苦しくて楽しくて、痛い

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梗 概

苦しくて楽しくて、痛い

主人公は熱血系少年野球監督。厳しい指導の鬼監督として知られ、地域の少年野球チームを率いる。だが、チームの参加者は年々減少。隣町の褒めて伸ばす監督のチームにわざわざ行く子供も増えている。
監督を訪ねてきた男があり、子供の流出を食い止める秘策を持っている、として頭部に装着するヘルメット様の機器を示す。脳に作用して気持ちを前向きにする装置だという。監督は、そんな機器など要らん、といったんは一蹴するも、男は強引に機器を置いてゆく。
だが、一番ひ弱なだけに、最も目をかけていた少年Aが退団したがっている、という噂を聞き、まずAにだけその機器を試してみることにする。使い方は、毎日練習後にその機器をかぶるだけ。
Aはめきめきと成長。ある程度経ったら、機器の使用を監督はやめようとするが、すぐにAは駄目になり、やめることができない。練習後に監督とAがふたりきりで怪しげなことをやっているため、Aに秘策を授けてえこひいきしているとか、Aに性的なことをしている等の噂が子供たちの間に立ってしまう。慌てた監督は、全員に機器を使用することにする。
子供たちは嬉々として特訓に励み、チーム全員がめきめきと成長する。チームは、試合をどんどん勝ち抜き、決勝で隣町の褒めて伸ばすチームと対決し勝利、県大会に進出する。
男が再び現れ、県大会進出を祝福する。そして、「PTSD除去装置は有効に働いたようです」と述べる。監督は、「あれはあんな代物か、俺はPTSDなど与えていない!」と怒り出す。
男は、ひるまず解説を続ける。「PTSDは大きな災害などの後に起こることもありますが、小さな刺激の積み重ねでも起こります。この機器はそんな種を摘み取ってゆます。あなたが言う、厳しい練習に喜びがあるのは事実です。ただそれを上回る心の傷があって辞めてしまう子がいるだけなんです」と。
監督は認めず機器を叩き壊す。結果、県大会での試合はボロボロに負ける。
男がまたやってきて、機器のスペアを渡そうとする。
監督は、「お前、何者だ?なぜ一介の地方の一チームに固執する?」と問う。男は言う。「思い出せませんかね?まあ、無理もない、半年だけでしたから。私もあなたにこのチームに育てられ、そして脱落した。監督を尊敬していたし、チームが、野球が好きだった。だから、チームの役に立ちたいと思ったのです。誰も不幸にならないチームを作ることで」
監督は頑としてスペアを受け取らず、男を追い返す。
子供たちは、機器導入以来の活動の喜びと、試合に負けた苦痛やその後の練習の苦痛のあまりの落差に、一人ずつ辞めてゆき、最後にAだけが残る。
Aは特訓で泣きべそをかき弱音を吐き倒れつつも、しばらくすると必ず立ち上がるような少年だった。
物陰から男は二人の特訓を見て、二人は共依存関係にあるのだなと思う。そしてAの苦痛の表情の裏に幸福を見る。
男は「自分はAになりたかったんだな」とひとりごちて去る。

文字数:1200

内容に関するアピール

私はスポーツ全般がとにかく苦手で、熱血・ド根性といった世界とは相いれない人生を送ってきました。子供の頃から学生時代くらいまであった、「どこの野球チームのファンなのか」と質問される、という「贔屓の野球チームのひとつもない人間などいるはずがない」という空気に辟易していたものです。
一般に物語のドラマツルギーとして、主人公の何らかの〝生きにくさ〟というものがあると思っています。この物語は〝熱血〟が肯定されたり否定されたりして生きにくくなる物語となっています。
しかしながら、私は最終的に、監督も肯定したいし、A少年も肯定したいと思って書こうとしています。
最近の「表現の自由」などをめぐる論議で、「自分が快いものだけでなく、自分が不快なものの存在を認めること」の重要性がしばしば説かれています。
監督も、A少年も、私の人生と交わらないかもしれないけれど、どこかに存在していてほしい。そう思います。

 

文字数:393

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それはまるで恋のように

 千本ノックを開始する、と男が叫ぶとはい! という気持ちのいい返事が重なり合って聴こえて、子供たちが素早くグラウンドに散り、守備につく。大晴、海斗、龍紀、朔、蓮、朝陽、碧、悠真、そして葵。黍師町きびしちょうジャガーズのメンバーはぎりぎり九人になってしまった。
 男は近所の少年野球チームの監督を土日を使ってボランティアで引き受けている。名前を武田いわおという。いかにもいかめしい名前だ。用具代くらいは保護者に負担してもらうものの、何の見返りもなく奉仕できるのはこれが商売ではなく教育だからだ。
 武田は球を籠から拾い上げ次々と思い切り打つ。子供だからといって手加減はしない。それが子供に対する、教育者としての礼儀だと武田は思う。
「オラ、球ちゃんと見てんのかしっかり飛びつけ全力で走れ!」
 龍紀が飛びついて取り逃し泥にまみれる。
 海斗は逆に早すぎて球が腿に当たったようだ。うずくまるが怪我というほどのものでないことは見ていてわかる。
 球を投げ返す龍紀がへたった球を投げる。
「おいお前やる気あんのか!」
 子供たちを強く強く育てる。それが自分の使命なのだと、武田はずっと思っている。
「次は素振り百回!」
 子供たちの間を回って、ペースが緩んでいる奴がいたらバットを地面に叩きつけてりつける。むろんこれは厳しさを演じるテクニックであって、内心はとても冷静である。監督を始めたころはゲンコのひとつも落としたものだったが、今どきは体罰をしようものなら一発でクビが飛ぶのでこういう形になる。
 なので代替としてのバットで、長辺と平行に割れてこれでずいぶん駄目にした。球だけを打つ本来の用途に限っていればもっと長く生きられたのはちょっとかわいそうだが、これも子供たちのためなのだ。
 はじっこにいた葵がいつの間にかしゃがみこんでいる。
「いつしゃがめって言った!」厳しく叱責する。だが葵は立ち上がらない。
「もう嫌……やめたい……」そうしゃがみこんだまま言って涙を流す。
「ふざけんな! 立て。今すぐ立て」
 子供なら、立てなくても、泣きべそをかけば大人が慰めてくれるかもしれない。だが大人になってからではそうはいかないのだ。男が社会に出れば七人の敵がいる。七人どころでは済まない。周りじゅう敵ばかりだ。残念ながら世界はそういう風にできている。それが世界の摂理というものだ。そう武田は半ば自分にも言い聞かせている。
 葵がもっさりとした動きで立つ。
「きびきび立てや!」そう言って怒鳴りつける。全ては葵のために。

  ◇

「お仕事お疲れ様です」
「うむ」
 武田の妻の優佳子がお茶を差し出す。武田はひと口すすってから、
「今、仕事って言ったか?」と問い返した。
「いつも会社に行くよりずっと熱心な顔をしていらっしゃるから、こっちのほうが仕事みたいだと」
「我ながら熱意をこめているのは認めるが……ひとり心配な奴がいてな、そいつは何とかしないと」
「葵くんね」
「どうしてわかるんだ」
「毎週その子の話ばかり」
「それだけ心配ってことだ」
「野球が仕事で野球が恋人なのね。私に子供ができなかったばっかりに……」
「そんなこと言うな」
 武田は優佳子の肩に手を置いて何度も撫でた。武田は野球の厳しさとは裏腹に愛妻家だった。しかしそれは、男の甲斐性、という言葉で括られるような、昔ながらの男性像に基づく優しさであった。
「その子にも、優しくしてあげてください」
「馬鹿言うな。厳しく指導しないと、」
「隣町のチームの監督は、褒めて伸ばす方針なのですって」
「天原台ピジョンズか!」武田は声を荒げる。「またこの間ひとりメンバーがそこに流れて、チームはギリギリ九人になってしまったんだぞ!」
 武田の顔が怖くなったので、優佳子はもう何も言わない。下手なことを言わないのがこういう時は一番いいのだと、優佳子は長年連れ添って知っていた。

  ◇

「では、解散!」
「ありがとうございました!」九人全員が同時にキャップを取りお辞儀をする統制のとれた動きに、武田は満足している。その武田に近づいてくる男があった。
「監督。練習終わられましたところで、お話をさせていただいてよろしいでしょうか」
「ん? 誰だ、君は」
 すぐに答えは返らずに、数瞬が過ぎてから、
「実はチームにお役立ちできないかと。科学的に」
「セールスなら結構だ」
「少なくともお試しでお金は取りませんよ」
「つまりセールスだな」
「お試しの美味しいところだけ取るのもご自由でして、私も子供の頃はスーパーで試食だけして買わずに帰ったものです。おかげでパートのオバちゃんに目をつけられました」
 そう言って男は武田に有無を言わさず、段ボール箱を見せ蓋を開けた。中はどう見てもヘルメットだった。
「野球道具は保護者の方にご負担いただいているから売り込む先が違うぞ」
「いえ、これはヘルメットに見えますがヘルメット状の機器です。健康機器だと思っていただければ。被ると、脳の血流をよくして気持ちを前向きにしてくれるんです。これで子供たちを前向きに」
「ますます要らんな。自力で前を向けるようにするというのが俺の教育だ」
「まあそんなことおっしゃらずに。ちょっと試してみるだけでもいいじゃありませんか。試すのにお金はかかりません」
 なんだかんだの押し問答のあと、男は機器を押し付けて帰った。
 武田は妙な押しの強さを感じながらも、ここでこの男と争うよりも、適当に受け取ったふりをして今度の金属資源回収の日に出せばよいか、などと思ったのだ。
 全く使うつもりはなかった。
 しかしあの男の妙な圧は何なのだろう、とだけ武田は思った。

  ◇

「葵が辞めたら八人じゃん、試合できないじゃん」
 翌日の日曜日、朝陽が碧にそう話すのを武田は聞き逃さなかった。
「朝陽。それは本当か。葵は辞めるのか」
「こないだ辞めるって言ってた」
 情報としては不確かと言わざるを得ない。普段から練習中も辞めたい辞めたいと言っている子だからだ。だが、他の子の口を介してそれを聞くのは初めてだった。
 それは、練習中ではないとき、つまり落ち着いた状態で言ったということではないのか? そうとは限らないかもしれないが、そうだとした場合、本当に辞めることになってしまわないか? 
 葵が辞める。そんなことはさせてはいけない。葵があのままであれば、将来絶対に社会に潰される。葵。葵。一度気にし始めると、武田は夜寝る時にすらそれが頭の中をぐるぐる回っていた。

「まるでその子に恋しているみたいですよ」
「何言ってるんだ。子供でしかも男の子だぞ」
「もののたとえです。あなたの恋人は野球でチームでその子だと」
「何を言うんだ」
「寝言でも葵、葵と言っていましたよ」
「なんだと!?」
「嘘ですよ」
 優佳子の言い方は、かえって本当かもしれないと不安にさせるものだった。
 次の週末にまたグラウンドに立った武田は一層不安になっていた。

  ◇

 前向きにさせる、という効果だとしたら、練習開始前に試すのが一番良いのだろう。
 だが、開始前に武田と葵の二人だけ姿を消したら、他のメンバーは何事かと思うだろうし、メンバーの眼前で試せば葵は好奇の目にさらされる。
 やるとしたら、練習が終わってからだ。
 ありがとうございました、と今日も綺麗に声が揃ったあとに、
「葵は残れ」
「え」
「特訓だ」
 うわ、特訓キター、などと他の子供が騒ぎ立てる中、武田は葵を体育倉庫に連れていった。こうやって特訓という大義名分を立てておけば、もっとも不出来な葵にチームの底上げとして教育するのだろうということにできる。
 体育倉庫の扉をぴっちり閉める。メンバー以外にも、誰にも見られたくない思いが武田に残っていたのは、あの男のうさん臭さがいまだにぬぐい切れていないせいだ。
 しかしそんなものでも、葵に辞められるよりはましだった。
 ヘルメットをかぶせても、何が起こっているのは武田にはわからない。正直何の効果もないんだろうぐらいに武田は思っていた。健康グッズなど、えてしてそういうものだろう。何の効果もない、というのは悪い効果すらないということで、つまり無害だ。
 結局武田の思いとしては、駄目元ですがった藁、という位置づけだった。
「――どうだ?」
「特に何も起こりません」
 そう口にする葵の声量は大きく、きびきびとした声に武田には聞こえた。

 翌日の葵の所作は見違えるようなものだった。ノックした球に食らいついて捕り、バットを俊敏に素振りし、粘り強く腕立て伏せをした。
 効果があるのかもしれない、という思いと、いつまでもこんなものに頼るわけにはいかない、という思いがないまぜになって、武田の頭の中をぐるぐると回り、結局は葵に毎回〝特訓〟を施し続けた。

 武田の中の〝ないまぜな思い〟がずっと武田の中にくすぶり続けたまま、葵の能力はぐんぐんと上がっていった。それは武田だけでなく、メンバーの目にもはっきりわかった。
「葵たくましくなったよなぁ」体格のことではなく、精神的な話である。体格はまだかわいらしいままだった。あるいは腕立ての成果があがって、少しは筋肉はついているかもしれないが、服の上からはわからなかった。
 ただ、ヘルメットは使わないに越したことはない。ある土曜日に、一度使うのをやめてみた。
 日曜日の葵は、すっかり元に戻ってしまった。へなへなとした態度で、素振りのフォームもリズムもずいぶん適当だ。
「おい、葵どうした! 何やってんだ馬鹿野郎!」
 武田は威嚇用バットを地面に叩きつける。
「もう嫌……やめたい……」
 これではふりだしだ。やめたいなどと……絶対にやめさせてはならない! その日はまたヘルメットをつけさせ、武田は来週どうなるか祈るように待った。
 果たしてまた、葵はたくましくなった葵に戻った。
 葵にはこうなってほしかった。どちらが本当の葵なのか、真正面から問えば迷子になりそうなので、武田は今の葵が本当の葵なのだと思うことに決めた。
 こうなればもう、葵にヘルメットを使わないという選択肢が消えてしまった。いつも必ず体育倉庫へ消えてゆく二人を、当然メンバーは訝しむ。

「秘密の特訓とか葵ばっかりえこひいきしてるよな」
「特訓とか何してるんだろ」
「腕立てとかかな」
「そんなん秘密にする意味ないだろ」
「あれだ、大リーグボール養成ギブス」
「古い漫画知ってんなあ」
「姉ちゃんの本棚にあった」
「でもさ、体育倉庫だろ? なんかエロいことされてんじゃね?」
「葵男じゃん」
「最近は男のほうが狙われたりするらしいぞ。体育倉庫は定番だって、姉ちゃんの本棚のBL本にあった」
「お前の姉ちゃんなにもんだよ、というかなんだそのメタ展開なBL本は」
 朔の姉のマニアぶりを追求する蓮も劣らずマニアックだった。
 という件はともかくとして、この会話をしている傍らに武田が立っていることを、子供たちは気づいていなかった。
 それに気づいた大晴は急に監督の方を向きなおって言った。
「か、カントク! 本日はお日柄もよく……」
 なんだそんなマンガみたいなごまかし方は、という目で蓮は大晴を見る。全員が怒鳴られることを覚悟した。
 しかし武田は、言い訳できないと観念していたのだった。上を向いて額に手をあてしばらく唸った。そして、
「わかった……お前たちにも〝特訓〟をしてやるよ……」

  ◇

 チームは、見違えるようになった。
 守備は生き生きと動き、バッティングはシャープに、そして投手の悠真のピッチングは捕手の大晴のミットに快音をたててめりこんでゆく。スパアアアン! そんな音が青空に抜けてゆく。
(このチームなら勝ち抜けるかもしれん……)
 厳しい練習にもかかわらず、黍師町ジャガーズはいつも一回戦かせいぜい二回戦で敗退するのが常だった。
 一方、天原台ピジョンズは年を追うごとに強くなり、春季は県大会進出へリーチをかけ、決勝で惜しくも敗れたという。
 練習は厳しさを増し、メンバーは皆それについてきた。
 毎日最後に、メンバーがキャップを脱いでありがとうございましたと言う、その瞬間に武田はやりがいを感じる……はずだったのだが、ここで少し調整ということをした。
 ヘルメットの作動時間は10秒ほどで、次に渡すのに10秒かかったとしてメンバー全員にかぶらせるのに3分弱かかる計算だ。
 3分とはいえ時間もかかるし、葵だけに施したときの延長ということもあり、最初はこの挨拶の後に実施した。しかしどうにも、練習中の活力に比べて挨拶が投げやりというか、そんな気配を感じたため、これを実施してから挨拶をさせてみたら、何とも気持ちの良い挨拶が聞けたのだった。
 終わり良ければ全てが良いとは言わないが、翌日に、あるいは次週に繋げるためには、最後に前向きになってほしい、そう考えたのだった。

 秋季大会が始まった。
 一回戦、二回戦、三回戦、本当に順調に黍師町ジャガーズは勝ち進んでいった。
 いいぞ、いいぞ、お前たち、野球をやってきて良かっただろう。厳しい練習に耐え抜いて良かったろう。
 決勝戦がやってきた。
 相手チームは、春も決勝まで行ったチームのひとつ――天原台ピジョンズだった。
 負けたくない。天原台にだけは絶対に負けたくない!
 学童野球は六イニング制である。1―2でピジョンズにリードされて六回の表、ピジョンズの攻撃。打球が大きく上がりライト方向へ、葵が大きくジャンプ!
 葵はごろごろと転がったが、打球は捕っている!
 あの葵が……。武田の目の奥が熱くなった。
 表を0点に抑え、六回の裏。海斗が一塁にいて、ツーアウト。打席にいるのは……龍紀だ。ここでアウトを取られれば秋季大会は、終わる。武田はじっと見守った。
 龍紀がバットを大きく振る。空振る。落ち着け。落ち着け。あれだけ頑張ってきたんだ。練習の成果を見せろ。そう願う武田の眉は吊り上がっている。
 次にバットを振ったとき、キーン、という快音が響き、打球が大きく飛んだ。グラウンドの奥の奥でバウンドし、海斗が、龍紀が、走る、走る、全力で走る!
 海斗が生還して同点、遠距離からバックホーム、龍紀はなお走る、捕手が取る、そして龍紀の身体にミットを押し付けた瞬間、審判が両手を外側に広げ、これは、

  ◇

「県大会進出おめでとうございます」
 あの男が再び武田の前に現れた。
「ああ」
「効果はあったようですね」
「まあ、そういうことに、なるかな」
「良かったです」
「今日来たのは、つまり、あの機器を――買え、と」
「いいえ。まだあれは売り物ではないのです。安全性は確立されていますが、それはあくまで研究室レベルの話で、実際に実地試験にご協力いただきましたので、その御恩がございます。引き続き無料にてお使いいただければと」
「俺たちはモルモットか」武田は少し抗議の意を示したが特に本気ではない。微笑すら浮かべていたほどだ。しかしそれに男は答えなかった。
「良かったです。PTSD除去装置がうまく働いてくれて」
 武田の顔から微笑が消えた。
「なんだ、と」
「ご存じありませんか? 日本語では、心的外傷後ストレス障害と言います。心の傷ですね」
「そんなことは知っている! お前は、俺の指導が心の傷を負わせてるっていうのか!」
「有り体に申しますとその通りです。この装置にはそうしてできた心の傷を修復する働きが――」
「そんなもん負わせておらん!」
「PTSDは大きな災害などの後に起こることもありますが、小さな刺激の積み重ねでも起こります。この機器はそんな種を摘み取ってゆます。あなたが言う、厳しい練習に喜びがあるのは事実です。ただそれを上回る心の傷があって辞めてしまう子がいるだけなんです」
「だとしても、なにくそ、という気持ちを持たなくてどうするんだ!」
「一度や二度そう思えたとしても――たとえ小さな心の傷でも、ある日溢れて大出血になることがあります。人の心はそう頑丈ではない」
 男は眉ひとつ動かさず、およそ心の傷なるものを知っているとは思われない。あるいはそれを隠しているのか、と思う武田のほうにはどんどんと怒りが沸いてきた。
 武田はヘルメットを地面に叩きつけた。内部から部品が飛び、もうとっくに壊れていると思えるのに容赦なく足先を蹴り入れ、とどめをさす。
「ああ」しかしそれでも男は動じない。「もったいない」
「もったいないものか!」武田はまだ執拗に蹴る。不要だというだけの理由ではなく、それは武田の教育の否定だった。教育の否定ということは、子供たちをも否定することだ。武田は子供たちに代わって蹴っているのだ。少なくとも、武田当人はそういう気持ちだった。
「次、負けますよ」
「負けから学ぶこともある。それが教育だ」
「でも、勝ちたかったのでしょう?」
「〝勝つためにならなんでもする〟……」武田は男をぎろりと睨みつけた。「俺は子供たちをそんな風に育てたくはないのです。正々堂々、戦い抜くこと。そうなって欲しいのです。お帰り下さい」

  ◇

 次、負けますよ、と言ったとおりに、ジャガーズは負けた。
 惨敗と言ってよかった。コールド負けというやつだ。
 これでいい。これでいいのだ。負けから学ぶ。武田があの男に言ったばかりのことをやらせれば良いだけだ。しかしこんな一方的な試合から何を学べばいいのだろう、という気持ちが割り込んでしまって、武田は首を振った。
 子供たちは泣かなかった。悔しがりもしなかった。どこか子供たちがあの男の表情に似ている気がして、武田は少々不気味に思った。

〝悔しさをバネにする〟などというのは、それがひとつの定型句になっている。つまりバネにするためには、悔しさが必要というわけだ。
「なあ、お前ら、悔しいだろう! 負けて悔しいだろう! その悔しさを忘れるな!」
 絶対に、子供たちは、悔しさを胸に秘め、必ずや闘志をたぎらせる――それにしては、反応が、鈍い……。
 だがそれを無視して、猛練習が再び開始された。武田は同じようにりつけ同じようにバットを叩きつけ同じように千本ノックをした。
 だが子供たちの反応が、あのヘルメット導入前よりも鈍く思え、確かに効果があったことを武田は思い知らされた。
 だが……あんなものに頼らないことに、子供たちの成長があるのだと思い直し、ますます全てに厳しくしようと、武田は思いを新たにした。

「俺、辞めます」
 最初にそう言い出したのは龍紀だった。
「何を言うんだ」本当に何を言うんだと武田は思った。決勝戦で一番活躍した子だ。「思い出せ。あの逆転ランニングホームランを打った時のこと……嬉しくなかったか。楽しくはなかったか」
「楽しかったです」即座に龍紀は返事をした。「そして、今、楽しくないんです」
「今は練習で、練習は厳しくて、辛いこともある」
「あのヘルメット、もうやらないんですか? あの時は練習も楽しかったです」
 そう言い残して龍紀は本当に辞めてしまった。
 その時点で、チームが成り立たなくなってしまった。
 今後試合に出る為には、新しくメンバーを入れるか、どこかと交渉して、合同チームにしてもらうしかない。ピジョンズ? まさか。武田にとっておよそ考えられない選択肢だった。
 新しくメンバーを入れるためには、練習を続けるしかない。

  ◇

 男がまたやってくるまでにさらに二人辞めた。
「六人ですか、危機的ですね」男はいまだ無表情だ。「スペアのヘルメットをお持ちしたんですが」
「そんなものはもう要らん」
「現実としてもう三人辞めたんですよね? そして実験で効果があがっている」
「買う気も買う金もないよ」
「今回も無償で構いません」
「お前何者だ? 商売しに来たんじゃないのか? こんな地方の弱小チームに無償で渡す。何の得があってそんなことをする?」
「監督は、なぜその地方の弱小チームの監督を無償で引き受けているのです?」
「俺は、商売をしているんじゃない」
「では、そういうことです。私も商売をしに来たのではない」
「じゃあ何の目的で」
「思い出せませんかね? ……と言いたいところですが、まあ、無理もない、半年だけでしたから。私もかつて、黍師町ジャガーズの一員でした」
 武田は男をまじまじと見つめた。
「……貴彦か!?」
 男は一瞬だけたじろいだ。
「――覚えていたとは……」
「一度世話した子は忘れない」そして武田は貴彦の両肩に手を置いた。「見違えたぞ……立派になったなぁ……」
「〝立派に〟……? それは……」
 表情のなかった貴彦の顔の筋肉が少しだけ動いて、また元に戻った。
「私は脱落しました。でも監督を尊敬していたし、チームが、野球が好きでした。だから、チームの役に立ちたいと思ったのです。誰も不幸にならないチームを作って」
「君は、立派になった。だが、教育を知らない。ここは、君の帰ってくるところではあるが、機材を持ってやって来るところではないんだ。どうか、お引き取りください。そしてここではないどこかで、思う存分活躍して下さいますように」

 武田の思いとは裏腹に、メンバーの離脱は続いた。

  ◇

 優佳子が家の前を掃除していると、隣家の奥さんが耳打ちしてきた。
「ねえ優佳子さん。だいぶ噂になっちゃっているもんで、もう知ってるかもだけどお耳に入れておこうと思って。ご主人の野球チーム、メンバーがどんどん抜けてるってのは、さすがに知ってるんじゃないかと思うけど。なんかね、最後のひとりになっちゃって。そうらしいの。で、相変わらずの特訓してるんだけど、泣き声がしょっちゅう聴こえてて、怒鳴り声も聴こえてね。こう、こういう言葉は言いたくないんだけど……いや私も実際そうなのか見てきたわけじゃないし? 虐待、じゃないかみたいな話にね、なっちゃってて。いや、私もご主人疑ってるわけじゃなくてね? 前と同じようにやってるってだけだとは……。ただね、お耳には入れておいたほうがいいと思って。それだけね、うんそれだけなの」
 そう言って奥さんは去っていった。隣家の奥さんはワイドショーを好んで見る質の女性だったが、それは本題と関係なかった。

 優佳子の行動は早かった。練習風景を陰から視察したうえで、夫が管理している名簿で調べた住所に行き呼び鈴を鳴らした。
 出てきたのは優佳子よりずいぶんと若い女性だった。小学生の母親なのだから、至極当たり前のことではあった。
「どうぞ」家の中に他に人の気配はない。「夫は今日は不在です。出張が多いもので」
 出されたマリアージュフレールの紅茶にひとくち口をつけると、優佳子は噂について話し、そして切り出した。
「まず最初に言っておきたいことは、もし葵くんが辞めたがっているのなら、主人に遠慮など要りませんから辞めさせてあげてください、ということです」
「それではこちらも最初に言っておきますけれども、葵は家では絶対に辞めたくないと言っているんです。練習中はしょっちゅう辞めたい辞めたいと言っているのは承知しております」
 数秒だけ沈黙が支配した。
「そうですか。……実はそうかもしれないとは。そうだったらいいなとか、違ったらどうしようとか、そんなことを、さっき小学校に寄って、実際に葵くんの顔を、表情を見てきて、思ったのです」
 優佳子は少し気を楽にした証左のように紅茶を飲み進めた。
「葵は、野球が大好きだと、チームが大好きだと、監督が大好きだと、そう言いました」
「そこは……主人と同じですのね。主人は、ずっと野球が恋人だから。ねえ、こんなオバサンの話で恐縮なんだけれど、昔話につき合って下さらないかしら。ずっと誰かに話してみたかったの」
 それから、優佳子は二人の過去について滔々と話し始めた。二人は中学の同級生であったこと。武田がそこの野球部の一員だったこと。そして、誰よりも不器用だけれど、誰よりもひたむきであったこと。
「気がついたら恋をしていたわ。でも、その頃から主人の恋人は野球だったの。私たちどうして結婚できたんだろう? もう忘れてしまった。結婚してもずっと、主人の恋人は野球だったのよ。私ではなく。でも、私はそんな主人が好きになったのだから、私を恋人にしてしまったら、あの人があの人でなくなってしまうのだわ。ある意味私は第二夫人なんです。第一夫人とのあいだにはとても入り込む隙間はないの」
「葵も――ずっと甘えん坊だったんです。いっつもママ、ママと言ってたあの子が、野球と出会ってから、監督さんと出会ってから、すっかりそちらにご執心になってしまったんです。親としては嬉しくて寂しい場面です」
 そして葵の母親も、自分語り――もとい、自分の息子語りを始めた。
「あの子は、芯が弱くて強い子なんです。すぐに倒れてしまうけれど、時間をかけても次に必ず立ち上がる子なんです。よくしなるけれど、決して折れることのない竹のように……。そう思うことにしました。そう思うことに決めたんです。最初は夫ともども、私もこんなことではと嘆き悲しんでいたのだけれど、そんな風に考え方を変えたら、とても息子が誇らしく思えてきたのです。まず一番に、親が子供を誇ってやらないでどうするのでしょう。私たちは、息子が大好きなのです。でも、もう息子の大好きは私たちではないのです。人の親になったからには、当たり前のことではあるのですけれど」

  ◇

 優佳子が小学校を去った後、やはり同じように物陰から見て、同じように葵の顔を、表情をのぞき見た者がいた。貴彦だった。
 諦めきれずにもう一度、ヘルメットをたずさえてやってきたのだった。
 泣き声が聴こえた。怒鳴り声が聴こえた。バットを叩きつける音がした。バットが割ける瞬間すら目撃した。
 葵が顔を上げた。涙にまみれていた。
 しかし貴彦は鼻先でフッと笑って、ついで軽い舌打ちをした。
「相思相愛かよ……」
 貴彦は、苦痛の中の笑顔、というものを見たのだった。

 貴彦はきびすを返して、武田に会わずに小学校を去った。
 そうして、
「俺はあの子になりたかったんだな……」と呟いた。
 貴彦の目の下をひとすじの水が這った。
「なんでこんなもんが出てくるんだ……とっくの昔に捨てたはずなのに……」
 そして自分が持ってきたヘルメットを、段ボール越しにじっと見つめた。
「俺がこれ被ったら、涙も止まるのかな」

文字数:10574

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