軌道マンション
このマンションどんな人が住むのかなあ、とチラ見した後、ハンマードリルさんと呑み屋で落ち合う。本名は知らないが、何か破壊してくれそうなハンドル名に興味を惹かれて会ってみたら、話は合わないが波長が合うという変な感覚があって親しくなった。別に破壊してくれる系の人ではなかった。
「人間が生き残るのは物理だよ」時々よく意味がわからないことを言う。
「物理とか赤点でした。嫌いです」かなり年上なので一応敬語で話している。十年くらい前はすごいソフトウェア開発者だった、らしい。
「そっちじゃない! 物理学じゃなくて〝物理で殴る〟的な……今俺の仕事ね、物理なの。コードの実装は全部AIがやるし、テスト設計もテストコードも全部AIが作るから、俺はAIができないこと、PCIeカードをぶっ刺したりUSBメモリをぶっ刺したりLANケーブルをぶっ刺したりそれらを引っこ抜いたりするのが、俺の仕事。AIの指示で」
そんなものかと、フリーターで前の仕事が嫌になって辞めた俺は次の仕事を物理に決めた。
◇
「順番にお伺いします!」
マンションのエントランスがオートロックだと、まず各戸の呼び鈴を押して毎回この呪文を唱えてから中に入る。だが自分がここの担当になるとは……。
軌道エレベーター外縁マンション、略して軌道マンションは軌道エレベーター上に配置されている。とはいえびっちりと配置しては、いくらカーボンナノチューブとはいえ自重で倒れてしまうので、だいたい1㎞につき一戸配置されている。初めて来た時はコンシェルジュとやらが『住人エレベーターと勝手エレベーターは違うよ、勝手エレベーターはこっち』などと職業差別的な態度で言い、そこに乱暴に押し込んで『Gがかかるよ』と言って去っていった。
うちの宅配会社はAIではなく人間が管理するブラックで頭が悪く、世帯数で機械的に割って担当エリアの分担が決まる。俺はとんだ貧乏くじだった。そして初めて、最上階の住人に荷物を運ぶのだ。一体どんな奥さんが……と想像を巡らせたのは主にハンマードリルさんだ。
◇
「タワマンのお化けな訳だからとんでもない住人ヒエラルキーがあるはずだ。最上階にはどんなハイソな最高級有閑マダムが住んでいることか」
「有閑マダムは牛肉とかマグロみたいな扱いなんですか」
「マグロってお前……」
「今変なこと考えてます?」
「配達はまだ?」
「まだです」
「じゃあマグロかもしれないしものすごい肉食系かも。可能性は未知数」
「マグロは肉食魚です」
「よし、お前が肉食になれ! 目指せ愛人! 目指せ逆玉! 目指せヒモ! 物理で攻めろ!」
この場合の物理は何を意味するのか考えたくはない。なぜかいつもこんな馬鹿話ばかりしている。馬鹿話なのにこの時間は妙に心地よいのだ。
◇
今日は運が悪い。三軒のうち二軒が低層に固まり、一軒だけ最上階だ。勝手エレベーターは、高低差があるほどGが強くなる。このGについてコンシェルジュに文句を言ったことがあるが、私はコンシェルジュとしまして顧客起点でお客様に最大の満足を与えるのが使命ですお客様とはお金を払ってくれる人のことです住人ですお金とは共益費のことです共益費あなたの年収より高いよ、とノーブレスでまくし立てられその肺活量に驚いたことがある。
つまり勝手エレベーターは、住人用エレベーターと違い、快適性を保証されず迅速性だけを追求している。
低層の用は済んだ。また中に入ると気密される音と同時に加速する。過去最高のGがかかることになるが、覚悟したとはいえきつい。真空チューブの中を弾丸のように気密室が上昇し脳が沸騰する感覚がある。過去の記憶が流れてゆく。走馬灯か。走馬灯なのか。初恋のミキちゃん。いやそれは辛い思い出が。学校で、受験で、就職戦線で受けた数々の不条理。世の中はどうしてこうなっているのだろうか。俺は不条理な世界の犠牲者だ。そして。
急ブレーキ! 世界が反跳する。トランプの大貧民の〝革命〟を思い出す。世の中は何もかもひっくり返るべきではないのか。大貧民は大富豪に。有閑マダムは貧乏人に。
……そして気密が解かれる音がして俺は最上階に降り立った。
◇
出てきたのは特に化粧っ気のない女性だった。これが最高級有閑マダムなのか。
「ありがとう。荷物、お米でね、母から送ってきたの。今、日本中が米不足でしょう? こんな世の中に誰がしたのか、政治の問題は、結局国民全体の問題。貴方達若年層の政治的無関心が、この事態の一因になってるって、ここにいると考えたりする。宇宙線防御窓からね、成層圏と宇宙圏の境目が見えるの。人類はこの小さな惑星を一丸となって守らなければ――」
終わりそうになかったので俺は逃げた。
◇
「どうだった? 高級かよ? 最高かよ? あんなお高いところに住んでんだ」
「いえそんなことは。ただ……」
「ただ?」
「とても意識高いお方でした」
文字数:1999
内容に関するアピール
私事ですが数年前にマンションを購入しました。庶民なのでタワマンなど手が出ず、庶民的な階数の庶民的な価格のマンションです。そこで、現実のタワマンよりはるかに、高度でも価格でも高い超タワマンを舞台にしようと思ったのですが、例えば高さ十倍くらいではしょぼい。けど、もっと高くしたら建築が嘘っぽくなる。なら、軌道エレベーター上に配置してしまえと考えました。そんなお高いマンションの住人はどんなに凄い人なのか……というのは、現実でも、本当は別に「凄い人」ではなくて、「凄い人だと想像する人」の想像のほうが凄かったりするのでは、ということを考えながらこんなオチにしてみました。作中の物理というキーワード、これも私事が絡みます。さすがにAIに指示されるまで行っていませんが、ソフトウェア開発を全部テレワークで済ませたいのに、私はまさに文中に書いた物理のために出社していまして、その怨嗟も作品に込められています。
文字数:398