白紙に刻む冬

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梗 概

白紙に刻む冬

 遠未来の地球では、人類は肉体を捨て、インターネットに構築されている電子空間〈ロゴス〉で意識だけの存在として暮らしている。ここには肉体的な苦痛も寿命もなく、どんな姿にでもなれる自由が与えられていたが、年に一度の冬に〈大撹乱〉と呼ばれるイベントが発生すると、全住人の人格と容姿が一斉に更新される。ほとんどの住人は断片的な記憶を保持し、それを手がかりに「かつての友人」を探して、仲間や家族のような集団を再構築し新しい一年を迎える。
 しかしこの世界に例外的な存在が一人いた。彼女は〈大撹乱〉を越えると一切の記憶が残らないため、毎回新しい名前をつけ、集団を渡り歩きながら生活していた。周囲の団欒や絆に多少の羨望はあっても、それすらも次の年には忘却するので、ある意味、気ままだった。

 そんな夏の日、彼女は「電子海浜」と呼ばれる場所に迷い込む。そこは〈大撹乱〉で破棄された容姿や記憶の断片が漂うデータの波間が漂うエリアだ。その中で、ひときわ強く輝く存在に気づき、近づいてみると水面に一人の少女が浮かんでいた。少女は彼女を見やると、まるで旧友に再会したように「久しぶり」と微笑み、自身のことを「クロノ」と名乗る。
 クロノは「あなたのことをよく覚えているよ、ラーサ」と彼女のことを不意の呼び名で呼びかける。彼女にとって自分が「ラーサ」なのかも分からない。
 クロノはラーサに執着するように彼女の側に居続けた。生活は楽しいものの、不思議に思ったラーサが理由を訊ねると「気になっているの、あなたが白紙のようだから」と返す。彼女は〈ロゴス〉の管理員として〈大撹乱〉を経ても自らの姿や記憶を完全に保ち、ここに滞在し続けているのだという。ラーサと同じように、クロノもまた異例な存在だった。
 別の日。クロノは人類が肉体を捨てた歴史や管理員としての過去、そしてラーサと繰り返し出会ってきた記憶について訥々と語り始める。その話を聞きながらもラーサにはクロノの「記憶を持つ者」としての宿命、そして自分がどれほど孤独なのかが突きつけられ、かえって虚しさを感じてしまった。
 そして冬が来てまた〈大撹乱〉の時が近づく。雪に覆われた海岸に地鳴りが響き、全てが更新される予兆が始まった。次こそは彼女との記憶を保っていたいと願うラーサは、崩れるようにその場に座り込むが、クロノは「今度は大丈夫。次こそ、あなたに刻むペンになる」と優しく寄り添う。眠りに落ちる直前、クロノの言葉が彼女の心のどこかに印されるようだった。

 やがて、彼女は新たな姿で目覚める。去年のことは何も思い出せないまま、新しい名前をつくり、新しいコミュニティに紛れながら電子世界を彷徨い続ける。旅の中で彼女は知らず知らずのうちに「クロノ」という言葉を口にする。その響きが彼女に付きまとう名もなき孤独の深層に僅かながらの温もりを与えているが、彼女はその正体についてまだ気づくことはない。

文字数:1200

内容に関するアピール

 この課題が提示された以来、ずっと考えてきましたが、残念ながら物書きとしての自分の強みが何なのかよく分かりませんでした。というよりも、自信を持って誇示できるものが見つからないと、言った方が正しいかと思います。ただ、今までの講座で提出した課題の感想を見返してみると、大きな設定の中で小さなドラマを描写するのが得意なのかなと、何となく気がつきました。例えありきたりな設定でも、違う側面から新しい見方が提示できる、そんな書き手になりたいです。
 本作品は仕事とプライベートが忙しく、考える時間が取れなかったので、あらかじめメモしてあった設定をばーっと書き上げたような感じです。その時の自分はおそらく「ディアスポラ」か「グラン・ヴァカンス」などを読んだ後なのでしょう。登場人物の動かし方は個人的にはこれで良いのかなとは思いつつも、関係性のドラマに重心を置きすぎて展開が平坦になったのは反省点です。実作では地の文を多く幻想小説のような読み味を目指そうかと思います。
 年に一度、世界が更新される設定は生態学でいう二次遷移のようなイメージですが、もしくは年に一回に河川の土砂をショベルカーで掻き出す工事(浚渫工事:しゅんせつこうじ)を想起していただくともっと身近かもしれません。

文字数:531

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白紙に刻む冬

 視界のすべてが銀白の光に満ちていた。けれども、それより先立ってわたしが捉えたのは、粒々の何かが、しきりに顔に降りかかる感覚だった。冷たい──上手く説明できないけど、多分、こういうのを冷たいっていうのだろうか。

 ゆっくりと身を起こして、目の前の様子を観察した。細かい粉のようなものが不自然なくらいの静かな空間の中で舞っている。それはまるで空気と混ざり合ったような軽やかさで、何に逆らうこともなく、頭上から静かに地べたに落ちていく。そして、落ちたそばからその場に溶け込むように消える。指先で掴もうとしたけど、粒はあまりにも小さく、わたしの指の間を素早くすり抜けていった。それでも肩や髪の上には知らぬ間にくっついている。肩口をそっと払ってみると、同じような感覚がまた伝わってきた。やっぱり冷たい。ただそれでも長く続かなかった。指先に乗ったそれらは、乗せたそばから徐々に形を崩し、すっとその感覚だけを置き去りにしてなくなっていく。なるほど。これがわたしの身に降りかかっている粒々の正体みたいだ。どんな名前でどんな役割を与えられているのかは、わたしにはいまいちわからないけど、そういうものなんだと無理やり納得させた。

 景色は動きがなくあんまり面白みもない。ただ白い、それだけ。そしてその白は完全に静止しているわけではなく、空気中で舞う粉粒が全体をぼんやりと支配して終わりのない真っ白な景色を作りだしている。遠くのところまで見通すために目を凝らすと、眩しさですぐ辛くなってしまう。その景色はわたしのすぐ足元から目にも及ばない果てしないところまで至るほどの大きな広がりで、視線を落としてみると地面にひしめいている結晶のひとつひとつが輝きを閉じ込めている。

 ところで、この場所がなんなのか。わたしにはまったくわかっていなかった。どうしてこんなところにいるんだろう。そんな疑問の数々がわたしの頭にじわじわと湧き上がる。それらに答えを出すために、必死に思い出そうとしたけれど、いくら唸っても心当たりがないし、記憶は何一つ浮かび上がってこない。代わりに妙な空白が心の底から広がっていくばかりだった。

 ため息してわたしは歩き始めた。半ば自暴自棄のような気分に見舞われたわけだけど、それ以上にここに立ち止まる理由だってなかったのだ。しかし、ここはわたしの歩みを簡単に許可してくれなかった。足を一歩踏み出すたびにその柔らかい堆積物によって足を取られてしまう──酷いところは膝くらいまでずぶずぶと沈む。そして、同時に冷気が束になって皮膚を突き抜け骨の芯まで達していく。厄介だ。このままでは足を動かすことだけに苦心するだけで、ほとんど前に進めやしない。

 すると、背後から足音がしているのがわかった。間隔はわたしのそれよりも速く、わたしが一歩踏みだすごとに向こうは十歩くらい進んでいるようにも感じる。耳を澄ましてみると、大声が追い越してくることに気がついた。「おうい」と呼びかけられているみたいだ。

 振り返ると、一人の人影がこちらへ向かってきているのがわかった。わたしと同じような背丈なようだけど、身につけているもののせいか、全体のスケールがひと回り大きく見える。頭には広がりのある円形のものをかぶっていて、深い影ができている。首にもこもことしたものを巻いていることもあって顔の大部分が隠れていた。肩から垂れ下がる黒っぽい布のようなものが、身体の輪郭を覆うとともに周囲の風景を大きく切り離している。足元は奇妙にもこの白い地面に沈むことなくしっかりと踏みしめていた。足の裏に何か鋭いものがついているのか、その人が歩くたびに僅かな光が跳ね返っているのを認める。きっとこれがこの不安定な世界で安定を保つための仕掛けなんだろう。

「ねぇ」目の前の人は荒い息を整えながら言った。「あなた、こんなところで何やってるの」

「あ、えと……」

 その問いかけに対してわたしは声をどもらすことしかできない。その理由をいちばん教えて欲しいのはわたしだ。できるだけ怪しまれないように狼狽える態度を恥ずかしげもなく見せつけたけど、その人に考慮してもらえる気配はなかった。

「どうしてこんなところにいるの。しかも、とても寒そう。まるで夏のような格好だけど……。まあそういう個性の人はいないわけではないし、ここは〈ロゴス〉だから別に問題はないんだけど」

 さらに混乱した。知らない言葉が次々と飛んできて訳がわからない。ただこの会話だけはなんとかしたいという加速する焦りが、濁った思考の中でなんとか返事を掬い上げる。

「えっと、なんで、でしょうかねぇ……」

 わたしは頭をかきながら言う。口角が上がる。いや自然と上がってしまっている。目の前の人に笑いかけていたんだ。なんて情けないものだ。これは観念を意味した行動だと思う。

 正面の人はかぶり物の縁の下から目をぱちくりさせていると、しばらくして声をあげて笑った。そしてひとしきり笑ったあと、お腹の辺りをおさえながら続けた。

「ごめんね。意外な答えだったから。ちょっと可笑しくなっちゃった──失礼だったね」

「う、うん。それは良いんだけど……」

「ほんとごめんね── あ、あたしはナホって言うんだ。あなた、お名前はなんていうの?」

「名前……」

「そう。お名前」

「え、えぇと──」

 喉元から言葉が全く出てこない。思案の先には周りの景色のようにまっさらだった。少なくともこの人が言うような名前というものを、わたしは何も持ち合わせていなかった。

「つまりあなたは、大撹乱グレート・ディスターバンスが起きる前の記憶を何も憶えていないってことになるんだよね」

 ナホが顎に手をやりながら言った。首元まで伸びた亜麻色の髪が僅かに揺れた。

「よくわかんないけど、多分そう」

 わたしはそう返答する。

「そんな子がいるんだ。何百回も繰り返しているけど、あたし初めて会ったかも。じゃあ〈ロゴス〉のことも、〈ロゴス〉のシステムのことも全然知らないのも無理はないよね」

 わたしは肯定するしかない。ナホは、この世界と歴史について丁寧に説明してくれた。

 遥か遠い昔のこと。わたしたちの生活は地球という物質的フィジカルな空間の上で営まれていたらしい。しかし、その地球全体がちょうどこの山小屋の外みたいに凍りついてしまったことをきっかけに、わたしたちは肉体的フィジカルな身体を捨てることを選んだ。永久凍土に閉ざされた洞窟深くに設えられた量子コンピューターが仮想空間を構築し、わたしたちはそこに意識を移された。これが〈ロゴス〉の成り立ち。この空間では住人は老いることも死ぬこともなく、永遠とも思える自由を気ままに享受している。

 ただ、この閑静な世界にも変化の時が訪れる。AIの判断なのかわからないけど、一年に一度、ROM構造物の整理のために起こる大撹乱という現象がこの空間をごっそり洗い流すそうだ。流し聞きすると刷新される対象は多岐にわたるが、驚いたことに住人の容姿みてくれもそのひとつだという。人の見た目が変わるのだ。だから、わたしも例外ではないと思う。

 つまり、世界は一年でリセットされることになる。手作りの装飾品も、豪華な家具も、親しんだ自分の身体も一旦失くなってしまう。なんて虚しいんだとわたしは思ったけれど、どうやらみんなは違う考えらしい。個人の記憶だけは受け継ぐから──自分の名前、ものの名前、ものの作り方、働き方、遊び方。そういった様々な記憶を持ち合わせてさえいれば問題がない。家族の外見が変貌しても、自己紹介をしてあらかじめ共有した合言葉を交換できたら、それで良し。ちょっと楽観的かも。

「あたしもこれから家族に会いに行くんだ。大撹乱もこじんまりとした建造物は見逃してくれるみたいだから、目が覚めたら住んでるお家に行くことに決めてるの。うふふ──みんな、今回のあたしを見てどう思うかなぁ……」

 最後は独り言ともとれる口調だった。

「ほんとにその──大撹乱ってヤツが起こると、みんなの見た目が変わっちゃうんだよね。それで困ったことはないの……」

「今のところはないかな。あ、流石にお父さんが猫になっちゃった年は驚いたけど」

「猫ってなに」

「えっと──小さくて、毛むくじゃらで頭の上に耳がふたつちょこんとあって可愛い動物」

「そ、そう……」

「まぁ、ピンとこないか。実際に見てみないと」

「ごめんなさい」と、わたしは謝りつつ目線を伏せた。感じ悪い返答をしてしまったのは自覚している。けれども想像ができないものはどうしてもできない。顔が厭な熱さを帯び始める。考えの限界に達するのが早いことは恥ずかしいことだと初めて知った。

 しかしナホが気になるところは別のところにあった。

「でもさ、知ってるものもあるよね。雪は知らない。猫も知らない。あたしがかぶっている檜笠も知らない。でも、この建物が山小屋だってことは知っていたし、あそこで燃えているのは火。そして火を燃やしている家具は暖炉──すらすら言えてたもんね」

 確かにそうだ。雪は外でちらついていた粉つぶと地面に積もるもの。世界に白さと冷たさをもたらす気象。猫は──まだ想像が難しいけれど、ナホが並べた特徴を総括した動物。いろいろなものに対して、みんなちゃんとした名前がある。それをわたしは確かに知らなかった。だけどこの山小屋に入ったとき、なぜか火の扱い方だけは肌感で知っていた。その中途半端な知識のでこぼこがたまらなく不気味だ。

「少しずつ記憶を受け継いでいるのかもね」

 ナホは笑顔を向けた。その涼しげで朗らかな目元は、わたしの毛羽立つ心象を多少なりとも落ち着かせたのは確かだ。

 暖炉の火や燃えかすの始末をしてから、わたしたちは小屋から出た。ナホの話から窺える〈ロゴス〉の生活様式からすると、この小屋も誰かの帰るべき家に違いない。だから長居するだけその誰かの生活を侵犯することになる。必要な話をしたらもう別れようと、わたしから提案した。聞いてみるとここは森林という場所らしい。わたしたちよりはるかに背の高い木がランダムに立ちすくんでいる。そのおかげか、ナホと出会った場所と比べたら空は閉ざされていて、雪の降る勢いも少し落ち着きがある。

 さっきからやっぱり寒々しくて見てられないらしい。ナホは身につけていたマフラーをわたしの首に巻いてから、改めて自己紹介ね、と言って一つ呼吸を挟み込む。

「あたし、ナホって名前だから。ずっと服飾のお仕事をしてる。油っこいものとパクチーが苦手。タコスなんてもってのほか。次の大撹乱の後、もしあなたに記憶があったらまた会いましょう。だから、またね──」

「うん。またね」

 わたしは遠ざかるナホの背中を見つめながら思った。こうして自分以外の人と出会ったこと。今みたいに人と別れること。初めての経験だった。けれども、本能に縛り付けられた何かが訴えかける。わたしはこのやりとりをずっとやっている。たとえ憶えていないとしても、同じような約束もいろんな人に対して交わしている筈だ。そして、そのすべてを反故にしている。

 冬を越して春になった。二日か三日間、ぐっと冷え込む日があったけど、それ以降はみるみるうちに暖かくなってきたのがよくわかる。吹き抜ける風には雪解けの水の匂いとかすかな新芽の香りが混じっている。空の青さも、どこか柔らかい。降り注ぐ光も強くなりつつあるけど、肌を焦がすほどでもなく優しく顔を撫でていく。積もりに積もった雪はいつの間にかその趨勢を失って、本来の地面が剥き出しになっている。今はまだ茶色い草が絡みつく様子が目立つけど、よく見れば小さな葉っぱが芽吹いている。頼りなく見えるけど、それは今だけで、これが広がるとやがて地平線に向かうような緑がいっぱいに広がるだろう。視界と心がいっぺんに開けっぴろげになる季節がすぐそこまできていると、雄弁に語るように。

 わたしは〈ロゴス〉を旅しながら、いろんな集落に少しずつ参加しては離れたりしていた。ある村では、小さな広場の真ん中で料理をふるまう人たちがいて、通りがかったわたしにもスープを分けてくれた。別の集落では焚き火を囲んで絶えない笑い声と、火の揺れる光が明るく照らす住人たちの顔が印象的だった。みんなとても親切で、わたしの経緯に戸惑うことはあっても疑うことなく打ち解けることを許された。哀れに思ったのか、そのまま集落に加わるお誘いもされた。今もそうだ。けれども、わたしはそのすべてを断っているし、これからもそうすることにしている。その集団に入り込むことは、今まで平静だった暮らしをかき乱す行為に他ならない。実はナホにも山小屋で別れる前に、同じように打診されたけど似たような理屈で辞退した。揺らいだのも嘘ではないけど、最終的にはわたしの内心がどうしても許さなかった。

 わたしは異物なのだ。

 それだけは自覚しなければならない。

 とはいえ、異物は異物なりに気楽なところもあった。異物であるが故に、ある種の自由を享受しているかもしれない。集団に住む人たちはそれぞれの役割を背負い、日々の生活に使命感を持って取り組んでいるのが見てとれた。畑を耕し、物資を分配し、文化を守る。彼らの規律正しい暮らしぶりは眩しくもあるし、強かさもあった。わたしには何も縛るものがない。つまり責任がないのだ。ただ歩き、見聞きし、時には少し交わる。滑稽だけど、それがいちばんじゃないかなと考えている。

「カレン。おい、カレンやい」

 街角に隠れている公園のベンチで休憩するわたしの前に声をかける少年がいた。レイラだ。この街の図書館で本を管理している人だ。こういうのを司書という職業らしい。

 レイラがわたしのことをカレンと呼ぶのは、わたしがそう頼んだからだ。借りた本から語彙を得つつ、それを基に即興で名付けた世渡りするための便宜的な記号だ。その割には、いい名前をつけたなと思う。なにより便利だ。自分で口に出しても苦ではないし、相手から呼ばれるときの響きも悪くない。『見た目』通り綺麗な響きだと、うんざりするくらい評判も上々。レイラのように賢い人だったりすると、言葉の意味から名前の由来を推察してくれたりするけど、残念ながらそれは全て深読みだ。

「どうしたの」とわたしは目を合わせて答える。

「ごめんよ。ちょっと困ったことがあってな」

 と言いながら申し訳なさそうに目配せをする。その様子からレイラの要求は大体合点がつく。「図書館のお仕事で?」とわたしが訊ねると、ぶんぶんと頷く。

「カレンの力を借りたくて」

 そう言われたら、目的は限られてくる。ただあまり声に出して言明しない。口を滑らせたら、この人から怒られるから。

 図書館は公園から街道を歩いて五分くらいの位置にある。並木道を抜け、少しずつ視界が開けると、カラフルな石畳と青々とした芝生が印象的な大広場が迎えてくれる。その広場の真ん中に、圧倒的な存在感をもって佇む建物がそれだ。四角い外観はむき出しのコンクリートで作られた骨組みが目立ち、外観を覆う大きなガラスが周囲の風景を映し込んでいる。朝の光にきらめくガラス越しに無数の本棚や階段のシルエットがわずかに見えた。この建物は〈ロゴス〉が成立して以来この街にあるという由緒ある建造物だ。その静謐さはさもありなん。無知なわたしでも肌で察せられるほどの歴史的な重厚さがある。

 ただ、わたしたちが入るのは広場に面したエントランスの大扉からではなく、そこから回り込んだ建物の裏側にあるシャッター張りの扉だった。レイラがシャッターに手をかけ勢いよく持ち上げると、騒音じみた金属音の向こうから冷たい空気がわたしたちに流れ込む。薄暗い部屋はちょっとした大きさで、右奥の隅にまた扉がある。倉庫の入り口だ。

「ねぇねぇ──」わたしはレイラに素朴な疑問を投げかける。「いちいちこんな裏口から入る必要あるのかな?」

「あるよ。みんなに見られない」

「別にそんなこと些細なものだと思うけどなぁ……」

「重大なことなんだ、私にとっては」

「そうなんだね」

 わたしは呆れつつも、それ以上、何も言うことはしなかった。これ以上言明してもレイラのプライドを傷つけるだけなのがよくわかった。

 レイラは気難しい性格の持ち主で、あまり人に頼ることをしなかったみたいだ。むしろ、そういったところに誇りを持っていたのだろう。実際、ここに暮らす人たちの話を聞いていると、自分でできることは自分でこなしていたらしく、いまいち彼の仕事に手を貸そうとするような風潮があまり醸成されなかったようだ。今でこそ、自分の腰くらいまでしか及ばないちんちくりんな少年の姿をしているけど、直近の大撹乱の前は威厳をもった壮年女性のそれで、彼が備わった厳然たる態度に割を増した凄みが伴っており、結果、彼の領域に誰も近づけなかったのも原因の一端がありそうだ。

 今年は特殊だ。レイラはそう言っていた。確かに少年になっていたのは予想もしていなかったと思う。そして、大変な年になってしまったとも嘆息をついていた。それも納得できる。その年までなんとも思ってないような瑣末な動作が、とつぜん難渋な作業になってしまったのは、本人からしても煩わしいことこの上ないだろう。とはいえ、彼の性格からすると他の人たちにお願いをすることは決してないと言える。これは人づての証言や彼に直接関わったことから朧げに導き出した結論だ。臨時で助手を雇うことも、まずないだろう。

 そこでわたしが抜擢されたわけだ。いや、経緯としては、けっこうなし崩し的だったかもしれない。知識を集めるためこの図書館に訪れたとき、本棚の間で困りきったレイラに声をかけたのがこの関係が始まるきっかけだった。わたしは女性の姿にしては身長は高い方で、棚の上にも手が届くし、重心の問題でうまく持ち上げられないものだって運べる。良い意味で彼のことをよく知らない。だからわたしは、うってつけな存在なのだ。

「はい。これでいいかな」

 書庫の片隅に収納された箱を引っ張り出して彼の前に置いた。移動式の棚はレバーをぐるぐる回してレールを走らせる仕組みになっている。軽いと思いつつも意外と力がいるし、今の矮躯ではそもそも届かない。

 彼は箱の中にある紙の束やファイルに綴られた資料を吟味した後、わたしにお礼を言った。

「それって何?」

「ごめんな。カレンには毎回申し訳ないことをさせている」

「──レイラ。わたしの前では案外、素直だよね」

 沈黙が数拍並んだ後、レイラはだから何だ、と言わんばかりにため息をつく。

「仮にそう見えたとして、私に何を期待しているんだ」

「期待って──」そこで言葉に詰まった。悩む。やっぱり明け透けにいうべきだろうか。

「この年だけ街の人々に補助を頼むということだろう」その間に声が飛んでくる。「確かにそれが最も合理的だろう。ただ、選択肢にない。それだけはないんだ」

「どうして」

「私の補助のためだけに人様の仕事の手を止めさせるのは御法度だ。この街は一人一職の原則がある。中断は放棄と同義だ。そもそも街を出歩きこの姿を見せつけるだけでも、みんなの道徳を可侵させる恐れだってあるんだ」

 このことについてわたしは全く言い返さなかった。正論だ。この共同体においては。代わりに別の質問を提起する。

「だからって、観光客にお願いするっていうのもなんか違うような気がするけど」

「だからこそ私はカレンに残って欲しいんだ」

「使いっ走りのために?」

「違う違う。まあ私の言い方が悪かったか。助手というか、同僚というか──とにかく、この身体になって思ったが、この図書館を切り盛りするのは、私には大きすぎるんだ」

 そう言ってレイラは目線を下の方へやる。わたしは彼の目が合うところまでしゃがみ込んだ。瞳の陰翳は切実な輝きが揺れている、みたいに。

「レイラ。嬉しいけど、ごめん。やっぱりそれだけはないよ」

「いずれの話をしているんだ。幸い、私は大撹乱後に記憶喪失をするような存在に出会ったことは初めてだから確実に憶えている筈だ。だから──」

 彼の言葉を遮った。人差し指を彼の唇に当てながら。

「わたしは多分、次の年はあなたが想像もしていないようなところに行っているんだと思う。次の年も、その次の年も。記憶を失いながらずっと──これ以上はもう、言わなくてわかるよね」

 意地悪く、レイラの言葉を借りるとすればそれは『選択肢にない』んだ。

「お前は本当に生意気なヤツだな──まあ、いいさ」

 レイラの合図で、わたしは箱を片そうとする。その前に、ふと彼に箱の中身について質問した。純粋に気になったからだ。

「図書館に起きた物事を書き記したものだ。私の日記とも言える。しょせん、人間は都合の良く忘れてしまう生き物だ。だからこうして残す。紙と文字はROMが食われないから大撹乱を免れやすいんだ」

「へぇ、わたしもこうだったら嬉しいのに」

「君の冗談はたまに反応に困る。さあ手を動かして。次はそっちの棚をお願いしたい」

 ガラス越しに注がれた陽光に、文字が敷き詰められた紙面が乳白色に際立った。文字の影はくっきりと濃く浮き上がりながら、その強いコントラストでわたしの目に向けて泳いでいる。一面のガラス壁に沿うようにして配置された一人掛けのソファの列には、わたししか座っていないから、温められた空気は静穏にますます膨らむ。

 この場所こそが、わたしを完全に留めている。外から届く木々のざわめきや葉の揺れる光景が、現実感を喪失させるほどに思考を薄めていく。ただひとつ、ページをめくる指先だけが、この場で生きた動きをしていた。

 この街には、暑くなり始めるまでいると決めていた。具体的には図書館の書籍に書いてあった〈ロゴス〉における『季節エミュレーター』が定義する初夏のあたり。調べてみると、今が初夏だと判断できる材料はいろいろな要素がある。日差しが強くなる。雨の降る日が増える。湿度が高くなってじめっとした体感が目立つ。ある樹木の花が散って萌芽した若葉が深い緑色に満たされるタイミング。まとめて言えば、感覚と身の回りの景色を深く観察すれば、自ずとわかってくるらしい。気温が高くなったとかで決めつけるのはまさに短絡的で、その頃にはいつの間にか季節を飛び出してしまう。

 つまり、今日が街を発つ日だ。

「次の旅先は決まったのかい、カレン」

 背後からレイラの声が。その落ち着いた風情の抑揚と似つかわしくなく、トーンは甲高い。

「うーん。どうだろ」

「浮雲のような旅がお好みか。いつもそういう感じで決めているんだね?」

「冬の時点ではね。けど、この街にいていろんな本の中の世界を眺めてみると、なんか目移りしちゃうよ。山っていうのも登ってみたい。潮風ってどんな匂いがするんだろう」

 笑い声が部屋にこだまする。

「私には偏見があった。記憶がないってなんて可哀想な境遇だなと。でも君に出会ってからは、否定せざるを得なくなった。今の君はたまらなく楽しそうだ」

「そう、わたしは楽しいっていうのはわからない。この感情が何をもってそう分類されるのかは、いくら本を読んでも、わたしには、どうもできない技能かも」

 レイラはまた笑いながら、「ラディカルだが、それも違いない」

「間違っては、ないんだ」

「名付けること、そういったのは、主観的なものだ。主観的だけに、みんなの同意が不可欠になる。私が言った『楽しそう』もしょせん決めつけにすぎない。強制的なものだ。人はそこから解放されていなければならない」

 ソファに深く座り直して、大地に根を張る草本植物みたく天井を見つめる。このちびっこが語る話は、気づかない間に入り組みはじめるから、解釈するのに時間を少し費さなければならない。

 わたしが図書館を後にするとき、今日は次の大撹乱まであと半年を切る日だ、とレイラは言っていた。大撹乱は一年でいちばん昼が短くなる日に起きると、旅の中で得た情報で知っていた。そして今日は一年でいちばん昼が長い日だと教えられた。

 次の大撹乱でわたしはわたしでなくなる。

 それが現実になる頃──近い将来のことだ、わたしはどこにいて何をしているのだろう。その答えを形にするにはまだ言葉が足りない。けれども、今のわたしには以前のようにただ流されるだけではいけない、という念が浮かんだ。これを楽しいと言ってはいけない気がする。行き先の輪郭はまだ曖昧で、掴めば指の隙間をすり抜けるようだ。それでも何かに向かうべきだという微かな思いが、霧の中で灯る火種のように胸の内で揺れている。半年――それは長いようでいて、考えを巡らせるうちに指の先で溶けてしまうような時間だと知っている。レイラの言葉を反芻するたび、心の中でいくつかの道筋が浮かんでは消える。空の青は鮮やかで深いのに、その下に広がる世界はまだ見ぬ夢のように遠い。けれども、次に進むべき場所を探すその思いだけが、ぼんやりとした未来の中で小さな光を灯していた。

 図書館で複製してもらった大判の地図を眺めてみると、端の方に変わった地名を見つけたことから、そこを次の観光先と定めた。

 電子海岸

 その字面を見たとき、不思議な名前だと思った。なんというか、同語反復トートロジーだ。〈ロゴス〉そのものがコンピューターが作り上げた空間で、言うなれば電子が映し出した世界だ。乱暴に言ってしまうと、すべての海岸線が電子海岸だし、すべての草原だって電子草原と呼ばなきゃいけない。だから、電子海岸という名辞そのものに風変わりな雰囲気が漂っていた。

 電子海岸がどんな場所か、図書館でざっと調べてみても、記述されているものは「立ち入った者は忽然と姿を消した」やら「たどり着いた者は二度と戻ることはない」やら──どうも煮え切らない断片的な情報ばかりしか得られなかった。レイラに訊ねてみても、彼自身にとってもあまり馴染みのない場所らしく、詳しいことはわからないと答えるだけ。必死に絞り出した挙句に出てきたのも、どうやら魔女が住んでいるとかなんとかと、人づてに見聞きしたような噂話ゴシップ程度だった。とはいえ、全体的にきな臭いものばかり。

 そして、そのきな臭さは、目的地が近づくにつれて濃度が上がっていく一方だ。村をいくつか越えるたびに、電子海岸に関する話はどんどん奇妙になっていった。ある村ではそれが「亡者の楽園」と呼ばれ、別の村では「無垢の者だけが立ち入られる試練の地」とされていた。ただあくまで伝承の域を出ていなくて、なぜそう呼ばれたのか、どのような場所なのか、住人たちを追求しても「分からない」と言うばかりだ。

 話を聞くうちに、電子海岸を語る人たちの言葉には、共通点があることに気づいた。それは、どの話も「人が近づくべきでない場所」として描写されていることだ。安全が保証される範囲を越えた外界への恐怖──もしかしたら、電子海岸という場所は存在せず、言葉自体がそういった感情を表現した信仰の対象なのかもしれない。現実として、話を聞いた中で、実際に電子海岸に赴いた人も誰一人いなかった。地図に位置を示してもらったが、人によって指し示す場所もばらばらだったし、現地の文献を読ませてもらっても、あの街の図書館で複製した地図の位置とまるで違う箇所にあった。それでも、「ない」と断定するにはあまりにも多くの人々が語り継いでいる。流動的に変容するその語り口が、ことさら奇妙な形態になっていることが、わたしを惹きつけて離さなかった。

 結局、しっかりとした場所まで特定できなかったから、点々をぐるっと囲んだ一帯を電子海岸とした。大陸から角のように伸びた半島の突端の部分。そこを目指した。

「全然違うじゃん」

 私は息を切らしながら、素直に悪態を吐き捨てた。電子海岸があると思われていた﹅﹅﹅﹅﹅﹅場所。しかし、そこに海岸なんてものはなかった。改めて地図に目を落とすと、やはり海岸線はつるりとしていて、砂地を表す薄い茶色の線が半島の根元から描かれているだけだ。つまり、大嘘だ。海岸を眺めながらのんびり歩けばすぐに着けると思っていた当初の想定は早々に崩れ、現実は山道を上下し続ける過酷な旅を強いられていた。

 気づけば、定期的に降る雨の涼しさが消え去り、ただひたすらに暑い季節も過ぎ去っていた。峠道を覆う木々は赤や黄色に変わり、やがて葉をすべて落として枝だけになった。標高が高いところではちらほらと粉雪が舞っていた。いつしか、ナホからもらったマフラーも欠かせなくなった。

 私の終わり――つまり、カレンとしての終着点がこの場所で待っているのだろうと、いつの頃からか感じていた。そう思うことでしか、この長い旅路を耐え抜けなかったのかもしれない。途中で出会った人々の言葉や、見かけた風景も次第に輪郭が薄れ、遠い記憶となって積もっていく。ここまでの道のりはひどく静かで、どうしようもなく孤独だった。振り返れば足跡も風が消してしまう。歩いているはずなのに、前へ進んでいるという実感すらないまま、ただ日々だけが過ぎていく。

 誰かと話すことも、誰かの隣に立つこともなく、ただただ一人旅を続けた。しかし、それが重荷になることはなかった。ただ淡々と、この先に待つ何かに向かって歩いている。それだけだった。

 半島の突端にたどり着くと、鈍色の空が視界に広がった。小高い丘、断崖、岩と砂利の間に生えるカヤは、根元ごと同じ方向に倒れている。ずっと強風が吹き荒れているのだ。背景には灰青色の海面が平坦に広がり、遠方で空と交わるように消失している。

 電子海岸――その名は虚構だった。ただ、灰色の砂礫と崩れかけた崖があるだけ。どこまでも茫漠とした風景に、私は深いため息を吐いた。

 だが、視界の端に不自然なものが映り込む。崖の際にぽつんと建つ古びた小屋。風化した石材と錆びついた扉、簡素な三角屋根は潮風で色褪せ、元の色は判別できない。周囲の風景にまるで馴染まない異物に、私は無意識に背筋を引かれる思いがした。

 音はない。空気は淀み、潮風は金属のように重たく響く。気づけば、私はその小屋の扉へ向かって歩いていた。足音だけが、この空間に刻まれる。

「……誰かいるの?」

 私の声が風に溶ける。そして再び沈黙が訪れる。ノックをする。反応はない。扉を押すと、蝶番が軋む音を立てながらゆっくりと開いた。

 中は闇でも光でもなかった。無数の光の粒が揺らめき、星々が夜空から零れ落ちた瞬間を閉じ込めたような光景が広がっていた。広大な室内は小屋の外観とは明らかにかけ離れている。天井は果てしなく高く、床も最果てがあるのかさえわからないほど広がっていた。

 その中央に、黒い影が浮かんでいた。ふわりと、見えない糸に吊るされたように。フードで隠された顔、影のような衣が揺れる。

「──嬉しい。久しぶりね」

 その声は澄んでいるのに、どこか歪み、耳からではなく脳に直接響くようだった。

 私は息を呑む。

「あなたは一体……」

「だいたい、三十年ぶりね」

 影が人形めいた挙動で起き上がり、ゆっくりと床に降り立つ。砂地に黒い滴が落ちたかのように、無音の衝撃が広がった。

 歩み寄る影が私の頬に触れようとする。影の指先は、袖口から血色のない冷たさをまとって近づいてきた。

「今年はどこまで旅をしてきたのかしら、ラーサ」

 その言葉が私の鼓膜を貫くと同時に、心の奥で何かが弾けた。フードの隙間から覗く紫紺の瞳──その視線が私を射抜くように見つめる。

 知らないはずの名を、私は操られるように叫んでしまった。

「クロノ──」

 音にした瞬間、真っ白になった思考が震えるような感覚に襲われた。知らないはずの名が、自分の口から零れ落ちたのだ。 

 彼女は微笑む。

「よかった。やっとあなたの根底記憶に定着したのね」

 突如、部屋を包み込んでいた闇が音もなく揺れた。壁にある光の粒から波紋が広がり、闇の帷が切り裂かれるように退いていく。

 床が、天井が、壁が、ゆっくりと淡い金色に染まり出した。光は静かに遊びまわり、空気中に溶けていく。それがある場所で留まると、何もなかった空間から家具が浮かび上がった──最初に現れたのは、深い木目のテーブルだ。不明瞭だったテーブルの輪郭は、ふちから徐々に実存が満たされ、天板に施された彫刻がくっきりと浮かび上がる。

 次に二脚のベルベットのソファが柔らかな曲線を描いて床に降り立った。その座面は埃一つなく、さっきまでそこに存在しなかったとは信じられないほど、温かく質感に満ちている。

 壁際から次々に調度品が現れる。古びたキャビネットが光の帯に包まれて紡ぎ出され、透明に輝くガラス扉が静かに収まる。タンスやドレッサー、ランプがそれぞれ異なる場所から浮かび上がり、重力を無視するかのように空中を漂いながら指定された位置に収まっていった。

 最後に天井からシャンデリアが静かに降りてきた。無数のガラスの雫が光を反射し、部屋中に細やかな灯りをもたらす。揺れる光と影の中、家具たちは静かにその居場所を定め、まるで何年もそこにあったかのように部屋に溶け込んだ。

 落ち着いた後、空気にも微かな変化が訪れた。どこからか甘やかな花の香りが漂い、鼻腔をくすぐる。

「ごめんなさい。真っ暗な部屋を見せてしまったわ」

 静寂に溶け込むように、優しい声が響く。その声の主は、まるで最初からそこにいたかのようにソファの端に座っていた。濡羽色の髪が光を受けて柔らかく揺らめき、眠たげな瞼をこする。

「少し眠たかったから、お昼寝してたの」

 彼女は呆然としている私に向かって、対面のソファを手で示した。

「あなた、何者……」

 私は半ば無意識にソファに腰掛けた。

「クロノよ。みんなには魔女って呼ばれることもあるけど……ラーサ。あなた、私の名前を呼んでくれたよね」

 彼女の屈託のない態度に、私は未だ心が引っ掻き回されるようだった。

「ねえ、ラーサって誰。 もしかして私のこと?」

 その問いかけに、クロノは一瞬動揺したようだったが、すぐに穏やかな顔に戻った。

「そう。自分のことはまだ思い出せないのね。あなたはラーサ。白紙の人タブラ・ラーサ

「タブラ・ラーサ……?」

 口に出してみても、耳慣れない言葉だ。それが何を意味しているのか、私の知識では理解が及ばなかった。

「あなたはこの〈ロゴス〉で唯一、無知を個性にしている人よ。一年に一度起こる大撹乱のことは知っているでしょう?」

 私はゆっくりと頷いた。その言葉は以前から知っている。記憶の始まりであり、終焉をもたらす現象。

「だったら話が早いわね。それについて少しだけ説明させて?」

「大撹乱が起こるたびに、なぜあなたが記憶を失うのか、わかるかしら?」

 クロノの問いに、私は首を横に振った。

「それが白紙の人たる所以よ。記憶というのは〈ロゴス〉に淀みをもたらすから。電子海岸と呼ばれる空虚ボイドに捨てられ、整理される必要があるの」

 彼女は淡々と語りながら、私を見つめていた。その瞳には陰りが宿り、それが静かに揺れているように感じられた。

「〈ロゴス〉を作り上げた開発者たちは、世界を維持するために均衡を求めた。でも、記憶というものは厄介なの。時間を歪ませ、過去に囚われる者たちは未来に足を踏み出せなくなる。だから、大撹乱が起こるたびに不要な記憶を捨て去り、必要なものだけを残す。それがこの世界のロゴスよ。老いも死も存在しない世界を維持するための構造なの」

「構造……」

 私はその言葉を反芻した。その響きは自分の理解を遥かに超えているように感じられた。

「そう。あなたはその構造の一部。世界をより澄んだものにするための管理人なの。そして、私も」

「管理人……?」

 思わず呟いたその言葉には、私自身が理解できない違和感が伴っていた。

「そうよ。あなたは、人々の記憶が〈ロゴス〉に蓄積されすぎて世界が歪む前に、その淀みを取り除く存在。無知であること――それがあなたの力なの」

 クロノは視線を逸らさず、静かに続けた。

「人々の思い出や後悔、願望が蓄積されると、それが重石となり、やがて世界は壊れてしまう。あなたはその濁りを取り除く存在。記憶を引き受け、そのまま失うことで、〈ロゴス〉を再び澄んだ水へと戻しているのよ」

 私は静かに耳を傾けていたが、心の中には疑問が渦巻いていた。

「でも……それなら私が旅をして見たものや聞いたことには、何の意味もないってことなの?」

 私の問いに、クロノは少しだけ微笑んだ。その笑みは、どこか寂しげにも見えた。

「いいえ、そんなことはないわ。あなたが見つけたものは、あなたにしか見えない真実よ。真っ白なキャンバスだからこそ、旅の記憶は一瞬でも輝く。でもね――」

 クロノは少し息をついて、私をまっすぐに見つめ直した。

「私は悔しいなと思う。あなたがすべてを忘れてしまうのに、世界はその事実を都合よく受け入れて、何事もなかったように回り続ける。あなたがいなければ、この〈ロゴス〉はとうに壊れていたかもしれないのに、誰もそのことを知らないし、感謝もしない。ただ、無邪気に救われているだけ──だから私は、ラーサの記録を残すことに決めたの」

 クロノは空中から紙の束と一本の大きな羽根ペンを取り出した。

「それは……何?」

 私は思わず目を見張った。その紙束は分厚く、重厚感を放っている。

「ラーサの歴史よ、全部。手書きで記録してるの」

「手書き?」

 私は驚きながら尋ねた。

「当たり前でしょ。電子記録より確実に残るから。もっとも、こうしてまとめられたのはせいぜい三百年分だけだけど。それ以外の数千年、あなたはずっとどこかふらふらしてるからね」

「ふらふら──それってつまり、わたしがだらしないってこと?」

 眉をひそめた私の反応に、クロノは困ったように笑った。

「違う、そうじゃないの。ただね、あなたが旅を続ける限り、わたしはこうやってあなたの歴史を書き留めるしかないってことよ」

 クロノは羽ペンを軽く揺らし目を細める。どこか懐かしむような、あるいは諦めたような表情を浮かべていた。

「ねえ、あなたは今年、どこまで旅をするつもり?」

 私はしばし考えたあと、こう答えた。

「海が見える丘。遠くには光るものがあって、波打つ電子の粒みたいだった」

「ふふ、それは表の景色じゃないわね。もう旅を終わりにするの?」

 クロノは穏やかに微笑みながら、空に散る光の粒を指でなぞった。
 私はゆっくりと言葉を紡いだ。

「疲れちゃった。それに、今までのことを全部クロノに話すと、それだけで今年が終わりそう。来年は引っ越してよ。住み心地の良い街を見つけたんだ。手を貸してほしい友達がいるの」

 クロノはけらけらと楽しげに笑った。

「できるだけ、努力するわ──ラーサ、いえカレン。教えて、あなたはどんな景色を見て、どんな人と出会ったの? どんな本を読んで、どんな知識を得たの?」

 その問いに私は少し困惑しながらも、これまでの旅路を思い返した。話し始めると、部屋には私たちの会話と、クロノが羽ペンで紙に文字を刻む音だけが響いていた。そして、その音は、私の存在が透明になり始める、その瞬間まで続いた。

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