梗 概
スイープ・アウェイ
宇宙飛行士になるのが夢だった。
神木コージは宇宙の深淵に向かってそう呟いた。
そう遠くない未来。軌道エレベーターによる宇宙開発の時代が始まっていた。
コージはエレベーターを走るトラムの設計するエンジニアだった。
その日も業務を終えステーションに引き返そうとしたとき、不審な船が入港するのを見た。戻るとステーションはテロリストに占拠されていた。
驚く間もなく同僚が撃ち殺される。次は自分だと覚悟を決めた時、一人の男がそれを止める。
気を失っていたコージは目を覚ますと拘束されていた。隣には自分を助けた男がいた。男はセムと名乗り自分達のことをユージーンと呼ばれるテログループであると明かす。
塔の上のラプンツェルの泥棒ですよ。知りませんか。王冠を盗み塔に逃げ込んだ男の名前。
テロリストと名乗る割に気さくなセムはコージの拘束を解き自分たちの目的を明かす。
それはステーションを連結するリニアをレールガンに改造し、その一部を地球に落とすことだった。そのためにコージの持つ知識が必要だと言う。
コージはもちろんそんなことはできないと拒否するがセムはそこである設計図を見せる。それはコージが過去に匿名掲示板にふざけて投稿したステーションを質量兵器に改造する方法だった。
セムはそれを見せ「だからあなたを生かしたのです」と言う。また「あなたの兄を尊敬しています」とも付け加えた。
コージには世界的に著名な兄がいた。兄のユーイチは十年前、新素材を発明しエレベーター建設の立役者となった。コージはそんな兄を尊敬していたがロケットによる宇宙開発の時代を終わらせ、夢を奪った人間として複雑な感情を抱いていた。
結局、兄は建設中の事故で死んだが一時期はそんな兄に対しての反発で自棄になっており、そのとき書いたのがその設計図だった。
そのとき日本から通信が入り、コージを介してテログループへの交渉が始まった。
担当官はコージの離婚した妻や子供をダシに醜い交渉を持ちかけてきた。
落胆するコージにセムは言う。
将来、宇宙ビジネスにおいてその利権はエレベーター開発に関わった国や機関が独占する。ISSの開発と同様、協定を結んだ国だけがその恩恵に与る。
それは国際協力という名の欺瞞である。競争化が進む宇宙開発においてその寡占は許されない。自分の出身国のような貧しい国はさらに貧しくなる。だからその流れを止める。
だからテロを起こすのか。
コージは共感を抱きながらもテロは許されないと反対する。
そこでセムはあることを明かす。
コージの書いた設計書には誰かが手を加えていた。アドレスを辿ればそれは兄のユーイチであり弾頭の耐久性に問題のある設計図に新素材のデータを織り込んでいた。それはまるで弟の門出を祝うかのようだったと。
コージは亡き兄の真意に困惑しながらも、そこで初めて兄弟という関係に思いを馳せる。
そしてレールガンのボタンを押す。
宇宙開発の夢が形を変えて地表を一掃した。
文字数:1200
内容に関するアピール
今回、以下の二点に力を入れて梗概を書きました。
・やっぱり自暴自棄、ニヒリズムは楽しい。
・それらを本当に楽しいと思うために舞台設定やキャラクターには現実の自分が共感できる想いや背景を設定する。
自分がこれまで書いてきたものには上記の要素が、かならず入っていると思います。
自分で書いたキャラクターになにか謎の魅力があるなと思ったとき、大抵は作者である自分の気持ちを代弁していたり、複雑な設定や背景を自分語りをするための布石にしていたりと、色々と迂遠なことをしているなと自分ながらに感じています。
これらをうまくやるために、正直ベースの視点を意識したり、インプットにある程度、惜しみなくリソースを割く(とりあえず気になった新書は買う)などが自分の二次的な強み、ひいては武器でなっていると考えています。
今作のタイトルはピンチョンの「スロー・ラーナー」のような素朴な格好良さを目指しました。
文字数:388
スイープ・アウェイ
宇宙飛行士になるのが夢だった。
神木コージは宇宙の深淵に向かってそう呟いた。
彼方の果てまで何もない宇宙。人類はその空間に進出した。
いまコージの足下には複合素材で作られた滑らかな外装タイルが白く輝いていた。静止軌道上を周回するステーションとしては六機目となる軌道開発ステーション「tears3」。その微小デブリを防ぐシールドの上にコージは立っていた。
そしてそこから目線をあげれば、青と茶褐色のまだらに覆われた惑星がコージの頭上に広がっている。
ブルーマーブル、地球。
あの星から自分はやってきた。
この何もない広大無辺な宇宙へと。
人類に残された最後の、そして最大のフロンティア、宇宙。
ただそれは一立方センチメートル辺り数粒のイオン分子しか存在しない真空と、岩とガス状星雲で満たされた無機質な開拓地だ。
人類は飽くなき開拓精神を発揮しそこで多くの発見をした。
火星には液体の水の存在が確認された。
木星の衛星であるエウロパには氷でできた地殻が存在する。
そして系外惑星には地球によく似た環境の惑星が見つかった。
水があるということはそこに生命の痕跡があるかもしれないということだ。その生命は微生物や細菌のような遺伝機構を持ち、自らを複製する機能を持っているのかもしれない。あるいは別の生化学システムを用いて有機物を代謝する術を持っているかもしれない。
なんであれ、それが生きているのであれば世紀の大発見である。史上初の地球外生命体との邂逅。人々はその可能性に快哉の声を上げた。
コージはそこで思う。
――だから何だというのだろうか。
水がある。生命の痕跡がある。それで? そこに何の意味がある?
そこに人間はいない。意思の疎通――ひとつの経験を分かち合い、共に生きていくことができる他者は存在しない。
なら、そこにどんな意味があるのだろう。
コージは首を回し、宇宙の暗黒から頭上の青い星へと視線を移す。
その星にはコージと共に長い時間を過ごした大切な人達がいる。反対にコージとは折り合いつかず対立してしまった人もいる。そして、そのどちらでもないコージの人生とは無関係な多くの人々も――。
そこで暮らしている。
あの青い星の下、それぞれが自由に、あるいは精一杯生きている。
だからこそ。
――意味は無いのだろう。
系外惑星探査プロジェクトが凍結されたときコージはそう結論した。はじめから意味が無いもの。あたかも、そこに意味があるかのように皆が思い込み維持してきたもの。
それがもとの意味の無いものに戻った。
何万光年も離れたどこかに自分たちとは異なる種類の生物がいる。それは必ずこの宇宙のどこかに存在する。その事実がヒトという種の存在を規定する。その規定の感覚に意味がある。あるに違いない。
コージはそう思っていた。
だが違ったのかもしれない。
人類初の火星への有人探査ミッション。コージはその候補生の一人だった。
いずれは冥王星近傍など、何十年も掛けた深宇宙探査ミッションに派遣され、人類の代表として、その闇の奥を探検するはずだった。
いまコージは眼前に広がる闇を見てあらためて思う。
自分はこの闇の果てを探索したかったのだろうか。その誰もいない暗黒をひとり孤独に回遊したかったのだろうか。
方法がないわけではない。
この足を蹴り出せば、コージはその闇に向かうことができた。あちらとこちら、その境界を簡単に越えることができた。
そう、境界だ。
あちらとこちら。
宇宙と地球。
夢と現実。
十年前まではその間にどんな区別も存在しなかった。
そこに境界線は引かれていなかった。
けれど、いまは違う。
頭上を見上げたコージはぐるっと首を回して目をこらす。すると宇宙の闇を背景に薄らと線が引かれているのが確認できる。隔てる物のないはずの宇宙に引かれた境界線。コージはその境界の始まりを目で追った。
一本の不格好な鞘に包まれた糸が、コージの視線の先、tears3の第一接合区画から伸びていた。糸はそのまま青い地球へと吸い込まれるようにして落ちている。まるで天上から垂らされる蜘蛛の糸のように。
しかしこれは糸などではない。
これは超電導磁気浮上式クライマーユニット。
通称、軌道エレベーターと呼ばれるものだ。厳密に言えば、その軌道部にあたるナノマテリアル製ロープ型テザー。全長三万六千キロメートルにも及ぶ、地表と宇宙を繋ぐマテリアルサイエンスの粋を集めた高耐久テザーだ。
コージはそのナノマテリアルテザーで作られたリニアモーター式のレール、およびその姿勢制御装置の保守運用を行う常駐エンジニアだった。
候補生だったとき、宇宙物理学とパワーエレクトロニクスの学位を取得したことがこの仕事に繋がった。宇宙に関係するものならどんなもので貪欲に学び取り込んでいった。まさかそれがこんな形で実を結ぶことになろうとはコージ自身も思いもしなかった。
しかし、今ではそれは色あせて見える。宇宙から見た地球はたしかに荘厳で、息を呑むほどに美しい。しかし今のコージにとって、それは単に綺麗な景色というだけだった。
『こちらリック――』
耳元から響くコール音がコージを現実に引き戻した。
「いま第十三チェックポイントを確認した。結果は問題なし。今日も涙(teardrop)は落ちていないようだぜ」
振り返ると船外活動用のEVAスーツを着たリックがコージのもとにゆっくり向かってくるところだった。地球の重力と遠心力とが釣り合っている静止軌道では見かけ上の重力は存在しない。リックはその無重力のなかを器用にも歩いて渡っている。
「報告にあがっていた電池アレイのダイアグは確認したのか」
コージがそう訊くとリックは問題ないというふうに持っていたロッドを振り上げた。ロッドの先には薄い円盤状のプレートがついている。金属探知機のようなそれはデブリが衝突した穴を探知するためのセンサーだ。
「いちばん最初に確認したさ。自己診断機能なんて当てにならないもんだよ」
リックはそう言ってロッドを肩に担ぐ。コージはそこで疑問に思った。
「おかしいな。宇宙軍のあげたTLEでは微少デブリの一群が確認されてたはずなんだけど」
軌道上にある全物体の座標系をテキスト形式で記録したものを二行軌道要素と言う。かつてはNASAや一部の機関しか測量していなかったデータだったが現在では各国の宇宙関連分野の組織が各々のTLEを公開している。
そのTLEにtears3の周回予測軌道と交差する微少デブリの一群が観測されていた。金属片ほどの微少デブリとはいえ、tears3から見て時速数十キロの相対速度で移動する物体だ。衝突すれば損傷は免れない。
「逸れたんだろう、きっと」
楽観的な調子でリックがそう返した。
「いやあれは確実に衝突コースのはずだった」
「何万キロもある宇宙で衝突が起こるとすれば、それは砂漠で狙った砂粒に狙撃を決めるレベルの確実さだな」
リックはそう言うと無線越しに大きな笑い声をあげた。コージはその無神経さに思わず眉を顰める。が、この皮肉のセンスは嫌いではなかった。
宇宙空間での活動はシビアなものだ。少しの油断や気の緩みがすぐさま死という結果に直結する。ときには肩の力を抜き全体を俯瞰するような視点も必要なのだ。
「お前を一人にしているとずっとあれを見つめてそうだからな」
リックにそう言われて、コージはまたも自分がSMLCを見つめていたことに気付いた。感傷に浸るのもいいかもしれないが船外活動はバディが基本だ。バディとは信頼関係だ。
コージはそこで帰還の準備を始めた。
損傷がないのであればむしろそれは喜ぶべきことだ。
いかにtears3の船体が堅牢だといってもデブリの当たり所によっては対応が必要になる。リスクは少ないに超したことはない。
そのときだった。
コージの視界の端を何かがさっと横切っていった。
「あれ……」
リックもそれに気付いたようだった。視線の先、小型の宇宙艇がtears3の整備用ドックに侵入しようとしていた。
tears3に戻るとコージの予感は的中した。
そこには識別信号を送信しない宇宙艇がドックの外装に無理やり繋船されていた。人が乗り込める最小限の大きさに最低限のスラスター。そして周囲を警戒するようにうろつく古い規格のEVAを着た侵入者達。
一目で剣呑な雰囲気であることがわかる。
「観光に来たわけではなさそうだな」
リックがうわずった声で言った。コージはリックと顔を見合わせ、
「あのEVAスーツの規格、どこの国のものかわかるか」
「わからない。が、かなり古いものだな。現行規格を守っていないのは確実だな」
「中古のEVAか。まとも連中じゃないな」
「ああ、それも確実だ」
コージ達はドック入り口から戻るのを避け、緊急ハッチからステーション内に入った。無線はすでに封鎖されていたため非常用エレベーターを使い通信室まで戻ることにする。
しかし侵入者達の方が上手だった。
エレベーターが開くと同時に数人の男達が飛び出してきたのだ。そこでコージは信じられないものを見た。侵入者達が銃を構えていたのである。
ステーション内部で高速度の飛翔体を打ち出すことの危険さは語らずとも自明である。万が一、打ち出された弾が機内の密閉を破れば、その瞬間このtears3は宇宙に四散することになる。そうでなくともコージ達のいる区画は気圧差で吹き飛ばされる。
つまり銃の所持は侵入者達がどれだけ常軌を逸した手合いであるかを示していた。
彼らはさらにコージの予想を上回る行動に出る。前方にいた一人が何の躊躇もなくリックに銃口を向け、そのトリガーを引き絞ったのだ。おそらく炸薬を用いない激発機構を持つコイルガン。
次の瞬間、何かが潰れる音がして飛沫がコージの顔に張り付いた。
人間というのは意外にも簡単に失神する。血の気が引き、コージは自分の視界が足下に向かって崩れ落ちていくのを感じた。意識を失う直前、コージの耳に「やめろ! 殺すな!」という声が残響のように響いていた。
次に目を開けたとき、コージは医務室のベッドの上に横たわっていた。ただし手と足には錠が掛けられている。死を覚悟したはずの自分が生き延びていることにコージは不思議な感覚がした。
「目が覚めましたか」
振り向くと、そこに長髪を流した男が座っていた。輪郭のはっきりした中東アラブ圏
出身の顔立ちをしており、目は静かな威厳を湛えている。
tears3の微重力環境で男の長髪がふわりと浮かぶ。コージはそこで思い出す。意識を失う寸前、自分に銃を向ける男達を制止したのは彼だった。
「神木コージさんですね。私はセムと言います」
セムと名乗った男は「よろしく」とコージに握手を求めてきた。
「なぜぼくの名前を」
コージの問いにセムは黙ってコージの胸元を指差した。コージの胸元にはID証がピンで留められていた。それを確認したのだ。
「気になることもあるでしょうが、まずは謝罪の言葉を言わせてください。ご友人は残念でした。我々にそのつもりはなかった」
そう言って、セムは深々と頭を下げる。
「……」
真っ先に湧いた感情は怒りとも戸惑いともつかない感情だった。もしかしたら本当はなにも感じてなかったのかもしれない。ただ、このセムという男に対する強烈な違和感だけがコージの頭を揺さぶっていた。
「あんたはいったい何者なんだ?」
コージの質問にもセムは答えなかった。ただ顎をしゃくって「その話は歩きながらしましょう」と言った。セムはコージの足に掛けられた錠を外した。促されるままコージはセムに連れられ医務室の外に出た。
わからないことはたくさんある。
彼はテロリストなのか。どうしてtears3を襲ったのか。なぜ自分は殺されていないのか。
医務室を抜けると船内のモジュール同士を繋ぐノードにロープで縛られた船員達が転がされていた。両脇には迷彩服に身を包んだ屈強な男達が立っている。表情のない男達の顔には無数のあばたや切り傷が刻まれていた。
コージは一目見て彼らには交渉も説得も通用しないと直感する。
彼らの着ている迷彩のカモフラージュは宇宙空間では全く意味を成さない。それは彼らが論理や思考を超越した存在――ある種の狂気に裏打ちされた存在であることを示していた。
「質問にお答えしましょう」
窒息しそうなプレッシャーの中、セムがそう切り出した。
「我々は〈ユージーン〉です」
「ユージーン?」
「ラプンツェルの泥棒ですよ。知りませんか? 王冠を盗み塔に逃げ込んだ男の名前」
そう言うと、セムは屈託のない表情で笑った。
西欧圏の人間はSMLCを塔に例えることが多い。中には創世記のバベルの塔に例える輩もいる。しかしSMLCの塔ではない。構造的にはスカイフックに近いものだ。つまり天から垂らされた釣り糸である。
しかしそんなことはどうでもいいことだった。このセムという男はやはりどこかおかしい。正確に言えば、ズレている。
いまこのtears3は暴力と恐怖の坩堝となっている。男達は見た目どおりの粗暴さでステーションを制圧した。船員達のなかには腕を折られた者もいる。彼らにとって血と暴力は生活の一部なのだ。
しかしそんなアウトロー達の中でこのセムという男の持つ軽やかさは全くと言っていいほど不釣り合いなものだった。この男には銃の鉄臭さや血の臭いの放つ生々しさがない。彼だけがピントのズレた被写体のように浮いている。
「これはテロなのか」
思わずコージはそう呟いていた。セムはそんなコージの質問にも律儀に答える。
「ええ、そうです。言ってよければ、人工衛星を対象にした史上初のスペース・テロリズムですよ」
「スペース・テロリズム……」
セムは笑って肯いた。
「テクノロジーはいつだって人の新たな可能性を切り開いてきました。一九五七年にソ連が打ち上げたロケットは世界に情報革命をもたらした。それと同じ原理のものがいままさに進行中なのですよ」
そう言ってセムは持っていたライフルを担ぐと、そのまま観測用のキューポラの前に近づき高密度ガラスの表面をこんこんと叩く。
「あなたも見てみますか。あそこに何億という人々の生活がある」
「宇宙船をハイジャックしたところで意味なんかない」
コージは冷静に指摘した。
「意味ですか。どうしてそう思う?」
セムがそう言って目を細めた。コージは少しの間、目を伏せ押し黙った。考えをまとめるためもあったが、テロリスト相手に威勢よく啖呵を切った自分に驚いていたというのが正しい。
「人は自分たちが脅かされる状況があって初めてそれを危機だと認識する。都市のど真ん中に飛行機が落ちてきたり、地下鉄のなかにガスがまかれてから、ようやくそれを自分事だと思う。何万キロも離れた宇宙の出来事なんてみんな他人事さ」
「たしかにそうかもしれませんね」セムはそこで「しかし」と付け加えた。
「我々がここに来たのはそれらが他人事ではないと人々に知らしめるためです」
「どういうことだ」
コージを含め、拘束されている他の船員達も驚きに顔をあげていた。
「我々の要求は一つ。静止軌道を含むあらゆる軌道上の権利を領空と同じく、その直下にある国々に明け渡すこと」
tears3やそのほか人工衛星は地球の自転と同じ周期で軌跡上を飛んでいる。その軌道の中でも赤道上空に位置する軌道のことを静止軌道と呼ぶ。
宇宙空間の利用は一九六七年に施行された宇宙条約において『いかなる手段によっても国の占有の対象とならない』と定められていた。つまり、いかなる国がその権利を主張できない以上、開発や介入も同様に認められない。
ただし国際協力という名の建前を除いて。
「現在、宇宙開発の権益は国際協力という建前のもと一部の先進国と多国籍企業による寡占状態にあります。グローバリゼーションと言えば聞こえは良いですが、ようは間接的な搾取の一形態に過ぎない。我々はそんな偽りの自由からこの宇宙を解放する。そして我々の要求が受け入れられない場合、このtears3を質量兵器として地球に落下させます」
コージは耳を疑った。
tears3を落とす?
地球に?
「そうすれば他人事じゃなくなるでしょうか。あの星に住む人間達も」
はるか上空を見つめる巨大な目があった。
ビーム走査式フェーズドアレイレーダー。
宇宙に浮かぶ静止衛星が地表を絶えず見下ろすように地表もまたその闇を電子の瞳で見つめている。いまその瞳が南米サンタローザ湾直上に浮かぶtears3に向けられていた。
レーダーによる電波探知では対象物の速度と距離が測定できる。いまtears3に向けられた数万素子ものアンテナは整備ドックに侵入した小型艇を過たず捉えていた。
そして非常準備態勢を告げる信号がアメリカ宇宙軍からtears3へと送られる。
「tears3を地球に落とすだって……」
警戒コールの鳴り響く中、コージは目の前の男が言ったことを信じられないでいた。
「正確に言えば、tears3の一部をですがね」
セムはそこで「失礼」と断ると男達の方を向いて何事か指示を出す。聞きなれない言語だったが、セムの手足となった男達は制御パネルに取り付き、船内に響き渡る警報を停止させた。
「宇宙軍がようやくtears3の占拠に気付いたようですね。想定よりもだいぶ遅い。危機感の欠如と言うほかない」
コージはその言語に聞き覚えがあった。クルーが以前、似たような音韻の言葉を用いていたのだ。それは北アフリカのベルベル語、クシュ語系の響きだった。
「あんたはアフリカ出身なのか。てっきりアラブ圏の生まれなのかと」
セムがすっと目を細めた。一瞬その表情に険しいものが浮かぶ。
「よくわかりましたね。しかし、そんなことはどうでもいいことです。我々は宇宙開発プロジェクトの恩恵を受けられない国々の出身、その一点のみで思想を共有しています。それ以外は些細なことですよ」
そう言ってセムは制御ルームの外を指差す。
「神木コージさん、あなたに話したいことがあります」
セムの手には拳銃が握られていた。つまりはこの場においてコージに拒否権はないということだ。
貨物のあいだでコージはセムと向かい合った。両手を上げたコージを、セムが腰だめに構えた拳銃で狙っているという構図だ。
「我々ユージーンはあなたに協力してほしいと考えています」
「銃を突きつけられれば、誰だって言うことをきくと僕は考えるよ」
それを聞いてセムが笑い声を上げた。
「この状況で皮肉を言える精神性は大したものですが……。その頭の回転の速さなら協力を拒めばどうなるかもわかっているはずです」
セムはそう言うと指で拳銃の撃鉄を起こした。カチッという小気味良い音を立てて、黒い鉄の塊がいつでも人を殺せるようになる。
「試しに足でも撃ちましょうか」
地面が小刻みに震えはじめた。コージは最初そう思っていた。しかしそれは自分の足の震えだった。コージは考える。痛みはおそらく自分から容赦なく意思の力を奪い去るだろう。しかし問題はそこではない。問題は、それが技術的に可能かどうかだ。
「協力するしない以前にこのtears3を落とすことは不可能だ」
説明してくれますか、セムは楽しむように言った。
コージは握った拳で必死に震えを押さえ込むと、
「推力が、ない」
「推力?」
コージは肯いて、
「窓の外を見たならわかるはずだ。このtears3はあんたが構えている拳銃の弾丸よりずっと速い。静止軌道を周回するステーションを落とすには相応の推進力が必要になる」
「ではそれを与えてやればいい」
「無理だ。重さ千トンにも達するtears3を減速させるだけの推進剤はこの船にはない。そもそも十トンの重さを落とすのに十倍の燃料が必要になる計算なんだ。あんた達はそれを持ってきたのか」
「しかし、あなたはただのエンジニアではない。何か方法があるはずです」
その言葉にコージは戸惑いを隠せない。いったい何を言い始めるんだこの男は。そんな思いがコージの脳内を埋め尽くす。
「僕はただのエンジニアだよ。企業に雇われているしがない契約社員の一人だ」
「そうでしょうか。SMLCの根幹となるリニアの原理を理解するにはパワーエレクトロニクスと宇宙物理学双方の知識が必要です。それもかなり高度なレベルで。当然SMLCの保守を任されたあなたにはそれを理解することができる。いわばプロフェッショナルだ」
コージにはもうついていけなかった。
「あんたの言うとおり、僕はSMLCのエンジニアだ。だから秒速八キロで飛行する人工衛星のことなんてわかるわけがない」
勢い余って声を荒げた瞬間、セムの構えた銃口が過たずコージの眉間を捉えた。
「ひっ……」
コージは思わず悲鳴を上げた。脳裏に死んだリックの顔が浮かぶ。
――わからない。
――いち民間人になぜそんなことを話す?
――なぜ僕を殺さない?
――なぜ僕なんだ?
疑念の中にあって意識だけが遠のいていくような瞬間がある。
「まだわからないのですか……」
ため息をつき、セムが観測窓の外を指し示した。
「推力ならあります――」
そこには太陽に向かって花開く巨大な帆があった。
太陽電池アレイ。
コージは目を見開いた。SMLCの電力の大部分はあそこで発電されている。
「帯電させたSMLCのテザーを誘導路にしてtears3に推進力を与える。そのまま周回速度を振り切るかたちで加速させます。そうすれば推進剤を使わずともスペースクラフトに推進力を与えられる」
帯電させたテザーを誘導路にするということは、つまりテザーの作る電界でモジュールに電磁力を与えるということだ。静止軌道上では地磁気は概ね周回軌道と直交方向にある。電界中では落下方向にローレンツ力が加わる。
つまり――。
「レールガン」
セムは鷹揚に肯いた。
「理解が速くて助かります。今の段階であればSMLCへの電力供給も止められることはないでしょう。莫大な費用を掛けて建設したステーションをデブリにする覚悟はNASAや宇宙軍の連中にはない」
「だが、そんなこと――」
SMLCの駆動力はローレンツ力ではなくリニアモーターによる引力と斥力だ。そう言いかけたコージの脳裏にふと過るものがあった。
「そう、あなたならできるはずです」
セムはそう言うと懐からタブレットを取り出す。
「これを見てください」
タブレットには何かの図面のようなものが映し出されていた。
製図ソフトで書き起こされた構造物の青図面。構造物は宇宙空間に存在するのか、軌道予測が書き込まれている。その図面の著者名を見てコージは目を見開いた。
『author:神木コージ』
「これは十年ほど前、あるSNSに匿名で投稿されたものです。インターネットの自由がまだ守られていた時代。そしてSMLCが軌道エレベーターと呼ばれていた頃の時代。どこかの技術者が面白半分に書いたのでしょうね。タイトルは『リニアモーター式クライマー昇降装置を一億J出力相当のレールガンに転用する方法』――」
コージの背中を恐怖とはまた違った感情が駆け抜けていった。その数式の変数一つにいたるまでコージははっきりと思い出すことができる。
自分はこれを知っている。
「所々、技術者としての私的な感情も見受けられますが内容は至って実践的です。時代が時代ならCIAに目をつけられていたでしょう」
セムの確信に満ちた眼差しがコージを貫く。
彼は初めから、わかっていたのだ。
「だからあなたを生かしたのです」
過去が長い時を経て、自らの背中を撃ち抜くということが人生には起こりうる。そして今回、コージを狙った弾丸は全人類にもその標準を合わせていた。
In-Orbit Serviceという言葉がある。
地球の重力と釣り合う静止軌道において、デブリの除去や衛星修理を行うサービス事業のことだ。一度打ち上げたら最後、修理することは不可能――半世紀前まではそれが宇宙開発の常識だった。
当時、誘導装置と姿勢制御技術の向上により再利用ロケットによる宇宙開発が進んでいた。低コストで打ち上げ可能な無人ロケットは人命リスクもなければ最小のコストでペイロードを軌道投入できる。
しかし結局のところ、地球の重力を振り切るためにロケットには莫大な燃料とほんの僅かなペイロードしか載せられない効率の悪さは変わらなかった。
しかし、それも過去の話だ。
SMLCの登場が全てを変えた。
カーボンナノチューブを応用して開発された新素材が軌道エレベーターの開発を推し進めた。宇宙を開拓するにはどこかでブレイクスルーを達成する必要がある。たとえそれが未熟な技術であっても可能性がある限り人類はそこに掛金をベットするしかない。
法整備も国際規格の世界的コンセンサスもない。
プラットフォームとしてまだ開発途上のSMLCでは、開発の主眼となっている無重力環境での実験プラント建設も希少金属の採掘プロジェクトもいまだ収益の見込みはたっていない。
それが実態を伴わないサービスという言葉の下で推し進められている状況をコージは当事者として苦い気持ちで見ていた。
そして当事者という意味ではうってつけの人物がもう一人いる。
兄の神木ユーイチ。工学博士。専門はナノマテリアル物性。CNTをはじめとした新素材研究の第一人者。
ユーイチが発明した新素材はこれまで難題とされた軌道エレベーターの耐久性をクリアし、その基礎を築いた。しかし結果として兄の作った世界はコージから宇宙飛行士という夢を奪い去った。宇宙開発の全プロジェクトはいまや静止軌道開発に注がれている。
誰も未発見の星系や系外惑星の探査などに興味はなかった。
そして兄もまたその新しい世界を見ることはなかった。SMLC建設途中の事故でユーイチはこの世を去ったのだ。
英雄としての死だった。
「あなたの兄を尊敬しています。神木ユーイチ、宇宙開発事業に携わる人間なら彼の名を知らない者はいない」
耳元のヘッドセットからセムの声が聞こえてくる。口調は甘く、それだけでセムが宇宙開発の英雄に心酔していることがわかった。
いま、コージは電波暗室の防音ガラス越しにセムと向かい合っている。四方を棘のように突き出した吸音材に囲まれてコージはマイクの前に立った。
接続先はNASAだった。
「こちらNASAのサットコムです。tears3、どうぞ」
先ほど低軌道の全周波数帯にNASAを通じて国家テロ対策センターからメッセージが届いたのだ。内容はテログループの要求確認と人質の安全保証。
早い話、人質交渉である。
コージはそこでtears3の技術顧問として、テロリストの要求を技術的に翻訳し、NASAに伝える代理人として選ばれた。すでに交渉は始まっていた。セム達は事前に静止衛星を乗っ取る旨を第三国へとリークしていたのだ。
「tears3、応答をどうぞ――」
サットコムが通信越しに急かしてきた。
コージは緊張してうまく息ができなかった。この遣り取りは全世界に聞かれている。そう思うと四肢までもが鉛のように重たくなってきた。
そこで唐突にセムがマイクを切り替えた。
「こちらtears3。我々の交渉担当に替わる。要求は彼の口から伝える」
そう言ってセムがこちらを見た。その顔からは先程までの面白がるような笑みは消えている。あるのは信頼を託すに足る仲間を見る目。バディを見る視線だった。
騙されているとわかっていてもコージはそこに安堵にも似た思いを感じ始めていた。
その先はコージにとって未知の世界だった。
宇宙開発の権益、そして国防とテロ。その間で歪に揺らいだ利権という名の天秤がコージには政治的錯綜という形ではっきりと見て取れた。
驚くべきは交渉中、宇宙軍がコージのかつてのパートナーを連れてきたことだ。パートナーと別れた原因はコージ自身にある。宇宙開発の仕事で家を不在にしがちだったことがその理由だ。
ミッションから帰ったとき、机に置かれていた書類には埃が積もっていた。やり直すチャンスすら与えられなかった。その彼女がモニタに現れたときは流石のコージも我が目を疑った。
彼女は言った。
あなたと別れたのは本意じゃない。説明の時間がなかっただけ。いまでもあなたのことを愛していると。
――じゃあ、なぜ僕の前から姿を消したのか。
――僕のことを愛した結果がそれだったのか。
結局のところコージは交渉のプロではない。
NASAは交渉にインターバルを設けていた。次の交渉は半日後。しかしその間もレールガンの建設は着実に進められていた。
コージもその建設に手を貸さざるを得なかった。それが人質解放の条件でありNASAの意向でもあったからだ。NASAは彼らの条件の一部を呑んだ。tears3では秘密裏に査察があった。人質にはVIPが含まれていた。
セム達はそのタイミングを狙ったのだ。
NASAから提供された情報をもとに建設はつつがなく進められた。コージはこれまでの技術者人生の中でかつてないほどの高揚を味わっていた。皮肉にも世界を破壊するための兵器作りがコージにその才能を活躍させる機会を与えていた。
そして気付けば次の交渉まで残り一時間。
「気持ちはわかります」
控え室に入ったコージにセムがそう声を掛ける。セムは手に持った水の封を開けコージに差し出す。疲れ切っていたコージは無心でそれを受け取った。
「隣人を愛するより人類を愛する方がたやすいとはドストエフスキーが言った言葉ですが、もはや我々は人類全体を愛することすらままならない」
「何が言いたいのか、僕にはわからない」
「この世界は醜く、身勝手であるということですよ」
コージはそこでようやく顔を上げた。
「僕はそうは思わない」
「言い方を変えましょう。あなたはいまこう思っている。果たして自分達が築いてきたこの世界は、この宇宙開発は正しいものだったのだろうかと」
「……」
コージは答えなかった。少なからず似た思いを抱いていることは否めなかった。
「それでも無差別に人を殺していいとは思わない」
「無差別ではありませんよ」
セムが唐突に言った。
「どういうことだ」
コージは思わず聞き返す。今までそんな話は聞いていない。
「標的を選べない兵器に戦略的優位性はないということです」
「弾頭はSMLCのテザー上しか移動できない。tears3の一部はすでにレール上に配置済みだ。標的なんて選べるわけがない」
コージはそう反論した。
――そうなのだ、このレールガンは標的を選べない。
そこが最大の問題だった。同時にコージがレールガン建造に手を貸した理由でもある。
いくら千トン近いtears3を落としたとしても、海の上に落とすのならその衝突エネルギーはたかがしれている――というより、ほとんど吸収される。
確かに海上のアースポートは破壊されるだろう。しかしアースポートが破壊されたからといって被害の多寡はそこまででもない。アースポート周辺には無人区画が敷かれている。
セムは言った。
「ブラジル領海内に建設されたアースポートから十キロの沖合に核廃棄燃料を積んだ四隻の船を同志達が配置しています。計算ではトラムが地表に激突した衝撃でポートを中心とした半径五キロに最大高度六メートルの津波が発生します。それだけあれば東海岸を汚染させるには十分でしょう」
コージは戦慄した。
たとえtears3を落としたとしても威力としては小型の核爆弾にすら届かない。それがセム達の目論見を現実的でないとコージがみなしていた理由だ。しかし津波による無差別核汚染という可能性を考えたときその想定は覆される。
「これがその被害予想図です」
そう言ってセムはタブレットを見せた。そこにはスケールごとに色分けされた同心円状の予測図が示されている。
コージはその予測図を見て、驚きとは別の感情を抱いた。
この図はどこかおかしい。
――直感だった。
アメリカの首都が射程内に入っている。それはもちろん驚くべきことだ。しかしテロである以上その驚きは織り込み済みのことである。だからその直感にはそれ以上の何かがあるはずだった。
コージはその違和感を言語化できない。
その時だった。
凄まじい揺れと共に船内に警報が響き渡る。
「こちらに向かってくるデブリの一群を確認。衝突コースです」
船内の放送がそう告げる。
「デブリだって、そんな急に――」
ちょうど半日前コージ達はデブリがないことを確認していた。ありえないはずだった。
「それが本当にデブリであれば、ありえないでしょうね」
含みのあるセムの物言いにコージはその後を追いかける。デッキではすでに複数の男達が対応に回っていた。
「アメリカという国がどういう国か、ご覧になるといい」
セムはそう言ってモニタを手で示す。
「デブリに偽装した衛星兵器群です。かつて冷戦時代下にレーガン政権によって構想された宇宙の平和を守る兵器というわけですよ」
「ここにはまだ人質が――」
「国家の安全保障という言葉と人命という言葉。ある種の状況ではそれらは見事に拮抗する。この場合テロによりコントロールを失った人工衛星の事故という物語が何も知らない人々の心を慰撫するでしょう」
セムが冷たく言い放った直後、衝撃がデッキを襲った。軌道上の物体との衝突を避けるために衝突回避システムが作動したのだ。船内に重力の乱れが発生する。tears3がデブリを回避するためにテザー上を動くことによって生じた慣性力だった。
揺れるデッキの中でtears3のシステムが被害状況を凄まじい勢いで計上し始めた。
コージはそこで先の違和感の正体に気付く。
「このレールガンの射程にアフリカ大陸は含まれていない」
「いきなり何を」
「この被害予測は小さすぎる」
地球全土を巻き込んだテロと謳っておきながらレールガンの出力は明らかに調節されていた。ヨーロッパ大陸も射程内に収められるはずの出力がこの予測ではアメリカ東海岸だけに絞られている。何より北アフリカへの被害を最小限にするよう手を加えた痕跡がある。
「……」
「あんたは意図的に自分の国を射程内から外したんだ」
「なぜそう思ったのですか」
「あくまで推測だ。ベルベル語を話すのは北アフリカではモロッコと西サハラ、それとカナリア諸島の一部だけだ。この被害予測はそれらの国をちょうど避けるようにして威力を調節されている」
「それは推測ではなく憶測と言います」
「どっちだっていい。あんたは嘘を言っていたんだ」
「嘘ではありません」
セムが手を広げて言った。
「あなたの言うとおり私は北アフリカのラスパルマスで生まれ育った。豊かな国でした。しかし外資にキャッシュを渡すため、常に観光資源を巡って争いが行われていた。そのシステムを変えようとすることの何がいけないのです。我々の同志は皆そのような志の下ここまでやってきた」
「違う。皆じゃない。あんたと一部のお仲間だけだ」
リックを撃ち抜いた男は自分をソマリア出身だと明かした。男はコージに言った。自分はこのテロで死ぬつもりだと。自らの国の貧しさが救われた後は死をもって償うとコージに泣きながらそう伝えた。実際、彼は真っ先に宇宙放射線が飛び交うに危険区域に飛び込んでいった。
それは目の前の男が決してやらなかったことだ。
「あんたのやってることは見せ掛けだ。あんたが打ち壊そうとしている連中と同じ欺瞞でしかない」
「……」
二人の間に沈黙が降りる。
デッキには警報と男達の怒号だけが響き渡っている。それもいずれ宇宙の静寂の中に消えていく。
「いいでしょう」
セムは諦めたように嘯いた。
「あなたには一つ言っておかなければならないことがある」
コージは黙っていた。
「図面には手が加えられていました。誰だと思います?」
挑発するような声音でセムが言う。
「ログを追跡した結果、その記述はあなたの兄、神木ユーイチのものでした」
「なんだって……」
兄のユーイチがレールガンの図面に手を加えていた。
「内容はナノマテリアルを用いた強度計算の補正」
「いったい、何のためにそんなことを」
「それは今のあなたを見れば明らかだ。あなたの兄はあなたのその怒りをコントロールしようとした」
「――違う」
コージの口から独りでに言葉が漏れる。あらためて図面を読み込む。確かにナノマテリアル技術に精通していなければこの強度計算はできない。
だがそれは弟である自分のことを止めるためのものではない。
これは――。
そのとき一際大きい揺れと共にメインデッキの隔壁に突如として亀裂が走った。
コージはその一瞬で判断を下した。レールガンのもとへと走り出す。
「何をするつもりです」
セムの激した声にもコージは振り返らず走る。追いすがるようなセムの声がコージの背中を叩く。
「あなただって無関係ではないのですよ。この件に関して日本にも責任が生じます」
「SMLCによる損害は建設国が請け負うことになっているんじゃなかったのか」
遮蔽物に隠れながらコージは声を張り上げた。
「それはあくまで自国が被った被害に対してです」
コージはどういうことだと聞き返す。
「SMLC脱落による地表の損壊、そのほか海洋に落下した瓦礫や汚染物質の除去は建設された国にその責任があるとされます。しかし、それはSMLCがどこに帰属するかという話です。他国のスペースクラフトによって損害を被った第三国への賠償においては全く異なる法が適用される。それは宇宙損害責任条約にも明記されている」
「賠償責任は」
「国際宇宙基地協力協定により宇宙物体によって引き起こされた損害は打ち上げ国がその賠償責任を負うこととなっています」
打ち上げ国――。
コージの中でtears3の第一モジュール打ち上げ日の記憶が甦る。日本発のステーションに国中が湧いていた。
「そうです。日本はこのtears3建造の中核国です。そもそもナノマテリアルの開発は日本がその技術特許を持っている。アメリカ沖を核汚染させた賠償責任は日本にも問われる。レールガンを発射すれば、あなたは自国を破滅させることになるのですよ」
そしてセムが一際大きな声で笑う。
コージが突きつけたジレンマがコージ自身にも向けられていた。
コージは不思議な感覚に陥っていた。
兄が自分の図面に手を加えていた。
宇宙飛行士の夢が絶たれてからコージは兄と連絡を断っていた。
あの事故が起こる前から兄弟としての関係は終わっていたも同然だった。
その兄が、自分の作り上げた図面に言葉を遺していた。
そのとき何かを爆破したような轟音が響く。
「別働隊がトラムの一部を破壊しました。いま発射したところで大気圏で燃え尽きるのが限度ですよ」
無線機を握ったセムが勝ち誇ったように言う。
「それは――」
コージは再び図面に目を落とす。耐久性に難があり諦めていた箇所に兄のコメントが追記されていた。コージはそこにある言葉を見つける。コージが困っているとき、兄がよく掛けてくれた言葉だった。
『やってみなくちゃわからない』
兄の作った新素材は高耐久、熱伝導性に優れた素材だ。
テロリスト風情の考える限界など当てはまるわけがない。
コージはセムの制止を振り切ってブレーカーを一気に落とす。その瞬間レールガンにtears3の全電力が供給された。
わかったことがある。
宇宙に境界なんて必要ない。
あちらとこちらを区別する。そんな堅苦しい尺度を生み出す象徴はこの宇宙には不要だ。
おそらく兄のユーイチもそう思っていたはずだ。だからこの設計図に手を加えた。
出力最大でトラムを打ち出せばSMLCは崩壊する。そのとき放出される電磁パルスとデブリは世界インフラを支える低軌道衛生をも巻き込んでいくだろう。
コージの視界の下、加速したクライマーがSMLCを破壊しながら落ちていく。そして小さな波紋が青い星の表面に落とされた。
コージの前には隔てるもののない宇宙が広がっていた。
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