黒い布

印刷

黒い布

ふたつの掌の上に一枚の薄い生地が広がっている。白い袖との対照で余計に色濃く見える。不思議なことに、両手を左右に動かしてみると生地の形は変わるが、肌触りというのを感じられない─それも当然で、なぜなら実際触れてないからである。開発計画が定めた目標どおり、生地は常に外界の音源に反応して振動する機能を備えているのだ。たとえ手のさすり程度の振動でもきちんと作動し、肌の触れるところから数ミリほど浮くことになる。その性能を感じる一番の方法はやはり広げて頭に被ってみることだ。そうすると

─────シ──────ン──────────パク、パク、パク──────

心臓の鼓動しか聞こえない静まり返った空間をじきに体験できるのだ。

今世紀前半から始まった新世代防音材料の開発は今やっと実を結んだ。繊維に含まれるべき圧電体の割合を確定するだけでまる12年がかかった。そのほかにも、百項目を超える性能テストや工場とのすり合わせなど、思い返すだけで目眩がしそうなぐらい多くの仕事をこなした成果が研究主任の手にあるこの一枚の黒い布である。

市販の防音シート、マット、ボードといったものは性能面において多少改善されたとはいえ、半世紀前とほとんど変わらない。つまり、壁いっぱい貼っても、隣の家のわちゃわちゃを聞こえなくすることはできるが遠くに進行している電車によって窓ガラスがガタガタ震えるのを防げられない、あるいは逆に、やっと夜中の冷蔵庫の急な稼働音に邪魔されることなく眠りにつけると思ったら朝の蝉ミンミンに起こされてしまう…これら全ての場面に起こりうる騒音に対応できるのが今回の発明である。この時点で赤字すれすれ状態のラボをどこかの大企業に売却しても十分に科学史に名を残せたが、主任はそうしなかった。

フィードバックのない発明はただの自己満足。先代主任がいつも口にしている言葉だ。

ありがとうございます。もう電車の中でおっさんのいびきでイライラすることはありません。と女子高生からの感謝メール。助かりました。これから園児たちが近隣の皆さんに迷惑かけることなく存分に遊ぶことができました。とミルクの香りが漂う手紙。家は裕福ではないので塾に行けないですかどこでも勉強できるようになったので志望校に受かりました。あなたたちは貧困家庭の味方です!とECサイトのレビュー欄コメント。

三ヶ月も経たないうちに、発注書はあちこちから飛んできて、見学申請のスケジュールは二週間後まで埋まった。そもそも、今回の発明のきっかけは先代主任の知人だったある粉体工場の親方の一言だ。機械が24時間回っても近隣トラブルにならないような魔法の防音材を作ってくれないかと冗談半分で言って、小切手を切った。あれから20年、先代主任も親方もあの世へと旅立ったが、研究はなんとか続いだ。布の発明は自己満足ではありません、お二人の想像以上にたくさんの方のお役に立ちましたよ。先代の墓前で主任は呟いた。

墓参りの翌日、思わぬ動画が流れてきた。一本のショート動画である。近頃の世直し系配信主とかいう若い男はテンポ早く黒い布についてイチ、ニ、サンと問題点を列挙した。曰く、繊維に織り込まれる圧電体は電気漏れするかもしれないぞ気をつけましょう。問う、布の向こうに虐待といじめがあったらどうしますか。物申す、自分さえよければいいって社会はどうなんだ。

こんな素晴らしい発明に文句なんて、配信者さんは言いたいことさえ言えればいいのですか。布のお陰で自分の不眠症は治り、同じく眠れない知人に勧めたら顔色がみるみるうちに明るくなりました。ところで配信者さんってご友人いらっしゃるのかしら。こいついっつも配信してるな一人で時間を過ごす楽しさわからないじゃない。

みんなでラボを応援しよう。と評価順に並べたらコメント欄の一番上に表示されている言葉。

駅から降りたらいつもとは違う出勤風景。郊外なので普通より広い歩道に黒い布で張られるテントがちらほらと見かける。ただの黒色のテントもあればステッカーがびっしりと貼られるのもある。電話が鳴った。ラボの番号なので出ようと思ったら、一枚のテントが主任のほうへと向かってきた。テントの表面は朝風にあおられてゆらめいているが、音はしなかった。

一人と一枚のテントがお互いの目の前で立ち尽くしたまま時間が過ぎた。いつの間にか主任の電話も鳴らなくなり、心臓の鼓動のような音だけが聞こえた不思議な空間─まるで布の中にいるようだ。

文字数:1827

内容に関するアピール

僕たちは日頃すでに過剰な性能を持つデバイスに囲まれてる暮らしをしている。そういった性能があるのは、それを求める人の欲望があるということでもある。しかも面白いことに、欲望というのは技術が世を問うあとにフィードバックの形として現れることだ。このプロセスを書かないとSF小説として弱いと考えたので書いてみました。どんな役に立つ技術も人間の厄介な欲望を惹起するものだという考えです。面白く読んで頂ければと思います。

文字数:203

課題提出者一覧