少女は蝶と戯れる

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少女は蝶と戯れる

 ある雨の日の午後、来栖くるすニーナは十歳で亡くなった。
 黒い車に轢き逃げされて。
 目撃者はニーナの担任教師である倉木悟だけだった。彼はその時、傘を放り出して倒れているニーナのもとへ駆け寄った。倉木はスマホで救急車を呼ぶ。ニーナから流れ出る血が雨に滲んで車道を赤く染める。ニーナは微かに目を開けて倉木を見る。「せんせい」と消え入りそうな声を出す。右手を持ち上げて倉木に差し出す。倉木はその手を両手で優しく包みこむ。ニーナの小さな唇が動く。「わたしは、だいじょうぶ」と言ったように倉木には見えた。そして、ニーナの目は閉じていく。そのとき、倉木の両手に包まれていたニーナの右手から、一匹の蝶が突然現れて舞い上がった。その蝶は降りしきる雨を気にすることなくニーナの顔の周りを飛び回り、やがて、空高く舞い上がって消えた。雨降りの薄暗い夕暮れ時なのに翅がキラキラ輝いていた。倉木は蝶が消えた雨の空を見上げた。救急車のサイレンの音が聞こえてくる。

 倉木はニーナが死んでから何日も後悔した。一緒に帰っていれば防げたのにと。あの日の放課後、倉木はニーナからある話を聞かされていた。「先生、わたし狙われてるんです。最近、悪者に付き纏われていて」「それは、ストーカーか?」「違います。わたし、気づいちゃったんです。そいつが、すごい悪い奴だってことに」「それは、クラスの誰かってことかな?」「違います。学校じゃなくて、この世界のいたるところにいます。でも、みんな気づいてない。気づいているのは、わたしだけです」倉木はニーナの言ってることが理解できなかった。「先生、変なこと言って、ごめんなさい。わたしは大丈夫。でも、先生は気をつけてください。もし、わたしに何かあっても心配しないでください」大人びた口調でそう言うと、ニーナは十歳の少女の笑顔を残して下校した。帰っていくニーナの小さな背中を見ながら、倉木はニーナの話を反芻した。そして、ニーナを一人にさせるのは危険だと思いあとを追いかけた。あと十メートルでニーナに追いつく、というところで、黒い車が猛スピードで倉木を追い越した。

「日本で新種の蝶が発見されました」というテレビニュースを、倉木はニーナが死んでから一週間後に見た。テレビ画面には、ニーナの右手から舞い上がったあの蝶が映っていた。
 この日から、この新種の蝶はいたるところで発見される。季節は冬なのに、雪が降り積もる地方でも翅をキラキラさせながら舞い飛んでいる。テレビでは連日その魅惑的な光景を映し出していた。人々がその光景を喜んでいたのは、ほんの2、3日のことだった。すぐに事の異常さに人々は気付かされた。日を追うごとに、この新種の蝶は急速に増えていった。昼も夜も関係なく蝶は大群となり空を覆いつくすように飛び回った。大群の中には体調が数メートルもある巨大な蝶も混じっていた。人々が持っていた蝶の概念は完全に覆された。専門家たちも、この新種の蝶の生態を理解することができなかった。

 倉木は、蝶の過剰発生と来栖ニーナは何か関係があるのではないかと考えている。そんな倉木の元にニーナの父親が尋ねてくる。
「あの子には不思議な力があります。頭の中の空想を具現化する力です。この蝶の大群はあの子が作りました。あの子を探し出して、この蝶を消すように言ってください」「探し出せと言われても、来栖はもう死んでる」「あの子の魂はまだ何処かにいます。お願いします」「どうして僕が? それに、来栖は何故、こんなにも大量の蝶を」「たぶん、悪者を倒すためです。あの子がそう言っていました」「悪者って誰なんです? この大量の蝶は来栖を守っているんですか」「いえ、我々に対するあの子からの警告でしょう」

 倉木はニーナの魂を探して無数の蝶の中を彷徨い歩く。地面も建物も空も蝶で埋め尽くされている。都市機能は壊滅状態となり人々は地下に避難している。蝶をかき分けて闇雲に歩き回る倉木の前に、一匹のひときわ光り輝く大きな蝶が現れる。倉木はその蝶に導かれるようにして後をついていく。気がつくと倉木は廃墟の街を歩いている。遠い外国の戦場のような廃墟だ。大量の蝶が廃墟を埋め尽くしている。「先生、こっちです」不意にニーナの声がする。声のしたほうを見ると、そこに肉体のない魂だけのニーナがいた。
「ここは悪者が作り出した牢獄。わたしはここに閉じ込められています」
「来栖、蝶を消してくれ」
「先生、見つけてくれて、ありがとう。あの蝶たちはもう消えません」
 そう言うと、ニーナの魂は空へと昇って行った。
 すると、大量の蝶たちが一斉に今まで以上に強く羽ばたいて、ニーナを追って舞い上がった。
 その勢いで強風が吹き荒れる。倉木は飛ばされそうになるのを必死に耐えた。
 気がつくと倉木は元の世界に戻っていた。
 蝶たちは消えていた。
                   了

文字数:2000

内容に関するアピール

蝶が過剰に発生するという話です。
 よく知られているバタフライエフェクト『一匹の蝶がはばたけば、遠くの場所の気象に影響を与える』から、『大量の蝶が羽ばたけば世界は大きく影響を受けて変化するだろう』という想像から作り上げました。2,000文字以内でミステリアスは雰囲気を出そうとした結果、あまりにも観念的になりすぎて、読者を置いてきぼりにしてしまったかな、と反省しています。2,000文字のフラッシュフィクションは、いろいろな可能性を秘めていると思うので、これからも挑戦していきたいと思います。

文字数:245

課題提出者一覧