1日8,000歩

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梗 概

1日8,000歩

近未来の日本では、技術発展によって必死に働かなくても暮らせるようになっていた。最低限の栄養を補う配給食が提供され、SNSやアンケート参加で得たポイントで少し贅沢な食事を楽しむこともできる。人々には健康維持のため、1日8,000歩以上歩く、又はそれ以上の運動義務が課されているが、それを嫌う者は多い。

主人公は30代前半の運動嫌いで小太りな女性。『運動は運を動かす』という言葉には虫酸が走る。20代後半と偽るSNSで他人をディスって獲得するポイントで贅沢な食事を楽しむことが生き甲斐。そんな彼女のもとに、自治体から「将来的な医療費負担が見込まれるため、運動指導を受けること」を求める通知が届く。無視を続けていたが、SNS凍結を含む制裁を警告され、渋々指導を受ける。

 

5月、彼女は東京西部の山に連れて行かれ、健康促進官と共にゴミ拾いを兼ねたハイキングを強いられる。健康促進官は40代後半で運動好きな女性。すらりとした体型で溌剌としており、主人公が最も嫌うタイプ。こんなことに何の意味が?主人公は不満と苛立ちを隠せない。健康促進官は「半年かけて1日平均8,000歩を習慣にして下さい。できなければ、相応の対応をとらざるを得ません」と告げる。しかし主人公はやる気を持てず、半年間何もせず過ごす。

11月、再度警告を受けた彼女は厭々再び山へ向かう。そこには、主人公が推す俳優に似たAIロボが待っていた。ロボは健康促進官とは違い、親身に話を聞いてくれた。彼女はこれまで誰にも話したことのない、配給食材で密かに作っている「悪魔的に美味しいスナック」について打ち明ける。

 

会話に夢中になって歩いていると、日が陰り、熊に遭遇する。必死に逃げるものの背後から押し倒され、絶体絶命。そこに小型のeVTOL電動垂直離着陸機に乗った健康促進官が現れ、麻酔銃で熊を行動不能にする。しかし、主人公を助けるそぶりはない。逃げる途中ではぐれたロボが駆け戻り、飛び移って健康促進官に訴える。「うまく状況に対処できなかったことによって私の廃棄の必要性が28.7%上昇してしまい、不安を感じます」

健康促進官はロボをなだめつつ、「道迷いや滑落で終わると思ってましたが、まぁいいです。足元を照らすので、自分で歩いて下さい」

そう言って山道を照らす。主人公は恐怖でもらしている。

「なんで私を乗せないの!」主人公は抗議するが、

「座席を汚したくないので乗せられませんが、ロボの解析によると、あなたを処分する必要性は昨日より低く算出されました。軽傷のようですし、自力で歩いて下さい」と突き放される。ロボは健康促進官にしがみついたままだ。

主人公はしばらく言葉を失っていたが、苛立たしげに立ち上がり、歩き出す。その背中をじっと見つめていたロボは、「対象者の処分と私の廃棄の必要性の両方を引き下げたく、再度の接触を試みます」と言って飛び降り、主人公を追いかけた。

文字数:1200

内容に関するアピール

“自分とまったくちがう思想を持つ人”を考えた時、これまで第2課題以外では何らかのスポーツを実作に取り入れていたので、”体を動かすことはやるのも見るのもとにかく嫌い、価値を感じてない・否定的な人”に主人公になって頂きました。

ログラインは、”必死に働かずともそこそこ暮らせる近未来。自らを律してよい暮らしを求める人々と、怠惰を棚に上げゴシップを消費する人々との健康格差は広がった。医療費削減のため、政府はAIロボを活用し後者の口減らしを進める”です。

ロボの想定プロンプトは”運動指導へ誘導して下さい。困難と判断した場合は、対象者を穏便に処分して下さい”という設定にしており、オチは悩ましく、当初は別案を考えていました。

運動嫌いでディスりバズを喜ぶ主人公が管理社会の下でどう扱われ、ロボとのやり取りが主人公に何をもたらすのか、新緑と紅葉のハイキングの情景を描きつつ、丁寧に書きたいと思います。

文字数:393

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1日8,000歩

 4月のよく晴れた日、フトミは帽子を目深にかぶって小振りのリュックを膝の上に抱え、登山客でぎゅうぎゅうとなったバスに揺られながら仏頂面で窓の外を眺めている。バスの二人乗りの座席は狭く、隣の乗客と体の右側がぴっちりとあわさって身動きが取れない。フトミは身長158cm、体重74kg。全く、こんなに豊かなわがままボディの何が一体いけないというのか。いや、そのウエストはくびれていないだろうというツッコミは受け付けない。私はこんなところに押し込められるべき人間ではないのに。フトミは狭い車内であることを忘れたかのようにやかましくしゃべりたてている老婆達の声をできるだけ聞こえないようにワイヤレスイヤホンの音量を大きくし、先日、自治体から送られてきた書面を思い出していた。

 

-再三の警告にもよらず、あなたは1日8,000歩の生活習慣を身につけていません。ついては、SNSの使用制限が課されることとなりました。毎日8,000歩を歩かなければ、あらゆるSNSへのアクセスが不可能となります。-

 

 確かに数か月前から市長の名義で、1日8,000歩の案内やら、運動しないことによる健康への悪影響やらの文書が来ていた、気がする。けど、まじでどうでもよかったっていうか。運動ってそもそも大嫌いなんだよね。小さい頃から運動が苦手で、走るのも、跳び箱を飛ぶのも、鉄棒での逆上がりも、周りのみんながすいっとできることが全然うまくできなくて。

「どうしてフトミちゃんは、できないの?」

目は口ほどに物を言う、とか言うけどさ。同情と嘲笑の滲んだ好奇の視線はとにかく嫌で嫌でしょうがなかった。運動会の日はいつも雨が降るように、一週間以上前から逆さのてるてる坊主を飾った。わざわざ人前で、お前は運動音痴だ、って晒される悔しさったらない。中学校のダンスの発表なんてどこまでも絶望的だった。

「あいつ、胸だか腹だかまじでわかんないよなww」

男子達が卑猥なジェスチャー付きで視線を投げかけながら下品に笑う。私はあんたらの見世物なんかじゃないんだよ!クソどもが!!!

 

 だから、運動なんて言う単語そのものを見ないふりしてたんだけど、書面が届いた翌朝、いつものようにSNSをチェックしようとしたのに開くことが出来なかった。代わりに、

 

ーログイン制限中。こちらのアプリをダウンロードした上で運動指示に従って下さい。総務省

 

という文言とともに運動記録アプリのダウンロードリンクが示されている。昨日の夜、ちやほやされていい気になってる美形アスリートへのディスり投稿へのインプレ数を確認しようと思ったのに、本当、なんなの?!

 実際にそれから一週間、SNSへは毎日8,000歩を歩いてからじゃないとログインできなかったんだけど、8日目の朝、クラッカーの絵文字と共に、こんな通知が来ていた。

 

ー1週間の連続8,000歩達成、おめでとうございます!継続的な運動習慣を身につけるための、以下のプログラムへの参加が可能となります。いずれのプログラムも実施の翌日は1日8,000歩の実施義務が免除になります。

 

 私は前日にいつもの配給食に加え、通常ではBMIが一定以下にならなければ食べることが出来ない特別な甘いものが特例的に食べられて、終了後には温泉に入ることが出来る日帰りハイキングコースを選んだ。集団でのエアロビとかヨガとかは絶対に嫌だったし。日帰りハイキングは、健康促進ボランティアのガイドによって行われるって書いてあったけど、まぁ、1対1の方がまだ気楽だよね。変な人じゃなきゃいいんだけど。申し込んでから、

ー事前確認事項に記載の通り、実施準備のため、予約日まで1日8,000歩の継続と追加の階段昇降運動が課されます

って通知に気がついた時は本当に頭にきたけど、昨日食べた塩豆大福は美味しかったな。

 

 目一杯の乗客を積んだバスは、くねくねとした狭い道路をぐらぐらと傾きながらも進んでいき、登山客達を終点で降ろした。人波にもまれながら、リュックを前に抱えてバスを降りるフトミ。がやがやとうるさいグループから少し距離をとってリュックを足元に置き、水筒からお茶を飲む。アプリで指定された集合時間ギリギリな気もするが、バスの道が混んでたって言えばいいじゃない、と開き直ったフトミは、ぞろぞろと歩いていく登山客たちと距離をとるべく周囲の様子を伺う。しかし、フトミから少し離れた場所でワイワイと話しているグループは、すぐに動く気配がない。

 エンジンを止め静かになっているバスと、そこにフトミがいようがいまいが関係なくワイワイと話しているグループがバス停にとり残されている。フトミは無性にイライラしながら、バスを降りた登山客の背中を、少しずつ追いかけることにした。

 バス停からケーブルカー乗り場までは舗装された急な坂道が続いている。フトミの少し先を歩く二人組の登山客は、

「わー、いきなり急な坂道じゃない?きっつーい」

とか何とか言いながらもお互いに笑顔だ。フトミは丸々と太い両足を一歩一歩引きずるように坂道を登っていくが、すぐに息が切れてくる。なんでこんなことしなくちゃいけないの。本当に、意味が分からない。早く終わってほしい。

 坂道の先にはコンクリートの階段が待っていて、既に、先にバスから降りて歩いていた登山客達がケーブルカーを待つ列を作っていた。みんなそれぞれに明るい顔をして、この前はどの山に登っただの、どこの景色がよかっただの、大きな声で話している。

 フトミは息を切らしながら列の最後尾で呼吸を整える。前の方からの会話もうるさかったが、加えて後ろの方からバスの近くでワイワイと話していたグループが近くまで歩いてきた気配を感じ、イヤホンの音量を再び大きくした。

 

 ケーブルカーに乗り込み、フトミはここでも狭い座席に体を押し込められながら、眼下を流れていく景色を眺める。柔らかな緑色の新芽を湛える木々の合間に、ところどころ、白や桃色の花が咲いている。フトミは窓越しの景色を見ながら、すぐ近くで乗客に抱かれている小型犬が、車窓から見える景色と飼い主の一行の表情を交互に忙しなく見ていることや、その犬の息遣いに落ち着かない気持ちになった。小型犬の飼い主は、車窓を背景にした愛犬の写真を撮ることに忙しいようで、狭い車内に関係なく楽しそうに写真を撮っている。フトミはうっかり犬に手を舐められたりするのも嫌なので、早くこの閉じた空間から抜け出したくて仕方がなかった。

 

 ケーブルカーを降りると、所狭しと土産物が並べられているコーナーをすり抜けながら、ほとんどの登山客がまっすぐに左手に曲がり、山へ向かう参道を歩き始めた。フトミは彼らとは逆方向の右手に曲がり、大きく開けた広場へ出る。831mという表示のある御岳平からは、うっすらと白っぽい青空の下、柔らかな緑色の山々に縁取られた関東平野が一望できる。フトミは眼鏡を拭いてから、一度ぼんやりと景色を眺めた。ベンチに腰を下ろし、水筒からお茶を二口、三口と飲む。

野端のばたさん、ですか?」 

背後からの声にフトミが振り向くと、スポーツタイツの上に短パンを履き、体のラインに沿った明るい色の上着を着こなして大きなザックを背負った人物が立っていた。

日に焼けた浅黒い顔には少ししわがあり、髪型だけでは男性か女性か判別がつかないが、その声は確かに女性だった気もする。フトミは、

「はい、野端です」

と一瞬だけ相手の顔をのぞき見てから近くの地面へ視線を移し、相手の次の言葉を待った。

「本日の日帰りハイキングプランでご一緒する、ボランティアの山野やまのです。よろしくお願いします」

山野と名乗った人物は、ただでさえしわの刻まれている顔をさらにクシャっとさせてフトミに微笑みかける。フトミは、

「……よろしくお願いします」

と言ってから、やはり視線を落とす。山野は、腹の底から出ているような張りのある声で

「いやぁ、今日はいい天気でよかったですね。いきなり歩き出すのも大変なので、広いスペースを使えるこちらで準備運動をしてから行きましょう」

とフトミを促し、ケーブルカー乗り場から少しだけ離れた場所で準備運動と称してラジオ体操の第1と第2の両方を強要する。

 フトミが動きを分かるように、フトミが景色を楽しめるように山野は眼下に広がるパノラマを背にし、よくとおる音量のラジオを流しながら、すらりとした体躯を見せつけるかのように、溌溂と手本を見せてゆく。フトミはわずかに乗り場付近に残っている登山客達からの好奇の視線を感じて恥ずかしく思いながら体をとりあえず、気持ち程度に動かそうとするが、その度に山野から、

「腕、思いっきり伸ばして!そうです、体を大きく使う感じで!はい、そう、ぐるっと!」

と大きなかけ声を浴びせられる。第1が終わった時点でフトミは息が切れてしまったのに、

「はい、次は第2です。もっと目一杯動きましょう!!」

と、容赦のない声掛けをされ、第2を終る頃にはすっかり辛い気持ちになっていた。

「お疲れさまでした!飲み物は持ってきました?一息ついたら行きましょうか」

山野は、そんなフトミを知ってか知らずか体操前よりも一層生き生きとした顔つきで言う。フトミは恨めし気な視線を一度山野に向けてからため息をつき、水筒の中身を飲んでから視線を足元に落とす。山野はフトミが持っているリュックよりもずっと大きなザックをひょいと背負い、

「さ、そろそろ行きましょうか」

と声をかけて、歩き出す。フトミはその後ろを、とぼとぼと歩き始めた。

  

 御岳平から舗装された参道をしばらく歩いていると、鳥居が見えてくる。山野に倣い、とりあえず歩きながら一礼をして歩くフトミ。高い木々に囲まれた参道を歩いていると、ラジオ体操で熱くなった体が少し冷えたような気がする。そのまま歩みを進めていくと、狭い道路が入り組んでおり、所々に宿坊がひしめいている。宿坊は古いものと新しいものとの両方が混在し、宿泊施設を持たない、比較的新しい飲食店のようなものも確認できる。

 ケーブルカー乗り場で見送ったはずの登山客がちらほらと、道路をうろうろしたり軒先で何かを食べていたりして、老若男女が和やかに笑いあっている。家族連れや、先ほどのように犬を連れたグループもちらほら見られる。フトミは早く歩ききって温泉に入りたいと、斜め下を向きながら歩き続ける。ふと山野が振り返り、

「ここからしばらく、少し急な坂道を上り続けます。膝に負担がかからないように、歩幅は小さめで、ゆっくり歩いていきますよ」

と言ったので前方を見ると、絶望的な傾斜の舗装された坂道が待ち構えていた。めまいを起こしそうになりながらも、息を上げながら、山野についていくフトミ。登り切ってすぐ右手には、呼び込みのにぎやかな商店街がある。フトミは茶屋のうどん等が記載されているメニューを眺め、一息つきたいと思ったものの、山野はずんずんと先に進んでいく。折角登り切ったんだから、少しは休みたいんだけど……。

 とぼとぼと山野についていくと、大きな鳥居の左手に手水舎があった。

「普段、お参りってしてます?ここにやり方、書いてありますので」

山野はフトミに声をかけながら、しゃんと背筋を伸ばして手順の通りに両手と口を清めていく。フトミは山野と看板を見比べながら、見よう見まねで手と口を清める。

 首にかけたタオルで手と口回りを拭いて鳥居を眺めると、山頂に向かって階段が続いている。どのくらい続いているのだろうか。山野は、大きなザックから伸びたすらりと長い手足を丁寧に、軽やかに運んで階段を上っていく。フトミは、太く丸い体を左右に揺らしながら、息を切らして足の裏を乱暴に階段においていく。

 神社だか何だか知らないけど、どこまで登らせるつもりなのよ。フトミは行き場のない憤りを飲み込みながら、山野の背負うザックとその後頭部を恨めしく見つめる。

 ようやく階段の終わりが近付いてきた頃、朱塗りの幣殿・拝殿の手前にどっしりとした狛犬が座っているのが見えた。山野は参拝者の列に並び、慣れた手つきで賽銭受け入れパネルに腕時計型のデバイスをかざす。フトミは手元のデバイスで最も少ない額のポイントを選択し、パネルにかざした。

 私は、神様なんて信じない。神様が本当にいるのなら、どうして、これまでずっといい子にしてきた私を幸せにしてくれてないの?憎まれっ子世にはばかるなんてもんじゃない。私の悪口を言っていたあいつもこいつも、誰もひどい目にあったりしてないし、生まれた時から見た目だの、運動神経だの、要領のよさだので、いい思いをする奴はずっといい思いをし続けている気がする。そうじゃない人は何にも悪いことをしていないのにいやな目にあってばっかり。今日だってなんなの、あのおばさん。いい年してぴっちりした服なんて来ちゃって。うざったいったらありゃしない。

 そんなことを考えながら、見よう見まねで祈るふりをするフトミ。山野は授与所で何やら入手したようだが、フトミは何が並んでいるのか、見ようともしない。山野はフトミの方へ振り返り、

「お参り、できました?少しそこに座って一息つきましょうか」

と声をかけ、平野を望むベンチに2人で腰掛ける。山野は先程授与されたお神酒飴を一つ、フトミに差し出した。

「確か、事前に提出頂いたアンケートではアレルギーとかはなかったですよね。甘酒が苦手でなければ大丈夫かなと思いますが、よかったらおひとつどうぞ」

「はぁ、ありがとうございます」

「階段、大変だったんじゃないですか。お疲れさまでした」

フトミは口をもごもごとさせながら頷く。早くこの時間、今日一日が、終わらないかな。

 

 上りの苦労に比べると階段の下りはあっという間だった。商店街で恨めしそうに串にささって焼かれている団子を見つめるフトミに気付いた山野は、

「これからしばらく山道を歩きますから、少しお腹に入れましょう」

と、二人分の焼き団子をポイントで購入する。フトミは念のため、

「あの、私、そんなに今日一日で使えるポイントを持ってないんですけど」

と伝えると山野は事も無げに、

「あぁ、今のは、健康促進活動の経費として私が請求しておくので気にしないで下さい。さ、温かいうちにどうぞ」

そう言って1本をフトミに手渡し、自らももぐもぐと食べながらずんずんと歩いていく。甘辛いタレの焦げ目が香ばしい焼き団子はモチモチとしていて、神社までの階段の上り下りの疲れが少し取れたような気もした。

 集落の中の細道を抜けて登山道へ入る前、山野は熊鈴を二つ取り出してフトミにもそのうちの一つをつけさせた。また、背負っていたザックの両脇からトレッキングポールを2組取り出し、フトミに使い方を説明する。フトミは焼き団子をご馳走になったのだからと自分に言い聞かせて話を聞き、背の高い木々の間の少し薄暗い山道を山野と共に淡々と歩いて行く。

 

 日の出山の山頂に着いたのはおおよそ昼の12時過ぎくらいだっただろうか。やわらかな陽だまりの中、白くかすんだ青空を背景に、少しずつ淡い色の桜が咲き始めている。山野は昼食休憩の間、自分が山歩きを楽しんでいることや、一定以上の経験を積めばボランティアとして健康促進活動をサポートする際、自らの保有ポイントを消費することなく山歩きを楽しめることをフトミに話した。今回については趣味のロングトレイルの後に日頃貯めたポイントで宿坊に泊り、そのまま麓に帰るついでに今回のボランティアに応じたのでいいことしかない、宿坊のご飯がとにかく美味しい。柔らかいさしみ蒟蒻や焼いた鮎を次は野端さんも宿泊して食べてみたらいい、とひたすらに宿坊でのもてなしをほめちぎる。フトミは、いつもは食べられない美味しい物なら食べてみたいとは思うが、そのために普段の生活で何かを我慢したり、何かに一定以上尽力したりするのはいやだなと思い、

「はぁ、そうですか」

と話半分に聞きながら、配給されている普段食べ慣れたパンをもくもくと食べながら、先ほど指し示された、遠くに見える神社らしきものを眺める。神社のまわりだけぽっかりと木がよけるように空へ開けていて、遠くから見るとなんだか変な感じもする。っていうか、あんなところから私、歩いてきたの。そりゃあ疲れるよね。早く温泉に入りたい。

 

 日の出山からつるつる温泉までは急なくだりが続き、トレッキングポールを使っていてもフトミの両膝は悲鳴を上げた。山野は、

「小さい筋肉に負担がかかりやすくなりますからね。できるだけ自分の足や細かい筋肉と会話をするように心がけてみて下さい。大きな筋肉と小さな筋肉がどこでどう繋がっていて、どういう風に足を運ぶと体重が移動していくのかイメージすると、痛くなりにくい歩き方をみつけられるかもしれませんよ」

と、呪文のようなことを言う。フトミにはまるで意味が分からない。

 

 痛む足を引きずりながら温泉に着くと、フトミと山野は、どちらともなく距離を取りながら脱衣所で着替え、浴場へ入る。フトミは、ボッティチェリの春を思わせる自分の裸体の前側を手拭いで隠しながらそそくさと洗い場の隅へ向かい、体を洗いながら少し離れたところで体を洗う山野を盗み見る。すらりとした背中や腕まわりには細かな筋肉が見え隠れしており、特に、肩回りや背中まわりの肉付きは高校時代、男子学生達の水泳の授業を遠目で見た時の後姿を思い出させた。

「え、気持ち悪……」

同性の背中を見てそんなことを思い出すことになるとは。振り払うように洗面器にためた湯をかぶり、そそくさと景色だけが視界に入るようにして温泉に入るフトミ。山野は、できるだけそんなフトミと鉢合わせないよう、サウナや屋外、屋内の温泉を少しずつ楽しんでいた。

 

 身支度を終えてバスを待つ間、山野が、

「もう少し使える経費が残ってますから、軽くおつまみでも頂いてから帰りますか」

と湯で火照った顔をさらに上気させてフトミに声をかける。フトミが自分のポイントを使わなくてよいなら、とついていくと、

「使える経費内で本日のプログラムでフトミさんに食べて頂けるメニューは、えーと、このあたりですかね。あ、刺身こんにゃくありますね!おいしいですよ」

と、低糖質、低脂質の限定メニューを指し示す。フトミの大好きな揚げ物や餃子は対象外のようだ。

「今日は沢山歩きましたね。経費では低糖質、低脂質メニューしか補助できないんですが、フトミさんがお持ちのポイントで好きなものを頼むことは出来ますよ。いっぱい歩いたし、今日くらいはいいんじゃないですか」

山野はにこにこしながら、自分だけはかつ丼、餃子、ビールを頼んでもりもりと食べていく。

「私、沢山食べないとあっという間に体重が減ってしまうんですよ。あ、多分ですけど、野端さん、もしも太りやすいご体質ということであれば、筋トレがおすすめです。脂肪がつきやすい人って、ちゃんと運動を続けたら筋肉もつきやすい、とか聞きますよ」

フトミは刺身こんにゃくと月見とろろそばをつつきながら、餃子を美味しそうに口に運ぶ山野をじっとり見ている。山野は、

「あ~、野端さんは、まだ、外食時のハイカロリー摂食許可が出てないんですよね……私もボランティアとして、参加者さんの健康を害することはできないので。いや、すみません」

と、どこまで本気なのかわからないことを言いながら餃子にかぶりついて汁を飛ばした。

 

 次のバスに乗るという山野を食堂に残し、フトミはバス停に向かった。山野からは、

「今日はお疲れさまでした!またタイミングが合えば、健康促進活動でお会いしましょう!」

と言われたが、フトミは帰りの車内で山野のボランティア評価を5段階中最低の1と評価し、

「二度と会いたくない」

という口コミもしっかりと残しておいた。

 

 フトミにとってこの日帰りハイキングは翌日の1日8,000歩の実施義務の免除以外に一切のメリットは実感できず、むしろ、翌日は色々なところが筋肉痛で日常生活すらもしんどかったため、実施義務の免除は当然だろうと思いながら、その日一日を引きこもって過ごした。

 

 

 それからしばらく、1日8,000歩の義務を一定期間達成する度に、あの手この手の”健康促進プログラム”の勧誘連絡をフトミは受信したが、フトミはトラウマとなったあの日帰りハイキングを思い出し、無視を決め込んでいた。ある時、フトミは1日8,000歩が自分の腕時計型デバイスの位置情報に紐付けられていることに着目し、小さなおもちゃのラジコンにデバイスを括り付け、いつも、自分が1日8,000歩の義務を果たすために歩いているコースをラジコンとともに歩いてみた。フトミが腕につけていた時と同様に、ラジコンに括り付けていても、8,000歩の達成とともにSNSが使用可能になる。

 フトミは得意のプログラミング能力を活かし、ラジコンを改造して遠隔操作で走らせ、自らの1日8,000歩の義務を代わりに達成させることに成功する。フトミは自らの創意を全力で傾け、1日8,000歩を達成させるだけではなく、10,000歩、12,000歩あたりまで距離を伸ばし、健康ポイントを稼いでこれまでよりも美味しい配給食にありつくことが出来るようなった。フトミは、文字通り寝ながらにしてこれまでよりもずっとよいものを食べられるようになったのである。

 

 だらだらと動画コンテンツを消費しながら、美味しいものを食べ続けるフトミ。ある朝、ゴミ捨て場にごみを捨てに行き、服についていたキャラメルポップコーンのかけらを無造作に払うと、どこからか雀が飛んできてつんつん、とそのかけらを啄み、フトミを見つめた。

 フトミは一瞬不審に感じつつも、早く連続ドラマの続きを見ようと軽い足取りで住居のエレベータホールへ向かう。その翌々日のことだった。

 

-1日8,000歩の不正報告、及び、健康管理義務への不履行が確認されました。ついては、SNSの使用制限が課されることとなります。-

 

 という通達が、書面と電子送達の両方でフトミ宛に送られてきた。フトミは気味悪く思ったが、受け取った翌日、いつもの通りにラジコンを走らせる。遠隔モニターで8,000歩を越える歩数相当の距離を移動させたことを確認しても、フトミは各種のSNSにログインすることが出来ない。ラジコンは12,000歩分の距離を稼いでからフトミの家に戻ってきたが、その上には、括り付けた腕時計型デバイスだけではなく、一羽の雀が乗っている。雀はフトミを見上げると、

「これ、なかなかよくできた遠隔操作システムね。乗り心地もまぁまぁだったわ」

と、ちいさな小首をかしげながらはっきりとしゃべった。

 

 フトミが「ひぇっ」と変な声を出して尻もちをつくと、雀はパタパタと玄関からリビングへ飛んでいく。

「あら~、想像はしてたけど散らかっててしょうがないわね。これじゃ室内でも運動できないじゃない」

フトミは一瞬呆然としてしまったが、ラジコンを玄関の中へ入れてからどすどすと雀を追いかけ、近くにあったクッションを掴んで雀めがけて投げつける。

「あら、だめよぅ、私を意図的に破壊したりしたら、あなたの生活制限、もっときつくなっちゃうんだから」

「いきなりなんなのよ、あんた」

「私はね、つい最近導入された、健康促進監督AIロボのチュン子ちゃんよ」

「なにその名前。安直すぎるんじゃない?」

「なんか、親しみやすい方がいいんじゃないかってことらしいんだけど、フトミちゃんの好きなあだ名をつけてくれたって構わないわ」

そうして小さな片目を閉じてみせた。

 フトミはため息をついて、リビングのソファにドカッと体を沈める。

「よくわかんないけど、私を監視してでもとにかく歩かせたいって思っておけばいいの?」

「そうねぇ……歩くのがいやだったらプランクとかスクワットとか、他にも色々と種目はあるわよ。あ、水泳もいいかも?!でもまずは、ストレッチかしらね。基本的なおすすめはラジオ体操だけど。フトミちゃんが楽しく続けられるメニューを、私と一緒に考えましょ♪」

チュン子は明るい声で続ける。フトミは両手で顔を覆い、「なんでここまで……」と呟く。

 

 その日から、チュン子によるフトミへの管理監督生活が始まった。それまでは1日8,000歩を歩くもしくは歩くふりをしておけばよかったのに、今では、1時間以上座りっぱなしはよくないだの、起き抜け、風呂上り、寝る前のストレッチがいいだのとチュンチュンやかましくフトミの生活に口を出してくる。フトミはノイローゼになりそうだと感じていたが、それでも、うるさい雀の言うことを聞いて体を動かしているうちに段々と、夜きちんと眠くなり、朝すっきりと起きられるようになってきていた。いつの間にか、SNSにログインするためだけではなく、少しずつ運動によるポイントを貯めて使えるようにもなっている。そんな時にチュン子が、

「ね、フトミちゃん。だいぶ前になるけど、日帰りハイキングしてたでしょ。今ハイキングに行ってみたら紅葉がとても綺麗なんじゃない?私、紅葉、見たいな」

と言い出した。フトミはあの日、足がとても痛くなったのとボランティアの山野の感じの悪さから、二度と山など行くものか、と思っていた。しかし今なら、見せつけられるようにして自分は食べられなかった餃子も食べられるかもしれない。あの時よりは多少軽くなった腰を上げて、チュン子を連れて再び山へ行くことにした。

 

 駅は紅葉を楽しもうと浮き立つ登山客であふれており、ケーブルカー乗り場まで向かうバスは増便されていたもののフトミは座席に座ることができなかった。リュックの中の小箱に入れたチュン子がつぶれないよう、リュックを前側に抱えるフトミ。

 ケーブルカー乗り場も大変な混雑で、フトミが山頂駅からぞろぞろと降りていく登山客の波から外れ、リュックから取り出した小箱を人に見られないようにそっと開けると、色とりどりの紅葉を背景に、一羽の雀がすっと飛びたった。

『フトミちゃん。今、テレパシーで話しかけてるけど、聞こえる?聞こえたら右手を上げて』

少し離れた木にとまったチュン子が、見下ろすようにフトミを見つめている。フトミはおずおずと右手を上げる。

『何それこっわ、ですって?ふふ。面白いでしょう?フトミちゃんの考えていることも、なんとなくわかるのよ』

「チュン、チュッ、チッチ」

チュン子はフトミを見て、雀のような鳴き声を出しながらテレパシーで話しかけてくる。なんでも、健康促進監督AIロボは複数種類の筐体を並行して試運転しているそうで、雀型についてもまだ公にはなってないとのことだった。

 

 あの日はラジオ体操なんてさせられたけど、今日はそんなことしないんだから。フトミは内心そう毒突きながらも、チュン子に普段ピーチクパーチクとやかましく言われている全身のストレッチを軽く済ませてから、参道を歩いていく。あの日と違って、フトミは使えるポイントが増え、外食制限もこの前より軽減されて選べるメニューも増えていた。ポイント残高を確認しつつ、食べ歩きを楽しみながら歩を進めるフトミ。

 坂の上の商店街に着くと、真っ先に通りに面した茶屋へ入った。

『え、フトミちゃんお参りは?』 

『は?しないけど。あんなところまでまた階段を上ったり下りたりするのとかいやだし。私、そもそも神様とか信じてないし』

チュン子のツッコミを受け流して店の奥まで進み、フトミはメニュー表を眺める。使えるポイント残高をにらみつつ、舞茸のてんぷらと温かいうどんを注文する。チュン子の声が聞こえなくなったのをいいことに、サクサクの天ぷらと暖かなうどんを交互に自分のペースで口に運んでいく。あの子本当に、一口30回噛めとか、マジでうるさいんだよね。外食で揚げ物を食べたのだなんていつ以来だろうか。食はフトミにとっての数少ない楽しみの一つでもあるので配給される食材で揚げ物を作ることがあるが、最近は口喧しいチュン子に色々と言われ、作ることも出来ていなかった。そしてやはり、プロの手による揚げたては格別だ。あっという間に平らげたフトミが満足そうに茶屋を出ると、どこからか

『もぅ、勝手に一人で美味しいもの食べて!』

とうるさくわめく声が聞こえてくる。少し先の軒先で雀の姿を見つけたフトミはニヤリとし、

『うるさいなぁ。久しぶりの揚げ物を静かに食べられて最高だったんだから』

と伝えてやった。しつこくお参りすることを主張するチュン子を無視しながらフトミは前回同様に、細い路地を抜けて登山道へ向かう。再びチュン子が、今度は熊鈴をつけろと喚くが、フトミは、

『リュックからとり出すの面倒くさいし、この前よりも他に歩いてる人がまぁまぁ沢山いるから大丈夫じゃないの?』 

と、意に介さず、ずんずんと登山道を進んでいく。フトミは先ほど食べた天ぷらとうどんの美味しさで心とお腹を温かくしながら、今日の目的である餃子に向かって歩みを進めていく。

 日の出山の山頂へ差しかかる直前のトイレで用を足したフトミは、山頂への階段には目もくれず、迂回路をたどってのしのしと進む。チュン子が、

「あれ、山頂は?絶対に綺麗よ。今日、紅葉が遠くまで見られると思うわ」

と、テレパシーではなく声をかけてきたが、フトミは、

「え、別に興味ないし。まだそこまでお腹空いてないし。お腹を空かせて餃子をたっぷり食べたいんだよね」

と応じながら足を止めない。ほどなく、つるつる温泉まであと3.0kmという看板のある変則四差路に出た。視界が開け、濃く、抜けるような青空の下には常緑樹の緑をベースに、落葉樹の黄色、オレンジ、赤の錦が綾を織りなしている。フトミが立ち止まって水筒の中のお茶を飲んでいると、昼食休憩を終えた他の登山客が次々に、フトミがきた道の後ろからフトミを追い抜き、つるつる温泉への道を下っていく。

『私、この前より全然疲れてない。ここまで大体3km弱だったでしょ。で、あと3kmで温泉なんだ……余裕じゃん。ね、こっちの道は人が多くて、あっちの方がゆっくり歩けそうだけど、どう思う?』

『あっちからも下りられないことはないけど……でも、ずっと距離が長くなるわよ。私はお勧めしないわ。っていうか、餃子を食べたいんじゃなかったの?』

『久しぶりに天ぷらとうどんを一度に食べたらちょっと胃もたれしちゃったかも。ほら、あんたの監視のせいで家での食事までがみがみ言われてたから、その反動なのか何なのか知らないけど』

『それは……』

『あっちから下りたらそこには温泉とかはないの?』

『あるけど大分遠いのよ。ね、あっちのルートはまた、次の春とか夏に行ってみましょ』

『次の春にまた私が行きたくなるとは限らないでしょ』

手元のデバイスで金毘羅尾根を経由して瀬音の湯へ下りるルートを確認し、食堂のメニューを眺めるフトミ。

『へー、餃子じゃないけど他にも色々美味しそうなものがあるじゃん。よし、決めた。っていうか、こっちの道、くだりがきつくてつらかったのよね。まだ歩けるし、あっちの道に行ってみる』

 

 歩き出したフトミへ、チュン子はしばらくピーチクパーチクと抗議の声を上げたが、途中からおとなしくなり、黙って枝を飛び移りながら、周囲の様子を注意深く伺うようになった。尾根道はなだらかに続き、フトミは、『やっぱりこっちのほうがよかったじゃないの』と、得意になって錦繡を背景に歩いていく。

 フトミは時折、現在地から算出される麓までの到着予定時刻と残りの距離をデバイスで確認しながら歩いていくが、思っていたよりも時間がかかっているような気がする。まだ15時少し前だというのに、高い木々に囲まれた登山道は思いのほか暗くなってきた。歩き続けているはずなのに、体を取りまく空気が段々と冷たくなっていく。身震いを感じて、ポケットに入れておいたキャラメルポップコーンを取り出して食べるフトミ。

「私にもそれちょうだい?」

チュン子がそう言うと、フトミは、歩きながら左手に一粒おく。啄んだチュン子は左手の上に乗ったまま、

「これ、初めて食べた時、本っ当に美味しいって思ったのよね。誰か、他の人にも食べさせてあげた?」

「え、なんであげなきゃいけないの?」

「だって……自分が作った美味しい物、他の人にも食べてもらえたら、それで美味しいって言ってもらえたら、嬉しいじゃない?」

「いや、これ、自分のために作ってるし。そもそもあんたのためとかじゃないんだけど」

フトミは吐き捨てるように言う。中学生の頃、フトミは好きだった男子生徒に心を込めて作ったキャラメルポップコーンを渡そうとしたのに、

「あ、ごめん。今、歯の治療中なんだ。気持ちだけ受け取っておくね」

と言われ、いくら日を改めても一向にのらりくらりと躱されてしまっていた。味が嫌なのか、見た目にもより美味しそうな方がいいのか。家で一所懸命に研究を重ねるフトミだったが、ある日その生徒が友人達と、

「いやさ、一回受け取っちゃうと変に期待させちゃうじゃん。それに俺、そもそも歯にまとわりつく感じが好きじゃないんだよね。っていうか、いい加減遠回しに断ってんのまじで気付いてほしいんだけど」

と笑いあう様子を見てしまい、これまでの自分が全く盲目的に、自分が美味しいと思うものは相手も美味しいと思うはず、受け取りたいはず、という思い込みのまま一方的に動いていた、ということをまざまざと突き付けられた。そしてフトミは少なくとも2日は学校に行けなくなってしまったのだが、変わらずにキャラメルポップコーンは大好きで、大人になった今でも、気分に応じてシナモン等のスパイスの分量や配合を変えて楽しんでいる。この味がわからない奴は余程の阿呆に違いない。

 

「いやなこと思い出させちゃって、ごめんね」

勝手にフトミの思考を読み取ったチュン子は申し訳なさそうにそう言ってから、

「はっきり言うけど、それ、たまたまよ。全くセンスのない奴だったんだと思うわ。こんなに美味しいのにね。歯にまとわりつく感じだって、種類によっても様子が違うのに。その人、こんなに美味しいものを食べ損ねちゃったなんて大損してるわよ。私ね、雀としての学習のために色々なものを食べてるんだけど、フトミちゃんが作ったのは、格別に美味しいわよ」

「どうだか」

 

 食べながら歩き続けているものの、どんどんほの暗くなっていく登山道。薄暗い登山道の向こうになにやら黒い影が見えたかと思うと、のそりとその背丈が大きくなった。熊だ。

 フトミは足をとめ、自分の息すらも止まってしまったかのように感じる。急に動きを止めた背中に、汗がつっと流れていく。

『フトミちゃん、いきなり背を向けて逃げ出してはだめよ。落ち着いて、熊の方を見ながら、ゆっくりと後ろ歩きで離れるのよ』

フトミは自分の瞳孔が開き、息がうまく吸えなくなっているのを感じる。足を後ろに踏み出そうにも、動かない。離れる、離れる……と思っていたフトミは、いきなり熊に背を向けて走り出した。

『ダメったら!』

熊がフトミめがけて駆けてくる。チュン子が熊の視界を遮るように飛びかかるが、熊は一瞬体を起こしたかと思うと右の前脚でチュン子を薙ぎ、そのままチュン子は近くの木に叩きつけられた。

 あっという間に追いついた熊はフトミの背負うリュックに前脚をかけ、フトミは後ろから押し倒される。もうだめだと思ってフトミが両腕を顔で覆うと、熊がどさりと横へ倒れた。フトミが両腕からそっと顔を出そうとすると、

「縄で固定しますから、少し離れててもらえます?」

と、どこかで聞いたことのある、少しくぐもった声が聞こえてきた。声のした方を見ると、フルフェイスヘルメットを被り、ライダースーツを着た人物が金属製の少し大きなオオカミのようなものに跨り、銃を手にしている。フトミが十分に熊から離れたことを確認するとその人物は、腰につけた小さな袋から野球ボールのようなものを取り出し、熊に向かって放り投げる。ボールからは複数のマイクロドローンが展開され、熊の口回り、前脚、後ろ脚のそれぞれが丈夫そうな縄でくくられていった。

「麻酔銃による活動停止を確認、回収準備の完了。回収チームの出動を要請します」

フルフェイスヘルメットの人物がそう言うと、どこからか、チュン子がよたよたと飛んできて、フトミを通り過ぎてライダースーツの左の上腕にとまる。

「ねぇちょっと!遅いんじゃない!?大変だったんだから!!」

チュン子は羽や腹部の一部が、そのあたりの枝や葉を被せたように、継ぎ接ぎになっている。

「間に合ってよかった。チュン子ちゃん、怖い思いをさせてごめんなさいね。あら、これが噂の自己修理機能?面白いわね」

 ライダースーツがヘルメットを外すと目尻にしわのある山野の顔が現れた。山野はチュン子の嘴の下から喉にかけて、手袋をしたままの指の背でそっと撫でる。

「フトミちゃんの怪我、確認してくれない?」

「勿論」

オオカミの両目と口の中が眩しく光り、フトミを強く照らす。フトミは先程熊に押し倒された時、尿を漏らしてしまっていた。

「特に問題なさそうね。野端さん、お久しぶりです。だいぶほっそりしたんじゃないですか。そう言えば、二度と会いたくないってフィードバックを頂いてましたね……もう少し私が来るのが遅かったら会わずに済んだのかもしれないんですけど、登山道での事故は少ない方がいいですからね。足元を照らすので、さあもう少し、自分で歩いて下さい。よかったら、歩きながらでもいいのでチュン子ちゃんに遠隔操作ラジコンの勘所とか、教えてもらえませんか?ああいう技術、道迷いの探索にも良いかもしれないって話をしてたんですよ」

そう言って今度は山道を遠くまで照らす。

「……私さっき熊に襲われて転んだんだけど。なんで歩かせるわけ?どうしてそれに私を乗せないの?」

フトミは憮然として抗議するが、

「おいぬさまを汚すわけにはいかないので……解析によると、フトミさんは歩くのに支障があるような怪我はされてないようですよ。大丈夫、この前よりだいぶ体重も落ちたみたいですし、体の使い方も上手になってきていると思います。チュン子ちゃんの成果ですね!」

山野は前回同様、快活に言い放つ。チュン子は山野の左肩にのったまま、少しばかり得意そうだ。

 

 フトミはしばらく言葉を失っていたが、苛立たしげに立ち上がり、歩き出した。その背中をじっと見つめていたチュン子は、

「ねぇ、待って!さっきのキャラメルポップコーンもっとちょうだい!」

と追いかけるが、

「うるさい、あんたはあのばばあの肩にでも乗ってればいいでしょ!」

フトミは半泣きでずかずかとやけくそのように歩いていく。

「えぇ〜、フトミちゃんの肩にも乗ってもいいなら乗るけど?っていうかこの羽、飛びにくいから乗せてくれない?ちょっと待って~!」

 

 継ぎ接ぎの羽根で少しふらつきながら飛んでいくチュン子と土まみれになりながらもずかずかと進んでいくフトミ。少し後ろを、山野の騎乗するおいぬさまが淡く遠くまで山道を照らしながら歩いて行った。

 

※本作品は、御岳山および武蔵御嶽神社を崇敬する作者がその舞台をお借りして作成したフィクションです。紅葉は言わずもがな素敵なのですが、春夏冬もとても気持ちがよいところです。是非、お参りとご当地グルメを楽しんで頂ければ幸いです!(つるつる温泉も瀬音の湯も両方好きですが、いずれにせよ14時前に下山できるプランを組み、登山客が多い時間帯の中で安全第一で歩いて頂ければと思います。)

文字数:15963

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