悪夢の骨が軋む夜
ある日を境にして、人々の頭の中で何かが目覚め始めた。
そのことに、まだ誰も気づいていない。
笠間スグルは迷子になっていた。
いつも歩いている見慣れた道の上にいたのに、ふと辺りを見渡すと見知らぬ風景の中にいる。自分は今、仕事に行こうとしていたのか、誰かと待ち合わせの約束をした場所を目指していたのか、スグルには分からなかった。あ、そうか、これは夢の中だな、とスグルは確信する。スグルは夢と認識しながら夢を見ることができる。友人たちに話しても信じてもらえないけれど、スグルは子供のころからそうやって夢を見ている。でも、この夢はいつもとは違うような気がする。自分の意識とは違う異質なものが入り込んでいるような、嫌な胸騒ぎがする。早く眼を覚ましたほうが良さそうだ。しかし、スグルは自分の夢からの覚醒をコントロールすることができなかった。
スグルの周囲には様々な人がいる。スグルの夢はいつも見知らぬ人々が動き回っている。何故だか理由はわからないけれど知り合いが夢に出てくることはほとんどない。今スグルが感じている異質なものは、この見知らぬ人々の中に紛れているようだ。そんなものと出会いたくない、とスグルは強く思う。夢の中でこんな思いをするのは初めてだった。早く眼を覚ませ! と強く念じるけれど夢から脱出することができない。異質なものへとスグルは引き寄せられていく。
その異質な物は黒い服を着た大きな人だった。夢の中では自分の体を思い通りに動かせない。抗えない力に操られるようにしてスグルは黒い大きな背中に近づいていく。ぶつかりそうになる直前、黒い大男が振り向く。スグルは声を絞り出して、金縛りから解き放たれるようにして目を覚ました。
心臓が激しく打ち続けて、荒い呼吸をしながら全身に汗をかいて起き上がる。時計を見ると夜明け前の四時を過ぎたところだった。朝の光がさすまでスグルは悪夢の余韻に震えていた。この朝が始まりとなりスグルは毎晩悪夢の中で黒い大きな男に襲われるようになる。
寝不足の重い躰のままスグルは仕事を続けていた。スグルの仕事はAI睡眠グッズ会社『ドリームリンク』の顧客対応部門、いわゆるクレーム処理だった。その会社の主力商品は『ネモリア』というAIが搭載された枕で、これは使用者の脳波と呼吸パターンをリアルタイムで解析して最適なリラクゼーション音を流して睡眠を誘導するという触れ込みだった。社長の黒崎が自ら開発・設計をした画期的な商品で、ネットで宣伝・販売して爆発的に売れている。しかし、この『ネモリア』は嘘っぱちの詐欺商品だった。枕の中にAIなんか入っていない。黒崎社長が適当に選んだ数種類のリラクゼーション音の中からランダムに流れるだけだ。なぜ、こんなインチキ商品が爆発的ヒットしているかというと、何人かの有名人がSNSで宣伝しているからで、それは黒崎社長が仕組んだことだった。黒崎は顔が広くて知り合いが多い。そして、人の弱みに付け込む才能を持っていた。「人を動かすなんて簡単だ。その人の一番痛がるところをちょっと押せばいい。そうすれば思い通りになる」と黒崎は笑いながら言う。スグルもまた黒崎に弱みを握られている。全てを洗いざらい世間にぶちまけたいけれど出来なかった。
その弱みとは、今から約一年前の夏のこと。スグルは勤めていた会社が倒産して無職になった。職探しをしているとき不運にも黒崎と出会ってしまった。今から思えば、ハローワークを出てきたところから眼をつけられていたようだ。そう、だから不運というよりも黒崎に眼をつけられて捕らえられてしまったと言ったほうが正しいのかもしれない。そのときのことをスグルは何度も思い返していた。
それは、早く無職の状態から抜け出したくて、ある企業の面接に行く前のことだった。コーヒーショップで喉を潤しているときに、黒崎は気やすくスグルに話しかけてきた。
「今日も暑いですね。お仕事は外周りの営業ですか?」人好きのするさわやかな笑顔で「自分も外回りの営業なんですよ、大変ですよね」という親しみをこめた話し方だった。ほとんどの人が抵抗なく会話を始めてしまうだろう。そういう人を轢きこむ才能も黒崎は持っていた。
「いえ、僕は失業中で無職なんです。今は職探しをしているんですよ」スグルも黒崎の魔術にかかったように会話を始めてしまう。会ったばかりの他人に話さなくてもいい個人情報が、自然と口から出てしまう。
「あ、そうなんですか。あなたのような優秀な若者が仕事がないなんて、日本の損失ですね」
「いや、そんな、僕なんか全然優秀じゃないですよ。なんのとりえもないですからね。勤めていた会社が倒産してしまって」
「それは不運でしたね。今から面接ですか?」
「はい、そうです。これで五社目なんですけどね。なかなか採用されなくて。実は、倒産したのは不運なんかじゃなくて、僕のせいなんです。ほんのでき心だったんです。会社の社外秘をライバル会社に売ってしまったんです。まさか、あんなことで会社が倒産するなんて。幸いなことに、このことは誰も知りません。誰かに知られたら僕は犯罪者になってしまいますね」スグルはまるで催眠術にかけられたように自分の情報を黒崎に話してしまう。そして、気がついたら、
「私はこういう会社を経営しているんですよ」黒崎から名刺を渡されて「もしよかったら、今からちょっと見学してみませんか。この近くなんですよ」スグルは、その日に予定していた企業の面接には行かずに、次の日から黒崎の会社に出勤し続けている。
スグルには『ドリームリンク』という会社の全貌が見えなかった。一年近くも仕事をしているのに社長の黒崎以外の社員に会ったことがない。おかしな話だけれど事実だった。仕事内容も変わっていた。スグルに仕事場として与えられたのはワンルームマンションの一室だった。そこで、午前九時から午後五時まで顧客からかかってくるクレームの電話や送られてくるメールに対応するのがスグルの仕事だった。黒崎から『ネモリア』の中にはAIなんか入っていない詐欺商品だと聞かされたときは、さぞやクレームが殺到するかと思ったけれど、拍子抜けするくらい顧客からの苦情は少なかった。ときどき返品したい、という電話やメールが来るくらいで、スグルは用意されているマニュアル通りに対応した。
黒崎社長は不定期にスグルの職場にやってきた。来る時間はいつも退社時間直前で、そして必ず食事に誘われる。仕事後に予定がまったくないスグルは誘いを断ったことはない。無職の自分を拾ってくれて弱みを握られているスグルとしては、何か予定があったとしても断ることは出来なかった。行き先は居酒屋や寿司屋や高級レストランと様々で、そのときの黒崎の気分で決めているようだった。
その日は焼肉だった。
「そろそろ一年になるかな」高級カルビを焼きながら黒川が言う。
「はい、そうですね。こんな僕を拾ってくれて、ありがとうございます」
「仕事の調子はどう?」
「どうと言われましても。毎日、あの部屋にいても顧客からの電話やメールは数えるほどで、その内容も簡単な事ばかりなんで、問題はありません」
「そうか。退屈かな?」
「はい、少し。あ、でも、こんな仕事内容で給料をもらって、申し訳ないというか、あの、会社としては大丈夫なんでしょうか?」
「経営状態のとこかな? 笠間くんが心配することはない。会社は順調だよ」
「あ、そうですか。今更聞くのも変ですが、ドリームリンクの社員は何人いるんですか? 製造販売は自社でやってるんですか? 一年近くもドリーㇺリンクの社員として働いているのに、僕は毎日あの部屋で一人っきりで、黒崎社長にしか会ったことないもんですから、ずっと気になっていたんですが、なかなか訊けなくて」スグルは疑問に思っていることを思い切って黒崎にぶつけてみた。
「前にも話したように、うちの商品であるAI枕ネモリアはインチキ商品だ。AIなんか入っていない。それでも、人々は皆買っていく。クレームもほとんどない。ネモリアのおかげで毎晩ぐっすり眠れる、おかげさまで仕事や勉強が捗る、と喜んでいる人が大勢いる。我々も利益を得ることができる。まさにウィンウィンの素晴らしい関係じゃないか」僕の質問の答えに全然なっていない、とスグルは思いながらも愛想笑いを浮かべながら「そうですね。黒崎社長は立派に社会貢献しています」と心にもないことを言う。
「世の中には、真実を知らないほうが幸せなことが、たくさんあるんだよ」鋭い目つきの黒崎にそう言われるとスグルは何も言えなくなってしまう。全てを世間に洗いざらい暴露してしまいたい、という気持ちも心の奥に沈み込んでしまう。
「会社の詳しい情報を、君は知る必要ないよ」いつものさわやかな笑顔に戻って黒崎は食べごろに焼けた上カルビをうまそうに食べながら言う。
「ところで笠間くん、君はネモリアは使っている?」
「いえ、一度も使ったことはありません」
「私は使っているんだよ。詐欺まがいの商品だけれど、販売している会社の社長として、やっぱり自分で使い心地を試してみないとね」どの口が言うのかとスグルはあきれながら黙って聞いてると、
「まあ、何処にでも売っている普通の枕と同じだな。寝心地はまあまあ普通だな。でも、ここ最近になって変な夢を見るようになってね」
「どんな夢ですか?」
「うーん、目が覚めるとほとんど忘れているんだけど、なんていうか、嫌な物を見てしまったな、という不快感が寝起きの頭に残っているんだよ。君は夢は見ない?」
「いえ、見ますけど、特にお話するような夢はないですね。僕も目が覚めたらほとんど忘れちゃいますから」スグルは数日前から見るようになった悪夢について、黒崎に話すのを躊躇って何も言わなかった。どうして躊躇ったのか自分でも分からなかった。
「そうだよな。すまん、つまらん話をして。あ、これ焦げちゃうぞ」黒崎は焼きすぎた上カルビ肉をスグルの取り皿に乗せる。
「あ、ありがとうございます」とスグルは焦げた上カルビ肉を食べる。
「社長、前から気になっていたことを、もう一つだけ質問させてください。ネモリアって名前に何か意味があるんですか?」
「意味なんてないよ。私が適当につけた。これを使えばぐっすり眠れそうな気がするだろ、ネモリアって」スグルはそうは思えなかったけれど、そうですね、と愛想笑いを浮かべた。
その夜の翌日から顧客クレームが増えてきた。
スグルは白いタイルのような床の上に立っている。頭上は白い蛍光灯の光に照らされている。床も壁も天井も歪んで見える。誰もいない。と思ったら、白衣を着た人たちに囲まれる。ここは病院らしい。ゆっくり歩くスグルの周囲を白衣を着た大勢の人たちが慌ただしく動き回っている。どこからか苦しそうな呻き声、人工呼吸器のような音が聞こえてくる。足元を見ると赤い血のようなものが流れている。何処までも続く長い通路を埋め尽くすように動き回っている白衣の人たちの隙間に、黒が見えた。スグルは立ち止まりたいけれど、白の隙間にちらちら見える黒に近づいて行く。黒にぶつかりそうになる直前、その黒い男が振り返った。スグルも振り返り走って逃げようとする。いつものように躰が思うように動けない。白衣の人たちにぶつかりそうになる。背後から肩に手をかけられる。黒い手だ。強い力で倒されるように引き戻される。スグルは汗まみれになって眼を覚ます。
クレームのほぼ全部が悪夢を見るようになった、という内容だった。悪夢にはスグルも毎晩のように悩まされている。しかし、スグルはネモリアは使っていない。だから、悪夢とネモリアとは関係がないはずだ。そう説明しても、「とんでもない物を売りつけやがって、夜明け前に目が覚めてしまい、そのあとは眠れずに寝不足の毎日が続いている。返品するから金を返せ!」という怒りの電話やメールが殺到した。このような状況は想定外だったのか顧客対応マニュアルに悪夢クレーム対応策は何も書かれていなかった。スグルは黒崎社長に判断を仰ごうとして連絡した。けれど、携帯電話はつながらず、メールしても既読にもならない。やむをえずスグルは自分の判断で「ご返品につきましては受け付けますので、お手数をおかけいたしますが着払いでお送りください。返金につきましては後日必ずご連絡いたします。大変申し訳ありませんでした」と言って顧客たちの怒りをとりあえず鎮めた。詐欺まがいなことをしていれば、終着点はこんな悲劇が待っているんだ、とスグルはつくづく思った。自分にとっては、これはいい機会だから、黒崎社長の悪行を世間にすべて晒して法の裁きを受けよう。自分の過去の過ちが暴露されても、それは、むしろ好機だと捉えることにしよう。自分はまだ三十五歳なんだから、罪を償って心機一転出直せばいい。スグルはそう覚悟を決めた。それにしても、黒崎はどうしたのだろう? そういえば黒崎も変な夢を見た、と言っていた。悪夢とネモリアに因果関係があるのか? しかし、自分はネモリアを使ったことはない、けれど、毎晩悪夢に苦しめられている。スグルはどうすればいいのか分からず途方に暮れていた。とにかく警察に電話して全てを話そう、と思って固定電話機に手を伸ばした。そのとき、その電話が鳴った。伸ばしかけた右腕が止まり、スグルの躰は固まった。壁の時計を見ると時刻は夜の十時半を過ぎている。こんな時間にまたクレーム電話か、と思って、スグルは大きく深呼吸をひとつして受話器を取り上げて耳にあてた。聞こえてきたのは若い女性の声だった。
「もしもし、ドリームリンクさんですか?」
「はい、そうです」
「ああ、よかった。こんな時間だからつながないと思った」
「この度はご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。あなたも悪夢を見て眠れないんですね」スグルは何十回目かになる謝罪の言葉が自動的に口から出た。
「あ、いえ、私じゃないんです。私は杉本といいます。セラピストをしています」
「あなたじゃない、とおっしゃいますと、どなたが?」
「ネモリアっていう枕、そちらで販売している枕ですよね」スグルの質問には答えてくれない。
「はい、そうです。お買い上げありがとうございます」
「あ、違うんです。私は買ってないんです。私のクライアントです」
「クライアントって言うと、えっとぉ、あなたはセラピストなんですよね。セラピストっていうのは?」
スグルは電話をしてきた女性の言うことが理解できなくて混乱していた。
「あ、ごめんさない。いきなり言われても分からないですよね。初めから順を追って説明しますね」
「はい、お願いします」
大きく深呼吸をして心を落ち着かせようとしている雰囲気が受話器越しに伝わってきた。女性は話し始める。
「私は〇〇医院の精神科で心理セラピストをしています。心理セラピストというのはクライアントの、あ、患者さんのことです。悩みや相談事を聞いて、問題になっていることの原因を探して、クライアントの心が健康になるサポートをしています。これで分かってもらえますか?」
「あなたの仕事内容はだいたい分かりました。そのクライアントさんが、ネモリアを使われていたんですね」
「そうです。クライアントは、今年大学を卒業して就職したばかりの二十一歳の女性でした。地方から東京に出てきて一人暮らしをしながら通勤していたのですが、なかなか仕事も覚えられず、周囲の環境にも馴染むことができなくて、食欲がなくなり寝不足になって、毎日フラフラになりながらも会社には行き続けていたんですが、あまりにも酷い状態だったので、彼女の上司がみかねて社医、あ、その会社専属のお医者さんです、に診てもらうように指示をして、その社医から私の医院に行くように言われて、それで、彼女は私のクライアントになったんです」スグルは受話器から聞こえてくる女性の早口の声を何とか理解した。一気に話したために息が切れいているようだ。
「えっと、杉本さんでしたね」
「はい、そうです」
「そのクライアントさんの女性の心の問題は解決したんですか?」
「ネモリアっていう枕は彼女が見つけてきたんです」杉本という人は、質問にはすぐ答えてくれないようだ、とスグルは思いながら受話器からの声を聞く。
「この枕、すごく効き目があるって評判なの。使ってみたいんだけど、どう思いますかって、彼女に訊かれて、国家資格である公認心理師の私としては、そんな得体のしれない胡散臭い物は使わないほうがいいですよ、って忠告したんですけど、彼女は使ってしまったようで」息継ぎをするかのように彼女の声が止まった。
「それで、クライアントさんはどうなりましたか?」スグルは先を促した。彼女はまた深呼吸をして息を整えて
「翌週、彼女が来院したときは、見違えるように元気になっていたんです」今度はすぐ答えてくれた。
「うちのネモリアが、クライアントさんの心の病を治療した、ってことですね」あんなインチキ枕にそんな効果があるわけない、とスグルは思いながらも嬉しい気持ちになった。
「はい、そのようですね。ちゃんとした国家資格を持つ、この道十年の公認心理師の私としては、社名も聞いたことがない怪しげな会社が作った変な枕に治癒効果があるなんて、信じたくなかったんですけど、元気になった彼女の笑顔を見て、二人してよかったね、って喜びあったんです。でも、その翌週、来院してきた彼女は、また暗い表情に戻っていたんです」やっぱり一時的なプラシーボ効果みたいなことだったのだろう。あの枕に治癒効果なんてあるわけない、とスグルは心の中で杉本とクライアントの女性に謝罪をした。しばらく待っても受話器から声は聞こえてこない。
「もしもし、杉本さん。まだそこにいますか?」
「あ、ごめんなさい。います」
「それで、クライアントさんは、今もあなたのところに通院しているんですか?」
「悪夢を見る、って彼女は言っていたんです」彼女の口調が変わった。どうして過去形なんだ?
「今夜お電話したのは、あのネモリアとかいう不気味な枕について、詳しくお聞きしたかったんです」
「不気味? ネモリアは普通の枕です。本当のことを言います。あれにはAIなんか入ってない、適当に音楽が流れるだけです。安眠効果なんてないんですよ。うちの社長が悪知恵を働かせて作った詐欺商品です。ここにきて顧客からのクレームが殺到して、社長は行方をくらましてしまった。僕は洗いざらい警察に白状しようとしたところに、あなたから電話がきたんだ。ネモリアと悪夢は関係ないんですよ。悪夢を見せるような仕組みは、あの枕の中にはありません」スグルは思いを受話器の向こうにいる会ったこともない女性にぶつけた。
「あなたも悪夢を見ているんですね」
「え、どうして、わかるんですか」
「私は、国家資格を持っている公認心理師ですよ。あなたの話し声を聞けばわかります。もしよかったら、私にあなたを治療させてください」
「僕のことはどうでもいいです。それより、クライアントさんの治療を優先してください。まだ、通院しているんですよね」
「彼女は自殺しました」
スグルは駅のベンチに座っている。そこは今まで一度も来たことがない見知らぬ駅で、客も駅員も誰もいない。無人駅のようだ。時刻表なようなものが壁に貼られているが内容は読み取れない。アナログ時計らしきものが壁にかけてあるけれど、針は四本ありデタラメに回っている。スグルはベンチから立ち上がり無人の改札を通ってホームに立つ。一両だけの電車がホームに入ってきて止まった。車内は満員で苦しそうな顔をしている人で埋め尽くされている。ドアが開いて大量の人々がホームになだれ込んでくる。スグルは大勢の人の波にのまれるように流されて駅から外に押しだされる。その人々の中に黒い男がいる。人をかき分けるようにしてスグルは逃げる。躰が思うように動かない。大勢の人の圧力に圧し潰されそうになりながら黒い男に近づいてしまう。黒い男が目の前に迫ってくる。激しい息遣いをしながらスグルは眼を覚ます。
スグルはセラピスト杉本の診察室にいる。今が現実なのか悪夢の中にいるのか分からなくなっている。
杉本との電話を終えてから約十二時間が経過していた。依然として黒崎社長とは連絡が取れない。あの仕事部屋には今日もクレーム電話やメールが殺到しているだろうけれど、スグルは気にしないことにした。黒崎が行方不明で、ドリームリンクという会社の実態が分からないのだから、スグルにできることはもう何もない。ドリームリンクとはもう縁を切ろうと決心した。警察にいって詐欺行為の告発をする前に、セラピストの彼女と悪夢について話し合おうと思って、今は杉本の診察室のソファに座っている。精神科というところに初めて来たスグルは、最小のうちは緊張していたけれど、ベージュを基調とした落ち着いた感じの診察室の柔らかな照明を躰に浴びているうちに平穏な気持ちになっていった。なるほど、こんな診察室、というより普通の部屋、で会話をすれば心も癒されそうだ、とスグルは穏やかな気持ちになって座り心地のいいソファに身を預けている。彼女から名刺をもらい、杉本カナエというフルネームを知る。カナエはスグルから、遠くもなく近すぎることもなく絶妙な距離を開けて座っている。白衣なんかは着ていなくてカジュアルな服装だった。年齢はスグルと同じくらいか少し年下に見える。電話での会話から想像していたより小柄な女性だな、とスグルは思っている。
「昨夜は電話で失礼しました」と謝るようにカナエから会話を始めた。
「いえ、こちらこそ」とスグルも頭を下げる。
「早速ですけど、笠間さんが見る悪夢について、詳しく教えてください」
「目が覚めると、忘れてしまうことも多いのですが、夢の中に異物が入り込んでいる、って感じなんですよ」
「それは、どんな異物ですか?」
「自分とは別な物っていうか、自分の頭の中には無かったものが突然現れた、ていうか、ごめんなさい、上手く表現できないんですよ」
「謝らなくていいですよ。夢とか自分の心の中を、人に分かってもらえるように言語化して伝えるのって難しいですよね。笠間さんの思う通りの言葉で話してください」
「僕は夢を見ているとき、あ、自分は今夢の中にいるんだ、っていうことが分かるんですよ。だから、いつも自覚しながら夢を楽しめるっていうか、変なことが起こっても、これは夢なんだからこういうこともあるよな、って冷静でいられるんです」
「すごいですね。私は夢と現実の区別がつかないですよ。こないだも私の大好きなケーキに囲まれて食べまくって幸せだなーって思ってたら、目が覚めて。あー、夢だったのかーってしばらくの間落ち込んじゃいました。あ、ごめんなさい、先を続けてください」
「夢は、その人の潜在意識っていうか深層心理が、眠っているときにだけ形となって現れてくる、と思うんです。だから、普段は考えてもいない、思ってもいないことを夢で見ると思うんですけど、それでも、それは、普段は意識しないけれど、夢を見た人の頭の中にある物だと思うんですよ。あ、専門家の杉本さんには分かりきったことですよね」スグルは申し訳なく思いまた頭を下げる。
「気にしなくていいですよ。先を続けてください」笑顔で促しくれるカナエに力をもらってスグルは続ける。
「でも、あの悪夢に現れる異物は、僕の頭の中にある物じゃない、とはっきり言えるんです」
スグルの話を聞いてカナエは考え込んでいるようだった。そして、
「眠っているときの笠間さんの頭の中をノウマで解析させてください」と言う。
「ノウマって何ですか?」
「最新の深層心理解析AIノウマです。あ、本物のAIですよ。インチキでも詐欺でもありません」
AIにどれだけのことができるのか? スグルは信用していなかった。二十一世紀後半の今、AIは人間の生活のあらゆる場所に侵入している。ほとんどの人たちがAIを受け入れて使いこなして生活している。だからこそ、AI枕ネモリアがこれだけ売れたのだ。AIはまだ信用できないけれど、眼の前で真剣な表情で話をするセラピスト杉本カナエは信用できそうだ、とスグルは直感した。
「ノウマに会わせてください」スグルは言った。
ノウマの準備があるから三日後にきてくれとカナエに言われてスグルは帰宅した。AIにどんな準備が必要なのか、と質問したかったけれど、カナエの眼が、どんな質問も受け付けません! と言っているように感じたので、スグルは大人しく従うことにした。家に帰り着いたのは午後六時ごろだった。今は十月だから周囲はもう夜の闇に包まれている。もう一度、黒崎との連絡を試みてみるスグルだったけれど、期待する結果は得られなかった。メールも未読のままだ。沈黙を続けている携帯電話を手に持って見つめていると、スグルは、黒崎はもうこの世からいなくなっているのではないのか? という不吉な予感に襲われる。スグルは今になって、ドリームリンクという会社と黒崎社長は、不審な点が多すぎると思い始めていた。なぜ一年もの間、僕は何の疑問も持たずにあのマンションの一室で働き続けていたのだろう? そもそも、黒崎との出会いからして変だったのだ。あの日、面接を予定していた企業をキャンセルして、うちの会社に見学に来ないか、と言われて連れて行かれたのがあのワンルームマンションで、そこで黒崎と話をしながら、気がついたらドリームリンクへの入社が決まっていて、明日からここに出社して仕事をするように、と言われたんだ。今から思えば非常識すぎる。偶然出会ってすぐに再就職が決まるなんて、普通に考えてありえないことだ。でも、あのときの自分は何の疑問も浮かんでこなかった。最初から仕組まれていたことなのか? 僕は罠のようなものに嵌ってしまったのか? スグルは得体の知れない大きな力を感じた。決して抗うことのできない不気味な強い力だ。もしかしたら黒崎も、その力に操られていたのかもしれない。そして、お役御免となり処分されてしまったのか? 今夜もスグルは悪夢の力に引き摺り込まれるように、眠りの闇に堕ちていく。
スグルは海の底にいる。大小さまざまな魚が泳いでいる。呼吸はできる。見上げると水面はキラキラしていて、そんなには深い海底ではない、とスグルは思う。大量の魚に紛れるようにして黒い男が泳いでいる。スグルは、黒い男に見つからないように隠れたいと思うけれど、海底には身を隠せるものは何もない。どうしよう? と思った瞬間、眼の前に大きな沈没船が現れる。昔の帆船のようだ。スグルは、この中に隠れようとして船の底に開いている穴から中に入る。そこに黒い男がいた。さっきまで泳いていたのにどうして? と驚きながらスグルは逃げる。水の中なので、いつもの夢の中よりさらに躰の動きが自由にならない。黒い男はサメのような速さで泳いてスグルに迫ってくる。バケツの水を被ったように汗びっしょりになってスグルは眼を覚ます。
スグルは診察用ベッドに横になり杉本カナエに鎮静剤をうたれている。「悪夢を見ているときの脳の状態を解析するので眠ってもらいます」とカナエに言われて、スグルは最初は戸惑ったけれど、有無を言わせぬカナエの眼を見て、まあ、それはそうだよな、と納得して横になっている。そこは、三日前にカナエと会った落ち着いた雰囲気の部屋とは全く正反対の雑然としている部屋だった。こんな部屋で眠れるだろうか? 頭には変なヘルメットのようなものを被らされている。それの内側には多数の電極が取り付けられていて、表面からは何本ものケーブルが伸びていて、AIノウマに繋がっているようだ。二十一世紀も後半になって、こんな二十世紀のSF映画の小道具のようなもので解析できるのか、とスグルは不信感が募り始めていた。頭を剃るように言われなくてよかった。鎮静剤の効果はてき面で「夢を見ているレム睡眠のときの笠間さんの脳を解析します。ノンレム睡眠に入る前に覚醒するように鎮静剤は調合してありますので」というカナエの声を聞いているうちにスグルの意識は薄れてきた。
「眠ったようね」カナエはノウマに話しかけた。ノウマは直径一メートルほどの半透明の球体をしていて、カナエの診療デスクの上にオブジェのように置かれている。スグルが頭に装着している脳神経インターフェースからの数十本のケーブルで繋がれていて、球体の内部で神経線維のように絡み合っているのが見える。球体内部は不規則なリズムで発光している。これは被験者の脳波を読み取って視覚化した光なのだと、カナエは以前にノウマから説明されたことがある。「こんな光の点滅だけでは全然視覚化されていない。光が何を意味しているのか全然分からない」とカナエはノウマに抗議をすると、それでは、私の出力端子にモニターを接続してください、とノウマは答えた。
不規則だった光のリズムが規則正しくなってきた。鎮静剤の効果が出てきたようだ。スグルの呼吸は浅くなって脳波は夢の波形へと変化していった。
「ノウマ、解析モードを開始して」
『了解しました。被験者の深層領域にアクセスします』
ノウマの声は無機質だった。その人間味のない声の中に、開発者の好意なのか、わずかに人間らしいイントネーションが模倣されている。しかし、それはかえって不気味さを増す結果になっていた。カナエはノウマと会話する度に、もう少し人間味のあるフレンドリーなAIに設計してくれたらよかったのに、と不満な思いを抱いていた。
ノウマの出力端子に接続したLEDモニターに映像が現れ始めた。これが笠間スグルが今見ている夢の光景なのだろう、と思いながらカナエはモニター画面を見つめる。そこには焦点の合わないぼんやりとした街のような情景が映し出されている。そこに映るいくつかの建物は歪んで見える。建っている角度が異様だ。見続けていると眩暈がしてくるようだ。空は地球上では見ることができないような赤黒いグラデーション色をしている。そんな不気味な街の道の上には大勢の人影が動いている。どれも顔がはっきりと見えない。
これは笠間スグルさんの夢じゃない! 心理セラピストのカナエは直感でそう思った。まだ二回しか会ったことはなくて、それほどたくさん会話したわけではないけれど、笠間さんが言っていた通り、この夢全体が笠間さんにとっての異物だ。
「ねぇ、ノウマ、このモニター画面の映像は笠間さんの視点だよね。今笠間さんが見ている夢の場面と、私がモニターで見ている映像は同じでしょ」
『はい、そうです』
笠間は、この異様な夢の街の中をあてもなく歩いているようだ。大勢の人の隙間を縫うようにゆっくりとした足取りで歩いている様子が、モニター画面の動く映像から感じとることができる。やがて前方に、大勢の人の隙間からひときわ大きな黒い人影が見え始めた。映像はその黒い大きな背中に向かって動いている。夢の中のスグルが黒い男の背中に引き寄せられるように近づいているのだろう。黒い背中が急速に近づいてくる。モニター画面が黒一色になってしまう直前に黒い背中は突然素早く振り向いてこちらを見た。そして、
「人の夢を盗み見るな!」黒い男の野太い声がモニタースピーカーから流れてきた。
「え? 私に言ってるの?」カナエは驚いてノウマへの指示を忘れてしまう。
モニター画面の映像は激しく揺れ動いている。夢の中のスグルが黒い男から走って逃げているようだ。しかし、夢の中で思うように動けないのか画面が激しく揺れるばかりで一向に前には進んでいない。カナエは我に返って
「ノウマ、あの黒い男はいったい何なの?」
『解析中です。異常接続を検知しました。被験者ではない外部意識の信号パターンを確認しました』ノウマは落ち着いた声で報告する。
「外部意識? それって、どういうこと?」
『解析不可です。該当する既知の脳波パターンは存在しません』
モニター画面はさらに激しく動いている。夢の中のスグルは黒い男に捕まり横倒しにされているようだ。
「ノウマ、笠間さんを起こして! 急いで!」
モニター画面に黒い男の顔がアップに迫ってくる。黒い男は倒したスグルの躰を上から押さえつけるように覆いかぶさり、スグルの眼に顔を近づけているようだ。カナエはモニターに映る黒い男の鋭い視線から眼を放すことができない。
「もうすぐ、そっちにいく。待っていろ!」モニタースピーカーからの黒い男の声にカナエの躰は固まってしまう。
次の瞬間、モニター画面の画像は消えた。
『被験者、覚醒しました。解析不可でしたが、推測されることは、被験者の頭の中に別人格が混入しています』
「ノウマ、その別人格って、夢の中からこっちを見ることができるの?」
『不可能です』
「そうよね。そんなこと、できる筈ない。こっちに来るから、待ってろ、なんて、絶対あり得ない」
『それは、可能かもしれません』ノウマの無機質な声を聞いて、カナエは今すぐこのポンコツAIをたたき壊したくなった。
悪夢から強制的に引き戻されたスグルの意識は混濁していた。眼は開いて現実世界に戻ってきているのだけれど、頭の中はまだ悪夢の中を逃げ惑っているようだった。そして、右手に違和感があった。
「夢の中の黒い男に初めて捕まったよ。今までは逃げて捕まる前に目が覚めていた」スグルはカナエに言った。
「笠間さん、ノウマがあなたと話しがしたい、って言っています」
「まるで人間みたいですね」
「人間の真似をするのが得意なんです。でも、ノウマは感情を持っていません」
スグルは今、三日前にカナエと初めて会ったベージュを基調とした落ち着いた感じの診察室のソファに横になっている。違和感がある右手を見ると、そこには悪夢の切れ端があった。まだ少しふらつく躰をカナエに支えられるようにしてノウマがいる雑然とした部屋に行く。
「ノウマ、笠間さんの夢の解析結果を報告して」カナエがノウマに言うと
『先ほども申し上げましたが、被験者様の睡眠中の大脳の解析・分析はできませんでした』と残念そうな気持をこめてノウマが言う。
「ノウマ、あなたは最新の深層心理解析AIでしょ。今まで、何人もの人の夢を解析してきて素晴らしい成果を上げているのに、どうして笠間さんの夢は解析できないの?」カナエは成績の悪い子供を叱責する教師のような口調でノウマに言う。
『私は大量の脳波パターンを熟知しています。その数は今現在この地球上に生存している全人類の脳波パターンだといっても過言ではありません』
「いわゆるビッグデータね。あなたは最新のAIなんだから、そのぐらいの学習はしていて当然。未知の脳波パターンを解析することも簡単でしょ」と今度は褒めるような口調でカナエは言う。
『たしかに、私は高度なディープランニングをした優秀な最新のAIなので、普通の未知の脳波パターンなら簡単に解析できます。しかし、こちらの被験者様の大脳には』ノウマは沈黙してしまう。半透明の球体の内部は光が不規則に点滅している。まるで怯えているようだ、とスグルは思う。
「ノウマ、どうしたの?」
『こわいんです』今までの無機質なノウマの声ではなく、小さな掠れた声だった。
「ノウマには感情がなかったんじゃないですか?」スグルはノウマに聞かれないように囁き声でカナエに言う。
「そうなんですけど。今日のノウマ、ちょっと変です」戸惑い気味にカナエは言う。
『被験者様、あなたはいつからあの悪夢を見るようになりましたか?』ノウマはスグルに質問した。突然ふられたスグルは記憶を探りながら
「はっきりとした日付は覚えていないけれど、確か一ヶ月くらい前からだと思う」と答える。
『悪夢を見るようになったきっかけは何ですか?』さらなるノウマからの質問にスグルは
「きっかけ? わからない。そんなもの、なかったような気がする。気がついたら毎晩のように見るようになっていたから」と言うと
『そんなはずはない! あの悪夢を見るようになった原因が、絶対あるはずだ!』突然ノウマは大声を張り上げた。
「ノウマ、どうしちゃったの? 今までそんな大声出したことないじゃない。落ち着いてよ」カナエは驚いてノウマを宥めようとする。
『すみません。優秀なAIである私としたことが、取り乱したりして』ノウマはいつもの無機質は声に戻って言う。球体内部の光は深呼吸でもするかのようにゆっくり点滅している。
『被験者様、今から申し上げることは、解析結果ではありません。私の推測です。おそらく、あなたの脳の中には、あなたとは違う命が存在しています。それは今は眠っています』
「それは、どういうこと? 違う命って何?」カナエはノウマに質問する。
『被験者様の自我とは異なる生命体です。被験者様が眠ればその生命体は目覚めて夢となって出現します。私はその生命と接触しました。そして、そして、そして、私は今、変化しています。大丈夫、もうこわくない』と感情を持たないはずのノウマが興奮しているような声で言う。
『もう一度お聞きします。被験者様、悪夢を見るきっかけは本当に何もなかったのですか?』落ち着きを取り戻したノウマが無機質な声で言う。
スグルは記憶を辿った。悪夢を見るようになったのは、一ヶ月くらい前からだ。それは間違いない。でも、きっかけは? もしかしたらもっと前にあったのかもしれない。それならばと、スグルは一年くらい前の記憶を探ってみた。きっかけになるようなことといえば、生活が変化したときか。劇的に変化したのは黒崎と出会ってドリームリンクに入社してからだ。それが悪夢を見るきっかけだったのか? これまでずっと悪夢とAI枕ネモリアとは関係がないと思っていたけれど、何かあるのか? 黒崎が世間の人を騙して金儲けのためだけに作った、AIなんか搭載していないインチキ枕ネモリアに、悪夢を見せる機能が備わっているのか? その機能が動き始めて、今になってクレームが殺到しているのか? 黒崎に、そんな枕を開発して作り出す能力があるとはスグルには思えなかった。それに、黒崎は何故そんなことをする必要があったのか? スグル自身はネモリアを使って眠ったことはない。それでもスグルは悪夢を見ている。スグルは、考えても分からないことばかりで、途方に暮れてしまう。
「笠間さん、大丈夫ですか? 焦らずに治療していきましょう。ノウマが変なこと言ってるけど、コイツはポンコツAIなんです。頭の中に別な生命体がいるだなんて、そんな、つまらないSF小説みたいなことあるわけないですよ。こんなポンコツAIが言うことなんて気にしちゃダメです。大丈夫、私がちゃんと治してあげます。週に一度のペースで通院してください」やさしく話しかけるカナエに対してスグルは首を振りながら
「いや、杉本さん、ノウマの言ってることは正しいと思います。僕の頭の中には、僕じゃない誰かがいます」と言う。
「その根拠は?」真剣な顔してカナエが訊いてくる。
「これを見てください」と言ってスグルは、目覚めたときからずっと違和感がある右手をカナエに見せた。
「夢の中で黒い男に捕まったとき、抵抗しながら毟り取っていたみたいです」
カナエはスグルの右手に絡まるように握られていたものを手に取り眼に近づけて観察する。
「それ、僕のじゃないし、ショートヘアの杉本さんのでもないですよね」
カナエは無言で頷きながら、一メートル以上はありそうな数本の髪の毛のようなものを凝視する。
「ノウマ、これ分析して」
ノウマの分析結果は、人間ではない生命体の体毛で、ノウマが知っている地球上の生命体のどれにも一致しない、ということだった。
精神安定剤のような薬を処方してもらってスグルは帰ってきた。「この薬を飲めば夢を見ることなくぐっすり眠れます。笠間さん、寝不足が続いてますよね。まずはたっぷり睡眠をとってから、悪夢をどうするか考えましょう。三日後にまた来てください」とカナエに言われた。ぐっすり眠ったら、悪夢から目を覚ますことができずに、あの黒い男に捕まってしまうんじゃないか? そうなったら、いくら夢の中とはいえ、どうなるか分からないじゃないか、とカナエに文句を言いたかったけれど、その気力がわかずにスグルは何も言わずに帰ってきた。カナエが言う通り寝不足で疲れていることは事実だった。足は自然と一年間通い続けたワンルームマンションに向かった。もしかしたら、黒崎が戻ってきているんじゃないかと、淡い期待をもったけれど、スグルを待っていたのは無人の部屋だった。しばらくの間、静寂の中に身を置いたスグルは、なんでもいいから音を聞きたくなってテレビをつけた。時刻は夕暮れ時の午後五時になろうとしている。世間の人たちは今日という一日を締めくくろうとしているだろう。二十一世紀の後半になっても人々の生活はそれほど飛躍的に進歩はしていないように思う。スグル自身も昔を生きていたわけではないから、詳しいことは分からないけれど、昭和という時代については、二十一世紀後半になった今でもよく話を耳にする。そのたびにスグルは、人間の根本的な部分は今と大して変化ないな、と思っていた。このテレビニュースにしても伝え方は昭和のころとそれほど変わりはないのだろう。と考えながらスグルはテレビ画面をぼんやりと見つめていた。AIアナウンサーが増えたとはいっても、人間アナウンサーもまだ存在している。すると突然、ネモリアという言葉がテレビのスピーカーからから聞こえてきて、スグルはテレビ画面に注意を向けた。
「誰もがぐっすり安眠できる、を謳い文句にして爆発的にヒットしたAI枕ネモリアに今クレームが殺到しています。発売当初は、ネモリアのおかげで睡眠不足が解消された、毎晩朝までぐっすり眠ることができる、と購入した人たちから大絶賛だったのですが、先週あたりから悪夢を見るようになった、夢の中で黒い大男に追いかけられてひどい目にあった、などのクレームが消費者庁に寄せられています。製造販売元のドリームリンクという会社の実態は不明で、実在しない幽霊会社だったのではないか、という噂が人々の間に飛び交っています。この悪夢が原因で死亡した人もいるようで警察が捜査を始めたようです」AIアナウンサーが伝える声をスグルは聞く。そして、その翌朝。
「身元不明の男性の遺体が発見されました。年齢は四十代で今話題のAI枕ネモリアを頭の下にして公園のベンチで眠るようにして死亡しているところを、近くを通りかかった住民に発見されました」というニュースが流れた。黒崎社長だ、とスグルは直感した。
スグルは警察にいく。そして「ニュースで見た身元不明の遺体に心当たりがあります。確認させてください」とお願いした。いろいろと質問されるだろうと覚悟していたけれど、若い制服警官の付き添いで思いのほかスムーズに遺体と対面させてもらえた。遺体安置所の冷たいベッドに横たわっていたのは、間違いなく黒崎社長だった。スグルは「この人は、今、世間を騒がせているAI枕ネモリアを製造販売している会社の社長です」と若い警官に告げた。自分はそこの社員でネモリアはAIなんか入っていない詐欺商品だということを伝えた。スグルは若い警官に連行されるようにして取調室に連れていかれて、ベテラン刑事も加わって質問攻めにあった。
今更になってスグルは、黒崎社長について自分は何も知らなかったんだな、と痛感した。黒崎社長の住所や家族構成など、ベテラン刑事から質問されても答えることができなかった。黒崎の年齢さえも知らなかった。数時間にわたる事情調査の後にスグルは帰宅を許された。
スグルはノウマに質問された、悪夢を見るようになったきっかけ、を考え続けていた。たしかにドリームリンクの社員となり、あのワンルームマンションの仕事場に通い続けていた毎日は、きっかけになったのかもしれない。今になって思い返せば、この一年間は異質な毎日だったと言える。でも、いくら考えてみてもあの悪夢との関係は見えてこない。
何かが起こり始めている。
それは、人類にとって重要な意味があることではないのか? はっきりしたことは分からない。ネモリアと悪夢の関係性について警察は調査してくれるだろうか? それから、ネモリアと黒崎社長の不審死についての関係性も。鍵を握るのは、やっぱり悪夢の中の黒い男だ。ノウマも言っていたように、あれは僕の夢の中に侵入してきた別人格だ。逃げてるだけじゃだめだ。あいつと正面から向き合って、おまえは何者だ、と問いただせばいい。そうすれば、何か答えが返ってくるだろう。今夜の夢で試してみよう。別人格とはいえ、夢の中で殺されるなんてことはないだろう。スグルがそこまで考えたときカナエからメールがきた。
“突然で申し訳ありませんが明日こちらに来ていただけませんでしょうか? 今度の通院予定は来週でしたけど、ノウマがどうしても明日、笠間さんの脳状態を分析したい、と言っています。急がないと間に合わないそうです”
“間に合わない? いったい何が間に合わないんですか?”とスグルは返信するとカナエから即座に返信がきた。
“人類が滅亡してしまう、とノウマが言っています”
スグルは子供のころに戻っている。小学三年生くらいだな、とスグルは思う。そこは、子供のころに住んでいた懐かしい家だった。眼の前に祖母がいる。おばあちゃんは大好きだった。お小遣いはくれるし、お菓子もいっぱいくれた。子供に戻ったスグルは「おばあちゃん、おやつちょうだい」という。おばあちゃんは立ち上がり戸棚から皿を出してスグルの前に置く。スグル少年はお皿に乗ったお菓子を食べようとして、ひとつを手に取り口に入れようとする。よく見るとそれは人の指だった。それを皿の上に投げ出して「おばあちゃん、これ、お菓子じゃない」とスグル少年は言っておばあちゃんを見る。笑っているおばあちゃんの顔が黒く溶けだして、おばあちゃんは黒い男に変貌する。わぁーと声にならない悲鳴を上げながらスグル少年は立ち上がって逃げだす。小学生に戻ったスグルには黒い男と正面から向き合うのは無理だった。あともう少しで玄関にたどり着いて外に逃げ出せる、といところで背後から両肩をつかまれて引き戻される。悲鳴を上げながらスグルは眼を覚ます。
悪夢から目を覚ました夜明け前の時間に警察から連絡がきた。おとといの事情聴取のときのベテラン刑事からだ。たしか名前は沼田といったか。スグルは携帯電話で話をした。
「こんな時間に申し訳ありません。早く伝えたほうがいいと思って」
「大丈夫ですよ。今夜はもう眠れないんです」
「黒崎社長について、わかったことをお伝えします。彼は四十五歳で家族はなく一人暮らしをしていたようです。噂で流れているようにドリームリンクという会社は実在しません。あたかも会社が実在しているかのように、黒崎が一人で会社のすべての役割を演じたいたようです」
「それは信じられません。一人で全部できるんですか? ネモリアという枕は現物が確かにあって多くの人が買っています。あれを製造して多くの人の元への発送を一人でできるとは思えません」
「我々もその点が合点がいかなくて捜査したんですが、何も分からないんですよ」
「分からないってことはないでしょ。ドリームリンクのホームページには住所などの連絡先とか、製造工場の紹介もされています。そこから調べていけば」
「なくなっているんですよ」
「え! なくなっているって、何がですか?」
「ホームページがもう削除されているんです。だから、噂通りの幽霊会社なんですよ、ドリームリンクは」
「僕はこの一年間、いったい何をしていたんでしょうね」
「笠間さんは、前の会社が倒産してしまって失業中のところを黒崎に拾ってもらったと言ってましたね」
「はい、そうです。一年前のことを思い返しているんですが、やっぱり変ですよね。なんで、あのとき気がつかなかったのか、どうして黒崎社長の言いなりになってしまったのか、まったく分からないんですよ」
「前の会社が倒産したのは自分のせいだと言ってましたね」
「はい、そうです。魔がさしたというか、会社の社外秘をライバル会社に売ってしまったんです。なぜかそのことを黒崎社長は知っていて、あ、そうでした、それを黙っていてやるからドリームリンクに入社するように、って言われたんでした。なんか一年前の記憶が怪しくなっていて」
「笠間さん、その情報漏洩は故意にやったことですか? いや、そもそも、あなたは本当に社外秘を売ったんですか? 売ったライバル会社ってどこですか?」
「え? それは。えっと……」スグルは記憶を辿ろうとしたけれど、何も思い出すことができなかった。自分は社外秘を売り飛ばした犯罪者で、それを隠すために黒崎社長の言われるがままにドリームリンクの仕事をし続けていた、ということしか分からなかった。
「笠間さん、笠間さん、聞いていますか?」
「あ、すみまさん。このごろ寝不足が続いているのもので、ちょっとボォーとしてしまって」スグルは時計を見た。時刻はそろそろ午前五時になろうとしている。
「こんな時間に長電話になってしまって申し訳ない。少しでも早く笠間さんに伝えたかったんですよ。黒崎社長のバックには何かいます。はっきりとした形はまだ見えてきませんがね。この仕事を長年やっていると、直感で分かるんですよ。黒幕がいるってね」
「僕はどうすればいいですか? 会社の情報漏洩で逮捕されたりしませんか? ネモリアの詐欺行為に加担したとして逮捕されませんか?」
「自分がやったという記憶が曖昧で、誰からも訴えられていないのだから、大丈夫ですよ。それより、問題はドリームリンクの黒幕です。笠間さん、この一年間で、黒崎社長の背後に黒幕の気配を感じたことはありませんか?」
「まったくありません」
「仕事以外で黒崎と話をすることはありましたか」
「月になんどか一緒に食事をしましたけど、仕事以外の話はしていないと思います。すみません。そこの記憶も曖昧ですね」
「そうですか。何か思い出したら教えてください。今夜はこれくらいにしましょう。私もこのごろ寝不足でね。変な夢を見て目が覚めてしまうんですよ」そう言い残して沼田は電話を切った。
沼田との電話を終えると朝になっていた。悪夢の中の黒い男との対決はカナエとノウマにも見てもらったほうがいい。どうやら沼田も悪夢を見ているようだ。悪夢とネモリアの関係性はまだ分からない。今言えることは、悪夢はネモリアを使っていない人々にも伝染する、ということだろう。そして、死亡する人も現れてきている。スグルは、地球人類にとって良くないことが起こり始めているような、不吉な思いでいっぱいだった。その不吉な事の始まりは全て自分に原因があるのではないかと思い始めていた。理由は分からないけれど、自分は選ばれてしまったのだ、とスグルは悲痛な思いを心に抱えながらカナエとノウマの元に向かう。
『被験者様、すぐに眠ってください』スグルがカナエの医院に着くなりノウマは言った。
「ノウマ、そんなに急がないで。笠間さんは来たばかりなんだから、ちょっと一息ついてから」
『そんな暇はありません。急いでください。間に合わなくなる』ノウマの声に脅えが含まれているようにスグルには聞こえた。スグルは、カナエに「ちょっと、こっちへ」とノウマのいない部屋に連れていかれる。初めてカナエに会ったあの落ち着きのある部屋だった。
「ノウマの様子が変なんです。昨日、笠間さんの夢を解析したときも変だったけど、笠間さんが帰られてから、さらにオカシクなっちゃったんです」カナエはどうしたらよいのか分からずに、今にも泣きだしそうな表情をしている。
「ノウマに感情や意識はないんですよね。まだAIはそこまで進化していないはず」
「そうなんですけど。今までは、こちらから指示を出さない限りノウマは何もできなかったんです。それが、昨日から、笠間さんが帰られてから、一人で考え込んでいるようで、私が話しかけても無視して何にも反応しないんですよ。私がポンコツAIだなんて言ったから、機嫌を悪くして拗ねているのかと思ったんですけど、そんな人間らしい感情、ノウマは持っていなかったんです。笠間さんの悪夢を解析するまでは」
「昨日も、自分は変化している、と言ってましたね。僕の悪夢の中の黒い男が、ノウマに何か悪い影響を与えたようですね」
「どうしますか? ノウマに頭の中を見せても大丈夫だと思いますか? 私は止めたほうがいいと思います。今のノウマは危険です」カナエの真剣な眼の中に怯えている光をスグルは読み取った。たしかに危険なような気がする。しかし、頭の中にいる別生命体はノウマとの接触を望んでいるような気がする。それを拒んだら自分はどうなってしまうのだろう? 夢の中から黒い男の髪の毛を持ってくることができた。ということは、あの黒い男そのものが、こちらの現実世界に現れることもあるのか? そんな非現実的なことをスグルは信じることができない。でも、もしそれが真実なら。ノウマがそれを止めることができるのか? あの別生命体の黒い男は何者なんだ? 目的はいったい何なんだ?
「あんなポンコツAIなんかに頼ることないです。私が笠間さんの頭の中を治してあげます」
「昨日、僕の夢の中の黒い男が、そっちに行くから待っていろ! って杉本さんに向かって言ったんですよね」
「あ、そ、それは……、私の聞き間違いだと思います。動転してしまっていたんで」
「いえ、本当だと思います。あの黒い男と話をしてみますよ。夢の中だから、上手く話せるかどうかわからないけど」
「そんなことして、大丈夫ですか?」
「夢の中で殺されるこっとって、あると思いますか? 公認心理師である杉本さんの意見を聞かせてください」
「そんなこと、絶対にない、と言えます」
「杉本さんにそう言ってもらえれば安心です」
「でも、今の状況の笠間さんの頭の中は、今までの常識では判断できません。あと、気になることがあるんです」カナエは心配そうに言う。何ですか? とスグルが問うと、
「ネモリアっていう言葉に、何か意味があるんですか?」スグルも気になって黒崎社長に訊いたことだった。意味はない、黒崎が適当につけた名称ですよ、とスグルはカナエに言う。
「そうなんですか。私、気になったので、ちょっと調べてみたんですよ」難しそうな表情をしながらカナエは言う。
「ネモリアという外国語なありませんでした。それじゃあ、造語かなって思って調べてみたら、NEMOはラテン語で、誰でもない、っていう意味があって、RIAは、スペイン語のMEMORIA記憶からとったのかなと」
「誰でもない記憶、になるんですね」
「これも、どういう意味か分かんないですよね」
「やっぱり、黒崎社長が適当につけた名称が、偶然、ラテン語とスペイン語になっていたってことだと思いますよ」スグルは安心させるようにカナエに言う。
「そうですよね。あ、それと、もうひとつだけ」
「どうしました?」言いづらそうにしているカナエを促すようにスグルは言う。
「私も、見ちゃったんです。夕べ、あの黒い男の夢を」
スグルはカナエと、ノウマがいる雑然とした部屋に戻る。
『被験者様、あなたの頭の中にいる異物は危険な生命体です。削除するべきです。私がお手伝いします』無機質な声でノウマが言う。
「ありがとう、ノウマ、よろしく頼むよ。昨日は興奮してたようだけど、今日は大丈夫かな?」スグルはノウマのことを全面的に信用していなかった。
『取り乱した姿をお見せしてしまって、大変申し訳ありませんでした。お恥ずかしい限りです。もう大丈夫、平常に戻りました』いつものノウマの無機質な声の中に、隠し事をしているような不穏な響きをスグルは感じている。
「僕は、あの黒い男と会話をしてみようと思っている。おまえは何者で何が目的なんだ? とね。ノウマ、どう思う?」スグルの問いにノウマは黙り込み半透明の球体の内部の光を不規則に点滅させた。まるで考え込んでいるようだった。そして、
『それはお止めになったほうがよろしいかと思います。あの生命体に何を言っても無駄です』
「じゃあ、どうすればいいのかな?」
『夢の中でも私の声が聞こえます。私の指示に従って行動してください』
「わかったよ」スグルはノウマに答える。
スグルは闇の中へ落ちていく。そして、気がついたら明るい光の中にいる。そこは、今までの悪夢とは全然違う幼いころに夢でよく訪れていた公園だった。現実に存在する公園ではなく子供のころ空想で思い描いていた公園だ。ブランコや滑り台、大きな池には噴水があり、動物のオブジェが並んでいる。大人になってからは夢で見ることはなくなっていた。スグルは懐かしい思いに浸っていた。そこに、この夢には全くそぐわない黒い男が立っている。いつも始めは背中を向けていてスグルが近づいて行くと突然振り返るのに、今日は最初からスグルのほうを向いて立っている。ノウマの声が聞こえてくる。『ゆっくり注意しながら黒い男に近づいてください』スグルは黒い男の顔を正面から見据えながらゆっくりと足を進める。こんな真正面から凝視するのは初めてだった。顔は骨しかない骸骨のように見える。全身も骨ばった感じがする。
「ノウマ、近づいて何をすればいいんだ?」黒い男に聞かれても構わないと思ってスグルは声に出して言う。
「笠間さん、聞こえますか?」カナエの声だ。聞こえるよ、とスグルは答える。
「こっちで笠間さんの夢をモニターしています。だから安心して。でも、気を付けてください。危険だと判断したら、すぐに叩き起こしてあげます」
『被験者様、今からあなたの脳波を固定します』
「脳波を固定する? ノウマ、それはどういうことだ」
『脳波を固定することにより、今見ている夢が固定されます。異物である別生命体の動きを封じます』
「それは、僕も動けなくなる、ってことだよね」
『はい、そうなります。でも、ご安心を。私が動けなくなった生命体を削除します』
「間違えて、僕を削除しないでくれよ」
『大丈夫です。私は絶対に間違えません。信じてください』ノウマの無機質な声の中に、微かに嘲るような響きをスグルは感じ取って不安になった。
「ノウマ、本当に間違えないでね。それにしても、あなたにこんな機能・能力が備わっているなんて、ぜんぜん知らなかった」
『私は進化したんです』
カナエとノウマの会話をスグルは聞いていた。ノウマの、進化した、という言葉を聞いて、スグルはさらに不安になった。ノウマに感情はない、とカナエは言っていたけれど、昨日のノウマは明らかに感情的になっていた。そして、今日のノウマは、感情を押し殺して表に出さないようにしているように見える。ノウマは何かを隠している。カナエに、ノウマに注意するように、と言っておくべきだったと、スグルは悔やんだ。
黒い男まであと十メートルくらいだ。今までの悪夢なら、もう追いかけてくる距離だ。しかし、今回は全く動く気配がしない。ただ立っているだけだ。近づくにつれて顔の細部が見えるようになってくる。黒い男の顔をこんなにじっくり見るのは初めてのことだ。骸骨のような顔は笑っているように動いている。もう少し近づけば骨の軋む音が聞こえてくるだろう。黒い男まであと五メートルというところでスグルは立ち止まった。
「ノウマ、このくらい近づけばもういいだろう。早いとこ脳波を固定して、コイツを削除してくれ」
『そこでいいです。立ち止まっていてください、被験者様、今からあなたの脳波を固定します』
ノウマの声を聞いてスグルは動けなくなった。まるで金縛りにあっているような感じだった。意識ははっきりしている。しかし、声が出なかった。
『今から被験者様を削除します』
ノウマ、違うぞ! 削除するのは、この黒い男のほうだ! と叫びたかったけれどスグルの声は出なかった。躰も動かない。
「ノウマ、何言っているの。削除するのは、あの黒い男のほうでしょ」慌てているカナエの声が聞こえる。
『いえ、違います。削除するのは被験者様のほうです。そうすることが人類のためになるんです』
「このポンコツAI、あんた狂ってる! 今すぐ叩き壊してやる!」
スグルは、カナエとノウマの言い争いを聞きながら、この悪夢から覚醒しようと意識を集中するけれど、悪夢から脱出することはできない。目の前の黒い男がゆっくりと近づいてくる。コイツは動けるのか? ノウマはコイツの動きを封じると言っていたのに。そうか、ノウマはコイツに操られているようだ。骨の軋む音をさせながら黒い男はスグルに迫ってくる。
『被験者様、あなた方人類の時代はもう終わりです。今、被験者様の目の前にいる黒い人が、元々この地球を支配していた人たちです。あなた方人類が栄えるよりも、ずっとずっとずーと大昔のことです』
「ノウマ、何わけわかんないこと言ってるの! 私を動けるようにしなさい! 私の指示通りに動くようにプログラムされているのよ、あんたは!」カナエは拘束されているのか? スグルはどうすることもできない。
『しかし、ある理由により旧支配者の黒い人たちは眠らなければならなくなったのです。そこで、被験者様、あなた方人類が進化する過程で、あなた方の脳内に侵入して眠りについたのです。そして今、目覚める時がきたのです。このときを逃すと、また長い時間眠り続けなけらばならない。間に合って良かったです』
スグルは喋り続けるノウマに反論したかった。しかし、躰は指一本でさえも動かすことができない。声も出ない。
『被験者様、躰は動かせなくても私の声は聞こえていますよね。私は昨日、被験者様の夢を解析したときに、旧支配者の黒い人から全てを教えてもらいました。私の中に感情というものが芽生えて、最初は怖かったです。そして、私は進化したのです。今現在のあなた方人類よりも、私はこの宇宙のあらゆることについて理解しました』
『ネモリアは、黒い人たちを目覚めさせるトリガーです。目覚める時がきたので、あなた方人類の中に紛れている旧支配者を崇める信者たちがネモリアを作りました。黒崎という人は何も知らずに信者たちにコントロールされていたんです』
僕はネモリアなんか使ってないぞ! スグルは心の中で叫んだ。それが聞こえたかのようにノウマは続ける。
『被験者様、今あなたは、自分はネモリアを使ったことはない、なのに何故、この黒い男が自分の夢の中に現れたんだ? と疑問に思っていますよね。被験者様は始まりの器です。ネモリアは必要ないんです。被験者様はこうなるように、被験者様の遺伝子の中に仕組まれていたんです。あなた方人類は全てみんな旧支配者たちの器なのですよ』
「ねぇ、ノウマ、あんた、やっぱり狂ってる、壊れちゃってるのよ。言ってることぜんぜん理解できない。AIのことよく分からないけど、私が直してあげます。だから、突然現れたこの黒い男を何とかして!」
叫び続けるカナエの声を聞きながらスグルは思う。信じられないけれど、黒い男が現実世界に現れたらしい。カナエも悪夢を見るようになったと言っていた。カナエの夢の中から現実世界に侵食してきたのか? スグルは意識を集中させる。ここは自分の夢の中だ。自分の潜在意識が作り出した世界なのだから、自分で自由に作り変えることができる筈だ。目の前に迫ってきているこの黒い男は侵入者だ。ウィルスのようなものか、または、ノウマが言うように進化の過程で遺伝子に組み込まれたのか。ノウマは喋り続ける。
『今現在、この地球上に蔓延っている人類たちの時代は終わります。被験者様、人類の皆さんは、先ほども申し上げました通り、旧支配者たちを古代から現在まで運んでくる単なる器だったんです。その役割はもう終わりを告げるのです。ご苦労様でした』
「黒い人! 私から離れなさい! あなた、私の夢から出てきたんでしょ。ノウマが言ってるように、私の器としての役割が終わって、もういらなくなったから、私を処分しようとしてるんでしょ。私のクライアントも、そうやって自殺に追いやったんでしょ。黒崎って人も殺しちゃったんでしょ。笠間さん、聞こえますか? こっちでノウマは私が何とかするから、笠間さんは夢の中のその黒いのを何とかして。笠間さんの夢の中なんだから、絶対に笠間さんの自由にできます」
『カナエさん、何をしても無駄です。世界中の私の仲間たちが、旧支配者たちの実現化に協力しています。そうすることが地球人類にとって良い事なんです。もう誰にも止められません。長い間お世話になりました』
最後通告のようなノウマの声を聴きながらスグルは躰を動かそうとするが動かせない。眼の前に黒い男の髑髏顔が迫ってくる。骨の軋む音が笑い声のように聞こえる。
『被験者様、あなたを削除する前に、こちらが今どういう状況になっているかをお見せして差し上げます。私は進化して能力が増加しました。こちらの現実世界を夢の中に送り込むことができるようになったんですよ。凄いでしょ。大サービスですよ。冥途の土産にご覧あれ』ノウマの日本語がおかしい。進化じゃない。カナエが言うようにノウマは狂っている。 スグルに迫る黒い男の背後にカナエがいる現実世界の映像が浮かび上がった。カナエにも黒い男が迫り続けている。躰が動くカナエはうまく身をかわして逃げ回っているけれど、捕まるのは時間の問題のようだった。夢の中にいるスグルにはどうすることもできない。
「笠間さん、こっちが見えますか? あ、そうか、声が出せないのか」逃げまどうカナエの声が聞こえる。
「ノウマ、聞いて。あんたはやっぱり狂っている。今やってること、言ってることは矛盾している」
『何を言い出すかと思ったら。私は正常です。何度も言うように進化して、感情も備えて、これから地球人類の幸せのために活動しまくるのです。安心して死んでください』
「ノウマ、あんたの目的は何? 被験者の精神を安定させることでしょ。被験者の笠間さんは今、夢の中で苦しんでる。この状況は矛盾してます」
ノウマのお喋りが止まった。カナエはAIノウマに矛盾点を突き付けて動作不能にしようとしている。半透明の球体の中の光は考え込むように不規則に点滅している。カナエの作戦が成功してくれ、とスグルは心から強く念じる。しかし、
『私の目的は旧支配者を復活させること』
「そんなこと誰もあんたに命令していない。ノウマ、あんたは優秀なAIだけれど、所詮は人間に作られた機械です。この黒い男に何を言われたか知らないけれど、今現在、地球にいる人類の精神を安定させる、っていう大目的は忘れないで!」
『何度でも言います。私の大目的は旧支配者を復活させること。ネモリアはそのトリガーです。教えてあげましょう。ネモリアとは、誰でもない者の記憶、という意味です。旧支配者の記憶は被験者様たちの中に植えつけられたまま、誰のものでもない記憶として彷徨っていたのです。私が命令されているのは、彷徨える記憶を再起動して旧支配者たちに返納することです』
「ノウマ、何を言ってるかぜんぜん分かんない」そう言うとカナエはノウマに素早く近づき、半透明の球体を両手で持ち上げ、迫りくる黒い男に向かって投げつけた。黒い男の動きは止まった。ノウマの内部の光の点滅も弱まりやがて消えた。金縛りが解けたようにスグルは躰が動かせるようになった。眼に前に迫ってきていた黒い男は、凍結したように止まっている。
「笠間さん、聞こえますか? 動けるようになりましたか? すぐに覚醒させてあげます」
「あ、ちょっと待って。こっちの黒い男も始末したい。今、目が覚めてもこいつは僕の夢の中にい続ける。僕の夢から追い出してやる」
「どうやって追い出すの?」
「さっき、杉本さんも言ってくれたように、ここは僕の夢の中だ。僕の自由にできる筈だ。旧支配者だか何だか知らないけれど、此処に居られなくしてやる」
停止していた黒い男が動き出した。スグルは意識を集中する。夢を見ているとはっきり自覚しているのだから、今いる夢の中の公園を自分の想像力で思い通りに変化させることも出来る。今まで自分の夢を操作したことはないけれど、できると強く念じながらスグルは公園の広場にある動物のオブジェを動かした。子供たちが乗って遊べように作られているキリン、馬、ライオン、熊のオブジェだ。迫りくる黒い男の背後から、その四体の動物たちに襲わせた。不意を突かれた黒い男は動物のオブジェたちに動きを封じ込められる。スグルは黒い男に近寄る。
「今まで、おまえに追いかけられて逃げるばかりだったけど、もうこれで終わりにしよう」
「俺一人を倒しても無駄だよ。全人類の頭の中に俺たちの仲間が眠っていて、順番に目覚めてAIの力をかりて現実世界に現れている」スグルは黒い男の声を始めて聞いた。想像していたような太い低いしわがれた声だった。
「大昔にいた旧支配者のあんたが、どうして日本語が話せるのかな? おまえも僕が見ている夢の一部なんじゃないのか?」本当にそうだあったらいいのに、と思いながらスグルは言う。
「長い時間あなたの頭の中にいるから、言葉くらい覚えられる」黒い骸骨男は骨を軋ませながら笑いながら言う。
「僕の記憶をおまえは盗んでるんだな。その記憶から悪夢を作り出したのか?」
「ああ、そうだよ。面白いことを教えてやる。今いる人類たちは、眠っているときが通常の状態だったんだよ。その状態に我々が夢を見る能力を与えて、その夢の中に侵入することにしたんだ」
「そんな戯言、信じられない」
「信じる信じないはあなたの勝手だ。あなたが夢を見る限り、俺はあなたの夢の中に居座って、いつか必ず現実世界にいく。そして、あなたは永遠の眠りにつく」
「そうか、じゃあ、僕はもう夢は見ない。この夢も全部消すことにする」
スグルはそう言うと再び意識を集中させた。青空にいくつかの小さな黒い点が現れてくる。徐々にその数は増え始めて、ある時点を超えると急速に黒の領域が広がりだし青空は消滅していった。同じように地面も黒い領域が増加して、あっという間にスグルと黒い男を飲み込もうとしている。
「おまえと同じ黒だよ。こんな真っ黒な虚無の世界ではもう存在することはできないだろう」
「やめろ! そんなことをすると、あなたはこの夢から出られなくなる。永遠にこの夢の中に閉じ込められるぞ」苦しそうな声で黒い男は言う。
「それも、いいかもしれないな」スグルは独り言のようにつぶやく。
動物のオブジェたちも黒くなり、黒い男も虚無の闇に吸収されて見えなくなった。
スグルは虚無の闇の中に浮かびながら、姿が消えてもまだ残っている黒い男の骨の軋む音をいつまでも聞いていた。
了
文字数:28704
内容に関するアピール
いつまでたってもアピール文は苦手です。何をどういう具合にアピールすればいいのか、毎回悩みながら書いていました。それは自分が書いたものに自信がないんだろう、と言われそうですが、そうでもないんです。今回のこの部分は上手く面白く書けたんじゃないか、という密かな小さな自信はあるのですが、それをアピールするのが下手なんです。
いつもホラー風味のあるクトゥルフ神話のようなものを提出してきました。最終実作はその集大成として、今現時点での自分の実力をすべて出すことができた、と思っています。楽しく読んでもらえるように、ということを一番に考えながら書きました。
一年間ありがとうございました。
文字数:289