フロアが呼んでる

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梗 概

フロアが呼んでる

<企画概要説明>

ベーシックサービスが段階的に普及し、あくせくせずに働かなくともそこそこの暮らしであれば出来るようになった少し先の未来。時間を持て余した人類は、各種の芸術活動に投じることのできる時間が大幅に増えた。せっかく生きていくのなら健康で長生きをしたいという欲求を満たすため、身体表現によって美を追求する社交ダンスも、一時期減少した競技人口を盛り返すように少しずつ競技人口が増えてきている。

そんな環境下で、思春期の少女が、社交ダンスの面白みを少しずつ知りながら、かつて慕っていたAIロボットから精神的にひとり立ちしていく話。

 

<主要キャラクター>

ヒロイン:ひまり(中学生~高校生)

小学校の後半の一時期に入院生活を送り病院内で過ごすも日常生活への復帰を果たし、中学生の間に何か体を動かすことを始めたいと思っている。AIロボットであるType-O3と交流を続けていたこともあり、同年代の男子への目線が平均以上に冷めている。おしゃま。オードリーヘップバーンが好き。

 

ヒロインのお相手役:りょうじ(中学生~高校生)

ひまりの同級生。デザイナーベビー(?)、機械による身体拡張等、あらゆる技術の粋を尽くした競技ダンサーとして育てられている少年。そもそも人間なのかアンドロイドなのかも不明。両親は著名な競技ダンサーのカップル夫婦で、自分たちが出来なかったことを息子に成し遂げてもらいたい気持ちが強い。競技ダンスそのものの技術は高いが、どこか冷めていて厭世的。

 

Type-O3:AIロボット(年齢不詳)

かつて格闘技のトレーナーロボであり、一時期は選手としても活躍していたが、タイトルマッチにおいて製造会社が起こした事故により、格闘技のリングから降りることになった。男性選手の育成に主として関わっていたこともあり、便宜上性別は男という設定になっているが、実際には性別は備わっておらず、人間の心はいまいちよくわからない、という。

 

<簡単なストーリー紹介(長編としてのあらすじ)>

ひまりとりょうじは中学の同級生として出会い、お互いに興味を持つことは持ち、ダンスのカップルも組むが(物語のはじめでは2者の力量差が大きすぎるので、ひまりがりょうじの相手を十全につとめられるくらいにダンスを上達させるストーリーが必要)作品の最後まで付き合ったりしない。

りょうじは親のエゴがきっかけとはいってもひまりをはじめとした周囲とのやり取りの中でダンスとの向き合い方を自分なりに再定義し、改めてダンスの技術を深めるべくヨーロッパに旅立つ。二人は一時期を共に過ごした戦友的な位置付けのまま物語は終わる。

 

<第1章の内容>

作品の世界設定がわかるようにしつつ、ひまりとりょうじの出会い、今後の進展の予兆を描く

文字数:1128

内容に関するアピール

Shall we ダンス?、も、ボールルームへようこそ、も、背筋をピン!と~鹿高競技ダンス部へようこそ~、も、

男性主人公目線で売れている社交ダンス(競技ダンス)作品はあるのに、

女性主人公目線でないのはなんでだろう?あったら売れるかも、売れるかな?という思いつきです。

 

また、中高生の男女をメインキャラクターとすることで、SF×青春のストーリー作りができるかな、と考えました。

 

一般論という観点でも、思春期の女の子の男の子を見る視点はどこか冷めているというか、おませさんだったりするものなのかなと想像しているのですが、

技術の発達した世界で多感な中学生~高校生はどう成長していくのか、

そういう環境でも/だからこそ(りょうじのように)親のエゴに振り回されてしまったりするのかもしれないといったテーマは、普遍性と興味喚起観点で売れるかも、と思いました。

文字数:368

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フロアが呼んでいる_第一章

 里山にひっそりとたたずむ古刹では、月に一度の太極拳教室の参加者たちを迎え入れるように桜の巨木が花を咲かせ、風に揺れていた。

 昨日、中学校一年生の終業式を終えて春休みに入ったひまりは自転車を駐車場わきの駐輪場に停め、前かごから小振りのボストンバックを取り出して石段を小走りに登っていった。日差しは暖かく、先月よりもぐっと体が軽く感じる。石段のわきの木々の枝には、目を凝らすと小さな新芽が膨らんでいるものもある。ひまりはそのうちの一つを見つけると、ほおを緩め瞬きしてから息を吸って吐き、石段を登っていった。

 石段を登りきって少し開けた広場の右手に、お堂が見える。引き戸になっている入り口は、教室の参加者に向けて開かれたままとなっていた。ひまりは息を整えながら、少し早歩きで入口に向かう。入口には参加者たちの靴が行儀よく並べられていた。今日の稽古が始まるまでは十分ほど時間があるはずだったが、参加者たちは概ね既に集まっているのだろうか。そのうちの一足に見覚えのあるスニーカーを見つけてひまりは微笑み、入口近くの鏡で自分をのぞき込む。今朝、ビューラーを試してみたが変じゃないだろうか。リップは学校にもつけていけるような無色透明なものを使ったが、ツヤは不自然じゃない範囲で、さりげなく手入れされている様子を保てているだろうか。最後に自然な太さを保ちながら手入れをしている眉毛にそっと触れ、大好きな往年の名女優が画面の中でみせているような魅力的な笑顔を作ってみた。よし、今日も大丈夫。

 ひまりは靴を脱いで揃え、太極拳教室が行われている場所へ向かった。もう通い始めて半年になり、だいぶ勝手は分かってきているはずだが、堂内へ入ろうとする瞬間は、まだそわそわとした気持ちになる。途切れ途切れに話し声が聞こえてきた。

 ひまりは様子を伺いながらもできるだけはっきり「おはようございます」と声を出した。先生や他の参加者たちはめいめいにひまりに顔を向け、おはよう、おはようございます、と穏やかに挨拶を返していった。参加者はひまりの他に七名。そのうちの三名は、人間ではなくロボットが二体と、アンドロイドが一体参加していた。ロボットのうち一体は先月まで見かけなかった新顔のロボットで、先月までひまりが参加していた場所に座り、隣に座っているロボット、Type-O3と話をしている。ひまりはその光景を見て、そういえば先月、佐藤のおじいちゃんが自分の家の介護サポートロボットを連れてくると言っていたなと思い出し、自分はどこで稽古に参加すべきか、少し考えてしまった。

 そんなひまりの様子に気が付いたType-O3は顔を上げ、ひまりに声をかけた。

「おはようございます、ひまりさん。こちら、佐藤さんのお宅のみつこさんだそうです。私の試合の中継をご覧になったことがあるとのことで、少し話していました。よかったら今日はこちらで参加されますか?ここからも、先生の動きがよく見えます」

笑顔で、自分の座っている畳を指さしている。模範的なキックボクサーとしてファンも多かったType-O3だから、そのファンの層は、人間だけでは収まらなかったのだろう。みつこさんと呼ばれたロボットは少し戸惑うような、気後れしているような、しかし、何かを訴えるような視線をひまりへ向けて来た。ひまりはその視線を受けながら少し考え、

「私、二人よりも先にここでのお稽古に参加しているし、二人の後ろから、動きが見えるところで練習するから大丈夫だよ。みつこさん、よろしくお願いします」

と、できるだけ口角をあげて答えた。みつこ、と紹介されたロボットはひまりをしばし見つめた後におっとりと笑い、

「ありがとうございます、ひまりさん」

と答えながら軽く会釈すると、Type-O3との話の続きに戻っていった。みつこの声が少なからず弾んでいるのを、ひまりは聞き逃さなかった。左隣りにいた佐藤さんがひまりを気遣うように広間の真ん中よりに体をずらし、みつことType-O3の一列後ろの、二人の間から先生が見えるような位置を空けたので、ひまりは軽く会釈した。

 ひまりは足早に部屋の隅へ向かい、ボストンバッグから取り出した水筒に入ったぬるいお茶をぐびりと飲んでタオルで口回りをぬぐった。ふっと、ため息がもれてしまったが、つばを飲み込み、もう一口お茶を飲んでから水筒をバッグにしまい、できるだけ気丈に見えるよう背筋を伸ばし、二体の少し後ろに離れ、先生の見える位置に座った。

 今日は、体の右側から正面に向かって花が咲いていくような、横から見ても綺麗なプリントの施されたTシャツを着てきたのだが、右隣りはがらんと空いていて、畳の向こうの開け放たれた障子の先に、のどかな春の景色が見えていた。

 やがて開始時間となり、参加者たちは全員が立ち上がり、稽古が始まった。ひまりをのぞく人間の参加者は概ね四十から九十才くらいで、みつこを連れてきた佐藤さんは、ひまりの左隣からみつことType-O3の様子を伺いながら、体を動かしているようだった。「それなら、佐藤さんの隣で参加したらよかったじゃないの」ひまりは気を抜くと不満めいたことを考えてしまいそうになり、いつも以上にできるだけ先生の動きを注意深く確認しながら、少なからず大げさに体が動いてしまっていた。先生は滑らかに動きながら参加者全体に向けて、

「はい、力を抜いてー、足をそっと動かしながら、そう、手を同時に動かしてー」

と声をかけ、透徹した視線をひまりへ向けた。ひまりはばつが悪いような気持で二体のロボットから視線を外し、自分の体の動きに集中するべく、息を吐きながら先生の動きをできるだけ丁寧になぞるよう、意識して体をゆっくりと動かそうとした。 

 稽古が終わると、参加者たちはめいめいに、先生に質問をしたり、参加者同士で話をし始めた。佐藤さん、みつこ、Type-O3はひとかたまりになって話を続けている。ひまりはボストンバッグから着替えや制汗シートを取り出して更衣室に向かい、素早く、しかし丹念に身支度してからお堂へ戻った。お堂では、参加者八名のうち二名は既に帰ったようだったが、残った六名と先生はまだ何やら話し続けている。佐藤さん、みつこ、Type-O3の三名はひまりが身支度をする前と殆ど場所を変えることなく、話し続けているようだった。

 ひまりはバッグに荷物を入れると水筒のみを取り出し、Type-O3の斜め後ろにそっと座って話に耳を傾けた。ひまりには、三名の会話は同じところをずっとぐるぐる繰り返しているように聞こえたが、Type-O3は穏やかに応じているように見えた。ひまりは頃合を見はからって小さく声をかけた。

「今日もバスで来たの?時間もうすぐじゃない?」

声をかけられたType-O3は振り返って、

「ありがとうございます、そうですね、そろそろお暇しましょうか」

と立ち上がり、

「佐藤さん、みつこさん、今日はありがとうございました。では、また」

折り目正しく二人へ挨拶をし、荷物をもってひまりと共に出入口へ向かった。

 石段を注意深く下りながら、ひまりはType-O3に声をかけた。

「いっぱいお話してたね。みつこさん、オースリーの試合、沢山観ていたの?」

「そうですね。私が中堅ファイターを脱して、少しずつ、タイトルマッチに向かっていく頃に観始めた、と仰ってました。同じロボットとして、人と人との間で文字通り、体を張って闘い続けて、勝ち上がっていく様子が気になって、佐藤さんの介護の合間に、佐藤さんと共に、ご覧下さっていたそうです」

「そっか……オースリーが引退したこと、何か言ってた?」

「まぁ、経緯が経緯ですからね。あのタイトルマッチのあと、ニュースで色々な報道はあったけど、あの後、私がどうなったのかについて詳しい話がなくて、気がかりだったそうです。それから、こういう形で会うことが出来て嬉しい、直っていてよかった、と、仰って下さいました」

 先に石段を下り切ったひまりは振り返り、手すりにつかまりながら石段を降りているType-O3を見た。三回目の参加で、この急な石段を降りるのも少し慣れてきたかな、と思いながら、うっかりType-O3がバランスを崩したら自分では支えきれないし、と、Type-O3の足元を注意深く見守った。

 バス停へ向かう途中、手で押している自転車の向こう側を歩くType-O3に、ひまりは尋ねた。

「ね、推手って知ってる?」

「太極拳の対人練習ですね。知識としては、知っていますよ」

「私ね、太極拳の練習を続けて、オースリーと一緒にやってみたい」

ひまりは一息に、少し思い切って伝えてみた。

「こちらの教室で、推手の練習もするのでしょうか?私はまだ参加するようになって三回目ですが、今のところ、歩法と型の練習が中心のように見えます」

「先生が、他の場所でも教えているんだけど、そこだと推手の練習もできるんだって。だから、どうかな、と思って」

見つめられたType-O3は一度少し視線を宙に向けてからひまりに向き直り、

「お誘いありがとうございます。ですが、なかなか私には、時間を作るのが難しいかもしれません。ご紹介下さったこの月一回の教室に、何とか通い続けるのが精一杯なんです」

「そっか、そうだったよね……」

 少しうつむいたひまりの顔をみつめたあとType-O3は視線を前に戻し、しばらく二人は無言で歩いた。日は高く昇り、薄くかすんだ空に柔らかな風が吹いていて、足下ではオオイヌノフグリが点々と、ほのかに青い花をぽつぽつと咲かせている。Type-O3はできるだけ柔らかい調子で、ひまりに語り掛けた。

「ひまりさん、今日のお稽古の時のお洋服、華やかで素敵でしたよ」

「え?」

「今日のTシャツ。大きな花が風を受けて伸びやかに咲いていくようで、とってもお似合いでした」

「や、見えてたの?」

いきなり話題を変えられて、ひまりはつっかえながら返事をした。ハンドルを握る両手がじっとり汗ばんだように感じ、握りなおす。

「はい、ひまりさんに初めてお会いしたのはもう三年以上も前になりますが、すっかり大きくなられたなと、胸が詰まる思いでした」

 続けられたその言葉はまっすぐで、まなざしは温かかった。ひまりは視線を落とし、下唇を軽くかんだ。Type-O3は続ける。

「ひまりさん、相手の呼吸をくみ取りながら体を動かすのは、推手だけではありません。社交ダンスをご存じですか?」

「おばあちゃん達が、ひらひらキラキラした衣装を着て踊るやつでしょ」

ひまりが少し口を尖らせながら答えると、

「そうです。が、そうでもないです」

Type-O3は笑いながら続けた。

「最近は少しずつ、若い方の競技人口も増えてきていると聞きました。勿論、ひまりさんをはじめ、若い方の人数自体がシニアな方々に比べると多くはないので、全体の数として比べてしまうと少ないとは思いますが」

 Type-O3はまばたきをし、斜め右下に目線を向けながら次の言葉を探しているようで、ひまりは自転車を押しながら、視線で続きを促した。

「今は、寿命の男女差や競技人口の男女差を埋めるために、うまく女性をリードできる男性役のロボットやアンドロイドもそれなりの数になっているようです。太極拳に丁寧に向き合っているひまりさんはとても素敵です。ですが、対人練習をしてみたいというひまりさんのお話を伺い、また、今日みたいなお召し物を着こなしている華やかさを考えると、そういった選択肢もあるのではないかなと私は思いました。勿論、ひまりさんのリハビリの具合を見ながら、できるだけ疲労をためずに、無理のないペース、フォームを研究していくことが大事です。そして……あ」

 流れるようにしゃべり続けていたType-O3が急に黙ったのでひまりがType-O3の視線の先へ目をやると、バスはちょうど、バス停から去っていくところだった。

 

 始業式の朝、桐沢日磨理は個別デバイスで通知されたクラス分けの結果を見、指定された下駄箱へ靴をしまい、上履きに履き替えて教室へ向かっていた。途中、一年生の時に同じクラスだったまなみに声をかけられた。

「おはよひーちゃん、クラス別れちゃったね」

「おはよ、まなちゃん。うん、二分の一だったのにね」

日磨理は少し残念そうにまなみに笑い返した。

「さっちゃんからのグループライン見た?一組、転校生がいるみたい」

「そうなの?」

日磨理が立ち止まって腕時計型のデバイスから出力されたホログラムでラインを確認し、

「あ、ほんとだ」

とつぶやくと、

「私、先に見に行く!」

まなみはそんな日磨理をおいて小走りに教室へ向かっていった。

 日磨理が二年一組の教室に着くと、後ろ側の入り口でまなみが鞄を持ったまま中を覗いている。まなみは日磨理に気がつくと、ひーちゃん、あれあれ、あの人、と、指さして教えた。

 指の先には男子生徒が一人、真新しいブレザーに身を包んだまま机の上に突っ伏していた。顔は黒板に向かって左の窓側を向いており、教室の入口から見ることはできない。机の上に突っ伏していても、長く伸びた脚と広く大きな背中、組んだ手の大きさから、日磨理は、身長は170cmに届くくらいだろうか、と目算した。そして、背中の厚みのわりに二の腕はそこまで太くなさそうと思ったが、Type-O3やその相手を務めていたキックボクシングの選手達を思い出し、まぁ中学生だし、そんなものかと眺めた。

「背ぇ高そうだし、なんか、髪型が決まってるね」

 まなみに言われ見直すと、確かに、すらりとした首筋に続く後頭部は綺麗に刈り込まれていて、去年までのクラスメイト達とはなんだか違う雰囲気に見えないこともない。

……そもそもType-O3は髪の毛がないからなぁと日磨理は思い出し、くすりと笑った。そんな日磨理をまなみが一瞬怪訝そうに見たので、

「あ、ごめん、うん、確かにすっきりした髪だね」

と日磨理は返したが、

「またおっさんのこと考えてたんでしょ」

まなみはにやにやと笑いながら日磨理をこづいた。腕をこづかれながらどう言おうか考えているうちにホームルームの開始を知らせる予鈴が鳴り、

「それじゃ、またあとでね」

と、きまり悪そうに笑いながら教室へ入っていった。

 始業式前のホームルームでは早速、先ほどまで寝ていた男子生徒が自己紹介をさせられるようだった。先ほどまで机の上に突っ伏していたのが噓のように、黒板にカッカッと名前を書いていく様子は、背筋がしゃんと伸び、書かれた字だけではなく、手の動きも美しい。日磨理はつい、太極拳の時のように、どこに力が入り、どこの力が抜けていて、どうやって体を動かしているのかを認識するように、その後姿を観察した。幅広い背中と、容易にはブレない体軸を持っているように見える。何かスポーツをやっているのだろうか。でも多分、格闘技ではないだろうな。足はともかく、腕が細くてシュッとしすぎている気がする。名は藤居諒次、と書くらしい。

 藤居は書き終えるとチョークのついた指先をこすり合わせてぬぐい、くるりと踵を返して教室へ向き直った。教室からは、ため息がいくつかと、食い入るような目線が藤居へ向けて返っていく。藤居はクラス全体を軽く見渡してから落ち着いた笑顔を作り、

「ふじいりょうじです。今日からよろしくお願いします」

と、声変わりの終わった大人びた声で挨拶をした。その瞬間、幾人かの女子生徒同士は目を見合わせ、数人の男子生徒はあからさまな嫌悪の表情を隠さなかった。クラス担任の韮山が頭を掻きながら、

「もう少し、名前の他にもなにか自己紹介をしてもらえますか」

と促すと、

「そうですね……僕は小さい頃から社交ダンスを習っていました。社交ダンスで一緒に練習をするのは年上の人ばかりだったので……クラスのみんなと話すのは新鮮です。どうぞよろしくお願いします」

と笑顔のまま続け、軽くお辞儀をした。その後韮山に視線を向け、韮山が頷くのを確認してゆったりと自席に戻った。軽く顎を引き、背筋を伸ばして歩を進める様子は、見られるということに慣れた歩き方だった。教室のそこかしこから、ため息やひそひそ声が聞こえてくる。

「それじゃ、出席確認します」

 無造作に続いた韮山の一言に教室の空気は少し緩み、生徒たちはめいめいに返事をしていった。

 

 二年一組の転校生は何やらものすごい美形らしい、という噂はあっという間に学校中へ広まった。二年生だけではなく、三年生、一年生も何か用事を作っては二年一組の近くを通って教室の中を覗こうとしたり、そもそも、藤居を見るために休み時間に集まったりしているようだった。昼休み、そんな様子を見ながらさつきは日磨理に耳打ちした。

「藤居君すごい人気だね。いっつも取り巻きに囲まれちゃってる」

「まぁ……姿勢はいいよね。シュッとしてると思う」

「そこ?顔じゃなくて?」

「姿勢は大事だよ。あと、物腰というか、所作も綺麗だよね」

「お、ようやく日磨理さんのお眼鏡に適う男子も出てきたということでしょうか?」

さつきはにやりと笑って言ったが、

「いや、まぁ、きれいだな、とは思うよ。思うけどね」

「大好きなおっさんには到底かなわないけど、ということかしら」

「おっさんじゃなくて、オースリー、だから」

と、日磨理は不服そうに訂正した。さつきがあきれ顔で、

「いやさ、オースリーって、たぶん模範的で、優しいロボットなんだと思うし、ひーちゃんが小学生の頃からずっとファンで、やり取りもしてて、って言ったらそりゃ好きになったりもするのかもしれないけど、でも、ロボットじゃん。しかも基本的には旧式タイプで、メンテナンスがいつまで続くかはわからないんでしょ?」

と言うと、日磨理は少し俯き、目を伏せた。

「あー、ごめん、ごめんねひーちゃん」

さつきは両手で顔を覆い、指の間から日磨理の様子を伺った。日磨理は指の間から覗くさつきの両目を優しく見つめ、

「いいよ、さっちゃんの言うことも間違ってないし、それはそれで、その通りだから」

日磨理は自分自身にも言い聞かせるように語りかけ、

「次、移動教室だったよね。私、ちょっとお手洗いに行ってから移動するから、先行ってて。また後でね」

と、席を立った。

 

 私とType-O3との間にあるのは、ただの憧憬とかじゃない、と、日磨理は思っている。

 Type-O3が大きく破損することになってしまったあの試合、どうしても力になりたくて最終ラウンドの前のインターバル、客席から無我夢中で声を出そうとした。周りも熱が入って腕を上げたり立ったり叫んだりしていて、その中で、自分もここから応援している、ということをType-O3にわかってもらいたかった。そしたら、それまでどうやってもあと一歩の力が入らなかった足腰にどこからか力が入って、私は車椅子から立ち上がろうと震えながら、Type-O3に叫んだのだ、頑張って、と。そんな私を見たType-O3は、それまでずっと劣勢でふらふらだったはずなのに、遠いリングの上から私の目を確かに見て力強く右手のグローブを掲げて応え、次のラウンドで猛然と対戦相手の順也選手へ向かっていったのだ。そして、そのあと……。

 正直に言って、その後のニュースで次々と明らかになった、Type-O3が所属していた会社の状況や顛末には興味がなかった。顧客軽視のツケ、経営陣による悪質な法律違反、不釣り合いな投資と行き過ぎた期待、とか、ニュースの中で大人たちが色々な話をしていたけど、そういうのは正直どうでもよくて、私はただType-O3はどうなったのかが気掛りで、また何事もなかったように、どこかとぼけたやりとりをしたり、自分の作ったあみぐるみを受け取ってもらったりしたかった。支えになったのは、試合の後すぐに、Type-O3をメンテナンスしているエンジニアの三枝さんが私の入院していた施設へやってきて、Type-O3からのメッセージを伝えてくれたことだった。

「ひまりさん、応援ありがとうございました。ひまりさんが車椅子から立ち上がろうとしながら声をかけてくれたのが、私からもよく見えました。少し時間はかかるかもしれませんが、また、会える日は来ます。だからそれまで、ひまりさんもリハビリを頑張っていて下さい。次にお会いする時を楽しみにしながら、私もきちんと修理してもらいます」

 データを送信するのは今は色々と厄介だからね、と言いながら、とぎれとぎれの音声データをこっそり私に持ってきてくれた三枝さんは、

「僕もできるだけ、Type-O3がこれまでみたいに動けるように頑張って修理します。だからひまりさんも、気を落とさずにリハビリを頑張りながら、Type-O3を待っていてもらえますか」

と続けた。ベッド脇に座って私に語り掛ける三枝さんは、これまでとは濃さの違う目の下の隈とこけた頬が気になるくらいに目立っていて、小学生だった自分にも、目の前の大人が、自分とはまた違う形で辛い状況にあることが想像出来た。私は、できるだけ涙がこぼれないようにしながら、

「頑張ります。オースリーを、よろしくお願いします」

と震える声で伝え、Type-O3に渡すはずだったあみぐるみを三枝さんに両手で渡した。

 三枝さんはそれからも、僕のこどものおさがりでよければと、娘さんがもう着なくなった服を持ってきてくれたり、折に触れて施設を訪ねてくれた。私がType-O3の修理の様子を聞くと、いつも、内緒だよ、と言いながら少しずつ教えてくれた。今思えばそのおかげで私は、次に三枝さんに会う時は自分ももっと動けるようになっていようと、時には辛かったリハビリを続けることができたのかもしれない。

 結果としてあの試合をきっかけに、停滞していた私のリハビリがぐんと進んだのは確かだった。放課後にリハビリのために施設へ通うことは必要だったけど、六年生の途中から自宅から学校へ通うことも出来るようになった。段々とリハビリの頻度は少なくなっていっても、その中の太極拳を使ったプログラムは体を動かしていくうちに心が落ち着いていく感じが好きだったから、施設指定のプログラムが終了した後も続けられるように、自宅から通える場所を見つけて通うようになった。 

 あの日、三枝さんを待っていたらType-O3も一緒にやってきたのにはびっくりしたな。

 

「じゃぁ次は桐沢さん、この曲の終盤、夜明けを表現するために効果的に使われていた楽器はなんでしたか?」

いきなり当てられ、日磨理は我に返った。やばい、なんにもきいていない。

「……桐沢さん?」

音楽教師が再度名前を呼んだ時、藤居がすっと右手を挙げた。

「はい、じゃぁ代わりに藤居さん」

「オーボエです。雄鶏の鳴き声として使われています」

「正解。それでは答え合わせでその部分、もう一回聴きましょうか。桐沢さん、ちゃんと聴いていて下さいね」

音楽教師に改めて名前を呼ばれ、

「はい」

と日磨理は小さく頷き、藤居に目線を向けると、藤居は日磨理と目を合わせてから軽く肩をすくめてみせた。日磨理はきまりが悪そうに目線を落とし、手元のタブレットに表示されている、人と髑髏が手を取り合って踊る不気味な絵を見つめた。やがてスピーカーが、曲のクライマックスとなる部分からのメロディーを大音量で流し始めた。度重なるシンバルの音が日磨理の耳にはやたらとうるさかったので、その後の雄鶏と思しきフレーズが聞こえてきた時に日磨理はほっと息をついた。

 授業が終わるとすぐに日磨理は立ち上がり、ゆったりと席を立った藤居に小走りに近寄って声をかけた。

「藤居君、ありがとね、さっき全然きいてなかった」

「ぼーっとしてたでしょ、桐沢さん」

藤居はなんでもないように応じながら、机の上の荷物をまとめて歩き出した。

「あのさ……ああいう音楽で社交ダンスを踊ったりするの?」

日磨理は追いかけながら聞いてみた。

「いや?あれは……ちょっとリズムがとりにくい気もするな。だけど、そうか、中世の人たちは、三割が死んじゃうよう病気が流行っている時、集団ヒステリーで踊り狂ってそれが絵になった、と書いてあったね。そしたらあんなリズムにものれたりするのかなぁ?」

 藤居は右手に荷物をまとめ、すっと左手を掲げて一瞬立ち止まり、中空を見つめた。日磨理が急に伸ばされた左手に驚いて半歩後ろに下がったのに気がつくと、左手を元に戻して歩き出しながら、話を続けた。

「あ、ごめんね。ちょっとわかんないけど、競技という意味では、もう少しゆったりとしたテンポで丁寧に踊った方がいい気がする。

 僕たちが生まれる前、二十年くらい前にも病気が流行って移動制限があったりしたみたいだけど、今では信じられないよね。だって今はさ、死のうとしたって、簡単には死ねないじゃない?」

黙って話を聴いていた日磨理は急にそう問われ、隣を歩く藤居の目を見つめた。横から見ても整った顔立ちは少し遠くを見ていたが、日磨理の視線に気づいて目を合わせた。いつもの穏やかな微笑みの代わりに、どこか底の見えない暗がりを宿した両目があった。日磨理が歩きながら目線を前方に戻し小さく息を吸ってから、

「そんなこと、考えたことなかったな……だって死んじゃったらさ、美味しいもの食べられなくなっちゃうよ」

と応えると、

「それはその通りだ。桐沢さんって結構食いしん坊なんだね」

藤居も前を向いて笑った。日磨理は藤居の隣を歩くことで、彼の腰の高さ、姿勢のよさをいつもよりもはっきりと認識した。また、長い足が丁寧に一足一足、日磨理の歩くペースに配慮しながら運ばれているのを間近で見て、こういう振る舞いが沁み込むまで、この人はどのくらいダンスを続けてきたのだろう、と考えた。

 その時日磨理はふと、廊下に面する教室や背後から好奇と嫉妬の混じった視線を感じ、こうして隣になってしばらく歩いている状況に改めて気がついた。用が済んだら少しでも早く隣を離れるべきだと考え、教室へ戻る前に自然に離れる言い訳を思案し始めたが、藤居は鷹揚に、

「桐沢さん、何か運動とか、スポーツとかしてる?部活には入ってなかったよね?」

と問いかけたので、日磨理は少し慌てた様子で応じた。

「私、去年までは放課後にリハビリに結構通ってて、部活に入れなかったんだよね。六年生の途中まで入院してたし」

「そうなの?」

「うん。そのリハビリのプログラムの一つに太極拳があるんだけど、プログラムが終わっても続けられるように、お寺でやってる太極拳教室にも通ってるの」

「なるほどね、なんかわかる気がする。自分の体を大事にしてる動きだよね。でも、僕らの年代で太極拳やってる人には初めて会ったな」

藤居は、しみじみとそう言った。

「社交ダンスだって、珍しいんじゃない?」

「太極拳ほどじゃないよ。あ、ごめん、悪く言うつもりはなかったんだ、いや、格好いいと思う」

続けて、含んだように笑った。さっき一瞬見えた、目の中の暗さはどこかへ行ってしまったようだった。そんな話をしているうちに教室へ着いてしまい、藤居は

「また話を聞かせてね」

と言って、二人はそのままそれぞれの席についた。

 

 「また話を聞かせてね」という言葉は宙に浮いたまま、その後、藤居と日磨理が互いに話すことは殆どなく、一学期の中間テストを迎える時期となった。その日、日磨理は図書室で一人、黙々とテスト勉強をしていたが、ふと、いつもと違って体育館からボールのはねる音が聞こえてこないことに気がついた。そうか、テスト前だから部活がないんだな。日磨理は少しずつ、放課後にリハビリに通わなくてはならない曜日が減っていき、本が好きだった日磨理はその時間を主に校内の図書室で過ごすようになっていた。体育館があいている今なら、少し体を動かせるかも。思い立って荷物をまとめると、一度教室に寄ってから体育館へ向かった。

 体育館の入り口は少し開いていて、中には誰もいないようだった。腕時計型の携帯デバイスを確認すると、下校時刻まで1時間を切っていた。日磨理は少し動いたら帰ろうと、教室から持ってきた体育館履きに履き替えて板張りの体育館へ足を踏み入れようとしたその時、奥で一つ、動いている人影に気がついた。

 日磨理が目を凝らしてよく見ると、それは一人でダンスを踊っている藤居だった。いつものゆったりとした鷹揚な振舞いとは異なり、額や首筋に汗を浮かべながら、体育館の上を滑るように動き、そうかと思うと急に体の向きを変えて何かを迎え入れるように、支えているかのよう静止したりと、緩急のついた動きを体育館の奥で、ひたすら一人で踊っている。息をひそめながらその様子を見つめる日磨理にはそれが、社交ダンスのシャドウ練習であることが判った。

 

 春休みのあの日、バスに乗り遅れてしまったType-O3と一緒に、ひまりは三十分に一本のバスを待つことにした。Type-O3はその間、ひまりに熱心に社交ダンスを勧めてきた。ホログラム上で男女がペアで踊っている動画を見せながら、

「こちらを見ると、一見、女性は背中を大きくそり、足腰に負担がかかりそうな姿勢をとっているようにも見えます。しかし、下半身や体幹、骨の周りを支える筋肉を鍛えることでむしろ、腰痛の予防や改善を見込むこともあるそうです。

 かつて、人類史上最速のスプリンターと呼ばれた短距離走の選手は、持病を抱えながらも自身にあったトレーニングを重ね、現役生活をトップアスリートとして活躍されました」

 そこまで話すとType-O3は、水筒から一口飲んでから一息ついて、ひまりを優しく見つめながら続けた。

「ひまりさんも、今から何かに取り組むことで、その道のトップになれる可能性は十分にあります。私は激しいコンタクトスポーツである格闘技を長いこと続けてきて、これまでもご活躍されている女性選手もおられますし、ひまりさんがどうしても推手をしたいと仰るのなら、私に止める権利はありません。ですが、今の時点では一つに絞らず、色々な世界を覗いてもよいのではないでしょうか」

 ひまりは、太極拳が好きで続けたいという気持ちに嘘はなかったものの、そこまで言われてしまうと、それでも、自分はどうしても、たとえType-O3と一緒ではなくても他でもない推手がやりたい、とまで言うことはできなかった。

 何か言いたそうにしながら、困ったように目を伏せてしまったひまりを見て、Type-O3は柔らかい調子で、少しいたずらっぽくささやいた。

「ひまりさん、バスが来るまでもう少し時間がありそうです。……今、ちょっとだけ、私と一緒に踊ってみませんか」

 Type-O3は「さぁ、」と左手を掲げ、ひまりが腕の中に来るのを待っている。芝居じみた構えは滑稽にも見えたが、ひまりはそっと右手をType-O3の左手に、左手を右の上腕部に置いた。Type-O3はひまりの左の肩甲骨に、下から支えるように右手を置き、

「ひまりさん、体の向きはもう少し、私と真正面から向き合うような角度になります。今、ひまりさんの左の腰が私のお腹についていますが、お互いの右の腰どうしを合わせるような感じになりますね」

と顔色を変えずに伝えながらひまりの真正面へ回ろうとするが、ひまりはどうしても正面で向き合うことが出来ず、二人は腕を取り合いながら道路脇でクルクルと回ってしまっている。ひまりは自分の手のひらがまた湿ってきているように感じ、Type-O3が着ている薄手の長袖に自分の左手の汗がついてしまうのではと思うと、気が気ではなかった。結局、互いの右腰同士をつける事はできないまま、遠くから近付いてくるバスの影を見つけ、二人は体を離した。

 

 また、踊りましょう、と言われたらどうしよう。そもそもどんな顔をして次の太極拳教室で会えばいいのか頭を抱えながらも、日磨理は次はちゃんと組んで踊れるように春休みの間、動画やダンス教室の案内や様々な資料を読み、自分なりに家でステップを踏んで練習をした。どこかの教室の体験レッスンに行くことも考えたが、やはり、人とあれほど近い距離で組んで踊ることに抵抗を感じてしまい、家で一人、見よう見まねでステップを踏んだ。

 新学期、藤居諒次がその整った顔立ちと姿勢を誇るように社交ダンスに触れた時、日磨理は、やはり自分には難しそうだと改めて感じた。春休み中に見た動画での、女性のはっきりとした化粧や衣装は映画の中の女優のようで、自分もそういう衣装に身を包んで煌びやかな化粧をしたい、といった気持ちにもなったが、同じ年の男子生徒による、踊っていない時にも醸しだされる佇まいには気後れしてしまった。次にType-O3に会う時は、練習してみたけど難しい気がすると伝えよう、と心に決めた。

 しかし四月の太極拳教室にType-O3は現れなかった。なんでも、パーツ交換の時期が予定からずれてしまい、来られなくなったらしい。日磨理は社交ダンスの話をせずに済んでほっとした気持ちと、会えなかった寂しさの両方を抱え、五月を迎えた。

 

 藤居のシャドウ練習は緩急の変化が大きく、日磨理は食い入るように少し離れたところから見つめ続けた。それはこれまで画面越しに観たものとは一線を画す迫力で、かつて、格闘技の試合を会場で観た時の昂りを思い出させ、目を離せなかった。

 やがて藤居は動きを止めると、顔や首筋の汗を拭って声をかけた。

「桐沢さん?どうだった、今の動き」

汗のにじんだTシャツが張り付いた肩を軽く上下させて少し息を切らしながら、日磨理を見つめ問いかけている。日磨理が言葉を出せないまま入口に立っていると、

「何かしに来たの?こっちおいでよ」

水筒の中からごくごくと何かを飲み、息を整えながら首にかけたタオルで額の汗を拭って続けた。日磨理は観念して藤居の傍へ向かい、

「練習の邪魔しちゃってごめんね。誰もいないかなと思って。帰る前に少し、広いところで体を動かしてから帰ろうと思ってたの」

「太極拳?」

「うん」

「ここ広いから、お互いぶつからずにできるでしょ。僕のことは気にしないで桐沢さんも練習して。僕はそろそろ帰ろうかなとも思ってるし。でも、折角だから桐沢さんが練習してるとこ、見たいかも。ちょっと休憩したいし」

「え、まだ教室に行き始めて半年くらいだから、やだよ、そんなの」

「そうなの?僕のはあんなにまじまじと見ていたのにな」

藤居は少し見下ろすように意地悪く笑ってみせ、からかうように続けた。日磨理は意を決し、聞いてみた。

「あの……さ、少しだけ社交ダンス、ここで、教えてもらっても、いい?」

 藤居は「まずは準備運動だね」と、手本を示すべく動き始めた。日磨理は藤居の長い手足がしなやかに動くのをまねをする。藤居は、

「あまりよく知らないけど、桐沢さん、今もリハビリを続けてるんでしょ。今、一緒に踊ってさ、どこか痛いところとかあったらすぐ教えてね。無理はよくないから」

そう言って念入りに手本を示していく。日磨理はぐっぐっと体のあちこちを伸ばしたりほぐしたりしながらどこかそわそわした気持ちで、自分の体の状態を確認していった。

 二人は大きな鏡の前に立ち、藤居がステップの手本を一歩ずつ示し、日磨理はその斜め後ろで真似をしていく。大きくて広い背中から伸びた腕の先、指先まで意識が行き届いていることが日磨理から見てもわかった。藤居はステップを踏みながら尋ねた。

「桐沢さん、どこかでやったことある?」

「うん、ちょっとね」

「きれいに踊れてるよ。そしたら、何種類かやってみるから、見ながらまねしてみて」

そう言って、二人は鏡に向かってステップを踏み続けた。しばらくそうして練習を続けた後で藤居は動きを止めて日磨理の方へ振り返り、

「最後、一曲だけ一緒に踊ってから帰ろう。水でも飲んで、ちょっと待ってて」

と、自分の鞄へ走り寄った。

 日磨理は、やっぱり組んで踊るのか……という、期待とも不安ともつかない気持ちで自分の鞄に向かった。歩きながらちらりと藤居を見ると、藤居は日磨理に背を向けたまま、がばっとTシャツを脱ぎ、鞄から取り出した大判のシートで上半身の汗を拭っているようだった。日磨理は慌てて視線を外して急いでお茶を飲み、シートで自分も首まわりや腋を拭った。

 藤居が二人から少し離れたところに腕時計型のデバイスを置き、左のこめかみを触って少しすると、デバイスから音楽が流れ始めた。

「この曲知ってる?」

始めにピアノの音が聞こえ、ゆったりとしたチェロのメロディがそれに続いた。

「知らないけど、なんか眠くなっちゃいそうだね」

「そうかもね。今日は最初だから、このくらいのリズムで踊ってみよう。1、2、3、1、2、3……どう、大丈夫そう?」

「うん、やってみる」

「よし」

デバイスから音が消え、二人は向き合った。

「せっかくだからもう一つ」

何か企むようにつぶやくと、藤居の着ているものが瞬時にTシャツとズボンから燕尾服へ変わった。日磨理の着ているものも、白地にラメがきらきらとした華やかなドレスに変わっている。

「ちょっと前に入れたBMIを試してみたけど、どう?曲のテーマに合わせて、白い衣装にしてみたよ」

日磨理が鏡越しに見ると、衣装だけではなく、顔にもしっかりとメイクが施されている。すらりとした藤居の隣に立つ自分は、なかなか様になっているようだった。

「話には聞いたことあったけど、すごいね!!」

鏡を見たり、体をひねってドレスをひらめかせたりしてはしゃぐ日磨理を見て藤居は微笑み、「それじゃ、最初の姿勢を作って」と促した。続いて日磨理の姿勢に沿うように右手をとって左肩の下へ自分の右手を添え、互いの右腰をそっと合わせた。あまりにスムーズに組まれてしまい、日磨理は先日のように体を離すことを忘れていた。

「そう、目線は左上のまま、ほんの少し上半身を斜め後ろ側にそらせて。辛くない範囲でね」

体をそらそうとすると、藤居の右手が自分の左肩の下に添えられていることがよく判る。添えられた右手は大きくて暖かで、柔らかかった。藤居は鏡越しに二人を確認し、

「うん、よさそうだ。踊ろう」

そう言うと、先ほどの音楽が流れ始めた。

 藤居は少し音楽を聴いてから「1、2、3」と声を出し、先ほど練習したステップを日磨理がなぞっていけるよう、丁寧にリードし始めた。

 ゆったりとした弦の響きに合わせながら、二人は踊っていく。日磨理は先ほど教えてもらった動きを一所懸命になぞる。藤居は、

「もう少し力を抜いて大丈夫」

と声をかけ、丁寧なリードを続ける。日磨理は足の動きに集中しながら、少し目をつむり、頭の中で「1、2、3、1、2、3」と数えてからもう一度目を開けると、そこは体育館ではなく、木々に囲まれた湖になっていた。天井はなく、明るい月が湖面を照らしている。驚いた日磨理の握られている右手に少し力が入ると、藤居は少し笑って左手を優しく握り返し、

「この曲のテーマは白鳥なんだ。なりきって」

とリードを続けた。日磨理ができるだけ集中しながら曲と藤居の動きに合わせて足を運び続けていると、ある瞬間にふわりと自分の体が軽くなり、月の光に照らされて湖面で羽を広げる白鳥のイメージが浮かんだ。今のはなんだったのだろうと訝りながら踊り続けたが、やがてチェロとピアノの音は止まり、魔法が解けたように景色も衣装も元に戻って、体育館にはラフな服の二人がぽつんと残された。

 Tシャツ姿の藤居は日磨理に恭しくお辞儀をし、姿勢を正して続けた。

「僕ね、前に組んでいた人とカップルを解消しちゃって、いま、一人なんだ。桐沢さん、よかったら、僕とカップルを組んでくれませんか?」

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