梗 概
遥かな帰路
西暦2040年。
増田忠孝を含む八人の有人火星探査隊は、人類初の有人火星探査ミッションを遂行していた。
増田の着る火星探査用の高機能船外活動服は、パワーアシスト機能のみならず、緊急用に装着者が動けなくとも各関節を稼働させて移動する機能もあった。
増田は火星の川の跡と思われる谷状地形を単独で探査していた。彼はこの探査中に、人類初の火星上歩行千メートル達成が叶うと舞い上がっていた。「おれはマーズウォーカーだぜ?」通信上ではそんな軽口をたたいたりしていた。しかし千メートルを目前にして、不意の巨大落石により頸椎が折れ、さらに胴の一割が大きな圧迫を受け、死亡してしまう。
<基地への帰還を開始します。安全プロトコル優先度:最高。緊急帰還モード起動>
船外活動服のシステムは「安全な帰還」を目指して自動で移動を開始するが、その経路選定の判断基準が極端に安全性を優先したため、岩塊の転がった復路や少しの丘陵、あるいは崖際さえ「転倒の危険あり」と認識。そのため、より距離があろうとも危険のない経路を選んでしまう。
<転倒リスク:27.3%。許容範囲外。代替経路を検索中……>
そしてこれを繰り返すうちに、基地からはますます遠ざかっていった。
基地や衛星軌道上からある程度までは増田の宇宙服の信号を追うことができていたが、クレーターや谷が多く、また基地も衛星も一つずつしかなく、火星探査の人員も増田を除いて七人しかいない状況で、増田の船外活動服の追跡は困難になり、ついに見失ってしまう。
ついに有人火星探査隊は増田をMIA(作戦中行方不明)として、残りの人員は当初のスケジュールに従って地球に帰還する。
それから第三次探査隊において、増田の信号がキャッチされるも、探査隊には確認する余力がなかった。
その後、探査隊は回数を重ね、規模や人数、拠点が増し、観測衛星網もいくらか整備される中で、時折増田のシグナルが捕捉された。位置はいつも違っていた。ロボットローバーの光学観測では、彼の活動服はいまだに歩き続けているらしかった。
それから半世紀余り経過した。火星には長期調査用の有人基地が複数設置され、滞在人口は千人を超えた。増田の活動服を回収することはとっくに可能になっていた。しかし人々は、その止まることない歩みを「火星開拓の先駆者の魂」として、あえて回収せずに見守り続けていた。そして彼が歩いた道のりは、歩行可能な経路としてモニタリングされていた。そんなある日、増田の活動服が、動きを止めた。探査隊員は現場に急行し、ついに活動服が限界に達したことを知った。そして彼を回収した。
増田の船外活動服には火星地質の重要なデータの蓄積と、陽気な「俺はマーズウォーカーだぜ?」という声が残っていた。船外活動服は、歩くという彼の意思を尊重し続けたのだと、この時の探査隊は、そして当時の探査隊の生き残りは信じることにした。
文字数:1197
内容に関するアピール
宇宙服やパワードスーツの中の死体、みたいなホーガン、あるいはスペースホラーでたまに見るようなものをネタとして書いてみました。
そういった宇宙服的なものが死体を入れたまま勝手に動く、というのもよくあるアイデアだとは思いますが、そこに宇宙服のシステムによる安全判断と、人間側の都合とのズレを「宇宙服が歩き続けることになる」という内容で味付けを試みてみました。
文字数:176
遥かな帰路
西暦2040年。
増田忠孝を含む八人の有人火星探査隊は、人類初の有人火星探査ミッションを遂行していた。
そしてそのとき、増田はサバエア大陸に建造された火星初の探査基地――といっても降着船を利用したプレハブ程度のものだが――から距離一キロ付近を歩いていた。屋外活動ユニットと呼ばれる、船外活動服より一回り大きな宇宙服を着ていた。浅い渓谷跡と思われる場所の地質データとサンプルを回収をするためだった。
屋外活動ユニットは耐久性と着用者のパワーアシスト機能を優先したため、その歩みは鈍重だった。だから増田の歩みは、どたどたとした鈍重なものに見えた。
『だってよ。俺はマーズウォーカーだぜ?』
「隊員八人はみんなそうだよ、タダ。俺たちだって火星の地面はもう歩いたんだから」
増田は、フルネームで増田忠孝といったが、仲間たちからはタダと呼ばれていた。
そして今、調子に乗った様子の増田には、マークの言葉など耳に届いていない様子だった。
マークにとって今は休憩時間内だったが、増田との通信を受けてやっていた。とはいえ、本来は任務上のやり取りは基地側のAIが受け持つものだし、もしトラブルや増田からのヘルプがあれば基地内の人員全員に連絡が入る。マークは増田と、実質はただ雑談をしていただけだった。
『そりゃわかってる。だけどさ、俺は火星で初めて千メートルを歩く人間だ。マーズサウザンウォーカー! これが偉大でなくて何なんだ!』
実際、増田の今回の屋外ミッションにおける歩行距離は、まもなく一キロ、つまり千メートルに達しようとしていた。
「ああ、そうかよ! じゃあお前の偉業の記念に、戻ったら一杯奢ってくれ。私物に入ってたろ? 十二年物の瓶が」
『一杯だけだぜ!』
「楽しみにしてるよ」
『ほら、もうあと十歩で千メートル達成だ、マークよ!』
そう言う増田は歩調を速めたようだったが、重い船外活動服の歩みは地球の三割ほどの火星重力の下では少し跳ねたように見えただけだった。
それに実際に増田を見ているのは荷運び用の自動追従車両だけだ。マークはそのカメラの向こう、探査基地内にいる。
増田の進む火星の渓谷跡は、浅いとはいっても地上から十数メートルはあった。そして今、片側に急峻な崖がせり出してきているところだった。
増田が歩調を変えたのが悪かったのか、着地の振動のせいなのかわからないが、そこから岩が転がり落ちてきたように見えた。
そして着地のバランスをとる増田の頭上に、岩は激突した。
「おい、タダ! 大丈夫か!」
増田の上に落ちたのは、光学分析では彼の上半身ほどの岩だった。最新の火星探査用屋外活動ユニットと火星の重力であっても、その衝突は中の増田にとっては致命傷の可能性がある。
『タダ! なにがありました? アラートがきましたよ!』
通信で呼びかけていたマークの通信に、探査隊隊長のオドネル博士の声が割り込んだ。
「タダの上に岩が落ちたんです! 奴の後ろのビークルカメラで見えました!」
『! では、マークは呼びかけを続けて! ライザはタダのロボットローバーから状況把握!』
オドネル博士の指示紛れて、増田の水気の交じった咳が聞こえた。
『……あと、すこ、し……』
うめき声の後にそう言うと、それきり増田からの音声は途絶えた。
『タダ! おい! クソっ! オドネル隊長! タダの声が途絶えました。救助隊の編成を!』
通信装置の向こうの喧騒など関係なく、増田の屋外活動ユニットは対応を開始していた。落ちてきた岩塊は、中身は壊したものの、ユニットの機能に損害をもたらさなかったようだった。
<ユニット内の生体反応:検出不可。呼吸補助及び電気ショック開始…………エラー。再実行…………エラー>
<ベースに救援要請発信。成功。受信連絡受領>
屋外活動ユニット内の生命反応がない。これは蘇生処置を受けるために直ちに帰還しなければならない状態を意味する。また蘇生処置成功の確率が極めて低い場合でも、内部の肉体を保存して無事持ち帰らなければならない。そう屋外活動ユニットのAIには登録されていた。
<基地への帰還を開始します。安全プロトコル優先度:最高。緊急帰還モード起動>
事故から三分後、増田の屋外活動ユニットに搭載されたシステムAIはそう状況を分析していた。
基地への帰還ルートを、光学カメラ、振動式地質センサによる情報を集約して作成する。普通なら来た道を戻るのが一番早いはずだが、背後には狭い渓谷跡に散らばる岩塊と、それによって動けなくなった追従車両がある。ただし、増田一人分程度なら通れる隙間はある。通常であれば、最短経路としてそこを越えていくところだ。
しかしシステムAIは違う判断を下した。
<転倒リスク:27.3%。許容範囲外。代替経路を検索中……>
屋外活動ユニットはUターンを避け、より長い、しかし「計算上は」安全な迂回路を選んだ。それは渓谷を先に進むことだった。
普段は着用者の運動補助に徹している屋外活動ユニットの各アクチュエーターが、自走モードに切り替わって歩みを始める。
システムにとって、これは所与の優先判断基準上妥当な判断だった。しかしこの判断は、目の前の安全性を最優先とした、言い換えればそれ以外のすべてを切り捨てたものだった。
そうして一歩、また一歩歩き進める。
いつしか増田のユニットの歩みは一キロを超え、十キロを超えていた。
車両のカメラの範囲外に行ってしまった増田の状況を、基地の人員たちは屋外活動ユニットからの通信だけで把握していた。
「救助隊は!?」
「人員の選定は完了。増田の通った道のりを仮ルートとします。ただ、使用する有人車両が基地に帰還途中です」
「増田の通ったルートは、有人車両が通れない場所もあります。屋外活動ユニットの速度がゆっくりとはいえ、急がないと」
もたつく会話に、マークが急かし込んだ。しかしそれは皆わかっていることだ。
増田の屋外活動ユニットが歩むにつれ通信間障害は多くなり、次第にノイズが増えて行っていた。
それでもユニットは歩み続けた。酸化プルトニウム238電池も太陽電池も発電を続け、内部環境維持システムは十全に機能し続けた。そしてその十全さゆえに、増田のユニットのシステムは迂回路を探しながら、長大なる「安全な帰還」の旅を始めてしまっていたのだ。
地球時間で二日後には、増田の捜索は打ち切られた。
捜索の成果は、自動追従車両を回収できたことだけだった。
増田の屋外活動ユニットの発する信号はか細く、途切れ始めた。中継装置を兼ねた自動追従車両が着いていないせいもあるだろう。それにAIへの経路変更指示もリスク基準の引き下げ指示も全く効果がない。受信アンテナにダメージがあるか、内部処理が想定外か、そのどちらかではないかと思われた。
どちらにしろ、打つ手は限定されていた。
八人きりの、今は七人になった火星探査隊には死亡が確実な隊員の捜索を続ける余裕がなかった。火星にまで来るのは地球の主要各国の力を結集した巨大なプロジェクトである。荷物の一グラムも、火星上での一分間にも、途方もない予算がかかっていた。
地球の火星探査指令室が伝えてきた決定は簡素なものだった。
「当通信が到着した時点を持って、マスダ・タダタカをMIAとする。残りの人員に対しては、添付表の通り優先度変更を行う。帰還スケジュールは当初の予定通り」
「だって、まだタダがどこかにいるんだよ!」
「従いましょう、マーク。それに増田のユニットは、送ってきたデータによれば、基地に戻ってこようとしている。どれだけ遠回りしようと。なら、機会は巡ってくるわよ」
オドネル博士の言葉に、マークは目を赤くしながらも頷くしかなかった。
最後にマークが見た増田の屋外活動ユニットの姿は、遠い太陽の光を浴びて赤い砂漠に長い影を落としながら歩き続けているものだった。そんな赤茶けた景色を瞼に焼き付けて、九か月余りにわたる火星地球間の航路に旅立った。
五年後、マーク・ベイカーは火星に帰ってきた。第二次火星探査隊の一員として。
前回の探査隊の帰還時、隊員は英雄として迎えられた。世界中で? それはわからないが、少なくとも出資した国では。
初の火星有人探査。ボーリング調査の成功。多種多量のサンプル回収。地中振動派計測実験の実施。そして、氷の発見。
なにより火星から望遠撮影した地球と太陽の写真が、地球に住む人々に感動を持って受け止められた。
十分な成果が上がったことが、かえって第二次探査実行に対する慎重論を出させた。成果は十分だ。分析が優先で、負担の多い火星有人探査は急ぐことはないだろうというわけだ。
それに反対したのが、マーク・ベイカーだった。
第一次探査隊の成果は、その七割は予想済みだったことだ。調査を生かすには、さらに水の分布の大規模調査、藻類、植物の育成実験、各火星土壌の建材使用試験、そして無人機器による調査基地の恒久化。彼はそう主張した。
そこに、キーヴァ・オドネル博士の同意も加わった。増田の親族にわずかな遺品を届けた事が影響しているのかもしれない。
第一次探査隊の成功に気をよくしたある政治家が打ちだした火星フロンティア構想などといったものの受けが良かったことも後押しした。
第二次以降の火星探査に予算が付き、いくつもの参加国が集まり、実施に移された。
より最適化された計画は、公転軌道の都合を除けば極めて速いスケジュールで組み立てられた。
そしてマークは再び火星に降り立ったのだ。
オドネル博士は第二次探査隊には参加しなかったが、マークにマスダのことを託した。
そして五年ぶりとなる火星で、増田はまだ移動を続けていた。それは軌道衛星によって、すでに分かっていた。それまでも第一次探査隊が残した衛星が上空を通った際に確認できたことはあったし、第二次探査隊の衛星だって増田を追うためのものではない。それでも、歩みを進める増田を、第二次探査隊は着陸前に発見していた。
増田は、最初の探査基地から直線距離で約四千キロの場所にいた。それは火星一周の五分の一もの距離が離れた場所だった。つまり基地に帰還するどころか、はるかに遠ざかっていたのだ。それは増田の屋外活動ユニットによる経路選定の、苦心の結果だとマークには思われた。
「マーク。マスダの回収は、余裕があった場合のみだ。今回は諦めるほかない」
「……わかってますよ、マイケル」
マークは、第二次探査隊のマイケル・バクチン隊長が意地悪で言っているのではないことはわかっていた。こ出発前からすでに十分に話し合ってきたのだから。
世間が火星探査に盛り上がっているとはいえ、成果があることが前提となっている計画なのだ。そして第一次と同じように、人的にも機材的にも、日程的にもほとんど余裕はない。無理をして増田を追えば、今後の火星関連計画に悪影響が起こり得る。それはマークにも十二分にわかっていた。
加えて、この第二次探査隊の基地は、第一次探査隊の基地に連結する形で行われた。まだ火星のあちこちに基地を分散できる段階ではないためだ。
要するに増田の位置はマークのいる場所の遥か彼方だったのだ。
「あいつはこの基地を目指してるんだ。なら、このベースが増強されるのは悪くないさ」
マークは独り言ちながら、連結した旧探査基地に残っていた増田の私物入れ――実際は扉のない小さなロッカー――に残されていた未開封のジャパニーズウィスキーの傍に、新しい衛星が撮影した増田のユニットの写真、そのプリントアウトを貼り付けた。
第二次探査隊では、いくらか増田のデータは集められたものの、マークが増田のためにできたことはそれ程度だった。
成果と言えば、増田の屋外活動ユニットがデータ送受信可能だと確認できたことくらいだった。ただ受信感度が低く、またAIを説得できはしなかったのだが。
第一次探査隊の屋外活動ユニットのシステムAIは、AIといってもスタンドアロンの、機体制御用のプログラムにすぎない。柔軟性に乏しいのだ。それがゆえに、愚直に今も歩き続けている。増田の意思とは無関係に。いや、もしかしたら増田の最後の意思を守っているのかもしれないが。
マークは続く第三次探査隊で、隊長職を拝命した。
そして、オドネル博士やバクチン隊長がどんな責任感を感じていたのかを痛感した。
増田の屋外活動ユニットはまだ基地に戻ってきていない。それどころか、相変わらず遥か彼方の火星の大地をゆっくり歩いていた。
「おいおい、タダよ。とっくにマーズサウザンウォーカー《なんか超えちまっただろ。お前の記録にゃ誰も追いつけねえぞ」
マークはそう言って写真を追加したが、増田のために探査車両ひとつ出すことはできなかった。ただ探査隊隊長の使命を全うするのが精いっぱいだった。
マークがこうして探査基地のもっとも古い部分、そこに残る増田の個人用の棚を火星の現場からSNSに投稿した時、世間でちょっとした話題になった。SNSとはいっても動画とコメントのみによる一方的な、古い様式のものであったけれど、それは火星と地球の15分の光速時差を考えれば仕方のないことだった。
死してなお火星を放浪する増田忠孝の話は知る人ぞ知るものであったが、このSNSへの投稿がそれを世間に広く知らしめただった。
増田はこの時、名もないクレーターの外縁を西に向かって歩き続けていた。
<進行方向0.32キロメートル先:傾斜角31度。表層強度:2.7MPa。転倒リスク:43.2%。許容範囲外。修正進路策定……>
マークが久しぶりに聞いた増田の屋外活動ユニットシステムAIの声は、昔と変わらず火星の大地を睨んで安全な帰還経路を探していた。
「タダ。元気そうだな。いや、もう死んでるんだったか。AIの野郎め、お前がマーズサウザンウォーカーなんて言ったもんだから真に受けちまったのかもな……」
マークが第三次火星探査隊を率いて地球に帰り着いたときにはすでに、増田のことは誰もが知る話となっていた。
第一次探査隊の調査時に火星上で死んだマスダ・タダタカ。しかし今もなお、彼の宇宙服は火星の上を歩き続けている。そうした話だ。
そして世間の印象は、増田を迎えに行ってやれというより、今なお歩き続けていることに興味がいっているようだった。まるでカリブ海をさまよい続ける海賊船の噂でもするようなものだ。それがマークの感想だった。
しかし話題が続くことによって、第四次探査隊の予算が通りやすくなったことも確かだった。
「マーク。マーク・ベイカー! 火星探査の最大功労者! 君の尽力には感謝している。しかし、だ。マスダを無理に回収することはないんじゃないかね? 回収に力を割けばその分探査ができないのは確かだし、このまま歩いてもらえば世間も盛り上がる」
火星探査プロジェクトに係る米議会小委員会の議員が笑ってそう言ったとき、マークはSNSに投稿したことを後悔した。
「マスダは日本側から出されたスタッフですが」
「日本から、彼に関してなにか要求が来ているという話は聞かないな」
それが、彼がとぼけているのか、議員の元に話が届いていないのか、それとも日本側が本当に何も言っていないのか、マークには判断できなかった。
そして話はそれで終わってしまった。
マークはこの時、四十歳になっていた。
航空宇宙局からは、今後は地上勤務で探査に協力してくれと言われていた。つまり、探査隊は名誉の卒業ということになる。
同時に、マークが提出していたロボット車両による増田の回収計画についても、早々に非承認とされた。
表向きは資材と予算に余裕がないからだというが、本当のところは連邦議員が言ったような意見が大勢を占めているのだと、航空宇宙局の幹部が耳打ちをしてくれた。
それに、増田のユニットが送り続けていた地質振動データは、火星の地下構造に関する貴重な情報源として、惑星地質学者たちの間で注目され始めているらしかった。データ送信そのものは微弱で途切れがちだったが、休むことなく歩み続けて蓄積されたそのデータは、広範囲かつ詳細な地表情報を提供していたのだ。
だから、増田の回収はできないというわけだ。
それならばと代わりに出した計画は増田の屋外活動ユニットに火星版GPSの受信装置をセットするというものだったが、そちらも許可されなかった。そんなことをするなら回収した方が早いと言われた。それは道理であった。
最終的に、増田の屋外活動ユニットに向けてデータを送るだけの計画は承認された。第四次探査隊で投入される予定のものを含めた五台の火星軌道衛星による火星版GPSシステム。それの受信用プログラムと、最新の地形データだ。
感度が悪く、世代も古いマスダのユニットのシステムに、AIに理解できるようにGPSと地形データを送るのには時間がかかるが、可能な事ではあった。これは第四次探査隊の折に行われることになった。
第四次は第三次の実施から実に十年が経っていた。
マークは地球でそれを見守ることになった。指令室の椅子のひとつを与えられていたから特等席で見ることはできたものの、彼にとっては動く必要のない、無力感に包まれた時間でもあった。
マークによるいくつかの計画のうち、軌道上からの地質探査装置の投下やローバーによる地質調査法の改善などは、探査隊員たちによって実行に移され、成功を収めていた。
しかし彼にとって、増田の屋外活動ユニットのシステム更新が一番重大だった。
結局、第四次探査隊が撤収し、火星地球間の疑似ホーマン軌道上にいるタイミングで、ようやく増田の屋外活動ユニットシステムの更新が完了した。
この交信で、増田のユニットのシステムAIは理想経路に近い道のりを歩いてくれるはずだ。基地に到着する年月も、そこから計算できるだろう。しかし、増田の屋外活動ユニットの進行スピードは、初期に比べて明らかに遅くなっていた。それも当然かもしれない。まったく整備していないのだから、機械は消耗しているに決まっているのだ。
この時、同時にマークには増田がこれまで歩いてきた予想経路が提供された。ミミズが左右にのたくったような経路は、総距離で十万キロに届こうとしていた。マークはその果てしない道のりを考え、指令室の片隅で涙を流した
第四次火星探査隊の帰還を地球の指令室から見守って後、マークは連邦議員に転身した。そしてそれを、二期を務めあげた。
宇宙関連の予算や法案に関わったが、彼の自認としても世間の評価としても、火星関連が主戦場だっただろう。
マークはあえて増田の遺体回収を正面から求めなかった。いつの間にか、人々の間で増田が火星探査のアイコンと化していたからだ。
各火星探査隊は数々の発見を成し、驚異的なことに増田より後は直接の死人を一人も出しはしなかった。であるにもかかわらず増田が人々に注目されるのは、皮肉であった。
マークは増田の回収の代わりに、火星探査基地の分散と規模の拡大という方向を打ち出していった。隣の星すら開拓できないほど人類は未開だろうかと言ったのである。今ではなくいずれ来る未来のために、調査と居住惑星化への模索を途絶えさせてはいけない、と。
マークの仕事は実を結び、彼が七十四の誕生日を迎えるころには火星探査隊は第九次を数えるに至っていた。
火星上には三つの恒久基地が設置され、常時滞在者は二百人を超えていた。
マークは第八次火星探査隊の折、周囲の意見を無視して再び火星まで来た。
「老人が火星に行くっていう実験だよ。これは」
そう言ったが、嘘だというのは皆わかっていただろう。
第八次火星探査隊の探査が終了した時、マークはの復路、つまり地球に帰る行程には加わらず、火星滞在者たちに加わった。そしてその経歴を買われ、隊長――滞在者たちの自称を使えば開拓団の団長――となった。
「ベイカー団長。お子さんたちは元気ですか?」
マークは当時、若い隊員にされたこの質問のことをよく覚えていた。
マークには確かに二人の子供がいた。しかし、彼らとの関係は長年の不在により、遠いものになっていた。地球での自分は、一人の人としてしっかり生きることができただろうか。
「ああ、元気だよ。長男は農家になった。次男は……なんだったかな」
彼は照れ隠しに笑ったが、自分の子のキャリアさえ正確に把握していないことに、一瞬の痛みを覚えた。増田への執着は、彼自身の人生の一部を奪っていたのかもしれなかった。
増田の屋外活動ユニットは、まだ歩いていた。耐用年数はとうに過ぎている。関節部も、モーターも、バッテリーも、太陽電池も、制御系も。それでも歩いていた。
かろうじて酸化プルトニウム238電池は発電を続けているのだろう。中の増田が動いていない以上、電源がなければユニットは動けはしないのだから。
そしてもうこの時には、探査隊は無人車両を増田のそばまで送ることができていた。かつての自動追尾車両のように、マークの目となって増田を追ってくれていた。その目が、増田が歩いているのを見続け、地球の人々にもその映像を届けていたのだ。
耐用年数を超え、四十年以上一人きりで歩き続けるその姿はもはや多くの人にとって火星のアイコンを超えていた。だから、マークは増田を回収することができなかった。探査隊に余力がないとか、予算が足りないとか、そんなことを言うものはもういなかったにも関わらず。人々が崇敬を持って見守っているが故に。
マークに加え、第九次探査隊で、まだ存命だったオドネル博士が火星にやってきた。
彼女もまた、火星と同時に増田のことを気にかけていた一人だった。そして心身共に壮健であったにもかかわらず、体力的な問題などといって火星に留まった。
それから二年余り経った、西暦2090年。
増田は歩みを続け、サバエア探査基地、つまり旧第一次探査隊基地まで直線距離で残り三百キロを切る位置まで近づいていた。これは第四次以降に、地形図とGPSを更新し続けてきた成果だろう。
マークには感慨深く感じられた。
五十年前は、火星に来るというだけで世界を上げた一大事業だった。自分も若く、そして火星探査に加われた誇らしさと意気込みでいっぱいだったし、火星で一緒に働ける友達だってできた。
今も火星に来るのは金のかかる極めて大きな事業だけれど、それでも少しは世界の日常になってきた感がある。
自分はタダが岩に当たったあの時、なにができただろうかと今でも考える。
できることはなにもなかったかもしれない。しかし、友人を置いて帰ってしまった罪悪感を胸に、火星に向き合うことになった。
タダも、あれから今日まで火星の大地を歩き続けてきた。彼が歩む姿はもはや、人類の多くに共有されている。本当のタダはそんな男じゃなかった。お調子者で気のいい、でも探査隊に選ばれるくらいには優秀な奴だった。そのタダを神格化させてしまったのは自分だ。
タダを置いてきた己。タダをアイコン化してしまった己。どちらも苦い思い出だ。それを償うために、火星に身を捧げ、議員にまでなったのかもしれない。今はタダの歩みを見続け、記録し続けることが奴の想いを汲むことのように感じていた。マーズサウザンウォーカー!ってな
そしてそのとき、増田に随伴する無人車両からデータを受け取ったAIが増田のユニットの異常な動きを検知した。
増田のユニットは、今まで刻み続けてきた一歩を踏み出せず、左足を火星の大地に置こうとしながらふらついていた。
地面は平坦で、砂礫が積もっているわけでもない。なにか異常が起きていることは明らかだった。
<左脚部フレームのB1,B2,B3信号全途絶。転倒リスク不明。救助要請レベルを231に再設定して送信>
サバエア探査基地では、増田の屋外活動ユニットのシステム音声も救助要請もどちらも聞いていた。
ほんの一歩前まで、左脚部 主軸の信号のうち途絶していたのはB1とB2だけだった。ここでB3が加わったのは、直前にさらなる破損が加わったためだだろう。フレーム破損時に信号が切れるように作られたものの信号が途切れたのだ。
しばらくして、増田の屋外活動ユニットは動き出した。観念したのか、右足だけで重量を支えられなくなったのか、ようやく左足を下ろした。
そして下ろした左足は、そのままひしゃげるように折れた。
増田は転倒し、前面を下にして倒れ伏した。
マークの元に監視AIからアラートが入ると同時に、非番の観測員からも連絡が来る。
「ベイカー団長! マスダが倒れました! 脚部破損!」
「追従車両に保護を実施させろ! サバエア基地、すぐ出せる車両はあるか!?」
「あります! 充電済みです!」
「よし、回収だ! 私以外に三人来い!」
マークは用意された火星探査車に乗り込むと、自らハンドルを握った。そうせずにはいられなかったのだ。
もちろん、詳細な地表データにより探査車は自動で進むのだが、マークは前方に視線を固定したまま操縦レバーを両手で握り締めていた。七十六歳の手には力が入りすぎて、関節が白く浮かび上がっていた。
「ベイカー団長。ロケーション確認。あと二キロです」
副操縦席のカーソン技官が、GPSを確認して告げた。
地表データもGPSも、ある意味増田がいたがために作られたようなものだった。その、歩き続けることによって火星の象徴になってしまった男が、この先で擱座している。
車両内は沈黙に包まれていた。
半時間後、彼らは増田の屋外活動ユニットが倒れた場所に到着した。
最初に車両のライトが捉えたのは、前方に横たわる白い塊だった。増田の屋外活動ユニット。第一次探査隊の古い型。それは今や火星の砂で赤茶けていたが、人の形をしていた。
一方の四人が着るのは新型。基地を出たときから着用していた2088年製で、体に吸い付くようなシルエットのそれは、火星探査車の中でも邪魔にはならなかった。
増田の、新型と比べたら不格好なロボットのようなシルエットの屋外活動ユニットのAIは、左足が外側に曲がりながらも、四人を出迎えて仰向けに姿勢を変更させた。
ユニットの外装には、50年以上の風化による磨耗が見られた。
マークが傍らに跪くと、増田のユニットはヘルメットのバイザーを透明状態にしてくれた。
そして中には増田のミイラ化した顔があった。
つい先ほどの、左足の損傷などでこうなったのではない。長期にわたり火星大気の極低圧と極低温、そして極度の乾燥にさらされた旅路の、当然の結果だった。
「五十年ぶりだな」
マークはつぶやいた。
この瞬間をどれほど想像したことだろう。若いころの自分なら、ヘルメットの中で顔をくしゃくしゃにしていただろう。しかし今のマークは、様々な想いがあっても昂ることなく増田に話しかけることができた。
横たわる増田の屋外活動ユニットは、宇宙服というより彫像のように見えた。かつての光沢は失われ、火星の風に削られた表面には無数の細かい傷が刻まれていた。左脚部分は明らかに変形し、内部のフレームが露出していた。
「タダ、来たぞ」
彼の背後では若い隊員たちが緊張した面持ちで佇んでいた。彼らにとって増田忠孝は伝説の人物だ。しかし今、彼らの目の前にあるのは、伝説ではなく、一人の人間の遺体を包むただのユニットだった。
「回収作業を始めよう」
マークは感情を抑えた声で指示を出した。
探査基地のデータ解析室では、白髪の二人が向かい合っていた。マークの顔には深い皺が刻まれているが、表情は明るかった。
オドネル博士は髪を短く整え、口元には笑みが浮かんでいた。
二人とも火星の環境に慣れたせいか、肌が乾燥して見える。
しかし今、二人の顔には同じもの――旅路を終えた者特有の、安堵と感慨が入り混じった表情が浮かんでいた。
「マスダのユニットの……振動センサのデータを見てちょうだい」
オドネル博士はデータを重ねて表示された地図を指さした。そこには、増田の屋外活動ユニットが五十年間にわたって記録し続けた、火星表層の強度データが表示されていた。
「このデータは、私たちが得ていない地表の詳細な情報を含んでいるの」
「それのデータは以前から受信できていましたが……、ああ、これは……」
「そうね。ユニット本体に格納されていたデータは、密度がはるかに高いわ」
投影された地図上には、火星表面の至る所に点在する空洞や地下氷の存在を示す部分が、鮮やかな色分けで示されていた。
「マスダは信頼できる火星の地表データを残してくれました」
「転んでもただじゃ起きない奴だ。これで私も奴も、ようやく一仕事終えましたよ、隊長」
マークはオドネル博士に昔の敬称で返した。
「彼はよく歩いたものよね。おかげで、いまだに火星に付き合わされて、火星探査もはかどったわ」
「タダはなにを思って歩いたんですかね」
そう言いながら、マークは一つの瓶を取り出した。
「あら、それ開けちゃっていいの?」
マークの手にあったのは、増田のウィスキーだった。かつて彼の私物入れにあり、その後に基地内に飾られていたものだ。それでも世界でもっとも有名な一本のひとつだろう。
「タダに、火星の千歩記念で一杯もらうって約束していたものでしてね。隊長もいかがです?」
「……千歩? 八百万歩は歩いたのに。でも、氷があるならいただこうかしら?」
「たっぷりありますとも」
マークは火星の珪素で作ったグラスを二つ掲げて見せた。
了
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