安全は自明なものか?

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安全は自明なものか?

 立っているものは倒れる!
 吊っているものは落下する。 
 高い所にあるものは落ちる!
 丸いものは転がる!
 動いているものには挟まれる!
 回転しているものには巻き込まれる!

 

「拍子抜けでしょう」 

 ロビーフロアの大きなスクリーンに映し出された六箇条をぼんやりと眺めていると、横から声をかけられた。私はそちらに視線を向けると、作業着姿の男性がいた。年代は壮年に差し掛かったくらいだろう。痩躯で肩口がブルゾンにまるで合っていない。これまでの激務を物語るように目隈めくまがうっすらとたるんだ目元に刻まれている。作業着のデザインから元請けのゼネコン職員だと察した。すかさず「お疲れ様です」と挨拶すると、彼も同じトーンで返した。

「地球のものとあまり変わらない標語なんですね。もっと珍しい規則があるかと」

「月面とはいえ重力がある以上、この安全標語は有効です。違うのは挙動くらいですので。倒れ方、落ち方、巻き込まれ方──まあ、この現場ではもはやあり得ないことになりつつありますが」 

 申し遅れましたと、彼は名刺を差し出しながら自己紹介する。案の定、この工事の安全担当だった。

 月の開発地区まで来たのはいわゆる『安全衛生パトロール』を行うためだ。定期的に下請け会社の責任者が工事現場に赴き、目視とチェックシートで点検をするイベントだ。業務のオートメーション化が完了した今は形骸を超えて儀式のようなものになっている。莫迦らしい話だが、そのために地球から数ヶ月かけてきたのだ。しかもこの工区は起工いらい一回も労働災害を起こさずに施工を進めているらしい。

「徹底せざるを得ないのです」と担当者は話す。「総工費のうち一割が安全費として扱われていますので、安全に関しては厳しい目が向けられています」

 この工事は月面の都市開発事業の一環で、換算すると一〇〇兆円を越す工事費が計上されている。その一割だ。十兆円。人材不足が叫ばれている情勢で労災のない職場環境というのは、経済的にも社会的にも好感度が高く、安全に注力するのはもちろんおかしい方針でもない。ただ、関心を持って質問しただけに興醒めした。

「ここは『安全回廊』という施設です。プレハブの箱を連結させている物ですが、精度よく接合することで段差を排し、勾配を厳しく平坦レベルに寄せることで転倒の要因をなくしています。これが各作業場に通ずるようになっています」

「ソフト面ではどんな工夫を?」

「一定以上の速度で歩くと端末に警告が出るようになっています。当然は通路はがらんどうにしています。物を置くなんてとんでもない」

「作業時の安全対策は?」

「建設機械で骨組みから外装まで施工しています。内装と外装の微細な手直しを職人さんにはやっていただいています。もちろん防護服は標準装備です」

 つまり、起きうる事故は建設機械によるものがほとんどだと言っている。私は続けて質問した。

「重機に対してはどのように管理を?」

「それ自体には人は乗ることはありません。管制室からオペレーターが操作しています。AIの補助付きで行っているので、間違いはありません」

「では、作業の大半はこの施設で完結するのですか?」

「作業時だけでなく、工期全体で、です」と石神は補足した。「工事に関わる人たちの居住区画を直結することで回廊は都市となります。作業員──いえ、住人たちは無意識のうちに安全を心がけた行動をとるようになります」

 行きのシャトルのことを思い出す。機体前方を映すモニターに現れた工区。灰色の月面に壮観なマトリックスを描く情景。その正体は仮設構造物で、いずれ滅失する存在だったのだ。

 私は予想に容易いことを敢えて訊ねた。

「竣工に近づけば撤去するんですよね」

「はい。ただ──」彼は呆れたように視線を外した。「移住予定の方々が、この通路を残してほしいと要望しているんです。それもそうでしょう。砂だらけの道よりはこっちの方が楽なものですから。さて──」

 彼は端末をこちらに差し出した。

「この現場の安全性は自明です。チェックリストにサインをお願いします」 

 その表は社内の共通様式だろうが、ほとんどの項目に取消線が引かれていた。残っているものといえば『怪我を隠している作業員はいないか』と『建物に傷はついていないか』のみだった。

 私はまた数ヶ月の航行を経て地球に戻った。帰社すると執務室は騒然としていた。あの現場で初めての労災が起きたという。今までにないざわめきが私の身体を襲い勢いのまま報告書を読む。黒く抜かれた文章で詳細はわからないが、なぜか作業員が打設中の生コンクリートを被ったらしい。防護服の上に被ったので怪我や疾病の心配はなく不休災害だという。
 私は安堵した。それは被害者の無事だったことだけではない。あの担当者がのたまった自明なものが打ち崩れたことに対しての感情も少なからず含まれていた。

文字数:1998

内容に関するアピール

 当初は過剰な安全をテーマに書いてみました。が、安全は過剰だとしても足りうることはない概念だと思っています。自分の職業柄、業者に安全管理を指示する立場ですが、作業員さんの豊富な経験を信頼する一方で現場条件や作業によってはやりすぎな指示もまた必要だと時より感じています。自信「過剰」な管理態度だと安全神話を生み出してしまうので……。月面での施工は鹿島建設や清水建設のホームページで概要が紹介されているので気になった方は目を通してみると面白いです。
 フラッシュフィクションを作るのにあたっては、ベンチマークとして小松左京「鏡の中の世界」の作品群を参考にしました。

文字数:279

課題提出者一覧