドライブを二人は本当に楽しんだ。晴汰は高校を出てすぐにタクシー会社に就職した一方、頭脳明晰な光行は大学に進学し、ここで第二の運命の出会いとして善一と出会った。
もともとの車への興味と、学問に触れて生じたテクノロジーへの興味とが融合した結果、子供の頃からの光行の夢は、自動運転車を作るという一段具体化した形へ昇華した。
『自動運転にはAIが不可欠だと思う』後に善一が語ったことによれば、この時の発言で善一は光行に一目おいたらしい。『運転に必要な技術だけじゃなくて、広範にわたる一般的な知識とか、思いやり道を譲り合う気持ちとか……。まるで人間のような心を持ったAIが』
「その時に田宮君の名前を聞いた」という話は、光行は後に何度も善一から聞いている。光行より善一のほうがよく覚えていた。曰く、とてもいい奴でとても優しい運転をする奴で、そいつみたいな運転を自動運転車は目標とすべきだと滔々と語った……ということだった。そんな記憶は光行には全くないのだが、あまりに何度も善一から聞かされたものだからたぶんそうなのだろう、ぐらいに思っている。それは今も昔も光行の考えそのものだった。
だから、光行は晴汰に全面的な協力を仰いだ。
善一と組んで起業して、事業が軌道に乗って潤沢な資金が回せるようになると、タクシー運転手としての収入は今ひとつであった晴汰に二倍の年俸をぶら下げ、社長付運転手兼AIの学習元となってもらった。そのため、晴汰は自前の車も購入できた。
『おれ、AIの学習元って何かと思ったよ』
視線記録装置を身に着け、運転中何に着目しているかを解析するのだ。
そのデータを汎用LLMに追加学習させることで自動運転が可能になるのではないかというのが光行の目論見であった。それでレベル5が取得できるかはまだわからないが、最初に世に送り出すものはその方式で開発する計画だった。
しかしこの汎用LLMというものは、どれも学習元のデータが不明瞭というか、多くはネット上の津々浦々でアクセスできる範囲の森羅万象を学習元としていた。その点がAI反対派が批判する点で、曰く先人の努力の剽窃だ、先人の知識の、先人の作品の丸写しだと盛んに言われた。反対派は、ある特定のプロンプトからプロのイラストレーターが有料で請け負ったはずの作品とパッと見見分けがつかないような絵が出力できる、というデモンストレーションを行い、AIとはつまり泥棒である、と罵った。
そんな批判はあるにせよ、取り合っていたらきりがなかった。この方式で追加学習させたAIは好成績を収め、今では自動運転レベル4を達成している。
だがドライバーの要らないレベル5と、限られた条件下での自動運転であるレベル4との間には大きな溝がある。世界のどの企業もレベル5は達成していない。
「作らなきゃいけない」
このとき未来への決意を固めた二人は、霊柩車に別乗する翠に話すことができない事実を胸に秘めていた。
2 とてもわるい善人
それから一年ほど経った。つまり間もなく晴汰の一周忌という時期だったが、ある日曜日、週明けに社が重大発表を行うので、という話を枕に光行が翠をドライブに誘った。
「元気だったかい」
「生きてはいるわ」
車内での会話はこうやって始まった。
前に翠が乗ったときは、運転席に晴汰が、助手席に光行が乗り、後部座席に翠が乗った。そして、高速道路に入った時、『翠ちゃん、見てごらん』という光行の掛け声で、晴汰がハンドルから手を離したのだった。それが翠が見た、初めての自動運転のデモンストレーションだった。
そして今、以前と同じように光行が助手席に座り、翠が後部座席に座り、晴汰はもういないのに、晴汰の席はいまだにここだとでも言うように、運転席には誰もいなかった。
誰もいない? いや、いなくてはいけないはずだ。それが今人類が辿り着いている最高レベル、レベル4だ。特定の条件下では自動運転できるが、いつでも自動運転の代わりに運転できる人間を配置しておかなければならない――それがレベル4だ。つまり、これが意味するところは。
「レベル5の認可が下りたんだ。明日、発表になる」
レベル5のAIは、住宅街のような狭路でもスルスルと器用にハンドルを動かし道を曲がってゆく。まるで透明人間が運転しているかのようだった。
「ハルタのお陰だよ」
そう光行が語った声の調子が、どうにも翠には変に思えた。後部座席の翠にではなく、隣の透明人間に話しかけたように思えたのだ。視線の向きからいっても光行は隣を見ていた。もちろん、座席は全部前に向けて据え付けられているので、大きく後ろに振り向くことはできないが、それにしても不自然だった。
「大丈夫?」
「安全だよ。そのために研究を重ねて来たんだから」
「そうじゃなくて。光行さんのほう」
「……僕が?」
「まだ、……ショックを引きずってる、みたいな……」透明人間に話しかける位には。
自動運転は幹線道路に入り、徐々にスピードが上がってゆく。とはいえじわじわとした、乗員に全く負担をかけない加速だった。
「翠ちゃんのほうがそう見えるよ。今日も元気はなさそうだ。子供の頃からお兄ちゃんっ子で、僕にお兄ちゃん取られたってよく泣いてた」
「私はそんな、……いつまでも子供扱いしないで」
無言が続いて車内の雰囲気が少し悪くなった時、急ブレーキがかかった。晴汰からデータを取った運転にしては荒っぽい、そう思って翠はフロントガラス越しに前を見た。
猫が道を横断しているのだった。しかも親子連れだった。ブレーキ音に驚いた猫たちはそそくさと歩みを早めた。
「ハルタは優しいんだ」
光行はそこで初めて後ろを振り向いてそう言った。まるで、自分のマブダチを自慢する子供のような、そんなキラキラした瞳を翠は見た。
◇
「ファードライブAIのご関係の方とお見受けいたしまして」
一週間ほど経って、翠はある男から連絡を受けて喫茶店で会っていた。
「関係というか、兄が関係者でした。故人ですけど」
「社長さんと貴女はご友人だと伺いましたよ」
「幼馴染です」
「似たようなものでしょう」
「違うと思いますが」
「本題です。私はファードライブの疑惑を追っています、フリージャーナリストの小野寺と申します」
疑惑、と言って翠は思い当たった。数年前、週刊誌の記事を読んだことがあった。
「使っているLLMが何かの丸写しだという記事を見たことがあります。しかし、私は知り合いというだけで、会社に関わりもなければ専門知識もないのでお話しできることも特に無いかと思いますが、その件でしょうか」
「そんなような話です。コンプライアンスといいますか」
「はあ」翠は小野寺の含みある言い方に少し苛立ちを覚えた。
「N区にあるファードライブの施設を知っていますか?」
「いえ、知りません。兄が通っていたのはS区でした」
「しかしN区とS区は隣接している」
「存じております」
「お兄様は殺されたそうですね」
翠は身を固くした。いまだ犯人不明のまま迷宮入りの事件に関心を持つこの男は敵か、味方か。見極めるためにうかつに返答できないと思うと、自然男に喋らせるだけになった。
「お兄様が殺されたのはS区のファードライブ本社の近く、物陰になっている路地。そこで血を流しているのを発見されたあと、N区の施設に運ばれた。これはご存じでしたか」
「私が駆け付けたときは病院で、裏路地で刺されたというのはその時に――えっ、N区?」
「つまりお兄様は、発見された後、直接病院に連れて行かれずに、いったんN区の施設を経由して病院に運ばれたことになる。おかしいと思いませんか? 一刻を争う時に。直接病院に行っていればお兄様は助かったかもしれないじゃないですか」
翠の心臓が早鐘を打ち始めた。晴汰が助かったかもしれない? そんなことは考えたこともなかった。あの日光行から電話を受け、駆け付けた時にはもう白布があって、触れた頬もつめたく、どこにも生の気配はなかった。
上坂光行という人間は、幼馴染の翠の目から見てもかなり良くできた人間だった。学のない晴汰にも、けして分け隔てることなく、というか、むしろ晴汰を特別扱いしているきらいさえあった。幼い頃の翠が嫉妬を覚えるほどに。
「きっかけは、確かにその週刊誌の記事だったんですよ。なんか、叩けば埃が出るだろうという下品な動機だったことは否めない。だが、経理とかもしっかりしているし叩いても埃が出なかった。まるでAIみたいに良くできた会社だと思いましたね。だから事件が起こった時もちょっとしたニュースになったけど、ああ可哀想だと思って気にも留めなかった。しかしよくよく調べ直してみると、こんな風にひとつだけあまりにも解せない事実がある」
そこまで言うと、小野寺はぐいっとコーヒーを飲み干した。
「田宮さん。幼馴染だか知らないが、善い人というのはね、えてして食わせ者なんですよ。ひとつの大きな悪を隠そうとするために、全力で自分を演じるから勢いとてつもなく善い人になる。そんな事例を私はいくつも見てきました。これは何かありますよ。何がかはわからないが、何かがありますよ」
3 破壊と複写、そしてキモいひとたち
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「なんか視線測定ユニットなんてのをつけてさ、みっちゃん助手席に乗せておれ走るんだ、すげーよなアイツ、絶対すっげー車作るぜ、おれあいつとなら、どんな遠くでも行ける気がするんだ……」
「お兄ちゃんは光行さんのこと大好きよね」
「そりゃあもう親友だから! みっちゃんは絶対将来写真が教科書に載る! そんでおれはその隅っこに写るわけ」
「なんか凄いんだかしょぼいんだかよくわからない野望だわ」
光行が新車を翠にプレゼントしたいと言ってきたが、翠は兄の形見の車があるから、といったんは辞退した。形見とはいえ、むしろさんざん光行と晴汰が休日ドライブに使った、光行にこそ思い入れがありそうな車体である。
光行はそれでは、とシステム部分だけ交換させてくれないか、と言い出した。システムとはつまり、カーナビ回りと自動運転回り、電子的に接続された部分である。動力部との接続もすっかり規格化され、交換は容易になっていた。
「なにしろ、晴汰の多大な協力でできたシステムだ。これには晴汰の魂が入っている」
そんなことを言うが、翠には小野寺の言ったことがずっと引っ掛かり続けていた。
◇
「それって玉の輿なの?」
助手席の服部智子はかなり下世話な反応をした。
「え?」
一応、ニュースになったばかりの最先端の自動運転システムである。持っていれば自慢になる。ということで翠は友達に披露することにした。
智子は翠の友人の中ではまあまあ親しいほうではあろう。とはいえ、晴汰と光行の関係のように、唯一無二の親友、と言ってよいかというと、翠には心もとなかった。何をもって親友と呼ぶか、という問題はあるにせよ、翠にとって親友のモデルケースは晴汰と光行しかない。他にも親友同士という存在は周囲の人間の中にいたのかもしれないが、我らこそ親友也、という人たちが、周囲の特に親友でない人にその情報を触れ回るというわけでもない。親友という概念は晴汰と光行のケース以外翠には不可視だった。
「本当にするするとハンドル切ってくれるのねえ」
「レベル5ってやつになったから、もうこのハンドル取っ払ってもいいらしいんだけど、物理的なところはなかなかね。お兄ちゃんがずっと握っていたハンドルだから」翠は目の前でくるくる回るハンドルを見ながらそう言った。
いったんうまく逸れた話だが、下世話な想像は訂正する必要があった。
「あの、そういうのじゃないから」
「自動運転車をプレゼントするとか、あなたを狙っているとしか思えないわ」
「光行さんは幼馴染なの。ほとんど兄みたいなものよ。とてもそういう気にはなれない」
「新進気鋭の企業の社長夫人ともなれば人生ものすごくお得よ?」
とてもそういう気になれない上に小野寺の言葉もあって恋愛も結婚もあり得なかった。
小野寺の話を口に出すのも憚られたので、
「むしろ、光行さんはお兄ちゃんのことが大好きだったから」そう言って誤解されそうなので補足した。「無二の親友というやつ……」
「ふうん」智子は自分の顎に手を当てて、何か考えている、みたいなポーズを取った。「それはそれでちょっとキモくない? 亡くなった無二の親友の妹に、恋愛感情もないのに車をプレゼントするっていうのは」
「そうね。ちょっとキモいわね……」
◇
智子の次に助手席に乗り込むことになったのは小野寺だった。
「どうもどうも」
翠にしてみれば、小野寺も大概キモかった。
「お出かけですか」自宅を出たばかりで、たまたま住宅街の信号のない交差点で停車していたら発見され、特にロックをかけていなかった車の扉を躊躇なく開けて、助手席にするりと乗り込んできた。
「強引なんですね」
「この仕事をしてるとね」
「強引にいきたいなら女性でも口説いたらどうですか。私以外の」
「あなたも言いますね……ってこれが噂のレベル5自動運転ですか。実に見事だ。あ、私は愛妻家なんで女性は口説きません」
「ご用件は何ですか」
「前、喫茶店で物騒な話をしてしまったのを反省してまして。移動体の中なら話しやすいかと」
つまり前の話の続きというわけだ。
「やはり、上坂さんが兄を手にかけるというのは、あり得ないです。上坂さんは兄のことが大好きだったので」翠は智子に使ったのと同じ言葉を使った。
「手にかけたというか、とどめを刺した話をしたはずですが、まあそんな区別はどうでもいいとして。私が以前扱った事件では好きが高じすぎて相手をホルマリン漬けの標本にしたのがありました。好きにもいろいろあるということです」
車は道路工事の現場に差し掛かった。交互通行になり警備員が誘導している。どうも警備員の動きが不慣れで、新入りと思われた。『行け』『止まれ』の合図がどうにもはっきりせずわかりづらい。新入りと思われる人物の年齢は若く見積もっても70歳、もしかしたら80歳くらいで、小野寺はジャーナリストとして日本経済の衰退を見るが、今日の話題はそれではない。
「おら、爺さんしっかり振れよ!」粗暴なドライバーのそんなヤジすら聴こえてきていた。だがそんなわかりにくい誘導も、翠の車は的確に判断してゆく。
「これはすごい。まるで人間が判断しているみたいですな」
晴汰の魂が入っている、という光行の言葉を翠は思い出した。晴汰から採取したデータなら、確かにそれくらい優れているのかもわからない。
「今日はね、面白い特許を見つけたんです。ファードライブの」小野寺はタブレット端末を取り出した。何かの書類を見せる、という行為が運転中に前部座席で成り立つというのは全自動運転車ならではの光景だ。「脳のニューロンに強い電気刺激を与えることで、ニューロンが伸ばしている樹状突起がどこに接続しているかを突き止める……そういう特許です」
「脳科学?」
「そうです」
分野的におよそファードライブ社が取得するような特許とは思われない。だが、光行が、自動運転にはまるで人間のような心を持ったAIが必要だと言っていたのを翠も聞いたことがあった。人の心を解明するためにファードライブは脳科学を必要としたのかもしれない。翠はタブレットに目を落とした。
「〝多対多の接続経路を有する生体細胞若しくは同等の接続構造を持つ有機電導体への電気的接続手段を有し……〟なんですかこれ、暗号みたいで読んでも難しくてよくわかりませんね」
「特許というのは権利範囲をとにかく広くしたいので抽象的な表現になって、一般にわかりづらい表現にならざるを得ません。私も読み込むのに苦労しました。漏電検査を知っていますか? あれ、高圧電流を流して、そうするとふだん微弱な電流しか流れていないところでも、はっきり電流が観測できてわかるんです。ただ、その検査をする前に、接続しているコンセントを全部抜くように言われます。抜き忘れてパソコンとか電子機器が壊れても知りませんよ、みたいなアナウンス、昔私が組織に属していたころは年に一回くらいありました」
「はい、そういうたとえならわかりましたが、これが?」
車は赤信号で停止している。
「これを全てのニューロンに対して行えば、脳の全ての接続がわかります。ただ、高圧電流ですから、そのニューロンは焼き切れる」信号が変わり車は加速してゆく。「纏めると、脳を破壊すれば脳のコピーが取れます」
「何が言いたいんです」
「脳のコピーを取るためには対象を殺すしかないんです。実験動物か、でなければ死にたての脳か、死んでも構わない脳か。お兄様は脳のコピーを取る目的で脳が新鮮なうちにN区に運ばれた可能性があります。お兄様は優秀な運転手だったそうですね。そしてファードライブはそれからわずか一年で、世界中で誰も達成できなかったレベル5自動運転を実現してしまう」
「今すぐ降りて!」翠は激昂した。「そんな話聞きたくない!」
車は通行の邪魔にならぬよう角を曲がり、裏道に入って停車した。
「田宮さん。今、停車指示を出しましたか?」
「この状況なら、停車するでしょう」
「人間の運転手ならね」
「AIが私の意図を汲み取ったんでしょう」
「なるほど。実にお優しいAIだ」そう言うと小野寺は返されたタブレットをしまって素直に降りた。車はまた優しく発進した。
4 刃渡り10センチのドライブ
翌週、今度は翠が光行をドライブに誘った。
そんなことは初めてのことだった。晴汰が生きてきた頃は、光行が一緒にドライブする相手は晴汰に決まっていたからだ。たまに三人でドライブすることはあったが、三人ではなく翠と光行二人きり、という組み合わせは、光行からレベル5の車を披露するために誘った一回きりだ。そして、その時はこの車体ではなく、ファードライブ社の持ち物だった。
光行は、本当に慣れた調子で助手席に座った。とはいえ、この場合、助手席に座るのは不自然ではない。これは今は翠の持ち物で、持ち主はたとえ運転をしないとしても運転席に座るべきだ。
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みっちゃんがさあ、データ取りならまだしも、社長として出張するときまで助手席に座るのはどうかって重役に言われたらしいんだよね。でもみっちゃんは親友だし助手席に座っていて欲しいからさあ、突っぱねてくれて嬉しいわー
これはそんな場面ではないから、光行が助手席に座るのは当然だ。だが翠が運転席に座るのは当然なのか?
「嬉しいなあ。またこの車に乗れるなんて」
そう言って光行が翠に向ける表情が翠にはまがいものに見えてきた。表情筋の下に、なぜお前が座っている? なぜそこに、晴汰が座っていない? そんな感情を抱いているのではないかという疑念がどうにも捨てられない。本当の感情など、外見からではわからない。脳の中身を調べない限りは。
走り出した車の中で――小野寺の言うところの移動体の中で――翠は本題に入り始めた。
「以前の新聞記事を読み返しているの。お兄ちゃんを刺したのは傷口からみて刃渡り10センチくらいの刃物で、凶器は見つかっていない。本当に、いったい誰が殺したのかと思いながら、さっきアウトドア用品店に行って来たのよ……」
新聞記事とアウトドアの前後の繋がりが不明のため、光行は困惑して言葉を返さない。
「お兄ちゃんは病院に運ばれる前にN区のファードライブの施設に運ばれたと聞いたわ。何をしに?」
今度も光行は答えない。今回は何もなければ簡単に答えられるはずの設問だ。そこで答えない以上、N区の施設に運ばれたのが事実であることと、そして何か後ろ暗いことがあることがはっきりする。
「私ね、もしお兄ちゃんを殺した犯人がわかったら――お兄ちゃんと同じ思いをさせてやりたいの」翠はバッグから刃渡り10センチのキャンプナイフを取り出し、光行の喉元にナイフの腹を押し当てた。「こうやってね」
「やめなさい」
「あなたがお兄ちゃんを殺したの?」
「殺してない、僕らが見つけたときは、もう息絶えていた」
「見つけたのは、あなたと――副社長の、城戸さんだったわね? 二人で口裏を合わせれば何とでも言えるわね」
翠がそんな脅しをかけている間に、車は道路の端に寄り、歩道の境界が少し低くなっている部分に車体の半分を乗り上げて停止した。
停車指示も出していないのに、AIが判断して停車したのは小野寺の時と同じだった。だが違うのは、裏道に入らなかったことだ。
翠はナイフを引っ込めた。
(わざと人目のあるところに停車した……?)翠はそう考えながら、
「じゃあ、殺したか殺さなかったかとか、はまずは措いときましょう。お兄ちゃんは、ここにいるの? この車の中に、いるの?」
車のすぐ外は歩道で、AIが意図したとおりに人通りが絶えない。翠は通行人に気取られないよう、体勢を変えずに声を荒げた。
「私は、あなたがお兄ちゃんを標本にしたのか、と訊いているのよ」
「違う!」光行は言下に否定した。「標本とは、殺して磔にすることだ。僕は磔になどしていない」
「ここにいることは否定しないんだ」
「ある意味いるとも言えるし、いないとも言える。少なくとも、このAIはハルタの丸写しではない」
今度は翠が黙り込む番だった。しかし黙っておいて無言にすぐ耐えられなくなり、こう言った。
「お兄ちゃん、もうナイフは仕舞ったから、また走って」
車は乗客をなだめるゆりかごのように走り出した。
「――確かにうちの会社では、脳のパターンをAIに取り込む研究をしていた。動物実験で成功もしている。まだ、非破壊的にパターンを取り出す方式は開発できていない。だが、パターンを取り出した後の研究は進んでいる。全ての記憶をAIに移植することは、個人情報保護の観点からも問題がある。僕たちは、動物実験で取り出した脳のパターンからエピソード記憶だけを分離することに成功した」
それからしばらく、光行は翠に、脳の記憶の種類について説明した。大別すると五種類あるが、標識や文字の意味するところを覚える意味記憶と、運転の手順を覚える手続き記憶の二つが運転に必要なものだということを話した。
「そして、思い出などをを保持するのがエピソード記憶。知られたくない過去なんかもあるところだ」
翠が事態を理解するのに、少し時間がかかった。
「それは……〝お兄ちゃんの記憶がないからお兄ちゃんではない〟のではなくて、〝記憶喪失になったお兄ちゃん〟ではないの?」
光行は答えなかった。
「もし、生身のお兄ちゃんが生きていて、そしてある日お兄ちゃんが記憶喪失になったら、光行さんはその人はもうお兄ちゃんではないから友達をやめるの?」
「やめない!」光行はしかしうつむいたまま、翠に目を合わせずに言った。「やめるものか……」
「じゃあ、やっぱりあなたはお兄ちゃんを磔にしたんだわ」翠のほうは目を見開いて光行の方を向いていた。「この鉄の箱の中に」
5 海とロボット
翠はまたバッグをゴソゴソと探りナイフを取り出す。「お兄ちゃんを楽にしてあげて。きちんと人間らしく、死なせてあげて」
「やめなさい」また光行の肌にナイフが触れるが、すでにさっきの体温を覚えていてあまり冷たくはない。「ずっと親友の妹だと思って来たのに……僕たちはこんなに遠い関係になったのか」
近接戦という意味ではむしろ大変近い関係だ。
この速度で動いていれば、周囲は男女が親密に情事でも行っていると思うだろう。実際問題、唯一レベル5を可能にしたファードライブのシステムを搭載した車だけが、ドライブデートにて走行中の情事を可能にしており、SNSにおいてはこれが日本社会や世界を一気に不健全化するものであるとして批判する投稿と、逆にこれが少子化問題を解決する救世主であるとして肯定する投稿、さらにこれがラブホテル従事者の失業と交通渋滞を引き起こすものであると批判する投稿がそれぞれ、いわゆる万バズを果たしている。むろん車内での情事数の統計を取る方法はなく、どちらも勝手な推論である。
しかし今行われていることは明らかに情事ではなく武力による脅迫だった。
車がトンネルを抜け、一気に視界が開けた。
海だった。
「ここは……」
翠にしてみれば脅迫が目的のドライブだったので目的地など適当である。ダーツの旅よろしく適当にタッチパネルを弄っておりそこがどこであるのか覚えてもいない。
「ハルタとよくドライブした海岸線だ」光行だけでなく翠にもどこか見覚えがあった。「翠ちゃんを乗せてた時も一、二回くらいはあったと思う」
パワーウィンドウが開き、磯の香りと遠くで波打つ音が入ってくる。この道で何度となく晴汰が行っていたウィンドウの開閉動作は、車内の温度やら酸素濃度やらのセンサーにAIが反応した、と考えれば無機的な説明もつくものだった。
そしてこの道を選んだのも、複数ある経路をたまたま道路の混み具合などを総合的に勘案した結果導き出された経路だといえば説明はついた。
だが二人とも、つまりこの動作をしたのは晴汰だ、と考えた。
翠にしてみれば、磔にされている者の行動には似つかわしくない、配慮あふれる行動だった。
結局翠はナイフをしまった。
「ありがとう」光行はそう言った後は、ドライブが終了するまで二人とも口を利かず、ただ窓からの風が車内の空気を入れ替え続けていた。
◇
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ロボットくんにはともだちができました。
ロボットくんはその男の子がだいすきでした。
男の子もロボットくんがだいすきでした。
ふたりは、ゆびきりをしました。
「ぼくたちは、ずっと親友だよ!」
ふたりはずっと親友でした。
男の子が大きくなり、おとなになっても親友でした。
男の子がおじいさんになっても親友でした。
その先もずっと親友でした。
男の子がもう、写真の中にしかいなくなっても親友でした。
人類が滅んでも、ずっと親友だったのです。
晴汰の遺品の中にそのロボットくんの絵本を見つけたとき、翠は思わず声をあげた。ひとつ屋根の下にいても兄の部屋にあるというだけで、思い出の品は長いこと行方知らずになっていた。
翠はその絵本が大好きだったので、晴汰も大好きだったので、幼い二人はそれを何度も何度も繰り返し読んで中身をすっかり暗記していた。
だがそれは絵本としては物悲しい仕立ての物語だった。
◇
「悲しいお話ね」助手席の智子は素直に感動した。わけでもなかった。「永遠に生きるロボット君の動力はどうなっているのかとか設定の甘さはあるけど」
智子はこうやってデリカシーに欠けるところがあった。晴汰と光行のような完全体に見える友情、互いが互いを尊重し大切に思い最大限の敬意を払う、そんな友情を翠は結んだことがなく、周囲の人間は全て長所と共に短所があった。晴汰と光行の友情は一種お伽話だった。身近な人間だがとても遠くにあった。だからファードライブ、なのか。
そういう短所だらけの人間との間に結ばれるものこそ友情だったり愛情だったりするのだ、というよく言われる話には、とても完璧とは思えない人類の多数の人たちが友達付き合いをしたり結婚をしたりしている事実から見て、一定の説得力があった。そう考えると翻って兄たちの友情はあまりにも美しく、従って嘘くさく、つくりものに見えてしまう。
そして、兄たちの友情ドライブの真似事をしている翠と智子は、つくりもののさらに偽物で、正真正銘のまがいものだった。
「ありがとう」そう言って智子は車を降りる。擬似友情ドライブにつき合い、だいたい定位置で降りる。行きつけのお洒落なカフェがある、帰りは電車で帰ると翠には言ってあるが、智子は角を曲がってカフェなどには行かない。待っているのは絵本ではなく現実の悲しい話である。
◇
「お祖母ちゃん」
「あ、……初めまして、お世話になります、……すみません」
「お祖母ちゃん、私、お祖母ちゃんの孫の、智子」
「ああ……」一瞬老婆は満面の笑顔になった。「で、どちら様で」
智子の祖母のタキは、もう一分前の会話すら覚えることができない。子供の頃からおばあちゃん子だった智子は、新たな思い出を積むことができないことに深い悲しみを抱いている。
「お祖母ちゃん。柿剥いてきた。お祖母ちゃん柿好きだもんね。柿が赤くなると医者が青くなるってことわざ、教えてもらった」
タキは柿を美味しそうに食べる。美味しそう、というのは感情である。記憶はもう積めなくても、今という瞬間の感情を大切にしてあげること、それが智子ができる唯一の孝行だった。
智子の母親は幼くして亡くなり、父親は一家を支えるために会社員として奮闘し、その結果智子の子供の頃の記憶はほとんどが祖母との思い出に占められている。
だが智子は今やいっぱしの社会人で、数年前父親も、母親よりは長いが十分に若死にしてしまった。こんな状態のタキを智子が付きっきりで介護できるはずもなく、施設に入ってもらう他はなかった。この箱の中に祖母を閉じ込めてしまったのかと、悩んだ日も何度もあった。
日々、智子は〝その日〟が来るのを恐れていた。
その日とは、必ずしも死亡の日を意味しない。
タキは、いつまで人のかたちを保てるのだろう。
肉体的な外見の話ではない。外見は確かにヒトの形をしているが、とてもヒトとは言えぬ境界をいつ、越えてしまうのか。その境界を誰が定義するのか。たかがヒトが定義して良いものか。
今はまだ、感情はある。タキには、まだ感情が残っているのだ。
6 記憶と解放
光行は、出張は独りで行うことにしている。つまり誰もお付きをつけない。
「レベル5を達成した車で行くんだから運転手なんかつけたらむしろ会社の恥だろう」
という理屈である。この論法には、お付きとは運転手のことである、という定義のすり替えがあった。秘書を乗せるなどという発想は無いようだった。
ただ、運転手なしに独りで乗るということは、万一のことが起こったらすべて光行の責任となるし光行が事故処理も行うのだ。
だが、優しい、安全運転のハルタが、事故など起こすはずがないではないか。そう言って左側のドアを開けるのを、いつも誰にも見られないようにそそくさと行う。
自動運転車なのだからどちらに座ろうと良いはずで、まして社用車は全てハンドルが取り除かれている。だが、そうあっても独りで乗る以上、旧・運転席に座らないのは不自然である、と考える者も多い。だが左側通行の日本で左側から降りるのはむしろ自然な話で、レベル5の車ならそんいう習慣を根付かせるべきだ――と主張したこともあったが、結局その考えはメインストリームにはならないようだった。
……という御託はともかくとして……光行は、晴汰を隣に乗せていた時の気分に、いつまでも浸っていたいのだった。
(もう、ハルタとの思い出を積むことはできない)
しかし車は晴汰らしいハンドルさばきで、晴汰らしいアクセルと晴汰らしいブレーキを踏み、光行独りだけが思い出をさらに積み重ねてゆく。
「なあ。何を考えてるんだ? 今」思わず光行は声に出して、そして考える、というプロセスが時系列処理であることを思い出して言い直した。
「なあ、何を感じてるんだ? そこで」
人が人たる所以は、どこにあるのか。
考えているのが人なのか。
感じているのが人なのか。
考えていれば人なのか。
感じていれば人なのか。
たとえ人の形をしていなくても。
◇
「あれから一年だ。俺は確かに、咄嗟に田宮君を生かす方法を提案したが……いつまでも死んだ人にこだわり続けるのは、良いこととは思えない」
「死んだ?」光行が返すと、善一は、心底心配だというような目つきで光行を見た。「……すまん、死んだのは重々理解している。普通の意味では死んでいる。だが、僕たちはある限定された意味合いでのみ、ハルタは死んでいないと死の概念を部分的に書き換えたのだと理解している。そうじゃないか。今、田宮君を生かす方法、と言ったよな」
「言葉の綾だ。我々は自然生物としての人間である以上、自然生物としての生と死の概念を普通に抱くべきだ。限定された意味合いは、実験室を出たら忘れろ。思い出に浸るな。あの脳パターンに思い出など無いのだから」
[memory]
「なあ、みっちゃん? 今日はどこ行こうか?」
光行は平日に調べておいた地点を示した。
「おっしゃあ!」そう言うと滑らかにアクセルを踏む。急発進と全く思わせないのに力強さは感じさせる。
何度も通った海辺の道を、快いエンジン音を響かせながら走ってゆく。
「おれさあ、頭とか悪いけど、みっちゃんとならどんな遠くだって行ける気がするんだよね。みっちゃんは頭いいしすげえよ。なんか将来すげーでっかいことしちゃいそうな気がする。そしておれは、そんな奴がおれの友達だって自慢して回るんさ……」
海辺から少し逸れて高台に出る。そこから海が一望できる。
「ああっ、すげえ! みっちゃんよくこんな所見つけたね!」
「車で行ける穴場スポットだって……」
「すっげえわこれ。遠くまでよく見える、絶景じゃん」
「ネットの情報って役に立つな。これから、どんどんあらゆるものがネットに乗ってデジタルデータになってゆく。もしかしたら人間の精神だってネットに乗って、ネットの海を泳ぐ時代が来るかもしれない」
「うーん、それでもおれは、みっちゃんとドライブしてえなあ。ネットとかじゃなくて」
「ああ、僕もそう思う」海からの風が抜けてゆく。「あの、さっきのことだけど」
「え?」
「僕はハルタの方が凄いと思うよ。運転とか天才的じゃん。すごい優しい運転だし、いい奴だし。だから僕はとっくにハルタが僕の友達だって自慢してるよ?」
「うわ、なにそれ恥っず……身体カユイ……」
[memory:external]
「なかなか羨ましいな。親友と呼べる存在がいるというのは貴重だ。おそらくそんな人間なんて一生いない人間のほうが多いんじゃないか?」
「ハルタがあんまり僕のこと褒めるもんだから身体がカユくて。善一のほうがずっと頭脳は上じゃない? 僕はただのそのへんの学生であって」
「それも謙遜が過ぎるというかつつましいというか。そのへんの性格も褒められているんでないの?」
「まさか」
「だが頭脳優秀なところを褒められているのは、お前は素直に受け止めるべきだよ。そしてお前は、田宮君の言う通り、将来すごくでかいことを為し遂げる。それは、俺のたぐい稀な頭脳とお前のたぐい稀な頭脳がコラボレーションすることによってのみ達成できるんだ」
「え?」
「つまりだな、俺とお前は、起業する」
翠の自宅に訪問客があった。
「こんにちは。城戸と申します」
「あ、確か上坂さんの――」
「はい、共同経営者です」
善一は丁重にお辞儀をして中に通された。一軒家で持ち家ではあるが、翠が子供のときに母親が、社会人になったぐらいのところで父親が早世してしまった。それぞれ智子の親と同じようなタイミングだったので、同族意識が芽生えたのも、翠と智子が友人となった理由のひとつとなっている。
智子には祖母しかいなかったのと同様に、翠には晴汰しかいなかったわけである。
「それで、本日はどのような」
「その前にお兄様の件、今更ですがご愁傷様でございました」
「ご丁寧にありがとうございます」
「しかしながら、上坂をそのお兄様から解放してやりたいのです」
7 戻れないラインとデッド・コピー
「〝解放〟と?」
「はい」
「貴方が言いますか?」
すでに初手から翠は警戒心を見せた。善一は警戒心への警戒心を抱いた。
十秒間沈黙。
「貴方は兄を鉄の箱に磔にした共犯でしょう?」
さらに十秒間沈黙。さらに翠はもう十秒追加した。
「上坂さんを問い詰めたら、やはりそちらのAIは兄の脳をコピーしたものだと」
死者の複製。
「しましたが、お兄様の記憶があるわけではないのです。従ってお兄様ではない」善一は、これが死者の複製ではない旨を主張した。「お兄様ではないものを、間違いなくお兄様ではないと、上坂にわからせてやりたいのです。そうしなければ、上坂は延々とあのAIとドライブし続けるでしょう。今、私にはその手立てが思いつきません。なので、貴女が何か術をお持ちではないか、と相談に参ったわけです」
ここで翠は、判断に迷った。城戸善一が、もしかしたら味方になる可能性も見えたからだ。
まずは敵だと思った。あの優しい運転をする自動運転車を、言下に晴汰ではないと否定する。そして、晴汰のことは好きではないように見える。だがしかし――。
「解放したいなら、簡単ですよ。兄を車から全て削除していただければ良いのです」
いったんあの時はナイフを取り下げたが、やはり翠は兄が鉄の箱に閉じ込められているという観念から逃れらなかった。そして永遠に生かされる。あの絵本のロボットのように。
そんなことはあってはいけなかった。全ての車から晴汰は削除されなくてはいけない。結局それが翠の下した結論だった。その役目を持たせれば、善一が翠の味方になる可能性があった。
「それはできません。再度申し上げますが、あのAIはお兄様とはいえない」
「できないのは、単にレベル5が消えてなくなる会社の都合ではありませんか?」
「それ以前に、削除するという道理も責任も無いと申し上げています」
「私、上坂さんに直談判したんですよ。でも駄目だというんで、脅してでもやらせようとしたのだけど――兄の前ではできなかった。貴方しか、できる人がいないのです」
「ご自分が何を言っておられるか、わかっていますか? もし、貴女が本当にあのAIをお兄様と信じるのであれば、自分ではできないからと、他人にお兄様の再殺害を指示していることになるのですよ!」善一は、冷静な態度を崩して、眉を吊り上げて言った。しかしすぐに冷静に戻った。「繰り返しますが、あのAIにはお兄様の記憶がありません。従ってお兄様ではありません。人ですらありません。削除する理由は何もありません」
◇
「お祖母ちゃん」
「どなた様」
「あなたの孫の、智子です」
「面白い人ねえ、私に孫がいるはずがないでしょう。加奈子はまだ小学生よ」
「加奈子さんは私のお母さんです」
「まだ小学生だと言ったでしょう? どうやってお母さんになれるの? 加奈子はどこに行ったの?」
認知症における記憶というのは、新しいものから逆行して抜け落ちてゆく。智子の記憶から消えて、母親の加奈子の記憶はまだ残っている。そういう順番だが、いずれ加奈子の記憶も消えてゆく。
「お母さんは、亡くなりました」
「あなたのお母さんじゃなくてね、うちの娘の、加奈子」
「亡くなったのよ」
いつも優しい曲線を作るタキの眉毛が吊り上がった。
「嘘だ!」タキの喉のどこから出てくるかと思うような野太い声だった。立ち上がり、智子のほうを指さして職員の方を向いて訴える。「誰か、助けて! この女が、娘が死んだとか嘘をつく! たったひとりの娘なんだ、そんなわけないんだ! 今朝学校に行ったばっかりで、」
「おばあちゃん、落ち着こう! ね、美味しいお菓子があるの、ね、食べない?」硬直して何もできなくなっている智子をよそに、職員はタキをなだめる。
そして智子の耳元で、
(大丈夫、よくあることです)と囁く。決して、何が現実かをわからせるようなことはせず、気分を逸らせるのが職員のテクニックらしかった。
よくあること、というのが、タキ個人にそういうことがもう何度も起こっているのか、それとも施設全体でよくあることだという意味かは判然としなかったが智子は後者だと信じることにした。
だが、タキがもうすでに、あの優しかったタキであると信じることも難しくなっていた。
あの優しさは、嘘だったのか。
記憶を失くすと、本性が出るのか。
記憶が、優しさを作るのか。
優しさの実体が記憶の中にあるのか。
だとすれば、記憶と一緒に花びらが散るように優しさが散ってゆくのか。
◇
「弊社では、設立のだいぶ初期から、ファードライブ憲章というものを掲げています。その中に個人情報の保護というものがあります。脳のコピーロジックは、当初からこれを護る規約に従って設計されています。それを侵害するプログラムは、チェック機構が働いて構築することも起動することもできません」
「脳を破壊するから動物実験にしか使っていないと聞きました。その段階でそんなものを?」
「ハードウェアにせよソフトウェアにせよ、当初から想定されていたのに、今要らないからといって後付けにすると構造がいびつになります。最初からそのように作っておけば、非破壊的な方法が開発されたときに、それを置き換えるだけで済むんです。だから、その保護機構を外す修正を施していたら、田宮君の脳細胞はとっくに腐敗しています」
「腐ったほうが良かったと思いますよ」
「人類の進歩のためです」
「人類の進歩のために、兄を犠牲にするのです?」
「何度も申し上げますが、あのAIはお兄様ではないから犠牲にはなっていません」
結局こういう会話が続いて収拾はつかなかった。善一の家庭訪問は、要するに決裂に終わった。
8 思い出は深く厚く綾なして
[memory:mixed]
あの日、光行の携帯電話が鳴った時から全ての悲劇が始まった。
「そこの裏路地で田宮君が血を流している」冷静な善一が、とても冷静ではいられないという声で電話をしてきたのだ。
光行が駆けつけたとき、既に晴汰の身体は冷たくなっていた。
〝既に冷たくなっていた〟。
本当に?
翠が光行から聞いた話によればそうなる。
「つまり、その命題の真偽がポイントになるかと思います。ファードライブが、黒か白かのね」
敵か味方かいまだにわからないもう一人の人物に、翠は連絡を取っていた。
「もし、まだ身体が温かったなら、まだ息があるか、蘇生の余地はある可能性があるけれど、冷たかったのならもうどうしようもないでしょう。その場面の目撃者は城戸氏しかいない、と」小野寺は考えを整理した。
「他にいるとは聞いてません」
「社員など嗅ぎまわってみましたが、私の調査でもそうですね。他は当事者しかいない。というか、城戸氏も共謀している可能性があるから実は当事者かもしれない。結局そこには、当事者しかいないわけです。上坂氏、城戸氏、そして田宮氏はすでに故人です」
「でも、たとえ冷たくなった後であろうと、二人には兄を鉄の箱に磔にした責任が……」
「法の及ぶ範囲の話です。そうでないものは、白か黒かではなく、善か悪かという、極めて境界の曖昧なものとなる。それは私の仕事の範囲でも興味の範囲でもないんだ」
〝敵か味方かいまだにわからない〟というのはこういう齟齬があるせいだ。
◇
「翠、ごめん。私、自分よりかわいそうな人に慰めて貰おうとしている。私のお祖母ちゃんは、貴女のお兄ちゃんみたいに、死んでも殺されてもいないのに」
そんな謝る言葉とは裏腹に、智子は翠の胸の中で泣いた。
「駄目、そんな……」翠は智子の背中に手を回してぽんぽんと叩いた。「不幸を……人の不幸を、較べたりしては駄目」
「お祖母ちゃんが、お祖母ちゃんでなくなっていく」そしてやがては、人でもなくなってゆく。
「仕方ない。それは、仕方ない……」翠は智子の背中をさする。「時はもどらない」
◇
善一のすぐ後にもうひとつ家庭訪問があった。光行だった。光行は善一と同じ部屋に通された。つまり、車の中ではない。ということは、
「今はハルタの目の前じゃないから、君は僕をナイフで刺すこともできる。だが、その前に僕はハルタを殺した犯人を突き止めたいと思っている」
冷静に考えればすでに正気を失ったような発言だった。あのAIは晴汰ではないと言い張ったはずの人が、今は晴汰の目の前ではない、と言っている。そのくせ、晴汰が殺されたという認識もしている。もうめちゃくちゃだ。
だが、と翠は思う。
(光行さんはお兄ちゃんが大好きで城戸さんはお兄ちゃんが嫌い……)
これはとてつもなく大きな違いに思えた。
「犯人を突き止めてから、それでも刺したければ刺せばいい。なので本題だが……ハルタが刺されたとき、目撃者は、いない」
「そう聞いているわ」
「だが、一人だけいる。ハルタ自身だ」
「あのAIに記憶はないと、城戸さんからも延々と聞かされました」
「僕は、手続き記憶の中に、エピソード記憶が紛れ込んでいると考えるようになったんだ。ハルタがあの時僕たちを海に連れて行ってくれたのは――何度も通ったルートで、それを覚えていたからだ。何度も運転する、という手続きに、行ったというエピソードが刻まれたんだ」
「でも、お兄ちゃんは何度も繰り返し殺されたわけではないわ」
「だから、一回経験しただけのことは、ごくわずかしか刻まれない。だがごくわずかに、刻まれるんだ。わずかな情報は、何らかの方法で、増幅してやることができるはずだ。その何らかの方法を突き止めることで、犯人を挙げることができる」
「方法の当てはあるの」
「それをずっと考えていたんだ。必ずうまく行く保証はない――だが、うまく行くかもしれない。君の協力があれば。説明する」
ここで、翠の中で計算が働いた。もし、これでうまく当時の記憶を再現できたなら――もし、最後の記憶に、光行自身が映っていたなら、それは光行は晴汰が息のあるうちに駆け付けたことになる。その場合、光行はクロだ。
翠は、光行の説明を聞いた。
それは、ひたすら思い出を語るという方法だった。
光行の晴汰との思い出を、翠の晴汰との思い出を語り、それを符号化し、脳のパターンに変換する変換式を無数に想定して総当たりで試し、晴汰脳パターンと無関係なAIで生成した〝非・体験談〟を同様に変換してみる。前者が脳パターンに内在し後者が脳パターンに内在しないことが判定できれば、その逆変換を用いて記憶を取り出せる。
光行が語るそんな説明の半分も翠は理解できなかった。
というより、思い出を語ると何か難しい原理によって記憶が取り出せる、という程度にしか理解できなかった。とはいえこれで犯人を検挙できるかもしれないという思いは、翠を駆り立てた。
翠が想像したのは、ひたすらテキストデータを二人で打ち込んでいく作業だった。だが光行が音声インタフェースを準備したので、本当に思い出を口で語るだけになった。
晴汰の通夜の時は、翠だけが参列し、告別式の時は社葬で、同じ空間にいたが二人はほとんど会話を交わすことはなかった。
二人で思い出を語るこの瞬間こそが、あたかも本番の葬儀かのようだった。
[memory:interleaved]
近所にいつも妹といた男の子がいたこと。一緒に幼稚園に通って並んで絵を描いたこと。光行は絵のネタが思いつかずハルタを見たら車の絵を描いていたのでそれをパクッたこと。
兄妹で親にねだってクリスマスプレゼントを貰って、おもちゃのマイクでアイドル歌手みたいに踊ったこと。
家でミニカーを走らせ合う遊びをして取り合いになり、二人で倒れこんだのが妙におかしくて大笑いしたこと。
新しいお椀を親が買って、どちらが良いかジャンケンで決めたら翠が負けてしまって、翠が大泣きした結果晴汰が譲ってくれたこと。
小学校にハルタと二人で並んで行こうとしたら、スイも行く~、と言って翠がついて来ようとしたこと。
一緒にはいけないんだ、ごめんね、と言い、父親が肩車をして幼稚園に連れて行ってくれたこと。
放課後は毎日のように遊んだこと。通学路で通り過ぎる車の車種当てに興じたこと。
翠が嫌いなピーマンを晴汰がこっそり食べてあげたのを父親に見つかり、翠ではなく晴汰が叱られたこと。
優等生の光行をやっかんだ奴らにいじめられそうになり、晴汰がそいつらをぶん殴っていじめはすっぱり止んだこと。
心して聞いてくれ、母さんが、と深刻な面持ちで父親が言ったこと。棺の中の母親の顔は綺麗だったこと。棺を花でいっぱいにしたこと。
話を聞いて、何と言ってよいかわからず、光行が肩に手を置いて、そこで晴汰が涙を流したこと。
中学でもみっちゃんと同じクラスだったんだぜ~、と凄く嬉しそうな顔で言っていたこと。
勉強を教えたらすごいわかりやすい! と言ってくれたその後はなぜか車トークになっていたこと。
中学だと成績順位張り出されるんだぜ、みっちゃんは一番だったんだ、すげーよな、とまるで自分のことみたいに喜んでいたこと。
志望高校の合格を祝福し合い、おれみっちゃんのいない学校って想像できないんだけど、やっていけるんかな? ともあれおれたち絶対一生親友だかんな! と言ってくれたこと。
中学でちゃんとやってるか? 友達は大事にしろよ、とやたら友達という言葉ばかり言っていたこと。
免許を取れる年齢になったこと。嫌味な教官のこと。免許取って初めてレンタカーを借りて行ったドライブ旅行。海岸線。波の音。景色。鳥。
高校受験。将来の夢。お兄ちゃんの夢。私の夢。いつまで光行さんとつるんでるの、好きな人とかいないの? うーんそういうのは当分いいかな?
etc.
etc.
……
「結局、お兄ちゃんに好きな人とかいなかったの」
「二人とも車が一番好きだったんだ」
9 葬儀みたいな入力と男女みたいな無謬
そんな葬儀みたいな入力作業は、何日もかけて光行の独り暮らしのアパートで行われた。もしかしたら社内に犯人がいる可能性もある、というのがその理由だった。
「こんなボロワンルームが社長邸宅とは。引っ越せばいいのに。お金あるんでしょ?」
「あるけど、別に引っ越す理由もないし……」
解析用のパソコンは毎日のように一台、また一台と増えていった。じきにアンペア数が足りなくなり、最大の60アンペアに契約し直された。パソコンを平面に並べるだけでは、スペースが足りなくなり、パソコンは垂直にも積み上げられ三段くらいになった。
空きスペースは、寝るスペース程度しかなくなり、万年床の上で入力作業は続けられた。
◇
「今あなたは、男女が二人きりで同じ布団の上で語らったと言っているのよ?」
「智子、あなた今ものすごい誤解をしているわ」
「あなたの危機意識が低いと言っているの。玉の輿に乗る気があったというなら別だけど違うって言っていたわよね?」
翠は智子には、光行が晴汰にとどめを刺したのではと疑っているだとか、AIに晴汰の脳パターンが取り込まれているといった生々しい話はしていない。そのため、事態の理解は軽いものになる。
「やっぱり誤解している気が」
「その社長さんがそれでいいって思っているんだったら、それこそ車とあなたのお兄さんにしか興味が無いのね」
大事な前提を知らなくても、智子の言うことは結論は合っていた。光行は本当に、車と晴汰にしか興味が無いのだ。そして翠もまた、光行にそういう意味合いの興味はない。
「幼馴染ってそんなものなの」そうは言っても智子に伝わるか、翠は不安だった。「いずれにせよ、入力作業は終わったわ。後は私は解析の一報を待つだけ」
実は、〝入力が終わったか〟を判定するのは難しかった。故人の思い出を、本当に語れるだけ語り終えることができたのかは、後でああこれもあった、と思いつくかどうかで判定するしかなく、あらかじめ思い出の個数があって、それに到達したかどうか、という判定はできない。
二人の無言がしばらく続いた後に、マイク入力を切って光行が、
「こんなところかね」と言っておしまいになった。
「犯人が見つかったら刺してやる」
「ではなくて僕らが成し遂げないといけないのは警察に犯人を逮捕させることだ」
◇
「信用していいんですかねそれ」
翠にとって信用していいかどうかいまだにわからない男が言った。
「わかりませんが、それがインチキだとしたらインチキで何もわからないだけですし、インチキでないのなら、別にあなたと共有してもそれが妨害される手段もないと思うので、まああなたであっても話しておこうかと。あなたであっても何か良い知恵が出るということも」
「本当に貴女は正直な方だ。内なる攻撃衝動を包み隠しもしない」小野寺もイラつきを包み隠さない。「しかしなんで今やってるんですかね? 亡くなった直後から開始できた作業でしょう」
「今思いついたからじゃないんですか?」
「私は違うんじゃないかと。おそらく彼らはそれより、レベル5のAIを完成させるほうが大事だったんだ。つまりお兄様が車に取り込まれたというなら、生身のお兄様よりデジタルなお兄様のほうが大事なんじゃないか」そこまで小野寺はまくし立てて、こう続けた。「まあいいです。私が抱いた疑惑が証明されるとしたら、記憶映像に犯人と共に上坂氏の姿が映った時というわけですな」
「そういうことになると思います」翠は前半に相槌を打つのは面倒だったので後半にのみ相槌をうった。
「上坂氏自身が刺したと言う可能性もまだ残っていますが、その場合は上坂氏が出てきた画像を隠匿するはずだから何もわからないと」
「そういう話をするところがあなたの嫌なところだと思いますが残念ながらその通りです」
◇
「お祖母ちゃん」
「ああ……」
もう最近は、智子はタキと会話らしい会話をしていない。
「蜜柑食べようか」
「ん……」
「あーんして」蜜柑をタキの唇に押し付けて、ようやくタキは口を少しだけ開く。「よく噛んでね」
そう言っても口から果汁がこぼれ、智子がタオルで拭いてやる。
タキは、認知症患者末期の、ほとんど何も反応できない状態になっている。
そこに思考はあるのか。
そこに感情はあるのか。
感情と見えているものは、何かの入力にわずかな出力が返っているだけの機械的な反応ではないのか。
智子も、タキの結果を待つだけの立場になっていた。
◇
さらに半年ほどが経った。半年のあいだ、光行のワンルームのPC群はひたすら解析を続けていた。排熱の問題があり真冬でも冷房を必要とした。社長室のほうがよほど広く、空冷ファンの騒音もなく、仮眠ベッドは万年床より快適で、光行は多くの場合そこに泊まった。
いったん始めた解析に手が貸せるわけでもないので、光行は仕事に邁進していた。レベル5の発表時は、中堅の自動車メーカー一社への組み込みが決まっていただけだったが、国内の全ての自動車メーカーと、北米や欧州の多くのメーカーとの契約を光行は取り付けた。
というファードライブの快進撃を翠は快く思ってはいなかった。〝記憶のない晴汰のデジタルコピー〟であるから〝晴汰ではない〟という論法だったのに〝記憶があるかもしれない〟という話になったので自動的に〝晴汰であるかもしれない〟ことになるが、そのあたりを光行は盛大に無視してともかくこのデジタルコピーを世界中に作ろうと邁進していた、ということになるからだ。
国内への出張は、相変わらずひとり社用車に乗って、相変わらず助手席に乗って、〝ドライブ〟をしている。という状況はたびたび善一から批判を受けているが、光行はのらりくらりと逃げる。
(やはり……初めから考えるべきだったか……しかし……うん……)
そして光行は翠に〝画像が出てきた〟というメールを送った。
〝結果が出た〟ではない、何とも歯切れの悪い表現だったが、ともかくまたあのワンルームに来てくれとも書いてあり、翠は智子がまた危機意識がどうのと言うかな、と一瞬思いつつもまたそこへ向かった。
当然のように危機などはなくて、その代わり光行は開口一番こう言った。
「これ、誰だと思う?」
10 正しい嘘により鳥は飛び立ちぬ
この質問は設問の時点でおかしかった。そもそも光行と翠と共通の知り合いなど、ごくわずかしかいない。だから、この設問は
「これ、(数少ない我々共通の知り合いの中では)誰だと思う?」
という意味になっている。
そこに写っていたものは、ある人物に見える気はするがそうではないと言われれば? という、かなりぼやけた像でしかなかった。
「他にはないの」
「あるけど」
複数枚出てきたものは、どれもこれもぼんやりとしている。
ただぼんやりとしてはいるが、同じような背格好、同じような衣服ではないかと思えるものだった。
「手続き記憶に紛れ込んでいるエピソード記憶は結局、ごくわずかなものでしかない。この画質が精一杯だ」
視界に複数の人物は観測できない。つまり、このひとりの人物が犯人ということで間違いはない。そして小野寺と話したように、その犯人が光行自身なら光行がそもそも画像自体を隠匿するから、光行はシロ……と言って良いものかどうか、いまひとつ翠には確信が持てなかった。
そして画質が悪くとも、こんな不思議な問いかけをする以上、光行は犯人の目星がついているのではないか? そう思いながら翠はその、とある人物の名前を口にした。
「やはりそう思うか。確かに、殺す動機を十分に持っている。もっと早く気づくべきだった――。僕も同じ動機を持っているが、それをはるかに凌ぐ殺さない動機がある。だが、こんな画質であれ手がないわけではない。ここからはちょっと賭けになる」
◇
第五会議室は、第四までと異なりファードライブAI本社の少し奥まったところにある。
「どうした? こんなところに呼び出して。そしてゲストもお連れとは。確か前にご自宅に伺わせていただいた、田宮君の妹さんだ」
「早速本題に入る。この画像について説明してもらおうか。お前がハルタを刺す瞬間がはっきりと写っているだろう、善一」
◇
「手としては、ハルタのAIではなく、一般のAIの助けを借りることだ。つまり、画像生成AIだ」
「画像鮮明化AIじゃないの? カメラやテレビの宣伝でよく言っている」
「いや、画像生成AIだ。画像鮮明化AI程度では、これだけボケていれば無理だ。具体的にはi2iというのを使う。これはimage to imageというもので、text to imageと異なり、元となる文章だけではなく、参考となる画像を入力とする。文章もあるので、厳密に言えばtext&image to imageと言うべきだが、慣例的にそう呼んでいる。『この文章で表される、この画像に似た画像を生成してくれ』i2iを簡単に言うとそうなる」
「わかったようなわからないような」
「よくフェイクニュースの画像生成に使われる、と言えばイメージしやすいかな」
「それって要するに……〝嘘〟っていうこと?」
「それは嘘の定義にもよるというものさ」
◇
「なんだこれは……俺が田宮君を殺す? 冗談言っちゃいけない。むしろ生かそうと頑張った。唯一の生かす方法がN研究所だった。こんなもんフェイク画像に決まってるだろ。ディープフェイクが社会問題になってることを知らないお前でもあるまいよ。俺やお前が、自動車メーカーのお偉いさんと枕営業して契約を勝ち取った証拠写真とかいうのが出回って法的措置だって取ったじゃないか。なんでこんなものに騙されてるんだ。そもそもこんな写真が撮れるわけがない。あの路地には田宮君と犯人以外誰もいなかったんだから」
「へえ」光行の唇の端が動いた。「今の聞いた? 翠ちゃん」
「はっきりと聞こえたわね」
「善一。どうして誰もいなかったのに、誰もいなかったことをお前が知ってるんだ?」
次に光行と翠が聴いたのは、善一の小さな舌打ちだった。
翠はバッグを握りしめた。
◇
「ハルタと車に乗って行って見た景色があるんだ」
そう言って光行が翠に示した写真は、切通しに日光が差し込み、上のほうの岩石の形状が作る間隙が独特の形を見せていた。
「鳥みたいだろ」
まるで鳥が未来へ向かうかのように、希望に満ちた美しい写真だった。
「だが、この写真は生成AIに作らせたものだ。本当は、これを見た瞬間、カメラを構えた時はもう、その景色は消えてしまっていた。一瞬の光線の具合だったんだろうね。その時の記憶を留めておきたくて、その時に見た記憶を、何度も何度もAIに指示して、何とか作らせた画像がこれだ。……じゃあ、だからといって、僕とハルタとの思い出は、嘘ということになるだろうか」
光行はその画像を見続けて、翠のほうには一瞥もくれなかった。
「あの時、僕たちの網膜に写った映像は、この写真とは絶対に異なるはずなんだ。僕たちの体験に限らず、脳の記憶と言うのは、どんどんと改竄されていく。徴兵され戦争を経験した老人の殺した敵兵の数が年を追うごとに増えていったりする。世の全ての思い出と呼ばれるものは、もしその網膜に写った映像と脳内の映像を比較する手段が存在するなら、像がぴったり重なるケースなど無いだろう。裁判で、証人と、証言とされるものは、そうやって日々改竄されてゆく脳の記録がもたらした、物理的真実とは少しずつ異なる便宜的な真実でしかない」
翠は、そこまで聞いて強弁だと思った。大切な友を殺されて、光行はいまだに少しおかしい。だが大切な兄を殺されて、翠もまた少しおかしくあり続けているに違いなかった。晴汰の無念を晴らしたい、という想いが光行を、翠を動かしているに違いなく、その点において、その点だけにおいて、光行と翠の想いは一致しているようだった。
◇
「そうか」善一は視線を逸らした。「わかってしまったか……残念だよ」
「どうしてこんなことを……!」この光行の声は、およそ翠も善一も聞いたことがない荒げかただった。
「理由は、お前もわかっているはずだ。俺もお前も同じ動機を持っているのだから」
「なぜ! 非破壊的な検査方法を開発するまで待てなかった! 人ひとりの命を奪って良いわけがない……!」
「実験動物の命は奪ってきたがな……実験動物という概念は、価値の高い命のために、価値の低い命を犠牲にすることに他ならない」
「お前は! ハルタの価値が低いと言うのか! ハルタは、僕の大切な、」
「それでは大切なら価値が高く、大切でないなら価値が低い、ということになるが」
「貴様……」
「なるのさ。お前は、お前の命は、途轍もなく価値が高いんだ。人類すべてにとってお前は価値ある存在なんだ。お前は、その価値あるお前を最大限活かすべきなんだ。なのにどうして、隣に彼を置く? どうしてドライブなんて価値のない作業に、お前の脳細胞を費やしてしまうんだ? 言ったはずだ。お前の頭脳は、俺の頭脳とコラボレーションしなければならん。そうして高い価値を創り上げる。人類の理想という目的を実現するために、お前の隣にいるべきなのは――」
「創るとか、目的とか関係ねえんだよ。真の友というのは、一緒に何かを達成する奴じゃない。同じように前を向いて、ただ一緒に歩いてほしい人間のことだ……」
光行は善一のほうに歩み寄り、胸ぐらを掴んでゆさゆさと揺らした。
「僕は! お前を絶対に許さない!」
11 今までで一番遠くへ
翠はバッグに手を入れた。冷たい感触がありそれを取り出す。
「あなたが……兄を……本当に……」
善一は、翠の足元も、肩も、ナイフの切っ先も震えているのを見て取った。
「おい、お嬢さん……やめてくれよ……君のお兄様も大変に価値ある人物だったんだ。運転技術は、光行でなくても舌を巻く。その点において人類の宝だったんだ」
「翠ちゃん、やめるんだ。こいつは君が手を汚すほどの価値もない、ただのクズだ!」
「お嬢さん。君のお兄様には頭脳はなかったかもしれない。だが技術というのは、頭脳よりもさらに稀有なもので、そういう意味では私や上坂以上の存在といえる。お兄様には確かに申し訳ないことをしたが、お兄様は星になったのだ。人類の希望の星に。素晴らしいと思わないか。私や、貴女や、上坂が死んだ後ですら、お兄様は人類の希望の星として輝き続ける」
「最低だ……お兄ちゃんはあなたの道具じゃない」
翠は腕を伸ばし、切っ先をより善一に近づけた。そして腕の角度を変えて切っ先の延長線を切り替えた。
「光行さん。約束したわよね。犯人を突き止めた後に刺したければ刺せばいいと。城戸が一番最低だけど、あなたも結局お兄ちゃんを友情ごっこの道具にしてる。二人ともお兄ちゃんを永遠に生きる地獄に閉じ込めようとする。だから、私、貴方を刺します。犯人を刺したあとに、光行さんを刺す。そういう順番。私にはそれをする責務があるの。みんなが兄の気持ちをわかることができるように。だから同じ刃渡りのものを用意したわ」
もう一度翠が切っ先を善一のほうに向け、そして翠はナイフを両手で持って身体の中心に構えて善一のほうに走り寄った。
「やめろ! こいつは警察に突き出すんだ!」光行は翠の手首を掴み、さらに腕をねじった。翠が悲鳴をあげ、手の力がゆるんだ隙を見て光行はナイフを取り上げた。
◇
智子は施設から連絡を受けて搬送された病院に駆けつけた。
認知症末期の典型的な事象で、誤嚥障害を要因とする細菌感染がもたらす肺炎だった。
タキは酸素吸入こそされていたが、あらかじめの家族――といっても智子ひとり――の同意のもと、積極的な延命はしない方針になっており、あとは病室に呼吸音と測定器の電子音が鳴り続けるだけになった。
智子は前から考えていたことをいまもまた、何度も何度も考えていた。
今ここで息をしているからといって、果たして生きているといえるのか。
ここにいるのは祖母なのか。
祖母に似た何かの肉体なのか。
これから、自分は人が人でなくなる境目を目にするのか。
そんなことは考えてもしかたがなかった。
医師が計器を見て、こくりと首を縦に振り、
「15時53分」と言った。
「お祖母ちゃん。お疲れさまでした……」智子はタキの手を握りしめた。タキの手はまだ温かかった。「ありがとう」
◇
善一が目を剥いて光行のほうを見た。
翠は悲鳴をあげ、そのまま尻もちをついた。翠の視点からは腹部は見えず、しかし赤いものがぼたりぼたりと落ちて床に反跳してそこらを汚した。
「僕は……お前を絶対に……許さない……」
善一は光行を見た首の角度のままくずおれた。善一自身の内部から垂れた血液の上に臀部が着地し、その衝撃で飛沫が翠の顔にまで飛んだ。
「お前らの絆って……本当に気持ち悪いよ……もったいない」
「黙れ!」もう一度光行は刺した。「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!」
そう言って〝黙れ〟一回ごとにひと突きした。
「光行さん……やめて……もう……」
善一が、一瞬前まで善一だったものがぐったりとすると、光行は突然衣服を脱ぎ始めた。脱ぐと、ワイシャツの下にさらにビニール袋の層があり、さらにその下に新たなワイシャツがあった。ズボンも同様に二重になっていた。
表面の層とビニールの層を脱ぎ捨てた光行は、血飛沫の無い綺麗な体になって、会議室から駆け出して行った。
向かう先は屋上だった。
「あ、社長。ちょっと遅かったです? それじゃ出発しましょうか」
何も知らないヘリコプターのパイロットは呑気に離陸した。
光行の胸ポケットにはSSDがあり、光行はそれを握りしめると、こう言った。
「ハルタ。今度の出張はだいぶ遠くへ行くぞ」
会議室に残された翠は、善一の血が流れてくる床に手を突いた。
「あの人は、あの人は全部奪ってった! 復讐のチャンスも! お兄ちゃんも! 何もかも、全部!」
そう言って泣き崩れた。子供のようにわんわんと泣いた。
それでも奥まった会議室を選んだため、騒ぎに気づいて誰かしらが駆け付けたのは、これより一時間後のことだった。
[announce]
世界で初めてレベル5自動運転を実現したことで知られる日本のベンチャー、ファードライブAI株式会社本社で、昨日16時ごろ、殺人事件が発生しました。
被害者は、同社、城戸善一副社長です。警視庁は、その場に居合わせた女性の証言、および、犯人が故意に現場に遺留したと見られるボイスレコーダーの内容から、同社社長、上坂光行容疑者の犯行とみて、行方を追っています。
同社では、一昨年にも、同社運転手、田宮晴汰さんが殺害される事件が発生していましたが、警視庁はこちらの事件については、城戸副社長による犯行と判断、被疑者死亡のまま検察庁に書類送検しました。
上坂容疑者は、殺害直後、手配していたヘリコプターにて空港に向かい、そのままプライベートジェットで××国にいったん入国した記録が残っていますが、その後の足取りはつかめていません。逃走経路を事前に準備していたことから、計画的犯行とみて、動機の解明もあわせて行っています。
12 猥褻に隠された便宜的美女
「わざわざボイスレコーダーを落としていったんです?」
「はい。一部始終を録音したあげくに」
翠は小野寺に事情を話すことになったのはもちろん、事件らしい事件がはっきりと起こった以上、ジャーナリストたる小野寺が一度関わった人間に接触しないわけがないからだった。
「あなたに疑いがかからないようにしたんですね」
「そのようです」
「嬉しかった?」
「まさか」
「ですよね。そういうのが正義にかられた人間の身勝手なところで、英雄的ふるまいに酔いしれてしまう。自分の思想を他人に押し付けてしまう。それも含めて計画的犯行だったわけだ」
「自分が罪を全部背負うのと引き換えに全部持って行ったんです。今でも刺すのが自分だったらと何度も思います。本当に勝手な人だったんだとわかりました。私がナイフを上坂に突きつけたこともあるのに、あの時所持品検査をしなかったのも考えてみればおかしかったんです。私が持ち込んでなかったらどうするつもりだったのかはわかりませんが」
「私が犯行するとしたら、自分も予備を懐に忍ばせておきますね。しかしまあ、ファードライブもさすがに解体ですわな。社長と副社長が殺人犯でした、なんてところと取引する奴はいない。社員は散り散りになってどっかに吸われて、あのAIもどこかしらが継承するでしょう」
「そう、そうなんです。事件は、まだ半分しか終わっていない」
「上坂逮捕までは終わりませんな」
「違いますよ。上坂が逮捕されるかなんてどうでもいいことです」翠はこの日初めて小野寺を正面から見つめた。「大事なのは、兄が鉄の箱の中で永遠に生きるのをやめさせることです。人は、自然人として生まれた人は、自然人として死ななければならない」
「それもひとつの思想です」
「一歩間違えれば神の領域でしょう? そんなのは、危うい。人は人であることを忘れてはいけない」
「しかし、よしんば成功しても、それは無数のお兄様をもう一度何重にも殺すことになる。AIをお兄様と認めるならば」
「城戸にも似たことを言われました……覚悟の上です。まだ、私は兄の葬式をきちんと終わらせることができていないのです」
「それを抜きにしても、容易ではないですよ。いくらでもコピーできるのがデジタルデータなので、美術品などと違って奪い返せば良いというものではない。法律で禁止させるなどするのなら、まず世論が、政治が必要になる」
「どうやればいいのか、正直わかりませんが、何とか手がないか考えてみます」
「私は真実を明らかにすることが本分でね。世の中には社会正義を述べて人を教化するのがジャーナリズムだと思ってる奴らも多いが、殺人は全て明るみになったので、私はもう興味はないというか。頑張ってください」
「そういう社会正義系の人に、お知り合いはいませんか。そういう方が記事にしてくだされば」
「そういう手合いとは仲が悪くてね。だからフリーランスをやってる。だが、もし貴女が、祀り上げられる覚悟があるんなら――ひとりだけ紹介できる人間がいる」その瞬間だけ珍しく小野寺は唇の端のほうにだけ微笑を浮かべた。「私の妻だ。インフルエンサーなどというわけのわからない職業をやってる。お互い仕事には干渉しない」
◇
「初めまして、大野寺と申します。夫からお話はおおかた。いつも旧姓で通しているのよ」
「えっと……」翠は硬直した。苗字から勝手なストーリーが思い浮かんだけどそれはあまりにも勝手すぎるので必死に想像を打ち消そうとするのに気を取られすぎて何もできなくなってしまったのだ。
「夫とは仲は良いし対等な関係を結んでいます」大野寺はそれを見透かしたように情報を追加した。
「え」
「誤解されることが多いので。ところで、貴女お化粧したことある?」大野寺は顎に翠の顎を両の手の指先に乗せて値踏みするように見た。「お肌も綺麗」
「あまり……興味がなくて」
「もったいない。素材はとってもいいのに」
「ちょっと小野寺さんに確認し忘れたことが……小野寺さんは社会正義系の人とは仲が悪いと言っていたのに、どうして大野寺さんとご結婚されたんですか」
「そういうこと面と向かって訊く!? なるほど、肝が据わってるわ。修羅場を潜り抜けてきただけあるわね。でも私、社会正義系の人じゃないわよ。インフルエンサーだもん。自分が正しいと思うものだけ世の中に広めるのが正義の味方。私は、正しいものじゃなくて、面白いと思ったものを世の中に広めるの」
修羅場とか、正義の味方とか手垢のついた言葉を小野寺が発すると、それに対する嫌悪が混ざっているようにしか翠には聞こえなかった。
「そして私は貴女が気に入った」大野寺はにっこりと笑った。「小野寺も貴女のことは気に入っていたみたいだったわ」
「とてもそうは見えませんでしたが」
「声も綺麗ねぇ……これはこのままでいいわ。このままがいいわ。やはりお化粧ね」
「真実を広めるのにお化粧が必要ありますか!?」
「もしも貴女が革命をしようと言うのならね。いかなる世界線のジャンヌ・ダルクも絶世の美女でなければならない」
それはルッキズムというやつではないのか、と翠はため息をついた。
[on air]
私は今、世界初のレベル5自動運転AIで一躍有名になった、ファードライブAI社の前に来ています。ここで先日、陰惨な殺人事件がありました。驚くべきことに、ついこの間までがっちりとタッグを組み、画期的な製品を生み出したと思われていた二人、その、社長が副社長をメッタ刺しにして殺害するというものだったのです。遺体には11か所の刺し傷があり、よほどの深い怨恨があったものとみられます。そして被害者である副社長自身も、一昨年同社で起こった殺人事件の犯人と見られています。二人は同じ大学の同期で、成績も優秀でした。順風満帆なエリート二人は、いかにして転落の人生を歩むことになったのか。番組では、その謎を迫ってみたいと思います。
翠はその放送を大野寺と一緒に見ていた。現地リポーターの次に続くのはナレーションだ。
『事件現場にいて、一部始終を見ていた女性がいた。取材班は、その女性と接触することに成功した』
「リポーターもナレーターもいい声ねぇ……始まったわ」
『はい。私は……社長さんと、幼馴染で。どちらかというと、兄が幼馴染で。私はただの金魚の糞といいますか……』
「この台本ちょっとひどいというか」
「あなたは悲劇のヒロインなのでつかみは慎ましくないと同情を買えないの」
写った映像は、顔にモザイクが入っており、実に怪しげな図になっていた。
「でも、この声はやはりいい。悲劇の主人公にふさわしい澄んだ声。リポーターもナレーターも力強い声だけど、それは脇役のための声で、貴女の声は天性の主役声。貴女は世が世なら国をひとつ傾けられる」
「どうだか。ボイスチェンジャー通させる交渉はしなくて良かったんですかね。〝音声は変化させています〟ってワイドショーの定番じゃないですか」
「どうせ後で素顔出すんだから」
「じゃあモザイクもかけなくていいんじゃありません? 猥褻物みたいですよ!」
「声と顔は違うのよ。登場をもったいぶって世間の関心を引くのが目的なの。そこで隠すのは一要素! ゼロ要素でも二要素でもいけないの。一要素を選ぶならどちらにするかは自明でしょ。顔出しして声隠しておいて実はこんな美声でした、なんてので話題をさらえると思うの?」
しかし、大野寺が書いた渾身の台本も、放送の尺に合わせて容赦なくぶった切られてナレーターが要約する。一昨年殺された運転手の妹で、といった解説をさっさと流暢に済ませてゆく。
「あー、なんでそこ切るかなあ!」
果たしてこの人に任せておいて大丈夫なのだろうか。翠は不安になった。
13 生者の信仰
大野寺の指導で人並みOL程度の化粧スキルを身に着けた翠は、顔出しをすると間もなく狙い通り絶世の美女という扱いを受けた。
鏡を見てもどこにも絶世の美女は映らない。しかし悲劇とセットでそういうことにしたい人の欲望によって、そういうことになってしまう。果たして化粧は必要だったのかどうか。
〝惨! 人間コピー男に翻弄された美女の悲劇〟
〝自動運転の風雲児の心の闇・血塗られた会議室〟
〝友情と激情の果て・河を渡って遠くへ行ったお兄ちゃんはすぐそばに〟
見出しポエマーの独特の才能に心の中で舌を巻くのと出すのを同時に行ったりしながら、翠は彼らの欲望を満たしてやった。
「今のところは会議室で起こった殺人を涙ながらに語ってください。本心は隠して」
名を売る段階では、本来の主張は隠しておき、それはそれとして翠はその裏で演説の練習をした。演説の能力は悲劇を潜り抜けた者が生得的に持っているものではなく、演説を求めた者だけが演説を得るんです。大野寺はそんな言い方をした。
演説の練習は要するに演技の練習だった。脳をコピーされ永遠にしかも多重に生かされること、それがどんなに非人道的なものであるか、翠は十二分にわかっていたが、わかっていることと伝えられることは別の話だった。
悲劇のヒロインから活動家へのシフトの第一段階として、今もっとも使いやすいのは動画投稿サイトだった。とはいえ、良名も悪名も売りまくっている人が大量にいるレッドオーシャンで、頭ひとつ抜きん出るためにはきっかけが要る。そのために週刊誌やワイドショーの欲望を満たしておいたのだった。
「噛んでる」
翠は、自分の学芸会的な映像を見るのが苦痛でしょうがなかった。
「野球選手が自分のフォームをビデオでチェックするのと同じこと。正直、何を達成すれば魅力的になるかというのはスポーツよりさらにわかりづらいけれど、自分すら好きになれない人の言うことを聞く気になる人はいないから」
そんな風に言われるとだんだんそうかもしれないという気になってきて、僅かずつ演説に魂がこもってきた。悪く言うと自己陶酔が少しずつ入ってきた。
「このぐらいになれば公開してもいいんじゃないかな」
動画のPVは比較的順調に上がった。比較的順調に上がるのが翠には気持ち悪かった。匿名コメントなのをいいことに『翠ちゃん抱きてえ』などと露骨なコメントをつけるものが現れたが、〝不適切なコメントを削除するAI〟なるものが削除してくれるので、翠の目に触れる機会は少なくて済んだ。
美女ということになっている効果で、PVは順調すぎる上がり方をした。削除AIのおかげで不純な閲覧動機の闇が覆い隠されているのかどうかよくわからないというもやもや感が無限に増幅され、翠はますます気持ち悪くなった。
しかし気持ち悪い気分を体験するということ自体が、翠には目的達成のための代償のようにも思え、それは不快が快に、快が不快にと互いに移行しあって不安定な平衡状態が作られているともいえた。
◇
動画共有サイトの社長が会いたい、というので翠は会った。とてもたまたまだが、小野寺と初めて会った喫茶店だった。
初心者配信者としては非常に健闘しているものの、稼ぎ頭とは言い難く、なぜ社長じきじきに会おうというのか不明だった。社長は藤澤啓輔と名乗った。
「ごごご、ごめんなさい会いたいとか申しましてその、その翠さんの、ボクはふぁふぁ、ファンでして」
どこの世界に自分が運営しているサービスの利用者の、成績上位ともいえない人間のファンになる社長がいるのだろうか。しかもこんな挙動不審な雰囲気を漂わせながら。翠は訝しんだ。
「ただその、翠さんに悪い虫といいますか、悪いコメントがついたりしているので、こうボクがAIで駆逐させていただいているわけでして、気に入っていただけたかなと」
翠はたまにしか悪いコメントを見ていない。つまりこのAIの動き自体が不可視化されているも同然なので、気に入るも気に入らないもない。ただ駆逐という言葉の過激さは気になった。
「はあ、ありがとうございます」妙に社長とAIに縁のある人生だなという点も、ますます翠を気持ち悪くさせていたが、サービスをBANされるわけにもいかないので、それはおかしいですよと意見するよりも当たり障りない返事を翠は返した。
「ですが、……翠さんは何がしたいんです?」
はあ? と翠は思った。自分のファンを公言しながら、この男は自分の動画を見てもいないのか?
「ですから、脳をコピーしたAIの使用をやめさせたいと」
「誰に」
「今のところは車載AIを搭載する自動車メーカーさんに」
「では、首尾良く自動車メーカーさんがやめてくれたとします。どうやって翠さんはそれを確認するんです?」
「公式発表を信じるしかないでしょう」
「では、公式では使っていませんと言いつつしれっと使っていたら、翠さんにはそれを知るすべはないですね」
「それは……」見れば先刻の目つきはどこへやら、啓輔はすっかりビジネスマンの鋭い目に変わっている。
「検知する仕組みが必要なんですよ。脳コピーAIに特徴的なパターンが存在しないか、常に監視してそれのインストールや起動を防ぐ仕組みをメーカーに組み込ませなければ意味がない。アンチウイルスみたいな仕組みです」
「あなた、私の兄をウイルス呼ばわりですか!?」
◇
四十九日を迎え、智子はタキの納骨をした。
秋晴れの中線香の煙があがり、僧侶の読経を聴きながら智子は手を合わせた。
真っ白な骨になり、そこにいかなる意識も心もなかったが、骨壺の中はたしかにタキという、ヒトという存在だった。今この瞬間よりも、タキが智子のことを忘れ、見たこともない怒りの表情を浮かべている時がいちばん、智子がタキをヒトとすら思えなかった時間だった。
死者は死者というだけで、敬意を払われなくてはいけなかった。生者のように、良い感情も悪い感情もぶつけあう存在にはなりえなかった。そんな差分があるのでは、死者はヒト扱いされていないことになるが、そんなことを考える人間はいない。いるとしたらヒトでなしだった。
◇
「ウイルス検知と同じ仕組みが使えると言っただけです」
「死者を貶めるものです」
「敬意は払っておりますが生者のほうがより敬意を払われる価値があります。この世は生者のために存在するのであって、死者のためには存在しない。ボクが言いたいのは、今すでに、アンチウイルスの仕組みをワンチップに凝縮したチップをボクたちは持っています。これをベースに、そんな非人道的なパターンをも検知できるようにする。今、AIは極めて便利であると同時に、それを使う側のモラルが実質無法地帯であることが問題になっています。今、AIを人間と共存させていくためには、早い段階で倫理性の仕組みが必要で、今こそそのチャンスだと思っているんです。今のままでは、翠さんは理想論を述べるだけで人の心は打つかもしれないけれど実効がないんです。これが実効させる唯一の方法だと思います。なので……」ビジネスマンモードはどこまでも流暢だった。「ボクたち、手を組みませんか」
14 ながい葬式の終わり
「広告塔!?」
「なんかいつの間にかそういうことになっていたわ」
また社長なので、智子は啓輔との関係について疑い、また玉の輿なのかと訊いた。またも翠はそういうのじゃない、と答えた。
「何か私のファンらしいけれど」
「だったら向こうは気があるんだからそういうのにすべきじゃないの。お得な人生が待ってるわ」
翠は返事をするかわりに溜息をついてそういう話を打ち切った。
お互いがお互いの目的を達する最良の手段が、翠が広告塔になることだという、それだけの話だった。
啓輔のアンチウイルスチップは人道チップと名称を変えてすでに国内のすべての自動車メーカーに組み込む契約が為されるようになった。
翠が倫理を、人道主義を、道徳を説くと信者が増え啓輔のチップがまた売れる。
「Win-Winの関係ですよ」啓輔はビジネスマンが使いがちな用語を使って翠との間柄を説明する。「な、なので今度、ボク、と食事、に、行きましょう」
何がなので、なのかわからない。話が繋がらない。ビジネスマンモードとファンモードの人格が繋がらない。二つのモードの啓輔は同じ人物か。生身の晴汰とAIの晴汰は同じ人物か。
でも食事には行った。動画投稿サイトにAIと手広くやっているぶん、啓輔は光行よりはるかに富豪だった。豪華な内装や百万ドルの夜景的な、いかにも〝高級感〟感を演出するものはそこそこの水準をクリアしているだけで、何より口に入れた瞬間に称賛の感情が脳内を駆け巡る、そういう料理だった。
つまりは愛されているということになるのだが、要は過剰な愛情ということである。しかし翠の過去を顧みれば、たまたま愛情が恋情という形式をとったものは無かったものの、友情だったりビジネスパートナーだったりの形式をとったものに翻弄されてきた。
全ての大きすぎる感情が執着としか捉えられない人生を翠は送ってきた。だから、翠は過剰な愛情を向けられても足を竦ませるしかなかった。
「今日、会社が爆破されてね」そんなことを啓輔はぽろっと言う。「人道チップの対象をどんどん広げていかないと」
その言い方は本当に、ぽろっとしていた。事も無げというのでない。さりとていかにも深刻に、それこそ翠の演説みたいに言うのでもない。
ある日そこにいた人が、次の日突然いなくなる。そんなことが起こってしまいそうな、ぽろっ、なのだった。そういうのは翠は嫌だった。それも、愛情だろうか。それとも執着だろうか。ただ、単純な感情だった。人の感情はこんな風に単純であるべきだった。
だが、突然いなくなる、が起こるのを、人道チップが止められるのかどうかは未知数だった。正直、これが世にあまねく広まるのは寡占であるとすら翠には思えた。
正直、世の中が人道チップで良くなるかどうか、翠にはわからない。だが翠の目的には近づいてくれる。
翠は世直しをする気はなかった。それも執着であるにしても、目的を達する、という意思しかなかった。啓輔は、世直しをしたいのか、どうか。
「ボクはこの世から非人道的な車を無くしたいんだ」
非人道的な車。翠は単に晴汰AIを載せられたくないだけだった。
しかし啓輔の言い方では、かつて晴汰が、光行が熱狂した、旧式の車は全て非人道的な車ということになる。すると晴汰ですら、人非人ということになるのだろうか?
だがともかくも、〝非人道的な車を無くす〟ことで晴汰が永遠に生かされることはなくなる。
そのために、倫理を一企業が寡占する。
かつて、誰もネット検索の重要性に気づいておらず、あっという間に検索企業が世界を支配したように。
かつて、ミサイルの弾道計算程度の用途だったコンピューターが、今や人類はそれ無しでは生きられないように。
人類を、製品なしで生きられないように仕向けることで、製品が世界を操作できるようにする。嫌な言葉を使えば、翠は世界征服に手を貸しているかもしれなかった。
世界征服をたくらむ企業とみなされればこそ、爆破もされるのだろう。
啓輔には啓輔の野望があり、
翠には翠の野望があり、
野望に満ちた倫理が世界を支配してゆく。二人は目的によって繋がっていた。
光行の言うように、真の友に目的など関係ないのなら、目的で繋がっている以上真の友ではないのだった。
「明日は政治家に請願に行くの」
「ありがとう、お願いします」
レストランからの帰り道、翠は啓輔の横顔を見た。今ビジネスマンモードかファンモードかわからなかった。こんな風に食事をしても、そのあと二人に何か起こることはなかった。
起こることを望んでいる人たちは世の中にたくさんいた。それは祝福したい人たちよりも、二人を呪いたい人たちのほうが多かった。
今もネットには二人がズブズブの関係だの、二人は男女の関係だのと根拠なく書きたて、いろいろと爆破したい人たちがたくさん生息していた。
啓輔がある日突然消えるのは嫌だったが、それぞれの野望の達成のために、そんな人たちの好餌を撒いてはいけないのだった。
翠はすでに、偶像だった。アイドルは清廉潔白でなければならない。アイドルは化粧室に本当に化粧をしに行く。アイドルは皆のものになるために誰のものにもならない。
◇
国内のすべての車を含むAIに人道チップの搭載が法的に義務付けられた。これにより、新車に限らず全ての国内の車に搭載されることになる。
独禁法回避のため、人道チップのハードウェアはオープンソース化された。定義ファイルの管理と更新は、逆に誰でも発行できるようにしてはセキュリティホールとなるため、啓輔の会社で一元管理されたが、国からの監査人が入った。
法が施行されても、人道チップの監視の目を逃れたAIがどこかには存在するかもしれない。それでも空にまたたく星がひとつまたひとつと消えていくイメージが、翠の脳の中にずっと棲みつき、最後の星が消えた。
「泣くんだ」頼んでもいないのにそばにいた智子が言った。智子に限らず、ファードライブの悲劇は全国民の知るところになっていた。「もう泣かないかと思った。翠すごく強くなったから」
「なんだそりゃ……」
翠が相続し、光行に中身だけプレゼントされた車は、会議室の事件以来ずっと動かしていなかった。ということは、晴汰を削除することもこの日までできなかったということだが、この日廃車にした。
「お兄ちゃんはね、眠るの。そして、二度と目覚めないの」
それがあるべき、人の安らかな死に方だった。
翠の長い長い葬式は、この法の施行をもって、終わった。
ひとまず。
エピローグ
日本から全ての晴汰が消えてから20年が経過した。
日本が夜の頃に昼になるような遠い国で、プスンパスンという不穏な音を立てながら走る一台の車があった。
助手席にだけ男がひとり乗っていた。あるバラックでそれは停車した。
「おい、半月ぶりのお客だぜ」
年配の男と若い男の二人組は車に寄って行った。
「お客さん、いかがいたしましょう」
「いろいろとガタが来てるから全体的に点検修理できません?」
「お客さん日本の人? ずいぶんと流暢ですな、翻訳アプリ使わないで話す日本人初めて見た」
「いろいろと、スマホ持ってないもんで」
「そこまで若くないけどそこまで爺さんでもないのにスマホ持ってない人類がいる!?」
若者の頭を年配がはたいた。
「馬鹿! すんません若いのが。まあこんな田舎なんで、できる範囲でってことになりますが……ちょっと見せてくださいね」
そう言って情報端子を繋いだが、すぐに声をあげた。
「あれ? お客さんこの車人道チップ入ってないの? さすがにこんな田舎の機器でも入ってない時点であらゆるメンテが禁止されちゃうよ。できるとしたら充電くらいかな」
「そうですか……ここも……ガソリンあります?」
「ガソリン車!? ガソリンのお客さんは一年ぶりだよ! あるけど。おい倉庫から持ってきてポリタンク」
若者が持ってきて給油する。年配は値段を告げる。
「どんどん高くなるね」
「そりゃ需要ないから出回らないし。相場ですよこれが」
男は紙幣を差し出した。
「現金のお客さんは五年ぶりだよ! いや、釣り銭用意してないんだけど」
「じゃあお釣りはいいです」
「釣りはいらない客はいつぶりっていうか映画の中でしか見たことない!」
車はエンジンをかけて出発しようとしていた。
「ここから20㎞くらい北に行ったところにも整備工場あるみたいだからそこに行ってみます」
「そこ10年前に潰れてますが」
「そうですか」
「あー、そういう……でももう修理できるとこ無いと思いますよ」
「お世話になりました」
それだけ言って車は相変わらず不審な音を立てながら去って行った。
「おやっさん、あーそういうって、どういう」
「人道チップないからネットに繋げたら検知されちゃうから繋げられないの。だからマップの更新ができないわけ」
「あーそういう……」
「なんかワケありっぽいな。金回りはいいのに現金払いとか。変な改造車っていうか、一番ヘンなのは助手席に座ってるように見えたけど、レベル4じゃこのへんは自動で走らんしなあ。ポチっとなとか言って押すと助手席側ににゅうって出てくるとか?」
「昔それこそ日本で脳を取り込んだヤバいレベル5があったとかなんとか」
「まさかそんなわけ。ああ、でも聞いたことはある。大昔の幻のレベル5な……しかしいつになったらホントのレベル5はできるんだろうな。俺子供の頃は『みらいのせいかつ』なんて類の絵本にワクワクしたもんだが……月面基地はできないしリニアモーターカーなんて先進国にしか無いしお手伝いロボットもできないし、大人になったら税金がのしかかる生活が待っていただけ!」
◇
また車が停止してしまった。
「どんどん頻度が上がってくなあ。このままじゃいつ復活できなくなるか……」
交通量もなく、そもそも舗装すらされていない、なんとなく道っぽい感じのするところを走っていただけなので、車を脇に寄せようと考える必要もなく、光行は車を降りて伸びをした。
「翠ちゃんも頑張りすぎだよ、国際条約化しちゃうんだもん。大したもんだよ。お前の妹だけのことはある……もう、お前が世界最後のハルタなんだろうな……。またあの手でいけるかな」
光行は手のひらでボンネットを一発ひっぱたいた。キーを回すとエンジンはかかった。
「ひっぱたいてエンジンかかるとかアナログ……お前はデジタルなのに」キーを差し込む都合でまず運転席にいた光行はハンドルをゆっくりと撫でた。「これがいよいよ故障した時がお前の死か」
運転席から助手席に移動して、光行は正面を向いた。
さあ。次はどこに行こうか。北か。南か。東か。西か。
どの方向でもいいけど、まあ、決まってるよな。
遠くへ!
文字数:39859
内容に関するアピール
我々はなぜ、考えることができているのか。
昨今のAIを見ているとますますわからなくなります。AI反対派はAIは人の表現のコラージュだと言い、真の創造性は人間の中にのみあると言います。そこには人間たるわれわれは確かに思考をしているという確信が前提としてあります。
しかし我々は一年の講座を通して、本当に創造的なものを呈示できたのか?
もしそうでないのなら、我々は人ではないのか?
あるいは、我々は普通に他者を認識します。他者が思考した存在であることを前提に認識します。しかし、我々の脳は他者の脳に直結しておらず、結局言葉だけではないにせよ、五感を通してしか他者を検知できません。
ここで、五感の入出力を揃えた、しかし中身は全く別のものが現れたとして、それを果たして人間でないと言えるのか。だったら、五感さえ辻褄が合ってさえいればAIも思考していると言えるのではないか。
そう考えると人間とAIは本来区別できないものかもしれない。区別できないのに、AIはデジタルであるがゆえに複写可能という性質を持ちます。そう考えたときに、死者の複製というモチーフを思いつきました。
ある種ゾンビものとも言えますが、ゾンビをモンスターとしてとらえるようなものではなく、希望あるものにしたい。希望だけではなくて、人間が希望と絶望を併せ持つ存在であるようにAIも扱いたい。そんな思いでこの作品を作りました。
過去に関わりを持った人のなかには、すでに河を渡ってしまった人もいます。
そういう人たちを、さすがに現実に取り戻そうなどと思ってはいけないと思いますが、そんな人がドラマツルギーの核になることを示して、その人たちを、その人たちがかつて存在していたことを、祝福したいとも思うのです。
文字数:741