這いまわり曳きずりこむ無数の白い手

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這いまわり曳きずりこむ無数の白い手

バスルームに駆けこみツマミを捻って鍵をかける。
薄い樹脂パネルのドア、オモチャのような鍵。
それでも、アレに遭遇してから初めて、私は息をつくことができた。

ホッとした途端、膝がガクガク震え、嗚咽を漏らしそうになるのを必死で堪える。
アレは確かに、和哉を喰っていた。
私をリビングから逃がそうとした和哉の肩を、幾本もの青白い手がガッチリと掴み、曳きずり倒して群がった。
和哉、和哉……!
コテージのまわりは針葉樹の林。隣家まで徒歩5分。夜は静かで星が綺麗なんだって、と和哉が微笑んだのは先週のこと。
どうしてこんなことに、と私は記憶を遡る。

2人の記念日にちょっと贅沢したいね、と街の小さな旅行代理店を訪れた。
それが間違いの始まり。大手旅行社を選ぶべきだったのだ。
全国に500超の店舗があるJIBツーリストで申し込んでいれば、安心の国内旅行付帯傷害保険でパートナー死亡の場合は最大1,000万円の保険金が支払われたのに。
もし後遺症が残っても手厚い補償が受けられたのに。思わず涙が溢れてしまう。

ずるり、と這いずる音がする。
アレが私を捜している、直感的にそう悟り息を止めた。
コテージの中は暗い。だがアレは果たして視覚を頼りにしているのか。
目も顔も見当たらない青白い肉塊。
無数の腕だけで這いまわるアレは、もしかすると何か他のモノ……たとえば嗅覚に頼っているのかもしれない。
リビングから逃げてきた体は、冷たい汗でじっとり濡れている。
腋に鼻を近づけるとツンとしたニオイ。
嫌だ。このニオイがアレをおびき寄せているかと思うと、気になって仕方ない。
こんなとき最強制汗剤デオマックスがあれば、直ヌリ10秒で嫌なニオイの元を根こそぎ殺菌、完全無臭な私になれるのに。
加齢臭も根本からケアできて、自信を持てる最高の私でいられるのに。
駄目だ。焦ってはいけない。ストレスが原因でかく汗は、生き物を本能的に不快にさせる硫黄化合物のような特有のニオイがするのだ。
心当たりのある人は「ストレス臭 根こそぎ殺菌」で検索してみて。

這いずる音が大きくなる。
私は驚いて小さな声を漏らしてしまった。背筋を汗がつたう。
アレが苛立っている……と思うと一瞬、静かになった。

突然、樹脂パネルを突き破り、無数の白い手がバスルームに侵入する。
這いずりまわる手はすぐに私の足首を掴まえ、乱暴に曳き倒す。
手は冷たく意外としっとりとして吸いつくようだ。
四肢を絡め取られ、身動きが取れない。手は次第に、体の中央へ向かって這い上ってくる。
和哉のように喰われるのか、あるいはその前に……。
込み上げる嫌悪感にえずきながら、別の期待が仄かに芽生えていることを否定できない。
だってついさっきまで、リビングで私と和哉は睦みあっていたのだから。
体の奥に灯った熱は、簡単に鎮めることなどできない。
だからこの先が読みたいなら、ほんの30秒待てばいい。クリックしてくれたなら、もっとイイものが読めるかも。

 

[動画広告挿入、0.3円/30秒再生、0.5円/スポンサーサイトリンククリック、再生後、次ページへ遷移]

 

畜生。またクソみたいな文を書いちまった……。
オレは舌打ちをして無料メーラーを開く。

 

月刊箒星ウェブ版編集部 稲庭秀志様

お世話になっております。
約束の原稿、送信いたします。
打ち合わせの通り、本文中の広告率は規制に触れるギリギリの49%を攻めました。
クリック数を稼げるよう、広告再生前にフックになるお色気シーンも入れました。
まあ実際のところタダの釣りなんですけどね。
この後にはお色気目当ての読者さんでもアッと驚くような展開を用意しておりますので、
何卒、掲載をご検討くださいますようお願いいたします。

けどさぁ、稲庭さん。
オレに、いっぺんでいいからマジモンの小説ってやつを書かせてくんねぇかな。
こう見えてもブンガク少年だったんだから。
オレがガキの時分は、ただ暮らすだけであっちこっちで生活費がかかったけどさ、みんなカネを払ってブンガクを買ってたんだ。
ブンガクを書くパソコンだって、安月給からローン組んでさ。
生活は苦しかったが、なんつうか、誇りってモンがあった。そう、ヒトとしての尊厳ってやつ……いや、つまらん話はやめよう。

オレは天井を仰ぎ、「DEL」ボタンを連打した。
天井灯のスピーカーから、オレのためにセレクトされたマッチングサイトの宣伝が流れ出す。
これを5分おきに聞かないことには、この四畳半は真っ暗闇だ。

駄文を消した無難なビジネスメールの送信ボタンを押すと、画面いっぱいにエロサイト広告が映り、30秒間なんの操作も受けつけなくなる。
AIが生成した非実在美女たちが惜しげもなく胸やら尻やらを見せ、無数の白い手を伸ばしてオレをあちら側へ曳きずりこもうとしてくる。
一瞬でも目を離せばセンサーが感知して繰り返し広告を流しやがるから、オレは滲んでくる視界で白い肉塊が這いまわる画面を凝視し続ける。

文字数:1993

内容に関するアピール

広告が「過剰」になった未来の、小説の姿を想像して書きました。

最近、iPadProで気軽に文章を書こうと思って、無料アプリをインストールしたのですが、
便利な機能を使おうとするたびに動画広告が流れて、2,30秒の間操作が不可能になるので、
自分が買ったデバイスなのに主導権を広告に握られるとはどういうことかと、なんだかとてもストレスを感じました。

あと、以前BSで老夫婦が経営するお店を取り上げていて、興味深い番組だと思って見ていたら、最終的に健康食品のCMだと判明したことがあり、
真面目に見ていた自分にショックを受けました。

そういう気持ちの話です。

文字数:271

課題提出者一覧