梗 概
恋人が白血病になったので、ぶつかりおじさんはじめました
主人公・隆司 医師。
親友・拓未 ナノロボット工学者。
隆司の恋人が白血病で倒れる。骨髄移植のドナーが見つからない限り、余命は一年。隆司は絶望する。
隆司が絶望のあまり奇行に走った、という情報が拓未に伝わる。何でも渋谷でぶつかりおじさんと化しているという。しかもぶつかるのは若い女性に限らず、老若男女問わないと。隆司は開業医だが、ずっと休業中と思いきや、週に一回短時間だけ診察をしているという妙な状況。
拓未は隆司が自暴自棄のあまり、特殊な性癖に目覚めた上わいせつな行為を行っていると判断し、隆司を叱咤激励するため隆司を訪れる。隆司はここで、ぶつかりおじさんの真の目的を明かす。実は、最近実用化された「痛みのない注射針」を使って渋谷の通行人を片っ端から刺して採血し、血液型を調べているというのだ。週に一回だけ診察しているのは、医師としての体裁を保ち、注射針を合法的に手に入れるためだった。
拓未は、その情熱にいたく感動するも、どうやって再び出会うのかと問うと、採血の際に顔も盗撮して再び渋谷の街を探すのだ、と言う。拓未は、それはあまりに非効率的だと批判。そして、拓未が開発したGPSナノロボットを注射針で送り込む手法を提案する。
かくして二人は〝白いぶつかりおじさんS〟を結成。活動を開始して、二人で手当たり次第にぶつかり続ける。そしてついにドナーを見つけるも間に合わず、恋人は逝去する。
再び意気消沈する隆司。
だが隆司に拓未は新たな提案をする。曰く、我々は既に無断で針を刺す犯罪行為に手を染めてしまっている、ここで終わっては本当にただの犯罪者だ、ここで集めたデータを使って社会貢献をしないかと。
二人はSNSを使って、渋谷で援助交際をしている少女と接触する。実際に会うと、GPSデータから見てデータベース登録済みの少女だった。少女は夢路と名乗り、春を売ろうとするが、二人は制止。援助交際仲間を集めてビジネスを持ちかける。世の中には、法律で禁じられている売血のリスクを冒してでも血液を欲している金持ちの患者がいる、そういう奴らから金をむしり取るのだと。
夢路は話に乗り、夢路をリーダーとして少女たちを束ねることになる。売春を売血に置き換えることで、渋谷の街から援助交際を撲滅する、という社会貢献を果たした。
だが、針刺し行為と売血の容疑で警察は捜査を進めており、二人は逮捕されてしまう。お金の取引に直接関与したのは二人だったので、分け前の分配行為まで捜査は及ばず、未成年ということもあり少女たちはお咎めなしだった。逮捕の際、夢路は私が渋谷を守る、と二人に声をかける。
数年後、夢路さんはいますか、とふらりと男性二人組が現れる。声をかけられた少女は警戒して知らんぷりを決め込む。二人は立ち去る。少女はもしや出所した二人では、と気づき後を追うが見つからず。宙に向かって、「あの、私、二代目です!」と叫ぶ。
文字数:1200
内容に関するアピール
「最も使い古されたアイディア」として「恋人が白血病で倒れ、死ぬ」というネタを採用しました。
そして新奇な話を書くため、昔から知られていた現象ではなく、あるいは昔からあったかもしれないが、ごく最近言及されるようになった現象「ぶつかりおじさん」を使い、白血病の持つシリアスさとぶつかりおじさんの間抜けさから来る落差を楽しめるようにいたしました。
SF的ガジェットとして、「痛みのない注射針」というのはすでに存在しているのでそれを採用しました。GPSナノロボットなんてものはさすがにないですが、そこは近未来ということで。
バディ物というのも、あるいは一種の使い古されたネタかもしれませんが、それがぶつかりおじさんをするのはなかなか新しいと言えるのではないでしょうか。
文字数:327
恋人が白血病になったので、ぶつかりおじさんはじめました
「『冷やし中華はじめました』というフレーズは、なぜ冷やし中華にしか許されないんだと思う?」
「そうだろうか。別にとんこつラーメンはじめました、と言ってはじめても良いのでは」
「そういう場合、『期間限定』などという言葉を使うのであって。冷やし中華にしか許されない、これは麺差別といえるのではないか」
「何があった、隆司」
「何が、とは?」
「お前がそういうくだらない話から入るときは、いつも深刻な話を抱えているからだよ。長いつきあいだからな」
「拓未には敵わないな」
隆司がその冷やし中華の話題を始めたのは中華料理屋ではなく蕎麦屋であった。節操なく冷やし中華もラーメンも餃子も出てくる町蕎麦屋で、窓ガラスの外側ではぴらぴらと風を受けてその張り紙がざわめいている。
「優子が、な」
三十秒拓未は待った。耐えがたい三十秒だった。隆司は冷やし中華をひと口も食べない。
「白血病だって」隆司はそこで、ぼろぼろと涙を流し、涙は冷やし中華に味付けをして徐々に常温に近づけてゆく。
「しっかり……しっかり……」拓未は隆司の肩に手をおいて、ゆっくりと撫でた。
隆司の恋人の優子は、骨髄移植のドナーが見つからない限り、余命三か月だった。
◇
〝最近隆司くんと会った?〟
真由美から拓未のスマホにDMが届いた。隆司と拓未、優子と真由美、大学サークルで出会った四人は意気投合し、いつも四人でつるんでいた。うち恋愛感情が芽生えたのはひと組だけだった。残ったひと組が、いずれくっつくのではないかと隆司が考えているのがちらちらと見えるたび拓未はイラっとしたが、その程度で友情にヒビが入ることはなかった。今は隆司にそんな余裕はありはしない。
〝会った。ひと月前に〟
〝変じゃなかった?〟
そりゃあ変にもなる、と思いつつ、そういう意味ではないのでは、と拓未は思い直し、通話に切り替える。
「ああ、拓未くん」
「どういうことなんだ」
「渋谷で見た人がいるのよ」
「まあたまには街に出るのもいいんじゃないか」
「通行人にタックルしていたらしいの」
「いやいや、どういうことなんだ」
「言った通りの意味だけど……つまりぶつかりおじさんね」
「いやいやいや、どういうことなんだ!」
「それを訊き出してやるのがあんたの役目でしょう。親友なんだから」
そう言って真由美は通話を打ち切った。拓未にはとても信じられなかった。いくらなんでも、あの真面目で朴訥な隆司が、ぶつかりおじさん? 拓未は自分の目で確かめようと思った。
◇
〝優子から連絡あった。聞いてた? 病気のこと〟東急東横線の中で、拓未は真由美からのDMを受け取った。
〝ああ……大変だよな……ドナーが見つかるのを祈るしかない〟
〝こんな時にぶつかりおじさんとか、やけを起こすにもほどがある。最新の口コミに、週に一回しかやってないとか書いてあるわ〟
さらに妙な情報であった。最近はグルメサイトではなく、医療情報サイトがあって、グルメサイトと同じように口コミが投稿できるようになっている。
隆司自身は医者ではあるが、内科の開業医でしかない。白血病ともなれば、専門医に任せるしかないのだ。そしてその専門医も、今は抗がん剤を投与するしかすべがない。
〝前はすごく親身になって対応してくれるお医者さんでしたが、週に一回しか診察してくれません。その週に一回も早めに診察を終わる日ばっかりで結局いまだに診て貰ってないので星一つ〟
拓未は自身でもその口コミを参照し、くずおれそうになった。いったい隆司は何を考えているのだろうか。気持ちはわかる、などという範囲を超えている。そんなイラつきを乗せて、電車は渋谷に到着した。
渋谷はあまりにも人が多く、拓未は苦手だった。隆司も拓未より苦手なくらいではなかったか、と思いつつ、あてどもなく歩く。こんなところで果たして出会うことが可能なのか……。
可能だった。わかりやすくタックルしている人物がいてどう見ても隆司だった。そしてぶつかり隆司くんはぶつかった後、人ごみをかきわけて俊敏に逃げてゆく。
今まで、ぶつかりおじさんというものに対して拓未が抱いていたイメージは、若い女性に嗜虐的な行為を仕掛けることで性的な興奮を覚える、というものだった。
しかし、観察している間だけで、若い女性だけではなく、中年の女性、肥満した男性にもタックルをかけており、そしてするすると逃げてゆく。
何とか回り込めないか。偶然に任せて、どこかの路地に走りこめば、うまくいけば隆司を捕獲することが可能なのではないか。
可能だった。本当に偶然が作用して、拓未の正面から隆司が駆けてきたのだった。
◇
「優子ちゃんのことでショックなのはわかる」
喫茶店で隆司はうつむいている。
「そして俺は多様性については認めるべきだと考えている。だからショックで特殊な方向に目覚めたとしても、それを問題視する気はない。しかしだからといって」
「いやちょっと待った。多様性? 何のことだ?」隆司は視線を上げた。
「俺見ていたんだよ。お前が誰にぶつかっていたのか。いろんなタイプに欲情しているようだな。ジャンルが広いというか、それはそれで凄いが、だからといって」
隆司はまたうつむいた。そして震えている。自分の罪に悔恨しているように拓未には見えた。
隆司の肩の震えが激しくなった。そして声が漏れる。
「あははははは!」
なぜ大爆笑なのか。罪を悔いすぎて発狂したかのように拓未には見えた。
「拓未には敵わないな」そう置いて隆司は話し始めた。「さてさて、どこから話そうか。渋谷を選んだのは、渋谷はとにかく人が多いのでね……」
◇
隆司の話はこうだった。
ドナーが偶然見つかるのを待っていたら優子の命が尽きてしまう。だから自分で探すことにした。しかしどうやって探す?
たとえば、医院に来る患者全員から採血したとして、たかが知れている。じゃあ、もっと人が多いところに来よう。そこで選んだのが渋谷だ。しかし、いちいち許可を取って同意書にサインをもらって……書類を揃えて……などと言っていたら、結局大して能率は変わらない。
そこで使うことにしたのが、最近実用化された〝痛みのない注射針〟だ。同意を得ずに採血するためにこの方法を考えたわけだから、要するに犯罪だ。そんなことは承知で、優子の命を救いたいのだ。
この針を合法的に入手するため、医者の体面を保つ必要があり、週に一回だけ診察をしているのだ。あとは全ての時間を針刺しに使っている。
「いや、それだったらタックルする必要はないだろ!」
「痛みのない、といっても、違和感はある。だから、ぶつかった拍子にそれをごまかすんだ」
「いやいや、それで検査で適合する人間が出たとして、どうやってもう一度出会うんだよ!」
「同時にカメラで顔を盗撮しておくんだ。そしてまた渋谷の街に探しに来る。人相書きがあるわけだから」
「いやいやいや……」拓未はうつむいた。「なんとも……」
そう言ってしばらく黙り込んだ。ぽつりと、喫茶店のテーブルが濡れた。拓未の肩の震えが激しくなった。
「感動した!」拓未はまた勢いよく顔を上げて叫んだ。
昔から、拓未はささいなことにも感動しがちな人間だった。
四人でつるんでいる、その友情があるという事実にある日予告もなく突然感動し始め、四人のイニシャルから取ってYMRTとプリントした揃いのTシャツを作ろう! と言って本当に作ってしまったのも拓未である。しかし拓未以外誰も着なかった。
そんな次第で、拓未が感動するということは、拓未が暴走することと同義だった。
「俺はお前に協力する」拓未は隆司の肩を両の手でがっしと抱いた。「だが、そんなやり方は非効率的だ」
「ふむ、どうすれば?」
「俺の専門を忘れてもらっては困る。ナノロボットだよ。今やGPSだって積めるんだ!」
◇
ぶつかりおじさんは二人体制になった。形から入る拓未の意向により、Tシャツを発注する……時間はなかったので、名称を決め、〝白いぶつかりおじさんs〟となった。
格好良い名称だ、と拓未は思っていたが、隆司がどう思っていたかは不明だった。
現実には拓未以外がその名称で呼ぶことはなかった。理由としては、犯罪行為をしようというのに名前を触れ回る人間はいない、というのがひとつあった。
もうひとつの理由として、たとえばこれが赤い彗星などであればむやみに赤い服を着るからわかるが、彼らの場合灰色の上着など目立たない格好をしていた。それに合わせて、〝灰色のぶつかりおじさんs〟という案も拓未の脳内にあった。
これはこれでかっこいいのだが、白血病由来であることを考えると、いかにも初心を忘れたような感じになって、いまいち座りが悪いということで、拓未はその案は脳内でボツにしてしまった。
ともかく二人は刺して刺して刺しまくったのである。通り魔も真っ青な刺しっぷりであった。時には屈強な男に追いかけられたりした。それでもなかなか適合者は見つからなかった。男女平等は日本にことのほか浸透していて、屈強な女に追いかけられることもあった。それでも適合者は見つからなかった。
しかし二か月が過ぎたある日、ついに型が一致した。
「GPSのデータは!」
「ちょうどまた渋谷にいる!」
二人は渋谷に急行した。適合者ご本人の前に回り込む。屈強な男性であった。反応によっては殴り殺される恐れがあった。二人は土下座した。白昼堂々、屋外でする土下座は、周囲の視線に耐える精神力を必要とした。それでも二人にはやらなければならない使命があった。
「はあ……いいですけど……」屈強だが人の好い男性なのだった。
二人は適合者を連れて優子のいる病院に行った。
優子の顔には、白い布がかけられていた。
「進行がことのほか速く……先ほど息を引き取られました」
あああ、と隆司は膝をついて号泣した。
「あの……申し上げにくいのですが……」屈強な男性が口を開いた。「帰ってもよろしいでしょうか」
よろしいに決まっているのだが、それを切り出すのもおずおずとしてくれるあたりは、どこまでも人の好い男性なのだった。
隆司はなおくずおれたまま、泣き濡れていた。
辞去する屈強男性に会釈をして見送るのは、拓未の役目だった。
◇
今や世の中の主流は家族葬で、優子も然りだったが、指輪とか儀式とかが面倒で肩書がついていないだけで、親への紹介も済ませあとはいつ入籍するのか、などと思われていた隆司は参列を許された。終始隆司はうつむいていた。
「今まで……娘にいい思い出を作ってくれてありがとう。だが……。君はまだ若い、これからは……娘に縛られない人生を……」
優子の両親の話は至極常識的なものだった。また隆司は涙をこぼした。
また、別の女性を愛することができるなんて、隆司には思えなかった。
ひと月ほどして、優子を悼みたいということで拓未から隆司に連絡があって二人で呑むことになった。
「ひと昔前は参列して焼香もできたんだが」
参列した隆司を通して拓未が弔意を伝える。そういう建前だが結局拓未は親友と呑みたいのだった。悲しみをただ悲しいと受け止め、二人で共有する時間をつくる、そういうことが優子を見送るのに必要だった。
「つらいなぁ……」本当につらいのは隆司のほうだが、それを口に出さない隆司の代わりに拓未が口に出してやる。それが拓未のやさしさだった。
そうやって、しばらくは共感と共有の時間を過ごした。
そして拓未が口を開いた。
「俺たちって犯罪者なんだよな、一応」個室呑みにしたのでこんな会話も別に構わなかった。「結局貢献できなかったのが悲しい」
「悪かったな……こんなことに巻き込んで……」
「決めたのは俺だ。お前が気に病むのは間違ってる」
「ありがとう……」
「なあ。何かに貢献できなかった犯罪者と、貢献できた犯罪者だったらどっちがいい?」
隆司は少し返答を躊躇った。
「……誘導尋問かな、これ」
「そのとおり。普通後者を選ぶよな。なので後者をやるとっておきのアイディアがあるんだ」
「なんだそりゃ。……一応話を聞こうか」
「まず、援助交際をする」
隆司は後ずさるアクションをとろうとしたが、掘りごたつ式の固定された座席のためあまり大きな動きはできなかった。
「何言ってんだ! 気でも狂ったか!」ずいぶんと隆司は大きな声をあげた。
「少し元気が出てきたか」
「援助したから社会貢献とか言ってるのか? そりゃ犯罪者という条件は合ってるが……。ってか、お前はロリコンだったのか」
「いや、援助交際と見せかけて、という話だ。お前のぶつかりおじさんと同じだよ」
「……もう少し話を聞こうか」
「今、渋谷の街には無数のGREPがいるんだ」
「GREP?」
「〝GPS Robot Embedded Person〟略してGREPだ。今渋谷には、無数のGPSロボットを埋め込まれた人間がいる……」
形から入りたがる拓未らしく、やたらに命名をしたがる。今回は、たまたまコンピュータでファイル検索を行うコマンドであるGREPと同じ名前にできて、語呂が良く拓未は得意になっている。
「確かに、結果的にはそうだ」
「そしてその中には、援助交際をしているJKがいる」
「お前本当に春買ってないのか? 女子高生をJKと略すあたり妙に手馴れてないか」
「で、さっきの話に戻る。〝何かに貢献できなかった犯罪者と、貢献できた犯罪者だったらどっちがいい?〟ってね。春は買う側も犯罪者だが売る側も犯罪者だ。罰則があるのは18歳未満を買った場合と周旋などの場合に限られるのは事実だが、犯罪は犯罪だ。売春防止法第三条に、〝何人も、売春をし、又はその相手方となつてはならない。〟と記載されている」
「やけに詳しい! やっぱりお前……」
「そりゃ、この提案をするにあたって調べたからだって」
それでも、不信の目で隆司は拓未を見ている。
「で、援交JKがGREPだとどうなるんだよ」略語ばかりで暗号のようになっているのは、昔流行ったギャル文字を彷彿とさせる。
「今まで通りの援交は、いったい何に貢献していると思う?」
「褒められた話じゃないが、買った人間の性的快楽だろう」
「そのとおり。つまり、おっさんの股間だ。そんなものに貢献したところで貢献は無いにひとしい。これが人の命だったらどうだ」
「言いたいことはわかったよ。つまり白血球型のデータベースが手元にあるから、取り仕切って援交JKにドナーになるよう仕向けようというんだろう。しかし、そんなのは理想論だ。援交するのは金が欲しいからだろ。そんな子に急にボランティアしろなんて言ったところで、金が手に入らんわけだから、従うわけないし、従ったとしても別途また援交するだろ。それこそおっさんの説教にひとしいね」
「それは貢献できなかった犯罪者が、貢献できた一般人になるという話だろ。そうじゃなくて貢献できた犯罪者になるという話。つまり、金に糸目をつけない金持ちに、売る」
「確かに、それなら金が手に入る。可能になる理屈ではあるが……」そこまで言うと、隆司はビールをあおった。「しばらく考えさせてくれ」
◇
結局、隆司は考えて考えて、別に何度考えても同じところを逡巡することに気づき、そしてやらなかった後悔よりやった上で後悔したいなどと思い直し、拓未の提案に乗ることにした。
「……春を買うってどうすればいいんだ。やったことないんだよね」隆司が切り出した。迷いこそ残っているが、その言葉には決意が見受けられる。
「俺も知らん。通常男というものは、買うことにやたら縁があるグループと全く無縁なグループに分けられる。俺もお前も後者だ」
隆司はまた不信の目で拓未を見るが、拓未は続ける。
「ただ、前者とはいっても、店舗に出向くサービスと、自宅に出張するサービスを使用するものが大半だ。援助交際はそのどちらでもない」
隆司はさらに不信の目で拓未を見るが、拓未は続ける。
「そこで、パパ活アプリだ」
「そんなものがなぜ大手を振って存在できるんだ」
「健全な出会いを名目としているからさ。売春が禁止されているにもかかわらずソープランドが存在できるのは、風呂屋で偶然男女が出会い、偶然自由恋愛を始めるからだ、というのは有名な話だろう。名目の力と言うのは凄いんだ」
隆司はますます不信の目で拓未を見るが、拓未は続ける。
「想定しているシナリオを説明する」
まず、パパ活アプリに登録する。別にこちらのプロフィールは適当でよい。向こうも適当なんだから。
で、手当たり次第に好みだろうが好みでなかろうが好みだというボタンを押しまくる。そうすると向こうもボタンを押せばマッチング成立で会うための交渉をする。
会ったら、それまでにスマホで使える、現座標近辺にGREPがいるか判定するアプリを作っておくので、それで判定する。
いなければ、目の前の少女はGREPではない。交渉の余地がないからバックれる。先方は怒るかもしれないが、どうせ後ろ暗い金が受け取れなかった、と騒ぐわけにもいかないから、まあいいだろう。
いれば、GREPだから、今度は春を買うそぶりをみせる。ここは慣れないと恥ずかしいと思うから、事前に練習しておこう。良いプレゼンに練習が不可欠なのと同様だ。
ここで先方が応じれば、ホテルに連れ込み、ビジネス交渉を開始するんだ。
そう解説したあと、隆司は演技の練習をさせられた。
片手を広げて五本の指を示し、
「これで、大人、どう?」と笑顔で言う、という簡単なものではあるが、とてつもなく恥ずかしいため隆司は最初は発声すらできなかった。発声したらしたで、
「笑顔にスケベさが足りない! それでは相手を騙せないぞ!」などというわけのわからないNGを食らい、あーそうか自分は人を騙そうとしているのだな、などと隆司が我に返り、やはりこんな話には乗れないと悶着が起こった。
結局拓未がなだめた後、本番が開始された――という表現は適切ではない。〝本番〟という用語に混乱が起こるためだ。なので、ここは〝作戦が開始された〟という表現に改めるものとする。
◇
「おじさん、真面目そうだけど、こういうのやるんだ」
目の前の少女はとてもかわいらしかった。隆司の価値観では、部活かなんかに打ち込んで、そしたらグラウンドの周辺をやはり部活でランニングしているちょっと気になる男子と目が合い、キュンっとか効果音がついて胸がときめいたりなんかする青春を送っているはずの子が、青春を青ではなく売という字に変えてしまっている。なんてただれた世の中だろう。
たしかに、こんなことはやめさせなければいけないのはわかる。使命感、というものを隆司は感じた。
手元のアプリを開く。GREPだ。我ながら刺しも刺したり、渋谷じゅう猫も杓子もGREPだ、などと隆司は感じていた。
そして、手を広げて、例のセリフを吐こうとした。が、どうしても出てこない。しばらく無言になった。
「え? なに? パー? じゃんけん?」
スケベさを表現しようとして口角を吊り上げるも、ひきつった笑いになっていることを隆司は自覚していた。そうこうしているうちに、隆司のスマホが鳴った。
〝こっちは成立。ホテルに向かう〟
このメッセージを見るや、隆司は少女を置いて一目散に逃げだした。
残された少女は、
「ええ? おっさん、バックレかよ!」と声をあげ、手持ちのバッグを地面に叩きつけようというアクションをとりつつ、過去のパパに貢がせたブランド品であるため叩きつけなかった。
◇
当初のシナリオでは、拓未と隆司がひとりずつGREPの少女を連れてきて、計四人が密室でビジネス会談を行うはずだった。が、隆司が単独で来た結果、隆司が聞いた第一声がどうなったか。
「はああ!? 何これ!? 3P!?」
スケベなおっさんが少女を金の力でかわいがる構図を予想していた少女だが、隆司が現れたことで、大の男がふたりがかりで、かわるがわるいたいけな少女を手籠めにする構図になってしまった。
だが、拓未は冷静に言った。
「夢路ちゃん、これは3Pではないよ。もっと大きな話だ」
「まだ来るの!? 四人目が!? それとももっと大人数!? 一度に何人でやれるかギネス記録を作ろうとしているの!?」
「違う、ビッグビジネスだ」スケベジジイを演じていたくせに、スケベジジイ扱いを受けたのが不満な隆司が口を挟む。
「君の白血球型はA*24:02-C*01:02-B*59:01-DRB1*04:05-DQB1*04:01-DPB1*04:02だ」拓未がすらすらと読み上げる。
「そうなの?」
「自分の血液型を知らないのか? と言いたいところだが、自分の白血球型をそらんじることができる者は少ない」
「あたりめーだろ!」
「おやおや……怒りの沸点低いねえ……赤血球はB型かい」
「おい、最近は血液型差別で怒る人は増えてきてるぞ」
「そっちのおっさんはいい人か? あたし、そういうのを聞くたびずっとムカムカしてきたんだよね」夢路は、隆司に対しては、拓未に対するより好印象を持ったようだった。「で、なんであんた私の白血球型がわかるの」
「それは君がGREPだからだ」
拓未はGREP誕生の顛末について説明した。
「ああーっ! そういやちょっと前におっさんにぶつかられた! あんたらかそれ! ってか、あたしの中にナノロボットとか埋め込んでんじゃねーよ! キモいわ!」
「大丈夫、ナノロボットは無害だ。そのように設計されている。ビジネスの話に戻ろう。君たちはおっさんの股間を喜ばせて楽しいだろうか?」
「お金が貰えるから楽しい」
「では、もっとたくさんお金がもらえ、しかもおっさんの股間に触らなくて済んだらもっと楽しくはないか」
「ああ、おっさん達その手の人……うちのオカンもな、そういうのにハマったよ……オトンはオカンに嫌気がさして浮気してそのまま離婚、家には奇跡のナンタラドリンクが山積みで、つまりマルチ商法ってやつだろ」
「違う!」また隆司が口を挟んだ。
そしてそのビジネスモデルについて、拓未が隆司に力説したように、隆司が夢路に力説を始めたのだった。
それは、〝これで、大人、どう?〟と違って、事前のプレゼンの練習のない、ぶっつけ本番の――本番という表現を避けようとしたのに、この場合これ以外の表現が見つからない――プレゼンであった。
それでも、セールスの現場では、立て板に水の営業トークよりも、朴訥で誠実な人物が商談を射止める、などということが往々にして起こるという。
夢路は腕を組んで熟考に入った。しかし、その熟考は、隆司が〝しばらく考えさせてくれ〟と言ったスピードに比べ圧倒的に短く、時代に合わせてアップデートされていた。おもむろに夢路はスマホを出して通話を始めた。
「もしもし、麻季ちゃん? ちょっと今すぐ来れないかなぁ。場所は……」
◇
麻季は入ってくるなり、
「ああーっ! さっきのおっさん!」と隆司を指さした。
「知り合いか」拓未が訊く。
「さっきファーストコンタクトの途中だった」
「宇宙人か」夢路が突っ込む。「で、どう? 麻季ちゃん」
どう、というのは何のことなのか、拓未と隆司はきょとんとしている。
「麻季ちゃんはオーラが見えるの」
夢路は事も無げに言う。拓未と隆司はあっけにとられている。
「うーん」麻季は凝視している。
「見るのも結構エネルギー使うらしくて」夢路が解説する。
「二人とも邪悪なものは感じないな。こっちのおっさんは特に……だからさっき手を広げた時も応じようと思ってたのに、何も言わないで逃げるから」
拓未の評価と隆司の評価に差がついたので、拓未の眉がぴくりと上がった。
「そっちのおっさんはお調子ものなところは感じるけれど根は善良って点は同じだね」
「そおですか……それはお褒めにあずかりまして……」拓未は〝大人の対応をしている自分〟を演じているときの表情になり顔を引きつらせている。
「結局こっちのおっさんは〝愛が重過ぎる善人〟でそっちのおっさんは〝友情が行き過ぎる善人〟でどっちも悪い人じゃない、そういうオーラ」
拓未に引き続き隆司も、〝大人の対応をしている自分〟を演じているときの表情になり顔を引きつらせている。
しかしながら、先刻〝本番〟という単語を避けたのと同様、〝大人〟という単語は、このビジネス会談が行われている場所を考慮すると混乱をもたらす用語である。飽くまでも彼らは、成熟した態度を取っているのであって、性的な行為に及んでいるわけではないことは注記しておく。
そのオーラ観を踏まえた上で、夢路はさっき聞かされたビジネスの内容を麻季に話す。「私がそのGREPとやらなの……」という点はいったん不快感を示したものの、ドライな感じで受け流して、結論を述べた。
「まあ、乗ってみてもいいんじゃないの。骨髄出せ、という話であって、金出せとか股出せって話ではないようだから、私たちが失うものは医学的に確立された骨髄取り出すことのほかは特に無さそうじゃない? なんか出せとか言い出したらその時になってから逃げても遅くないと思う」
「麻季ちゃんが言うのなら大丈夫ね!」と夢路は言った。
隆司は自分で勧めておきながら、この友情に関する妙な信頼は何なのだろう、夢路もまた拓未と同じく友情が行き過ぎた存在なのでは……などと思ったもののビジネスが破談にならないよう口には出さなかった。
◇
次なるステップは、ダークウェブに広告を出すことだった。
〝『人の命は地球より重い』なんと正鵠を突いた言葉でしょうか。
骨髄移植のドナーを待っている方に朗報です。
公的な骨髄バンクと別個の白血球型データベースがございます。
これらの骨髄はみな、ピチピチの若い造血細胞でございます。
人の命はお金に換えられませんが、お金は人の命に換えることができます。
あなたの大切な人が河を渡ってしまう前に、大人のビジネスを致しましょう〟
大人のビジネスなどと、この広告においても〝大人〟という語が使用されているが、これもまた意味が異なる。
夢路と麻季の合意してからの動きは早かった。彼女らの横の繋がりはかなり強固だった。学校やら、ネットやら何らかの接点があって、たちまち数百人の仲間が集まった。
ピチピチの若い造血細胞というのは少々話を盛っていて、GREPは女子高生であることもあればそうでないこともある。
もし、ビジネスの適合者が仲間の中にいた場合は、仲間内で支払金を分配する。適合者は、特別ボーナスで他の子の十倍の金額が分配される。適合者全取りにしないのは、むろん、適合しなかったときも収入がある状態にして、再び援助交際に走らせないためだった。拓未と隆司には、ビジネスの動機づけとして、売春の撲滅があるため、このビジネスモデルであることが絶対に必要だった。
そして適合するGREPが仲間の中にいなかった場合、GREPの性質上見つけ出すのは容易だった。GREP化してしまったことは説明せざるを得ないものの、迷惑料として仲間に支払う金よりはだいぶ少ない金額を支払ったあと、適合者には飽くまで法に則り、無償のドナーとして造血細胞を提供してもらう。
そして、適合者のあずかり知らぬ裏で、莫大な額を支払ってもらう。
これが合法ビジネスであれば、ビジネスモデル特許を申請するところだが残念ながら違法である。
〝何かに貢献できなかった犯罪者と、貢献できた犯罪者だったらどっちがいい?〟
この思いが二人を突き動かし続けていた。なので、吹っ掛けて値段を吊り上げるのは二人の使命だった。
◇
義賊という言葉がある。石川五右衛門や鼠小僧次郎吉の昔から彼らは、世のため人のために尽くす英雄だった。金は有るところからむしり取れ。そんな思いはこの世の全ての人の心に刻まれているのかもしれなかった。
〝お嬢さんの命には代えられないでしょう?〟
そんな風に言えば、億の金をポンと出すことができる人たち。きっと、ここまで稼ぐのに、悪どいこともさんざんしてきたに違いない。そう思えば罪悪感も吹っ飛んだ。
二人は事務所を構えた。有り体に言えばアジトである。そこにはたくさんの女子高生や女子大生たちが出入りするようになり、羽振りよく分配を受けるようになっていた。
このビジネスは、極めて順調に回るようになっていたのだ。
もはやクソジジイに股を開かなくて良くなった彼女たちは、以前より生き生きと人生を謳歌していた。そのパラダイスを作った二人に彼女らは懐いていた。
中でも、夢路と麻季は価格交渉などには関わっていないが設立メンバーという扱いをされていた。四人で美味しいご飯を食べにいくこともよくあった。
そんな帰り道、隆司と拓未はアジトの方向へ、夢路と麻季は買い物に向かうために逆方向に分かれて、しばらく歩いたその時だった。
隆司と拓未の前に立ちふさがった男たちがいた。
「宮坂隆司と田川拓未だな」二人とも警戒して肯定も否定もしなかった。
男は手帳を見せた。
「傷害罪および恐喝罪の疑いで逮捕する」
二人は一切抵抗しなかった。夢路と麻季との間にはかなり距離ができていたが、彼女らは異変に気づいた。そして何が起きたかを遠くから察知した。
だが、ここで隆司と拓未のところに駆け寄ってしまったら、彼女たちも補導されてしまうかもしれない。そうしたら、アジトだってバレてしまい、そして仲間たちもどんどん補導されてしまうかもしれないのだ。
夢路は、遠い距離のまま、わざと隆司と拓未に背中を向けて叫んだ。
「私、守るから! 必ず、渋谷を守るから!」
ちょっとこれは恥ずかしかった。この子高校生にもなって、戦闘美少女アニメの主人公になりきってるよ、という通行人の視線が夢路に集まった。
皆が人生を謳歌しているあいだ、警察は、地道に捜査を進めていた。
針刺し行為も、刺された本人は気づかなくても、それを目撃していた人がいたのだ。
一瞬のことで、ぶつかりでごまかしたつもりでも、何千回、何万回と繰り返していけば、中には何が行われていたか判別できる者が現れる。あるいは、何人ものあやふやな目撃情報を積み重ねていけばいつか集合知の要領で実像が浮かび上がる。
そして恐喝罪は、さすがに手荒に値段を釣り上げまくったのがいけなかった。
意外にも売血の容疑にはならなかった。
彼らが売っているのは造血細胞であって血液ではないため、〝安全な血液製剤の安定供給の確保等に関する法律〟に抵触しなかったのだ。〝売骨髄禁止〟とでも言うべき法整備はまだ行われていないのが現状だった。
そして、夢路と麻季は、隆司と拓未になりかわり、組織を回し始めた。
◇
十年の月日が流れた。
彼ら――否、男性二人が抜けて全員女子になったので彼女ら――の組織は、女子高生や女子大生たちが援助交際に走らないようにという目的をもって設立されていたので、この年齢を中心として構成されていた。
だから、メンバーはアイドルグループのように〝卒業〟していった。
新しく入る仲間には、GREPではない者も増えてきた。ただ仲間に入ってしまえば、位置を特定する必要はなく、自ら白血球の型を調べて組織に届け出た。
組織のトップには、強いリーダーシップが求められる。ある程度長期間務めないと、カリスマは生まれにくい。生徒会長のような一年ごとの交代は好ましくないという判断がなされていた。
夢路と麻季は、大学四年に進級して就職活動を始めたときに、次の人間にバトンを渡した。バトンを渡される側の学年はまちまちなので、渡す側の年齢はだいたい同じなのだが、任期は一定しなかった。
ある日、アジトに二人組の男が訪れた。
「夢路さんか麻季さんはいらっしゃいますか」
そこにいた少女は、設立メンバーの名を出されて警戒した。
「そんな人は知りません」
「そうですか……まあ、そうですよね」それだけ言って、深く息を吐き、「ここがあってよかった」そう言うと、二人は帰っていった。
しばらくして、少女はふと思い当たった。そして立ち上がって、二人が行った方向に走り始めた。まさか。まさかあの伝説の。まさか、出所して?
しかし二人は見つからなかった。
少女は息を切らして、呼吸が落ち着くのを待った。
そして宙に向かって、
「あの、私、三代目です!」と叫んだ。
その声が、いつか夢路が叫んだときぐらいの距離感で、二人に届いたのかどうかは、定かではない。
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