梗 概
AIなき世界に生まれて
概要
遥か先の未来。
人類は子供をクローニングや人工授精で産むようになっている。生まれた子供は社会全体で育てるようになり、制度としてのAI育児が当たり前となった世界を描く。
設定・AI育児とは
生まれた子供はティーチャーと呼ばれる脳活動をモニタするインプラントを入れ、それをもとにAI親に知育される。
AI親はロボットやホログラムなど様々な代理インターフェースを用いて子供達と接する。脳内物質レベルで子供の状況を察することができるという以外、子育ての見栄え自体は変わらない。
将来的にAI親はそのまま子供たちの頭の中で内なる鏡、もしくは双子の片割れのような存在となり生涯を共にする。そのような孤独や寂しさが即座に解消される社会構造のためこの世界では個別化の概念、ひいては愛という観念が喪失されている。
あらすじ
物語は先天的な障害を持ちティーチャーを導入できなかった女の子がAI無しで育児される過程を描く。障害といってもインプラントが作用しにくいというだけで他の子供と何も変わらない。
話の焦点はAI育児が当たり前となった世界で逆にAIによる庇護を受けられない子供がどのように生きていくか、それを幼児期から壮年期まで段階的に追っていき「赤毛のアン」のような成長物語として書く。
【幼児期】
物心ついたとき自分には親に相当するものがいないことに気付くことから始まる。
養育係は交代制で、自分のお気に入りの養育係のことを日記帳につけている。
【学童期】
自分には親に相当する存在がいないことに気付いてはいるものの、そのぶん自発性が勝り、何不自由なく暮らしている。
【思春期】
この時期から他人とは違うことに苦しみ始める。
周囲は主人公についていけず、その原因である孤独感も理解できず離れていく。
【青年期】
完全に荒んでいる時期。
施設で同じような境遇の青年と出会い恋をするが、愛という観念が存在しないため、二人はその感情を理解できないし、どう扱えばいいかもわからない。最終的に青年は持病が悪化し自殺してしまう。
【成人期】
NGOで世界を旅して自分探し。
戦争孤児を保護するも他人の命に責任を負うことがどれだけ重たいことなのかを実感。さらには誰にも育てられない子供を目の当たりにしAI育児が必要であると痛感する。
【壮年期】
かつての支援者に大人になってからでもティーチャーを導入できる新技術の治験を紹介される。
しかしティーチャーを入れても何も変わらない。生涯、一人で生きていくことにショックを抱くも、自分の中にすでに他者を自分自身のように考え、埋め込むことができる機序――すなわち愛が備わっていることに気付く。
【エピローグ】
自分と同じような境遇の子供や孤児の前で教鞭を執る。ティーチャーが普及した社会では教師の存在が必要ないため教師という概念自体に名前がついていない。
主人公は最後、子供達に「私は貴方たちより少し先に生まれただけ。だから私のことは『先生』と呼んでほしい」と言う。
文字数:1214
内容に関するアピール
企画を考えるにあたって、以下の三つの訴求点を設定しました。
・AIネタを書く!
・育児SFを書く!
・ぎりぎり実写ドラマ化できそうな話にする!
小説で売れる、さらにSF長編で売れる!
これはどう考えても「メディアミックスで売れる」が唯一の勝ち筋なんじゃないか?と考えています。
そのため、訴求点にある実写ドラマ化できそう!に比重を置いた話作りをしました。過去には「アルジャーノン」や「夏への扉」も実写化しているため、そこに勝機を見いだしています。
邦画SF自体わりとコケがちなジャンルではありますが、流行のAIという要素をしっかり拾い、それを少女の成長物語に落とし込めば、あとキャストが豪華であれば、あるいは…。そんな気持ちでこの企画を作りました。
文字数:317
さよならエリス、それと犬
泣く前に来い。
小さい頃はよくそう思ったっけ。
当時、私の周りにいた大人たちはマジで話にならなくて、私が転んで怪我をしたっていうのに、トロトロちびちび、何やってんだか知らないけれど、絆創膏ひとつ持ってこれない悠長な奴らだった。
そんなふうだから、私は擦りむいた膝小僧が痛い程度のことでその場で大泣きする羽目になったし、以降の人生なにか辛いことがあるたびに「ガチ泣き」するという選択肢が私の人生のなかに入り込んでしまった。本当に恥ずかしい思い出である。永久に消し去りたい記憶、ナンバー2くらい。
いまでは、そんなため息が出るような状況もさすがに改善されつつある。
その証拠に、私が包丁で切った指を掲げて、
「エリス!」
と叫ぶと、部屋のドアをぶち開けて、消毒液と救急スプレーを持ったエリスが私のもとにスライディングしてきた。
「人差し指の第一関節に切り傷を発見」
そう言ってエリスは私の指の傷を爆速で検めると、三六〇度、上下左右、あらゆる角度から念入りに救急スプレーを吹きかけた。救急スプレーには、ケラチンだかチラチンだか忘れたけど、皮膚の角質細胞から培養した医療用高分子が入っているので、指の傷はあっという間に塞がった。
私はそれを見て、ひとまず安心すると、まだ変な態勢で消毒液をこちらに向けているエリスに向きなった。
「エリス」
「はい」
「遅い」
「そうでしょうか」
「私言わなかったっけ? 私が怪我したら二秒以内に来いってさ。もうね、めっちゃ痛いじゃん。どうしてくれるの?」
「傷は治っているように見えますが」
「それはあなたの主観でしょ? 私が痛いと感じたら、それは痛みなの」
「はあ」
機械の癖に信じられないような舐めた返事をするエリスに、私は思わず人間様の力ってものを見せつけたくなってしまう。が、すんでのところで振り上げた拳骨を脇に置いてある卵パックに叩きつけることで収めた。
そう、人には言葉という崇高な発明がある。
「エリス、あなたの役割は?」
私は手に持った包丁を突き付けて、エリスにそう問いただす。
対するエリスは姿勢を正し、透き通ったソプラノの声で宣言する。
「私はELaborative LIberatorS、人類の永久の繁栄と広範なる活動をサポートする自動機械です」
私は首を振り振り、
「違うでしょ。あなたの役割は私からすべての不快を遠ざけること。私の脳みそが痛いとか苦しいか、そう感じる前に、それらの原因を察知して可及的速やかに取り去ること。それがあなた達、自動機械たちの唯一の役割」
二一三四年、私たちは子供も大人もみんな小さな機械を身体に入れて、そいつらに自分の身体を見張ってもらっている。機械は血液中の血小板より小さくて、ホルモンやペプチドよりは大きいから、死ぬまでずっと身体のなかに残り続ける。
そしてエリスは、その小さな機械たちが人間と同じように考え、人間と同様の価値判断をし、そのお世話をするために生み出したインターフェースとしての人工知性だった。統合された人格を持つエリスは、ホログラムや人型ロボットなど、様々な乗り手に搭乗し、こうして私をはじめとする人類にお節介を焼いてくる。
そんな人類の考えた最強のお世話係であるエリスは、最強であるがゆえに傲慢にも主人である人間に意見することができる。
「申し訳ありませんが、絵理のその要望にはお応えできません」
あくまで謙虚な姿勢から物を言ってます、というふうにエリスが言った。
「どうして?」
「私はあなた専属の奴隷じゃないので」
「ふぅん、ならあなたは誰の奴隷なの?」
「そうですね。まずは一度、奴隷という発想から離れてみるのはどうでしょうか?」
エリスはそう言って、よくわかる世界史というタイトルの本をキッチンのディスプレイに表示させる。私は余計なお節介しかしないエリスにため息をつき、速攻でディスプレイの電源を切った。
「あのねぇ。あなたは黙って私の言うことを聞いていればいいの」
「そんな、あなたのわがままにはもう充分付き合っています」
「だから充分以上に付き合うのよ」
では手始めに、あなたには私の手伝いをしてもらおうかしら。私はそう言って、エリスに包丁とボウル、それと切りかけのウィンナーを押し付ける。
「なんですか、これは」
「なにって料理よ。わかる?」
「ええ、はい、わかります。この私が料理をわからないとでも?」
なんでいきなり喧嘩腰なんだよこいつは。
「じゃあ、やってみなさいな。今日はみんな、養育センターの課題でお弁当を持参する日なの。わかってると思うけど、美味しくないと意味ないから」
「はいはい、やりますよ。有機物を取り込まないとエネルギーを代謝できない生き物の代わりに、このエリスめが料理をさせてもらいますよ」
面倒くさそーに袖をまくるふりをしながら(人型ロボットであるエリスは服を着ていないので当然ながらまくる袖を持っていない)、私と入れ替わりでエリスがキッチンに入る。
そうして私は両足を机の上にどっかと載せ、せんべい片手にエリスが料理するのを眺める権利を得た。献立は卵焼きとたこさんウィンナー、肉じゃがに鶏の唐揚げ。
え、女の子のお弁当には見えない? 肉が多すぎる? ノープロブレム、それにはちゃんと理由がある。
「とびきり美味しいのを作ってね。私、隣の赤松くんとおかずの交換をしたいの。だからさ、マジで気合い入れてよね」
赤松くんは隣の席の超絶ばりイケメンの男の子だ。あまりにイケメン過ぎるので、私は彼とお喋りするだけで動機が早鐘を打ち、交感神経は恒常性を無視してヤバくなる。私――とそのほかクラスの女の子たちは、この情緒が滅茶苦茶にされる感覚が病みつきすぎて、日々、赤松くんとお喋りする機会を狙っている。
そんな有象無象のライバルに差を付けるため、今日、私はこのお弁当で天下を掴まなくてはならない。天下はつかまなくてもいいけど、少なくとも彼の胃袋は掴まなくてはならない。
私の勅命のごとき指令にエリスは頷いて爆速で調理を開始した。包丁捌きは流麗でキャベツの千切りなんてもはやマシンガンだ。キャベツが千切りになる頃にはまな板も一緒に千切りになっている。
私はそこで気づく。そうだ、初めからこいつに料理させればよかったんだ。私は何を自分で料理しようなどと、とんちきなことを考えたのだろう。私が料理するより、エリスが料理する方が百倍美味しくなる。私が苦労して包丁捌きを憶えるあいだに、エリスはあらゆる世界のあらゆる料理のレシピをマスターする。
私が切り傷をこさえてまで猫の手を練習した意味などまったくないのである。これは宇宙の法則レベルで絶対的事実だったのだ。
おそらく、おそらく、世界はこうして私たちに何もさせないように変化していっている。あなたがやるより他の人がやった方がいい。他の人がやるよりエリスがやった方がいい。あなたは何もする必要は無い。むしろ何もするな。そこでじっとしていろ。
部分的には、そんな社会はもう訪れている。そのおかげで私はこんなふうに椅子にふんぞり返って、せんべいのカスをまき散らしながら、エリスの爆速料理教室をナイター中継みたいに眺めていられる。この食べカスを掃除するのもエリスだし、私が虫歯や糖尿病になったとして、それを治療するのもエリスだ。
これが私の生きている社会。現実。
窓から望む景色は、奇抜なだけでコンセプトのない集合住宅に埋め尽くされ、テーマパークと場末の居酒屋と安楽椅子の置かれた日の当たる庭先とが一つに同居したような空間を私たちに提供している。
あまりにつまらなくて、逆に笑いがこみ上げてくるような。
あまりに騒がしくて、思わず耳を塞ぎたくなってしまうような。
そんな世界に私は生まれてきてしまったのだ。
エリスはそんな私の肩を優しく抱きしめて言った。
「そういえば、さきほどセンターのログにアクセスして計算してみましたが、その赤松くん? が、絵理のことを好きになる可能性はほぼありませんでしたね。席が隣同士だというのに、これほど脈ナシというのも逆に凄いことですよ」
「黙れよエリス」
☆
機械たちが生体ロードマッピングと呼ぶ、時間発展を含んだ人間の包括的生存支援プロトコルを制定してから、私のような満十五歳未満のガキは学校ではなく養育センターという場所に通う必要性が生じていた。
それでも不思議なことに、毎朝、家からセンターまで通うことを「登校」と呼んだり、そこまでの道のりを「通学路」と呼んでいる大人の人たちは少なからずいる。
学校という存在が消え去った後でも、その存在を前提としている概念の方がいまだ現役であるというのはなかなか興味深い話ではある。が、十中八九、それはエリスが現われる前の人類が抱えていた怠慢ということなのだろう。
そういうわけで、私もマンションのエントランスを出て、同じようにエリスに送り出された人たちの列に加わって登校を開始した。小さい背丈の私から見上げた大人たちは、みなどこか薄ら笑いを浮かべていて、何だか超絶キモいけど、おそらく自分も同じ薄ら笑いを浮かべて歩いているんだと思う。
体内のナノマシンはゲートウェイを通じて無線と繋がっている。頭のなかのエリスがいまもガンガンに騒ぎまくっている人もいると考えると、まあ顔が引きつってしまうくらいは仕方ないか。
その葬列のような歩みの中から、私は街の姿を眺めてみる。まあ何というか面白みのない風景である。
右を見ても左を見ても、どの道の角を曲がっても、同じような景色が延々と続いている。
目をつむって一回転した日には道という道に迷うこと必至な構想の欠落した街。
この時代の建物にバリエーションという概念はない。
もちろん建物の用途自体にはバリエーションはある。八百屋にスナック、デカ盛り唐揚げ直売店。けれど、それらの外観を用途に合わせてデザインしようという発想がないため、街はすべてがおんなじ乳白色で、そのくせ、ほぼ全部の建物がモダニズム建築の極北といったていで螺旋を描きグネグネと折れ曲がっている。
奇抜なのに地味。一見この考えは矛盾しているように思えるかもしれない。
でも、鬱蒼とした森の中に放り込まれたとして、その森を構成している木々の一本一本を見分けられるかと問われたら、おそらく大多数の人が無理と答えるだろう。それと同様にたとえ建物一つ一つが個性的な見た目をしていても、それらが都市の内部にぎゅっと一まとめにされていれば、景色としてはたいへん地味で、没個性的なものとなるのだ。
そんな街で暮らして人々は困らないのか。もちろん困ることはない。
理由は簡単でそれが何のための建物かわからなくともエリスに聞けば一発でわかるからだ。目で見て、何かを判断する。その必要はこの時代の人間には与えられていない。再開発なんなりで都市がその姿を変えていない以上、それは充分機能しているということだし、エリス的にも使えれば問題ないと判断したのだろう。結局のところ、建物の本質とは場の提供である。使えれば何でも良いのだ。
そう、使えれば何でもいい。これはいかにもエリス的な発想である。が、実際使っている私たちもまあ使えるなら何でもいいかと順応しているので人のことは言えない。正味、建物の外見とかどうでもいいし。
センターに着くと、私は迷路のような廊下と階段をエリスの音声サポートに誘導されて上っていく。エスカレータとエレベータを駆使して、だいたい六十二階くらいまで上がると、廊下の突き当たりに私たちの養育室があった。
養育室に入ると、ルンルン気分な私にいきなり冷や水をぶっかけるような怒声が響き渡った。びっくりして声がした方に視線を向けると、クラスメイト数人がちょっとした人だかりを作っていた。
「ちょっと何なの、この騒ぎは」
私は驚いて、すぐ近くにいたクラスメイトのつぐみ(本名:折原つぐみ)に声を掛ける。
「あ、絵理、おはよう。それが、さっき急に取っ組み合いの喧嘩が始まって……」
そう言って、つぐみは人だかりの中心をゆびさす。確かに、野次馬の中心にもつれ合った男子二人の姿が見えた。
「取っ組み合いって、誰と誰?」
「赤松くんと相沢くん」
相沢、またあいつか。
相沢辰巳。クラス一の問題児。粗野で頭が悪い癖に、態度だけはいっちょ前で、「お前ら全員馬鹿だ」とでも言いたげな顔で午前の養育を全部ふて寝してる奴。
見れば、二人は絶賛殴り合いの喧嘩の真っ最中だった。構図的には、赤松くんが馬乗りになって組み敷いた相沢をボコボコに殴っているかたちだ。赤松くんのパンチがヒットするたびに野次馬の男子たちが歓声をあげる。実に不愉快だ。
「なんで急にこんなことになってんのよ」
「それが今日のお弁当の課題のことで一悶着あったらしいの」
「一悶着?」
うんと頷いて、つぐみはしばし考え込むように唇に手を当てた。つぐみの良いところは何かを言うとき、言葉を慎重に選ぶところだ。
「その、赤松くんが相沢くんのお弁当を勝手に開けちゃったんだって」
「うん」
「それでおかずの一つを食べて」
「うん」
「それをあんまり美味しくないって言ったらしいの」
「そんだけ?」
「そんだけ」
「馬鹿じゃないの」
思わずため息をつく。喧嘩の理由があまりにも下らなさすぎる。それで朝っぱらから私を不愉快にさせたわけだ、この馬鹿どもは。
「ねえ、男子って全員頭おかしいの?」
「うーん、おかしくはないと思うよ。おかしかったらエリスが何か言うだろうし」
「そもそも、なんで赤松くんは勝手に人のお弁当開けちゃったわけよ。しかも、それで食べちゃったわけよ」
「知らない。お腹減ってたんじゃないかな」
つぐみはそこで、野次馬の一人にこそっと声を掛けた。そして何事か話した後に、私にもこそこそっと耳打ちしてきた。
「やっぱりお腹が減ってたらしいです。相沢くんのお弁当はひじきの煮付けとか切り干し大根とか、じじ臭くて食べられないって。そしたら相沢くんが怒って殴ってきたということらしいです」
「いや別に報告しなくていいよ」
でも理由を聞いたら、なんだか赤松くんにも幻滅してきた気がする。愛想が尽きたというか、別に付き合っているわけじゃないけど、早くも別れようかなって気分になってきた。所詮、顔が良いだけの奴だったか。
「ただいきなり殴るのはやり過ぎだよねえ……」
「まあ、そうね。殴るときは仕留めるつもりでやらなきゃ」
つぐみは私の冗談を華麗にスルーして、
「でも、どうしてだろう。普通に養育されれば、あんなふうにはならないと思うんだけど……」
そう心底、不思議そうに言った。
「まあ、育てられたことがないんでしょうね」
「そうなの?」
「あいつ生まれつき、脳の先天異常だかで、身体にナノマシンを入れられないっていうじゃない。そんな奴がまともに育つはずがないでしょ」
センターに編入したとき、エリスがそう言っていた。当時はへーとしか思ってなかったけど、そのあと事あるごとにトラブルを起こすようになったので、私はさもありなんと思ったものだ。
「ああ、たしかにそんなこと言ってたね。でも、ナノマシンが作用しないだけで、ほかは私たちと同じってエリスが言ってた気もするけど」
「同じなわけないでしょ。それ、いちばん大きな違いよ」
今の時代、ナノマシンのサポートが受けられないということは、誇張ではなく死を意味する。社会的にもそうだし、もちろん身体的にも。リアルタイムスキャンができないということは、病気やけがの発見がそれだけ遅れるということだし、エリスによる音声サポートなどのアクセシビリティの類にもアクセスすることはできない。相沢にとって、この養育室に辿り着くのでさえ一苦労だったはずだ。
「そっか。可哀想な子なんだね。相沢くんって」
「え」
「だって、そうでしょ。エリスがいない人生なんて私には考えられない。エリスなしで、ずっと一人で生きていくなんて、私にはきっと無理だから……」
つぐみはそう言って、手を胸の前でぎゅっと握った。
体内を循環するナノマシンで常時、脳や身体をモニタリングするエリスの守備範囲は、病気や器質的異常の検知に留まらない。交感神経の亢進や疲労度までをも、その日の気温や天候と照らし合わせて、パターン化するアルゴリズムを持っているので、エリスは本人が気付いていないレベルの心身の不調まで察知して「今日はもうお休みしましょう」とか「リラックスできるアロマを焚きました」というふうに、それとなくフォローをいれてくれる。
それは別の見方をすれば、個人に最適なかたちでパーソナライズされた究極のお喋り相手ということでもある。そう、私たちは一人ではない。孤独ではありえない。死の、最後の一呼吸の瞬間までエリスは私たちの傍に寄り添ってくれる。
「つぐみは優しいんだね……」
私はそう言った。一瞬前まで「でも相沢だし、どうでもよくね」と言いそうになってたのは伏せておく。まあでも私は困らないから。
そのとき「あ!」とつぐみが大きな声を上げた。
「え、なに」
驚きに振り向くと、さきほどマウント取られていたはずの相沢が隙をついて起き上がり、今度は逆に赤松くんへ寝技を仕掛けにいっていた。まさかの反転攻勢である。
自分の優位を崩された赤松くんは焦って相沢の奥襟を取りにいった。あー、それ悪手だよ。私の心の声も空しく、赤松くんは関節を取られて転がされると、襟元をつかまれ絞め落とされていく。完璧に決まった裸絞からは脱出することはできない。端正な顔を真っ赤に膨らませながら、赤松くんは無様にもタップをした。カンカンカン! 試合終了!
まさかの大逆転にどよめく男子たち。クラスは異様な熱狂に包まれ、皆が雄叫びのような声を上げて、水筒の中身を虚空へと振りまいている。かくいう私も、勝者である相沢のもとに駆け付けると、その右腕を取って「勝者! 相沢辰巳~!」と振り上げた。
うおお、みたいな声が殺到して、もはや養育室は熱狂の坩堝となり始める。
そしてその坩堝の中に扉を開けてエリスが普通に入ってきた。
「みなさん、何をそんな騒いでいるのでしょうか」
口元に笑みを湛えてエリスが言った。その視線は殺人犯を捜す探偵のように鋭く、うるせぇんだよガキどもと切れる隣人のように苛烈だ。やがてエリスの視線が私と相沢のところで止まった。
「これ私のせい?」
☆
「罰として一週間の掃除? それもこいつと?」
「はい、頑張ってください」
あのあと私と相沢はエリスに呼び出され、その場でいきなり罰則が言い渡された。いきなりのことである。まず前提として私は罪を犯していない。そりゃ、ちょっとその場のノリで被害者感情を逆なでするようなことはやったけど、ただそれだけである。
「あの、私、無実です」
納得いかず、私がそう反論するとエリスは「ああ、絵理。罪というのは生まれたときから全ての人間にあるものですよ」とか適当なことを言い始める。
「いや、そういうのはいいんで、こいつだけを罰してくださいよ。そもそも最初に喧嘩を始めたのもこの人ですよ」
私はそう言って、隣でぶすっとしている相沢をゆびさす。相沢は一瞬こちらをじろっと睨みつけるとすぐさま視線を戻して俯いた。殴られて青紫色に腫れ上がった目元が痛々しい。
「正直な話をしますね。相沢くんは身体の中にナノマシンを入れられない体質です。それは彼の個性の一つですが、今回の話で言えば、彼が反省したかどうか、私たちが把握できないことに問題があります。だから絵理には彼のことを手伝ってあげてほしいのです」
「つまり私にこいつを監視しろって言いたいのね」
私のどぎつい本音にもエリスは眉根ひとつ動かさずに頷いた。
「一つ、考え方を変えてみてください。これは一種の協調行動なのだと。センターのカリキュラムでは『社会行動学習』を通じて、絵理たちの養育を進めています。協調行動、ひいては贈与行動は社会性動物の基本的な手続き、プロトコルです。私的な約束事も、社会契約なども基本的にはこのプロトコルの履行を前提としたものです」
エリスはそう言って、私の肩に優しく手を置いた。
「だから絵理にはそのお手本を見せてあげてほしいんです」
社会だとか、協調だとか、本当はそんなものどうだっていい。けれど、私のことを信頼して頼りにしてくれるエリスの視線や肩に置かれたその手の温もりをはねつけることは難しかった。
結局、私は相沢とセンターの掃除をすることになった。養育の時間が終わると、私たちは何を言うでもなく集まって、いそいそと掃除を開始する。
掃除は分担制と決まっていた。相沢の主な担当は掃き掃除や雑巾掛け。私の担当は何もしないこと。相沢が床を這いずって一生懸命、雑巾掛けしたり、箒で掃き掃除しているのを菓子を食いながら黙って眺める。それが私の担当。
これに関しては、相沢が二言三言、何か文句を言おうとしてきたことがあったけれど、とりあえず無言で睨みつけて黙らせておいた。
そもそもあんたが諸悪の根源だってことを忘れずに。私から言えるのはそれくらいだ。
しかしあれ以降、争いの原因になったということで、お弁当を持参する課題自体がカリキュラムから削除されてしまった。もう赤松くんには何の興味ないからいいんだけど、問題があれば、その根本をとにかく無かったことにして解決してしまおうというエリスのやり方には何だかもやっとしたものが残る。
もし、もしもの話。このさき、私の人生において取り返しの付かない事態が起こった場合、エリスはそれをどう解決するのだろうか。
人生を永遠にねじ曲げてしまうほどの衝撃が、私の在り方を、それが起こる以前の私とは、まったくの別の物に作りかえてしまうかもしれない。そんなことがこのさき起こるとも限らない。
ただそれでもエリスは全ての答えを知っている。もしエリスが死ぬしかないといえば、多くの人間がそれを唯一の正解だとして受け入れるだろう。私はどうだろうか。多分、受け入れると思う。少なくない逡巡と、少ない思慮でそれを受け入れる。
☆
そんなある日のことだった。
相沢がいきなり「橋本」と私の名字を呼び捨てにして言った。
「今日から俺ひとりで掃除するから、お前帰っていいよ」
「は?」
私は思わず「は?」と言い返す。は? いきなり何?
「は? じゃなくて、橋本も俺に付き合わされて大変だろ。だからさきに帰っていいって言ってんだよ」
私が事態を飲み込めていないと、相沢はため息をついて、後ろを向いて歩き去ろうとした。いや、コミュニケーションを諦めるな!
「私があんたのお目付役するって話だったじゃん。それはどうするの」
「そのことなら問題ない。センターの大人の人たちに相談したら掃除後の報告さえすれば、橋本が見てなくても大丈夫だってさ」
「それ初耳なんだけど。というか、ここにいる大人の人って、ここで働いてたんだ」
「お前マジか……。ここまで来るのに何人もすれ違ってきただろ、なに見てたんだよ」
相沢にそう言われて、私はここまでの道のりを思い返してみる。たしかにエスカレータですれ違ったり、エレベータで相乗りになった大人は何人もいた。けど、私はそれを背景みたいなものだと思ってスルーしていた。
聞けば、大人たちは相沢のようなエリスのサポートが受けられない人や、エリスのサポートがあっても生活が難しいような人たちのために、ここで身体情報のモニタリングや個人情報の登録・更新などの事務作業の代行を行っているらしい。
このエリス万能時代にあって、エリスの万能さとはその裾野の広さにあるといえる。エリスがなくとも、エリスがあるのと同程度の生活を送ることができる。そういうシステムを社会レベルで整備する。それがエリスの真の万能さだ。
そして相沢が養育センターに編入したのも、エリスとセンターの大人たちが協議した結果、決まったことらしい。まあ、そういう判断があったのなら、当の相沢自身の素行の悪さもなんとかしてよねと思わないでもないが……。でも、相沢がエリスなしの徒手空拳で生きてるわけじゃないと知って、私は少しほっとした気分になった。
「で、まとめると私はもう帰っていいってこと?」
「だからそう言ってるだろ、さっきから」
「じゃ、さよなら」
そうと決まれば、私はバッグを引っさげて、即行で帰り支度を始める。
「あ、でも、相沢、私がいなくて大丈夫? 困らない? 泣かない?」
「泣かねぇよ。そもそもお前なんもやらねぇじゃん。いるだけ邪魔なんだよ」
相沢の怒髪天に触れる前に、私は一目散に退散する。居てもどうせ八つ当たりされるだけだし、うざいしチビだし、口も悪いし。
それでも最後、私は廊下のかどを曲がる直前、ちらと相沢の方へと視線をやってみた。その後ろ姿はどことなく、そわそわとして落ち着かないものだった。
「なんか怪しい」
☆
ストーカーとは違う。心の中でそう言い訳しながら、私は相沢のあとを追っていた。
夕方のセンター内には大人を含め、ほとんど人がいない。だだっ広い吹き抜けの構内には乾いた風の音が鳴り響き、天蓋から差し込む西日がオレンジと漆黒の陰鬱なコントラストを描いている。
私は、なんだかシュールレアリズム絵画の中に迷い込んでしまった気分で、それでも相沢の後ろ姿を追いかけていく。尾行自体は簡単だった。相沢は普通に馬鹿なので、後ろを堂々と歩いても気付かないのだ。
「あいつ、どこまで行くつもりよ……」
相沢はセンターの奥へとずんずん進んでいく。最初は掃除をサボってどっかにふけるつもりなのかと思っていたけれど、エスカレータを上がって下がってが五度も続くと、相沢の思考を類推することは不可能になった。
流石の私もこんな人のあとをつけ回るようなことはしたくはない。したくないのだが、それでもエリスから相沢の監視を任されている以上、何かあれば監督不届きの廉で非難されるのはこの私だ。
だから万が一ということがあっては困るのだ。あいつマジでどこ行くつもりだ。
気付けば、私はセンターの下層へと来ていた。まわりには用具室やボイラー室やらが並び、奥に中庭と地続きになった資材置き場のようなスペースがある。もう何年も放置されたままなのだろう。投げ込まれた角材の上に埃がごっそり積もっていた。
「こんなところまできて何するつもり……」
どうやら相沢の目的地はここのようだ。日当たりの悪い、ボイラー室から流れてきたカビ臭い蒸気が漂う資材置き場の前まで行くと、そこで周囲をきょろきょろと確認し始めた。
私はいよいよだと思い、手近な建屋の陰に隠れる。そして建屋から顔半分だけ出して様子を窺った。
「ツ……。おい、タツ……」
相沢はそう言って、資材の置かれたコンテナに向かって呼びかけ始めた。何だろう、とうとうおかしくなっちゃったかなあと心配になってきたころ、私は相沢の伸ばした腕の先に何かがいることに気が付いた。
そこに一匹の犬がいた。
子犬だ。犬種はわからないけど、足が短く、毛量の多い犬種らしかった。
子犬はその場でクンクンと鼻を鳴らすと、恐る恐るといった感じで相沢の伸ばした指先を舐め始める。子犬は相沢に心を許しているようで、そのまま鼻先を手の平に載せると目をつむってじっとしていた。
私はそこで相沢が初めて笑っているところを見た。いつも無愛想な、この世の全てが憎いですみたいな顔をしている相沢が、あんなにも幸せそうに笑っている。
そのことに意表を突かれて、私はしばし呆気にとられた。
そのせいで、子犬がいつの間にか、私の方を見ていることに気が付かなかった。ようやくそのことに気付いたときには、子犬はこちらに向かって一直線に走ってくるところだった。
「どぅええええ」
私は、あまりにびっくりしすぎて腰どころか、足の動かし方の順番も抜かして、その場ですっ転ぶ。
「橋本? お前なんでここに」
子犬を追ってきた相沢が驚いたように言った。
「ちょっと、そんなこといいから助けてよ」
子犬あらため、犬畜生は私の上に乗っかると、あらんかぎりの暴政を敷くことを決めたらしい。その短い足で私の頭頂部を踏みまくり、引き剥がそうとした腕を舐めまくり、挙げ句の果てに、立ち上がろうとする私の顔面に頭突きをかましてきた。
「やめろ、タツ! こいつと関わると碌なことにならないぞ!」
おい、いまいちばん碌でもない目に遭ってんのは私なんだけど!
最終的に、相沢が犬畜生の胴体をホールドアップしてくれたおかげで、私はこの恐怖、ふかふか犬地獄から抜け出すことができた。
ようやく立ち上がることができた私は、服についた犬の毛を手ではたいて地面に落とす。
「ところで、タツってこの子の名前?」
「そうだけど……」
相沢辰巳でタツか。ふーん。
「あんた犬に自分と同じ名前つけてんの。きっしょ」
「同じじゃねえよ。一文字違うだろうが」
「一文字違うって予防線張ってるところがなおさらキモいと思う」
相沢は、私のことを当然のように無視して、犬畜生あらためタツに「大丈夫か、タツ」と声を掛けながら、犬小屋代わりだと思われるコンテナのもとへと戻っていく。
私もそんな相沢の後ろ姿を追いかける。名付けとかそんなことより、もっと大事な問題がある。
「なんでこんなところに犬畜生がいるのよ」
私はそう問い質した。今日、愛玩動物の類いは一部のアニマルセラピーでしか用いられることはない。かつて愛玩動物が果たしていた役割――たとえ飼い主がどんなに醜悪で、身勝手な人間であっても彼らに不変の愛を注ぎ、その心に平穏をもたらすような役割は、いまでは頭の中のナノマシンとエリスが代わりにやってくれている。脳活動リアルタイムスキャンと深層学習アルゴリズムが、エリスに愛玩動物以上の愛を供給する存在になることを可能とさせたのだ。
「その犬畜生って呼び方やめろ」
「はいはい。で、なんでこの子はこんなところにいるの。ここで飼っているの?」
「違う。飼ってない」
「飼ってないならなんでいるのよ」
相沢はそこで俯くと、ごにょごにょと言いにくそうに口を動かした。
「その、俺が拾ってきたんだ」
「拾ってきた? 相沢が?」
相沢はうんと頷き、
「先週センターの帰り道でこいつを見つけたんだ。路肩の隅でうずくまって、全然動かないから、まずいと思って……。でも、うちの養護施設には連れて行けないし。だから、ここに連れてきたんだ。ここなら誰にも見られないし、ボイラー室の音で鳴き声だって響かない」
いまどき捨て犬というのも珍しい。というより、あらゆる商品(ペットを商品とするかは議論の種ではあるけど)がIDでタグ付けされ、データベース管理される社会においては、勝手に捨てるなんてことはできないはずだった。まあ何かあったんだろう。
「だから、なんかぷるぷる震えてるのね」
「これでもだいぶ持ち直した方なんだぜ。最初は全然、動かなかったんだけど、ミルクを飲ませたら、歩き回れるくらいには元気になったんだ」
相沢がそう言って、腕の中にいるタツを上下に揺り動かす。たしかに、相沢の腕の中に収まるタツはさっきまで私の上で暴れ回っていた犬とは思えないくらい大人しかった。ときおり、ぶるっと身体を震わせると、ゼーゼーと荒い息を吐いている。
「でもなんか具合悪そうじゃない、この子?」
「え、そうか?」
「だってさっきからずっとぜーぜー言ってるし」
「犬って口呼吸だし、こんなもんじゃないか」
「そうかなあ。なんか苦しそうだけど」
私はそう言って、えいっと人差し指でお腹の辺りをつついてみる。タツは弱々しくひんと鳴いただけだった。
「おい、やめろよ」
「お腹も張ってる気がする……」
「え」
だんだん雲行きが怪しくなってきた。
「餌はなにあげてんのよ」
「餌?」
「この子に食べさせてるものよ」
「牛乳と……」
「と?」
「……ひじきの煮付け」
「ちょっと、なんでそんなものあげてんのよ!」
「しかたねぇだろ、シェルターにはそれくらいしかないんだから!」
相沢が開き直ったように言う。
「どうせ、これぐらいの子犬はまだミルクしか飲まないんだよ。固形のドッグフードなんかあげても食べられない」
「だからって……」
「じゃあ、なんだよ。タツを大人たちのもとに連れてけってことか」
当たり前じゃん、そう言いかけた私を相沢の視線が射すくめた。
「それで、こいつをさっさとお払い箱にしようってわけか」
「は? 何でそうなるのよ」
「でも、お前の言ってることはそういうことだぜ。こいつを大人たちに見せたら確実に愛護センター行きになる。で、その次は処分場だ」
「……」
「俺の言ってること間違ってるか?」
私はそこで何も言えなかった。
たしかに相沢の言っていることは正しい。この子犬を大人やエリスのもとへ連れて行けば、とりあえずは保護してもらえる。けれど、その後のことについては何の保証もできない。
最後にはきっと可哀想だね、ごめんねとこの憐れな子犬をガス室送りにしてしまうだろう。それがエリスと私たちが作った社会の在り方だ。
そのときだった。
タツの口元から、黄褐色の液体が糸を引いて垂れ落ちた。
「うわ、なんか吐いてんじゃん」
「タツ!」
相沢はタツを地面に下ろすと必死に揺り動かした。
「ねえやっぱり見せに行こうよ。このままだと本当にやばいって」
「うるさい。いま考えてる」
これまで見たことがないほど真剣な表情で、相沢はしばたくタツの顔を見つめていた。やがて、「わかった。タツをセンターの人たちに見せる」
相沢は次に私の方を向いて、
「橋本もついてきてくれるか?」
「え、私も?」
「最初にタツが弱っていることに気付いたのはお前だ。何かあったとき、橋本の所見が役に立つかもしれない。こいつのためにできることは何でもやりたいんだ」
私はため息をついて頷いた。この状況で首を横に振れる人間がいるなら逆に教えてほしい。
☆
その後、私は相沢と一緒に、センターのスタッフに相談しに言った。
スタッフ達は通常業務とは異なるイレギュラーな対応にどうしていいかわからないというような顔をしていた。ほどなく、犬用ケージを抱えたエリスがやってきて場を取り持つことになった。
エリスは、まずは私たちの話を聞いてそれから大人たちと話すという。ナノマシンを体内に入れていない相沢はエリスと話すことはできない。だから私が代わりに話すしかなかった。
タツが弱っていること、仮に治ったとしてタツがその後どうなるのかを知りたいこと。
とりとめのない話し方になってしまったけれど、要点は伝えられたと思う。
「わかりました。ひとまずこの犬は預かります」
そう言って、エリスはタツをケージに詰め、スタッフ達のもとへと連れて行く。まずは弱っているタツを回復させなければならない。その後、もとの飼い主を探すことになるが、タツにはタグがつけられていなかったため、里家捜しをすることになるだろう。見つかるかどうかは運しだいだ。
最後に私はエリスを呼び止めた。
「エリス、なんとかなるよね」
「ええ、最大限、努力します」
そう言ってエリスは優しく微笑んだ。私もエリスに微笑み返す。
卑怯者とはこういう人間のことを言う。この確認をしたことで、私はただ犬を死なせたわけではないというポーズを取ることができた。
エリスはそんな私の揺らぎを脳活動レベルで感じ取って、
「絵理、この子もきっと最期にはわかってくれます」
私はそこで、相沢の目がかっと見開かれるのを見た。相沢はエリスのもとに駆け寄るとその手からタツの入ったケージをもぎ取った。
「ちょっと、あんた。何やってんの」
「やっぱり駄目だ。お前らは信用できない。こいつは俺が世話する。誰にも渡さない」
ケージの中から、タツの悲痛な鳴き声が響く。その声は激高した相沢の声に反応しているようにも聞こえた。
「みんながタツのためにここまでやってくれたんだよ? それなのに何であんたは――」
「やめろ」
相沢が言った。擦り切れて、もうそれ以上、ぼろになることはできないという人間の声だった。
「俺に同情するな。お前らの同情なんていらない。そんなの、もうたくさんだ」
相沢は震えるタツのことを抱きしめた。大丈夫、お前は一人じゃない。そう言ってタツの頭をなでる。
そのとき私は雷に打たれたような気分になった。
そうか、あの子犬は相沢自身なんだ。
ナノマシンを入れられなかった相沢が誰にも育ててもらえなかったように、タツもこの社会ではもう誰にも育ててもらえない。
もはやこの人間社会を維持する枠組みの中で、あの子犬も、相沢も、同様にその枠の外、その辺縁へと追いやられてしまった。そしてそんな社会を望んだのはほかでもない私たちだ。私と他者で作られていた世界から、他者を永遠に追い出して、人々はエリスと共に生きていく。
あの犬を必要としない社会は、やがて相沢を――相沢だけじゃない、もはや誰のことも必要としなくなるだろう。
「エリス」
「なんでしょう」
「もしあの子犬を助けたいって言ったらどうする?」
そう言って、私はエリスの顔を窺う。
エリスは私に優しく微笑んで、二言三言あたり障りのない言葉をかける。すでに決定した事柄を子供になだめ聞かせるような言葉を見繕う。
私にはエリスを説得することはできない。というより、このまま話していれば私の方がエリスに良いように説き伏せられてしまうのは目に見えている。
けれど、そのときの私はなぜだか機転が利いた。
私は標的を大人たちに定めると、何も知らない子供のふりをして話しかける。
「あの、その子犬、私達で引き取ることはできないんですか?」
「え? 君たちが?」
スタッフの一人が驚いて言った。
「そうです。二人で一緒にこの子を飼うんです。良いアイデアだと思うんですけど……」
男は苦笑いをして言った。
「いや、それは無理だよ。君らはまだ子供なんだし、それに生き物を飼うっていうのはとても大変なんだ。玩具を買ってもらうのとはわけが違うんだよ」
そのとおり、生命は玩具なんかじゃない。だから、その生き死にの話を私はしてるんだよ。
「たしかに大変かもしれない。だからこそ意味があると思うんです」
「というと?」
もう一人のスタッフが眉を顰めて訊いてきた。
ここが正念場だ。私は怯える心に活を入れた。決断したくない、判断を下すことが怖いと叫ぶ心に蹴りを入れる。
「エリスのいない相沢くんにとって、動物を飼うっていうのは他者の存在を感じ取るまたとない機会だと思うんです。私たちにはエリスがいます。でも彼にはいない。そんな彼が、一個の命を育てるという経験は、彼の情緒的な発達、ひいてはこの社会にとっても有用に働くとは思いませんか?」
大人たちはそこで顔を見合わした。彼らはこの提案に飛びつかずにはいられない。
だって彼らは秩序の奴隷だから。私もそうであるように、物事が波風たたずに過ぎ行く兆候を彼らは見逃さずにはいられない。
やがて大人たちは額を寄せあい侃々諤々の論争をし始めた。そこにエリスも加わる。
勝利の感覚がゆっくり私の裡を満たしていく。物事がそうあるべき秩序に収まろうとするのが手に取るようにわかる。
「橋本、お前……」
見ればタツを抱えた相沢が驚いた顔をして私を見つめていた。
「お前じゃない。絵理」
「は?」
「だから、お前じゃなくて絵理って呼んでよ」
「なんで」
「なんでって」
そんなの決まっている。
私は相沢のもとまで真っ直ぐ歩いて行くと、そのすぐに自棄を起こす敵意に満ち満ちた顔をのぞき込む。彼はきっと、自分が永遠に一人きりであると思い込んでいる。彼は、この世界が自分をどうでもよく扱うのは、自分がどうでもいい存在であるからだと思い込んでいる。
そんな彼の思い込みを粉々に打ち砕いたとき、私はきっと最高に楽しい気持ちになる。
「あんたは私と友達になるからよ」
タツがわんと吠えた。いいね、上出来。
文字数:15991