由紀夫さん拾いました – VCの告白

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由紀夫さん拾いました – VCの告白

 残業でフラフラになった金曜深夜、地下の連絡通路を急ぐ。終電へ接続するための乗り換えは余裕がなくて、俺は息を上げて薄暗い通路を足早に歩く。三月下旬、生ぬるくて少し湿った空気が地下でどんよりと淀んでいる。

 階段を駆け上がろうとしたが足がもつれてしまい、つまづいた。ぶつけた膝の痛みに悪態をつく。冷たく、少しべとついた階段に片手をついて体を起こし、どうにかホームまでたどり着くとすぐ、電車が滑り込んできた。終電特有の息が詰まるようなにおいが嫌いだ。空いた座席にどうにか座り、手を払ってスラックスの膝を確認する。汚れていたが、破れなかっただけましか。布にこすれついた汚れを払い、水筒の中の水を軽く飲んでから文庫本を取り出し、目を落とす。

 

 未来社会を信じない奴こそが今日の仕事をするんだよ。現在ただいましかないという生活をしている奴が何人いるか。現在ただいましかないというのが”文化”の本当の形で、そこにしか”文化”の最終的な形はないと思う。

 小説家にとっては今日書く一行が、テメエの全身的表現だ。明日の朝、自分は死ぬかもしれない。その覚悟なくして、どうして今日書く一行に力がこもるかね。その一行に、自分の中の集合的無意識に連綿と続いてきた”文化”が体を通してあわられ、定着する。その一行に自分が”成就”する。それが”創造”というものの、本当の意味だよ。未来のための創造なんて、絶対に嘘だ。

 三島のいうことには未来のイメージがないなんていわれる。バカいえ、未来はオレに関係なくつくられてゆくさ、オレは未来のために生きてんじゃねェ、オレのために生き、俺の誇りのために生きてる。

 言論の自由とか、自由の問題はこの一点にしかない。未来の自由のためにいま暴力を使うとか、未来の自由のためにいま不自由を忍ぶなんていうのは、ぼくは認めない。

「欲しがりません勝つまでは」などという言葉には、とうの昔にりたはずじゃないか。

ー三島由紀夫 東大を動物園にしろ  初出 文藝春秋(昭和四十四年一月号)

 

 土日くらい仕事のことは忘れたかったのに、読む本を間違えてしまった気がする。うるさいな。未来を信じなきゃ、未来のためにある程度清濁併せ吞まなきゃ、何にもできやしないじゃないか。1年も経たずに大蔵省を退職して、作家業に専念するようになった人から”今日の仕事”について語られたくないね。

 あんたは若いうちにノーベル賞候補になって、日本国内でも映画俳優をおさえて一番人気になるような、本邦随一のカルトスターって言われるくらいの人気者になった。当時のあんたが日本をどのくらい大好きだったのかなんて正直言って今を生きる俺にはよくわからないし、あんたの目がどんな未来を見ていたのか、想像だってつかない。だけど、死に狂いだか何だか知らないけど、小さな子供達を残して自分の言いたいことを伝えようとするために小説的・劇的な幕引きを図って葉隠的な生き死にを全うしようなんていうのは、勝手がすぎるんじゃないのか。死に場所を求めて、最後まで表現者としてやり切っただなんて、あんただけの自己満足なんじゃないのか。観客の度肝を抜いてやった後に、舞台袖からひょっこり出てきたってよかったじゃないか。

 そうだよ。未来はあんたに関係なくつくられているよ。だけどそれは、『無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、る経済的大国』とは違うんじゃないか。一億総中流だなんてとっくに、誰も、思ってないじゃないか。

 富裕で、抜け目がなくて、周りをあごで使いながらニュートラルを装ってどうしたら稼ぎ続けることが出来るかだけにあくせくしているから、寝首をかかれるんじゃないかって疑心暗鬼にまみれてる奴らは勿論、今だって、いくらでも、いる。だけどそれはほんの一部で、大多数はその日その日のささやかな人生を全うしたいだけなのに明日をも知れぬ不安に怯えて、その不安に付け込まれるからこそ一方的に痛い目にあわされている、と言ったってそこまで的を外れてないんじゃないか。

 

 ぐるぐると考えているうちに電車の揺れにウトウトし、少し眠ってしまったようだった。本をとり落としそうになって気がつくと自宅の最寄り駅でドアが開くところだったので急ぎ本をしまい、身の回りのものを確かめて電車を降りた。ホームを歩いていると携帯が振動する。上司からの連絡でないことを祈りながら画面を開くとそれは、友人達から送られてきた写真付きのラインだった。

「遅くまでお疲れ!!また会おうな」

いい笑顔で写っている写真付きのメッセージに”いいね”マークを押し、

「今日はごめん。ありがとう。またな」

とだけ送って家路についた。

 

 俺は週明け月曜の投資委員会を控えてここ2か月以上、ずっと気を張っていた。今日だって、もうここまででなんとか、と思って帰ろうとしたら部長の石井さんに呼びつけられ、追加の資料とデータの提出を求められた。「もっと早く言って下さいよ」という言葉を飲み込み、貼り付けたような笑顔で

「ご指摘の通りですね……すぐにまとめます!」

と作業に取り掛かりつつ、トイレに行くふりをして友人達に、飲み会に行けなくなったことを詫びる連絡を入れた。

 もともと、今日は休みを取って木金土日と4連休にしているはずだった。俺はもうすぐ中途採用のVCベンチャーキャピタリストとして3年目を迎える。日々、それぞれにジェットコースターみたいな浮き沈みを繰り返しているのに緊張感のないことを真顔で言い、根拠の乏しい希望的観測とコミットメントについて滔々と語りだす経営陣に唖然としながらも、将来のリターンのため、常に新しい投資先を探索し、それなりに良さそうと思える先に相応の理由をつけて投資しなければならない。今年度に始まったことではないが、リスクオンの雰囲気が漂っていた中、右に倣って積極的アグレッシブに投資することに対し慎重な姿勢を崩せなかった俺は、今年度の投資目標件数に対してあと1件というところで組入れを進めることが出来ずにいたが、ぎりぎり、今年度中に付議できる最後の1件として、一昨日水曜の投資委員会で決裁を取得し投資実行すべく、準備を進めていた。

 しかし火曜夕方、別の投資担当先で深刻なトラブルが発生してしまい、昨日の祝日も返上して対応をサポートしつつ、投資委員会の実施を来週の月曜に延ばすことになってしまった。

「トラブルの対応方針としては問題ないのでそのまま進めて下さい。また、投資委員会が月曜に延びたのならもう少し、こういった根拠についても更に固められるのではないですか」

顔色を全く変えずに言い放つ石井さんとトラブル対応の方針に齟齬がなかったのはよかったが、投資委員会が延びたおかげでやたらと細かく追加の情報を集めることになってしまった。確かに、時間があればあれもこれもできるかもしれないし、一時期に比べればAIを使っての調査や資料作成の効率化で短時間でできることも増える事には増えたが……それはそれで検証に気を遣うし(シンプルに俺の調べ方・使い方がいまいちなだけかも知れないが、それっぽい題名の論文を根拠として引っ張ってくる割に、論文のリンクをクリックしても無効だという表示ばかりの出力を見た時はキーボードを叩き壊しそうになってしまった)、「こういうプロンプトで調べたら、こういう出力になったんです(だからしょうがないです)よね」なんて、それっぽいことをそれっぽく言ってしまうのはどうしても気持ちが悪い。できるだけ裏を取り、これなら、というところまでつぶさに見ようとすると、結局まぁまぁ時間を使うんだよな。

 いやま、突っ込まれどころが残ってるのはまずいよな、うん、と自分に言い聞かせて力技で追加の資料を作り、石井さんを含めた自分以外のメンバーがとっくに帰った後、ぎりぎりで電車に飛び乗った。合間に軽い夕食を腹に詰め込んだが、寝る前に軽く何か、あったかい物でも食べてから風呂に入って寝たい。いやもう、一応土日は事前申請がなければ仕事をしてはならないことになっているんだし、軽いつまみにビールぐらい飲んだってばちはあたらないんじゃないか。でも、大したものは冷蔵庫に入ってないし、こんな時間に何か作るのはしんどい。

 コンビニでささやかな総菜を買ってから家に向かって歩いていると、少し小柄だが、がっしりとした男がラフな服装で道端に転がっている。酔いつぶれて道で寝るなんていいご身分だな。わざわざ関わるものでもないだろ。

 無視して通り過ぎようとしたが、どうもその顔に見覚えがあり、ぎょっとして引き返した。軽くウェーブのかかった艶のある黒髪に縁どられ、目をつぶっているその顔は、俺が興味本位で検索した三島由紀夫の、亡くなった時の顔と瓜二つだった。勿論、他人の空似ということもあるだろうし、たまたまそう見えるだけかもしれない。少なくとも目の前の男は首が胴から離れていたりしないし、シャツに血がにじんでいるわけでもなく、腹から腸が飛び出したりしていない、と、思う。

 

 頭の中で髪型を丸刈りに変換してみる。大分似ている。顔色はそこまで悪くはないような気もするし、口回りに血や嘔吐の跡はない。俺は周りを見渡してからしゃがみ、男の太い二の腕を軽くたたき、声をかけた。

「大丈夫ですか」

息はしているようだが反応がないのでもう少し強めに腕をたたくと、男は眉間に少ししわを寄せてから、目を開いた。

 ぎょろぎょろとした目は薄暗い電灯の下でも白目が鮮やかで、これまで写真で見ていた以上の迫力がある。男は上半身を起こし、首元や下腹部を触ったりさすったりしながら、怪訝そうな顔をしている。俺は鞄から水筒を取り出し、

「大丈夫ですか。どこか痛いところとか、あります?水ならありますけど」

と声をかけると、目の前の男はまっすぐに俺を見つめ、

「君は誰だ。俺は、一体……」

そう言いかけてから口を一文字にし、周囲をにらみつけるように見渡す。駅から住宅街へ向かう、すこしひなびた道路の脇。終電を降りて歩く人はまばらで、俺たちの近くには誰もいない。男は特に酒臭くはなく、怪我はしていなさそうだった。俺は手に持った水筒を持て余す。

「大丈夫そうなら俺、もう行きますね」

とりあえず意識の確認が出来たので立ち上がり、その場を去ろうとした。男は、

「待ってくれ」

と立ち上がった。振り返ってみると男の身長は俺より低いが、どうにも体が分厚くて圧迫感がある。何も言わずに見つめ返すと、

「今日は、何日だ」

と訊いてくる。左手首のハミルトンを軽く確認すると、日付はとうに変わっている。

「3月22日です」

「何年の?」

「2025年」

男は軽く口を開けて小さく息を吸ったと思ったら少し長く息を吐き、軽く目をつぶった。

「あの……?」

「いや、すまない。少し、その水をもらってもいいだろうか」

無言で水筒を手渡すと「ありがとう」と受け取り、中身をぐびぐびと飲まれてしまった。

「あの、俺帰りたいんで、大丈夫そうならもう行きます。駅の方向とかわかります?電車終わってますけど、タクシーは待ってたら来ると思うし、スマホからも呼べるでしょ」

そう言って水筒を取り返そうとしたが渡してもらえない。怪訝そうに見る俺に、男は続ける。

「僕は、平岡公威ひらおかきみたけだ。1970年に日本で死んでいるはずなんだ」

さっき電車でとり落としそうになった文庫本にはその名が載っていないが、妻の深之梨みのりさんと正式に付き合う前、デートで互いの読んでいた本を見せあった時、はにかみながら渡してくれた少し風変わりなカバーの文庫本を開いてすぐの、作者の写真とともに添えられていた三島由紀夫の本名。読み慣れない名前をすらすら名乗るだなんて、モノマネも中々に徹底しているじゃないか。半ば呆れながらも、眠いし、早く家に帰りたいし、小腹が減っていることもあって俺は段々とイライラしてきた。

「お顔は、三島由紀夫さんに似ていると思います。今年は生誕100年だし、そっくり芸人としてどこかに売り込みに行った帰りとかですか」

男は一瞬目を見開き、口元をもごもごさせながら視線を左右に動かしている。俺はため息をつきながら、水筒を返してほしくて右手を男の前につき出した。男は俺の右手を見てから俺の顔をまじまじと見つめる。

「君は、僕の小説を読んだことがあるのか」

「小説とか、エッセイとか……そんなに沢山は読んでないですけど」

「もう少し、話を聞かせてもらえないだろうか」

とりあえず話をあわせてしまった俺があからさまに迷惑そうな顔をした時、二人の男の腹がぐうぅ、と鳴った。

 

 四の五の言わさず警察に突き出したい気持ちもあったが、食欲に負けた。空腹と疲労でやけっぱちになっていたのかもしれない。

「散らかってるし、素敵な戸建てのお屋敷とかでもありませんし、お手伝いさんなんていませんからね」

釘を刺し、家に入れた。男は狭い玄関で窮屈そうに靴を脱ぎ、丁寧に靴の向きを揃えてから、雑然と散らかったリビングに入ってきた。

「夜更けにお邪魔してしまい申し訳ないが、君はこの家に、一人で住んでいるのか」

家族向けの3LDKの賃貸マンションは確かに、一人で住むには広いだろう。

「去年の10月に子供が生まれたんです。俺も夜泣きとかにつきあってできるだけ面倒を見てたんですけど、あんまり、妻の気持ちに寄りそうことは出来てなかったみたいで。今は怒って、子供を連れて実家に帰ってしまってます」

「……そうか」

「いいから、とりあえず食べましょ。いいですよ、なんでも聞いて下さい」

俺はばさばさとダイニングテーブルを片付けてコンビニのビニール袋を机に置き、男と向かい合った。

 

 俺には学生時代の先輩に三島さんという人がいたので平岡さん、と呼ぼうかと思ったが、俺の中の三島由紀夫の強烈なイメージと目の前の男がどうも合致していたので、由紀夫さん、と呼ぶことにした。由紀夫さんは俺の名前も聞いてきた。しかし、男に名前で呼ばれるのは慣れておらず気恥しいので、勝手だとは思うが、こちらは苗字の望月もちづきと呼んでほしいとお願いした。相手は近代ゴリラと揶揄されたマッチョである。俺が一人で食べるために買ったコンビニの総菜だけでは全く足りず、箱買いしている栄養面が考慮されたカップ焼きそばを作ると、由紀夫さんはその様子をまじまじと見ながら大げさにお礼を言い、始めは怪訝そうに、次第にもりもりと食べていった。そうか、カップ焼きそばが発売される前に自決したんだっけ。それでも足りなさそうだったので、自分のためにストックしておいたサラダチキンを出そうと冷蔵庫に向かった。今更ながら、うっかり時空移動をしてしまった三島由紀夫でも、全く関係のない単なるやばい人でも、あんなムキムキな奴に襲われたら俺なんかひとたまりもないな。まぁ、もういいか。俺は覚悟を決め、冷蔵庫からサラダチキンとともにハイボールの入った350ml缶を2つ取り出し、ダイニングテーブルに戻る。うちには上等なブランデーなんて置いてないですよ、とか言ってやろうかとも思ったが、由紀夫さんは神妙な面持ちでこちらをまっすぐ見ながら、

「ありがとう」

と言って缶を受け取り、パッケージをしみじみと眺めている。

 

 深夜という概念を失っているかのように目をぎょろつかせている由紀夫さんに尋ねられるまま、俺は眠い目をこすりながら1970年以降に日本で、世界で何が起こっていったのか、キーボードを叩き、ディスプレイを示しながら説明をしていくことにした。はじめ、

「なんだ、このえらく薄いテレビみたいなやつは……これはタイプライターじゃないのか?」

と言っていた由紀夫さんは、俺がディスプレイ内でウィンドウを増やしたり減らしたりする度に大仰にぎょっとするような顔をしていたが、そのうち、

「少し触らせてくれないか」

と、マウスやキーボードをおぼつかない指先で恐る恐るいじりながら、自分で色々と検索し始めた。俺はとにかく眠くて、いい加減面倒くさくなって来たので、パソコンやネットの使い方を概ね教えてから、先に寝ることにした。

 由紀夫さんがトイレに立った隙に自分の貴重品類を鞄に詰め込んでおき、寝室として使っている和室から由紀夫さん用として一組、布団をリビングへ持ち出した。由紀夫さんには家のどこに何があるのかを伝え、食べ物や飲み物は自由に食べたり飲んだりしてもらって構わないが、いくら現実に悲観してもこの家の中で自死しようとはしないでほしい、そもそも俺は介錯なんてできないし、そのための道具もない。残された俺がどれだけ説明に困ることになるか想像してほしい、とだけ念を押して和室に入って寝た。深夜3時は過ぎていたと思う。

 

 

 夜遅くに飲んだハイボール缶で重たい頭に、カシャン……カシャン、という音が聞こえてきた。目をうっすらと開けるとカーテン越しに強い光が届いている。朝の10時すぎくらいだろうか。枕元に置かれている貴重品を詰め込んだ鞄が、昨日の出来事が夢ではなかったことを示している。和室を出て、恐る恐る音のする、俺の作業場兼物置部屋をそっと覗くと、少しだけ開いたドアの隙間から、ホームトレーニング用の機器にどっしりと座り、鬼の形相で髪と額を汗で濡らしながら、チェストプレスに励んでいる由紀夫さんがそこに居た。

 道端で会った時から着ているTシャツにも汗がじっとりとにじんでいる。どれくらい筋トレをしていたのだろうか。あんなウェイト、俺は挙げたことないぞ……こわい。

 じっと見ていた俺に気が付いたのか、ぎょろりと俺を一瞥し、ニヤリと微笑んで由紀夫さんはそっとグリップをもとの位置へ戻した。息を切らして肩を上下させながら両手を膝の上に置き、濃いめの笑顔で言う。

「いや、起こしてすまない。おはよう、望月君。……なかなかの使い心地だな」

濡れそぼっているTシャツの肩口で頬のあたりの汗を拭いながら続ける。

「インターネットで使い方を調べて使わせて頂いたよ。ありがとう。大丈夫、君の言いつけの通り、7時を過ぎるまでは動かしてないし、ばたばたと音のするような自重トレーニングだって勿論やってない」

そう言い切った由紀夫さんは、口を真一文字に結んでどことなしかドヤ顔である。とりあえず俺の作業場兼物置の湿度と熱気がやばいことになっている。俺は顔をしかめながらドアをあけ放ち、

「おはようございます……とりあえずシャワー、浴びます?僕のでよければ着替えとタオル、貸しますんで」

「何から何まで、すまないな」

はにかむように笑う由紀夫さんを着替えとタオルと共に脱衣所に押し込み、念のため、家の中が荒らされていないかを確かめた。家の中は荒らされるどころか、どこかピシッと片付けられている。由紀夫さんは俺が寝ている間、水くらいしか飲まず、ひたすらネットを見るか筋トレをするかだったのだろうか……と思ったが、漫画が何冊かテーブルの上に出されていて、他にも本棚が物色された形跡がある。そうだった。赤塚不二夫やあしたのジョーを愛読していたんだっけ。俺は手塚治虫も好きだけど、単行本は実家に置きっ放しでよかったのかもしれない。

 少し拍子抜けした気持ちで歯を磨きつつ冷凍庫を開けると、がらんと隙間の空いている庫内では、深之梨みのりさんが「もう知らない!」と言い放って実家に戻る際にサブスクを停止させて以降、誰からも手を付けられずに放置されているスムージーのパウチたちが数個転がっている。朝飯は二人分のプロテインスムージーでも作るか、と俺はぼんやり考えた。

 

 シャワーを終えて出てきた由紀夫さんにスムージーを渡し、飲み始めたことを見届けてから、俺もシャワーを浴びた。身支度を済ませリビングに戻ると、こざっぱりとした由紀夫さんは神妙な面持ちで、組んだ両手をテーブルの上に置いて座っている。

「どうかしました?」

「君には何から何まで、本当に、世話になっている。先ほどの飲み物も甘すぎず、美味しく頂いた。どうも、ありがとう」

そう言って深々と頭を下げる。

「いいえ、別に……」

「迷惑をかけている事はわかっているが……もう少しここに置いて、色々と教えてくれないか。ただで居候させろとは言わない、何か、僕にできることはないだろうか」

落ち着いたんならとっとと出ていってもらえますか、とは、言いにくい雰囲気だ。

「何って……」

俺は視線を泳がせるが、由紀夫さんは微動だにせず俺を見つめている。由紀夫さんを拾ったおかげですっかり頭から抜けていたが、明後日月曜の投資委員会、資料はあれでいいと思ってるけど、どうもまだ、もやもやしてるんだよな。

「俺、今、ちょっと仕事のことでもやもやしてて。少し外でも歩きながら、話を聞いてもらってもいいですか」

家の中に二人でいても息苦しいので、とりあえず家の外へ連れ出すことにした。

 

 背は決して高くないが堂々たる体軀たいくの由紀夫さんは、俺の服だと丈が少し余っている一方で胸まわり・腕まわりが少なからずぴっちりとしてしまっている。それに加えてこの顔つきだ。

「世を忍ぶということで」

と使い捨ての紙マスクを渡すと、しげしげと紙マスクを眺めたり手触りを確認したりしてから、そっと、「これでいいのかね」と、つけてくれた。俺が頷くと、秘密の探検に出かける前の子供のように少しニヤッと目を細め、遠慮なく街をきょろきょろと眺めている。

 電車に乗り、二人で車窓を眺めているとほどなく、東京スカイツリーが見えてきた。

「あれ、東京タワーより高いんですよ。倍より少し低い、634m。むさしって覚えるんです」

電車が地下に入って窓の外が暗くなると、由紀夫さんはドアの上のディスプレイに表示される行先や広告をにらみつけていたが、ほどなくして舟を漕ぎ始めた。

 正直、そのまま置いていこうかとも考えたが、無防備に眠っている様子を見て思いとどまり、国会議事堂前駅の少し前で揺り起こした。

「乗り換えますよ」

駅名を見て、きょろきょろと周りを見渡す由紀夫さんを連れて南北線に乗り換え、四ツ谷駅で降りる。地下道を通り、エスカレーターを登って駅ビルでテイクアウトの食べ物を物色する。ドーナツ屋のショーウィンドーを少年のように見つめている由紀夫さんには申し訳ないのだが、俺は、ブランチを甘い物だけで済ますのはいやだなぁ。

「ハンバーガーをぱくつきながら歩くのはべとべとしそうで嫌なんですけど、クロワッサンサンドとか、どうですか。……プチ・ガトーはあるかな?俺はカヌレも好きですけど」

何やらもじもじとしている由紀夫さんに、

「将来何とかして返してもらいますから、遠慮なく選んで下さい。俺一人で食べてるのはおかしいでしょ」

と言いながら適当に二人分の食べ物を買い、駅ビルを出た。昨日は小雨のまじった曇天だったが、今日は晴れて日差しが暖かく、眩しい。レタスとパストラミビーフ、チーズのはさまったサクサクのクロワッサンを頬張りながら、俺は自分の仕事について、由紀夫さんに聞いてもらった。

 

 明後日月曜の投資委員会に付議しようと思っているネクサリア株式会社は、情報通信ソフトウェアの開発企業である。この会社の技術顧問兼創業株主はScience、Natureといった学術誌における査読も任されており、技術レベルについては相応に信じていいのでは、と思っている。一方で経営陣はどうも掴みどころがないというか、肝心な話をしようとすると、どうとでも取れるような言い方に終始するようなところがある。この前も、そもそも経営者として今後どんな会社にし、事業を進展させたいのかについて深堀りしようとしたのに、

「不確実性の高い領域ですから、是非、一緒に考えて下さい。僕たちは、口を出して頂くのも大歓迎です。そのための出資じゃないですか」

とはぐらかされてしまった。それもあって経営陣の評価としては優・良・可・不可の四段階中、不可よりの可とし、経営陣としての資質には不透明さが残り、丁寧なモニタリングが不可欠、としていた。また、今回調達する資金使途の内の研究開発費用の2~3割と補助金の両方を活用し、産業用ロボの要素技術を請け負う小さな町工場を買収してネクサリアの持つ情報通信技術を産業用ロボへ応用することを謳っていたが、この詳細が判然としていなかった。エージェント型AIからフィジカルAIへと実現・実装の確度が高まっている昨今、二社の要素技術の組み合わせは旬でもあり面白いと感じたのだが、その協業の具体的な道筋や開発体制に関しては当初、大まかな絵姿しかこちらに伝わってきていなかった。この点についてマネイン経営陣インタビューで確かめようとしても出席した経営陣は言葉を濁すばかりで、再度メールで確認してようやく計画書が転送されてきたと思ったら、それは町工場の現場の担当者が作ったもので、ネクサリアのマネジメントとしてはCTOを中心にフォローしようと考えているが、そもそも調達総額に比べたら大した額ではなく、試行錯誤の一環なのだから、今時点で詳細な計画書や開発体制を提示してコミットするものではないという、粗雑ともとれるような回答が返ってきた。彼らとしては、俺の所属している会社が投資判断をする前に、既にファーストクローズで複数の投資家からの着金が確認できているので、そもそも、俺たちが投資しようがしまいがどうでもいいのでは……?

 とまで考えてもやもやとしつつ、とはいえ俺は俺で投資担当者としての年度内の投資実行件数ノルマがあることもあり、投資委員会での決裁取得に向けて準備を進めているところだった。

 

 由紀夫さんへは、そもそもVCとは何か、みたいな話をしなければならなかったので、家に置いていた、中学生2人組がプロの漫画家を目指し、作品のアニメ化に向け奮闘する漫画を引き合いに出しながら、

「僕は小説を書いたことはありませんが、あの作品を読んで、作家と編集って起業家とVCみたいだなって思ったんですよ。作家、いや起業家は、その持てるリソースをふんだんに振り向けながらビジョンの実現に向け奮闘するわけですけど、VCは必要な資金を投じるだけではなく、陰に陽に起業家を支援しながらビジョンの実現、すなわちヒットの達成に向け伴走する、という感じです」

と話してみた。由紀夫さんは、

「なるほどな。そして君の言うように、今や、そもそもよくできたからくり人形たる人間がそれぞれの芝居の中で、精緻なからくり人形を作りつつあることから、その分野で勝者となる事がそれなりに見込まれる先へ君たちは投資したい、ということなのだな」

と言い、少し考え込む。

「ところで君は、望月君は、学校から出てからずっとその仕事をやっているのか?どうして今の仕事を選んだんだ?」

線路を越えて市ヶ谷駅も過ぎ、遊歩道を歩いている頃、そう問われた。俺たちはベンチに腰を下ろし、春の暖かく、少し荒っぽい風に吹かれながらお堀の向こうの大学を眺める。

「俺は学生時代、自然科学を専攻していました。シンプルに、サイエンスを勉強するのは楽しいし、そのまま研究者になるんだと思ってました。最初に就職した企業はもの作りの会社で、研究開発と事業開発の両方を経験させてもらって、やりがいもあった。だけど、会社が業務改善命令を受けて時間が空いちゃって。まだまだ働き盛りっていうか、もっとがっつり働きたくて、今の会社に来たんです。学生時代に志していた自然科学に直接貢献できなくても、間接的にでも、自然科学を活かした先の、先端技術の実現に自分も貢献したい、そんな気持ちで仕事をしたくて、移ってきたんです」

「そうか。検討先の会社は、ネクサリアと言ったか。君は今そのまま投資して、自分の自尊心を守ることはできるか?彼らに、自然科学や、先端技術への思い入れはあるのか?君と比べてそれはどの程度なんだろうか。DDデューデリジェンスというのは、当然に行われるべき、注意義務なんだろう?」

いつの間にか紙マスクを外していた由紀夫さんは一語一語、俺に語りかける。シャツから覗く腕は太く、毛深い。俺は軽く唇をかみ、少し息を吐いて学生の頃を思い出していた。履修生の約半数が前期が終わる前に講義に来なくなった通期の電磁気学演習。後期まで出席しきって、単位が取れたのは履修登録したうちの2割強くらいだっただろうか。教授はおっかないけど演習は面白くてやりがいがあったんだよな。あの頃の俺は多分、自然科学とそれなりに斬り結んでいたんじゃないか。今は、どうだろう?

「すみません。少し、電話します。ちょっと待っててもらえますか」

由紀夫さんに断りを入れ、携帯を取り出す。

 

「おやすみのところ、すみません。大海おおうな企業投資の望月です。先日のマネインでどうしても三枝さえぐささんから直接聞きたい内容があったのですが……いや、メールでの質問へのご回答は拝見しました、ありがとうございました。大変助かりました。……もう、体調は問題ないですか。どうしても、もう少し、伺いたいことがあって。明後日月曜の投資委員会でようやく貴社への投資の決裁を得られるかと思うんですが、少し、頂戴した文章からは読み切れなかったというか……30分くらいで構わないので、明日、直接お話しできませんか。ご都合のつくところへ伺います。……えぇ勿論、お子様とご一緒で全く問題ありません。お休みのところ無理を言って本当に申し訳ないです。……はい、ありがとうございます。では、明日。本当にありがとうございます。どうぞよろしくお願い致します」 

俺はお堀の向こうを眺めている由紀夫さんの隣りで両手で携帯電話を持ちながら、深々とお辞儀をした。先方が電話を切ったことを確認して顔を上げると、対岸の桜のつぼみを揺らしたあたたかい風が俺の顔を撫で、そのまま背後の近代的な建物に向かって吹き上がっていった。

 

 翌日の昼、待ち合わせに指定されたのはとある大学構内のカフェだった。地下鉄での移動中、三枝さんから「すみません、子供の離乳食に手間取ってしまって、30分くらい遅くなりそうです」とのメールがあった。

「無理を申し上げているのはこちらですから、ゆっくりいらして下さい」

と返信し、のんびりと待ち合わせ場所に向かうことにした。

 都内の一等地に重厚なレンガ造りの建物群がゆったりと配された大学構内は、卒業式を間近に控え、明るい雰囲気の中でまばらに人が歩いている。昨日より少し肌寒いが、点在している芝生の広場には3~4歳くらいの子供を連れた親たちがめいめいに過ごしていて、柔らかな光の中でゆったりとした時間が流れていた。白い木蓮の花々は盛りを過ぎて一部茶色くなった花びらを地面に散らしていたが、ところどころ目を凝らすと小さな桜の花々がそこかしこで控えめに咲き始めている。 

 改めて指定された時間の5分くらい前に、三枝さんが抱っこ紐で固定した娘さんとともに現れた。

「三枝さん、おやすみのところすみません。本日はありがとうございます」

「いえ、そちらも大変ですね。すみません、立ち止まると子供がぐずってしまうかもしれないので、歩きながらお話するのでもいいですか」

「勿論です」

娘さんは、そのくりくりとした黒目をこちらにじっと向けた。うちの子より何か月か早く生まれたんだっけ。すべすべ、ふわふわとした頬はほんのりと紅色がさしていて、唇は薄く小さいのにつやつやとしている。俺が目を合わせ、

「こんにちは。ごめんね、少し、お父さんとお話をさせて下さい」

と言うと、ぐるんと首を逆の方向に向けてからじっと三枝さんを見上げた。三枝さんは微笑んで娘さんを見つめ返し、抱っこ紐ごしに娘さんの背中をとんとんと叩くと、

「ちょっとお父さん、おしゃべりしてるからね」

と声をかけ、俺に目配せし、歩き始めた。

  

 俺が一番確認したかったのは、ネクサリアと町工場との協業の具体的な道筋だった。PMIM&A成立後の統合プロセスは誰がどう主導していくのか。

「この前のマネインでも、メールで頂戴した回答でも、いまいち、誰がどうPMIを遂行されていくのか、よく見えなかったんです。ずっと前に技術DDで僕がそちらへお邪魔した時、三枝さんと先方の太実碕たみざきさんと一緒に話をさせて頂きましたが、その時は適切なコミュニケーションができているように思えました。また、推測ですが、あの計画書は太実碕さんがご作成されたのでは?一方、開発体制の組織図に太実碕さんの名前はなかった。跡取り娘として外部から立て直しのために戻ってきた太実碕さんは、今後も重要な役割を担われると考えていますが、どうして組織図に名前が載っていないのでしょうか?」

少なからず前のめりに聞いてしまったかもしれない。三枝さんは俺の言葉に丁寧に、静かに頷きながら歩いていたが、しばらくして、

「そうですね……太実碕さんは、僕達の技術についても熱心に勉強して下さり、ものすごい勢いでキャッチアップされ、先方の現場の皆さまは勿論、ネクサリアの技術メンバーとも良好な関係を築いて下さいました」

「えぇ、先日の工場でのヒアリングでもそういった印象を受けました」

話の内容とは裏腹に、三枝さんの表情は暗い。キャンパス内をぐるぐる歩くうち、胸に抱かれた娘さんはウトウトしてきたようで、三枝さんはフードカバーで優しく頭を押さえながら、パチン、パチンと抱っこ紐にボタンを留めてフードカバーを固定し、娘さんの頭を自分の胸元へそっと寄せる。

「しかしつい先日、僕の管掌しているネクサリアの技術開発部門と、先方の太実碕さんをはじめとする技術部門とで重複する陣容について適正化を図る必要があるとの方針が示され、僕の管掌範囲の欠員を認めることはできず、太実碕さんにお辞め頂くことになったんです。太実碕さんはネクサリアの技術開発メンバーより広範な経験もお持ちであるため、このままご一緒せずとも、他の場所でも十分にご活躍頂けるだろう、ということもあります」

「それは……その前提で、あの計画書を書いてもらったんですか?」

「いいえ、お辞め頂くことになったのはついこの前です。ご存じの通り、太実碕さんは技術や顧客に対して篤実で、僕としても、一緒に働き続けたかった。ただ、先の計画書について社内のマネジメントと話をする時、一部のメンバーから、どうせ補助金を出す側は技術なんて分かっていないのだから適当に書けばいい、後で何とでも説明をすればいい、といった発言をされたことに太実碕さんはひどく憤られていました。僕から見ても、太実碕さんと社内マネジメントのメンバーとで、人間としての相性が良いとは思いにくい、とは、感じましたが……」

そこで三枝さんは言葉を切った。俺が続きを促すように三枝さんを見つめても、それ以上の何かが出てくる様子はなかった。しばらくお互いに無言で歩みを進めていく。キャンパス内の意匠を凝らされた石造りの大きな建物群は、そんな俺達の様子とは一切関係なく、当たり前のようにどっしりと佇み続けている。

「そうですか……そうすると、話を元に戻してしまって恐れ入りますが、どなたがこちらの計画書の実行とPMIを主導されることになるのでしょうか」

「太実碕さんがもうおられない、携わることが出来ない以上、僕が計画書をなぞるしかないでしょうね。ただ、ご存じの通り、充当できるコストは研究開発費用の2~3割です。正直、CTOとして会社全体の状況を見ながら、並行して残された製作所の皆さまを太実碕さんに代わって鼓舞し続けるのは僕にはとても、荷が重く感じます」

俺よりも少し背が高い三枝さんは少しうつむき加減に、両手で娘さんを軽く抱きながら目を伏せる。俺はかける言葉に迷ったが、

「すみません。そこまで聞くと、僕は貴社の事業進捗そのものにも不安を感じかねません。三枝さんご自身は、今後、どうされたいのですか。どういったビジョンで、今後、ご自身の職責を果たされていくのでしょうか」

一息に言うと、三枝さんは表情を暗くしたまま微笑んで応じた。

「まぁ、僕にも生活がありますからね……ほどほどに、自分がつぶれないようにやるしかないのかなと思っています。子供もまだ、小さいですしね」

 

 

 これまで感じていた複数の違和感が符合してしまった。月曜の午前、俺は投資委員である管掌役員の森口さんと上司である石井さんの時間を少しだけもらい、起案取り下げについての説明をさせてもらった。

「つまり、経営陣による杜撰な経営姿勢は留意すべきリスクであるだけではなく、実務担当者の一方的な排除によってPMI成功の蓋然性が損なわれ、会社全体としての開発進捗の遅延も見込まれるため、本件起案は取り下げが妥当である、ということですね」

「はい。……すみません、私自身、年度末の組み入れ件数目標に気を取られ、自分の違和感に蓋をしたまま、決裁を進めようとしていました。しかし週末、色々と考えているうち、再度のヒアリングの必要があると考え、先の状況について聴取してきた次第です」

二人の上席の視線を受け、俺は続ける。

「私のしている仕事は、不確実性の高い未来に対してできる限り情報を集め、仮説を組み立て、投資家のご理解を頂いて投資を進める、未来を信じる仕事であるといった側面はあると思います。………ですが、試行錯誤という言い方で現在ただいまのお金の使い方の規律が緩んでいたり、協業相手や現場で正に手を動かしているメンバーへの振る舞いに誠実さを欠く経営陣は、どれだけ今日の事業運営に真剣なのでしょうか。私達が今回投資しようが投資しまいが、関係なく会社は存続するかもしれません。場合によっては、それなりのリターンが出る可能性も一定程度ある、ないこともない、かもしれません。ですが私は、もし自分の身に明日の朝、何かあったとして、今日の投資メモの一行に力をこめられないような起案は取り下げるべきではないかと、ようやく思い至りました。もっと早い段階で、時間をかけずに違和感を精査し、取り下げるべきだったと反省しています。申し訳ありませんでした」

深々と頭を下げた。しばらくしてからそっと頭を上げて二人を見ると、森口さんは、

「なんか、どこかで聞いたことのある台詞だね」

と石井さんを見ながら苦笑している。

「三島由紀夫じゃないですか。”未来のための創造なんて、絶対に嘘だ”と続くのでは?」

俺が目をぱちぱちさせて石井さんを見返すと、

「あぁ、あの口述筆記か」

森口さんがニヤリとする。俺が二の句を継げずにいると、石井さんが口を開いた。

「取り下げの背景は、わかりました。無理に投資せず、しっかりと取り下げ理由を確認することが出来たのはよかったと思います。この会議の後すぐ手続きを進めて頂くとして、望月さんのネクストアクションはどうしますか。ネクサリアに関してはもう、工数を割く必要はないと思いますが」

いつもの鋭い視線を俺に向ける。

「ありがとうございます。……そうですね。まずはアタックリストを洗いなおして一定期間経った複数のフォロー先へアポを取りつつ、現時点でカバーすべきモダリティについて見直そうと思います。正直、この会社のDD開始前と今とでは地政学的なリスクは勿論、貿易戦争による影響の変化が大きい気がしていて、その前提で新規の候補先を探しなおします」

「まぁ、そうですね。丁度よいタイミングだと思うので、そういった観点で何か有益な視点や資料にあたることが出来たら、是非チームにも共有して下さい」

 

 他案件についての議論を続けるという二人を会議室に残してデスクに戻ると、後輩の里中さとなかが隣の席から話しかけてきた。

「で、取り下げちゃったんすか」

「そうだね。……あ、ごめん。今の話を要約して起案を取り下げますって全体連絡して、発行体にも伝えないといけないから、ちょっと待ってて」

「うす」

 俺はキーボードに向かい、先ほどの議論をまとめていった。社内関係者への全体報告と一通りの取り下げ手続きを行い、ネクサリアの管理部門と既存投資家への謝絶連絡を終えて横目でのぞき見ると里中も何やら電話をかけながら忙しそうにしている。俺も先の宣言通りに次の投資検討先探索のために今できることを進め、少し早い昼休憩に里中を誘った。

 

 オフィスから少し歩いた先にあるビストロは、早めに入らないとすぐに席が埋まってしまう人気店だ。今日くらいはプラス300円出してハラミステーキを注文しよう。里中が選んだポークソテーも生姜と蜂蜜がいい塩梅で、うまいんだよな。

「いやー、もったいなかったっすね。ここ2か月くらいずっと夜遅くまで残ってたじゃないすか。ラウンドの座組としては綺麗だし、投資回収時期エグジットの見込みがだいぶ先で投資時時価総額エントリーバリュエーションはそれなりに抑えめ、言い方悪くなっちゃいますけどそこまで大した投資金額でもなかったんだから、件数稼ぎだと思って目をつぶってやっちゃえばよかったのに」

「まぁねぇ……」

柔らかい飲み味のグラスの水を飲み、サラダと前菜にフォークをさしながら、俺は言葉を探した。

「あぁ、いや、ね。まぁ、これまでのDDデューデリコストもあるからさ、過去の事例も色々とさらって見てみたんだよ。要素技術としては良さそうにも見える。経営陣が現状今一つであっても、将来に期待してみようって投資した先が、投資後、どういう経過を辿っていったのか」

俺は手元の携帯端末から会社のデータを呼び出しながら、里中に見せた。

「この会社、知ってるか」

俺が話しながらとある会社のモニタリングシートを示すと、

「あぁ、これか……できるだけ慎重な投資メモを書いて投資したのにそれすら下回る進捗で、ハンズオンをしようにも既に根腐れが起きてしまっていた、っていう投資先ですね」

里中が画面に目を落として見ている間にメインとライスが運ばれてきたので里中は俺に端末を返し、俺たちはそれぞれの肉料理をライスとともにかっこんだ。昨日もなんだかんだ、取り下げの合理性を説明するために夜なべしてしまって朝食を軽く済ませてきたから、焼きたてのミディアムレアのハラミと白米の組み合わせがたまらない。何口か食べた後、俺は続けた。

「俺たちは投資した後、入手できる情報はごく限られるし、中をつぶさに見ることはできない。関与だって限定的だ。だから、できる限り投資前にしつこいくらい、DDデューデリするだろ。俺はあやうくさっきの会社のケースと同じ様に、人的リスク・ガバナンスリスクに関して目をつぶって投資するところだった。”これからの成長に期待”とかなんとか書いちゃったりしてね。だけど、図らずも今回、PMIと開発進捗にリスクありと自分で判断して見送ることが出来たのは多分、よかったんだと思う。まぁ、既存投資家やファーストクローズで先に投資してるVCに次会った時、詳しい見送り理由を聞かれたりしたら、正直気が重いよ。現経営陣の言葉を借りるなら、株主間契約で指定されない現場レベルの実働メンバーをどう扱おうと株主に言う筋合いもなければ、会社としてそれが事業進捗上の重要事項とは考えてない、とか言い張る事だって理論的にはできるんだろうけど……ただ、俺が逆の立場なら、ファーストクローズの後、株主間契約で取り決めのある経営上の重要な意思決定とは言い切れないかも知れないが今後の事業進捗に相応の影響が見込まれる事象を確認した、ので弊社としては投資できません、だなんて、新規投資家候補に言われたくはないよ。それって、”あなたたちの目には見えてなかったのかもしれないけど、この会社には、こんなリスクがあったんですよ”って新規投資家候補から言われるってことじゃないか」

「なんつーか、真面目すね」

「別にそんなつもりはないよ。真面目不真面目なら、着々と件数を稼いでる里中さんのほうがずっと真面目なんじゃないの。少なくとも俺は今年度の実行件数未達確定で、やばいだろ」

ため息交じりに自嘲気味に言うと、

「そうっすねぇ」

斜め上をぼんやりと見つめながらつぶやいた里中は俺の顔に視線を戻してにやりと笑い、

「俺、次のボーナスは多めにほしいと思ってますから、人事考課の前にもっとパイプライン積み増しときますよ」

なんて言ってのける。

「きっつい嫌味だねぇ、それさぁ」

苦笑しながら少し強い調子で言い返す俺を窘めるように、運ばれてきた温かなコーヒーが二人の前にそっと置かれた。

 

 一服してから戻ると言う里中と別れ、俺はデスクに戻って立ったまま腰をかがめてメールを軽く確認し、決裁の取り下げで不要になった諸々のハンドアウトを自席の引き出しから取り出して、文書廃棄Boxへばさばさと放り込んでいった。何か紛れ込んでいないか念のため確認していると、

太実碕製作所たみざきせいさくしょ 太実碕たみざき 芽以めい」と書かれた質素な名刺が出てきた。

 名刺交換して話を聴いた時を思い出す。結局、一度しか会うことはなかったが、こんな後継ぎがいるのであれば、周りの従業員もモチベーションを高く維持しながら働けるのではないかと思っていたのだが。

「きっとなんとかなりますよ。いえ、三枝さんとも協力しながら、なんとかしていきます」

オイルの匂いが染みたつなぎに身を包んだ太実碕さんの柔らかく、静かにはにかんだような笑顔が浮かぶ。一旦デスクに戻って名刺のデータ化が済んでいることを確認し、そのまま廃棄Boxに入れようとしたが思いとどまり、名刺ホルダーにそっとしまっておいた。

 

 午後、何とか木曜以降にアポが複数取れたこともあり、先週木曜の振替休日を明日取得する申請が承認されたことを確認して早めにオフィスを出た。家に帰ったら由紀夫さんに、ネクサリアへの投資を取り下げたことを話そう。明日は休みが取れたし、いいお酒と野菜と肉でも買って鍋にしようか。っていうか、どうしたらいいのかな、由紀夫さん。さすがにずっと居座り続けられるってことになると、深之梨さんにどう説明したらいいのかわかんないな。とは言え、そもそも仲直りできてもいないからなぁ。その辺も由紀夫さんに聞いてみるか。お説教されそうだけど、まぁしょうがないな。鳥鍋でも一緒につつきながら話をしてみよう。

 

 家に帰り、郵便受けを開けると由紀夫さんに渡した筈の合鍵が入っている。丸二日一緒に過ごしていたが、俺が仕事に出ている平日日中に一人で家に引きこもっているのもどうかと思って今朝、渡しておいたものだ。

 がらんと整えられたリビングのダイニングテーブルの上には飯田橋駅の近くで買ったマドレーヌが数個、残されている。置き手紙らしきものは何もない。ふらりとどこかに行ってしまったのだろうか。少し待っていれば、この家に戻ってくるのだろうか。連絡する手段があるわけでもないので、探しようもない。俺は、二人分の鍋の材料をどうしようかと一瞬途方に暮れたが、まぁいいかと野菜と鶏をザクザクと刻み、とりあえず一人で食べきれる分だけを鍋に入れた。マドレーヌをわきに寄せ、テーブルに置いたカセットコンロに火をつけて鍋の様子を見ながら買ってきた日本酒を開けて徳利に移し替え、お猪口に注いでちびちびと飲み始めていると、登録している実業家YouTuberの通知が目に入った。

 

“緊急生配信 現代によみがえった三島由紀夫”

 

俺は傾けかけたお猪口の酒にむせそうになり、一度、二度と咳込みながら一旦お猪口をテーブルに置いて、携帯を両手でとって見直した。何かの間違いかと思ったがリンク先を開くと、画面の向こうには髪をすっかり整えて目をぎょろつかせ、精悍な面持ちで声を響かせて議論している由紀夫さんがいる。チャンネルホストである実業家は、

「いや俺は、確かにレジェンドとの対談は意味があるみたいなこと言ったよ、言ったけどさ」

と曖昧な笑みを浮かべながらも2人で丁々発止のやり取りを続け、コメント欄がものすごい勢いで流れ続けている。俺は唖然として見ていたが、最後に、

「今回はここまでにしときますか。それじゃ、本日のスペシャルゲストの三島由紀夫さん、視聴者の皆さんに何かあれば」

と促された由紀夫さんは画面に向き直り、言った。

「僕を拾ってくれたエム君、恩はきっと返しに行く。まだもう少し時間はかかるかもしれないが、僕なりに色々とやってみるよ。君の健闘も祈っている」

「いやエム君て誰だよ」

「こういう場で名前を言っていいかわからなかったんですよ。いや、今日は色々と話をさせて頂いて、面白かった」

子供のようなあどけなさと豪胆さが同居した磊落な笑顔が画面に大写しになったところで、動画はぷつりと終了した。

文字数:19674

内容に関するアピール

三島由紀夫の作品群はこの講座に参加するまでそこまで読んでおらず、指折り数える程度で、どちらかというと、ヤバめな人であまり近付かない方がいいかも、寄るな危険、というタイプの作家だと勝手に考えてました。

しかし、自分なりに課題に向き合う中で、恐らくは今年生誕100年という事もあってか、“オレを召喚してみろよ”という謎のささやきが聞こえ、従うように書いたのがこちらでした。

 

当初講座内でVCものを書く心積りはなく、三島由紀夫が現代に転生したら……という点だけ考え、若者として転生?いっそのこと女性になる?10DANCEみたいな世界観だったらご本人は嬉しい??等々ブレストしてたのですが、どうにも大御所過ぎて、お呼出しするには相応の供物が必要だろうと思い至り、かつて従事していた仕事の一端が滲むものが出力されました

ですので、この物語を進めるために、どうして三島だったのか?というお声への回答としては、三島をお呼出しするためにはこの物語が必要だった、というのが偽りない内情です。

 

テーマの一つが”仕事に悩んだら古典を読む”というところもあり、自分が辛かった時、2周くらい読んだ”ツァラトゥストラはこういった”を見返すうちに2者の共通項が浮かび上がっていき(様々な方が論じてらっしゃるので詳細割愛します)、そうか、だから45歳で自決しちゃったのかな……等、今更ながら自分なりの解釈をすることもできました。

本作だけでなく、書くからこそ体験できたことや、改めて得られた知見が沢山あります。受講を通じ、稀有な執筆体験を得られたことに心から感謝しています。

 

三島由紀夫という作家もお仕事小説というジャンルも、好き嫌いが分かれるとは思うのですが、テックや資本主義を考え直す今のタイミングで三島由紀夫に出会いなおす、

そんな一人の働く人間のフィクションを楽しんでもらえたら嬉しいです。

文字数:777

課題提出者一覧