愛の複製不可能定理 Love`s no-cloning

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梗 概

愛の複製不可能定理 Love`s no-cloning

量子コンピュータ研究センターに籍を置く三上修一は論文発表を控えていた。
その日、共同研究していた量子コンピュータの理論(量子誤り訂正)についての論文が発表される。三上はその反響をエージェントから電話で受け取る手筈だった。
しかし着信した電話は警察からであり、かつての恋人である広瀬海紘みひろが海外で亡くなったことを知らされる。
呆然とする三上にエージェントから電話が入り、発表が成功し、ブレイクスルーを生むであろうことを知らされる。
三上は街路樹のイチョウの葉が散るのを見ながら、自分の人生には明確な分岐点があったことを自身が論文に書いた「量子状態は複製できない」という事柄に関連付けて思い起こす。弱った三上は自分が研究を続けられないと感じる。

場面は変わりカフェで男と話す女性の視点となる。
女性は死んだはずの三上の恋人である海紘。ここから始まるのは海紘が死ななかった場合の世界の話である。
海紘はそこで別バージョンの三上と付き合っている。
別バージョンの三上は研究所勤めではなく大手電機メーカーの派遣技術者だった。
海紘は、ぱっとしない三上に不満を抱いており、しかも度々、素粒子物理学の話をするのに辟易している。それに自分はもっと広い世界が見たいと思っており、このまま三上といて将来の可能性が狭まることについても悩んでいる。
海紘はそこでいきなり三上から別れ話を切り出される。海紘は突然の話に驚いて、思わず窓の外を見やる。そこでイチョウの葉が落ちるのを目で追った。

ふたたび場面が変わり海紘の葬儀に来た三上の視点。
休憩所の新聞で三上は発表した論文が世界を変えつつあることを再確認する。そこに海紘の妹である鳴海が現れる。二人は海紘について話す。三上はそこで自分が研究者にならず、海紘と付き合っていれば彼女は死ななかったかもしれないと述懐する。
鳴海はそれを否定する。「姉は――」そう言いかけて、鳴海は遠い目をする。

場面は、三上に別れ話を切り出された海紘の視点に戻る。
三上は自分が仕事を辞めて研究者に戻ろうと思っていることを明かす。
海紘は別れ話をあっさり引き受け、それを機にやりたかった国際支援NGOの仕事にやろうと思っていることを言う。三上は安定志向だと思っていた海紘がそんな活動的な仕事に憧れていることに驚く。

最後の場面転換。視点は記者会見場にいる三上の視点。論文を発表したものの、量子コンピュータ開発で他国と差をつけられている状況をマスコミに糾弾されている。
そこで三上は突然、量子複製不可能定理の説明を始める。
ある一つの時間をやり直したいのであれば、それは時間の始まりからやり直すほかない。
ざわつく記者会見場を後にする三上。
鳴海から聞いた海紘の人格像から彼女の死が偶然でないことを知った。ある意味、その死は彼女が積み重ねてきた「確からしさ」の結果だった。
それならば自分が研究者として生きていくのも同様に「確からしい」はずであると三上は結論づける。
イチョウの葉が散る中、三上は自分が研究に復帰できると確信する。

文字数:1248

内容に関するアピール

 今回のお題を受け、「シーンの切りかえ」に単純な場面転換以上の意味を持たせられないかと考えました。
 
 そこで「パラレルワールド」をテーマにして、場面転換が、別の登場人物への切りかえ、さらには別の世界、多世界解釈でいう分岐した世界への切りかえにもなっているという構成に落とし込みました。

 ちょうど量子コンピュータという時事にも絡めることができ、そこについても小説構成とシナジーのある題材を採用できたのは上手くいったのかなと思います。

 また前々回、三人称で上手く書けなかったのがなかなかに悔しかったので、実作ではそのリベンジができたらなと思います。

文字数:272

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クローンの園

目を開けると、三上修一は冷え冷えとした石の上に横たわっていることに気がついた。
衣服の類は身に着けておらず、石の冷たさが染み入るように身体を貫いていた。思わず反射的に身を起こそうとするも、震える身体はその場で軋みをあげ、小さく縮こまった。
もう長いこと、こうして身体を横たえていたらしい。四肢は根を張ったように硬直しており、筋肉と骨が一体化してしまったように感じた。
三上は細心の注意を払って弓のようにこわばった筋肉を解きほぐした。上体を起こした三上は、そこで自分が横たわっていたのは石ではなく、巨大なガラスの上であることを見て取った。
「……」
思わず言葉を失った三上だが不思議と驚きはない。
見渡すかぎりどこまでも続く半透明の大地、塗りつぶしたかのような黒一色の空。そして冬の朝のように凍てつく大気。どれも現実のものではない。しかし三上にはそれがいま生きている世界と地続きのものであるという実感があった。この冷たさが紛れもなく本物であるという細胞一つ一つの悲鳴を感じていた。
三上はあてどなく歩き始めた。
冷えたガラスに素足を下ろすのは針のむしろの上を歩くようで大変だった。それでも三上は一歩一歩たしかに歩みを進めていく。暗闇のなかでも平衡感覚を失わずにいられるのは地面からぼうっと淡い光が透過してきているからだった。
終わりのないように見えた大地も、目を凝らせばそりたつ断崖のような地平線を彼方に確認することができた。三上はそこで視線の先に何かがぽつんと捨て置かれているのを見つけた。
葵だった。
妻の三上あおいが冷たいガラスの上に寝かされていた。
「葵……」
三上は声を上げて葵のもとに駆け寄った。葵もまた一糸まとわぬ姿のままガラスの上に寝かされている。葵、葵と二、三度呼びかけ、その身体を揺すり起こした。
しかし、葵の身体は蝋細工のように固まっていた。三上が手を掛けて起こそうとしても、びくともしない。何よりその肌の尋常じゃない冷たさに三上は驚愕した。そして同時に理解してしまった。あるいは思い出したと言うべきか。
「ああ」と三上は黒々とした天を仰いだ。
たしか、あのときもこんなふうだった。
警察署の遺体安置所で葵の遺体を前にしたときだ。八月の茹だるような暑さのなか、三上は葵の遺体と対面した。外界と隔離された安置室は摂氏四度に保たれていた。巨大な冷蔵庫が稼働して、コンプレッサーの音が室内を満たしていた。
葵の遺体はその冷気よりも冷たかった。三上はそこでいまと同様の驚愕に見舞われたのだ。かつては彼女の身体も生気に満ち溢れ、その肉体には温かな脈動と厳かなパルスが流れていた。だが、死はそれらを奪い去り、彼女をただの物へと変えてしまった。
遺体の冷たさがそれを証明していた。彼女がどうしようもなく物理的な、一連の物質からなる透徹とした存在であるということ。そして三上自身もまた同様の存在であるということを。
妻を失ったという悲しみはその後、潮が満ちるようにして訪れたのだった。
「葵」
三上は唇をほとんど動かさず妻の名を口にした。指先でそっと葵の頬に触れる。やはりこれは夢なのだろうか。三上は葵の冷たい身体を検めながら考えた。
あの日、死んだはずの妻が目の前にいる。そして三上自身、自分がこのような状況に置かれていることに一切の憶えがない。順当に考えれば、夢の類いと判断するのが通常だ。
しかし目覚めるまで、それが夢だとわからない夢もある。明晰夢というものは、科学的に立証されている。分子生物学者である三上にはその機序を脳の活動電位の起こりから説明することができる。
そのような驚異的とも言える脳の活動を三上は科学的観点から評価していた。もし仮に夢が道理のない世界だとして、それでもこうして葵に会えるのであれば三上には願ってもないことだ。
そのとき何かが三上の頬を濡らした。
冷たさに顔を上げると、小さな氷の粒がひらひらと舞い降りてきた。
雪が降り始めていた。
「そうか」
三上は独りごちた。
自分はこれ以上ない厳密な世界に生きている。雪の結晶構造は酸素原子と水素原子、それらを結び付ける水素結合の幾何学的性質から決定される。人も同様だ。ある時点まで人間のなかで起こる化学反応は科学的説明の付く合理性の範疇の中に収まっている。
しかし、それら反応が発展し、統合され、大きくなるに従い、人の行動は説明できない感情やランダム性のなかに沈み込んでいく。
小さく厳密な摂理の寄せ集めが、いったいどの時点から心や魂といった不確かで大きなものにその土台を移し始めるのか。
三上はそれを知りたかった。
なおも降り続ける雪は、地面に落ちたそばから六角形の均一な模様を描き、地面を氷で埋め尽くした。
ジメチルスルホキシド中では液体の凝固点が下がることによって細胞の凍結が緩やかに進行する。細胞膜の内外においては、溶質の濃度は均一に保たれ、細胞死を引き起こす氷晶の形成確率は大幅に低減する。
ゆっくりと凍り付く意識のなかで三上は葵の細胞のことを考えた。
物事とは、目に見えているもの事実として諒解するのではなく、細かく分解し、その背後で進行している本質を理解しなければならない。
葵は確かに死んだかもしれない。生命活動という意味では彼女の連続性は失われ、遺伝子の継承は断ち切られてしまった。
しかし細胞という単位で見れば彼女はまだ生きている。
次に目が覚めたとき、自分は葵と同じ厳密な存在になっているはずだ。
三上は来るべき冷たさに備え、目を閉じた。

一九二八年、イギリスの細菌学者Fグリフィスはハツカネズミを用いて、肺炎レンサ球菌の形質転換を初めて発見した。それによってわかったことは、生物の持つ免疫系などの記憶メモリは遺伝情報を介して転移することが可能であるということだった。つまりは遺伝子は記憶を持っている。
その約半世紀後、日本で生まれた三上修一はそのハツカネズミと全く同種の原理で両親から遺伝性の癲癇を受け継いだ。
父親のDNAに多型として配列された疾患性遺伝子はそれ単体では形質として発現することはない。つまりヘテロ型である。同様に母親の疾患性遺伝子もヘテロであり、その遺伝子はプログラムでいうところのコメントアウトされた状態にあった。しかし父親と母親の両方から疾患性遺伝子を引き継いだ――つまりホモ型となった場合、息子の修一にはそれが慢性的な癲癇として発現することとなる。
この遺伝の法則から導かれた三上の癲癇体質は、彼にその遺伝という物語を有無を言わさぬやり方で強烈に刻み込んだ。そして物心つく頃には、三上自身もその物語を自明なものとして受け入れていた。人生というものが、単なるコードの組み合わせで決定されること。それは彼に分子生物学者としての道を歩ませるだけの充分な説得力を持った物語だった。

そして今朝もまた、三上は自分がその絶対的な法則のもと生まれてきたことを思い知った。なぜなら彼が目覚めたのは朝の寒々しいベンチの上だったからだ。寒さに凍える身体を起こし、三上は自嘲的な気分で呟いた。
――これで何度目だろうか。
前日の記憶は、大学の実験棟を出たあと、急な発作に襲われ、このベンチに腰を下ろしたところで終わっていた。疲れたとき居眠り発作が起こりやすくなるのは理解していたつもりだったが、一夜まるまる眠ってしまったのは初めてだった。
時計を確認すれば時刻はまだ朝の七時だった。
朝の厳かな空気はキャンパス内の芝生をそよそよと震わせ、黄色い太陽はそびえる教室棟の合間から粘つく光を投げかけている。三上は固まった首と肩を揉みほぐしながらため息をついた。いまさら家に帰るのも億劫だった。
三上は立ち上がると、教室棟に向かって歩き始めた。長らく座っていたせいか、足の裏に糸が引いたような感覚があった。しかし気にせず三上は歩き続ける。こういう日は観念して温かいコーヒーを飲むに限る。そう思うと気が楽になった。

細胞培養センターと表札が掛けられたガラス戸を開けると、三上は階段を使って二階へと上がっていった。廊下の奥、教室棟の東に三上の受け持ち研究室があった。室内の壁を取り払い二部屋を直結させたラボ兼用の研究室だった。
三上は研究室の扉を開けると中に入った。
研究室は相も変わらず雑然としていた。液体窒素のボンベに実験用の大型クリーンベンチ、そのほかガラス器具に測定機材が所狭しと置かれ、一見するとカオスと形容するしかない空間を作り出している。
三上としてはこの雑然さは見慣れたものだったが、外部から来た来訪者は必ずといっていいほどこのラボを見て驚く。そのたびに来訪者は三上の研究者という生業を暗に強調して褒めそやし始めるのだったが、三上としては客員教授としてこの大学に出戻りしたということもあって、その類いの世辞を素直に受け取れなかった。
そこでふと三上は目を細めた。立ち並ぶ機材のなかに、その乱雑さとは無縁のものが頭を覗かせていた。艶のある髪を後ろでまとめた後頭部が実験ブースの向こう側に見えた。三上がブースの後ろに回り込むと、頭が跳ねるように動き、少女が驚いたように顔を上げた。
学部四年生の近江祥子しょうこだった。
「あ……。先生、おはようございます」
「おはよう、近江さん。今日は早いね」
三上が挨拶すると祥子は顔を伏せその場でそそくさと髪を直した。どうやら三上の登場は不意打ちだったらしい。
「ラボに用事でも?」
三上は純粋な疑問から訊いた。卒論のシーズンは終わったはずなので、彼女がラボにいるのは普通に考えればおかしいことだった。
「いえ、取っておきたいデータがあったもので……」
そう言って祥子は後ろを振り返った。見れば、祥子の後ろで細胞凍結用のフリーザーが稼働している。
「もしかして、卒論の追試験かな?」
「まあそんなところです。院に行くまでに課題は一通り検証しておきたくて」
祥子は曖昧に首を振って頷いた。
三上は思わず感心してしまう。普通の学生は学部四年生ともなれば、学期末は卒業旅行に新生活の準備などで忙しい。それは大学院に進学が決まっている祥子のような進学組も例外ではないはずだ。
「真面目だね。ほかの同期の子たちは卒業旅行に行ってるって聞いたけど」
「誰もいないからこそいいんです。いつもは予約でいっぱいの測定器を自由に使えますし、人がいなくてコンタミも起きにくいですから」
そう言うと、祥子はひときわ大きな作業用ベンチの前まで来て笑った。
試験管やシャーレ内に細胞の活性環境を再現するin vitroにおいては、異物や雑菌等の混入で引き起こされるコンタミネーションは避けては通れない。作業環境の質によっては、その確立を何十、何百分の一にすることができる。普段、古株の院生が使っている機材をこの時期は思う存分に使えるのを祥子は狙っていたという。
三上にもその気持ちはよく理解できた。機材が少ないアカデミアでは、別の部分で頭が回る必要がある。祥子は優秀な生徒だった。卒論もテーマはともかく、論旨のクオリティは民間研究でも通用するレベルで、三上もその出来には太鼓判を押した。
「でも、無理はよくないな」
三上はそう言って、紙コップに入れたコーヒーを差し出した。祥子の目に微かに隈が浮かんでいるのを見て取ったからだ。
「泊まり込みでやっていたんだろう?」
三上がそう訊くと、祥子は驚いた様子でコーヒーを受け取った。
「どうしてわかったんですか」
「フリーザーの設定が見えたからね」
細胞凍結は通常、十から十五時間程度の冷却時間が必要だ。昨日夜から始めたとしても凍結は今日の朝まで掛かるはずだった。
「……すみません、今日中に試料の保管まで終えておきたくて」
祥子がそう反省した様子で言った。
三上はそこでわざとらしく咳払いをする。
「ときには誰かを頼るのもときには大切だよ。結局のところ研究は共同作業だからね」
そう言った直後、三上は気恥ずかしくなって俯いた。何を偉そうに。そう自嘲的な声が自分の裡から上がるのを感じる。が、三上の言っていることに事実である。
つまるところ研究とはあらゆるリソースを集約する事業である。人という資源もその例外ではない。それがわかっていなかったために三上も若い頃は苦労した。自分と同じ苦労をさせたくない。そう思ったのだ。
「それこそ、測定は相沢くんに任せたらどうだい?」
「相沢くん、ですか?」
三上が提案に祥子は一瞬、むっとした表情をした。相沢とおるは祥子と同じ学部四年生のゼミ生だ。彼も祥子と同じように院進することが決まっており、卒論では祥子と一緒に実験を行っていた。
「うん、彼なら適任だろう?」
「でも相沢くんなら今頃で旅行に行ってますよ。なんでも海外とか。大学最後の自由な時間で一人旅するそうです」
そう言って、祥子は興味なさそうに耳元に掛かる髪をいじり始めた。
「近江さんは一緒に行かなくてもよかったの?」
「私が相沢くんと一緒にですか? どうしてですか?」
「どうしてって……だって近江さんと相沢くんは……」
つかの間、沈黙が起こり、三上は話の流れを完全に見失った。その後、祥子がぷっと吹き出した。三上はおかしくて堪らないというふうに笑う祥子のことを見つめていた。
「先生、何か勘違いしていると思いますが、私と相沢くんのあいだには何もありませんよ。確かに卒論のときは測定の一部を手伝ってもらっていましたけど……。ただそれだけです」
そうだったのか、三上は思わず手を口に当てた。余計な詮索をし過ぎてしまった。
そんな三上を見かねてか、祥子がフォローするように言った。
「先生、私いま研究が楽しいんです。正確にはようやく楽しいと思えるようになったというのが正しいんですけど……。でも、だからこそやれることはやりたい。ただ、それだけなんです」
そう言うと祥子はふっと顔をほころばせた。シャープな輪郭の生真面目そうな顔がそこで柔らかいものへと変わる。
その笑顔が三上の記憶にある何かと重なった。
頭のなかで記憶が像を結び始める。そうだ。まだ三上が駆け出しだったころ、それを隣で支えてくれた彼女・・もこんなふうに笑う人だった。
「先生?」
「いや、近江さんを見て、むかしのことを思い出したんだ」
「昔、ですか?」
「うん、まだ自分が学生だったときだ。当時も生物系の研究は大変でね。ろくな機材も無ければ、試薬を買うお金もなかった」
「そんな時代もあったんですね」
「ほんの十数年前のことだよ」
「けど、先生はそれが嫌いじゃなかった」
「ああ、そうだね」
三上は思う。あの頃シャーレや培養器と向き合う日々も悪くはなかった。いまみたいに研究を指導する、いわゆるチーフとして立場も悪くはないが、やはり三上の個人的な思いとしてはペレットを握ったり、顕微鏡を覗いているのがらしいと思うのであった。
細胞は多くを語らない。しかし培地に移した細胞株が、まるで万華鏡を覗いたときのように美しい模様を描いていたときの興奮はいまでも憶えている。そして、そんな実験しかなかった自分に社会との接点を作ってくれたのが妻の葵だった。
「妻の葵も研究が好きでしょうがないという人だったよ」
「葵……。たしか先生の奥さんでしたか……」
三上の突然の告白に祥子は戸惑っているようだった。
「葵とは大学時代から同じ研究室で付き合いがあったんだ。まあちょうどいまの近江さんと相沢くんみたいなものだね。だから二人を自分と重ねて見てしまったのかもしれない。すまなかったよ」
「いえ、大丈夫です」
三上はあらためて思った。非社交的な性格の自分が自閉的な人間にならずに済んだのは、ひとえに妻の葵のおかげだ。
彼女は三上にとって、彼と人間世界を繋ぐ唯一の接点だった。大学を卒業した後もそれは変わらなかった。三上は彼女と一緒になり、どんなときも互いを励まし合ってきた。彼女が不意の病で亡くなるまでは。
暗い感情が三上の心に忍び込もうとする。
三上は頭を振って急いでその感情を振り払った。
悲観していてもしょうがない。自分が今の地位にあることに感謝し、死んだ妻のためにも研究を続けていく。それがせめてもの手向けとなる。
そのとき、ガラスの割れる音に次いで祥子の悲鳴が聞こえた。三上は急いで振り返ると、そこに信じられないものを見とがめた。
ベンチ内に置かれたシャーレから溢れんばかりの肉塊が飛び出していたのだ。そのピンク色の肉塊は助けを求めるよう三上へと肉芽を伸ばしていた。

祥子は身の毛がよだつ思いで身体を震わせた。
まだあの奇怪な肉塊の姿が頭の片隅にこびりついて離れない。
祥子は身体をぶるっと震わせると、自動販売機で買ってきた缶コーヒーを胃に流し込んだ。喉が焼けるような感覚はあったものの、胃の腑がぽうっと火を灯したように暖まるのを感じ、いくらか気分が落ち着いた。
あれから三上は取りつかれたようにあの肉塊――培養細胞に取り組んでいる。昼食も取らずにラボで機械を動かし続けていた。祥子の方はいったん家に帰り、午後になってまた研究室へもどった。実験を進める気は失せていたが、三上の異様な気迫が心配だった。
しかし研究室に来た祥子に三上は平然と実験を手伝うように言った。祥子は驚いたが、言われるがままデータを処理する役目を押しつけられた。
「これは近江さんの研究にとっても重要なデータになる」
そう言った三上だったが、そもそも祥子の研究はテーマから実験手法まで三上がすべて入念に計画し決めたものだった。求めるレベルは高く、その意味で祥子は優秀な生徒だったが、それが研究者としての優秀さかと問われると甚だ疑問だった。
ため息をついて祥子は席を立った。音をたてないように気をつけ、ラボの無菌室の透かし窓を覗く。三上がクリーンベンチに頭を突っ込んで一心不乱に電子顕微鏡を覗いていた。一時間前に様子をみにいったときとまったく同じ姿勢だった。

祥子はこっそり三上の鞄から鍵を取り出すと、彼の個人研究室のドアをそっと開けた。
室内はまったく片付けられておらず、レポート用紙が散乱していた。なかでも異様だったのは、デスク脇に市販の冷凍庫が縦に積まれている光景だった。そして、その異様さから守られるよう、隔離された棚の一角に写真立てが置かれている。
祥子はその写真立てを手に取った。
三上の妻、三上葵の写真だった。何年も前に撮ったものらしく、若かりし頃の三上の姿も一緒に写っている。
葵は故人だ。去年の夏、癌でこの世を去った。進行ずみの子宮癌は彼女にわずか一ヶ月しか闘病期間を与えず、三上は大学時代からの知古であり、人生の伴侶となった女性を喪うこととなった。
彼女の死は三上にとって絶大なショックだった。
三上は大学の授業中、しばしば膝をつき動けなくなった。誰が見ても三上が研究者として復帰するのは絶望的に見えた。実際、大学は三上に心療内科を受診することを命じ、授業は二ヶ月ほど休講となった。もはや復帰は難しいと思われていた矢先、三上はふらっと大学に戻ってきた。
そして始めたのがあの細胞記憶の研究だった。
多細胞生物の遺伝子発現パターンは個々の遺伝子発現プロファイルに従い分化する。それはつまり、遺伝子にはそれまでの経験を貯蔵プールする何らかの仕組みがあり、人間でいうところの記憶メモリに値する機構が存在するということである。
三上はそれを発見しようとしていた。ほとんど夢物語みたいなものだと祥子は断じていたが、成果はもたらされた。細胞記憶を発見するための副産物として、三上が考案した幹細胞の大量培養手法が評価されたのだ。
中核となる課題が解明されたわけではないが、成果は成果である。ひとえに三上は天才と呼べるほど優秀な科学者であり、目下の問題は別のところにあった。

祥子は生唾を呑み込むと、恐る恐る積み上げられた冷凍庫の扉を開けた。
なかには小さな模型のようなものが霜を付けたまま凍り付いていた。三上がこの大学のキャンパスを模して作ったミニサイズのジオラマだった。
ただし普通のジオラマではない。素材は全て生体由来の有機物でできており、その表面にはピンク色をした薄いゲル状の培地が塗布されている。そしてジオラマの各所には三上が培養したある特別な培養細胞がそれぞれ距離を置いて配置されていた。
培養細胞はジオラマ状を動き、用語としては遊走、または湿潤という作用で、ゆっくりと移動していく。その過程で細胞はエネルギー源となるグルコースや酵素を消費するため、ジオラマの各所には細胞の栄養となるような調整培地が置かれていた。同時に調整培地に至る道筋を阻害するようにPH調整された干渉地帯を置く。
まるでキノコの菌糸のように培養細胞はジオラマ上を縦横無尽に動き回り栄養源となる調整培地を目指す。このとき、もし細胞に記憶、もとい学習機能があるのであれば、無事に調整培地へと辿り着いた細胞にはこの干渉地帯を避けるだけの情報――つまり記憶が蓄えられているはず。そういう仕組みだった。
三上はこのジオラマを「クローンの園」と呼んでいた。これと同じ物がラボにもう一つある。祥子が昨日見た肉塊はそこから現れたものだった。
はじめて三上からこのアイデアを聞いたとき、祥子はあまりのことに耳を疑った。言葉を選ばずに言えば、それは狂人の発想だったからだ。
なぜ細胞の探索行動を調べるために大学のキャンパスを精巧に再現したミニチュアを作る必要があるのか、そしてあろうことか、なぜそこに人に見立てた培養細胞を配置する必要があるのか。
三上は祥子の疑問に答えることはしなかった。少なくとも初学者の祥子にわかるようなレベルで説明することを三上は明確に拒絶した。かつての三上であればこんな常軌を逸したことはしなかっただろう。どんなに突飛な発想を基盤にしていたとしても、科学研究はある一つの絶対的な命題に向かって進んでいく。
つまり真理とは、それが指し示すところにある限り、人間の理性的な振る舞いを保証してくれるはずだった。祥子は少なくともそう思っていた。そして、そう思っていたからこそ、かつてそれをいちばんに体現していた三上の研究室に入ったのだった。
しかしクローンの園研究は、真理からも、人間の理性的な振る舞いからも遠くかけ離れているようにしか見えなかった。

祥子は忸怩たる思いで冷凍庫の扉を持つ手に力を込めた。勢いよく閉めた冷凍庫からは冷気が白い靄となって広がっていく。
やはり、すべては三上が妻の葵を喪ったこと原因だ。
あんなことさえなければ、三上はおかしくならずに済んだはずだ。そもそも、なぜあのなのだろうか。三上の隣にいるのは、本当にあの女でなければいけなかったのだろうか。
祥子から見て、生前の葵は三上の隣に立つのにふさわしい女性には見えなかった。細々としたことでいつも三上の足を引っ張り、そのために三上がゼミを早退することも少なくなかった。
聞くに三上がかつてアカデミアから退くことになった遠因を作ったのは彼女にあったという。次期教授のポストを期待された三上を無理矢理、民間に転職させたのは葵が結婚生活を優先したからだ。結局、民間で使い潰されそうになった三上を救ったのは大学の教授会にいた恩師だった。
祥子には葵が死んだとき、ある場違いな思いがあった。
それは自分の近しい人物が不幸に遭ったとき抱く、あの悲しみと居心地の悪さが同居したような感情ではなかった。それは葵の代わりに自分が三上の隣に立っているという妄想にも似たイメージだった。

祥子はそこでふとゴミ箱に捨てられた紙コップを見咎めた。コップの底には茶色の滓が溜まり、縁には薄くリップの跡が付いていた。今朝、三上から受け取ったコーヒーを入れてあった紙コップだった。
その紙コップを手に取るべきではなかったのかもしれない。しかしもう遅かった。祥子はコップの側面に「印象的な記憶⑦」という文字と共に「近江祥子」と書いてあるのを見た。そしてコップの縁についたリップは、何か綿棒のようなもので拭い取られた跡があった。
「っ……」
――印象的な出来事は記憶細胞の履歴に残りやすい。
実験に際して、三上は事あるごとにそれを強調していた。
まさか、という思いが祥子の脳内に過った。あのピンクの肉塊を見たあと、祥子は動揺する自分の心を鎮めるため三上から受け取ったコーヒーを飲んだ。そして飲み終えたあとのコップがいつの間にか消えていたことをいまになって気づいた。

そのときだった。
「近江さん?」
背後から祥子のことを呼ぶ声があった。
振り返るとそこには幽鬼のような虚ろな顔をした三上が立っていた。
「ここは教員用の部屋ですよ。勝手に入っては困りますが……」
祥子は持っていたコップを思わず背中に隠した。
「すみません、その……扉が開いていたもので……」
しどろもどろにそう答える祥子を三上は黙って見つめていた。祥子はその感情の抜け落ちた表情に驚く。三上は祥子から視線を外すと数秒、天井に視線を彷徨わせたあと、祥子を眺め見た。
「そんなことより、僕が任したデータ処理はどうなりました?」
三上の口調は無関心だった。
視線は祥子の方に向けられていたが、もはやその姿は眼中にないようだった。祥子のことだけではない、三上はもはや誰のことも見ていなかった。
祥子はそこで写真立てを見た。写真の中の三上はいまとは全く違う生きた人間の顔をしていた。
どうすれば、この頃の三上に戻ってくれるだろうか。
「そのことなんですが……」
祥子は思わせぶりに言った。
三上が身を乗り出して反応する。
「データになにか問題でも?」
「いえ……。実はその、教えてほしいことがあって……」
「教えてほしいこと?」
「はい……」
祥子はそう言ってシャツのボタンを外し始める。三個目まで外したあたりで、開いた襟元から白いキャミソールが覗いた。祥子はそのままキャミソールの肩紐をずらすと胸元を露わにした。
「たぶん、先生にしか教えられないことです」
三上がそこでようやく驚いたように目を見開いた。
「近江さん、いったい何を……」
祥子は自分でもいったい何をしているんだろうと思った。
それでも確信に近い思いがあった。どうすれば三上の心から死人を追い出すことができるか。答えは簡単だ。生者である自分が代わりに入っていけばいい。
祥子はゆっくりと三上のもとへと歩いていく。その間も祥子の指先はよどみなくシャツのボタンを外していく。
三上が手を伸ばした。震える指先が祥子の胸元まであと数センチという所まで迫る。
祥子は目をつむった。来るべき衝撃に身を任そうと……。
「何してるんだ。みっともない」
目を開ければ、三上の伸びた手がシャツの襟元を掴んでいた。そのまま襟元を強引に引き上げると、三上は祥子の肩を乱暴に手で押しやった。そして汚らしいものでも見るかのように目を細めた。
「君は自分が何をしているのか、わかっているのか」
「それは、えっと……」
三上はため息ついて、
「困るなぁ。君は優秀な生徒だと思っていたのに。ときどき現れるんだ。君のような正規の方法以外でポストを得ようとする非常識な学生が」
祥子は驚きに瞠目した。何かを致命的に取り違えられている。
「これじゃあ、教授会で君を博士候補に推薦した僕が馬鹿みたいじゃないか」
「先生、私、そんなつもりじゃ」
そう言って近づこうとする祥子の前に三上は手をかざした。
「そんな言い訳は聞きたくない。いかなる場合においても、人は明証性の名の下に行動するべきだ。僕はこう訊いたんだ。自分がいま何をやっているのか理解しているのかと。君はポスター発表でもしばしば自分の書いた文章の意味を説明できなかったね」
三上のすげない言葉に思わず祥子はかっとなった。
「先生こそ……」祥子は熱に浮かされた口調で言った「先生こそ、細胞記憶仮説なんていう妄想に取りつかれている御自分をどう考えていらっしゃるのでしょうか」
「……」
三上は表情一つ変えずに黙り込んだ。
思わず祥子は三上から目をそらしてしまった。それはいままで誰も踏み込むことのなかったタブー。三上の恩師の教授でさえ、妻の死という事実を前にして追求しなかったタブーだった。
それを祥子は真正面から踏み抜いた。
学生風情にそれを指摘されて、彼は激昂するだろうか。祥子としてはそれが改心の切っ掛けになってくれればという淡い期待があった。
しかし、目を上げた先で祥子を待っていたのは三上の露骨な嘲笑だった。
「基礎生物学の初歩しか学んでいない学生に僕の研究が理解できるわけがないだろう。馬鹿なのか、君は」
その言葉にああと祥子はうなだれた。
心の中で何か糸のようなものが音を立て千切れるのがわかった。
ああ、もうだめなんだ。
「外に出て頭でも冷やしてきなさい」
三上が出口を指差した。
「はい……」
祥子はふらふらと夢遊病者の足取りで部屋の出口へと歩いていく。途中、薬品棚の前に黒い小瓶があるのが目に付いた。自分の憧れていた三上修一はもうこの世にはいない。おそらく彼はバラバラに解体されてしまったのだ。妻を失った悲しみが鋭利なナイフとなって彼の心を切り刻んだ。あのクローンの園に置かれた培養細胞のように。
祥子は暗い決意を胸に棚の中から黒い瓶を手に取った。組成式H2SO4。化学実験ではよく見る試薬の一つ。
硫酸。
祥子は瓶を手に取ると全速力で廊下を走った。目指すはラボの無菌室。事態に気付いた三上が必死の形相で追いかけてきた。
祥子は振り返らずにラボの扉の前までくると、無菌室へと続く重い扉を開け放った。そして大型のクリーンベンチの前まで来ると、瓶を持った手を大きく振りかぶる。
強力な酸化剤として作用する硫酸をクローンの園にぶちまければ、配置された培養細胞はもちろんのこと、ジオラマ自体も使い物にならなくなるはずだ。あのジオラマを作るのに三上は半年もの歳月を費やしていた。
それが破壊されれば、研究方針をあらためざるを得なくなる。
瓶が手を離れる寸前、三上の腕が絡みついてきた。数秒間、声もなく二人はもみ合った。もみ合いの末、祥子はとうとうバランスを失い床に倒れてしまう。そして三上も巻き込まれるかたちで床に転がった。
「くっ……」
祥子は三上に組み伏せられた。大の大人に押さえ込まれ、身体は完全に自由を失ったが、腕だけは動かすことができる。祥子は首を回して、クリーンベンチに向かって狙いを付けた。
三上が絶叫し、祥子から甁を奪い取った。瓶を投げられなくなった祥子は無我夢中で隣にあった液体窒素のボンベを引き倒した。
「やめろ!」
三上が手を伸ばす。しかしボンベはぐらりと床に倒れ込み、白い爆発を引き起こす。同時にガラスの割れる音がして、辺りに鼻を刺す刺激臭が広がった。
「あ――」
最後に祥子が見た景色は液体窒素で冷やされた硫酸の雪が自分に降り注ぐところだった。

「グギヤ阿屋y亞#”ayャエヒ?ア――!」
絶叫をあげて祥子が床を転がった。
指を顔にめり込ませ、その場で気が狂ったようにのたうち回る。
顔からは肉の焼けるような音とともに猛烈な煙が上がっていた。
そして三上は見てしまった。その顔を覆う指の隙間から溶けてどろどろになった顔が覗いているのを。
「亞#”アあ阿――!」
もはや言葉にならない叫びをあげながら、祥子は溶けた顔面を床へと叩きつけ始める。
だん! だん! と音がするたびに、砕けた顔の細胞が糸を引き、ビチャビチャと周辺に飛び散った。鼻が崩れ、頬が溶け落ち、目元が昏い穴を遺して陥没していく。
その光景に三上はしばしのあいだ言葉を失った。
はたしてこれは現実の光景なのか。三上はただ引き攣った笑みを浮かべながら、その場で硬直していた。美しかった祥子の顔はいまや見るも無残に溶け崩れている。
「はっ……はは……」
三上は立ち上がり、半ば逃げるように出口へと向かった。しかし、その足が何か泥のようなものを踏み抜いた。転倒し、痛みに顔をしかめる間もなく、三上は自分が踏み抜いたものの正体を見て驚愕した。
肉だった。
その泥は肉でできていた。
「これは……」
剥がれたタイルの隙間から肉の芽がびっしりと覗く。そのどれもが祥子と同じように黒い煙を噴き上げて、のたうち溶け始めていた。床だけではない。部屋全体が肉でできている。
「これはいったい……」
そのとき、三上の眼前にひらひらと舞う雪の粉を目にした。雪は三上のズボンへと落ち、そのままジュッと音を立て生地に穴を空けた。
「熱っ――」
雪はどこからともなく舞い込んでいた。考える時間はなかった。このままここにいれば、あの肉の芽のように、あるいは祥子のように三上も溶かされ、泥になってしまう。
三上は出口の扉を開け、粘つくピンク色の廊下を走る。階段を一段飛ばしで駆け下り、教室棟の外へと出た。
そこで三上はまたしても言葉を失うことになる。今朝、三上が歩いてきたはずの青々とした芝生が消え失せ、いまでは真っ赤に染まった肉の草原がどこまでも広がっているではないか。風にあおられた繊維の一端が三上の足元でさわさわと揺れ動く。
肉、肉、肉。空も大地も、三上が腰を下ろしていたベンチも例外なく血の滴る肉でできていた。
そして三上自身もまた肉だった。足だと思っていたものは二本の太い触手であり、鼻や口は管状の触覚器、目は光を感じる錐体細胞が飛び出たもので、そこから流れる涙はホルモンやペプチドといった分泌物だった。
狂いそうになる一歩手前で三上は、自分がいるこの世界の理を知った。
――そうか。
見ているものが変わったのではない。あくまで見方の方が変わったのだ。
人間が見ている景色とはいわば脳が作り出した写像だ。網膜というスクリーンに映し出された二次元の情報を、脳は一瞬ごとにつなぎ合わせ、視界という立体的かつ時間的な情報に織り直す。
脳が受け取り、脳が処理し、脳が感じるものであれば、生物は自身の置かれた環境や状況といったコンテクストをもとに、その情報を意のままに解釈し直すことができる。
生物において、その全ての根拠となるコンテクストとは何か。
それは記憶だ。いま、その記憶から説明可能な状況は一つしかない。

ここはクローンの園だ。
そして自分はクローンの園に配置された培養細胞の一つだった。三上の記憶細胞から作られた、三上の記憶を持つクローン細胞体。
実験は成功していたのだ。ただ、それがマクロな世界に住む人間には知る由のない極小のスケールで実現していたというだけで、その直感――細胞には記憶があるという三上の直感は間違っていなかった。皮肉なことにそれを知っているのは、自分を三上だと錯覚していた小さな肉片だけである。
いま何らかの理由でクローンの園は崩壊を始めている。あの酸の雪は例外なく全てを溶かし尽くしてしまうだろう。そこから逃げることは不可能だ。
全てを思い出したいま、三上は死にゆく自分の身体よりも大切な物があることを思い出していた。
三上は走った。自分がいまでも人間であり、その二つの足は地面を蹴る反作用で前に進むことができる。そう錯覚することで三上は走っていた。
中庭を抜けると、大学の講堂を模して作られたジオラマが三上の前に現れた。自身が細胞体であると気付く前は、このジオラマも三上には本物の講堂に見えていたはずだ。
三上は大広間をめざし、精巧に作られたジオラマ内部を進んでいく。途中、階段を何度か降り、本物の講堂にはなかったはずの地下空間へと降り立った。
暗く広大な空間は音一つない静寂に包まれていた。酸の雪はまだここまで届いていない。とはいえ、それも時間の問題だった。
三上は闇の中を歩いていく。踏みしめる肉の感触を頼りに光のない空間を進んでいく。ある時点で肉の培地は薄くなり、代わりにつるつるとした硬質な床材の感触が足の裏を通して伝わってきた。培養細胞が配置されたシャーレの、その剥き出しのガラスが覗き始めているのだ。やがて目の前にぼうっと光る空間が現れた。
そこに彼女はいた。
彼女――葵は冷たいガラスの上に横たえられていた。
「葵……」
三上は彼女に触れた。しかしその身体は冷たく透徹としていた。彼女の身体に取り付いた菌糸状の肉がその冷たい身体に栄養を送り続けている。
「駄目なのか……」
三上の細胞体である自分には、このクローンの園を作った彼自身の記憶が引き継がれている。だから葵の元まで迷わずに来ることができた。
しかし、葵にはキーとなる記憶が存在しない。印象となる記憶は継承されていない。なぜなら葵の細胞はその遺体から抽出されていたからだ。死んだ人間に記憶は存在しない。記憶のデッドコピーである記憶細胞はその死を忠実に再現することしかできない。
「そうか」
三上は独りごちた。
――僕はもう一度、君のことを殺したんだ。
雪が降り始めていた。冷たい結晶がゆっくりと舞い降り、二人の身体を溶かしていく。その思い出を溶かしていく。
最期の瞬間、天から巨大な手が降りてくるのが見えた。それは自分と葵をすくい上げようとしているように見えた。

包帯を取り外すとき、祥子は目をつむった。
目を開けたとき、どんな化け物が鏡に映っているかを想像し、恐怖に目が開けられなかったのだ。それでも覚悟を決めて、祥子はゆっくりと目蓋を開けた。鏡に映った自分は何の変哲も無い少女に見えた。看護師たちがわあっと喜びの声を上げるのがわかった。

あの事件の後、祥子はIPS細胞による培養皮膚の移植手術を受けた。
幸い、祥子の顔の傷はそれほど酷くはなかった。化学熱傷は通常の火傷に比べ、皮膚に薬品が湿潤することによって劇症化する傾向にある。それでも祥子を焼いた硫酸がシャーベット状になっていたことが功を奏した。酸が皮膚へと湿潤する前に物理的に払いのけることができたのだ。
しかし肩から胸に掛けての火傷は跡が残ってしまった。そちらは酸が服に浸透したため、火傷が酷くなってしまった。ケロイド状になった肩を診ているとき、一人の男が病室に入ってきた。
同期の相沢徹だった。
徹は、祥子のもとまで来ると、
「祥子ちゃん、俺、頑張るから。祥子ちゃんのこと守るから」
そう言って、泣きはらした顔で祥子のことを強く抱きしめた。
徹は祥子が事件に遭った日、海外にいた。愛する人が苦しみの中にあるとき、自分はその傍にいてやれなかった。そのことが許せなかったのだろう。
本音としてはどうでもよかったが、祥子は徹のことを拒絶するつもりはなかった。彼と一緒であれば、事件の被害者という可哀想なレッテルを貼られることもない。それどころか、困難を共に乗り越えた科学者カップルとして研究を問題なく続けることができる。
祥子はクローンの園研究を引き継ごうと考えていた。
小心故か、三上は祥子のために救急車を呼ぶまではした。しかし、その後は忽然と姿を消してしまった。事件後、徹の話では三上の個人研究室から冷凍庫が一つ消えていたらしい。
おそらく三上が持ち出したのはクローンの園のプロトタイプだ。彼のことだ、海外かどこかで秘密裏に研究を進める腹づもりなのだろう。
祥子はそのことを思うと少しだけ胸が痛んだ。
恋い焦がれていた三上はいなくなってしまった。そのことに胸が引き裂かれるようだった。しかし全てが消え去ったわけではない。
祥子に移植した培養皮膚のなかでも、特に損傷の酷かった肩部分の皮膚はあらかじめin vitroで幹細胞を培養して作っていた。祥子はその幹細胞に、とある培養細胞を混ぜておいたのだ。
それがいま祥子の身体のなかで育っている。祥子が血を分け、祥子の身体を拠り所にして、その培養細胞は生きていく。その生殺与奪の権を握っているという事実が祥子にはたまらなく愉快だった。
あの人の細胞はこれから自分のなかでどんどん大きくなっていくだろう。
それが楽しみでしかたなかった。

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