梗 概
エクイソイド
◾️テーマ
大テーマ(抽象的なテーマ):目的は手段より大切なのか?
小テーマ(具体的なテーマ):競馬なぜ速さを求めるのか?
◾️時代背景
未来の地球、競走馬に人工的な骨・腱・内臓器官などを移植して競走馬としての長寿命化とレースの高速化を図る技術が発達した。未来の競馬は技術と生命が融合した新スポーツとして観客を熱狂させている。
◾️技術
・エクイソイド(Equusoid)
人工的に強化された競走馬。ウマの属名(equus)+〜のようなもの(oid)
エクイソイドは生命倫理の遵守により強い技術規制が存在する
→具体案:馬体重を基準に一定割合の重量以上をエクイソイド化させないとする?人工器官の材料の規制?
◾️主な登場人物
人物1.平松佑磨(ひらまつゆうま):トレーニングセンター所属するエクイソイド技術者の青年。未来の競馬におけるエクイソイド技術者は、調教師と連携を行い技術規制や競走馬自身に適したガジェットの作成、メンテナンスに従事する。技術の進歩に迎合する一方、「馬が機械化(=肉体スポーツ一種の否定)」には疑問を持っている。
→本物語における主人公
人物2.下園若菜(しもぞのわかな):機械動物学の若手研究者。エクイソイド開発に関わる研究機関に務める。競走馬の機械化には急進的な立場をとっている。エクイソイドを「純粋に速くすること」を追求した秘密のプロジェクトに参画する。人物1とは大学の同期。
→主人公に対立する人物
◾️あらすじ
競馬は、競走馬が人工的に強化されたエクイソイドが人々は、生命とテクノロジーが融合した姿に熱狂していた。そんな中ある日開催されたレースでエクイソイドが入着後、突然暴走しそれを抑えようとした騎手、スタッフが犠牲になる事故が発生した。警察や倫理委員会が動き出す中、トレーニングセンターで「登場人物1」は重大な技術改竄の痕跡を目撃する。それは許可された改造限度を超えた使用されていた証拠だった。その真実を追求すると、そこにはあるプロジェクトの存在があった。
◾️エクイソイドを「純粋に速くすることだけ」を追求するプロジェクトとは?
・「エクリプス・プロジェクト(仮称)」
「登場人物2」が所属するプロジェクト。技術・肉体の限界を超え、エクイソイドをさらに速くすることを目的として立ち上げられた計画。各企業・研究機関がJV(ジョイントベンチャー)を組んで進められている。実験では、おしなべて規制から大きく外れる改造を施すためあるため、ほとんど秘密裏で行われている。
プロジェクトの参画メンバーたちは「人間の根源的な美の追求」、「知性・理性で実現できる力への求心」が信念として現れている。
◾️想定している結末
物語の終盤で主人公は「競馬とは何か?」、「速さとは何か」を自分なりに再定義する。つまり、速さそのものよりもそれを求めるプロセスに価値があると認識する。
文字数:1284
内容に関するアピール
売れそうかはともかく競馬好きでSF好きなので、それを絡めた作品を書いてみたいのが、素直なところです。
とはいえ、売れるものってなんぞやと考えたところ、単純に市場に強い訴求力を出しているものだな、と認識しているので、そこを意識して企画書を作りました。帯に「競馬×SF」というワードがあったら思わず手にしちゃいそうです(自分は)。作品自体は陰謀うず巻くミステリーを交差させて面白さを補強しつつ、幅広い年代の読者に読書体験を与えることができれば、と期待してます……。批評的要素には生命倫理や技術哲学を想定しているので、できるだけ入り組まないように作ります。もちろん、権利関係も細心の注意を払います。
先行作品を調べると、競馬SFの作品は「競馬の終わり(杉山俊彦 著)」という小説が出版されていますが、その他は自分の観測した範囲では見つけることはできませんでした。参考文献がありましたらご教示ください。
文字数:398
エクイソイド
美浦の朝に熱が籠る。凍てついた空気に湧き上がる霧にも似た滑らかな蒸気が金色に焼けた日差しに照らされている。
平松佑磨はネビュラフレイムに騎乗し、調教を終えたあとのクールダウンのために森林馬道を歩かせていた。暗いうちから準備したおかげで、誰にも踏み荒らされていない綺麗な調教コースを走らせることができた。一回だけ走らせただけで早引きした。この馬道には、佑磨とネビュラフレイムだけしかいない。薄く凍りついたウッドチップに蹄が落ちるたび、霜が砕ける音だけが静寂の中に響きわたる。他の馬はきっとまだ調教やウォーミングアップをしているのだろう。耳をすますと、遠くで他の馬たちの蹄鉄の音がかすかに聞こえてくるが、それがこの一人と一頭だけの空間に、はっきりとした境界を与えていた。
ネビュラフレイムは満年齢にして四歳を迎える牡の競走馬だ。自身が所属する厩舎で、馬主から預託されている。怪我から回復していらい初めてのトレーニングで、実に一年ぶりのことだった。
調教中のネビュラフレイムはかなり入れ込んでいた。追馬場で駈歩をさせてやってから、ずっとそのような感覚が手綱越しでよくわかった。坂路を単騎で軽く走らせただけとはいえ、そうなってしまうのも仕方がない。走ること自体が久々なのだ。馬体は熱く蒸気し、汗の筋を残している。黒鹿毛の毛並みに滲む汗が日差しを受けて宝石のような光沢をまとっている。
しかし、気になるのは肉体的な疲労よりも精神的な興奮の方だ。せわしない足取りと、耳をぴくりと動かし、わずかな物音にも敏感に反応する様子はまだ完全には気持ちが落ち着いていないことの証拠で、それが佑磨の親心を独占していた。
よし、落ち着いていこう。佑磨はネビュラフレイムに耳打ちして、首筋を撫でながら僅かに手綱を緩めた。するとそれに応えるように歩様のリズムはゆったりとしたものになり、筋肉の緊張が徐々にほどけていくのを感じた。ネビュラフレイムの四肢には、いまだにほんの僅かなぎこちなさが残っていたが、それは佑磨だけが気づける程度の微細な違和で、過剰に心配するほどでもない。佑磨はひとまず安堵し、そのまま馬のリズムに委ねた。
道の両側にそびえる常緑樹の影が、馬の歩みに合わせて足元を切れ切れに横切っていく。木々の間をすり抜ける風が、夜の残り香を洗い流す。佑磨は鞍の上で静かに腰を沈め、馬の動きに体を預けながら、上気した馬体の感触を確かめた。佑磨が培った感覚が告げる。これぐらいなら馬房に戻っても良い具合だ。
厩舎近くまでたどり着くと、一人の人影がこちらに向かってくるのが見えた。厩務員の岡島だ。
「お疲れ様です」
岡島は挨拶しながらネビュラフレイムの馬銜にリードロープを取り付け、馬房の前まで誘導した。所定の場所で馬を停止させると、佑磨は鞍から降りた。
「どうでした、ネビュラの具合は?」と岡島が問いかける。
「身体のキレは悪くない。ただ、どうしてもかかってしまうところがあるかな。これが久々のランだからなのか、この子の性格上の理由なのかはわからないけど──事実として、調教後も落ち着かない場面があったかな」
ゼッケンと鎧を馬体から外しながら佑磨は答えた。
「とにかく、焦りは禁物って感じだろうね。そう先生に伝えるつもり」
先生とは業界内の通称で、厩舎の代表者たる調教師を指している。調教や出走方針は基本的に調教師の指示によって行われる。今日のネビュラフレイムは、坂道コースを一回走らせるのみと指示された。
「ということで報告したいけど、先生はどちらに?」
そう訊ねてみたものの、管理馬の出走予定を考慮すると、どこにいるかはある程度予想がついた。今日は木曜日で、週末にはGⅠ競走がある。
「この時間だと先生ならまだトラックだと思いますよ。セトちゃんの追い切りを見ているはずなので。」
まあ、さもありなんだな。佑磨は後頭部をかいた。「セトちゃん」は愛称で、ソウウンセトという競走馬を厩舎内でそう呼んでいる。馬主の冠名「ソウウン」とエジプト神話における砂の神「セト」を組み合わせた名前だ。
ソウウンセトはこの週末、東京競馬場で行われる「フェブラリーステークス」に出走する。ソウウンセトにとっても、この厩舎にとっても初めてのG1レースだ。それだけに朝の打ち合わせから厩舎の雰囲気は張り詰めていた。そして、ネビュラフレイムの調教を早めに行ったのも、そのような雰囲気からなるべく離れていたいという思いもあった。
「了解。そのままネビュラの手入れをしてから診療所に連れていくよ。岡島さんは他の子たちを迎えてあげて。」
岡島が了承すると、その場から足早に立ち去った。一息つく暇もなく、佑磨はグルーミングの準備を始めた。
少し痩せてしまったな。佑磨は馬体にブラシをかけながらそう思った。エクイソイドを艤装する以前は、トモの様子はもっと盛り上がりがあったと記憶している。相変わらず素直だが、牡馬にしては人懐っこい性格も、いつの間にか心を閉ざしてしまった。足元に目をやると、人工の脚がしなやかに伸びている。三本はネビュラの毛色に合わせて黒く塗装され、左後ろだけは白色に施されていた。
エクイソイド。それを生物と呼ぶにはあまりに機械じみた響きだと、佑磨は何度も思っていた。かつてサラブレッドだったネビュラフレイムは、人工の四肢を得て、新たな姿に生まれ変わった。腕節から先の部分は無機質な光を鈍く放ち、まるで生命の一部ではないかのような硬質さを持っている。しかし、その義体は、生命と非生命の間で限りなく似ているものだった。根本的には、セントラルドグマの設計図から生成されたタンパク質由来か、工房で組み上げられた炭素繊維強化プラスチック由来かの違いでしかない。それがエクイソイドの真骨頂──生き物の柔軟さと人工技術の精密さの融合だった。
今やエクイソイドは、現代競馬が作り上げる風潮の最たる要素になっている。
その姿を手に入れるには、大規模な手術が必要だ。HV手術。半世紀前、歴史上で初めてエクイソイドとなった伝説の競走馬、ハイパーヴェロシティの名を冠したその手術は、治療というよりも競走馬の身体能力をより高みに昇華する儀式のようなものに近い。患部とその付近の肉体を切除し、代わりに人工器官を艤装する。術後は最低でも一年のリハビリが必要になるが、その後、良好な経過であれば競走に復帰できる。怪我をする前よりもパフォーマンスが上がるケースが多い。実際、ハイパーヴェロシティは普通なら予後不良──その場で安楽死させるほどの怪我を負ったにもかかわらず、最終的に二十歳まで現役を続け、通算二百戦のレースを走り切った。そしてタイムは手術以前より速かった。
今や怪我をした競走馬にHV手術を決断する馬主が大多数を占める。愛馬を長く走らせてやりたい、という慈悲もあるだろうが、それは結局、速さというものに対する愚直なまでの欲求に裏打ちされている。
午前八時になると、厩舎と調教馬場に位置する調教スタンドという区画には、競走馬や競馬関係者たちが殺到していた。茨城県美浦村にあるJRAのトレーニングセンターには、三桁にわたる厩舎があり、およそ二千頭の競走馬がトレーニングを積んでいる。早朝に行われる調教は、週末が近づくにつれて、レースを控えた馬たちでごった返すようになり、自然発生的に独特な緊張感を作り上げている。この空気感はどこか居心地の悪い感覚もある。ジョッキーを引退し、実践から遠ざかった今では心構えの作法を忘れてしまったのかもしれない。
作業にひと段落ついた佑磨は、人混みの中をひょいひょいと避けながら歩き、探し人の背中を見つけて声をかけた。
「颯さん」
「お、佑磨」
振り向いた顔には、若干の疲労感が窺えた。
「ネビュラの調教、終わりました。指示の通り坂路を流しで一回。今は診療所に預けてエクイソイドの具合を診てもらっています」
「そうか」
颯が返すと、お互い黙り込んでしまった。通常なら、向こうから饒舌に質問してくるために油断してしまった。馬体の調子や走った時の感覚など、もう少し深く掘り下げて話してくるものだが、今日に関しては口数が少なかった。これはかなり忙しそうだなと考えた佑磨は、さらに伝えた。
「詳しくはトレーニングノートで報告しておきますね」
「ああ、ありがとう。えっと、ごめんよ、ネビュラのこと任せっきりで」
「しょうがないですよ。今日は一段とお忙しいんですから」
東野厩舎はトレセン内でも比較的新しい部類に属する。調教師の東野颯も三十三歳と若手に数えられる。父・琢朗の厩舎で修行を積み、三年前に念願の免許を取得した。父の引退を機に開業したが、所属馬のほとんどを他厩舎に譲り渡していたため、実績はゼロに近い。それでも颯には馬を見る目があり、着実に結果を残してきた。
そのような経緯もあるためか、颯に対する注目度は高かった。新進気鋭の若手調教師、GⅠに初挑戦──そんな見出しだけで一面を十分に飾れる。それゆえ、この騒ぎは当然のような気もするが、反面、この落ち着きのなさは異例に感じられた。本人から聞いた話によると、佑磨が声をかける前までスポーツ紙各社から矢継ぎ早にコメントを求められていたらしい。午後も引き続きその調子だという。
言葉を選び取る難しさと気苦労は、佑磨もジョッキー時代に幾度となく経験しているため、いくらかは同情の念があった。ただ、調教師という立場では、また異なる重圧があるだろう。それゆえに、軽率なアドバイスは控えた。
「セトはどうでした」
「ジョッキーの所感でもキレは問題ないと言っていた。側から見ていてもズブい様子は見受けられない。まあ上位人気までは厳しそうだが、いい勝負はできるんじゃないかな」
「そんな弱気でいいんですか せっかくのGⅠなのに」
「現実的な話だよ。セトはまだエクイソイド化していないんだ」
「それでも重賞は勝てていますよ。武蔵野ステークスの走りはこれ以上ないものでしたし」
重賞とは、レースの中で特に賞金額が高い競走のことだ。賞金の高さに応じて、GⅠからGⅢと格付けされる。その下にはグレードのつかない特別競走があり、さらにその下には条件戦がある。武蔵野ステークスはGⅢに位置し、前年の秋に行われたレースでソウウンセトはレコード勝ちを収めていた。
勝算は十分にあるはずだ。しかし颯の見解は異なっていた。
「古馬戦線に加わってからはどうだろうか。本格的になってくる秋以降、前年クラシックで走っていた強豪たちがこぞってエクイソイドになって帰ってくる。もはや違う世界になるのは、佑磨、君だって、騎手生活でわかっているでしょうに」
最後は冗談めかしく笑いかけられる。そのあまりにもシニカルな笑みに、佑磨もつられて笑ってしまった。ただ、自分が育てた馬を信じていないような言葉はどうしても見過ごせなかった。
「取材陣の前ではそんなこと言わないでくださいよ」
颯は一瞬、眉間に力を込めたが、自分の発言を省みたようにハッとし、それから顔を伏せた。
「そうだな ごめん 少し皮肉っぽくなってしまった」
「気持ちはわかります 俺も昔よくやってしまったので 琢さんからもしょっちゅう怒られてました」
「そうか まあ勉強あるのみだな」
そしてこの週末の予定を改めて共有してから、それぞれの仕事のために別れた。土日とも預託馬は出走するため、東京競馬場でレースを臨場する予定だ。
声と声がぶつかり合い、笑いが波のように広がる。正午を過ぎたばかりの食堂はテーブルがほとんど埋まっており、空席を見つけるのもひと苦労だった。新聞を広げる者、タブレットを操作する者、それぞれの手元には紙コップが置かれ、湯気を立てるコーヒーの香りが漂っている。
喧騒の渦の周縁部に二人席が一ブロックだけ空いているのを佑磨は見つけた。近づいてみると、片付けの終わっていない水滴の輪がテーブルに残っていた。佑磨は小さく息をつき、トレイをそっと置く。その拍子にラーメンのどんぶりとコップの縁が微かに音を立てた。
ちょうど隣では、騎手たちがレースについてお互いに批評しあっているようだった。身振り手振りを交えながら語り合い、その背後をトレイを持った厩務員たちが忙しなく通り過ぎる。話の輪はいつしか膨らみ、ひとつのテーブルを囲む人数が増えていく。視線の先にはタブレットの画面があり、誰かが指先でスクロールするたびに小さなうなずきが連鎖していた。
真面目なのは結構だけど、そういうのはスタンドとか厩舎でやってくれよ。佑磨は内心で悪態をつきつつ、目の前のラーメンにありつこうとした。
「うまそうだな」
佑磨の箸を持つ手がびくりと震えた。久しく聞いていない声色だった。顔を上げると、目の前には騎手時代の同期、野上義勝の姿があった。横でああだこうだと言っていた連中の一人が彼の姿を認めると、一斉に立ち上がって挨拶し、それから席を足早に立ち去った。
「久しぶり、義勝」
佑磨は馴染んだ呼び方で返す。野上は騎手らしく低身長かつ痩身だが、その肉体は他の若手騎手たちと比べても一線を画している。しなやかな体躯は必要以上の贅肉を持たず、いわば役割そのもののために最適化された機械のようだった。いや、そんな比喩ですら陳腐に感じるほど、美しく、生々しい力強さに満ちていた。
「ずいぶんそっけないな わざわざ栗東から来てやったんだぜ」
「こう見えても驚いてるんだよ まさか去年リーディングを獲ったスタージョッキーに声をかけてもらえるとはね」
「相変わらずだな その大袈裟な言い方」
「俺なりの祝福だと思ってくれたらいいよ」
「そうは聞こえんが?」
「──追い切りに乗るために来たのかい?」
佑磨が訊ねると、野上は頷いた。中央競馬において美浦が東日本の調教拠点であるなら、西日本の調教拠点は滋賀県の栗東にある。厩舎と同じように、騎手もそれぞれのトレセンに拠点を構えている。トレセン間をまたいで調教することは決して珍しいことではない。
しかし、彼の遠征の目的が調教だけでないことは明らかだった。
「カチあうことがあったら、手加減してくれよ うちの厩舎はG1初挑戦なんだから」
「ほほう 何もフェブラリーステークスに乗るとは限らないだろう」
野上は悪戯っぽい笑みを浮かべた。その表情を見た瞬間、佑磨は確信した。こいつは絶対、明後日のメインレースに騎乗してくると。まだ確定していない。騎乗予定を含めた出馬表が出揃うのはこのあと午後三時だ。しかし、予想は容易だった。ここまで来たということは、こちらの調教師から要請されたか、自分の主戦競走馬が出走するかのどちらかだろう。どのようなグレードのレースでも、追い切り──最後の調教は、騎乗予定の騎手に任されるに決まっている。
佑磨は黙ったまま、彼を見据えた。すると、野上はけたけたと渇いた笑い声を上げた。
「まあ、お前が同じレースに乗ってたりしたら多少はしてただろうな 同期を落馬させたりしたら気分が悪い」
「落馬しない、させないは前提でしょう」
「余計に、気分が悪くなる」
彼は『余計に』を強調して言った。若い頃は潰し合ってなんぼだと言っていたが、考え方が変わっているようだった。生き残った立場になると、その哀しみに執着するのだろう。この年代になると、様々な理由で騎手という職業を去る者が増える。もちろん佑磨もその一人だ。
「話の続きは競馬場で聞くから、早く行った行った 。言っとくけど、減量中のやつに飯を食う姿を見せつける趣味は俺にはないからな」
佑磨は手の甲で宙を払い、追い払う仕草をした。
「わかったよ じゃあ、午後どっかで話そうぜ──どんな予定なんだ」
「出馬投票はもう終わらせたから、昼寝して午後は厩務作業かな」
出馬投票とは、週末のレースに出走するための登録申請のことだ。通常は厩舎メンバーが行う。
「だから、今日は無理だろ お前だってこっちでやることがあるんだろう」
騎手の行動様式などわかっているんだ、と視線で訴える。明日の調教予定の確認、厩舎の挨拶や営業回り、勝負服の支度。やることは盛りだくさんだ。
「わかったよ じゃあ次は府中でな」
野上が立ち去った後、昼食を平らげた佑磨は、もうしばらく席についていた。飲み干したガラスのコップと、湯気を立てる紙コップのコーヒーの香りがぼんやりと視界に浮かぶ。彼は、野上が訪ねてきた真意について考え込んだ。
野上は午後の予定を訊いてきたが、午前中の作業については適当に誤魔化そうとしていた。もし万が一、リハビリ中のエクイソイドに乗っていることを知られたら、十中八九「戻ってこい」と言われるだろう。その台詞は、佑磨と顔を合わせた時の野上の口癖だったからだ。
※
佑磨が初めてその異質な感触を覚えたのは、競馬学校のトラックコースだった。実践課程も終盤に差し掛かり、全員がエクイソイドへの適応を問われる時期だった。砂のトラックに並んだ同期生たちは、緊張を隠すように互いの顔を見つめ合い、騎乗前の沈黙の中でごくりと喉を鳴らす音さえ聞こえた。
初めてエクイソイドに跨った瞬間、佑磨はそれがこれまでの馬とは異なることを即座に悟った。合金と炭素繊維で構成された脚部が砂地を叩きつける感触が、馬体から鞍を伝わり、彼の股関節に突き刺さる。駆動の一瞬一瞬が異様に鋭く、かつ規則的な反動を伴って押し寄せた。
走らせろ──。
回顧すると、そのような原始的な問いかけが脳裏を捲し立てていたのは、無線で指示を送る教官の声ではなく、その馬自身から煽り立てられているのに他ならなかった。ゲートが開くのと同時に、佑磨は反射的に手綱を軽く引き、馬体を促すために両膝をわずかに内側へ寄せた。
すると次の瞬間、風が牙を剥いて彼を引き裂こうとする感覚が襲った。エクイソイドの四肢が信じられない速度で地面を蹴り、馬体はまるで重力を拒絶するかのように加速していく。手綱に伝わる力は、その馬のエゴイズムによって推進する暴力そのものだった。彼の全身はその力の奔流に巻き込まれ、かろうじて姿勢を保ち、エクイソイドに使嗾されている現実を受け入れることしかできなかった。従来の騎乗技術が通用しないことを骨身に叩き込まれた。
数分間の疾走を終えて馬を止めたとき、佑磨は自分の息が完全に乱れていて、時間差で目の前が朦朧としていたことに気がついた。自分の意識を保つだけで精一杯だったが、同期生の中には耐えきれず失神する者もいたという。
競馬学校を首席で卒業した佑磨は、旧東野厩舎に所属する騎手としてデビューを果たした。十八歳という若さで挑んだ初戦、札幌競馬場の芝一八〇〇メートルの未勝利戦は、彼にとって決して忘れることのできない一日となった。その日は雨が降りしきり、夏にしては気温が低かった。雨によって馬場は不良と判定され、佑磨が騎乗する馬の単勝人気は最下位だった。経験の浅い若手にとってはこれ以上ないほど厳しい条件だったが、佑磨にとっては、それさえも現代競馬が顕然する新たな世界を構成する試練の一部でしかなかった。
初めて騎乗したエクイソイド——ブラストシーカーは、彼に応えるように重い脚部を力強く叩きつけ、泥を背後に跳ね飛ばした。スタート直後から佑磨は手綱を柔らかく握り、道中は一定のリズムを保った。馬体の挙動を細かく計算し、自分の体重移動と完全に同調させる。その感覚は、まるで機械と生物の境界領域に立つ存在になったかのようだった。
最後の直線。佑磨の視界に広がるのは、跳ね上がる泥しぶきと他馬の背中。そして一瞬、風を切る鼓動が耳を塞ぎ、視界が広がる瞬間。佑磨の心身がブラストシーカーの馬体と完全に同化する感覚を覚えた。そのまま鞭を軽く入れると、ゴール板を一着で駆け抜けた。
結果はデビュー戦での勝利。しかし、ゴール後に気づいたのは、乱れた呼吸と低体温症に必死で抗う自分の姿だった。
その後、佑磨は騎乗数こそ少なかったものの、乗るたびに勝利を重ね、二年目の秋にGⅠの勝ち鞍を手にした。その快挙は、同じくデビュー二年目でタイトルを獲得した武豊になぞらえられ、「新たな天才騎手の登場」として世間に大きな衝撃を与えた。
天才と呼ばれることに慣れていく過程で、佑磨は自分の中で何かが少しずつ変わっていくのを感じていた。タイトルを獲得したウィナーズサークルの華やかな表彰式の場ですら、彼の胸中に執拗に残っていたのは、自らの身体と馬体との境界が曖昧になる感覚だった。それはまるで、かつて純粋に競技へ向けていた情熱が、どこかで霧散しつつあるような違和感だった。
その違和感がついに形を持って現れたのは、騎手生活五年目の秋だった。中山競馬場の芝コースは曇天の空の下、レースを重ねて荒れ気味の馬場が広がっていた。佑磨が騎乗したエクイソイド、フォーチュンウェイは、その状況下でも冷静だった。精密な駆動を可能にする脚部は芝の隆起をさらに抉り取り、非情なまでの精密さで加速していく。それこそが、生物と機械の融合による競技としての進化の証だった。
しかし、最後のコーナーで、すべてが崩れ去った。
フォーチュンウェイの前脚がわずかに滑り、数センチのピッチのズレが生じた。誰もが見逃すような些細な誤差。しかし佑磨は、その誤差を乗り越える操作にわずかに遅れてしまった。次の瞬間、視界が反転し、空間が引き裂かれる音が耳を劈いた。フォーチュンウェイは前のめりに崩れ落ち、宙に投げ出された佑磨の身体は、背中から地面に叩きつけられた。泥の感触、そして背骨を突き上げる衝撃。鈍色の空が白い閃光に包まれ、そこから彼の意識は途切れた。
視界が再び広がったとき、目の前にあったのは病室の天井だった。
「復帰できるかどうかは、君次第だよ」
医師は淡々と告げた。希望を与えるでもなく、絶望を強いるわけでもない、その曖昧な言葉が佑磨の心に静かに響いた。
それからの数年間、佑磨は競馬という世界を内側からではなく、壁を隔てた向こう側から眺めるような日々を送った。
最初のうちは「復帰を待っている」と、同期やファンの温かな言葉に背中を押されるような気がしていた。騎手免許はまだ残っているし、他厩舎の調教師や厩務員から「いつでもいいから戻ってこい」という声も聞こえてきた。しかし、そんな希望の一言が、いつしか自分とは関係のない遠くの世界の音のように感じられる日が増えていった。
退院して自宅療養に入り、本格的に現役復帰を目指してリハビリを始めたとき、佑磨は自分の体質の変化に気がついた。体重が規定を下回らない。正確には、エクイソイドを操るために必要な筋肉量を確保しようとすると、どうしても規定を超えてしまうのだ。療養生活によって筋力と骨格のバランスが崩れたせいだった。食事制限をより厳しくしても痩せられない。小鉢のサラダですら口にすると焦燥感と強迫観念で吐き出してしまう。
心と体を限りなく摩耗させながらも、それでも足掻くように、再び鞍上に戻る夢を追い続けた。
しかし、ある朝の冷えた空気の中、馬の呼吸や歩様をチェックするたび、佑磨はかつて鞍の上から感じた鼓動の記憶が鮮明によみがえり、それが胸を刺す痛みになっていることに気づいた。
「乗ってみなよ。少しずつ慣らしていけばいい」
鞍を差し出す厩務員の声に、佑磨は曖昧に笑うしかなかった。何かが確実に変わってしまった。心身を賭してまで再び乗ることを考えると、身体がこわばり、汗がにじむ。そのとき初めて、彼は落馬事故がもたらした影響の大きさをはっきりと悟った。
そして夜になると、決まって悪夢が押し寄せた。かつてスタートゲートの扉が開いた瞬間に感じた高揚と恐怖が混じり合った鼓動が、今では自分を飲み込む闇のイメージと重なって息を詰まらせる。背中に走る衝撃の余韻が、枕を濡らすほどの汗となってこぼれ落ちる。
もう無理なんじゃないか……。そう呟くと、ひとつの答えが喉元で固まる。騎手という仕事そのものへの情熱が、どこかで綻びを見せているのだ。同期の野上に会うたびに「一緒にレースを盛り上げよう」とさいさんの励ましをかけられたときでさえ、佑磨は笑顔の裏にほんのわずかな後ろめたさを潜ませている自分に気づいていた。
ある朝、東野琢朗調教師に呼ばれ、厩舎の事務所に足を運んだとき、それが終わりの合図だと佑磨は直感した。古い木製の机の上には書類が広がり、馬の輸送や飼料に関するチェックリストが積まれていた。その中に、佑磨の騎手免許に関する記述があった。
いかなる理由があろうとも、三年間、騎乗実績がない騎手は更新が認められない。そして、その三年目が直前に控えていた。
「辞めるか、馬に乗る形を変えるか、それだけだ」
先日、病室で告げられたのと同じ言葉が、ここでも繰り返された。調教師の言葉は鞭のように痛烈だったが、不思議と冷ややかな響きではなかった。
佑磨はひとつ深呼吸をして、背筋を伸ばした。騎手を続けるには身体の負担が大きすぎる。身長や体重管理だけの問題ではない。落馬事故の記憶も、あの悪夢のような空中感覚も、彼をこれ以上の挑戦へと駆り立てる意志を消し去ってしまったのだ。
「調教助手に回ります」
そう告げると、琢朗はほんの少しだけ目を伏せ、椅子を静かに立ち上がった。彼の肩に置かれた手は、どこか柔らかな温もりを持っていた。
療養期間を終え、調教助手として本格的に始動した佑磨の朝は、馬房の雑務と飼葉の管理で始まり、馬の様子をつぶさに観察する日々へと移り変わった。かつてのように鞍の上から馬を導くことはなくなったが、馬と共に過ごす時間が減ったわけではない。華やかな表彰式のステージにはいないが、それでも馬の息遣いや四肢の微妙な違和感をいち早く察知できる自身の感覚が、何よりも大切だと感じられるようになった。
自分の騎手寿命は短い──佑磨はそれを身長が一七二センチという、騎手にしては高身長な自分の体格から、以前から予感していた。それでも速度と勝利を求めて全てを賭けてきた。だが今、立場を変えて見つめることで、馬という生き物への向き合い方もまた変わるのだと実感している。結果的に騎手という夢を手放す形にはなったが、むしろ身体が完全に壊れる前に退くことができたのは、ある意味では僥倖だったのかもしれない。そう言い聞かせながら、佑磨は日々の仕事に向き合っていた。
※
まだ厩舎の通路には、溶けた霜の残り香がかすかに漂い、ひんやりとした空気が満ちていた。午後の作業に向かう途中、佑磨はすれ違う厩務員たちに軽く会釈を返しながら歩を進める。
「──へぇ、エクイソイドの技術者の方がこちらに訪ねてきたと」
馬房に到着すると、一足早く作業の支度を進めていた岡崎が、そのような報告をしてきた。岡崎は厩務員としてのキャリアは浅いものの、その素直さと気配りの良さで厩舎内でも評判の高い存在だ。
「そうなんです エクイソイドの馴致担当に会わせてほしいって、そんなことを言われました」
「先生じゃなくて、わざわざ俺に対して?」
「はい 診療所から厩舎へ曳いてきたときにちょうど声をかけられて、東野先生をお呼びしましょうかって伝えたら、それよりもそっちの方に用があると言われまして」
「その他には何か言ってた?」
岡崎は首を振った。
「何も言わずに、名刺だけ渡されて帰っちゃいました。あんまり慌ててない様子だったので、そんなに重大なことでもないのかなって思いますが」
岡崎から名刺を受け取り、ざっと目を通してみると、見覚えのある企業ロゴが書いてあり、その場で佑磨は小さく頷いた。株式会社BOTE。バイオモーション・テクノロジー・エンジニアリング。
「岡崎、そりゃそうだよ この会社、ネビュラフレイムに艤装しているエクイソイドのメーカーだから」
「マジすか! すいません勉強不足でした」
「まあ、知らないのも無理はないよ。業界でも新興企業だし、かなり質の良い仕事をしているって印象はあるけどね」
印象、というのはあくまで現時点での評価に過ぎないものだ。近年では、BOTE社はエクイソイドのパーツを独自開発し、従来より三%ほどの高速化を実現したと謳っている。ただし、それは瞬間的かつ副次的な機能に過ぎず、本質的な評価が下されるにはまだ時間が必要だ。エクイソイドという技術が競走馬の引退まで永続的に役立つものであることを証明するには、少なくとも約二十年のモニタリング期間が必要だからだ。
「ということは、やっぱりネビュラのエクイソイドについて聞きたいことがあって訪問に来たんでしょうかね」
岡崎がそう言うと、佑磨は少し間を置いてからうなずいた。
「まあ、そうだろうな。それ以外の理由は考えにくい」
しかし、佑磨は訝しんだ。何かが引っかかる。たまたまトレーニングセンターに立ち寄る予定があったにしては、何も具体的な質問をせずに帰ってしまうのは奇妙だ。さらに、岡崎の話では、名刺を渡しただけでその場を去ったという。そんな状況がどうしても腑に落ちなかった。
「……それで、その担当者の名前は?」
「確か……下園若菜さんとか言ってました」
聞き覚えのない名前だった。少なくとも、ネビュラフレイムの馬主とエクイソイドを検討していた際に接触した営業担当者の名前ではない。それどころか、まったくの別人だ。
「エクイソイド開発室 主任研究者 下園若菜、さん……」
佑磨は名刺に記されている情報を訥々と読み上げる。連絡先は外線の電話番号のみで、個人に通ずる連絡先はない。技術関係を扱う会社では一般的な表記だけど、ひどく不親切だなと佑磨は思った。それよりも『主任研究者』という肩書きが目についた。それほどの立場の者が動く必要が出てくるほどの事態があるのだろうか。岡崎の発言を信じれば、それほどの緊急性もなさそうに思える。
「佑磨さん、ちょっと──」
岡崎が何か見つけたようにハッとして指差してきた。名刺を裏返してみると、表とは別の電話番号が手書きの文字で書かれていた。明らかに携帯電話のものだ。
そして右下には同じ筆跡で小さな文字で、一行だけ添えられていた。
『明後日の土曜日、東京競馬場でお会いできますか? 下園』
※
土曜日の朝、佑磨は指定されたとおり東京競馬場の観客席へと足を運んだ。二月の冷え込みはまだ厳しく、風が抜けるたびに鉄が貫くような鋭さも覚える。晴天とはいえど、時より薄い雲が被ると、コースの一部が影に包まれる。待ち合わせに場所に近づくと、整然と等間隔に配置されたスタンド席のうち一つにぽつんと座りながら身を前傾させている女性がいた。その姿は、どことなく周囲の喧騒から切り離されているようだった。
「おはようございます。まどろこしいことをさせてしまい、すみませんでした。わざわざ足を運んでいただいてありがとうございます」
佑磨が挨拶すると、目の前の女性は静かに頭を下げながらそう返答した。そして名刺を渡してくる。彼女が下園若菜だと確信した。第一声を聞いたときの電話で聞いた声色と一緒の印象だった。
かなり優秀な人なんだな。それが彼女に対する佑磨の第一印象だった。口調は全体的に落ち着いていて、言葉は淀みなかった。初対面ゆえの特有の探るような世間話も会話していて心地よかった。
年代は佑磨と同じくらいか少ししたあたりだろうか。きっちりと着こなしたブラウスとジャケット、それにゆったりとしたスラックスを履いている。洗礼された服装だが、その上に野暮ったい紺色のブルゾンを羽織っている。自分が技術屋で、これが自分の属している世界の正装だと、わざわざアピールしているようにも思えた。佑磨もまた競馬場における正装を身にしている。黒いスーツのセットアップだ。
競馬場の賑わいに包まれて、ふたりは自然と仕事の話へと移った。
「急にお呼び立てしてしまい申し訳ありません。ただ、直接お会いしてお話しした方が良いと思いまして」
「何か問題でも?」
そう問うと、下園は首を横に振った。
「いえ、問題があるわけではありません。むしろ、ネビュラフレイム号のこれまでのリハビリ状況について、より詳しく伺いたいと思いまして」
そう言いながら、彼女は鞄からタブレットを取り出し、画面を佑磨に示した。そこには、エクイソイドの関節や腱に関するデータが点群やグラフの形で映し出されていた。
「これは?」
佑磨が眉を寄せると、下園は説明を始めた。
「これは新しい制御システムの一部です。馬の歩様や走行時に発生する微妙な動態をリニアに検知し、それを基に学習データを構築していくシステムです。関節の可動域や筋力の動きに合わせて、最適なフォームを維持できるようにするものです。ネビュラフレイム号の場合、馬体の癖に合わせてさらに理想的な動きを引き出すことが可能になります」
彼女の言葉は理路整然としていて、専門家としての自信が感じられるものだった。それに熱弁をふるう姿は、まるで自分の子どもを誇る親のようにも見えてどこか好感が持てる。佑磨は、素直に関心しつつ、しかし、そこまでして速くする意義は一体何だろう、とも考えてしまう。
「速さが美しいということは、きっと誰もがわかっている。けれどもそれは削ぎ落とされた美しさです。それによって、何か失うものはないんですか?」
不意に口から漏れた言葉に、下園は少し首を傾げた。
「観客が求めるのは、速い馬、強い馬です。それに応えるための技術を提供するのが、私たちの仕事です。もちろん、これが唯一の答えではないかもしれませんが……私は、それこそが競馬のエレガンスだと考えています」
彼女の言葉には揺るぎない信念が込められていた。そこで問われるのは期待と速さの先にあるもの。馬と人間の限界を押し上げる行為は、彫刻的な美しさに類する。その捨て去られたものには、どれほどの代償が含まれているかを、佑磨はまだうまく言葉にできない。
質問を、変えることにした。
「では、一昨日、来られた際は自分だけに用件があったと連絡を受けましたが、それはどのような意図があるのですか」
HV手術以降のネビュラフレイムの近況は口頭でちくいち報告している。さらに文書としてまとめている厩舎の間で共有しているから情報は確実に組織化されている。状況の十全を誦じて説明できるのは、確かに佑磨のみだろうが、そのとき応対した岡崎だって多少、深入りした質問を求めらても答えられるくらいはできた筈だ。一度も話題に触れることしなかったのはやはり違和があった。
「むしろ、私が興味あるのは騎手の方です。平松さん。『現代』と称される競馬時代が始まっておよそ十五年は過ぎましたが、『六ハロン六十秒の壁』を破って以降はタイムが横ばいです。それは騎手の技巧の面も考えられます──過去のレースを観させていただきました。今も昔も、あなたが一番エクイソイドを操っています」
「そう、ですか」
下園の視線は真っ直ぐだった。その瞳には、強い意志が宿っているように見えた。
二人はその後、スタンド下の通路を歩きながら、次回の調整スケジュールなどを簡単に話し合った。そして最後に下園は、笑顔を浮かべてこう言い残した。
「また近々、厩舎の方へ伺いますね。いろいろとお話を伺えることを楽しみにしています」
そう言って去っていく下園の背中を見送りながら、佑磨はしばらくその場に立ち尽くしていた。
その足で、佑磨はパドックへと足を進めた。次のレースに臨む馬たちの姿を確認したかったからだ。すると、一角で同じく馬の様子を眺める痩身の男がいた。同期の騎手、野上義勝だった。
「一昨日ぶりだな。やっぱりお前はスーツじゃなくて勝負服が似合ってるよ」
「黙ってくれないか?」
義勝の軽快な声に、佑磨も自然と笑みを浮かべる。雑談を交わすうちに、つい先ほどまで下園と話していたエクイソイドのことが頭をよぎった。ふと口を開く。
「なあ、義勝……最近の馬って、速さのためにどんどん人工的になるけど、これで本当にいいのかな」
「どうした? らしくないな。まあ当然、速い方がいいに決まってるだろ。速くなければ勝てないし、観客も盛り上がるし」
そう言って肩をすくめる義勝には迷いなど見当たらない。だが、それがかえって佑磨の胸に小さな棘を残した。
「そう、だよな。だけど……」
言葉が続かない。自分が何を不安に感じているのか、まだ輪郭がはっきりしない。ただ、かつて鞍の上から味わった生身の馬の躍動が、いつの間にか別の何かに置き換わりつつあるような気がしてならない。速度を極限まで引き出す技術を誇らしげに語る下園の姿と、まるで当然のようにそれを受け入れる野上の表情。
そんな光景を見ていると、競馬はなぜ速さを求めるのかという問いが、不意に背後から佑磨に呼びかけるかのようだった。
パドックの周縁からタキシード姿の係員が「とまーれぇー!」という合図を送る。厩務員に曳かれながら周回するサラブレッドやエクイソイドはその場で歩みを止め、騎手が騎乗のためそれぞれの馬に小走りで向かう。野上も、行ってくるわ、と佑磨の肩を叩きながら駆けだした。全出走馬の鞍上が確認されてから、レースへ臨むため、二頭の誘導馬のもと、地下馬道へくぐっていく。
その列の最後尾に、ゲートの外枠スタートを示すピンク色のヘルメットを被った野上は緊張した面持ちを見せていた。ゆっくりと遠くなっていく後姿。それが佑磨が見た同期の最後の姿だった。
そのレースで落馬事故が発生した。ゴール板を駆け抜けた直後エクイソイドが暴れ出し、騎手は振り落とされ、後続の三頭も巻き込まれる形となった。
振り落とされた被害者、野上義勝ジョッキーは駆けつけた救急隊により救助されたが、搬送先の病院で死亡が確認された。
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