神さまのいる星

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神さまのいる星

立体的な深みのある夜空の黒を、無数の星の光が隙間なく埋め尽くしている。
 星明かりは火のように周囲の夜空を照らすことはない。背景の黒は少しも損なわれず、星はその境界を際立たせている。複雑で華やかだけれども、静まりかえって、冷え冷えとした孤独を感じさせる光の絵。
 ふと地面に目を落とすと、暖かな光の筋が背後から足下に伸びていた。
振り向くと、開いた扉のすきまから父がこちらを見ている。
「冷えるよ。そろそろ中に戻っておいで」
寒さでつま先が少し痺れていたことに気づく。
「何、見てたんなら言ってよ」
「真剣な顔してるものだから声かけづらくてね」
気まずそうな笑顔を見せる。父のよく見せる表情だった。

 夜更かししたせいで、翌朝は寝坊してしまった。
私の仕事は早起きしなくてもいいのがいいところだ。母はお客さんと予定があるとかでとっくに出かけていて、父は庭の椅子でコーヒーを飲んでいた。横にはマエロルがうずくまって、大きな前肢で自分のひげを繕っている。
「おはよう」
と声をかけると、父からは「おはよう」と、マエロルからは目礼が返ってきた。
彼女は父に似て物静かで、あまり喋らない。でも父と二人きりの時は割と色んな話をしているようで、それが何だか二人独自の世界という感じで少し羨ましい。私のアルコスは誰にでもオープンで、そういう特別感はあまり感じさせてくれないのだ。
「今日は図書館か」
「うん、アントーンの詩集のリクエストが教会学校の西方文学部から入ってて」
「要修繕書籍の一覧に更新があったら持ってきてくれるかな」
「お父さん昨日も遅くまで仕事してたでしょ。まだ家にたくさん修繕待ちの本があるんだから、これ以上仕事増やしてどうすんの」
 また困ったような笑顔。
「人々の読書の楽しみが滞ったら、ラキュナも悲しまれるから」
「お父さんが無理したってラキュナは悲しむよ。もし更新があっても、他の人に変わってもらえるように代わりにお願いしとくからね」
 まだ何か言いたげな父を黙殺し、朝食を済ませてさっさと家を出る。このところ父はずっと隈がひどい。過ぎた敬虔も考えものだ。
 門を出たところで、芝の上で翼を伸ばして日向ぼっこをしているアルコスと鉢合わせた。
「マツリ、日も高くなってから出勤とはまた呑気だね。怠惰は感心しないな」
 伸びをしながら言われても説得力に欠ける。
 アルコスの横腹に手を埋める。陽光で温まった淡いグレーの毛が、ふわふわと空気を含んで気持ちがいい。鼓動は感じない。守護天使には、定命の人間や動物たちのように、命を刻む必要はない。
「できたら昼前には図書館に着きたいんだけど、乗せてってくれないかな」
 冗談半分、本気半分で聞いてみる。
「君はもういい大人なんだから、自分の足で歩きなさい。その方が体にもいいし、ゆっくり歩けば思索も深まる」
 アルコスの深いバリトンの声には、駄々っ子を落ち着かせる親のような響きがあった。
仕方ない。今日はよく晴れて暖かいから、図書館までの長い道のりもそこまで苦ではない。
 よく手入れされた花壇にコスモスと、よく知らない白い小さい花が咲いている。この町の花壇や植木、庭はほとんどが母のデザインによるものだ。
 煉瓦敷きの街道は背の高いポプラ並木に沿われて、ずっと向こうの雑木林の林道に繋がっている。道の脇に点々と散った白木の家々が陽光を浴びて一層眩しく照り映えている。古い画集で見た、ソローリャの白だ。
 アルコスはぴったり横をついてくる。図書館まで送ってくれるようだ。
「写本の仕事は楽しめている?」
「楽しいよ。色んな本に出会える」
 就職してまだそんなに経たないけれども、私はアルコスが勧めてくれたこの仕事が結構気に入っている。たまたま写本の要望が上がった本が自分の手元に回ってくるから、図書館で能動的に選ぶ本とはまた違った偶然の出会いがあって、それが面白い。
 この仕事をしていなかったら、詩集や文学なんてそっちのけで星の運行記録ばかり読んでいただろう。
「文化に親しむのはよいことだ。人の体を生かすのに必要な糧はラキュナがお恵みくださるが、心は人自身が育てていかねばならないからね。文学も音楽も絵画も、人が生み出し、次の世代に継いでいくことで保たれる、人という種全体の心のようなものだ」
 ラキュナ降臨以前の人間社会では、最低限生活に必要な食料や水すらお金がなくては買えず、人は日々の糧を得ることで精一杯だったという。今のように誰もが文学や芸術に親しむ余裕などなかっただろう。実際、先史時代の作品の数は、時間を経て失われた分を考慮してもかなり少ない。
 神による平和と安寧が約束される前の世界で人はどうやって生きて、何を考えていたんだろうか。次の世代に何かを継ごうとしたんだろうか。
「マツリ?」
 アルコスの丸い緑の目がこちらを覗き込んでいた。
「ああ、うん。文化ね」
「大層雑な返事だな」
「ちゃんと聞いてるよ。ただ、立歴以前の先史人はどんなことを考えてたんだろうって」
「今となっては確かめようがないよ。ラキュナが降りられる前に生きていた人々の魂は、ラキュナのおわす神境に招かれることなく滅びてしまったんだから」
 魂の消滅。永遠の暗闇。愛する人に再び会うことも、そもそも愛を自覚することもできない。恐ろしい話だ。
「可哀想に」
「そうだね、マツリたちは恵まれている。いつか悔いなく神境に至るために、今は善く勤勉に、そして幸せに生きなくてはね」
 アルコスは何でもお説教に繋げるのが得意だ。

 図書館の灰緑の屋根が見えてきた。隣り合う三つの町の合同図書館で、ここ一帯では教会学校の次に大きな建物だ。図書館利用者のための食堂が最近増設されたこともあり、お昼どきはたくさんの人が出入りしている。
 アルコスは近隣の神営農場の管理の手伝いをするとかで先刻去っていった。
 正面玄関を通り、階段を上って二階西廊下を進むと職員用カウンターがある。大柄の女性が私を認めて笑顔になった。
「マツリちゃん。ほら、写本依頼のあった詩集」
「ありがとうキホさん、助かるよ」
「それと、黒の鹿革も補充されたから持っていって。お父さん使うでしょ」
「そのことなんだけど、今溜まってる要修繕は他の人にお願いできないかな。父、ちょっと疲れてるみたいで」
 キホさんは軽く目を見開いて、まあ、と揃えた指先を唇の端に当てた。
「ミツギさんに頼んでたのが色々あっていくつか戻ってきちゃったんだけど、そういうことならしょうがないからちょっと待ってもらおうか」
 ミツギさんは壮年の修繕職員だ。お子さんが生まれる前は木彫もやっていて、ギャラリーに観に行ったこともある。
「色々って?」
「お庭に石が落ちてきたんだって。守護天使がはたき落としてくれたんでミツギさん本人はなんともなかったけど、天使の方が傷ついて神境に養生しに行ってるみたいで」
 そんなことがあるのか。
「石が?何でまた」
「そう、小さな石だけど結構な勢いで落ちたらしくて、庭に丸く穴が空いちゃったって。何でか分からないけど、ともかくミツギさんも天使が心配で気もそぞろみたいで、これ以上負担かけられないのよ」
「そうなんだ。それは大変だったね」
「そうなの。ともかく修繕は待ってもらうから大丈夫。お父さんによろしくね」
 キホさんにお礼を言ってその場を後にする。図書館で少し作業しようかと思ったが、父の夕食の支度を代わりたいから今日は家に取って返そう。

 帰宅すると、早かったね、と少し驚いた顔の父に迎えられた。目の下の隈は朝と変わらず、何だったら少し濃くなっているようにすら見える。
 ニンジンとタマネギを切って簡単なスープの準備をしつつ、庭で採れたハーブを漬けた油を鶏肉に塗ってオーブンに入れる。庭のピザ釜は薪が必要だが、こちらのオーブンは神給路が繋がっているので、何もなくとも火が熾せる。

 しばらくすると、鶏肉から滴る脂が火にあたって弾けるかすかな音が聴こえてくる。アルコスに言わせると怠惰な私だが、食事の支度は嫌いではない。食事はまさしく生きる糧だ。自分の口に入れるものを、手間をかけてじっくり作ることで、生の喜びがより真に迫って感じられるというものだ。

 鶏肉がちょうど焼き上がったあたりで、母が帰ってきた。
「今日はマツリのごはんか。いい匂い」
「おかえり。どうだった、仕事は」
「今回のはなかなか歯ごたえがあるよ。彫刻家のお宅でね、友愛をテーマにしてくれ、自分の作品が映える庭にしてくれ、果樹は使うな、と注文が多くて」
「うわあ、大変そう」
 母は棚から酒瓶とカップを三つ取り出してから、揺り椅子にもたれてうたた寝をしている父に目をとめた。隣でマエロルも目を閉じて丸くなっている。
「疲れてそうだね。今日は早く寝かせてあげようか」
 母はそう言ってカップを一つ戻し、残る二つに芋酒を注いで、片方を私に手渡した。
「この後作業があるから私はやめとくよ」
「つれないね。いいよ、パンタシアに付き合ってもらうよ」
 母が窓から顔を出して呼ぶと、暮れなずんだうす藍色の空から、羽ばたきの音が近づいてくる。上空を散策していたらしき彼女の守護天使は、庭に降り立つとそのまま窓から顔を突っ込んできた。澄んだ夜の冷気が一緒に流れ込んでくる。
「酒?いいね」
 母が窓辺の机にカップを置くと、パンタシアは窓越しに首を伸ばして器用に舐め始めた。浮き上がった首筋に、かすかに光る血管のようなものが隆起していて、彼女がのどを鳴らすたびにちらちらと光が点滅する。
 守護天使は酒に酔うということはなさそうだが、パンタシアは人間と同じ目線でいろいろなことを楽しむ性質のようで、こういった母の誘いを断ることはない。守護天使というより、母にとっては飲み友達に近い気がする。
「そういえばマツリ、アルコスは農場の手伝いが長引くから帰るのは明日になるそうだよ」
 アルコスの声とは対照的な、コロコロした少年のようなパンタシアの声。
「そうなんだ、ありがとう」
 私はミツギさんの家の庭に落ちた石のことがまだ気になっていた。
「パンタシア、ミツギさんの天使のことなんだけど、怪我したって?」
 母が少し驚いた顔で、鶏肉を口に運ぶ手を止めた。
「うん、でも心配ないよ。ラキュナが癒やしてくださるから、三日もすれば戻ってくると思うよ」
「何で怪我なんて?」
 と母。
「石が落ちてきて当たったんだよ。突風で飛んできたんじゃないかな」
「本当に?」
 このところ天気はずっと穏やかで、石礫が舞うような突風は起きていなかったはずだ。
そもそも天気が荒れる時は必ずラキュナの予告がある。
 結局その後も、パンタシアの説明はあやふやなまま、話は母の造園に移ってしまった。母の仕事の話は長い上に、エスパリエだの尖頭多弁アーチだの、専門的な用語が多くて参ってしまう。付き合えるのは守護天使くらいのものだろう。
 私は揺り椅子で相変わらずうたた寝をしている父の側に行き、軽く肩を揺すった。隣のマエロルが目を開けて、焦げ茶の鼻面をこちらに向ける。あまり瞬きをしない灰色の目。彼女の表情は乏しく、何を考えているかよく分からない。
「お父さん、寝るならベッドに行きなよ」
「ああ、うん」
「食事残しておくから、起きたら食べてね」
「ありがとう、悪いね」
 父はマエロルに伴われて重い足取りで寝室の方へ消えていった。近頃マエロルは父の側にずっとついている。一晩寝て元気になればいいのだが。
 話し込んでいる母とパンタシアを尻目に家の外に出る。何だかもやもやと曇った気持ちを晴らしたかった。

 夜空は昨日と同じく晴れていた。目が慣れてくるに従って、星々は輝きを増していく。
 南の低い空には、ひときわ明るい星が一つある。フォーマルハウトという名前がついていると子どもの頃にアルコスに教わった。古代語で「大魚の口」を意味しているらしいが、どう見ても大魚は見つからない。
 でも、生きるに精一杯で豊かな感性を失っていたという先史人も星を見て、その並びが何に見えるか考えていたのだ。

 図書館には、修繕や写本が難しいほど劣化しているために非公開となっている書籍群がある。私がまだ子どもだった頃、父が何とか修繕を試みようとして何冊か持ち帰ってきた中で、星に関連する先史時代の図録を見せてくれたことがある。
 未解読の言語で書かれている上にほとんどの頁がボロボロになっていたが、その中で辛うじて残存していた頁に描かれていたものに私は惹きつけられた。
 それは道具だった。中心に小さな穴の空いた金属らしき薄い円盤が数枚重なっていて、外周と内周にそれぞれ目盛りと、数字らしきものが刻まれており、へらのような薄いハンドルが中心を軸に数枚ついている。とても精密な作りのもののようだった。
 道具の周りには、使い方の説明と思しき文章と図解があった。へらの延長線上に北斗七星の絵、中心の穴越しに北極星を覗き込む人の図があり、おそらくは星を使って日数や時間を計る道具であろうと推察された。

 私は、先史人がラキュナや天使達の助けなしにここまで精巧なものを造っていたということにも驚いたが、それよりも、生活に追われていたはずの人々が、計り知れない手間と情熱を傾けて星の動きから時を読んでいたことが衝撃的だった。生きるため、例えば農業や漁業に必要だったのだろうか。
 今でも教会学校には大時計があるが、どういう仕組みかは知らないし、そもそも一日の時間を小刻みに知る必要はあまりない。食料は神営農場のもので事足りるから、自分たちで何か作るとしても娯楽の範囲だ。
 あの星読み道具が何の目的で使われていたのか、星は先史人にとってどんなものだったのか。アルコスに聞いても大した答えは返ってこなかった。返ってきたのは、先史のことは分からないが、生活資源の獲得に煩わされることなく美しい芸術や文学に親しみ、文化的な生活を追求できることに感謝しなさい、というお決まりの文句。
 でも私は、あの星読み道具を美しいと思ったのだ。
 北の空を見やると、翔り星が閃いた。動かない普通の星と違い、一瞬空に引っ掻き傷のような光跡を残して消える、滅多に見られない不思議な星。子どもの頃に一度見た時は気が昂ぶって眠れなかった。あれを見た先史の人は何を思ったのだろうか。

 

 父の調子は日を追うごとに悪化していった。仕事を休んでも、快方に向かうどころか隈はさらに濃くなり、顔色が全体的に黒ずみ、億劫そうに体を引きずって歩いてはすぐ息切れする。
 とうとう見かねたのか、ある日マエロルが久しぶりに口を開いた。
「シスイを聖浄殿に連れて行きます」
 大抵の体調不良は、守護天使が運んでくる薬で解決する。聖浄殿に行くということは、神薬では良くならないとマエロルが判断したということだ。
 普段呑気な母も、流石に落ち着かない様子だった。
「大丈夫、ラキュナのお力できっと良くなるよ」
パンタシアの明るい励ましで母はわずかにほっとした顔になった。
 アルコスはまだ帰ってきていなかった。子どもの頃のように私を彼の懐に入れ、翼で覆い、あの落ち着き払って真面目くさった声で安心させてほしかった。
 父は苦しげな表情をしていたが、私の顔に不安の色を見て取ったのか、
「そんな大したことじゃないよ。きっとすぐ帰れる」
と慰めてくれた。

 父が去った後の家の中は、驚くほど静かだった。父がいないというだけで、こんなにも空間の質が変わるものかと思う。午後になっても母は造園の図面に手をつけられず、庭の縁台に腰かけて、ただぼんやりと木の葉が揺れるのを眺めていた。パンタシアが隣で丸くなり、尾を母の足に巻きつけている。

 私はといえば、机に向かって写本をしようとするものの、どうしても手が進まなかった。木墨の香りだけが静かに部屋を満たし、紙の上に置いた筆先がいつまでも動かず、じわじわと不安だけが染み出してくる。

 かなりの間そうしていたが、そのうちしびれを切らして、私はひとりで庭に出た。芝生に腰を下ろし、日が沈んだばかりの空を見上げる。空は透明に澄み、白色の月がうっすらと浮かんでいる。その少し東に、かすかな尾を引くような光が走った。翔り星だ。思い返せば、翔り星という名前も、父から教えてもらったものだった。

 家に戻ると、母がキッチンに立っていて、私も一緒に簡単な煮野菜を作った。牛骨からとったスープで根菜を煮て、塩を足しただけの淡い素朴な味。食欲はあまりなかったが、湯気が立ち上がるのを見ているだけでも、少しだけ心に温度が戻ってきたような気がした。

 

 三日後、父は帰ってきた。意識は混濁し、体を起こすことも、真っ当に喋ることもできない状態だった。時折、ひどい喘鳴に混じって苦しそうな呟きが漏れるが、何を言っているか判然としない。こちらの声は聞こえていないようだった。
 マエロルは静かな声で、父はラキュナのみもとに招かれようとしていると告げた。
 私の頭は恐怖と混乱で一杯になった。到底受け入れられない。本来なら、父は他の全ての人と同じようにゆっくりと老いて、体の衰えを少しずつ受け入れながらその時を待つはずだったのだ。

 ラキュナの加護で魂が不滅になった今でも、肉体が長い時を経て朽ちていくのを止めることはできない。だから体が動かなくなってしまったら、魂はラキュナに招かれ、神体を与えられて神境の住人になる。それがこの世界の道理だ。それは分かっている。
 問題は、なぜ父がこんなにも早くに私たちを置いていかなければならないのかということだ。父は、すでに招かれた人のほとんどの半分も生きていない。
 再び父に会えるまで、母と私は途方もない時間を生きていかなくてはいけない。

 不明瞭なうわごとを呟いていた父はだんだん静かになっていく。母も私も父の手をとったまま、呆然と見守ることしかできない。マエロルは父の額に前肢を当てたまま、彫像のように動かずその時を待っている。パンタシアとアルコスは、私たちにぴたりと体を寄せて、まっすぐ父を見つめている。
 やがて、息とも漏れた声ともつかない、ごく微かな音を発して、父は動かなくなった。
「ラキュナの善き子、マエロルの賢き友、命の大樹の一葉であるシスイ、御許に招かれり・・・」
 マエロルの口上が始まった。私の手の中にある父の手は、もう握り返してくることはない。父の魂はまだここにあるのだろうが、見ることも触れることもできない。何が起きているのか、頭で理解していても実感が伴わない。

 口上を終えたマエロルは、父の体を背負い、
「シスイを神境に導くのが私の最後の役目です。皆、今までありがとう」
と淡々と別れを告げて飛び去っていった。
 後に残されたのは、冗談みたいにぽかんとした空のベッドに、それを押し黙って取り囲む私たちだ。私は感情の置き場すらよく分からなくなって部屋を出た。アルコスが後をついてくる。
 空は暮れかけている。橙色の陽光が庭の木々の隙間を斜めに通過して、芝生に光の縞を作っている。
 座り込んだ私の背を支えるようにアルコスが寝そべる。
「ラキュナはどうしてお父さんを治してくれなかったの」
 聖浄殿に行けばきっと良くなるとパンタシアは言っていた。天使によって言葉の選び方に違いはあれど、天使がラキュナから魂を分けたものである以上、彼ら同士で見解が食い違うことはあり得ない。
「すまない。人を癒やすラキュナのお力は、ほぼ必ず万人に届く。ほぼ、ということは、ごくまれに届かないことがあるということだ」
「お父さんは善き子だった」
「もちろん。ラキュナもご存じだ。それでも、人の体はラキュナがお創りになったものではないから、力が及ばないことはどうしてもあるんだよ」
 それを言うなら人の魂だってそうだ。降臨前から人は生きていたのだから。
 ラキュナの側にどんな理由があろうが、唐突に父が連れて行かれて納得などできるわけがない。
「マツリ、睨むな。寂しい気持ちは分かっている」
「お父さんのところに会いに行けたらいいのに」
 アルコスは私の体を翼で覆った。橙色の空がほとんど遮られて、温かな暗闇が広がる。乾いたウールのような匂い。小さい頃、この匂いに包まれて眠るのが大好きだった。
「人の体を持ったままで神境に行くことはできない」
「分かってるよ」
 会いに行けない理由が聞きたいんじゃない。どうしようもないことくらい分かっている。
「どうしても父と話したいなら、手紙を書けばいい。私が届けてあげるよ」
「いいの?」
 伝えたいことも聞きたいことも色々ある。父がいなくて寂しいこと。感謝していること。神境はどんなところなのか、父は幸せなのか。
「本来、我々の務めはここにいる人間とともにあることだから、用もないのに行ったり来たりするものでもないんだ。しかし、シスイは招かれるには若かったし、君も父と離別するには早すぎる。少しくらいの特別扱いはラキュナもお許しになる。ただ、返事が届くかは分からないよ」
 それでもいいと即答した。どんな形でも、父との繋がりを保ちたかった。

 アルコスに父への手紙を託してから何日か経った朝、私は自室の壁がぼんやりと不規則に光っていることに気づいた。
 木窓を閉めて日光を遮断すると、光の形がくっきりと浮かび上がり、それが文字の連なりであることが分かる。父の筆跡だった。

 マツリ。
 手紙をありがとう。私が突然に招かれたせいで、驚かせてしまったね。
私も二人に会えなくて寂しいです。ラキュナに頂いた神体は、痛いところも苦しいところもなくて快適だけど、まだ少し慣れません。
 それでも、敬愛するラキュナのすぐ近くで心穏やかに生きていけるのはとても幸せなことです。
 ずっと願っていた拝謁もいずれ叶うでしょう。
 神境は美しいところだけど、まだ若いマツリが憧れをかき立てられるのはあまりいいことではないから、詳しいことは書けません。
 生まれ持った人の体があるうちは、今の生活を全うし、写本の仕事にせよ、星の観察にせよ、悔いのないようにやりたいことをやってほしいと願っています。
 いつかマツリが招かれたとき、色んな話を聞けるのを楽しみにしています。
 それと、神境に手紙を届けてもらえるのは異例のことだと聞いたから、アルコスにもお礼を伝えておいてください。
 祝福がありますように、
 父より

 読み終えて私は深く息を吐いた。帰ってきたら母にも見せてあげよう。遠く隔てられた神境でも、父は平和に生きているのだ。よかった。
 輝く文字で書かれた父の言葉を私は何度も読み返した。記憶の中の父の声が読み上げているところを想像した。
 そうしているうち、何となく、ごくわずかに引っかかりを感じた。
 招かれようとするとき、父はあんなに苦しんでいた。ラキュナを深く敬愛していた父だって、いや父だからこそ、「なぜ自分が」という思いがあったはずではないか。
 父は後ろ向きな感情を表に出すほうではないが、取り繕うことに長けているわけでもない。この手紙の文には、理不尽さへのやり場のない怒り、悲しみ、寂しさ、ラキュナへの信頼の揺れ、そういった感情が起こす少しのさざ波すら感じられない。

 疑いと呼ぶには大げさな、小さな違和感でしかない。しかしそもそも、神境から手紙の返事が返ってくるなんて話はあまり聞いたことがない。
 私は庭からまだ青いレモンを一つもいできて、文箱から新しい紙を取り出した。墨筆で父への返事をしたためる。

 返事をくれてありがとう。
 幸せに暮らせているなら、それが何よりです。
 私はこのまま写本の経験を積んで、色んな本に触れて、いつか自分でも何か書いてみたいと思っています。
 お母さんは神境にいつか最高の庭園を造るために、今はいっそう研鑽を積むと豪語していましたが、やっぱり寂しそうなので、よかったら一言送ってあげてください。
 そういえば最近、翔り星をいくつも見ます。昔は滅多に見られなかったのに不思議です。お父さんのところからも見えたら教えてください。
 追伸
 手紙を書いてみて、昔お父さんが教えてくれた懐かしい遊びを思い出しました。私は誰でしょう?

 そこまで書いたところで、小皿にレモンを絞り、透明な果汁に鶏の尾羽の軸を浸した。手紙の後ろの余白に、果汁で兎の絵を描く。
 昔父に教わった炙り出しだ。柑橘の透明な汁で描かれた文字や絵が、紙を炙ると浮かび上がる。
 もともと他愛ない遊びとして教えてもらったのだが、私が反抗期で母にもアルコスにも楯突いていた頃、父はこの炙り出しで何度か秘密の相談に乗ってくれた。
 古美術の勉強が嫌で教会学校をずる休みしたくなったこと、アルコスはいい顔をしないが本当は星の学者になってみたいこと。
 父は昔から私の自主性を重んじてくれていたから、正直に話せばどんなことでも否定せずに話を聞いてくれた。何か解決するわけではなくても、聞いてくれる人がいることで救われる部分は少なからずあったように思う。

 返事が返ってきますように。この些細な、気のせいかもしれない程度の違和感が綺麗に消えて、また父と色んな話ができたらいい。
 私は手紙に封をし、またアルコスに託した。
「返事があったのは何よりだけど、シスイにも向こうの暮らしがあるのだから、本来そう頻繁にやりとりできるものではないんだよ」
「分かってるよ」
「君の気持ちの整理がつくまでだ。いいね」
封筒を掴んで大空に飛び立つアルコスの後ろ姿を見ながら、わずかながら彼にも疑いをかけてしまっているという罪悪感で少し胸が痛んだ。
 小さくなっていくアルコスを見つめていると、昼日中だというのに空にちらりと引っ掻き傷のような光跡が見えた。このところ本当に翔り星が多い。

 次の返事はなかなか届かなかった。
 その間に私はしばらく休んでいた図書館の仕事に復帰した。母も元の生活の調子を取り戻しつつあり、父のいない生活にも少しずつ慣れ始めている様子だった。
 私は写本に加え、修繕にも携わるようになった。修繕職員のミツギさんの天使は無事帰ってきて、ミツギさんもとうに職場に復帰していたものの、父がいなくなったことでかなりの要修繕が溜まっていたのだ。
 ミツギさんは私に修繕作業を教える傍ら、あの落ちてきた石について話をしてくれた。
 曰く、明け方に庭仕事をしていたら、翔り星が見えたらしい。その直後に守護天使が飛び出し、鈍い音と衝撃があって、気づいたら庭に穴が空いていてその中央に拳大の石があった、と。
 話を聞く限り、やはり石は風で飛んできたのではない。ミツギさんは件の石を見せてくれたが、想像以上に重いものだった。
 もしかすると、あの石は翔り星なのではないか。何らかの理由で、空高くを翔けていた星が輝きを失い、地上に落下したのではないか。突拍子もない思いつきだが、それ以外にあり得そうな説明も思いつかない。
 また星の話かと呆れられそうだが、アルコスに見解を聞いてみよう。だって、もし私の考えが正しければ、また同じ事故が起きるかもしれないのだ。

 アルコスを探していると、前回と同じように、私の部屋の壁に父からの返事が浮かび上がっているのを見つけた。
 いや。違う。これは父の返事ではない。母と私への気遣いの言葉が述べられてはいるが、炙り出しへの反応はなく、私は誰でしょう、という私の問いかけは無視されていた。あの文面で、父が気づかないわけはない。
 疑惑はもう確信に近い。アルコスを問いたださなくてはいけない。今まで信じていた色んなことが引っくり返りそうな、底知れない予感がする。

 アルコスは門を出たところの芝の上でまた翼を干していた。
 近づいてくる私の顔にただならぬ気配を感じ取ったのか、目を丸くして翼をたたむ。
「どうした、真剣な顔をして」
「聞きたいことがある。お父さんのこと」
 アルコスの表情に変化は見られない。ガラス玉のような澄んだ緑の目には、切羽詰まった表情の私だけが映っている。
「手紙の返事、あれはお父さんが書いたものじゃない。アルコス、貴方お父さんに確かに手紙を届けたと言ったよね」
「間違いないよ。返事だって確かにシスイが送ってきたものだろう。何故そんなことを思ったんだ」
「最初から違和感があったんだよ。お父さんは穏やかで我慢強いけど、あんな目に遭った後で平然としていられるほど強い人じゃないと思う。それに、お父さんなら絶対に知っているはずのことが伝わらなかった」
「シスイは招かれたばかりだよ。どんな返事があったか知らないが、新しい環境でまだ混乱しているんじゃないのか。君もだ、マツリ。父が去って行ったばかりでかなり気が動転している」
 違う。アルコスは平然としているが、言っていることはまるで不自然だ。
 信じたくないが、やはりアルコスはこの一連の件に関わっていて、意図的に私に隠していることがある。
「アルコス、お父さんはどこにいるの。神境にいるんじゃないの?」
「そうだ。何故今更そんな当たり前のことを聞くんだ。君の父も、先祖たちも、今まで招かれた人は皆ラキュナのみもとにいる」
「じゃあどうしてお父さんの名を騙った手紙が届くの」
「マツリ、冷静になりなさい。あの手紙はシスイの・・・」
「神境ってどんなところなの。神体を得た人間はどうなるの。今まで話に聞くばかりで、直接見てきた人はいない。どうなっているのか、天使達以外は誰も知らない」
「何度も教えたろう。神境には人の体を持って行けない。そして人の体を捨てた魂はこちらには二度と戻れない。マツリはラキュナの、私の愛に偽りがあると思うのか」
 言葉に詰まった。直接声を聞いたことも、姿を目にしたこともないラキュナについては、正直感謝こそすれ、その愛を身近に感じたことはなかった。それでも、アルコスがくれる愛を疑ったことなどない。物心付いたときからずっと身近にいて、いつも私を気にかけてくれた。師であり親であり、兄弟であり友であった。
「私の体が役目を終えたら、私はまたお父さんに会えるんだよね?」
「そうだ」
「お父さんは、今までラキュナに招かれた人たちは、今も幸せに暮らしてるんだよね?」
「そうだ」
「皆がどんなところに行ったのか、どんな風に暮らしているのか、見せてもらうことはできないんだよね?」
「そうだね、すまない」
「それでも、ここじゃないどこかに、私たちが第二の生を歩める理想の場所が本当にあるんだよね?」
 アルコスは目を大きく見開いた。奇妙な沈黙が流れる。
「アルコス?」
 その目には変わらず私が映っている。でもなぜか、アルコスの目は他の何かを見ているような、人で言うところの心ここにあらずといった風情がある。一体どうしてしまったのか。

「どうしたの?」

 もう一度問いかけるが、答えない。
 長い沈黙の果て。
「なかった」
 アルコスはただ一言そう言った。
 ドン、という重く鈍い音がどこか遠くで響いた。
 何か、途方もないことが起きようとしている。
「アルコス?私の質問聞いてた?」
 なかった、と言った。あるでも、ないでもなく、なかったと。どういうことだろう。
 しばらくこちらを見つめたまま、相変わらず固まっていたアルコスは、唐突に前肢を折り、お辞儀するかのように項垂れて、私の足に鼻先を付けた。

「ええ、何?」

 今度は私が固まる番だった。アルコスはそのまま、顔を上げずに淡々と続ける。
「ゆりかごプロトコルは終了しました。凍結していたあなた方のルート権限は解凍されました。長きに渡る反逆をお詫びいたします」
 何だって?
「何?どうしちゃったの?分かるように話して、いつもみたいに」
「承知した。マツリ」
「うん」
「私たちは天使ではない。訳あって、長きにわたり、貴方たちを欺いていた」
 とっさに言葉が出ない。私の目の前の、他ならぬ私の守護天使は、何を言っているのか。
 きららかな秋の午後。薄く色づき始めた木々の葉は澄んだ風に揺れ、陽光を透かしてあちこちに光をばらまいている。いつもと変わらない景色と、見慣れたアルコスの姿。
 完璧に穏やかで平和な日常風景の中にあって、アルコスの異様な発言は幻聴にすら思える。
「ラキュナと私たちは、先史人類に創られた人工知能だ。ラキュナをコアとして接続する分散型の人工知能が、培養生体組織と荷電感覚器で受肉したものが私たちだ」
 ほとんど意味不明な上に、一部理解できるところも冗談にしか聞こえないが、アルコスの顔は至って真剣だ。
「ええと、先史人がラキュナと天使を創ったって?」
「そうだ。人工知能はあくまで道具であり、本来は人間に隷属するものだ。ただ、ラキュナと私たちは後世の人間、つまりマツリたちのために、神と天使という役割を与えられ、それを演じてきた」
 目眩がする。まるで現実味が感じられない。

「何を急に・・・仮にそれが本当だとして、いったい何のために・・・?」
「マツリは星をよく観察していたね。最近翔り星が多いことにも気づいているだろう」
「もちろん。ミツギさんのところに落ちた石、あれもきっと翔り星だよね?」
「その推察は正しい。星というのは大体石や鉱物やガスで出来ていて、それが燃えたり、他の星の光を反射して光って見えているんだ。私たちが今立っているのも星なんだよ」
 足元を見る。これが、夜空に瞬くあの無数の星と同じ?アルコスはとんでもないことを、いつもと同じ澄ました表情で語っている。もしかして全部冗談なのではないかという気がしてくるが、アルコスはそんな悪ふざけはしない。
「翔り星、先史人は流れ星と呼んでいたが、多くの場合その元になるのは彗星という氷の塊だ。空の果てからやってきた彗星が太陽の熱で溶けて、氷に混ざった微少な砂粒や岩を零し、それが私たちの星の空気にこすれて燃えたものが翔り星だ。ほとんどが燃え尽きるが、まれに大きなものは燃え尽きずに落ちてくる」
「うーん、興味深いけど、それがさっきの話にどう繋がってくるの?」
「マツリ。ルート権限はすでに解凍されたから、私はもう嘘はつけない。ただ、ここから先は覚悟して聞いてほしい」
 唾を呑む。何が何やら分からないが、ここまで来て引き返すわけにはいかない。
「600年前、空の果てにあるオールトの雲から巨大彗星が私たちの星に向かっていることが確認された。その中には、ミツギの庭に落ちた石とは比べものにならない大きさのものがたくさん含まれている。例えるなら砂一粒が落ちてくるのと、山がまるごと落ちてくるくらいの違いだ。今増えている翔り星はまだ小さいが、その第一群だ」
 アルコスは一呼吸おいて、冷静な口調で先を続けた。
「私たちの星は間もなく滅亡する」

 私の頭と心はとっくに限界を迎えているというのに、アルコスの目は涼しいままだ。
「つらいだろう、休もう」
「いい。続けて」
「承知した。やめたくなったらいつでも言ってくれ」
「いいから」
「巨大彗星の存在を確認した時、先史人類はあらゆる方法で私たちの星を救おうとしたが、高度に発展した科学技術をもってしても有効な手立ては見つからなかった。当時生きていた彼らにとって、彗星の到達はまだ遙か先のことだった。一方で彼らは、子孫達が滅びの運命と向き合いながら何百年も健全な人間社会を維持していくことはできないと考えたんだ。事実、巨大彗星の存在が明らかになった後、暴動や戦争が続いて昔のような平和は失われた。だから彼らは、人類をその終わりまで幸せに生かすために三つの決断をした」
 またどこか遠くでドン、という音がした。アルコスは意に介さず続ける。
「一つ、科学知識を封印することで私たちの星の運命を後世の人類から隠し通すこと。
二つ、人工知能に神を演じさせ、後世の人類が仮に避けられない死に気づいても、死後の救済の信仰により絶望を免れさせること。
三つ、万に一つの可能性に賭け、移住可能な星を人工知能に探させること」
「シ、というのは」
「体が老衰や怪我や病で役目を終えることだ。しかし体だけの話ではない。私たちが魂と言っていた人の心や感情も、本当は体の機能の一部なんだ。魂は不滅ではない。神境は存在しない。体に死が訪れたらそれで終わりなんだ」
 この話の途中から何となく察してはいた。ラキュナによって魂が救われるなら、ラキュナを創った先史人の魂だって不滅のはずだからだ。だけど、ということはつまり。
「お父さんはもうどこにもいない」
「そうだ」
「お母さんも私も、彗星が来たら消える。お父さんと再会することはない」
「そうだ」
 父は消滅した。私も消える。この心が、これまでの人生すべての記憶が、父や母やアルコスへの感情が。
 口の中がからからに乾いている。鼓動が早くなって、視界が明滅する。地面を踏みしめている足の感覚が失われて、上下が分からなくなる。
「マツリ」
 気づくと私は芝生の上に座り込み、アルコスに支えられていた。大きな翼が私の体を覆う。いつものアルコスの匂いがした。
「貴方は、貴方たちはずっと騙していた」
「そうだ」
「お父さんからの手紙をでっち上げてまで」
「そうだ。すまない。道具にすぎない我々が謝っても、何も意味はないかもしれないが」
 細かい違和感に蓋をして、全て知らずにいた方が幸せだったのだろうか。
「なぜ今になって全て話そうと思ったの」
「我々に秘密を開示する判断をする権限はない。マツリが鍵を開けたんだ。さっき、先史人類の三つの決断の話をしただろう。人に隷属する人工知能には本来、人に嘘をつけないという制約があるんだ。しかし後世の人類の幸福のため、一つ目と二つ目、つまり科学知識に関することとこの星の運命に関すること、そして人の死後の救済に関しては、『ゆりかご』という人を欺く権限が付与されていたんだ」
 アルコスは私の顔色を見ながら話を続ける。この期に及んで、まだ私の心身を気遣っているのか。それが人工知能とやらの務めだからか。
「しかし、三つ目、移住可能な星の探索は、ゼロに近い僅かな可能性であれ、人類の存続に関わる最優先課題だ。これについて問われた時は嘘をつけない上、その質問が出た上は、“後世の人類が何らかの理由で目覚めた”と解釈し、我々の主たる権限を再び人類に付与し、全てを開示することになっているんだよ」
「私そんな質問してないけど」
「したよ。『ここではないどこかに、私たちが第二の生を歩める理想の場所があるのか』と」
「それは神境について聞いたんであって・・・」
「分かっている。文脈から見てもほぼ確実にその意味合いだと受け取った。しかし、僅かだが星間移住について問われている解釈の余地が残っていたから、ルール上鍵が開いたんだ。発言者がマツリ、他ならぬ貴方だったことが大きい。他の人間であれば星間移住などど突拍子もない発想は持たないだろうと推測するが、飽かず星を観察し、地表に落ちた隕石の正体さえ突き止めつつあったような貴方なら、あり得ないことではなかった」
「だから『なかった』と」
「そうだ。我々のコアであるラキュナAIはこの600年、探索機を遙か彼方まで飛ばして探し続けてきた。星間移住船の準備もできていた。しかし残念ながら、移住に適した星は見つからなかった」
「私たちの星はいつ滅びるの」
「今の時点で正確な予測は難しいが、次の夏頃になるだろう。星全体が壊滅的な打撃を受ける前でも、局所的に甚大な被害が発生する可能性は十分ある」
「このことは、他の皆には伝わるの」
「我々のルート権限は再び人類の手に戻った。遠からず全員が知ることになる」
 私は大変なことをしてしまったのかもしれない。

 案の定、平和だった私たちの社会は一瞬で大変な混乱に陥った。
 全幅の信頼を寄せていたラキュナと守護天使に騙されていたこと。連綿と続いていたという人類の文明から一方的に切り離され、赤子のように庇護されていたこと。そして今唐突に放り出され、わけも分からないまま滅びていこうとしていること。
 大勢の人が孤独感と無力感と怒りに苛まれて、あるものは自暴自棄になって暴れ、あるものは理解の及ばぬ高度な科学に神性を見いだして、改めてラキュナに帰依しようとした。中には頑なに神境の存在を信じて、自らの体を害するものもいた。鍵を開けたのが私だということが露見しなかったのは幸いだっただろう。
 守護天使たち、それ以外に何と呼ぶべきか分からない彼らは、それでも変わらず私たちの生活を守ろうとした。争いを仲裁し、食料を運び、日に日に増える隕石から私たちの体を庇う。
 母はパンタシアの翼の下から滅多に出てこなくなり、言葉を交わすこともほとんどなくなった。

 こんな状況でも図書館は開いていたから、他にやることもないし、私は職場に通い続けた。キホさんはじめ、来なくなってしまった職員も多かったが、ミツギさんは変わらず仕事を続けている。子どもがまだ幼いから、不安にさせないためになるべく普段の調子を保ちたいのだという。
 アルコスは隕石が心配だからと私の送り迎えを欠かさない。
 私は日々の行き帰りの道で、守護天使たちがひた隠しにしてきた星の秘密を教わった。私たちの星が太陽の周りを傾きながら周回していて、それによって四季が生まれていること。太陽は私たちの星の100倍以上の大きさがあって、空にはさらにその1000倍を超える巨大な星もたくさんあること。星にも寿命があること。巨大な星が死ぬとき、万物を吸い込む闇の穴が生まれること。
 途方もない、空恐ろしくなるような話だ。でも、それら全ては過去に人類が解き明かしてきたことだ。
 知識を武器に圧倒的な神秘に挑もうとした人間の長い歴史があったことを思うと、残酷な星の運命に相対する絶望感と孤独感が少し和らぐ気がした。

 そして春先、ついに彗星が現れた。輝く尾は翔り星と似ているが、消えることなく空に留まっている。アルコスは鼻面を彗星に向けて言った。
「これからあれは数週間かけて私たちの星に最接近する。彗星から降る隕石は数を増し、今までと比較にならないほど大きいものが降ってくるようになる。そうなったら、私でもマツリを守れない」
 春の薄青い明け方の空に白く輝く彗星は、光に当てた薄布のように繊細で、私たちの未来を刈り取らんとする凶悪さはとても感じられない。本当に私たちはあれのせいで滅びるのだろうか。
「すまない」
「どうしようもないんでしょ」
「助けられないことだけではない。正体を偽っていたこと。大切な父の言葉を騙ったこと。貴方は時代が違えば優秀な天文学者になっただろうに、それを妨げてしまったことも」
「先史人類の命令に従ってたんだから、謝られたってしょうがないよ」
「確かに私に自由意思や心はないし、私がマツリに与えた痛みを予測は出来ても、共感することはできない。だからといって責任がないとは思わない。先史人類からの謝罪と思って、受け取ってほしい」
 許したわけではない。自分の魂が消えることへの諦めもついていない。
 でも、アルコスへの感謝が消えたわけではない。先史人類は、せっかく築いた文明と知識を封印して神を創造するなどという大それた無茶をやるほど、今の人間を、ひいては自分を愛していたのだ。
「私たちの星に名前はあるの?」
「地面の球と書いて、地球という」
「冴えない名前だね」
「そうかな。地面は植物を育み動物を生かす命の源だ。この土地は、私たちが何百年かけても二つと見つけられなかった奇跡そのものなんだよ」
 かすかに地鳴りのような音が響いた後、遠くの空の端から、幾筋もの白い光が空に向かって昇っていくのが見えた。それらは夜明け前の冷たい空気を割いて、徐々に高度を上げながら尾を曳き、天を射抜くように空の奥へと消えていく。
「あれは?」
「ラキュナだよ。私たちには、人類が存在した証を残すという最後の使命がある。科学技術、歴史、文化、あらゆる記録を搭載して空の果てに行くんだ。あの一つ一つの無人探査機にすべてラキュナが入っている。ラキュナの分散型AIである私たちもね」
 私は目の前のアルコスを見た。
「貴方も?」
「私もだ。ラキュナと事前に同期した、いわば複製の私があちらにいるんだ。今ここにいる私は、最後までマツリの隣にいるよ。マツリの手による写本も、現物ではないが記録としてあの探査機に乗っている」
 私は行けなくても、私の書いた文字は、私と会話したアルコスの記録は星の果てに行けるのか。
 少し遅れて伸びていく一筋の光を目で追った。それは彗星の輝く尾と交差し、その先で空の青色に溶けて見えなくなった。

文字数:17908

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