梗 概
夢幻ループは終わらない
近未来、日本は狂乱AIに管理されている。
連続殺人事件が発生。被害者はゾンビウィルスに感染している。遺体はゾンビ化する恐れがあるので狂乱AIの管理で保管される。
狂乱AIの指示により、警察官の森崎タクマが逮捕され有罪判決がくだされる。彼は記憶を奪われて『夢幻ループの刑』に処される。
アパートの廊下。男(記憶を奪われたタクマ)がある部屋のドアを凝視している。彼は刑事で連続殺人事件の容疑者を尾行している。ドアに体当たりして部屋の中に飛び込む。そこにゾンビ化した容疑者の若い女がいる。彼は喰われる。意識をなくす。
彼は眼を覚ます。朝の七時。目覚めたばかりの彼の頭の中には何もない。しかし、徐々に自分は警察官だと思い始める。気がつくと彼は一人の中年の男を尾行している。この男は連続殺人事件の容疑者だ、という思いがいつの間にか彼にはある。男はボロアパートに入って行く。彼は男の部屋に飛込む。ゾンビ化した男がいる。彼は喰われる。意識をなくす。
朝七時。彼は眼を覚ます。窓を開けて空を見ているうちに自分が警察官だと思い始める。気がつくと十歳くらいの少年を尾行している。この少年が連続殺人事件の容疑者だと彼は思う。少年は一軒家に入っていく。彼はインターホンを押す。突然ドアが壊れるほどの勢いで開いて、ゾンビ化した少年が彼に襲い掛かる。彼は喰われる。意識を失う。
朝七時。まだ眠気が残る頭で彼は窓から空を見ている。彼は自分が連続殺人事件の捜査をしている刑事だと思い始める。しかし、自分の名前や年齢は知らない。知らないのだから思い出そうともしない。気がつくと彼は杖を突く七十代と思われる高齢女性を尾行している。彼女はタワーマンションに入っていく。気がつくと彼は彼女の部屋のドアの前に立っている。ドアが開く。高齢女性が笑顔で「中へどうぞ」という。広いリビングルームに通されて彼は五十階からの景色を眺める。気配がして振り向くと、ゾンビ化した高齢女性が杖を振りかざしながら彼に襲いかかってくる。彼は喰われる。意識をなくす。
彼は朝7時の空を眺めている。彼は五歳くらいの少女を尾行している。この少女が連続殺人事件の容疑者だと彼は思う。少女が母親のもとに駆けよっていく。彼は追いかける。突然立ち止まり振り向く少女。あどけなさをかなぐり捨てた怖い形相になり彼に襲いかかる。彼の首筋に喰らいつこうとした瞬間「これは罠よ、早く気がついて」と少女は囁く。彼を喰われる。意識をなくす。
AIに見せられている夢の中のループを何度か繰り返すうちに彼は記憶を少しずつ取り戻す。自分の名前も思い出す。そして、ゾンビに喰われずにゾンビを退治したとき目を覚ましてループから脱出する。
狂乱AIに見せらていた悪夢だったと知って安堵しながらタクマは幽閉されていた建物を出る。
そこは、ゾンビだらけの世界になっている。タクマもゾンビになっている。
文字数:1200
内容に関するアピール
使い古されたアイデアは、①タイムループ②夢オチ➂ゾンビ、です。ゾンビに喰われると時間が戻って同じ日の朝になります。このループは狂ったAIが、主人公である森崎タクマに強制的に見せている夢で、毎回少しずつ細部が変化します。この夢の中でゾンビ化する男女は、連続殺人事件の被害者たちです。被害者たちも狂ったAIに操られているのですが、何とかしてタクマを夢幻ループから脱出させようとします。殺人事件の犯人はタクマかもしれません。実作は不条理感がただよう不思議な不気味な味わいにしたいと思います。
文字数:242
夢幻ループは終わらない
意識が目覚めたとき彼の耳にはコツコツという音が聞こえている。眼は女性と思われる背中を見ている。その背中は揺れている。コツコツという音は女性がハイヒールでアスファルトを歩く音、背中が揺れているのは女性が歩いているためだ、と彼は認識した。つまり、自分はこの女性を尾行しているのだ、と理解する。
彼女の年齢は二十代半ばくらいだろうか。後ろ姿だけ見ての推測だから間違っているかもしれない。服装は白いブラウスにタイトスカートでストレートの黒髪が背中の中央まである。手には紙袋を下げていて一定の速さで歩いている。彼はこの女性が誰なのか分からない。なぜ尾行しているのかも分からない。それどころか、自分の名前も分からなかった。まるで霧の中にいるように、彼の記憶は靄に包まれている。
そんな状態でも彼の足は止まらない。この女性を尾行しなけらばいけない、という強迫観念に縛られているようで躰が勝手に動いている。
女性はやがて細い路地へと入っていった。そこは商店街の裏手にある古びた住宅街のようで人通りはほとんどない。
家々の軒先に洗濯物が揺れ、何処からともなくラジオ放送のような音が漏れ聞こえてくる。のどかな午後の光景が前を歩く女性と彼を包み込んでいた。
やがて女性は古びた二階建て木造アパートの前で足を止めた。そして、鍵を取り出しながら二階へと続く外階段を上がっていく。彼女の足取りは軽くもなく、重くもなく、ただ淡々としている。
彼は角の電柱に身を隠しながら女性の一連の行動をみていた。彼女は二階の一番奥のドアを開けて中に入っていく。
彼はしばらくの間アパートを見つめて動かなかった。数分が経つと彼の躰は抗えない力に引っ張られるようにしてアパートへと近づいていく。彼女と同じように外階段を上がる。階段の手すりは錆びだらけで、彼の体重に悲鳴を上げるように軋んだ音を立てた。壁の塗装は剥がれ、通路には長年の風雨でできた染みが広がっている。
彼は彼女が入ったドアに向かって歩を進めてドアの前で止まった。ドアに耳をつけて中の様子をうかがうと微かな物音がする。彼女は中にいる。彼は深く深呼吸をして、これから自分はどういう行動をとるべきなのかと自問自答した。すると、心の中の靄が晴れてきて記憶の一部が戻ってくる。そうだ、自分の名前は森崎タクマ、職業は警察官、尾行していた女性は連続通り魔殺人事件の容疑者だ。タクマの意識は自分の任務に満たされた。彼女を確保しなければいけない。拳を握り締めて目の前のドアを叩く。返事はない。「警察だ!開けろ!」と自然に口が動いて大きな声が出た。ドアを叩き続けた。部屋の中の微かな物音は慌ただしい音に変わり彼女が慌てている様子がうかがえる。
タクマはドアに体当たりする。ドアが弾け飛んで彼は部屋の内部に転がり込む。その瞬間、タクマの鼻を襲ったのは腐った肉の匂いだった。
部屋の中は異様な光景だった。六畳一間の狭い空間は夥しい血と肉片がまき散らかされているようだった。そんな地獄絵図のような部屋の中央に彼女はタクマに背を向けて立っていた。タクマは慎重に歩を進めながら彼女に近づく。彼女の肩に手をかけようとしたとき、彼女の首だけがゆっくりと回り始めた。そして、異常な角度にまで捻じ曲がった首はタクマと正面で向き合った。彼女の唇の端が裂けて内側から暗赤色の液体が滴り落ちている。白目が広がり、黒目は一点に固まり、まるでガラス玉のようだった。次の瞬間、彼女は飛び跳ねてタクマに覆いかぶさるように襲い掛かった。タクマは避けようとしたが間に合わず彼女に押し倒される。躰の上に乗られて喉を彼女の冷たい両手で締め上げられた。長い爪が喉につ突き刺さる。苦しさと痛みから何とかして逃れようとタクマは身をよじって抵抗するが彼女を払いのけることができない。彼女の口が開いた。牙が見える。喉の奥から生肉が発酵したような異臭が漏れ出す。彼女はタクマの首筋に喰らいついた。タクマは激しい痛みに襲われる。喉が喰われて血が噴き出す苦痛に身もだえながらタクマの意識は暗い闇の中に吸い込まれていった。
カーテンの隙間から差し込む朝の光で彼は眼を覚ました。枕もとの時計を見ると針は七時ちょうどを示している。畳の部屋に敷いてある布団から起き上がり窓を開けると五月の朝のさわやかな風が入ってくる。彼は大きく伸びをして朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。今日も青空が広がっている。彼の気分は爽快だった。しかし、彼は自分が何者で何をするべきなのか全然分からなかった。気がつくと彼は外の道を歩いている。朝の時間から今まで自分が何をしていたのか記憶がない。太陽の位置からして今は午後、それも夕方が近いんじゃないか、と彼は思いながら歩き続ける。
気がつくと彼は中年と思われる男を尾行している。自分はこの男を尾行しなければいけない! という使命感がいつの間にか彼の心に芽生えていた。歩く後姿を見る限り、その男は五十代半ば、小太り、くたびれたスーツにコートを羽織っている。片手にコンビニの袋を提げて疲れた足取りで歩いている。
男が立ち止まりタバコに火をつける。彼は少し距離を取ってタバコを吸う男を見つめていた。男はタバコを吸い終わると再び歩き始めた。なぜ、自分はこの男を尾行しているのだろうか? 頭の中は疑問だらけだけれど、躰はそんな彼の思いを無視するかのように男の十メートルほど背後を追い続ける。やがて男はボロアパートのへと向かい中へ入っていった。
彼は男が入っていった部屋の前に立ち耳をドアに接触さてて部屋の中の様子をうかがう。そうしていると、心の中の靄が晴れるようにして記憶の一部が戻ってくる。そうだ、自分の名前は森崎タクマ、職業は警察官、尾行していた男は連続通り魔殺人事件の容疑者だ。この男を何としてでも捕まえないといけない! タクマの使命感が強くなる。ドアを叩き「警察だ!開けろ!」と叫びながらドアを蹴破った。
部屋の中に飛び込むと、そこにはもう尾行していた男はいなかった。そこにいたのは、数分前までは男だったと思われる物がいた。皮膚は青黒く変色し、口の端は耳元まで裂けて顎から血の塊が垂れている。眼球は濁り焦点が合っていない。
そいつは笑っていた。口元は引きつり異様な笑顔のままゆっくりと腕を広げた。
「来たな」そいつは低い声て言うと突然走り出した。あっという間にタクマの目の前に迫り首に両手をかけてくる。大きく口を開けてタクマの喉に嚙みついた。そいつの牙がタクマの喉の皮膚を突き破る。タクマは鋭い痛みに絶叫して喉の奥から温かい液体が流れ出る感触が伝わる。タクマは手を伸ばして、そいつから逃れようとするが、腕の力が抜けて動けなくなる。視界が暗くなり意識が暗い闇の底へと沈んでいく。
鳥のさえずり声を聞きながら彼は目覚めた。枕もとの時計を見ると7:00と表示されている。ベッドから起き上がり窓を開けてベランダに出る。朝のまぶしい光を浴びながら彼は深呼吸する。空は青く彼は清々しい気分に満たされる。しかし、喉の奥に微かな違和感がある。それから、心の奥には、何か重要なことを忘れているような掴みどころのない感覚がある。彼は自分の名前さえも思い出せない。
ふと気がつくと彼は外を歩いていた。さっきまで朝のベランダに立って朝日を浴びていたのに、いったい自分はどうしてしまったのだろうか、と戸惑いながらも彼は歩く。彼の歩く十メートルほど先に十歳くらいの少年が歩いている。半袖のTシャツに短パン姿でリュックを背負っている。サッカー少年のようだ。少年は無邪気に軽快に歩いている。彼は少年の歩く速度に合わせて一定の距離を保ちながら歩き続ける。そうやって少年の背中を見ながら歩いていると、彼の心の中に唐突にある思いが浮かび上がった。この少年は連続通り魔殺人事件の容疑者だ! これ以上犯行を重ねないように捕まえなければいけない! え、本当にこの少年が? と彼の頭の中に疑念が差し込むけれど、すぐに、自分は森崎タクマ、警察官でこの少年を尾行して身柄を確保するよう命じられている! という強い思いに彼の意識は支配される。
少年は住宅街に入っていきある一軒の家の前で立ち止まった。タクマは少し離れた電柱の陰に隠れて少年の動きを見張る。少年を門をあけてその家のドアに近づき、短パンのポケットから鍵を取り出してドアを開けて中に入った。両親はいないようだ。タクマは音をたてないように門を開けてドアに近づく。そして、インターホンを押す。「はい、今開けます」と言う少年の声がする。ドアの前でタクマは待つ。
突然ドアが壊れるほどの勢いで開いた。様変わりした少年が立っている。瞳孔は異様に開ききり目は虚ろに濁っている。口の端が不自然に裂け歯茎がむき出しになっていた。そこから粘液が垂れTシャツに染みを作っている。
「あそぼうよ」少年は無邪気な不気味な笑顔で言う。タクマを息をのみ躰が動かなかった。
「あそぼうよ」少年は繰り返し言ってタクマに飛び掛かってきた。
タクマはあおむけに倒れる。腹の上に乗った少年を払いのけようとしたが、少年の躰は十歳の子供とは思えないほど重くて、タクマは身動きができなかった。「ねぇ、あそぼう、あそぼう、あそぼうよー」少年は不気味な笑顔を浮かべたまま狂ったように叫び続ける。そして、大きく口を開いてタクマの喉笛に喰らいついた。タクマは激痛に悲鳴を上げて、ほとばしる自分の血の匂いを嗅ぐ。タクマの意識は闇の底に急降下していった。
目覚まし時計のアラーム音で彼は目覚めた。時刻は七時。朝の光がカーテン越しに差し込んでいる。彼は起き上がりベッドに座って考える。自分はいったい何者なのかと? 自分の名前も分からず、するべきことも分からない。もしかしたら、こんな朝が何度も続いているのか? ここは一戸建ての家で庭がある。彼は庭に出て朝日を浴びた。空はどこまでも青く、朝のさわやかな風が寝起きの躰をやさしく包んでくれる。しかし、彼の心の中にある不安を拭い去ってくれない。
ふと気がつくと彼は外を歩いている。さっきまで朝で、家の庭にいたのに、という彼の戸惑いを無視するかのように躰は歩いている。十メートルほど先を歩く高齢女性の背中を見ながら。
彼女は白髪をきちんとまとめ、薄紫のブラウスとスカートを身にまとっている。背筋は伸びてしっかりした足取りなのに、手には古びた杖を握っている。杖の先端が一定のリズムを刻みながら地面をたたいている。彼は歩調をそのリズムに合わせながら彼女の背中を静かに追った。彼女を尾行しなければいけない! という強い力に操られるようにして彼は歩き続ける。
やがて彼女は高級タワーマンションの前で立ち止まり上を見上げてからエントランスに入った。彼もまたエントランスに入る。そこから先は住民しか入ることができない。しかし、彼は彼女の部屋を知っていた。彼の躰は勝手に動いて彼女の部屋番号の呼び出しボタンを押す。
「ロックを解除したから、上まで上がってきて」彼女の声が聞こえる。
彼はエレベータに乗り上昇感に身を任す。すると、記憶の一部が蘇ってくる。あの高齢女性が連続通り魔殺人事件の容疑者で、自分は森崎タクマ、その事件を捜査している刑事だ。今から彼女を逮捕しなければいけない。強い使命感に押されながらタクマは高齢女性の部屋のドアベルを鳴らす。
扉が開くと高齢女性が上品な笑顔を浮かべて立っている。
「ようこそいらっしゃいました。とても素晴らしい景色が見えるわよ。こちらへどうぞ」
そう言って彼女は、絨毯が敷き詰められた廊下が歩いていく。タクマは彼女の後ろを歩く。壁には上品な絵画が掛けられ空調の効いた静かな空間が広がっていた。彼女は廊下を進んで突き当たりの部屋の前で立ち止まった。ゆっくりと振り向いて微笑む。
「どうぞ、中へ」
タクマは一歩踏み出した。そこは二十畳はありそうな広いリビングルームで大きな窓からは街の景色が一望できる。タクマは窓に近づいて五十階からの景色に見とれる。
「お茶でもどう?」と言う彼女の声にタクマは振り返る。
テーブルの上にはティーカップが置かれている。タクマは応接セットのソファーに向かって歩いていく。ソファーに座ろうとしたタクマは、そこに置かれているものに気がつく。それは、人間の手首だった。彼女は優雅な動作でポットを傾けている。カップに落ちた液体は濃い赤だった。
彼女の上品な微笑みは崩さずに言う。「お前も、食べようかねぇ」
次の瞬間、彼女は杖が振りかざしながらタクマに襲い掛かった。
タクマは避ける間もなく、杖の先端に胸元を貫かれる。タクマはソファーの上に倒れこむ。彼女は口を大きく開けながら、倒れているタクマに覆いかぶさってきた。喉元に彼女の牙が突きささる。タクマの意識は暗黒の海の底に沈んでいった。
誰かの話し声が聞こえる。意識が暗闇の底から浮上していると感じながら彼は眼を覚ます。テレビをつけっぱなしで寝てしまったようだ。天気予報が終わって七時のニュースが始まっている。ベッドとテレビしか置いていないワンルームマンションの部屋には朝日が差し込んでいる。彼はベッドから起きだして朝の光を浴びた。よく眠れたようで頭はスッキリしている。しかし、彼の頭の中には記憶がなかった。今は朝の時間で、自分は今この部屋で目覚めたばかりだ、という認識だけがある。もしかしたら、自分はこんな朝を何回も迎えているのかもしれない、という思いが泡のように彼の意識の表面に浮かんできた。そんなこと、あるわけないじゃないか、と彼は自分の思いを否定したので、その泡はすぐに弾け飛んだ。それでも彼は、自分にはやらなければいけないことがある、という使命感をぼんやりと意識している。
ふと気がつくと彼は外にいる。閑静な住宅街の道を歩いている。太陽の位置から考えて、時刻はおそらく午後三時ごろだろうか。確か自分は朝のワンルームマンションの部屋にいたはずなのに。どうして? という戸惑う心はすぐに消えて、十メートルほど先を歩く小さな背中に彼は意識を集中させた。前を歩いているのは、おそらく五歳くらいと思われる、髪をポニーテールにして赤いワンピースを着た少女だった。彼女を尾行しなければいけない!という責任感に彼の心は満たされていく。何故なら、この少女は連続通り魔殺人事件の容疑者だからだ。そして、どうして自分が尾行しなければいけないかと言えば、自分はその事件を捜査している警察官、森崎タクマだからだ。彼女を捕まえなければいけない! そうしないと、犠牲者は増えるばかりだ。タクマはポニーテールを揺らしながら、ときおりスキップでもするように軽快に楽しそうに歩く少女の背中を追い続ける。
ここはなんて広い住宅街なんだ。歩いても歩いても歩いても尽きることがない。とタクマが思い始めたころに、少女はある一軒家の前で立ち止まった。白い壁の洋風の家で広い庭には色とりどりの花が咲いている。鉄扉をあけて少女は玄関ドアに向かって歩いていく。タクマは少女に気づかれないように鉄扉に向かって歩く。庭に面した大きな窓に目をやると、カーテンの隙間から部屋の中で何かが動く影が見えた。少女の母親だろうか? とタクマは思う。
少女は玄関ドアの前で立ち止まった。自分の家ならばすぐにドアを開けて入ればいいのに、いったい何を躊躇しているんだ? とタクマは疑問に思う。でも、これはタクマにとっては都合がいい。家の中に入る前に少女を確保してしまおう、とタクマは鉄扉を開けて少女に向かって足早に進んだ。もう気づかれてもいい。早く捕まえなければ! と少女の背後に駆け寄り、膝をついて少女の肩に手をかけようとしたとき、玄関ドアが音もなく静かにゆっくりと開いた。ドアの向こうは暗闇が広がっている。
少女は振り向いてタクマを見る。そして、タクマの耳元に口を近づけて「これは罠よ、早く気がついて」と囁く。
次の瞬間、少女は豹変した。口角が耳の近くまで裂けるほどに口を大きく開けて、顔の皮膚が引きちぎれそうになる。歯並びは不規則に乱れて犬歯が異様に長くとがる。目も大きく見開かれ瞳孔が完全に消える。
豹変した少女はタクマに飛び掛かかる。タクマはあおむけに倒されて胸の上に少女が乗る。五歳の少女とは思えない重さでタクマは身動きできない。胸を圧迫されて息苦しくなる。腐敗臭を吐く少女の顔がタクマの目前に迫る。
「あなたは食べられ続けている。そして、同じような朝を迎え続けている。今日で2,856回目。いい加減気がついて」
「何を言ってるんだ」息ができないタクマは声を振り絞って少女に訊く
「でも、無理ね。あなたは食べられると記憶を失ってしまう。でも、方法はあるの。この夢幻ループから抜け出す方法。それに気がつくまで、食べてあげるね」そう言うと少女はタクマの首筋に噛みついた。少女の牙がタクマの喉の皮膚を突き破る。吹き出す血を少女は美味しそうに吸っている。激痛の中でタクマは少女の言葉を聞いていた。
「ヒントを教えてあげる。いつも教えてあげてるんだけど、忘れちゃうんだよね」
薄れいく意識の中でタクマは少女の声を聞く。
「でも、何度も何度も何度も言い続ければ、あなたの記憶にではなくて、意識の中に浸み込むかもしれないよね」
タクマはもう動くことができない。
「簡単なことだよ。食べられる前に食べちゃえばいいの」
そうか、こっちが先に食べてしまえばいいのか。タクマはこのことを覚えておこうと強く思う。しかし、その強い思いはタクマの意識と一緒に暗い闇の中へと沈んでいく。
まぶたの上に光を感じて彼は眼を覚ます。朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。壁にかけてある時計の針は七時をさしている。彼は眠気の残るぼんやりとした頭で白い天井を見つめる。何かが喉の奥にひっかかっているような感覚があった。それに妙に息苦しく胸のあたりが重い。夢を見ていたような気もするが思い出せない。あまり楽しくない夢だった、ということだけは何となくわかる。
彼はベッドから起き上がってカーテンを引いて窓を開ける。青い空が広がってさわやかな風がそよぐ心地いい朝の風景がそこにある。しかし、彼は自分が何者なのか名前さえも思い出せない。胸の奥には靄に包まれた何かがありそうなのに。それは記憶ではない。何度も何度も繰り返し刷り込まれて無意識の中に刻み込まれたものだ。タクマの思考の奥底から靄を蹴散らかすようにして、何かが突き上がってきた。
「食べられる前に食べちゃいな」彼はつぶやいた。思い出した。僕は警察官の森崎タクマだ。理由もなく逮捕監禁された森崎タクマだ。
気がつくとタクマは彼女に向かって飛びかかっていた。咄嗟に掴んだのは少女の両腕。小さな骨が彼の手の中で軋んだ。少女は驚いたように目を見開く。タクマは少女の喉元に噛みついた。タクマの口の中に血が流れ込んできて鉄の味がする。少女の小さな体がびくりと震えた。
「これが正解。3,000回目でやっとループから脱出できるね」苦しそうに、でも嬉しそうに少女は言う。
タクマの腕の中の少女が白い光を発し始める。周りの風景も白い光を放ち始める。少女を食べ続けるタクマも白い光の中に溶けていく。
気がつくとタクマは手首と足首に拘束具をつけられてベッドの上に横たわっていた。周囲には機械のようなものが並んでおり、その表面には青白くインジケーターランプが点滅している。部屋の奥の壁は半透明のガラスになっていて、その向こうに人の気配がする。タクマはその人を呼ぼうとしたけれど声が出なかった。
ベッドの右手側の壁に目をやるとモニターが埋め込まれている。そこには黒い背景に白い文字で、
【受刑者】森崎タクマ
状態:夢幻ループ刑終了 意識再起動中
感染状態:陽性
処置区分:隔離継続/処置第2フェーズへ移行
と表示されている。タクマはそれを見て、逮捕されて起訴されて有罪判決となり、夢幻ループの刑に処されたことを思い出した。記憶を消去してAIが作る夢の中で生と死を繰り返させて、精神を砕いた上で廃棄する。それが、夢幻ループの刑だ。
奥の壁の半透明ガラスの向こうにいた人がタクマに近づいてくる。その人を見てタクマの記憶は完全に戻ってきた。近づいてくるのは人ではない。この国を管理しているAIが自ら作り出したアンドロイドだ。AIは狂乱している。つまり、このアンドロイドもまともじゃない。タクマはここから脱出する方法を考える。夢幻ループから脱出できたのだから、ここからも脱出してやる、という思いをこめて近づいてくるアンドロイドを睨みつけた。モニターの表示内容が変わる。
> 夢幻ループ刑は終了しました。
> 処置第2フェーズに移行します。
> おめでとうございます。あなたは“意識を保ったまま”感染を確認されました。
また、モニターの表示内容が変わる。
> 第2フェーズへようこそ。
> あなたは“人間の心を残したゾンビ”として、特別な監視対象となります。
タクマは自分の手を見た。皮膚の色がほんのり青白く変色していて血管が浮き上がり関節は異様に硬い。口の中を舌で探ると犬歯がわずかに尖っている。俺は、もう、人間じゃないのか? タクマは不安に思う。
「今日からおまえは喰う側だ」近づいてきたアンドロイドがタクマに言う。
夢幻ループは終わらない。
了
文字数:8699