マルチプル・コンプレックス

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マルチプル・コンプレックス

なんとも杜撰なやり方だが、これが俺達のやり方だった。
会議は地球テラ時間で一六:〇〇、タレス時間で一四:〇〇から開かれる。
だから、会議に遅れる人間はみな一様に同じ言い訳をする。
――ああ、別の標準時と見間違えていた。
――でも他にも遅れた連中はいるんだろう?
わかってる。
俺だっていつも時間を守れるたちじゃない。でもこの船は俺のIDがなければ、ほとんどの重要施設にアクセスできないものだから、俺はいつだって一番乗りを強要されている。
だから俺は言う。
こういう場合、おそらく短い方の時間に合わせるのがマナーってもんじゃないか?
あくまで問いかけの形式で話すのは俺が自分に甘いからだ。あることを他者に要請するとき、要請する本人がそのあることを完璧に守れていなければならない。
だってそれが社会の規範だから。俺たちを取り巻くルールや取り決めって奴が敷く、最低限守らなきゃいけない暗黙の了解であるから。
つまり常識というわけだけど、でもこの社会に常識は通用しないかもしれない。
それをいまから説明してみせる。
さて、会場にまず最初に入ってくるのはフェルナーだ。コシのある黒髪を真横に撫でつけ、やや垂れ気味の目元をせわしなく動かし、鋭くあたりを見回しながら入ってくる。彼は六番目で、この共同体においては政治屋という立場にある。守るべきだけど、守るのが億劫な取り決めを明文化し、罰則規定の策定や委員会の設置という形で皆に示すのが彼の得意なことだ。
次に入ってくるのはシュミッツ。こちらはコシのある黒髪を伸び放題にしている。垂れ目気味の目元を眼鏡の奥でおどおどさせ、なるべく目立たない席を取る。そのために彼は早く来る。彼は九番目でエンジニアだ。この植民船アレンチア号のことなら彼は何でも知っている。
その後、いくつかのまとまった集団が入ってきて、会場はざわざわと落ち着きのない雰囲気に包まれる。俺はそれを眺めて大所帯になったものだなと感じる。
そしていちばん最後にやってくるのが彼だ。トワイス。コシのある黒髪を左右にきっちり分け、やや垂れ目気味の憂いを帯びた瞳を会場全体へと向けている。彼はこうして会議に参加しているクルー達を静かに見下ろしている。そこから何か天啓を得ようとでもしているかのように。
その名の通り彼は二番目だ。一番目である俺が引き受けられない仕事を引き受け、そればかりかこの船のあらゆる困りごとや問題を手際よく解決し、クルー達から全幅の信頼を寄せられている。それが彼だ。
そして勘の良い人ならもう気づいたかもしれない。いまこの会場に入ってきた人々にはある共通点がある。
コシのある黒髪。垂れ気味の目元。言い忘れたがくすんだ茶色い瞳に骨張った首筋、身長、耳の形、膝から踝までの長さ。そのほかアレルギーや持病に高血圧のリスク。
流石に手相やほくろの位置まで同じじゃないが、それらは生育環境に影響するところが大きいのでカウントしない。共通しているのは、全て遺伝するものであるということだ。より正しく言うなら、遺伝子型が表現型として現われる共通の特徴。それを彼らは持っている。
もちろん俺もそうだ。俺達は植民船アレンチアで暮らす唯一の生き残り。だからこそ、互いに手と手を取り合い、一致団結する必要がある。
ただ、そこに疑念がないわけでもない。この話を例えて言うなら、ドッペルゲンガーの逸話を話すのがいいかもしれない。ドッペルゲンガーは自分とそっくりな見た目をした分身だ。逸話では分身を二回見た場合、身体を乗っ取られて殺される。分身は災いの先触れであり、死の前兆であり、そして肥大化した自意識の顕われでもある。
で、面白いことにこの植民船アレンチアにはそのドッペルゲンガーが二百人ほどいる。その全員がいまこの会場に一堂に会している。
なぜ、そんなことになったのか、それを話すと長くなってしまうが、今日の会議の議題がそれを説明するのにちょうどいいかもしれない。だからここから先は、俺達の話し合いを聞いてもらいたいと思う。
俺はトワイスの方を見やる。彼は俺と目が合うと小さく頷いて会場のドアを閉めた。俺は今日の議題をまとめたプログラムを手に取って立ち上がる。会場にいる全員の目が一斉に俺のもとに集まった。
その視線は様々な感情や思惑を秘めている。期待や驚き、不安に軽蔑。中には理解できないような憧憬のようなものを向けてくる者もいる。
俺は一番目オリジナル。全てはこの俺、ピーター・ワンから始まったのだ。
会議を始める前に、俺は窓から見えるこの惑星タレスの赤土の大地を眇め見た。
どこまでも続く赤茶けた大地の向こうに、二つの青い衛星が顔を覗かせている。
さて始めよう。
「今日の議題は、クローン社会誕生五年目の総括と今後の生存戦略について」

最初のクローンを作ったとき、こんなことになるとは思ってもみなかった。
炭素11キロ。アンモニア2キロ。カルシウム900グラム。リン800グラム。そのほか無機塩類を1キロ。それらを集めると人間が一人できあがる。
まあそれだけで作れるというわけではない。具体的には地図が必要だ。全き欠けることのない完璧な地図。その肉が、肉として構成されうるために必要な全ての構成要素を備えた生ける宝の地図が。
一般にそれはDNAと呼ばれていて、二本のポリヌクレオチド鎖が互いに巻きついて二重螺旋を形成している高分子ポリマーである。
ここで一つ問題がある。そのDNAという地図は絶対に欠けてはならない。少しでも欠けてしまえば、それは白紙と同義になる。そして俺達の乗っていたアレンチア号からは、ただ一人を除いて完璧な地図は失われてしまった。
アレンチアの動力は核パルスエンジンで、その仕組みを簡単に説明すると、超小型の原子爆弾を毎秒数万発も爆発させ、その推進力を前進方向に差し向ける技術である。とてつもなく繊細かつ大雑把なテクノロジーだから、それを深宇宙探索に利用しようとなったとき、多くの人々がそこに不安を抱いた。人類にそのような途方もない代物が扱えるのか。我々は正しくその技術を運用できるのか等々。
けれど、全てのテクノロジーに共通の一度その技術が実用化されてしまえば、それを制御することも可能なはずであるという確信がアレンチアと、アレンチアを含む全ての植民惑星プロジェクトに従事する人々の共通する信念になっていた。そしてその確信とともに太陽圏ヘリオポーズの外へ向けて、たくさんの恒星間植民船が出発した。
あのときアレンチアは三分二十八秒間だけ、その確信から抜け出した。
純粋に理論の中だけで展開される様々な予測や分析はそこでは何の意味も為さなかった。アレンチアのエンジンは突然、制御を失い、俺達を乗せたまま、ゆっくりと近くの植民惑星候補――惑星タレスの重力に引っ張られていった。そして大気圏に突入したとき、船の先端で爆弾のようになった空気がアレンチアの船体に小さな穴を開けたのだ。アレンチアはぎりぎりのところで再起動し、地表に墜落することだけは免れた。
馬鹿なのは、アレンチアを設計した人間が、核パルスで動く動力炉とクルー達が生活する居住区画を隣同士に設計したこと。そのせいで開いた穴を通じて、動力炉内の放射性物質がクルー達の居住区画内に流れ込んでしまった。
結果、重たい原子核から放たれた超高速の中性子ピンボールが、ポッドで眠るクルー達の身体を通過していった。そして彼らの持つ地図を穴ぼこにし、白紙に変えていった。
だから結局、生き残ったのは一人だけだった。そのとき偶然ポッドでは眠れないからという理由で外に出ていた幸運の持ち主が地図を壊されることなく生き残ることになった。
その生き残りは遺伝学者でも分子生物学者でもなかった。だから彼にはその穴ぼこを直すことはできなかった。彼はすでに持っている地図を利用することでしか、その惑星で必要な量の労働力を増やすことはできない。その星で永遠に孤独であるかもしれないという恐怖に立ち向かうことはできない。それが彼に残された唯一の選択肢だった。
そしてその地図からたくさんの肉が生まれた。もとの地図と寸分違わず同じ地図を持つ肉達が。

いまその肉達が目の前にいる。似たような顔をずらりと並べて、列を作り、互いに額と額を付き合わせている。まるで鏡合わせの世界に閉じ込められてそこで互いの欠点を永遠に指摘しあう罰を受けているかのよう。まあ実態としては、そこまで深刻なものではない。毎朝、顔をあわせるときにちょっとばかし顔を背けたくなる。その程度だ。
「じゃあ次の人」
そう言って、俺は列に並んでいる男に手を振った。男は俺の声に気付くと肩を揺らしながら俺の前に立った。俺と似ているが、俺と全く似ていない男がそこにいる。短く切り揃えた頭髪、隆々とした筋肉。側頭部の辺りに141という剃り込みまで入れている。
「サムだ。サム・141」
サムと名乗った男が腕をにゅっと伸ばす。そのパンク過ぎる見た目に一瞬、驚いてしまうが、俺は彼の腕を取るとセンサの表面にそれを押しつけた。
赤い走査線を走らせて、機械が手のひらの静脈網や掌紋を読み取っていく。そうして彼の身体の部分的な地図を作り出していく。
「OK。サム」
俺がそう言って登録の終わったIDタグをサムに渡す。そして「次の人」と呼びかけを行い、列に並んだ者たちの部分的な地図を作り出していく。
こんなことをしているのは、この船がクルーを認証するために腕だけでOKな場所、腕と虹彩が必要な場所、そして腕も虹彩も必要ない代わりに誰にも入れない場所、というようにセキュリティの窓口を一元化していないせいだ。
だからこうして、全体会議が終わった後に彼らの即席インスタントIDの更新を行うのが慣例となっていた。即席IDで行ける場所は限られている。それでも誰かがトイレや食堂に行く度に正規の権限を持っている俺が扉を認証してやらなければならないという事態はなくなる。実際、数年前まで俺は毎度のごとく親指を掲げて船内を走り回っていた。それに比べれば、ありがたいことだ。
そう、あれから五年の月日が流れたのだ。最初に自分のクローンを作ったとき、まだこのアレンチア号は人が住めるような場所ではなかった。俺達は船内のどこにいても、いきなり外の大気が流れ込んできて窒息するかもしれない環境に置かれていた。
俺達は自らを自らの手で救う必要があった。
DIYと日曜大工の精神は、そこで大いに役立った。恒星間植民船は宇宙工学の粋を集めて作られたものではあるが、それを直すマニュアルは船のデータベースから閲覧できた。それでも、あらゆるものが不足していた。資材に設備、ちょっとした工具。だが何よりも人手が不足していた。
ある設備を修理する際こんなことがあった。その設備は船内の空気圧を調整するレギュレーターの一種で、船内を適切なガス圧を設定するには、片方の手でバルブを緩めながら、もう片方の手で三つある圧力調整ハンドルを同時に操作する必要があった。そうしなければ、ガス圧はすぐさま危険なレベルへと到達し、船は爆発四散する。
この場合、必要なのは腕が四本ある人間だろうか。もちろん違う。必要なのは二人の人間だ。そして、そういう種類の仕事がアレンチアにはたくさんあった。
だから俺達は、俺達自身を増やしに増やしまくった。
そうして増やした人員を船の各セクションに配置し、仕様書を渡して作業させる。施工のための計画を立て、そのための物資を調達する。さらにはセクション間にまたがる仕事を滞りなく遂行するため人員と人員のあいだに上位者をたてる。
俺達の社会はそうやって発展した。現在、総人数二一七人。その内訳は、俺の同一の遺伝子を持ったクローンが一五八人。俺とほぼ・・同一の遺伝子を持った準クローンが五十九人。準クローンが生まれた経緯については、ややこしいので割愛するが、俺達は全員、需要と供給のあいだを走る溝を埋めるために生まれてきた。
列に並ぶクルー達の腕を黙々とスキャンしていくうちに見知った顔の男がそこに並んでいることに気付いた。男は清潔感のある黒髪を左右に流し、肩で颯爽と風を切っていた。
「トワイスか」
俺は軽く手を上げて挨拶する。トワイスもそれに会釈で応える。と同時に俺の耳元に顔を寄せ、
「さっきのスピーチ。本当に酷かったぞ」
いきなりそんなこと言われるものだから、思わず俺は「はあ」と言ってしまう。
「何なんだ、いきなり」
「あんなのを半時間近く聞かされた方の身にもなれと言ってるんだ」
そう言うと、トワイスは自分からセンサに手の平を押しつけてIDを更新する。ピッという音とともに端末に掌紋のデータが送られてくる。俺はその間、とくに反論もできずに突っ立っていた。
「そんなに酷かったか、俺のスピーチ……」
「宝の地図がどうだの、肉がどうだの。気色悪くて適わなかった」
「例えが悪かったってことか」
「例え以外も悪かったってことだ」
トワイスが「終わったぞ」と言うと、俺は端末のデータを自分の権限で承認する。即席IDの登録は、親IDである俺から子IDを承認するという形で行われる。クローンであっても指紋やほくろの位置まで同じじゃない。それに生体力場の照合など、正確ではあるがレスポンスの遅い認証方式など、現場で使えるはずもないから、俺達は認証パッドに拇印を押して、公証人が隣でそれを確認するという古式ゆかしい伝統をいまだに維持し続けている。そういうわけで、俺が持っているIDはたとえ俺のクローンであっても使い回しはできないというわけだった。
「本当に人類は宇宙に進出したのかって疑問を抱きたくなるよな」
俺は登録の終わったIDタグをステープラーでトワイスの肩に打ち込んだ。トワイスはタグでこんもりと盛り上がった肩の肉をさすりながら「そうだ、ピーター」と言ってメモを渡した。
「一時間後、船の展望デッキに集合だ。首脳陣だけで話すことがある」
俺はそこで時計を見た。時刻は現在一七時過ぎ。当分、食事は取れそうになかった。

食堂でコーヒーを一杯だけ飲むと俺は船の展望デッキへと向かった。途中、アレンチアのメイン通路から惑星の赤褐色の表面が見えた。
惑星タレス。直径二万三千キロ。やや不安定な内核と酸化鉄に覆われた地表、そしてテラの三倍大きい太陽と二つの衛星を持つテラ型惑星。
タレスは銀河連邦ユニオンから植民惑星候補としてお触れの回った惑星の一つだ。星系はテラから約一五〇〇天文単位離れた場所にあり、そこに侵入するには大量の氷天体星雲を抜ける必要があった。
まあその偉大な航路を進めてきたのは、俺達の先祖に当たるわけで、そこで星系付近まで辿り着いたユニオンの母艦から幾つかの植民船が調査目的で派遣された。その一つがいまこうして星の地表へと降り立っている。まあ無惨にも不時着したものを降り立つと表現するのならば。
「来たぞ」
展望デッキに来ると、すでにトワイスの他にフェルナーとシュミッツ、そしてクレマンが席に着いていた。クレマンは普段は惑星探査で外に出ていることの方が多いが、今日は帰ってきているらしかった。それでも戻ってきたばかりなのか服はまだEVAスーツのままだ。
そこで俺はデッキを見渡した。まだ来ていないメンバーが一人いた。
「パックスはどうした」
「いない」トワイスが言った「あいつはいま食堂でてんてこ舞いだろうな」
「全体会議のおかげでクルー達の食事のタイミングが重なっているんだ。衛生セクターも大忙しだよ」
フェルナーがそう補足する。たしかに俺が行ったときも配給に並ぶクルー達の列で食堂は一杯だった。
「で、待つのか?」
俺は聞いた。
いやと首を振るトワイス。
「首脳が全員集まっていないと、情報の共有ができないだろう」
そう苦言を呈するフェルナーをトワイスがまあ落ち着けと宥める。
「いまからする話に衛生セクターは直接関係しない。だから問題ない」
「じゃあ、僕も帰っていいかな」
場違いなほど、無邪気な声でクレマンが言った。
「駄目だ」
「なんでさ」
「クレマン、お前には居てもらわないと困るんだよ」
トワイスが頼むよというふうに言った。クレマンは脱ぎかけのEVAスーツから腕をぷらぷらと伸ばし、うーんと伸びをする。それからわかったと頷いた。その身振り一つ取ってもクレマンの所作は全体的に幼いものだった。
それもそのはず。彼は実際、幼いのだ。通常クローン達は俺の年齢を基準にしてその成長の度合いを決定する。けれどクレマンが培養されたとき、オペレーションに不備があり、彼は未成熟のまま培養槽から吐き出されてしまった。その少年のような声も、ぶかぶかのEVAスーツも彼の特徴の一つだった。
クレマンが席に座り直すのを見て、トワイスはよしと立ち上がった。
「早速始めよう。シュミッツ、アレンチアの構造図を出してくれないか」
トワイスが指示を出すとシュミッツが無言で端末を操作した。デッキの中央に青白いホログラムが投影されるのと同時に展望窓に静かに緞帳が下ろされる。
昔はこういうのに憧れていた。幽々たる暗黒の宇宙を進むスペースシップ。その司令室。でも実際、居合わせてみるとそこまで感動するものでもない。
「今日、集まってもらったのはほかでもない。俺達の未来を話し合うためだ」
「いきなり、大きく出たもんだな」
フェルナーがふんと鼻を鳴らした。
「ああ、細かいことを話していてももう意味のない段階だからな」
トワイスはそこでいったん言葉を切る。
無音のデッキでは、アレンチアの鯨のような船体ホロが静かに回転している。その鯨のお腹には四本の腕が生えていて、それが気味の悪い卵のような球体を抱えていた。
「ある話をしたい。一隻の船が夜の海を航海していた。海は暗く静けさに満ちていた。だがあるとき何の前触れもなく船底が何かに乗り上げた。座礁したんだ。船内にはすぐに大量の水が入ってきた。クルーのほとんどは溺れてしまう。ただ甲板で寝ずの番をしていたクルーを除いて……」
トワイスはそこで俺のことを見つめた。まるでわかっているなと念を押すように。だが、わかったところでどうしようもないことに俺はわざわざ反応しないことにしていた。トワイスは続ける。
「幸い、船の底に開いた穴は直せるものだった。生き残った船員は夜明けとともにそれを確認した。海に戻りたいなら、船底に板を敷いて満潮に合わせて帆を出すだけでいい。だが、どうだろう。生き残りはいつまで経っても海に戻ろうとしない。残りの食料がどうだとか、海風がどうだとか。そんなどうでもいいことばかりを気にして、肝心の計画を立てようとしない。本来進むべきはずの航路に一向に戻ろうとしない。それはなぜか……」
皆、黙ってトワイスの話を聞いていた。
アレンチアが本来果たすべき目的というのはつまるところ惑星への入植だ。そして俺達が不時着したタレスは入植には適してはいない。空気が薄く土地は痩せているからだ。だから通常であれば、すぐさまこの星を脱出して、また別の星を探しに行くのがセオリーなのだろう。だけどアレンチアの中でその手の脱出計画が話し合われたことは一度も無かった。なぜか。
答えは単純だ。
誰もそんな話はしたくないから。正確には、何かを計画することで生じる面倒や責任についてあれこれ考えを巡らせたりしたくないから。だから、脱出計画について誰も話し合おうとしない。皆もっと手軽に解決できる問題や自分事についてのみ取り組み、その責任を負いたいと思っているからだ。俺にはそれがわかる。
なぜわかるかと言うと、俺がそう思っているから。俺がそう思うということは、俺と遺伝子レベルで同じ俺達・・もそう思っているに違いないからだ。
とくにフェルナーはトワイスのことを目の敵にしていた。
さっきの話で言えば、彼にとってその船が暗礁に留まり続ける限り、そこではある種の駆け引き、ゲームが発生することになる。そしてフェルナーの目的はそのゲームに勝つことだ。権力という名の勝利を得ること、それが彼がこの惑星に留まる唯一の理由だ。
「正直に言ったらどうなんだ」
フェルナーが苛立たしげに言った。
「何を」
「先日、私が培養槽の再稼働を決定したのが気に食わないのだろう」
「……」
「君の考えていることはわかる。培養槽を動かせばその分、電力や人員の管理にリソースを割かなくてはならない。工業セクターに回すリソースが減れば、それだけ船が直るのも遅くなる。だから君はこんな当てつけのような話をしたのだろう」
吐き捨てるようにそう言うと、フェルナーはハンカチを取り出し額の汗を拭った。玉のような汗が額から次々と垂れ落ちている。クレマンがそれを嫌そうな目で見つめていた。 トワイスは「俺が問題にしてるのはそこじゃない」と静かな声で言った。
「じゃあ何を問題にしているんだね」
フェルナーが間髪入れずに追求する。
「こんなこと長くは続かないということを問題にしている」
「どういうことだ」
説明する、そう言ってトワイスはデッキに画像を表示した。画像は何かのグラフのようで、折れ曲がる点と線の軌跡が天体図のように入り組んでいた。
「これを読み解けと?」
「本当はそうしてほしいがやめておこう。要約すればこれはアレンチアの五年間の人口動態を示したものだ」
俺は自分の端末にもグラフを表示するとそれを指で拡大した。縦軸が人数、横軸が時間となっていて、スケールを確認すると確かに五年間分のデータが集計されていた。
人口動態統計。とは言うものの、俺達の船で赤子は生まれてこない。だから厳密にはその集計は婚姻やら住所やらを省いた簡易バージョンだ。それにしても、こんな図をいつのまに用意していたのだろうか。
「ちょうどさっき作ったものだ。お前がクルー達の腕をベタベタ触っているあいだにな」トワイスが俺の疑問に答えるように言った「それに培養槽から出た時点で船のシステムにログが残る。俺達のオリジナルなら、知っておくべきだと思うが」そう言って、トワイスは人差し指でこめかみを叩くジェスチャーをする。口煩いとはこのことだ。
「それで? 見たところ単純なグラフには見えないが」
俺はそう言って、グラフの一つを指差した。表示されたグラフのうち一つは帯グラフで、その帯は五色で塗り分けられていた。トワイスがグラフを拡大して、順次その内訳を説明する。
「アレンチアの分業体制は工業、衛生、探索、そして行政の四つの区分に分けられる。当然セクター間で重複する作業を行う者や、俺やお前のようにその時々によって担当する作業が変わる者もいるから正確無比な区分とは言えない。それに……」
「それに?」
「死んだ者はともかく、事故や病気で業務に従事できなくなった者の比率は常に変動する」
俺はグラフにふたたび目を落とす。帯の赤くなった部分に少なくない数の俺達・・がいることが示されていた。
「このグラフでいちばん重要なのはこれが俺達のある限界を示しているということだ」
トワイスは続けて、
「この船の総人口から、赤色で示した人数――つまり病床人の数を除くとそれは常に一定の割合を示す。現在、傷病者の数は三十二人、それに加えてこの船の環境に適応できず、業務に対応できないクルー達が三十五人。合わせて六十七人。それら人数をこの船の総人口の二一七人から引くと、それはぴったり一五〇人となる。
この一五〇という数は不動だ。この船の人口が一五〇を越えてから、この比率は一人二人の誤差はあるものの、絶対にこの一五〇という数字から動かない。つまり、この俺達クローン社会に参画できる人間の数は決まっているんだ」
フェルナーがそこで笑った。
「むかし懐かしい進化生物学の蘊蓄かね。最小存続可能個体数とか、アリー効果とか、何百年前のカビの生えた知識をいまさら持ち出して、それがこの船の真実だと言うつもりか」
「だが人類の本質はヘリオポーズを出たくらいじゃ変わらないのも事実だ」
「仮にそうだとして、その一五〇人が生存できているならそれでいいじゃないか。違うか? 私たちはいわば遭難したんだ。極限状況では適応することのできる人間だけが生き残る。彼らは生存するための機会を自ら放棄したんだ。それについて私達が責任を負う必要はない」
トワイスはあくまで冷静に、
「極限状況だと言ったが、それは間違っていると訂正させてもらう。統計を取って、もう一つ分かったことがある。この一五〇人はいまの生活レベルを絶対に落とそうとしない。彼ら一人あたりの消費カロリーを計算したが、船の環境がもっとも過酷になる寒季においても、彼らは他のクルー達を顧みることなく生活レベルを維持し続けた。その年は一五〇からあぶれた数人が栄養失調で死んだ。これが続けば、いずれ備蓄食料も尽きる」
「備蓄食料はあと十年は持つと聞いている」
トワイスはその反論を予期していたのか「シュミッツ、現在の船の修復率を教えてくれ」と呼びかける。
「ええと、二十三%ほどです」
「五年で二十三%か、じゃああと十五年は掛かるな。そのあいだに食糧事情を改善する政策でも出すか? 言っておくが、それまでに船のエンジンが止まるとも限らないぞ」
クレマンがそこで「あー」と胡乱な相づちを打つ。
「探索セクターの代表として、こういうことは言いたくないけど。この星に入植するのはやめた方がいいよ。気圧は低いし、極低温だから植物も全然育たない。植民惑星としては見込みゼロだね」
フェルナーがそこで顔色を変えた。事ここに至って自分の味方をしてくれる人間がいないことにようやく気付いたのだろう。
「わかるだろ。もう俺達に選択肢はないんだ、フェルナー」
諭すような口調でトワイスは言う。
「たった五年ぽっちしかない統計を信用することはできない」
「じゃあ言い方を変えよう。君は培養槽から出たとき、この星にどれくらいいるつもりだった?」
フェルナーは露骨に眉をひそめて言う。
「そんなこと、目覚めてすぐわかるわけないだろう」
「ああ、そうだとも。わかるはずがない。俺達みんな、夢から覚めるようにして生まれてくる。ただしそれは別人の夢なんだ。その上で聞く、この星にあと十年もいたいと思うか?」
つかの間、デッキは沈黙に包まれた。それは俺以外の全てのが諒解している事項だった。彼らは突然この世界に吐き出される。何の準備期間も、了承もなしに。
彼らの記憶や性格、それに伴う所与の条件は、船のシステムが管理している記憶モデルをもとに設定される。そのモデルはこの船で生まれた最新のクローンの脳活動から作成される。そしてその系譜の最初に位置するのはこの俺、ピーター・ワンの記憶だ。
彼らは眠りから覚めるように同意なき世界に生まれてくる。夜、眠るとき想像する。明日、自分は得体の知れない虫になっているかもしれない。そして目が覚めると得体の知れない人間になっている。それはきっと彼らにとっては夢のようなものに違いない。限りなく悪夢に近い正夢というかたちの。
「……プランはあるのかね」
フェルナーがそっと呟いた。
トワイスは力強く頷くと「培養槽を止めて、船の修理に回せる人員を増やす。それと同時に全リソースを惑星脱出計画、その一点に集中させるんだ」
「培養槽を止めて君の言うリソースとやらが足りなくなったらどうするんだ」
「そのときはまた培養槽を動かせばいい」
「培養槽を動かすのに反対していたのではないのかね」
「俺は無目的に稼働させることに反対していただけだよ」
そこで話は終わったようだった。投影されていたホログラムが消え、展望窓に下ろされていた緞帳が上がっていく。
明るくなった室内で俺はひと心地ついた。そのときだった。
「ピーター、お前の意見を聞かせてくれ」
それまで蚊帳の外だった俺にトワイスが突然、話を振ってきた。いきなりそんなことを訊かれるものだから、俺は驚いて、
「いきなり、どうした」
「どうしたも何も俺達はお前の意見を聞いておく必要がある」
「なんで?」
俺以外の全員がそこで顔を見合わせた。トワイスが呆れたように首を振る。
「お前が、俺達の創造主オリジナルだからだ」

ふわりと身体が宙に浮く感覚。
下りの階段を踏み外したときの、あのリズムを一つ外されたような。あ、と思った瞬間にはつま先が地面を離れて滑り落ちていく感覚。
宇宙空間でGが失われていくときの感覚はだいたいそんな感じだ。いつになっても落ちない。いつか落ちるという確信だけが身体の中に残っていて、それがどんなときでも胃の腑の奥に蟠っている。人間の身体というのは、きっと細胞レベルで1G環境に適応しているらしく、どんなに言葉や思考で言い聞かせても、ふとした瞬間、自分が寄りかかるための地面を探そうとする。
そういう種類の違和感。
でも、いま感じている違和感はそれとは別のものだ。
四角く切り取られた視界から、部屋の向こう側が見通せる。緑の単色で塗られた床に、下地の建材にウレタンを吹き付けただけの壁。これには見覚えがある。アレンチアの工業セクターにあるラボの一つだ。視界が磨りガラスを通したようにおぼろげに見えるのは、きっとポッドの中に入っているからだ。ラボには事故に遭ったクルーや検体を収容するためのポッドが置いてあり、これは通常の休眠ポッドと同じ仕様のものだ。
これが夢だと気づいたのはこのときだ。
流石の俺でもこの光景が現実のものじゃないってことぐらいはわかる。幻覚を見るような経験とも無縁だから、必然的にこれは夢ということだ。
というよりも夢であってほしい。
俺はこの続きを知っている。この後に起こるくそったれな出来事を知っている。
俺から見て左のドアのロックが外れる。するとそこに大量のクルー達がなだれ込んでくる。皆、俺の見知った顔だ。それは俺が、俺のクローン達の顔を見知っているということとは別の理由によるものだ。彼らはアレンチアが不時着する前に乗っていた正規の船員達。多くの船員は休眠ポッドに入っていたが、哨戒任務にあたっていた副船長を含めた数人のクルー達がブリッジに残っていたのだ。
とはいえ、彼らが辿ることになる結末を俺はもう知っている。
三分二十八秒。
それがアレンチアのエンジンがだんまりを決め込んでいた時間だ。
偶然に外に出ていた俺には何かを判断する時間は残されていなかった。自分が生き残ることに必死で、気づいたらラボにある検体用ポッドに身体を滑り込ませていた。
そして最悪の瞬間が近づいてくる。
なだれ込んできたクルー達が阿鼻叫喚の叫びを上げながら、必死に空のポッドに入ろうとする。エンジンが停止したせいか、船内は立っていられないほどの揺れに見舞われている。俺はそれをじっと眺めている。ポッドの低代謝モードが起動して、意識はすでに切れ切れになっていた。
やがてポッドのつるつるとした表面に腕という腕が張り付き始める。無駄だとわかっていて、その滑らかな表面に爪を立て始める。叫び声が聞こえ、何度も拳で叩く衝撃が伝わってくる。
最後の瞬間、俺はガラス越しにクルーの一人と目が合った。

夢はそこで終わった。まるで現実との地続きな境界線を失って、意識だけがそこから目を覚ましたようだった。最低最悪な夢。と、最低最悪な自分。そういうものを見た朝はすぐには起き上がれない。
端末を開くと、すでにフェルナーから大量のメッセージが届いていた。
内容は昨日の会議について。トワイスの計画をどう思うか、フェルナーは俺の考えを知りたいようだった。さらにそれにかこつけて、二人だけで話し合おうとか、計画に反対なら私は君の側に付くとか、そういう根回しを画策したメッセージが長文で送られてきている。
俺はため息をつくとメッセージを削除した。こんなこと昨日今日で決められるような話でもないし、俺一人で決めていいことだとも思えない。どちらにせよ、彼が必要なのは俺のIDとそれに付属するアレンチアの権限だ。親指の指紋と瞳の虹彩に刻まれた、それだけは決して遺伝することはない細胞分化の妙味。フェルナーが俺に取り入ろうとするのも結局はそれが目的だ。
部屋を出ると、遅まきながら船の食堂に向かった。現実のあらゆることに必ず理由があると考えるのは人生を生きづらい方向へと持っていくだけだが、これに関しては明確に腹が減ったという理由がある。
その途中、食堂がある区画に行くための連絡通路が工事中となっていた。聞けば気密に問題があるらしく本格的な工事に行うとのことだった。不時着からこの方、いまだ修復が追いついていないアレンチアではこういう工事が頻繁に行われている。
そもそも不時着の原因となったエンジンルームの周辺もいまだ封鎖されている。除染はしたが、いつまたエンジンから放射性物質が入り込んでくるかもわからないからだ。
俺は誘導に従い、ゴム板で舗装された迂回路を進む。そこで俺は搬入口の隙間から現場の様子を覗いてみた。おそらく工業セクターに所属するクルー達が船の内壁を修理していた。パイプで足場を組み、溶接トーチを持ったクルーが天井に向かって何やらバチバチとやっている。その傍らでは青図を持った親方らしき男が職人に向かって声を張り上げていた。
正直に言ってしまえば、目を疑う光景ではある。完全に完璧な自動化システムが宇宙船を建造している時代にこの船では紙の図面を手にヘルメットと安全帯を付け、手作業で修復を行っている。これが宇宙開発の姿なのか? そう思わざるを得ない光景ではあったが、この船で安全に暮らすにはこの手の泥臭い業務は欠かせないのだ。
そう、あれは昔のことだ。会議でホロに投影できるのにわざわざ図面を紙に起こすのは資源の無駄じゃないかと言ったことがあった。そのときは鼻で笑われたが、いまならわかる。彼らはプロの目をしていた。俺がアレンチアで甲板員止まりだったのは、つまるところ彼らのような気概がなかったからだ。この船を、そしてクルー達の命を左右するのは自分達の仕事である。そういう気概が彼らにはあった。
トワイスの計画を聞いてもピンとこなかった理由がそれだ。俺にはその感覚が理解できなかった。馬鹿にしているわけじゃない。むしろ逆だ。フェルナーやクレマン、そしてトワイスも自分なりのカリスマに従っているように見える。俺のもとにはそういう種類のお告げはまだ来ていない。見た目どころか、遺伝子まで俺とそっくり同じであるはずなのに。

忘れていた。遺伝子といえば、彼女・・たちの説明をしなくてはならなかった。
あれはちょうど不時着から一年が経った頃だった。クローン製造も進み、各セクターへの人員配置も滞りなく進んでいたある日のこと。培養槽のオペレーションを担当していた技師がスケジュールにない培養槽の稼働を発見した。培養に使用される触媒の劣化が通常の倍の速度だったことから発覚したことだった。
当初、犯行は単独犯によるものだと思われていた。だが予想とは異なり、複数人が私的に培養槽を使用していることがわかった。
培養槽は細胞の分化誘導や分化周期の促進だけでなく、DNAに発生した突然変異や複製エラーをシーケンス単位で修正することができる。それはつまり遺伝子に含まれるどの表現型を分化させるか、あるいはさせないかを選択的に決定することができるということだ。
その大きな枠組みで言えば、実は性選択などもその分化の範疇に入る。性腺の分化、内外性器の分化、性中枢神経系の分化。染色体に含まれる性決定遺伝子に関する領域はそれ単体では単なる発現と非発現のスイッチを切り替えるものでしかない。そういう意味ではこの培養槽で生まれるクローンは俺と全く同じというわけではない。それは俺のあり得たかもしれない可能性の一つなのだ。
俺達は培養槽を私的に利用していたと思われる一人を現行犯で捕まえ、尋問を行った。いったい彼らは培養槽を使って何をしようとしていたのか。いったい何を、そして誰を作ろうとしたのか。

そして、その作られた一人がいま俺の目の前にいる。
彼女・・の名前はパックス・66。
生物学上の細かな定義はよくわからないが、扱いとしては俺の準クローンということになる。まあようするに女性版の俺だ。
「ねえ、私の顔に何か付いてる?」
俺はコンソメスープの皿から顔を上げた。
「なんで?」
「だって、さっきから私のことジロジロと見てるじゃない」
「別に見てないけど」
パックスは不服そうに鼻を鳴らすと、俺の向かいの席に座った。彼女もいまから食事を取るところだという。衛生セクターで働いている(というよりリーダーである)彼女は、クルー達の食事を切り盛りしていた。それで自分が食べるのは、クルー達が食べ終わった後というわけだった。
「いいご身分ね。こんな遅い時間に出てきて。重役出勤?」
パックスがナイフとフォークを取り出しながら言った。
「まあな。俺はお前達の創造主だっていうし」
「なにそれ」
「昨日そう言われたんだよ。なんでも創造主である俺はこの船のありとあらゆる事柄について責任を持たなきゃいけないんだとさ」
パックスは一瞬、驚きに目を見開く。が、すぐに「一理あるわね」と言って、トレイに充填されたセル状の固形食にナイフを入れた。しゃくっと音がして、緑色のセルが切り分けられると、それを美味しそうにフォークで刺して口に運ぶ。
俺は不躾に切り出した。
「パックス、おまえ昨日の会議、来れなかったんじゃなくて、わざと来なかったんだろ」
「昨日、会議なんてあったんだ」
「あったよ、トワイスから連絡が来ただろ」
「そうなんだ? 忘れちゃった」
忘れたってそんなわけないだろ、俺はそう言ってスプーンをパックスへと突きつける。パックスはそこで心底、鬱陶しいというふうに溜め息をついた。
「私はあなた達と違って忙しいから、いきなり呼び出されたからって、すぐに行けるわけじゃないの。そんなこともわからない?」
俺はすぐさま反論しようとしたが、悔しいことにパックスの言っていることは本当のことだった。
クルーの栄養状況および船内の衛生環境については、セクターのトップを務める彼女が取り仕切っている。彼女がセクター長に就任するまで、クルー達は自分が口にするものや船内の環境に全くといっていいほど無頓着で、少し前まではビタミン不足で脚気に陥る者や免疫力低下により日和見感染症に罹ってしまう患者で医務室は埋め尽くされていた。船内には常に不潔な空気が蔓延しており、彼女の仕事はそういう人間の習慣が生む、決して無くならない怠惰ヒューマンエラーを潰して回ることだった。
「首脳会議と称して、なに話してんだかしんないけど、実際に手を動かしているのは私やクレマンみたいな現場の人間なの。そこのところ忘れないでほしいわね」
そう、ぴしゃりと言い放つと、パックスは棒状デンプンのマスタード和えに取りかかり始めた。その顔がもう話すことはないと言っている。
俺は何か反論の糸口を探そうとその仏頂面を眺めていたが、そこで彼女の着ている服が他のクルー達のものとは違うことに気づいた。クルー達が普段来ているのはつなぎのような灰色のジャンプスーツだが、パックスのにはそれにレースのようなものがあしらわれている。
「その服どうしたんだ」
「あ、やっと気づいた?」
先程までとは打って変わって、パックスは嬉しそうに立ち上がると指先でレース部分を摘まんでみせた。ただのエプロンだと思っていたそれはフリルの付いたドレスで、彼女が一回転するとそれが遠心力でふわっとたなびく。
「これ、給仕用の制服。いいでしょ、私がデザインしたんだ」
「デザインって、自分で作ったってことか?」
「そうよ」
「どうして、そんなものを作ったんだ」
「可愛いからに決まってるじゃない。他の子にも人気なのよ、この服」
「いや、そうじゃなくてさ」
俺は言った。物事の前提がわかっていない人間にその前提を理解させるには工夫がいる。
「そんなもん、ここで着て何の意味があるんだって聞いてるんだ」
パックスは驚いた顔をして俺の顔を見つめている。
「私が何を着てもそれは私の自由でしょ」
いや、違う。そうじゃない。それは自由なんかじゃないんだ。俺はそう言って、身を乗り出した。このアレンチアでは可愛いひらひらの付いた服を着るなんてことは全く自由でも何でもない。
「俺達どこともわからない星に不時着してそこで暮らしてるんだぜ。自由がどうだとか言っている余裕があると思うか?」
「別にあると思うけど」
「そうか、わかった。説明する。昨日お前が来なかった会議での話だ」
俺は何が悪いのか分からないという顔をしているパックスにこの船がどんな状況にあるのか懇切丁寧に説明した。
いつかは船の備蓄も尽きること。それまでにこの星を脱出しなきゃいけないこと。そのためにはあらゆるリソースを工業セクターに集中させなくてはいけないこと。それなのに俺達はてんでバラバラで、お前に至っては給仕用の服なんか作って喜んでいる。だからお前の行使しているつもりの自由は本物の自由なんかじゃないんだ。
「そういう状況で自分のやってることが本当に自由なことだと思えるか」
「思える。全然、思えるわね。それにいまの話、少しおかしくない?」
俺は訊いた。いま俺が話したことのどこがおかしいんだ。
「いまの話だと、計画にはさも船の皆の同意が必要だっていうふうに言ってるけれど、それは違うでしょ。必要なのはピーター、あなたの同意でしょう? だってこの船の権限はあなたが握っているもの、あなたが決めれば済むことを、私達のせいみたく言うのはやめてちょうだい」
俺は閉口した。いや、そうだけどそうじゃない。そう言いたかったが、喉元まで出掛かった言葉がそこで止まる。
「ねえ、ピーター。もう少し素直になったら?」
パックスがそこでテーブルに乗り出し、顔をずいと寄せた。
「どういうことだよ」
「あなたがどう思っているかしんないけど、あなたの仕事はこの船に必要なことよ。あなたの承認が無ければ、ドア一つ開けられない。培養槽だって動かせない。まあ、あなたの管理が杜撰なせいで不正に利用する輩が現れたのは事実だけど、それでもあなたは自分ができる最大限のことはやっている。だから堂々としていればいいじゃない」
「いまでも充分、堂々しているが」
「じゃあ充分の認識が人とズレているのね」
そう言うと、パックスはごちそうさまといってトレイを片付け始めた。
「食べるの早いな」
「あなたが遅いのよ」
そうしてパックスは立ち上がり、洗い場の方に向かう。と見せかけて、俺の方に再度向き直る。
「あなたもいっそ開き直って好きなことでもすれば」
「好きなこと?」
「そう、何か趣味でも見つけるのよ、園芸とか。その脱出計画? ってのが始まったとして、あなたの仕事量は変わんないんだし。ここにきて私に延々愚痴ってるより、よっぽど生産的じゃない?」
「今この宇宙船でいちばん生産的なことは何もせず無駄なエネルギーを使わないことだ」
パックスはそこで盛大にため息をついた。馬鹿に付ける薬はない、そんなニュアンス。
「あんたに話したのが間違ってた。フェルナーもシュミッツもうざいけど、あなたのそれはまた別の方向性ね。じゃ、また」
そう言って、今度こそ彼女は洗い場の方へ向かっていった。残された俺はまだ空しく心の中で反論していた。確かにパックスの言っていることは間違っていない。
脱出計画は俺がGOサインを出せば済む話でそして計画が始まったからといって俺のやることは変わらない。
それでも唯一、俺にも口を出せる事が一つあった。
アレンチアにいるクルー達は皆等しく俺の細胞から生まれた被造物だ。まあパックスに関しては女性版の俺、準クローンであるから、多少の違いはあるかもしれないが、その体質や性向、抱えている持病なんかは全部俺と同じだ。
だからそんな奴がふりふりのスカートを着て嬉々として給仕なんかやってると俺にもその種の変身願望があるってことになる。そんなもしもは絶対に勘弁願いたい。
俺は温くなったスープを飲み終えるとトレイを洗い場に持って行った。出口に足を向けるとドアの所でパックスが俺を待っていた。
「まだ何か言いたいことがあるのか」
パックスは無言で手を振って、持っていたチラシを一枚俺に渡す。
「あなたにぴったりの場所があるから紹介してあげる」
受け取ったチラシには簡素な字体で『傷つきの会』と書かれていた。
「せいぜい頑張ることね。悩める創造主さん」

午前の会議が終わった後、さっそく俺はその傷つきの会とやらに足を運んでみた。ちなみにフェルナーとの話し合いに関しては収穫無しだった。俺はまだ脱出計画について意見を決めかねていたし、フェルナーもそれは同じだった。パックスの言ったとおり互いに生産性皆無な時間を過ごした後、俺は談話室のある船の下層に向かった。
「傷付きの会へようこそ。パックスから話は聞いてます。よろしく、ピーター」
そう言って、俺を握手で出迎えたのは長い髪を後ろに流した、穏やかな目元が印象的な女性だった。全く俺の複製とは思えないその落ち着いた物腰に、正直言って俺はかなり驚いた。
「こちらこそ、よろしく。それで……」
「チェンです。チェン・113。とりあえず、こちらへ」
チェンはそう言うと、談話室の奥に俺を案内した。テーブルを手際よく片付け、お茶を入れてきますねと言うとキッチンへと向かう。俺は席に着いてそれをぼんやりと眺めていた。
第一印象は活発な女性、というものだ。どう活発かというと説明に困るが、少なくとも俺のような人間にはない明るさを持つ女性。付け加えるなら、パックスや他のクルー達にはない素朴さみたいなものを持っている女性だった。
なんというか本当に意外だ。彼女のようなクルーがこのアレンチアにいるなんて、そしてそのことに今日まで気づかなかったなんて。
チェンが盆に載せたポットを持ってきた。
「ハーブティーです。といっても、匂いは香料で再現したものですけど」
「ありがとう」
俺は受け取ったお茶を一口啜る。確かに香料特有の作られた風味はするものの、それなりに美味しいお茶だった。
「美味しい」
「よかった」
チェンはそう言って胸をなで下ろした。
「それで」俺はカップを置いて言う「ここはいったいどんな集まりなんだ?」
俺の質問にチェンがきょとんとした顔をした。
ごめん、チラシを見ただけだから、何も知らずに来たんだ。俺はそう言うと、パックスから渡されたチラシを見せる。
ああ、彼女はそう呟いて、ふっと笑みを溢す。
「そうですね。この場所は、言ってしまえば……」
チェンはそこで歯切れ悪く言い淀んだ。何か言いにくいことを無理に言葉にしようとするときの独特の合間。そして数瞬待ってから、
「その、憩いの場とでも言いましょうか」
「憩いの場」
「ええ、そうです。憩いの場」
俺はそこで談話室を見渡してみる。俺達の他にも同じようにテーブルに着いているクルーが何人かいる。各テーブルごとに五、六人。皆、朴訥とした雰囲気でぽつりぽつりと会話をしていた。その表情は一様に暗いものだった。
「ああ、グループセラピーみたいな」
「そうですね。その通りです」
ふっと寂しそうな笑みでチェンが頷く。
思い出したのは昨日、展望デッキで見たあの人口動態のグラフだった。その中でも赤い帯で示された部分。この船の環境に適応できないクルー達。彼らの中には培養槽のオペレーションミスにより後遺症を負った者も含まれている。傷つきの会とは、もちろん比喩としての名称ではあるけれど、一方では文字通りの意味だったのだ。
「ごめん、もっと言葉を選ぶべきだった」
「いえ、いいんです。そうやってはっきり言ってもらった方が皆も気を遣わなくて済むと思いますから」
そう言ってふわっと笑うチェン。それを見て本当に軽やかに笑う人だなと思った。
「じゃあ、いつもこうやって?」
俺は腕を広げて言った。
「ええ、こうやって、皆でお喋りするんです。でも、みんな同じ様な顔をしているから、卓を囲んで髪型を変えてみたりもするんです。結構、楽しいですよ」
俺はそこで苦笑する。それは俺のせいですね。彼らを作り出したのはこの俺なんだから。そのまま俺は軽薄な笑みを浮かべてチェンを見た。いつしかこういう冗談が自分の中で鉄板になっていて、それで他人を困惑させるなんてことに気づいていないわけでもないのに。
「でも……」
そのとき、チェンが唐突に俺の手を握った。あまりに突然のことだったから、俺は反応できなかった。チェンは続けて、
「やっぱり皆違いますよ。似てるけど、どこか違う。絶対に同じってわけにはいきません。それで逆に辛いのかもしれない」
「どういうことだい?」
「そうやって皆と違うからあぶれる人が出てきてしまう気がする。私たちが憶えていられる人の数には限りがあって、そこから溢れた異なる人は社会の中でも別の枠に入れられる。だから、ここに来ざるを得ない人たちがいる」
そこで思い出したのは、トワイスが会議で言っていたことだ。
――この一五〇という数は不動だ。つまり、この俺達クローン社会に参画できる人間の数は決まっているんだ。
「トワイスも同じようなことを言っていたな」
チェンがそこで驚いたように目を見開いた。
「あの人がそんなこと言ってたんですか?」
「あの人? トワイスとは知り合いなのか」
「ええ、というより、この傷つきの会を立ち上げたのはあの人なんです。私はそのとき入ったボランティアで、あの人が船の仕事で忙しくなるまで、ここで一緒に働いていたんです」
初耳だった。トワイスからそんな活動をやっていたなんて一度も聞かされたことはなかった。
「……それであの人は何て言ってたんですか?」
チェンが訊いた。
「えっと、なんでもアレンチアで生活レベルを維持できる人数は限られていて、それは示し合わせたように一五〇になってしまう、だったかな。それでその数のことを最小存続可能個体数と言うとか」
「一五〇というとおそらくダンバー数の間違いですね」
「ダンバー数?」
俺は馬鹿みたく聞き返してしまう。
「ええ、進化生物学の用語で、人が安定した人間関係を維持できる数の上限のことを言うんです。あくまで認知的な上限だから、数の上では一〇〇から二三〇くらいまでの幅があるけど。ほら、よく言うでしょう。ある靴職人の工房を覗くとその従業員数は一五〇だったとか、職場や学校で顔をあわせる知り合いのうち、名前や性格を憶えているのは一五〇人だとか」
「ああ、そういう」
「具体的な一五〇という数が出てくるから眉唾に見えますけど、これはまだ人類が原始的生活を送っていた頃の氏族クランや村の集団サイズとも一致していると調査でわかっているんです。だから一五〇という数そのものよりは、集団を形成する動物の認知機能とその集団サイズに相関があることを示した、そういう筋立てとしての部分の方が本質的かもですね」
まあ、もう何百年も前に検証の終わった概念ですけれど。そう言って、チェンは少し恥ずかしそうに頬を掻いた。
俺といえば、そこで呆気に取られていた。一見、鷹揚に見える彼女の口から溢れでた急流のような言葉。そしてその語り口の滑らかさに。
「ごめんなさい。またこんな話ばっかしちゃって。私の悪い癖なんです」
「いや、いいよ。面白い話だった。聞いてて楽しかったよ」
「そうですか」
「うん、それに興味深かった。宇宙に進出したっていうのに、そういう人間の基本的条件みたいなものは変わらないんだなって」
「どうなんでしょう。宇宙に進出してからまだ数百年ぽっちですから。何か変わるには早過ぎるのかな」
何か変わるのには早すぎる。彼女は何気なく言ったつもりだろうが、その言葉は希望じみて感じられた。といっても、俺にだけ特別希望じみているという話だが。
俺はそこでふと疑問に思った。
「じゃあ、その一五〇って数も社会の中で変わっていくものなのかな」
「え?」
「いや、単純に疑問に思っただけなんだ」
人類の長い進化の歴史。テクノロジーの発展。そういうものがあって、この植民惑星計画が始まった。俺達はその渦中で自分達を情報システムや遺伝子タグやらで管理していく術を見つけていった。そういう方面での進化は、進化とカウントされないのだろうか。
チェンは少し考えてから、
「そうですね、ちゃんと理由がある、と思う。つまり私達は発達した脳でできることを環境に合わせて細分化していったんだと思う」
「どういうこと?」
「これは適応度という概念なんだけど、ゲームで例えるなら、レベルアップで振り分けられるポイントを記憶力や認知能力のようなステータスに振るんじゃなくて、他者を出し抜き騙す方法を考える頭の良さ、そういう方向に割り振ってきたと言えるんじゃないかしら」
「攻撃力や守備力を増やすんじゃなくて、必殺技や奥義を習得するみたいな?」
「そんな感じ。四足歩行する類人猿からに二足歩行する人に進化する中で脳の容量が増えてきて、そういうふうにどこを力点に適応していくのか、適者生存によって洗練されていった。そうすれば繁殖という淘汰圧のある中でも優位に立てる。結果的にそういう適応度の高い個体が生き残っても不思議じゃない。つまりはいつの時代も社会には一定数、嘘つきや裏切り者が存在するということなのかも」
「裏切り者……」
「ええ、これは人間だけじゃなくて、蟻や猿の仲間にも見られる傾向なの。蟻は真社会性動物といって、まあコロニーを作るんだけど、アミメアリという蟻には働かず繁殖だけを行う裏切り者の蟻が存在する。猿の一種でもメスが嘘の発情アピールをして、番いのオスが他のメスのもとへ行くのを妨害するなんて行動もある。でもこれも種の繁栄という観点から見るとどういうことかというと、そのメスは次世代が生まれる芽を摘んでいるということだから……」
「群れが滅亡するリスクより自分のクローンを残すことを優先している」
そう言って、俺は話の結論を先取りした。
「ええ、そういうことになる」
チェンはそこでまたしてもふっと笑った。けれど今度はそこに少しだけ悲しげなものが混じっていた。伏せた目元に毛先の一筋が垂れて、思わずどきっとするような陰影がさす。
でもそれは、彼女の顔がやはり俺と似すぎていることから生じるものだった。垂れた目尻に丸みを帯びた鼻先、そして笑うとき、控えめに引き延ばされる薄い唇。
そして周りにもたくさん俺と似た顔があって、俺は段々とそこから読み取るべき感情というものの基準がわからなくなってくる。自分がどんな顔をしているのかわからなくなってくる。
そこで端末に着信が入った。俺は一言ごめんと断ってから着信に出た。相手はフェルナーだった。どうやら認証のためにまた俺の親指が必要らしい。
「ごめん、もう行かないと」
俺はチェンに一言謝った。彼女はまだ少しだけ寂しげな表情をしている。
「いいの。また一緒に話をしましょう」
「ああ、そうするよ。君達の創造主として、俺には幾らかの監督責任があると思うから」
「違うわ。またピーターとしてここに来てほしいの」
俺は短くわかったと答えると談話室の出口へと向かった。ふと視線を走らせれば、たくさんのクローン達がテーブルに向こうで奮闘していた。おそらく宇宙空間の虚無や多重存在に関する哲学に花を咲かせているに違いない。彼らには頑張ってほしかった。

その後も俺は定期的に傷つきの会に通い続けた。
最初は歓迎してくれるクルー達も少なく、数分だけチェンと喋って帰るということを繰り返していた。だがそのうち何人かのクルーと卓を囲むことも増えた。
そこでサムとヒューエルというクルーと仲良くなった。彼らはもともと工業セクターに所属していたが、いずれも事故で仕事を続けられなくなった者たちだった。サムは足を酷く骨折しており、松葉杖をついていた。ヒューエルは車椅子だったがそのことについては話したがらなかった。
意外なのは、サムが俺と面識があると言ってきたことだった。というより、俺の方が彼を忘れていたことにびっくりした。サムは髪をかき上げると、剃り込み跡にある141という数字を見せた。あの髪型だと皆が怖がるからやめたとのことだった。これが一五〇マジック。
彼らとはすぐに打ち解けることができた。話すことはもっぱら日常の細々としたことで、食堂のあのメニューがうまいだとか、あそこで働いている誰それが可愛いとか。とくにサムは自分たちがクローン同士で、つまり準クローンと恋仲になることについて熱弁を揮った。
俺は一時期、培養槽のオペレーターだったから知ってます。そう言ってサムは滔々と語り始めた。培養槽のオペレーションを記述するコードの中には予め性選択に関するオプション(男か女のどちらに分化させるかはもちろんのこと雌雄同体だって作り出せる)が含まれている。それはつまり、人類の大局的な生き残り戦略に関して、俺達は自由にその組み合わせを実行できるし、実行すべきである。つまり産めよ増やせよは人類の唯一にして絶対の目標であるから俺達はそれを受け入れ、謳歌すべきじゃないだろうか?
俺はそこで曖昧に頷いておいた。単純にドッペルゲンガー同士で付き合うということのおぞましさに目を瞑ることができれば、もちろんその主張は俺にも受け入れられる。ただその方向で自身の未来を考えると途端にそれは現実的では無い気がした。
話の終わり際、俺はヒューエルがぼそっと呟くのを聞いた。俺の耳が確かなら、彼は「僕らは……滅びるべきだろう」と言っていた。
車椅子のシャーシを軋ませながら、ヒューエルは去って行った。幸運にもサムに彼の呟きは届いていない。おそらく気を利かせたのだ。サムの骨の具合はよかったから来週には復帰できる。でもヒューエルの方はわからない。結局の所、ヒューエルは僕らは死ぬべきだろうという表現を避けた気がする。死ぬべきを、あえて滅ぶべきと大仰に言い換えたことには意味がある。
実際、会の中で俺のことを絶対に受け入れないグループが同じような主張をしていた。そのグループには先天性の疾患や精神的な不調を抱えている者が多くいて、彼らは根源的に自分は消滅した方がいいと思っている。そしてその直接的な原因である俺にも消滅してほしいと思っている。俺自身も時々そう思うがその罪悪感は彼らの憎しみの言い訳にはならない。
培養槽はやはり万能ではない。俺達の材料のほとんどは本当はもっと優秀な遺伝子を持つ人間を生み出すはずで、生み出された者達は各自で生殖を始めるべきなのだ。アダムとイブは切っ掛けに過ぎない。こと生き延びるということに関して、同一の遺伝子が繁殖を繰り返すフィールドというのは、およそ生物の環境としては相応しくない。そういう遺伝環境は絶滅した方がいいのだ。

そして俺は会に通う中でトワイスが何度かチェンに会いに来るところを見ていた。そういうとき、俺は談話室に入っていく気になれず、遠くから二人が仲睦まじく話しているのを見ているしかなかった。
別にトワイスとチェンの関係について気になるわけじゃない。
俺が気になっているのは別のこと。裏切り者のことだ。
群れが滅亡するリスクよりも自分の種を残すことを優先する個体。惑星入植という大いなる目的を放棄して一人生き延びることを優先している個体。
つまるところ、裏切り者とは俺のことじゃないだろうか。そしてこの社会全体がその素養を持つ複製で埋め尽くされている。
ある日、トワイスがとうとう俺の方にやってきた。初めから俺がいることに気づいていたのだ。二人だけで話したい。トワイスはそう言った。
ああ、俺もそろそろ来る頃だと思ってたよ。

時刻はテラ時間で五:〇〇。
トワイスに渡された地図をもとに俺はアレンチアのメイン通路を歩いていた。窓の一部が強化ガラス張りになった通路からは、まだ夜が明ける前の黒々としたタレスの地表が見渡せた。
メイン通路の前に行くと黄色いバリケードが道を塞いでいた。この先には封鎖された動力炉と旧居住区がある。この先に行くには台帳に名前を記入し、フェルナーの承認を得た後じゃないと入ることはできない。面倒な事この上ないが保安上やむを得ない処置だろう。俺はそこでUターンをすると、その手前にあるメンテナンス用の通用口を開けた。奥でトワイスが腕を組んで待っていた。
「一分遅刻だ」
「こんなところを集合場所にするのが悪い」
「それで?」俺は言った。目の前にバルブの付いた気密壁がある。昔ながらの両手で回すタイプのやつだ。
「これエアロックか?」
「ああ」
「こんなところにエアロックがあるなんて、知らなかった」
「お前は自分が生活している場所を知ろうとは思わないのか」
「俺は」首をぐるっと回して「マットレスと枕さえあれば他には何もいらない」
「だろうな」
そう言って、トワイスは持っていたバッグの一つを投げ寄越した。渡されたのは船外活動用のEVAスーツだった。
「話すのにわざわざ船外に出る必要があるのか」
「俺達二人で話しているのを誰にも聞かれたくない」
一瞬、疑問に思ったが、フェルナーに知られたらまずいだろとトワイスが言った。確かにこの事を知れば、奴は不正な談合だとか言って騒ぐに違いない。それだけは簡単に想像できる。
俺はスーツを着用するとバルブを回しエアロックに入る。
「開けるぞ」トワイスがエアロックを開放した。
タラップを踏んで俺はタレスの赤土に足を下ろす。この赤土のさらさらとした感触を足で確かめるのも久しぶりだった。
「それで、わざわざ船外に出てまで話したいことってなんだ?」
俺は歩きながら、トワイスに訊いた。
「少し歩こう」
俺は促されるままにトワイスの後ろをついていく。砂の上を歩きながら、ずっと昔、外で歩くときは何か石ころでも蹴ってないと落ち着かなかったことを思い出していた。身体に刻み込まれた癖というのはこういうものらしい。
「ここだ」
そう言ってトワイスは砂丘に膝をついて双眼鏡を取り出した。ヘルメット越しでも使いやすいよう覗き穴がディスプレイになっている。遙か遠く、地平線の彼方に砂煙を上げて走る探査車ローバーが見えた。乗っているのは探索セクターの調査班だった。
「なあ憶えているか?」
トワイスが言った。
「俺たちがまだ二人だけだった頃、ああやってローバーを走らせて、すっ転んだことがあったよな」
ああ、憶えている。土を載せすぎたんだ。それで車体の重心が右に傾いていた。
「あの頃は、土から何でもかんでも作っていた。建材のペーストに粥に入れるミネラル添加物。それに培養に必要な窒素や鉄。分子コンポストが発明されていなければ、俺達はとうの昔に死んでいた」
「ああ、俺もそう思う」
束の間、俺達の間には静かな風が揺蕩っていた。きめ細かい砂を乗せた風がさらさらとヘルメットの表面を流れていく。そして地平線の上に現れた今日最初の曙光が俺達を照らし始めた。
――なぜ、今になってそんな話を。
そう訊きたかった。けれど依然としてトワイスは双眼鏡を顔に当てていて、その表情を読むことはできない。だがこの話の行き着く先はもう見えている。
トワイスは顔から双眼鏡を下ろした。
「あのときは、これから一生、土を掘って生きていくのかと本気で思っていた」
そこでトワイスは手を砂に差し込む。指先から零れた砂が風に吹かれて消えていく。
「もう、そういうのは御免なんだ。シャベルとつるはしをもって船を往復するのも、いつまで生きていられるか、指折り数えて眠りにつくのも……」
本題に入ろう、そう言ってトワイスが俺を見た。
「ピーター、なぜ脱出計画に反対する?」
「俺は反対してない」
「だが賛成もしていない。だから培養槽も停止させないし、この社会が先細って滅びていくのを、ただ黙って眺めているということか?」
俺はそうじゃないと首を振って、
「俺はただ、もっとマシなプランがあるんじゃないかって、そう言いたいだけだ」
そうだ。なにも惑星脱出なんて極端なプランを採用しなくとも、俺達がここで生き延びていけるプランはあるはずなのだ。なのにトワイスが提示する選択肢は0か1かの二択だ。それが理解できなかった。
俺がそう言うと、トワイスは「わからないのか」と溜め息をついた。
「そんな都合のいいプランなんてあるわけない。お前もあの会に参加したのならわかるだろう。俺達一五〇側の人間にとって、今この瞬間がいちばんマシな生存プランなんだ。生き延びた側の戦略はいつだって現状維持だ。そこからはみ出た者は、いずれセラピー送りになるか、ともすれば自殺するかの二択しかない」
「じゃあそっちの問題を先に解決したらどうなんだ。目を向けるなら、まずはそこからだろう」
「ちゃんと考えてあるさ。惑星脱出という公共事業を生み出して、雇用を拡大すればいい。結局の所、リソースの再分配が問題なんだ」
話は完全に平行線だった。
「わかった」俺は言った「お前の言うとおり惑星脱出プランが最適解だとしよう。それで誰がこの船を直す。どうやってこの船を打ち上げる。エンジンがまた途中で止まるようなことがあったらどうする。宇宙物理学の博士を持ってる奴も船のエンジニアも全員ポッドの中で死んでるぜ」
「シュミッツやクレマンがいるじゃないか。五年間もアレンチアやこの星を見てきたんだ。彼らの知識はオリジナルのクルー達にひけを取らない」
「そうか、だが絶対に上手くいくとは思えない。だって彼らは俺なんだ。お前も俺だし、他のクルーも全員俺だ。その俺ができるわけがないと確信している」
「お前の言ってることがわからない」
「根拠がほしいんだ。俺にそんな大それたことができるのかって根拠が」
トワイスはそこで静かに頷いた。
「根拠ならある」
「なに……」
それはほとんど断言するような口調だった。
「この星に不時着して、お前は絶望したはずだ。ひとり孤独だったはずだ。それでもお前は生きるということを諦めなかった。倫理的に許されないとわかっていながらクローンを作りこの複製社会を生み出した。そうして今日まで生き延びてきた」
トワイスは続けて言う。
「おそらく、それがお前の資質スキルなんだ。倫理という大きなものを裏切ってなお、生き延びようとする力。そこに専門的な技能スキルや知識は関係ない。普通の人間はそこで立ち止まる。でもお前は違った。そんなお前だからこそ、生き残ることができた。それが根拠だ」
そう言って、トワイスは俺のことを見た。そのときタレスの朝日が真っ直ぐに俺の下へと差し込んだ。
不思議な感覚だった。だけど俺は説得されたわけじゃない。思い出しただけだ。
チェンが言っていた。重要なのは、生き延びるということに関して、どこまで時間のレンジを取るかということ。
将来的な絶滅の予測というのは、その絶滅が観測されて初めて実証される。確かに自分だけが繁殖するチート蟻はその後、巣を滅ぼしたのかもしれない。嘘つきの猿がいる群れは他の群れとの競争に負けたのかもしれない。
じゃあ、自分のクローンで宇宙船を一杯にする奴は?
答えはまだわからないだ。
俺達はまだ滅びていない。何かを間違いだと判断するのは、全てが終わった後からでもいいのかもしれない。
俺はあらためてトワイスの方を見た。彼は、最初に俺が作ったもう一人の自分。それに自分を肯定させるという構図はあまりに倒錯しているし、意味の無いことかもしれない。
それでも俺はそこに賭けてみようと思った。
「わかった。脱出計画を始めよう」

「よし、皆そろったところで始めよう」
俺はそう言って壇上に上がった。
時刻はテラ時間で一六:〇〇。すでに会場はクルー達で埋め尽くされている。流石に今日の会議に遅刻するものはいないようだ。なんたって今日の会議はまさに俺達の未来を決定づけるものだからだ。
議題は『惑星タレス脱出計画 作戦会議』
あれから一年の月日が経っていた。俺達は惑星脱出に向けて、本格的に動き始めていた。培養槽を止め、電力や資材を船の修復へと回す。そうして大急ぎで船を直しつつ、打ち上げコースをクレマン達に調査してもらっていた。
スケジュールに遅れはない。このままいけば、俺達はすぐにでも打ち上げ準備に入ることができるだろう。今日の全体会議はそのことを話すためのものだ。
俺は会場に集まったクルー達の顔をあらためて見た。みんな同じ俺の顔。目の色や髪質、骨格さえも俺と同じで、それでも決定的に俺とは異なる何かを持った俺の複製達。
それが顔つきなのか、持っている思想や価値観の違いなのか、明確にこれとは言えない類いの豊かさを彼らは一人ひとり持っている。そのことが俺にもようやく分かり始めていた。
「よし、じゃあシュミッツ。船の状況について進捗を報告してくれ」
俺はそう言うと、シュミッツにマイクを渡した。シュミッツは相も変わらず伸び放題の髪を掻きながらのっそり立ち上がる。
「現在、船の修復率は九十六%。エンジン、メインユニット、各種ブースターはおおよそ修復が終わりました。打ち上げに際して重量削減のため、コロニー建設ユニットの切り離しを行っていますが、それも明日には終わりそうです」
そこでシュミッツは、ですがと前置きをした。
「一つ問題があります」
「問題?」
シュミッツは頷くと、これを見てくださいとアレンチアの構造図を投影した。
「結論から言えば、このままだと船はまた墜落します」
やはり腐っても俺の複製だ。打ち上げ直前になって、こんな大問題を平然と繰り出してくるなんて。
「おいおい、どういうことだ」
隣にいたフェルナーが血相を変えて騒ぎ始めた。
「以前からタレスには謎の磁場があって、それが超長距離無線の障害になっていましたが、その理由が判明しました。要約すれば、この星の地表からおよそ二万キロ付近に未知の物質が滞留しています。それがちょうど輪っかのようになっていて、あれです、サターンの環です」
「で、その未知の環が何で問題なんだ」
俺は冷静に言った。
「まあ未知と言いましたが十中八九、反物質ですね。これが凄い透過力を持ってて、船の外壁や隔壁も全部すり抜けて、動力炉の中に直接飛び込んできてしまう」
シュミッツはそこで眼鏡の位置を直すと、
「動力炉は核燃料に反物質を注入して核パルスを発生させています。つまりこの環の中にいる限り、動力炉に飛び込んできた天然反物質がエンジンを勝手に反応させてしまう。そんな感じです」
「その環はどんくらいあるんだ」
「約一万六千キロ」
そこで会場から声があがった。「嘘だろ」、「天然の反物質?」
俺は奥に座っていたクレマンの方を見て「それは探索セクターでも確認したことなのか」
クレマンは頷いて、
「反物質が存在すること自体はおかしくはないよ。雷だって瞬間的には反物質を生成しているんだ。でもこんなふうに滞留しているのはおそらくこの惑星ぐらいだろうね」
「で、どうするんだ」
俺はそう訊くと、シュミッツは不思議そうな顔をして、
「単純に反応を止めればいいだけなので、環に侵入している最中は緊急用の制御棒を挿入し反応を抑えます。これで墜落することは防げますよ」
「じゃあ問題ないじゃないか」
「いえ、制御棒を挿入するには誰かがエンジンルームに入らないと。知って通り重放射線はもの凄い速さで電子機器を摩耗させますから、オペレーションとしては中に入って手動で機械を操作する。そういう設計になっているんです」
「それはつまり放射線だらけのエンジンルームに入って制御棒を挿入する人間が必要だということか」
「ええ、まあ、そういうことに。ですが大丈夫です。環の中に入る前に加速しきって炉を停止させれば反応はゼロに等しいですから。そのあと引き抜くタイミングを間違えれば、放射線を直に浴びることになりますが」
もしくはそのまま墜落することになるかも、クレマンが何故か楽しそうに補足した。
「それで誰が志願します?」
束の間、会場が沈黙に包まれた。誰も手を上げようとする者はいない。当たり前だが自殺したい人間などいない。けれど誰かがやらなければいけない。皆の視線が俺に集まっていた。船の権限を持っている以上、俺の参加は必須だった。
そこで一人手を上げた者がいた。
「俺も行こう」
手を上げたのは、それまで会話に参加していなかったトワイスだった。
「俺達クローンには帰る場所はない。でも彼には帰るべき故郷がある。それに俺たちがこうして生を与えられたのはオリジナルの彼がいたおかげだ。だから手伝う」
そうして、トワイスは壇上にいる俺の方を見た。
「決まったようだね」
シュミッツが言った。

集会が終わった後、俺は最後にクルー達のID更新を行った。これまで無かったことだったが、皆が口々に頑張りましょうと俺に励ましの声を送ってくれた。
そんな中、シュミッツがちょっといいですかと俺に声を掛けた。
「どうした」
「少し相談したいことがあって」
「相談?」
「ええ、今さらですが、誰かが培養槽に不正にアクセスした形跡があるんです」
「培養槽に?」
俺は言った。「でも、培養槽は停止していたんだろう?」
「そのはずです。ペイロードを減らすためにコロニー建設ユニットと一緒に培養槽も地表に置いていくのは聞きましたよね」
「ああ」
「だから久しぶりに中を覗いてみたんです。すると、少し前に起動させた形跡が残っていて」
「誰かがクローンを作ったのか?」
「いえ、そういうわけではないようです。ただクローンに書き込む用の記憶ファイルに不正にアクセスした形跡がありました」
俺は顎に手を当てて、
「いつのことだ……」
「先月です。ついでに記憶ファイルのログの整合性を確かめてみました」
そこでシュミッツが難しい顔をした。俺は言ってみてくれと促す。
「記憶ファイルですが、過去にも何度か改竄または消去された形跡があるんです。それもかなり古い時期のデータが。俺達は船長の脳活動複写を元に記憶モデルを構築します。いままでそのモデルかファイルのどちらかを誰かが編集したことはありますでしょうか?」
俺は少し考えてから答えた。
「いや、それはないはずだ」
「そうですか。おそらく船のシステムを更新したのでそれに巻き込まれたんでしょう。まあ記憶モデルに不具合があれば、誰かがすでに訴えているはずですから、いまさら実害はないと思いますが、念のため確認をと」
そう言って、シュミッツは礼をして去って行った。
「記憶か……」
俺はそう独り言ちる。最後の最後までこんな調子だ。全く予期していないタイミングで、全く予期していないトラブルに見舞われる。惑星脱出を目前にして、今さら割けるリソースもない。どのみち培養槽は地表に放棄するから、シュミッツの言うとおり放っておいても問題ないのは確かではある。が、気がかりでないと言えば嘘になる。
そんな不安を抱えていたせいだろうか。知らず知らずのうちに足が談話室へと向いていた。談話室の続く廊下を歩いていると、不意に奥から話し声が聞こえた。俺は咄嗟に廊下の曲がり角の手前に身を隠した。誰かが談話室で話し込んでいた。出てきたのはトワイスだった。彼にしては珍しく何か思いつめた表情していた。
数分後、俺はそっと談話室の中に入った。
「チェン」
「ピーター……」
振り向いたチェンの目元は泣きはらしていた。
「泣いてるのか」
「いえ、その……」
チェンは目元を拭った。
「あいつ、君に何をしたんだ」
俺が部屋から飛び出そうとするところをチェンが引き留めた。
「違うの、彼は関係ない」
「じゃあ、いったい何が……」
「私が、私が全部悪いの」
俺はどういうことだと疑問をぶつけた。
「あの人はただ一緒に来てほしいと言っただけなの。船に乗って皆と一緒に脱出してくれって」
――一緒に来てほしい。
それはつまり、チェンは元々は船に乗るつもりはなかったということだ。
「じゃあ、君は……」
「私は残るつもりだったの。皆と一緒にね」
「ここってタレスに? それに皆って……」
チェンはそこで俯くと、
「会の皆は貴方たちとは一緒に行けない。ただでさえ、透析が必要な人もいるし、何より彼らはもう新しい環境には耐えられないの。彼らもそのことを分かった上で残ることを選んだ」
知らなかった。クレマンから何人か惑星探索を続けるために残ると聞いていたが、まさか会のメンバーがその居残り組だったとは。けれど弱っている彼らをこの星に置いていくということはつまり……。
「そう、だから私も残ると言ったの。彼らと残るって。皆と最期まで一緒に居るって。でも……」
そのときチェンの目から大粒の涙が零れ落ちた。
「あの人に一緒に来てほしいと言われたとき、私嬉しかった。幸せだった。だから私は行くんだと思う。わかるの、自分のことだから。私は皆との約束を破って宇宙へ行く。皆を見捨ててあの人の元に行く。そうする自分を絶対に止められない」
そして真空が現れた。もはやどんな罪悪感も悲嘆も、絶望すらもない。完全なる真空。それが彼女の顔を覆い尽くしていた。
「裏切り者は私だった。他ならぬこの私こそ利己的で生きていちゃいけない個体だった」
そして永遠にも思える沈黙が訪れた。
俺は言った。
「それは違う」
チェンは虚ろな表情のまま顔をあげた。
「君に、いやクルーの誰にも言っていないことがある」
チェンが俺のことを見つめていた。今から俺はあることを告白する。それは彼女にだけは知られたくない秘密だった。
「君らを作ったとき俺はそこに最新の記憶を反映しなかったんだ」
「え……」
「おそらく君達は、俺がポッドに入ったのは船が墜落して咄嗟のことだったと記憶しているだろう。でも違うんだ。俺にはクルー達を救う時間があった。全員は無理だけど、ブリッジにいたクルーぐらいは救えたんだ。でもそうしなかった。俺は自分が生き延びることしか考えなかったんだ。皆が必死に仲間を助けようとしているときに俺は真っ先にポッドのある部屋に逃げ込んだんだ。そうしないと死ぬことがわかっていたから。だからわざと記憶をアップロードしなかった。最新の記憶ではなく、船がまだ墜落する前の記憶をサーバに残して、そのログも消した。自分のやったことがばれるのが怖かったし、何より……」
俺はそこで唇を噛んだ。罪の意識だとか、そんなものはどうでもよかった。肝心なのは自分がどんな人間かを知られること。俺という人間を誰も信用しなくなること、自分という存在が誰からも一切参照されなくなること。でもきっとチェンが感じている罪の意識はそれ以上のものだ。だから俺は言った。
「自分がそんな最低な人間だと知られたくなかったんだ。クルー達に、何より君に。そしてそれを隠すためなら俺は平気で嘘をつくことができる。それが俺の資質なんだ。だから君は裏切り者じゃない。君は、俺の複製としてそれを押しつけられただけだ。それは君の感じるべき罪悪感じゃない」
俺はそこでチェンを抱きしめた。チェンは耳元で「違う……」と力なく囁いていた。どんな資質を持っていようが人は選択することができる。選択することだけは、できてしまう。その通り、だから俺はここで嘘を重ねることもできる。
「大丈夫。さっきシュミッツと話したんだ。アレンチアが安定したらこの星にもまた戻るって、だから会の皆は大丈夫。決して見捨てるわけじゃないよ」
チェンは何も言わなかった。ただそうして抱きすくめられているだけだった。

打ち上げ当日、俺はトワイスと一緒に旧居住区と動力炉に続くあの黄色いバリケード前で待機していた。共にEVAスーツを着用し、耐G用の固定装置で身体を固定している。
〈打ち上げ五分前。各種ステータス確認開始〉
アナウンスが聞こえた。あとは打ち上げを待つだけ。そこでフェルナーから通信が入った。
『二人とも準備はいいですか』
俺はトワイスと無言で視線を合わせる。
「ああ、大丈夫だ」
『それでは二段構えです。アレンチアは反物質の環の手前まで加速します。そのタイミングで動力炉の隔壁を閉じますから、そこで制御棒を挿入してください。そして船が環を抜けたタイミングで再び制御棒を引き抜いて再点火。一度、制御棒を挿入したタイミングでシステムがシャットダウンしますがすぐ予備電源に切り替わります』
「了解。環を抜け出すのにはどれくらい掛かる」
『船の速度にもよりますが、二十分ほどかと』
「そのタイミングで制御棒を引き抜けばいいんだな」
『ええ、でも気を付けてください。環を抜けても船は依然としてタレスの引力に引っ張られてますから、五分ほどで環の中に再突入します。それまでに引き抜きを完了させてください』
「それだけあれば充分だ」
トワイスがそう言って俺にウィンクをした。
〈打ち上げ一分前、カウントダウン開始します〉
さあいよいよだ。
「準備はできたか」
トワイスがそう俺に確認した。俺はお前の方こそと軽口を叩く。
「ああ、だが次の瞬間には爆発して死んでるかもな」
俺は笑って、
「珍しいな。お前がそんな冗談を言うなんて」
「俺もお前ということさ。お前由来の下らないジョークだ」
「それでも俺達は一人ひとり違うんだ」
アナウンスが一際、大きな音声で読み上げを開始する。
〈――四、三、二、一。エンジン点火〉
直後、凄まじいGが全身を強く打つ。アレンチアの船体がぐんぐんと持ち上がって、展望窓から見える地表が物凄い勢いで遠ざかっていく。強烈なGに瞼が引き落とされ、意識が遠のく感覚がする。実際、数分意識を失っていたかもしれない。次に目を開いた時には、船はすでに真っ暗な宇宙の真空へと飛び出していた。
もう二度と見ることはないと思っていたその宇宙の暗闇が窓の向こうに広がっている。そのとき加速が終わった。
『加速終了。動力炉の隔壁閉鎖を確認』
「よし行くぞ」
俺は固定装置のベルトを解除し、バリケードの奥へと向かう。その斜め後ろをトワイスが並走する。
いまだ半透明のビニールシートでマスキングされた通路内は所々、補修用の発泡ウレタンに覆われていて奇怪な迷路を作っていた。俺達はそれをかき分けるようにして進んでいく。そうして何重もの認証を抜けて目的のエンジンルーム前まで来た。
「入るぞ」
そう言って、俺は扉の横にあるパッドに目元を寄せる。俺の虹彩を認証した扉がスライドして俺達を中に招き入れた。部屋の中央は円形に窪んでいて、そこに蓮の実のように等間隔に並ぶ穴がたくさん開いている。核パルスエンジンの炉だ。
フェルナーから通信が入る。
『よし挿入を開始してくれ。制御棒が挿入されると船も一緒にダウンするがすぐに予備電源が入る。けどしばらく無線通信は繋がらないと思ってくれ』
俺とトワイスは練習通り二役に分かれて各自作業を進めていく。俺が挿入用の装置を操作し、トワイスが目測で指示を出す。挿入開始というトワイスの言葉を合図に俺はパネルを操作し、炉心直上にある制御棒を挿入していった。剣山を逆さにしたような装置がゆっくり炉へと落ちていく。そして、ぶうんという音との共に部屋の照明が消えた。
直後、非常灯の赤い光が部屋一面を赤く染め上げた。
「やったか」俺はパネルから顔をあげる。トワイスが淡々とした声で「予備電源の始動を確認」と言った。俺は息をついて、部屋の壁にもたれかかる。
「これでしばらくは落ち着けるな」
着手してみれば、何ともあっけないものだった。あれほど恐れて近づくことすら禁忌にしていた核パルスエンジンも一つ一つ工程を組んでみれば何のことはない。だがまだ環を抜けた後の引き抜き作業が残っている。
そのとき、トワイスがゆっくりと俺の方へ歩み寄ってきた。その顔は虚ろで、どこを見ているのかわからない。そして口だけがせわしなく動き続けている。
「トワイス?」
呼びかけにも応じず、トワイスはぶつぶつと何事かを呟いている。不意にその目が俺のことを認識した。路傍の石ころにようやく気付いたというふうに。
「おい……」
「聞こえてる」
「どうしたんだ、いったい」
「俺達これまで色々あったな」
「は?」
俺は立ち上がると、トワイスを真正面から見据えた。トワイスも俺を見た。けれどその視線は俺を透かして何か別のものを見ているようだった。
「この星に下りてから、たくさんのことがあった。それでも思い出すのは決まって、あの光景だ。培養槽から出てきた日。最初に目を開けてこの世界を認識した瞬間のこと」
話についていけない俺をおいて、トワイスはなおも続ける。
「傍らには泣きはらした顔の俺――いやお前がいる。そしてお前が言うんだ。ありがとう、ありがとうって。俺はそれを聞いて胸が締め付けられる気分になる。何故かわかるか」
「……」
「わからないよな。わかるはずがない」
そして唐突に、
「知っているか、この船には一つ重大な欠陥がある」
「欠陥?」
「いや欠陥というより仕様というべきか。お前が持っている権限だが、あれは緊急時には他者へ一時的に譲渡することができる」
「なんだって……」
「宇宙という名の未知の世界を探索するに際してセカンドプランは必要だろう。権限を持つ者やクルー達が死んだとしてこの船は誰が操作する? あるいは船が緊急停止するようなことがあって誰かが操作をしなくてはいけなくなったら? 例えば、エンジンルームに入って制御棒を操作しないといけなくなった、とか」
そこでトワイスが懐から何かを取り出し、俺に向けた。その所作があまりに自然だったせいで、俺は自分に向けられたそれが何なのか認識できなかった。
銃だった。二十二口径ポンプ式。
「俺はずっとこの時を待ってたんだ」
「トワイス、お前」
「お前がやるべきことは三つ。今から俺が言うコマンドを入力すること。そしてそれを認証すること」
反射的に銃口から逃れようとした俺をトワイスの拳銃が牽制する。俺は言われたとおりに引き継ぎのコマンドを入力するとそれを認証した。
「これで船は俺の物だな」
怒りが俺の中に渦を巻いていた。彼を信じていたからこそ、俺はこの計画に乗った。彼の言葉があったからこそ、裏切り者の自分でも何か正しいことができるんじゃないかと思えた。でも違った。彼の裏切りは結局この船にいる俺達が一人残らずクロであることを異論の余地無く補強したに過ぎない。
「お前は俺を裏切った」
「わかっていたはずだ。この社会は初めから裏切り者の素養も持っている者だけで構成されている。さて三つ目だが……」
「三つ目?」
トワイスはああと頷くと、
「俺と同じ絶望を味わうことだ」
そのときEVAスーツの中に何かが注入されたのに気づいた。それが酸素ガスだと気づいた時には視界が猛烈な勢いで床面へ近づいていた。
そして気が付いた。自分が気を失っていたことに。まず最初に感じたのは頭を殴られたような鈍痛で次に感じたのは自分が引きずられている感覚だった。
「気づいたか」
警報が鳴り響く通路でトワイスが俺のことを見下ろしていた。
「疑似重力下でもお前を引きずっていくのは大変だったぞ」
そう言ってトワイスが俺に立てと命令した。立ち上がろうとしたとき、手錠を掛けられていることに気付いた。
「お前と同じ絶望って、どういうことだ」
「すぐにわかる」
訝しむ間もなく、俺はある部屋の前に連れて来られた。
「さあ来たぞ」
「この部屋は……」
そのまさかさ、そう言ってトワイスが扉の認証パッドに触れる。生物災害警告を権限で無理やり解除し扉を開錠した。入れ、そう促され俺は扉をくぐる。壁一面に乾いた血痕が飛び散り、真空に曝され干からびたクルー達の遺体がスーツの中で身体を折り曲げている。
そこは俺が最初に逃げ込んだポッドのあるラボだった。俺はここで仲間達を見捨ててのうのうと生き延びた。
「……」
「培養槽から吐き出されたとき、俺が最初に何を感じたかわかるか」
トワイスがゆっくりと息を吐く。
「最初の一人目と次の二人目じゃ何もかもが違う。記憶モデルは最新のクローンの記憶をもとに作られる。だから俺以後は自分が過去にクローンとして生まれてきたことを知っているんだ。でも俺は違う。俺はこの世界に初めて生み出されたお前のクローンだ。目を開けた時、自分が思い描いた悪夢の中にいる気分がお前にわかるか?」
ああ、わかる。そう言いたかった。俺にとってはこの部屋が悪夢だった。でも俺はここを見ないよう封をした。だがトワイスにとってこの現実がそれだったのだ。
「だからお前はこの光景を俺に見せたんだな」
自分が感じた絶望と同じ絶望を味あわせる。それが彼の言ったことだ。
そのとき俺は唐突に思い至った。
「……培養槽に不正アクセスしたのもお前だったのか」
「ああ、お前は隠しておきたかったようだが、サーバ内のデータを単純な削除で消せるわけがない。記憶もログの方も簡単に復元できたよ」
「お前はそれで知ったんだ。俺がオリジナルのクルーを見捨てたってことを。そして俺がそのとき記憶をお前達に継承しなかったことを……」
俺はそこで跪いた。そういうことだ。過去は無かったことにできない。自分が犯した罪からは決して逃れることはできない。
「何か勘違いしていないか」
「……どういうことだ?」
「お前が最新の記憶をアップロードしていなかったことはとっくの昔から知っている。ずっと昔にモデルの履歴を確かめたからな」
俺はそこで驚愕した。じゃあなぜトワイスは俺をここに連れてきたのか。
「もっと面白いものが見られるからだ。俺の推測が正しければな」
トワイスが俺の背中を銃で押す。部屋の一画、倒れたポッドの一つに俺は近づいていく。けれどそれは俺が出てきたポッドとは別のポッドだった。
そしてポッドを前にしてトワイスが満面の笑みを浮かべた。
「感動のご対面だ」
そこには俺がいた。コシのある黒髪、垂れ気味の目元、くすんだ茶色い瞳、骨張った首筋。完膚なきまでに俺によく似た俺がそこにいた。
「これは俺か?」
俺はポッドの表面に手を触れる。
「なんで、ここに俺が」
トワイスは可笑しくて仕方が無いというふうに、
「これが真実だ。オリジナルは初めから存在しない」
オリジナル。本物。その言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
「お前の盲点は原理上、自分がどの時点の自分であるかに気づけないことだ。それが目覚めた時の記憶と矛盾しないならお前はそれを疑うことができない。だがお前は自分の最新の記憶をアップロードせず、あまつさえ記憶ログも消去した。だから気づかなかったんだ」
じゃあ、それはつまり。
そうだ、トワイスは頷いた。
「船が不時着したときお前はすでに死んでいた。他のクルー達と同じようにな」
俺はそこで自分の顔を手で確かめる。目もある。鼻も口もある。じゃあここにいる俺はいったい何なんだ。
「言ったはずだ。この船にはセカンドプランがあると。船のシステムはクルーの全滅を確認すると最も生き残る確率の高いクルー、つまり最後に死んだクルーを再生させる。お前は逃げ出したクルーだ。最後に死んだのがお前だったとしてもおかしくない」
つまりお前は自分をオリジナルだと思いこんでいた、ただの複製に過ぎなかったんだ。トワイスがそう言って声を上げて笑った。
「嘘だ」俺は言った「そんなこと、わかるはずがない」
記憶モデルは単純なメディアじゃない。決してそれそのものを映像や音声のように再生することはできない。脳というハードを通して初めて、それは理解できる情報となる。
反論する俺をよそにトワイスはさも当然のように、
「だから、そうしたのさ。この頭でな」
トワイスがそこでコンコンと指でこめかみを叩いた。
「記憶を脳に上書きしたのか……」
「厳密に言えば上書きじゃない。記憶ファイルはモデリング関数だから、理論上は新たな変数をモデルに加えるだけになる。とはいえ、前例がないから死ぬ可能性もあったがな」
そこで正真正銘の虚無が俺を襲った。俺が虚無だと思っていたものは虚無の偽者に過ぎなかった。本物の虚無というのは虚実そのものが入り交じり、その線引きの意味すら無くなることだ。
同時に俺の中にあった怒りも消えていた。俺は初めから生きてすらいなかった。裏切者であることが俺を、俺達を生かしていたはずだった。その物語が無効になったいま、自分の存在を肯定することに意味を感じなくなっていた。
「安心しろ。こんなこともう終わらせてやる」
銃口が俺の後頭部に当てられた。
「俺を殺した後はどうするんだ」
「俺達は初めから生まれてくるべきじゃなかった。じき船は環の中に入る。そうすれば誰にも止められない」
俺は目を閉じた。全てがどうでもよかった。最後の一瞬、チェンの顔が頭の片隅を過っていった。そして乾いた音が響く……。けれど来るべきはずの衝撃は訪れなかった。音の方へ振り返るとそこにEVAスーツを着たチェンが銃を構えていた
「チェン、なぜここに……」
「トワイス、銃を捨てて」
振り返ろうとしたトワイスをチェンが「動かないで」と制止した。チェンの銃はすでに撃鉄が下りている。何よりその気迫が本当に撃つと告げていた。
「お願い、トワイス」
数秒の後、トワイスはゆっくりと銃を捨てた。そこでチェンの顔がくしゃっと歪む。おそらく作戦室では何かイレギュラーな事態が起こっているのはわかっていたのだろう。それでも放射線の危険を顧みず、ここまで来たのはチェン一人だけだった。そしてその理由は明らかだった。
「私を愛していたんじゃなかったの……」
「どこまで聞いていた」
トワイスが言う。
「全部」
顔をくしゃくしゃに歪めてチェンが言った。
「ということは、俺を殺しにきたんだな」
「違う」
そして銃を構えたままトワイスに近づく。
「教えて。なんで私に一緒に来てなんて言ったの」
トワイスは表情一つ動かさず、
「いいのか。早くしないと船が墜落するぞ。あと五分もない」
「こんなことになるなら、何で私をあそこに置いていってくれなかったの」
チェンが悲痛な声で言った。
「君の言う、こんなことを終わらせるためだ。地表に置いてきた奴らはともかく君は生き延びる可能性があった。だから船に乗せる必要があった」
「じゃあ、あの言葉は嘘だったのね」
涙がチェンの頬を伝う。
私を愛しているって、一緒に来てほしいって。あれは全部、嘘だった。そうでしょ、そう言って。銃口がトワイスの額に狙いを付けた。
二人はそこで見つめ合い、そしてトワイスが言った。
「嘘じゃない。俺は君を愛している」
「え……」
そのとき、トワイスの手が何か光る物を掴んだ。
「駄目だ。チェン!」
トワイスが振り上げたナイフの軌道を俺は体当たりで逸らした。それでもチェンの腕は深々と切り裂かれ、その手から銃が弾き飛ばされる。次いでその切っ先が俺へと向かう。
「まずはお前からだ」
それは偶然だった。咄嗟に掲げた腕の手錠にナイフの刃がぶつかった。俺はそのまま鎖でナイフを絡め取ると、それを逆にトワイスの方へと押しやる。
「確かに俺はお前の言うとおり死んだ方がいい人間だ。でもそれはお前も同じだろう」
拮抗した状態で突き出したナイフの切っ先がトワイスの胸に徐々に埋まり始める。揉み合いの中、トワイスが目を閉じた。
「ああ、その通りだ」
そして俺はナイフを振り抜いた。
赤い鮮血が宙を舞う。何か理不尽なやり方で時間を止められたかのような感覚がして、気づけば肩口から猛烈な熱を感じた。
血は俺の身体から飛び散っていた。
チェンがその向こう側で銃を構えていた。トワイスの捨てた二十二口径。その銃口は過たず俺に向けられ……。弾を撃ち出したばかりの銃口から細い一筋の煙が上がっていた。
――そうか、彼女は俺の方を撃ったのか。
だが、チェンの唇は震え、その顔は今にも泣き出しそうに歪んでいた。俺はそのわけを探してチェンの視線を追う。そして知る。穴の空いた人間は俺だけではなかった。トワイスが胸から血を流していた。俺の肩を抉った弾がそのまま彼の胸元へ命中したのだ。
「ああ!」
チェンがトワイスに駆け寄りその身体を抱きしめる。その顔は絶対に起きてはならないことを前にして恐怖の表情に凍り付いていた。
「私は間違えた人を撃ってしまった」
それを聞いたトワイスの顔に初めて戸惑うような感情が浮かんだ。
自分の胸から溢れでる血を止めようと泣きじゃくる少女を前にして、その手が止まる。彼女を抱きしめるべきなのか、そう葛藤する腕がいたずらに空を掴もうとする。
――人は選択することができる。
チェンはそう言っていた。
おそらくトワイスはいま選択をしたのだ。これまでしてきたあらゆる選択の中で最も利他的で、最も理由の入らない選択。誰かを愛するという選択。
そしてその瞳が過たず俺のことを捉えた。
「ピーター。チェンを……彼女を……」
俺はそれを呆然と眺めていた。多分肩を撃たれたせいで脳震盪を起こしているのだろう。全ての物事がゆっくりと感じられた。それでも、ある一つの言葉だけが頭の中をリフレインしている。
私は間違えた人を撃ってしまった。
「いや間違えてない」
朦朧とする意識の中で俺はある場所へと向かった。足取りはもはや夢遊病者のそれで、それでも俺はエンジンルームの前まで来ると認証パッドに五指を思い切り叩きつける。端末がそこで船の権限が俺に戻ってきた事を告げた。理由は権限を貸し与えていた者の生命活動が危険域に到達したから。
館内の警報はすでに船が環の中に入りかけていることを知らせていて、それでも俺は構わず制御棒の全開放レバーを引き下ろす。瞬間、全身の皮膚が泡立つような感覚に襲われた。炉の中心が青白く輝いていた。最後の瞬間、俺が見たのは視界を覆い尽くす白い光だった。

エピローグ

なんとも杜撰なやり方だが、これが俺のやり方だった。
現在の時刻はテラ時間で一六:〇〇、タレス時間では一四:〇〇。
レーダーの観測によれば、どうやらアレンチアは無事この星の引力圏を脱したようだ。
土壇場でのエンジン再始動ではあったが動力炉がオーバーロードすることもなかったし、船体が損傷することもなかった。何より誰かさんが墜落させたりもしていない。
トワイスはおそらく助かったのだろう。船が星を離れ始めたということは権限を持つ者がルートを設定したということだ。とすると、あいつはしぶしぶ船の親指係になったというわけだ。
おそらくこの定時報告を読んでいる者は疑問に思っていることだろう。なぜ死んだはずの俺がまだ生きているのか。なぜ、こんなふうに事の顛末を語ることが出来ているのかと。
答え:死んだけど、死んでいないから。
ドローンや精密機械は重放射線を浴びるとすぐに摩耗してしまうが、人体は放射線にある程度の耐性がありすぐには死なない。だから俺は制御棒を抜いた後、隣の部屋まで歩いていき記憶をアップロードしてから死んだ。
もう一つ、大事なこと。
船のシステムはクルーが全滅すると最後に生き残った人間を再生させる。あの船じゃ俺以外は全員即席IDの非正規クルーだったから、俺が死んだことで船はクルーが全滅したと判断したらしい。そして培養槽は植民コロニーと一緒にタレスに置いてきた。だから俺は再生された。
いま俺の目の前にはたくさんの俺がいる。彼らのことは憶えている。一五〇マジックなど持ち出さずとも、こいつらは傷つきの会で聞こえよがしに舌打ちや陰口を飛ばしてきた奴らだ。
彼らの表情は皆一様に暗く、これからどうすればいいかという不安に怯えている。でも大丈夫だ。俺が最初に不時着したとき、俺は諦めていなかった。だから彼らの中にも諦めない不屈の精神があるのを俺は知っている。
さあ嘘つきで裏切り者の俺、ここからまた生存戦略を始めよう。

文字数:39997

内容に関するアピール

中学生の頃、周りが全員自分なら心穏やに過ごせるのに、みたいな冗談を持ちネタとしてよく口にしていました。

実際そんなことはないと思いますが、SFならこの思考実験的な状況が作れてしまうことや、そういう特殊な設定で、自分のなかにあるディスコミュニケーション的なコンプレックスや変身願望を書けるのではないかと考えました。

何か追い詰められた状況で自分がいっぱい増えてしまう。自分をいっぱい増やすことで状況を打開しようとする。その中で自分がどういう人間かがわかっていく。わかったとして、じゃあ何の意味があるのか。そんな話を宇宙(というより宇宙船?)を舞台に書きました。

宇宙を舞台にした話を書いたのは今回で二度目です。そして一度目はこの講座の第三回課題の時でした。宇宙を舞台にするのは思っていた以上に難しく、そのときかなり痛い目を見たので、もう宇宙は書きたくないと思いましたが、やはりその懐の大きさに甘えてしまったという感じがあります。次、書くとしたらもう少し宇宙を有効に利用できるような話を書きたいと思います。

この一年間、大森先生をはじめ、ゲスト講師の皆様、本当にありがとうございました。自分が何が書けて、何が書けていないのかを如実に感じる一年でした。この講座の経験を糧に今後も小説を書いていこうと思います。ありがとうございました。

追記:
下記に縦書き用に調整した本文PDFファイルを添付させていただきます。サイトでの閲覧か、PDFでの閲覧か、媒体によって使い分けていただければと思います。
縦書き閲覧用PDF_マルチプル・コンプレックス_伊藤汐

文字数:664

課題提出者一覧