白紙に刻む冬

印刷

梗 概

白紙に刻む冬

 遠未来の地球では、人類は肉体を捨て、インターネットに構築されている電子空間〈ロゴス〉で意識だけの存在として暮らしている。ここには肉体的な苦痛も寿命もなく、どんな姿にでもなれる自由が与えられていたが、年に一度の冬に〈大撹乱〉と呼ばれるイベントが発生すると、全住人の人格と容姿が一斉に更新される。ほとんどの住人は断片的な記憶を保持し、それを手がかりに「かつての友人」を探して、仲間や家族のような集団を再構築し新しい一年を迎える。
 しかしこの世界に例外的な存在が一人いた。彼女は〈大撹乱〉を越えると一切の記憶が残らないため、毎回新しい名前をつけ、集団を渡り歩きながら生活していた。周囲の団欒や絆に多少の羨望はあっても、それすらも次の年には忘却するので、ある意味、気ままだった。

 そんな夏の日、彼女は「電子海浜」と呼ばれる場所に迷い込む。そこは〈大撹乱〉で破棄された容姿や記憶の断片が漂うデータの波間が漂うエリアだ。その中で、ひときわ強く輝く存在に気づき、近づいてみると水面に一人の少女が浮かんでいた。少女は彼女を見やると、まるで旧友に再会したように「久しぶり」と微笑み、自身のことを「クロノ」と名乗る。
 クロノは「あなたのことをよく覚えているよ、ラーサ」と彼女のことを不意の呼び名で呼びかける。彼女にとって自分が「ラーサ」なのかも分からない。
 クロノはラーサに執着するように彼女の側に居続けた。生活は楽しいものの、不思議に思ったラーサが理由を訊ねると「気になっているの、あなたが白紙のようだから」と返す。彼女は〈ロゴス〉の管理員として〈大撹乱〉を経ても自らの姿や記憶を完全に保ち、ここに滞在し続けているのだという。ラーサと同じように、クロノもまた異例な存在だった。
 別の日。クロノは人類が肉体を捨てた歴史や管理員としての過去、そしてラーサと繰り返し出会ってきた記憶について訥々と語り始める。その話を聞きながらもラーサにはクロノの「記憶を持つ者」としての宿命、そして自分がどれほど孤独なのかが突きつけられ、かえって虚しさを感じてしまった。
 そして冬が来てまた〈大撹乱〉の時が近づく。雪に覆われた海岸に地鳴りが響き、全てが更新される予兆が始まった。次こそは彼女との記憶を保っていたいと願うラーサは、崩れるようにその場に座り込むが、クロノは「今度は大丈夫。次こそ、あなたに刻むペンになる」と優しく寄り添う。眠りに落ちる直前、クロノの言葉が彼女の心のどこかに印されるようだった。

 やがて、彼女は新たな姿で目覚める。去年のことは何も思い出せないまま、新しい名前をつくり、新しいコミュニティに紛れながら電子世界を彷徨い続ける。旅の中で彼女は知らず知らずのうちに「クロノ」という言葉を口にする。その響きが彼女に付きまとう名もなき孤独の深層に僅かながらの温もりを与えているが、彼女はその正体についてまだ気づくことはない。

文字数:1200

内容に関するアピール

 この課題が提示された以来、ずっと考えてきましたが、残念ながら物書きとしての自分の強みが何なのかよく分かりませんでした。というよりも、自信を持って誇示できるものが見つからないと、言った方が正しいかと思います。ただ、今までの講座で提出した課題の感想を見返してみると、大きな設定の中で小さなドラマを描写するのが得意なのかなと、何となく気がつきました。例えありきたりな設定でも、違う側面から新しい見方が提示できる、そんな書き手になりたいです。
 本作品は仕事とプライベートが忙しく、考える時間が取れなかったので、あらかじめメモしてあった設定をばーっと書き上げたような感じです。その時の自分はおそらく「ディアスポラ」か「グラン・ヴァカンス」などを読んだ後なのでしょう。登場人物の動かし方は個人的にはこれで良いのかなとは思いつつも、関係性のドラマに重心を置きすぎて展開が平坦になったのは反省点です。実作では地の文を多く幻想小説のような読み味を目指そうかと思います。
 年に一度、世界が更新される設定は生態学でいう二次遷移のようなイメージですが、もしくは年に一回に河川の土砂をショベルカーで掻き出す工事(浚渫工事:しゅんせつこうじ)を想起していただくともっと身近かもしれません。

文字数:531

課題提出者一覧