アリエノ・アマンテ
そいつは自分自身を宇宙人だと言った。
クーミラの口を使って。クーミラとは違う艶やかな声で。
笑えるじゃないか。宇宙人なんだそうだ。クーミラの姿なのに。
「最悪だ」
ソトはつぶやきながら、周りの岩や石を撫でまわした。
これまでだってずっとろくなものじゃなかった。長男だったソトは、両親に売られ、この鉱山で何年も働かされ続けてきた。つらく、危険で、常に空腹だった。
しかし、今はそれどころではなく最悪そのものだった。
落盤に巻き込まれたのだ。
崩れた岩と石、梁や柱の役目をする坑木の隙間にたまたまできた空間に、ソトとクーミラは取り残された。岩に潰されずに助かったとも言えるが、閉じ込められてしまったともいえる。
隙間は、座ることができるかできないか程度の高さしかなものの、人一人横になるくらいならできた。クーミラに覆いかぶさられていたソトは彼女を地面側に移すと、体重をかけないように手足で自分の体を支えていた。
そして崩落の余波が収まるのを、まんじりともせずに待っていた。
もともとここは粗末な手掘りの鉱山で、坑道の先頭を除けばほとんど人力で掘削している所である。小さな落盤ならそれほど珍しいものではなかった。
しかし自分が巻き込まれてしまえば、珍しくない、などと言ってはいられなかった。それに落盤そのものもかなり大きいように思えたし、直前に爆発音や空気が押し流される感じがあった。坑道のどこかで発破を誤ったのだとソトには思えた。
「崩れたのはここだけじゃないかもしれねえな」
もし落盤したのがここだけだったら、もしかしたら坑道の復旧ついでに自分たちも助けてもらえるかもしれない。しかし、そうでないのなら坑夫頭やグーフェンたちはしばらく様子を見るだろう。少なくとも、自分たち子供二人を助けるためだけに動いたりすることなどはない。
だから、きっと遠からずこのまま死ぬことになる。暑さが増して意識がなくなるか、岩がさらに崩れてくるか、酸素が足りなくなるか、それらの違いはあるだろう。ただ僅かに空気の流れを感じるのがいくらか救いではあった。
クーミラに目につくような怪我はなかった。けれど彼女は、落盤が起きてから今まで、目を閉じたままなんの反応も見せなかった。ただ、息をしているのだけは感じられた。しかしこの狭い隙間のなかでは、それくらいしかわからなかった。
クーミラは近くの村から飯炊の仕事に来ている女の娘だ。年は十をいくつか超えるほどで、ソトとほとんど変わらないはずだ。彼女のように親に連れられて働きに来ている娘はこの鉱山で何十人もいて、たいていは鉱山の外で石を洗ったりなんだかわからない薬をかけたりする仕事をしている。しかしクーミラは子供にしては体が大きく力が強そうに見えたせいか、坑道で石を運ぶ仕事をさせられていた。だから坑内で雑用をするソトも、彼女のことは見知ってはいた。
か細いヘッドライトの灯の中にはいま、崩れた岩と坑木、そして横たわるクーミラだけが見える。
もう長い間こうしている。一時間くらい経ったような気がしたが、もしかしたら三十分であるかもしれず、あるいは十五分しか経っていないのかもしれない。暗く、暑く、息苦しい岩の隙間の中で、時の流れを計るものは自分とクーミラの呼吸くらいしかなかった。もちろんソトがそれらを数えているわけではなかったけれど。
クーミラの上で手足を突っ張った姿勢をソトは保っていた。もしクーミラが頭でも打っていれば動かしたらまずい。意識出来た気持ちはそんなものだったが、実際には落盤という緊張感の中でわずかに体を動かすのも怖くて動けなかった。とはいっても、こんな半端な姿勢をいつまでも続けられるわけではない。手足が震え出す。限界が近づいていた
ソトが姿勢を変えようと決意し、わずかに身じろぎした。顎を伝った汗の滴がいくつも落ちる。
その時、クーミラの目が開いた。
瞳がゆらゆらと動いて視点が定まっていない。口が開き、息を大きく吸い出した。胸を逸らし、手足が痙攣を始めた。
「クーミラ! おい! 大丈夫か!」
ソトは両手を自分の体を支えるのに使っていたので、声をかけることしかできない。
クーミラは息を吸い過ぎたのか、一転してむせ始め、ソトは彼女の飛沫を正面から浴びる羽目になった。
彼女が落ち着いたらしいタイミングで目を開くと、クーミラの視線はソトの顔を向いて定まっていた。
「……なあ」
彼女はソトの声には答えずに両手を動かし、周囲の岩、自分の体、そしてソトの顔を掌でべたべたと触ってから、唐突に大きな笑顔を浮かべた。
「これは緻密な情報だ! 素晴らしい!」
ソトは混乱した。笑顔の理由も、言葉の意味もわからなかったからだ。
「クーミラ、大丈夫か。どこか痛いか?」
「やあ、初めまして! クーミラなら今のところ大丈夫だよ。感覚は止めてあるから痛いということもない。この子の記憶通り優しいねえ、君は。それに実際に目を合わせて声を聞くと、今までにない感動がある! ああ! 感動だ! ようやく意識と知性のあるものと出会えた! 愛交わすべき他者! ここまでくるのに、どれだけかかったろうか! 星の雲海を幾星霜! 運用く岩質の星に落着し、岩体に挟まり幾年月! そして炭素化合物主体の生命に出会い、それを幾重にも繋げ! 私はようやくここまで来れたのだ!」
「……おい」
クーミラの様子は異常だった。彼女とは何度か会話したことがあるけれど、こんな話し方はしていなかった。もっともこんな風にしゃべる人間などに、ソトは会ったことはなかったけれど。
それに言っている内容もほとんどわからなかったし、聞いたことのない単語がたくさん混じっていた。
そもそも初めましてと言われるのは心外だった。
唖然とするソトの眼前で、クーミラは言葉を続けずに激しく息を吸った。
「………………話し過ぎると息が続かないな。なるほど、これが息が切れるということか。そういうシステムだね。発話と呼吸を一つの器官で兼ねるのは問題がある。気をつけなければならない」
「………………どうした、お前」
ソトには、目の前で話しているのがクーミラという同じ年頃の少女に思えなくなった。別の、もっと異質ななにかに変わってしまったような気がしてきた。
「どうした、と? 第一に喜びの表現。第二には、体の機能の確認かな。この体にはまだ慣れていないものでね」
「冗談はやめてくれ、クーミラ。今、俺たちは落盤で埋まっててそんなこと言ってる場合じゃねえんだ」
ソトはなだめるように言ったつもりだったが、疑念に声が上ずってしまうのを隠しきれなかった。
「ああ、なるほど。そうか。自己紹介をしていなかったね。私はクーミラではない。先ほどからクーミラの体を借りている、名もなきものだよ」
それを聞いたソトは、ああやっぱり、と思った。悪霊か悪魔か、その類のものがクーミラに取り付いたのだ。そう納得できた。
体を支える余力が尽きようとしていた両腕が、彼女から離れようと突っ張る。
「クッソが……! 意味が分からねえ。落盤で死ぬかもって時に、一緒にいた女が悪霊に取り付かれてよ!」
「ひどいな。私は悪霊ではないよ。この星の外の遠いところからきて、いまは土の下に住んでいる。君たちの視点から見れば、宇宙人と言って差し支えない」
宇宙人と言われたところで、ソトにはよく理解できなかった。せいぜい、誰かのスマートフォンで見た映画の中の、グロテスクな怪物の姿を思い浮かべるのがやっとだった。だから体は余計に強張っていく。
「うちゅうじんだって?」
「そうだよ。宇宙人。アイアムアエイリアン。ワレワレはウチュウジンだ」
そう言ってクーミラはおかしそうに笑う。真っ暗で油臭く土と泥と石の感触に囲まれた、落盤した坑道の中で、彼女の笑い声はひとしきり響いた。
「意味がわからねえ」
「わからないのはどの点だね? 話しているのがクーミラではないという点か? それとも私が宇宙人ということか? 私の宇宙での旅路でも話そうか。それとも知性の定義からがいいかな」
正直なところ、ソトにとってはどれもわからなかった。ただ腹立たしくて、答えずに睨みつける。
「それに、だ。私は君に害を成すつもりはない。友好的な存在と言える。そして君に頼みがあるんだ、ソト」
「どうして俺の名前を知ってる」
「そりゃ知っているさ。クーミラの記憶野を共有しているからね!」
「人間に取り付いて記憶を覗き見て、友好って言うのがわからねえ」
「クーミラのことなら、彼女に害を加えたわけではないよ。共生させてもらってるだけ。それに友好というのは君に対しての話だ。私は他者と友好を交わすために来たのだから」
ソトは訳がわからなかったし、悪霊や悪魔が宇宙人だったとしてももはやどうでもよかった。クーミラは本当に取りつかれているように思えた。しかし、この宇宙人とやらも襲ってくるわけではなく、しかしよくわからない話をしてくるだけだった。ただ、この状況においては無駄話は害でしかない。
「……だいたいわかった。お前に関わっている場合じゃねえってことが。しばらく黙っててくれ」
ここでようやく、ソトは膝立プランクのような姿勢からクーミラの上に倒れ込み、彼女の体を押しやって自分が横になるスペースを作った。もう相手に遠慮することも怖がることもないとわかったからである。そして体を横向きに、壁の方を向いた。
「なぜそういう結論になった?」
「このまま外に出られなかったら、死ぬからだ」
ソトはそう口にしながら、転がっていた坑木の破片を使って頭上、縦坑出口方面の岩の隙間の掘れそうなところを探りはじめる。
「外に出て、それでどうするんだい? 同じように石を掘らされる暮らしをするかね? 結局、また死ぬような目に会うんじゃないか? それで今度は死なないと言えるかい? そんなことになるなら、ここで私と最期まで相互理解を進め、愛を語らったっていいじゃないか」
確かに、ここの暮らしはひどかった。働く場所はこの鉱山くらいしか知らなかったし、働いたからと言って飯だって十分には食えない。潜ればまた同じような目に会うかもしれない。この先どうなるかもわからない。しかし、だからってこの穴で死ぬよりはましだろうと思う。
「よくねえだろ。こんな穴蔵で死んでたまるか! 俺は街に行って金を稼いで美味いもの食うんだ! きれいな水飲んでベッドでゆっくり寝たりよ! こんなところで死んでる場合じゃないだろう」
どれも見通しの付かない夢だった。それでもソトはいつかそうしたいと思っていた。
「欲求の順番? それとも死ぬには早すぎると言いたい?」
「両方だ」
「なるほど。ならば、君がここから脱出するのを手伝ってもいい」
「なんだって!?」
「君の予定の一番目に、私との愛の語らいを入れてくれるなら」
「愛を語らうってなんだよ」
「友好を交わすのと同じ意味だが、より強い意味を込めたつもりだ。それが私の目的なのだから。君の目的とわたしの目的の交換だよ」
宇宙人とやらの言うことはよくわからなかったが、命が助かるならなんだって語り合ってやったっていいという気がした。それにこの落盤の起きた坑道で、岩と石、そして坑木のバランスで保たれている隙間に閉じ込められている現状は、道具も力もない自分よりは正体不明の宇宙人の方が解決できそうな気がした。
「……外に出るのを手伝うと約束するんならな」
そう答えると、宇宙人を名乗るクーミラは、再び満面の笑みを浮かべた。
「よし、よし! 約束だ! さて、では早速、君とわたしで情報のすり合わせをしようじゃないか」
「その前に外に出してくれ」
「安心してくれ。いままさに動いているよ。まさかクーミラの体で岩を掘るわけにもいかないだろう」
ソトはまったく安心できなかったけれど、反論も思いつかなかった。それでただ頷いた。
「例えば、そうだな。ここは太陽系の第三惑星、地球でよろしいかね」
「ここが太陽の周りをまわる地球ってのは聞いたことがある。三番目かどうかは、俺は知らない。学がないから」
宇宙人が口にしているのはクーミラの知識なのだろうとソトは思った。そして彼女が自分の知らない星の順番を知っていることに驚きもした。
「……そうか。それならこの手の話はもういいだろう。代わりにいくつか質問してもいいかい?」
「好きにしろ。それで生き残れるならな」
「もちろん。生き残るの定義に問題がなければね。では質問だ。ここはどこだい?」
「穴の中だ」
「もう少し詳しく教えてくれないか」
「……金を掘ってる鉱山の中だ。第二グーフェン坑って呼ばれてる金鉱山。グーフェンっていうのは、兵隊たちの集まりの名前だって聞いた」
ソトは少し考えてから、なるべく詳しく答えた。聞きなおされるのがいやだったからだ。
「いいね。私の知識と一致する。では、今はいつかはわかるか? もちろん君たち地球人基準でだ」
「八月だ」
大人たちが“雨季が終わって八月だ”とか“八月の月産量を増やせ”などと言っていたことを覚えていた。
「何年の?」
「わからねえ」
普段、今年が何年かだなんて気にしていないし、そんな知識が必要とされたことがない。ただ、西暦二千何年だというのはぼんやりと知っていた。
「……他の人間らの知識によると、2025年らしいよ。君たちの暦で」
「そうかい」
実際、ソトはそうかとしか思わなかった。知ったことではなかった。
「そんなことどうでもいいんだ! なんだこの話は! 外に出してくれるんじゃなかったのか!」
「脱出するのを手伝ってもいいと言ったんだ。そして、実際に手伝っている。耳を澄ませてみてくれ」
ソトは訝りながらも、黙って耳を澄ませた。
軽い、なにかを掘るような音が響いていた。頭上で坑道を塞ぐ岩と岩の隙間、石や土で埋まっているその向こう側からだ。
「聞こえただろう? 外側から埋まった部分を掘り進めている。だけど貫通にはもう少し時間がかかるから、その間は会話もいいだろう?」
そう言われてしまえば、ソトに断ることはできなかった。愛を語らうと約束してしまったのだから。
「そうだな。ソトは私のことをほとんど知らないようだから、まずは来歴から教えよう」
そう宇宙人は語り出したが、ぼんやりした内容だった。要するに、こうだ。
宇宙のどこか遠いところから種の状態で送り出された。非常に長い年月をかけてこの地球にたどり着いたものの、到着に際しては隕石のように星そのものに突っ込んだので、地下にもぐってしまった。そこからそこそこ長い年月をかけて自分を伸ばし、微小な生き物達に愛を語ろうと持ち掛けるも相手にその概念がなく、失敗が続いた。そんなあるとき、地下を削る大きな生き物たちが近づいてきた。それで様子を探っていた。ということだった。
「暗い地面の下で長いこと、ご苦労なことだな」
「いやあ、この下も賑やかだよ! 密で、蠢くものたちがたくさんいて! しかし君に会うまで、私の愛に耳を傾けられるものはなかった」
しかしソトだって、その愛の意味は分かっていない。
「そのあんたの言う愛ってのはなんなんだ」
だからこう聞いた。
「私への呼びかけがお前からあんたに変わったね。それは好ましい変化だ」
「おい」
「わかっている。愛とはなんだという問いだろう。その説明は、君たちのこの言葉という奴ではどうしても説明しきれないズレができてしまうのが悩みどころなんだよ」
宇宙人はクーミラの息を整えてから、続けて語った。
「私がなんであるかと言えば話した通り宇宙からきた知性兼生命なのだが、もっと詳しく言えば父母から星々に向けて送り出された子なのだよ。愛する相手を見つけろ、とね。思考能力がシンプルだったころはわからなかったが、最初からその使命が私の中に記されていたんだ。そして、今こうやって愛するものを見つけたのだ。どうだい、素敵だろう?」
「それで?」
「だいぶ意味が違ってしまうが、あえて言葉にすれば、独立した存在同士による肯定的な内部情報交換、だ」
「つまり?」
「私と君が、ポジティブに腹を割って語り合うこと、かな」
「それは、あんたがクーミラと記憶を共有しているとか言ってたこととは違うのか」
「違うんだ。そうなってはもう他者とは言えないから」
そりゃどういう意味だ。ソトがそう問いかけようとしたとき、二人が横たわった空間の頭上、その大岩と地面の隙間の石の塊が低い音を立てて内部に崩れ落ちてきた。
途端に光と涼しい空気と、そして濃い血の臭いが押し寄せてくる。
「穴が貫通したね。どうだい? ちゃんと脱出を手伝っているだろ?」
差し込む光は、いまソトとクーミラがいる坑道から外に繋がる縦坑、そこを照らす陽の光に違いない。縦坑が明るいということは、いまは昼前後の時間帯ということになる。朝に崩落が起こって、いまは昼か。ひどく時間が経ったようにソトには感じられたが、実際にはその程度だったらしい。
そして縦坑の方向に開通したということはいい。しかし、この血の臭いはなんだ。そもそも宇宙人は、外側からどうやって穴をあけたのか。
疑問に答えるように、人の腕が貫通したばかりの穴を拡張していた。血まみれで、ところどころ肉が削げている腕が、握りこぶし二つ分ほどの金属杭を使って。
「なあ、おい。あんた。この腕はなんだ?」
「不幸なことに半死状態になった人間個体だ」
「もう少し詳しく、この向こうの状況といま起きていることを教えてくんねえか」
考えてみれば、ここが落盤現場であり、けが人や死人が出て当然の場所だということはソトにだってわかった。それでも血まみれのまま動き続ける誰かの腕は、受け入れがたい異様さを持っていた。
「この向こうではこの人間が一人、頭部と脚部に損傷を受けて死亡寸前だった。そこで私がこの人間の身体を借り、運動機能を操作して掘削に当たってもらった。なお、他に人間はいない。反対側の岩の向こうには四人の死亡した人間の体がある」
「運動機能を操作って、いまお前がクーミラにしているみたいにか?」
「その点に関してはそうだ。しかしクーミラは生きているし、意識も無事だ。彼女には、この腕の主のように無理やり力を出させるようなこともしていない」
それを聞いて、ソトはこの宇宙人にまくしたてようとした言葉を飲み込んで、息を吸った。血やボロボロの腕が動いているのを見て頭に血が登ってしまった。しかしこれは、落盤によって埋まった自分たちを脱出させ用としている手段には違いないのだ。
「それで、この腕の主は誰だ?」
そこまで考えて、ソトは別に知る必要はないと気づいた。この腕は大人の腕だ。そして鉱山内の大人達の全員に、ソトは少なくとも一度は殴られるか蹴られるかしている。だからこの腕の主が誰であれ、死んだところでソトはかまいはしなかったのだ。
「リューイムという名前だ」
ソトの内心とは関係なく、宇宙人は聞かれたことを答えてきた。
その名の男は、街で学校を出たことが自慢の理屈屋で、気晴らしに鉱山で働く子供を殴るような奴だった。名前と共に顔が浮かんでも、さっきの腕に感じたような怒りも何も生じはしなかった。
ただ、腕が硬い岩を避けて砂礫を崩し掻き出す様子を見ながら「そうか」とだけ答えた。
冷静になってみると、腕の上腕辺りに蜘蛛の巣のような白い糸状のものが付いていて、穴の向こうに繋がっていることに気づいた。穴の隙間からよく見ないとわからないくらいのものだった。
「なあ、あんた。あの腕に絡んでる白いものがなんだかわかるか?」
「ああ、言ってなかったな。あれは私だよ」
ソトがそれほど真剣に考えずに尋ねたことに、宇宙人はそう返した。
ソトはギョッとして振り向き、そして宇宙人が人間を操る方法がそれだと思い至った。
慌ててクーニラの身を抱え、その狭い空間の中で可能な限り抱き上げた。
その背や首元の背面と地面の間にやはり蜘蛛の糸のようなものが伸びていた。
ソトはその粘着質に伸びる白い糸の束を払い除けようと、クーミラの背に手を回そうとした。
「待て! 急にそんなことをしたら彼女が危ないぞ。私も反応が遅くなってこまる」
宇宙人がクーミラの口でそう言ったときには、ソトはまだ蜘蛛の糸の束の端に手をかけたところだった。そして危ないという言葉で、手を止めた。
「どういうことだ。お前が乗り移っているのがなくなるだけだろ?」
「クーミラはここに逃げ込むときに、いま私が張り付いている辺りに傷を負った。私は彼女に取り付いてはいるが、傷を塞いで内部組織を繋いでもいるんだよ」
「化け物め」
「これは私の命の形態だ。化け物ではなく知性であり生き物なんだ。君にはわかってほしい」
その言葉も、クーミラの口から出ている。
ソトは彼女を抱きながら、しばらく動くことができなかった。
「……あんたが知っていることを、説明してくれよ」
しばらく経って、ようやくそれだけ口にできた。
「そうだな。まず私の来歴は説明したな? 地面に埋まったというやつだ。その地面に埋まった種から延びた菌糸が、この糸だ。地下中に広がっているし、この鉱山の崩落で人間にも届いた。クーミラと、その腕のリューイム、坑道の奥にいる四人。ここと縦坑を挟んで反対にある坑道では一人だけ。クーミラとリューイム以外は、現時点では死んでいる。死ぬ前に取り付いて、記憶野を共有させてもらったがね」
「クーミラが知らないようなことまで知ってたのは、そういう訳か」
「そうだな。七人分の知識があるのでね。それからこの崩落の理由だがね。リューイムが買収されて爆破したんだ。この鉱山にいるものとは別の軍閥からの買収。最下層の坑道途中で発破をかけた。本人はそれに巻き込まれてしまっているが」
「……そうかい。なるほどね」
「説明が遅くなったのは申し訳なく思う」
「もう一つ教えろよ。愛だのなんだの言って俺にこだわってるのはなんなんだ。俺にもその糸くっつけりゃいいじゃねえか」
「別に、健康な他者を侵食する意図はない。だから君にはつながらないよ」
クーミラも他の人間たちも、崩落で怪我をしたというわけか。
「それから君にこだわる理由だが、私はクーミラに共感したのだ」
「よくわかんねえな」
「なぜ君とクーミラが助かったと思う? クーミラが身を挺して君を庇ったからだ。そしてここ、この山留の位置で。ちょうど、この坑木が張られた位置に。君の全身が無事だったのは必然ではないだろうが」
「クーミラが……」
確かに最初、彼女がソトに覆いかぶさっていた。
「そして、だ。貧弱な思考しかもたなかった私が、知性として成り立つ神経節量の閾値を超えたのは、それほど以前のことではない。爆破が起き、崩落が起き、多くの個体が外傷を負い、意識を手放して、その体に繋がった瞬間だ。そしてその時、私はクーミラの中に自分と同じものを見た」
俺は狭苦しい坑道の岩土の中で、かろうじて形を保っている杭木を眺めた。確かに、ここでなければ今頃二人とも土か岩の下だったのかもしれない。
相変わらず宇宙人の言うことは難しかったが、それでもなんとか聞き取ろうという気になっていた。
「クーミラは何十日か以前に、君に飴をもらったと言っている。それがとてもうれしかったと」
確かにそんなこともあったような気もする。飴をあげた相手がクーミラだったかどうかもはっきりしない。しかし、飴玉と塩の欠片は、坑道で倒れそうなときに口にするために隠し持っている。それを誰かにあげたことはあった。あまりにボロボロで、たまたま自分が手を伸ばせる位置にいた子に。
その空間で、俺は曲げっぱなしだった足を何とか少し伸ばしてみた。そのすぐ向こうで、クーミラの足の泥の汚れの隙間から、肌がのぞいていた。
クーミラは、いや、クーミラの姿をしたそいつは、気にもせず言葉を続ける。
「私が君たちとは異なるあり方の生命なのはわかったと思う。私の故郷ではね、他者がいなかったんだ。なにしろ、そこではすべてが繋がっていてすべてが私なのだからね。だから、探しに来たのだよ。身を寄せる相手を探しに、はるばるとね。……いや、違うな。それは予感に過ぎなかった。ただ、茫漠たる空間や虚無から逃げてきただけだ。その先に、いつか一緒になれる相手がいるのだと信じて。そんなことを考える材料もなかったし、価値を知っているわけでもなかったが」
そこで宇宙人は珍しく、言葉を切った。
「しかし、こうなって、クーミラと一緒になって、確信できたんだ。自分の求めていたものが」
「…………へえ、そうかい」
それで愛だのなんだの言いだしたとしたら、それは飴玉一個の価値なのだろうか。それとも飴玉一個から生まれたクーミラの気持ちが、宇宙を旅するような意志と同じくらいだというのだろうか。
「知性であり生命であるものというのは、一本の糸のようなものなんだよ。それだけでは脆弱なんだ。君だって、もし一人でここに閉じ込められていたら心細かったろう? 命は身を寄せ合い、撚糸になって宇宙の疎に対抗できる。そして、私と君がモーラ…………いや、同じ時代で存在が重なり合うことができたのは、とてつもない僥倖なんだ」
「……モーラってなんだよ」
「ああ、うん。すまない。単語の選択ミスかな。長尺の時間単位。同じ時代に、と言いたかっただけだ」
「運がよかったなんて言うが、お前は土の下やらで長いこと待っていたんじゃなかったのか?」
「それは大した時間じゃない。ほんのちょっとの誤差だ」
それがどれくらいかはわからないが、こいつは隕石としてここに落ちたらしいのだから、この数年というわけではないだろう。その長さは、俺には想像がつかなかった。しかし、一分違っていうたら俺がクーミラに飴をあげることはなかったかもしれない。もしかしたらそういうことなのかもしれない。
「言いたいことは、なんとなくわかったよ。だがよ。クーミラが飴で懐いたのと、あんたの旅が同じようなものだっていうのはそれでいいのか?」
しかし、返ってきたのは返事ではなく奇妙な笑みだった。もちろん、クーミラの顔を使って宇宙人の奴が笑っているのだ。
「私は分かっていなかった。別の種族という茫漠たる希求対象ではだめだったのだ。クーミラを覗いて、初めてそれに気づいたんだ。求めるべきは個だったんだ。クーミラと私の意思は一致した。だから、いまはこうして共にあるというわけだ」
ほぅ、とクーミラは小さく一息ついてから、やはり宇宙人としての言葉を続ける。
「希求の念とでも言えばいいだろうか。そばにいてほしい、ここにいるよと言ってほしい、そして自分の存在を伝えたい、そしてそれを好意的に受け止めてもらいたい。愛してあげたいし、慈しんでもらいたい。そういった感情を一塊にしたものだよ、それは。飴玉は切っ掛けでしかないのだ」
それで、クーミラにとりついた、と言っているのか、こいつは。
「なぜこんな語りを、いや、語らいを行っているか。それは、求めるものが情報ではないとクーミラの口を借りて君と話して、気づいたからだ。情報を集め、個として代謝を繰り返すことに意味などない。冗長性と反響により、互いを認識する。それが求める価値だ。菌糸ネットワークである私は君とも繋がることだって可能ではある。そこには誤解も存在の不確かさもなく、意味の交換を目的ともせず、だがしかし一体化してしまうが故の個同士の慈しみとは異なってしまう。そうではなく、こうして出会った相手を考えるのが、遠くここまでやってきた私という生命知性の目指したものなのだと、クーミラの内面を共有して、こうして話をすることで気づいたのだ。だから、生命であった私はここから知性であるわけだ」
「また息切れするぞ」
「ここまでで、発話中のブレスの仕方は学んでいる。器官としては不完全だという意見は変わらないが、使い方次第だな」
相変わらず、この宇宙人の言っていることがまるでわからない。だからソトは茶化したのだが、宇宙人は言葉の終わりにソトに唇を重ねてきた。
「これはクーミラからの伝言だ」
「……そうかい」
「そうだ」
「一つ聞いていいか」
「もちろん」
「お前と繋がっちまってるクーミラは、これからどうなる? 俺は、お前と愛の語らいって約束は果たせたんだろ?」
「どうなる、とは?」
「お前に乗っ取られて、無事でいるのか、ここから出て行けるのかって聞いているんだ。見ろよ。ボロボロのリューイムの腕が、穴を広げて動きを止めたぞ」
「もちろんわかっている。彼にも繋がっているのだから。そして彼は死亡した。幸い、硬い岩質を除いて可能な限り向こうへの穴を広げたようだが」
「答えを聞いていないぞ。クーミラを返してやってくれよ。頼むから」
クーミラは少し考える様子を見せ、またこちらに目を向けた。
「……おい」
「いや、なに。クーミラは大丈夫だ。私の組織が十分残るように自ら切断すれば。ただそうすると問題が発生してね」
「クッソ! 脅かすな! もったいぶるな! クーミラが大丈夫ならいいじゃねえか」
「切断すると、クーミラにくっついている私と、この鉱山下に根を張る私、二人に分かれてしまうのだ。君はクーミラと一緒に行くのだろう? 残った私はどうすればいい? 愛を語れる別の誰かが来るのを待てばいいのだろうか?」
「……悪いが、結論は決まってるよな。俺は生きるために脱出する。クーミラも人間なんだ。同じだ。なあ、お前にだってわかるだろう? 俺らは死んだらそこまでなんだ。ここから出て、生き延びる必要があるんだよ。だとすれば、残るお前の片割れは、自分で頑張ってもらうしかない」
クーミラは、いや、宇宙人はクーミラの顔で、上目遣いにすねた顔をした。
「わかっているさ。君の言う通りであり、それは自明だからな。ただ、私だって残る半分の気持ちを考えたくなっただけだ。なにしろ自分自身なんだから」
そして彼女は一息ついて言葉を続けた。
「誤解しているようだが、私にだって死はある。それがいつのことになるかはわからないが、しかしこの一瞬とその一千億倍に本質的な違いなどないのと同じように、その死も同等ではないのかなと思っただけだ。なに、疎の中を飛び続けるよりは楽だろうよ。残る私は、ゆっくりと新たな他者と愛を語れる日を待つことにしよう」
そしてクーミラは上体を起こした。ゆっくりと背と地面を繋いでいた糸が切れ始め、やがて残った糸たちがクーミラの背中に自然にまとまった。
「では、行こう」
ついさっきまでリューイムが掘っていた穴が、まだ陽射しと空気を運んできていた。
「俺が先に行って、安全か見ておく」
ソトはそう宣言して、自分の肩幅ギリギリの大きさしかない穴に頭から突っ込んでいった。もちろん先に逃げようというわけではない。小石や尖ったところが引っかからないか確かめるつもりだった。
芋虫のように体を細くして蠕動し、向こう側に出たときには汗と擦り傷まみれだった。しかし、崩落跡から脱出できたのだ。
ソトは、穴の上部を占める岩を削ることはできなかったものの、リューイムが使っていた金属杭で角を均すと、クーミラの体を使う宇宙人を呼んだ。
「いいぞ。縦坑まで行ける」
声をかける前に宇宙人は穴に頭を入れて前進してきていた。
しかし、それも途中で止まった。ずいぶん長く体を穴の中で動かしていたが、やがて後退していった。
「おい! どうしたあんた! クーミラ!」」
「……すまない、ソト君。クーミラの方が体が大きいようでな、臀部が引っかかって脱出できない。穴を広げなきゃならん」
「道具なんて、この杭しかないぞ……」
「リューイムには、筋力の限界までつかって穴を掘らせたんだ! 君が同じ道具を使ったって、どうにもならない!」
仕方がない。
ソトが選択できるのは、一つを除いて他になかった。
「そこで待っててくれ! 上で道具を調達して、助けに来る!」
穴の向こうにそう叫ぶと、ソトは全力で踵を返した。
鉱山の上は、爆発事件で混乱しているかもしれず、あるいはただ様子見をしているだけかもしれない。
容易に道具を貸してもらえるかもしれないし、無断で拝借する必要があるかもしれない。
いずれにしろ、ソトはここに戻って来なくてはならない。尻のつっかえる宇宙人とクーミラが待っているのだから。
了
文字数:13079