人為的多重人格の地平
【じゃあ、二十二時までに、端末に指示がある宿題を終わらせてね。その後はネルに代わって早く寝させて。明日は大事な試合があるから】
居間のような脳内交流室の椅子からサチが頼むと、暗い壁際に佇んだ九年生の男子、マナブは無表情に応じた。
【了解】
そうして歩いてくる黒髪短髪の座学担当へ、サチは照明の当たっている椅子をさっと明け渡す。本当に頼もしい別人格だ。
(作ってよかったあ)
脳内交流室の奥の長椅子に寝転がり、サチは目を閉じた。暗がりからマナブを監視することもできるが、漢字ドリルや数学の文章題など見ているだけで頭痛がするので寝ているに限る。長椅子の足元では、絨毯の上で五歳の少女ネルが丸くなって寝ている。保育園の昼寝時間に寝ることが苦手だったサチが、初めて作った別人格だ。その穏やかな寝息に誘われるように、サチも眠り込んだ。
病院の精神科で人為的に好みの別人格を創造できるようになったのは、つい二十年ほど前のことだが、サチにとっては生まれた時からある技術。十五歳の現在に至るまで、折々に必要な別人格を作ってきた。それはサチの家族や友人達も同様だ。
〈サチ〉
部屋の内線端末から父の声が響く。但し、父の本人格より低い声で落ち着いている。サチが最も好いている父の別人格、家事担当のオサムだ。サチは即座にマナブを椅子から引きずり下ろして表を代わり、応じた。
「何、オサム?」
〈明日の弁当だが、中華かフレンチかイタリアンか和風、どれがいい?〉
胸躍る提案にサチは暫し考えてから答えた。
「イタリアンがいい! パスタとかアヒージョとかピザとか!」
〈了解。いつも通り、二回に分けて食べられるように容器を二つにしておく〉
「ジェラートもつけてね!」
〈そのつもりだ〉
穏やかに相槌を打ってオサムは通話を切った。
(やったあ)
快哉を上げながらサチは脳内交流室の椅子から降り、傍に立っていたマナブを再び座らせた。マナブは黙々と宿題の続きに取りかかる。
【これで明日の試合が余計に楽しみになった!】
笑顔で長椅子に戻ったサチに、暗がりに控えた別人格達が笑い返してくれた。
子ども時代はあっという間に過ぎ去り、サチは二十二歳で就職した。仕事は保育師だ。子ども達は愛らしく、彼らを保育し、教育する仕事は最初のうち楽しかったが、子ども同士の喧嘩を叱って止めたところ、叱り方について双方の保護者から文句を言われる事態となり、サチは新たにタエという別人格を作って凌いだ。きついことを言われてもひたすら耐える担当だ。タエの出番はその後もたびたびあり、表を押しつけるたび、サチは仕事が面白くなくなっていった。子ども達と触れ合う楽しい場面でさえ、いつ苦しい状況に結びつくか分からないと、タエに任せるようになってしまった。タエはサチのように明るくない。子ども達の心はタエから離れ、サチからも離れ始めた。子ども達にそっぽを向かれては仕事にならない。サチは陽気な性格のハルを作って子ども達の人気者に返り咲いた。保護者達からの評価も上がったらしい。しかしサチ自身は、どこか虚しくなってしまい、子どもの頃からの夢だった保育師を辞め、引き篭もりになった。
「サチ、それともタエか、ネルか、誰でもいい」
自室のドアの向こうで父の声がする。珍しく本人格の父だ。余裕のない喋り方で分かる。
「新しい別人格を作りに精神科へ行こう。もっと仕事向きの別人格を作るんだ。ハルを表に出せ。そうしたら部屋から出られるだろう」
「嫌よ!」
サチは枕に顔を埋めたまま怒鳴った。ハルならば確かに引き篭もりにはならない。けれど今、サチは引き篭もっていたいのだ。脳内交流室の暗がりから楽しげなハルを眺めていてサチは病んだ。だから二度とハルを表には出したくないのである。
【ハル、ごめん】
謝ると、長椅子の横に立ったハルは微笑んで首を横に振った。別人格達は皆、本人格たるサチに優しい。そう創造されている。
「勝手にしろ!」
父の足音が去った後、ハルが言った。
【別人格相談所に行ったらどうかな、サチ?】
肩を越えるさらさらの髪を揺らして、理想的な保育師のハルはサチの顔を覗き込んでくる。
【ほら、退職する時、園長先生から渡された書類の中に、パンフレットがあったじゃない? 別人格関連の多様な悩みに対応しますっていう】
最後まで心配してくれた園長先生の顔が思い浮かぶ。サチは表の椅子に座ったまま、ハルの明るい双眸を見た。いつの間にか、タエもマナブも、カケルもシマウも、サカナタベもネルも、傍に寄ってきている。皆、自分のことのように気遣ってくれている。否、皆、自分の――サチの一部なのだ。サチはこくりと頷いた。
二ヶ月後、サチが転職した先は別人格相談所。相談者として訪れた際、別人格達と生きてきた自分達世代に、心底必要な機関だと感じたのだ。
「どうぞ、こちらへ」
受付では、今日も本人格サチの明るい声が響いている。
文字数:2000
内容に関するアピール
仕事をしている時、やはり素の自分とは違う自分になっている部分があります。時には、斜め上から自分を眺めているように感じることすらあります。子どもの頃に読んだ『24人のビリー・ミリガン』という本から得た知識も相まって、便利な人格を人為的に「過剰」に作ることができる社会だったらどうなるだろうと考えて、このフラッシュフィクションを書きました。便利だけれど、自分自身が生きているという感覚が薄れていってしまって、サチのように感じる人がいるのではないかと想像する反面、別人格達の中からはとびきりの天才が生まれてくるのだろうなあとも思います。
作品中の保育師は、現代の保育士と幼稚園教諭の資格を統合した資格で、保育園とは子ども園と同様のものです。
文字数:316