梗 概
ファントム・ペイン
〇趣旨
生体移植の台頭により義肢の需要が減っていく中、義肢装具士が不思議な客との交流を通して生体移植技術の闇に気付いていく。
〇舞台
大戦の傷と成長した技術が混在する近未来の都市郊外。
〇梗概
LAWSや人造人間の兵士が投入された戦争の中で右足を失い義肢を使うようになった主人公は、自身もまた義肢装具士としての知識を付け戦傷病者の救護を手伝っていた。しかし突然停戦が発表され戦傷病者たちは平和な社会へ戻されることとなる。
義肢製作所を立ち上げ細々と暮らしていた主人公はある日風変わりな客と出会う。彼女は左足を失っていたが、その切断面は外傷にしては綺麗で医療行為にしては衛生的でなかった。彼女を連れてきた女性は姉だと名乗ったが顔はあまり似ていない。主人公は怪しみながらも義足製作を請け負う。
その後主人公は他の客から生体移植を受けるかどうか悩んでいると相談される。最近臓器だけでなく手足の移植手術も盛んになってきているのは主人公も知っていた。主人公は自分で義足を整備できるので不便には思っていなかったが客にとっては移植の方が便利だろうと思う。
やがて義足を姉妹に渡す日になる。主人公が妹に義足の装着を指導していると姉に生体移植についてどう思っているかを尋ねられる。やるつもりは無いがいずれ義肢が必要とされなくなる日が来るのかもしれないと答えると姉は渋い顔をして黙ってしまう。無口な妹はただ義足を珍しそうに見つめている。
義足の整備のため姉妹と定期的に顔を合わせる中、妹が病弱であることに主人公は気づく。妹の体調を気遣う関係になると姉は彼らの経緯を告白するようになった。手足の生体移植手術が成立しているのはかつて兵士を作るために使われていた人造人間工場を利用しているからであること。そこで生み出される人造人間は移植先の拒否反応を抑えるための免疫抑制機能を備え病弱で短命であること。妹は左足の移植後の殺処分から逃げ延びた人造人間であること。姉は人造人間を製造しドナーとして利用することを問題視しているが、ここの復興はその技術によって得た金で成り立っているためその根絶は難しいだろうこと。だから妹に普通の人間としての生活をさせることだけがこの社会に生きる自分にできる贖罪なのだと言う彼女に主人公は共感しながらもやるせなく感じる。
数か月後、病気がなかなか治らなくなってきた妹が主人公の元に姉と共にやってくる。妹はその足を主人公に移植したいと言う。主人公は彼女の覚悟を受け取るか迷った末、戦時中苦労して掴み取った義肢の技術を大切にしたいからと断る。妹は悲し気に微笑み、いつも通りの整備だけをして姉と共に帰っていく。
後日、主人公は近所の人造人間工場の火災の報道を目にし姉妹のことを思い出す。彼らからはあの日以降連絡が無い。妹の死を直感した主人公は生体移植のせいで減っていく依頼をこなしながら感傷に浸る。
文字数:1185
内容に関するアピール
私が自分と違う思想として設定したのは「伝統を重んじる」「責任感がある」「目の前のことを大切にする」という考え方です。よって主人公は義肢という歴史のある技術を受け継ぎ、技術者としての責任感を持ちながら目の前の仕事をする人物としました。その義肢という技術と対比させるために手足の生体移植という新たな技術を設定し、その材料として人造人間というモチーフを取り入れました。
題名は幻肢痛からとりましたが人造人間の心痛も表しています。
人造人間を移植のドナーにするという設定について、生来の手足とのバランスを考慮するとレシピエントのクローンという設定がいいかと思ったのですが、ドナーとレシピエントが同じ顔をしているよりも同じ顔の人造人間が大量にいる方が取り回しやすいと思ったため、生来の手足とのバランスについての描写は避けました。必要であればクローン設定に戻すか別の手立てを考えます。
文字数:384
人の形をした命、人の形に足りない命
私の右足の茎が百合のように白い部屋で輝いている。清潔ではなく生命がしみ込んだ白とつややかな金属の取り合わせ。それは戦場でよく見たものだった。ここにぞっとするような赤があれば、もっとそれらしくなる。
あのときの私はまだ平和を知らなかった。だから病院の冷たい床に転がされて「ここで切断するしかない」と言われてもすんなり頷いた。私にとって奇跡とはただ生き延びることだった。たった一度の爆撃で、私の家族は全員死んだ。
恒久的な平和が訪れて十年経った今でも、朝日が昇る度にあの喪失の日々を思い出す。寝ぼけ眼で自分の身体を探ったときに、ふと右膝から下が存在しないことに気付く感覚。そして次にこう思うのだ。今自分は右膝を曲げていて、ふくらはぎから下はベッドに埋まってしまっているだけなのだと。
そうでもないと、あるべき場所に何もないことを説明できない。
今日も私は奇妙な気分で目を覚ました。つま先をベッドの中から引き抜くようにして右足を布団の外に出すと、血色のいい太ももはそれでも欠落を呈していた。
あの日十歳にも満たなかった私は、生き延びる対価として右膝から下を差し出したが、それはまだラッキーな方だった。両足を失った者も、片腕だけで生活しなければならなくなった者も、度重なる手術の末に亡くなってしまった者もいた。怨嗟の声が渦巻く病床には私より幼い者もいた。そこにはあらゆる喪失がごった返していて、私個人の絶望だけを取り出して眺めることはできなかった。
そんな地獄でも懸命に誰かを救おうとする人はいた。私はそのうちの一人からあらゆることを学んだ。彼女は私を再び立ち上がらせてくれた人だった。義肢装具士として活動していた彼女は私の義足を製作してくれただけでなく、義肢の技術とどんなときも目的を見失わない強さというものを教えてくれた。
今日も仕事は一件だけだ。この古めかしい技術は年々必要とされなくなっている。店を開いてもう五年になるが、顧客数は緩やかに減少の一途を辿っていた。
だけど、それはむしろ喜ばしいことなのかもしれない。
私が扱うのは戦時使われていた旧式の義肢で、つまり生々しい暴力の痕跡だ。あまりに大量の人がそれを必要としたものだから、それらの義肢はまるで機関銃のように量産され、私たちは軍靴を支給される兵士のように「身体のサイズの方を合わせろ」と命じられた。私が接合部の痛みと歪な歩幅を誤魔化しながらも歩き続けることができたのは、あのときの義肢装具士が一人一人に粘り強く向き合ってくれたからだった。
今はもう肉体まで規格化する必要はない。顧客それぞれの身体に合わせて義肢を調節するのが私の仕事のほとんどだ。私と同じように、あの戦場から共に歩いてきた相棒を手放せない人がこの店にやってくる。そしてあの痛みの日々と別れる決心がついた客は申し訳なさそうに、それでも晴れ晴れとした顔をして、私の店を去っていく。
だけど今日は、誰かの新しい一歩に繋がるかもしれない日だった。
客を待つために店の扉を開けると、勢いよく入り込んでくる風に乗って砂ぼこりの匂いが私の鼻を刺した。白いレンガで味気なく形成されたこの街は未だ敗戦の空気を漂わせている。ところどころ黒い焦げ跡が残る壁の上を同じように黒い配線が蛇のように這っていて、連なる店の軒先テントの鮮やかな色を引き立たせていた。敗戦の空気とは、人々が再び立ち上がろうともがいていることの証だ。
倒壊した建物とベニヤ板だらけだったときと比べると格段に良くなった。終戦して間を置かずに街は伝統を感じさせる景観を取り戻し、道は舗装されて片足が金属の私も歩きやすい。意外と呆気なく惨状が片付いたときは唖然としたものだったが、それもまた進歩しすぎた技術の賜物なのだろう。この街を生まれ変わらせたものは、私の右足を千切ったものと同じだ。
石畳の道の先には首都の背の高い建物たちが見える。代わる代わる灰色のベールを被るそれらはまだまだ成長するようだ。私の成長は戦場で始まり戦場で止まってしまった。
視線を反対側に向けると海岸線に沿って延々と続く建物がある。白い球状の建造物が連なるその光景は、まるで怪物が海に産卵していったかのようだ。私はそれが何のための施設なのかは知らないが、終戦してすぐに造られたものであるのは確かだった。それもまた、技術が結実させたものなのだろう。
街の変化を噛みしめながら辺りを見回していると、見慣れない小型車がこの路地に入ってくるのが目に入った。つやつやとした表面からは持ち主がそれを丁寧に扱っていることを感じられる。やがてその車は私の前で止まり、運転席から質素なジーパン姿の女性が身軽に降りてきた。茶色の髪は低い位置で結ばれ、服装も地味だったが、トップスの鮮やかな赤が小洒落た雰囲気を醸し出していた。
「すみません。あなたがアイリスさんですか」
彼女はちらりと私の足元に目をやりながら尋ねる。私はもうそんな視線には慣れていたし、彼女は控えめな方だった。それでも、私のどこよりも私であることを証明するのはこの足なのだろうと思うと、少し心がしなびたような気分になる。
「ええ。私がアイリスです。ということはあなたが」
「アネモネです」
彼女は答えながら車のキーを操作した。すると後部座席のドアがゆっくりと開き、黒い窓の向こうにいた存在と目が合う。
まるで人形のように、じっとこちらを見つめ返してくる目だ。
「では、この子が……」
私はそれ以上言葉を継げなかった。アネモネの前で彼女をどう形容すべきか分からなかったからだ。
そこにいたのは無機質な少女だった。そのあまりに整いすぎている顔よりも、まるでポーズを指示されたかのように膝の上に置いたままの手がそう思わせた。
「ええ。この子が私の妹です」
アネモネはてきぱきと車内の少女に手を貸した。人形のように微動だにしない少女は。しかしアネモネが手を伸ばすと自然と腕を持ち上げた。そうして大人しく抱えられた彼女の左足は、事前に聞いていた通り太ももの途中で切断されていた。私がその左足を痛ましく思っている間も、彼女は私の顔をじっと見つめて視線をそらすことはなかった。
「デルフィ。この方がアイリスさん」
アネモネが優しく声をかける。デルフィは数度瞬きして、その整った唇を薄く開いた。
「こんにちは」
彼女は声も細かった。日光に晒された彼女の髪は白波のように透き通っている。アネモネが身にまとう赤とデルフィの白い肌のコントラストが、私をひどく揺さぶった。妹を抱きかかえる姉の図は平和そのものだ。だからこそデルフィの欠落が、鮮明に目に映るのだった。
二人を客間に案内すると、アネモネが眉を上げてあちこち視線を走らせた。私は彼女の顔から驚きを読み取り、雑談代わりに尋ねる。
「意外でしたか」
「ええ。もっと工房らしいと思っていましたから、まるで、その……」
「カウンセリングルームみたいでびっくりした、でしょう。他のお客さんにもよく言われるんです」
私がそう返すと彼女は少しバツの悪そうな顔をした。良くない偏見を露呈してしまったと反省しているらしい。私は気を悪くしていないと微笑みで伝え、彼女たちを白いソファに座らせた。
ここも私の自室と似たような内装だ。一つ扉を隔てた先にある作業場も同じように白い。日差しを柔らかくするカーテンだけが美しい薄明の空のように紫だ。だからこの部屋にはいつも静けさが満ちているように思えた。
「私が扱うのは戦時から使われている旧式の義足です。そして私がこの技術を学んだのは学びの場とは程遠い戦場でした。お客様も私も、戦争の恐怖をこの身に刻んでいるのです。ここは義肢を整備する場というだけでなく、同じ苦しみを背負った者同士が支え合う場でもある、というわけです」
そうして私はスカートを少したくし上げ、自分の右足をサンプルのように示す。あまり上品な行為ではないが、彼女たちはそう気にしないでくれるだろう。結局のところ実際に見せるのが手軽で確実だった。技術に代替された身体がいかに化け物じみたものか、理解してもらうには。
「この義足は見た目も不自然ですし、性能も最新のものほどには良くありません。整備の手間もかかります。ですからよくよくお考え下さいね。義足を作るのではなく、生体移植を行うという手もあるのですから」
私がそう口にした途端、アネモネは顔を険しくして首を横に振った。
「他の手段を知ったうえで旧式の義足がいいと判断したのです。この子はまだ成長するかもしれません。戦場で用いられたその義足は、装具者の体型の変化にある程度合わせられると聞きました」
その言葉は祈りのように聞こえた。この儚い少女の背が伸びることを彼女は心の底から願っているのだろう。それを知るだけで十分だった。私は彼女たちに力を貸すことにした。
「分かりました。デルフィさんと共に成長できるような義足をお作り致します」
私の返答を聞いたアネモネは意外なほど素直な笑顔を浮かべた。その横でデルフィはただ揺れるカーテンを見つめていた。もしかすると彼女は、あの卵のような施設に遮られて見えなくなった、海の景色を見ているのかもしれないと思った。
義足を作るためにはまず断端の型を取らなければならない。義肢メーカーではスキャンしたデータを元に成形するのが主流だが、生憎うちに高性能なスキャナーなんてものはなく、昔ながらの方法を使うしかなかった。つまり詳細な採寸記録と石膏での型取りだ。
客間と隣接する作業室に移り、歩行訓練用の手すりを使ってデルフィに立ってもらう。そして左足の断端が見える状態にしてもらい、その状況を私は頭に叩き込んでいった。座骨、その近辺の軟部組織、そして断端の皮膚、皮下組織、筋組織、全体の形状——。
驚くべきことに、彼女は何もかもまっさらだった。まるで模型を相手にしているかのようだ。彼女の足は、何の生き様も宿していなかった。
私は不穏なものを感じながらも作業の手を進めた。彼女の太ももに型を取り外しやすくするためのストッキネットを履かせ、その足元に跪いて石膏包帯を準備する。
「ところでアイリスさん。あの海岸沿いにある施設が何かご存知ですか」
そのとき様子を見守っていたアネモネが出し抜けに口を開いた。単なる世間話だろうと考えた私は、冷たい包帯をほぐしながら素直に答えた。
「いいえ。終戦後すぐにできたのは知っているのですが」
「そうですね。あれは戦後一年も経たないうちに完成しました」
「あれ」という言葉を彼女は鋭く発した。私は少し驚いて彼女の顔をちらりと見る。
「あれは生体移植のための人造ドニーを製造する工場なんです。正式名称は人工子宮——古代ギリシアの言葉で子宮を意味する言葉です」
淡々とそう続ける彼女の表情は予想に反して落ち着いていた。先ほど感じた剣呑さは気のせいだったかもしれないと思いながら、私はデルフィの顔を見上げた。彼女の前で人造ドニーの話をしていいものか、分からなかった。
人造ドニーとはその名の通り、ドニーとなるために生まれる人造人間のことだ。彼らは内臓だけでなく、その手足まで他人に捧げる。その考えるだけで寒気がするような技術の登場こそが、義肢の衰退の決定打となった。私はそんな他人を犠牲にするような真似はしたくないと思ったが、私の客の中には生体移植を受けるといってこなくなる人が少なくなかった。
「なるほど。見たことのない形状をしていると思いましたが、あれが人造人間を作る工場というものなのですね」
私はそう返しながら、ちょうどよくほぐれた包帯を広げ始めた。例え嫌悪感があったとしてもそれを表明して何になるというのだろう。技術というのは、それがどんなに人の道を外れたものであっても、利益を生む限り誰も止められやしないのだ。
私の家族を奪った爆撃には人の意志すら介入していなかった。ただ危険度スコアが閾値を上回ったから、つまり手足の揃った人間が複数いるというだけで、機械的に爆弾が投下された。その機械たちが目的としていたのは、戦力を減らした上で食糧資源や医療資源を逼迫させるために、生きていても動けない人間を増やすことだった。あの戦争で手足を失い、それでも生き延びた人間が多いのは、決して偶然などではない。
その事実が明るみに出たのは戦時のことだった。国際社会はその技術を激しく非難した。それでも戦場は変わらなかった。相変らず技術同士が相手を上回ろうと企み合い、それに人が巻き込まれて肉片を散らす世界だった。
だから今の私にとって、変わるかどうか分からないものを憂うよりも、私の技術を必要としてくれる人を助けるほうが大切だった。誰かを助けるという目的さえあれば、どんな状況でも前を向いて動くことができた。
その考え方こそ、私を支えてくれたあの義肢装具士から学んだものだった。
私はデルフィに声をかけてから、その太ももに包帯を巻き始める。たとえ痛みが無くとも多少の違和感は生じるはずだが、彼女は相変わらず微動だにしなかった。
「大丈夫ですか」
私が尋ねても彼女は静かに頷くだけだ。おかげで私は難なく包帯を巻き終わり、そしてちゃんと型を取れるよう、彼女の太ももにぴったり付くように手で少し圧を加える。
その肉の柔らかさに、私は何故か安心していた。
デルフィから採型した石膏を元に義足の接合部となるソケットが完成し、本格的に義足の制作が始まった頃、私は遅刻癖の常連客を待っていた。店の扉が元気よく開け放たれたのは、案の定約束の時刻を大幅に過ぎてからだった。
「ごめん。遅くなっちゃった」
軽い謝罪を口にしながら入ってきたのは、丈の短いスカートを着こなす女性だった。その軽装の割に彼女はいつも大きなショルダーバッグを提げている。彼女の右膝から下には黒い接合部があり、そこからは私と同じように細い金属が伸びていた。
彼女はヴィオラという戦時から付き合いがある同世代の客だ。そして彼女もまた私と同じように、あの戦場で足と家族を失った人間だった。
「別にいいよ。時間には余裕があるし」
「だよね」
彼女はデリカシーに欠けた返事をよこし、勝手知ったる様子でソファに勢いよく座った。膝関節が両方とも自前だからこそできる大胆な動きだ。自動制御されるパワード義足の膝継手だってもう少し繊細な動きをするだろう。私はあからさまにため息をついてみせたが、彼女が気にした様子はなかった。
「それで、足が痛むんだって?」
「そうそう。それでちょっと見て欲しくて」
私も彼女に気を使わずに堂々とその足元に座った。思った通り彼女の不調は義足の部品の緩みだ。そろそろ部品の交換時期だったから、今日の来店はちょうど良かったかもしれない。
「これならすぐ修理できるよ。ついでに部品を交換しようか?」
「助かるー。これから都市まで歩いていくから絶好調にしといて!」
彼女は安堵の息を大げさに吐いて義足を膝から引き抜いた。私はそれを受け取りながら尋ねる。
「もしかして孤児院に?」
「そうそう。人形を早く持っていってあげたいの」
人形作家であるヴィオラはかなりの数の作品を都市の孤児院に寄付している。そんなことをして採算が取れるのか心配になるが、私も他人のことを言えないので黙っていた。それに、孤独な子供たちの支えになりたいという気持ちは痛いほどよく分かる。私も孤児と呼ばれる身だったのだから。
ヴィオラの義足の修理は十分もかからなかった。使った工具をツールウォールに戻し、黒い蕾をつけた花のようにも見える義足を恭しく持って、私はヴィオラの元へ向かう。
白いソファに深々と座り込んでいる彼女は、何やら思いつめた様子で先の無い膝を見つめていた。
「ヴィオラ。修理終わったよ」
「あ、うん。……いつもありがとう、アイリス」
私が声をかけた途端、彼女ははっと背を伸ばして笑顔を浮かべる。そんなもので騙されるような人間ではなかったが、騙されるふりをしてやる優しさはあった。それで何気ない顔で義足を手渡そうとしたのだが、彼女の方から口を開いた
「実は私、義足を辞めるか迷ってるんだ」
「義足を辞める、というのは」
尋ね返す声が震えた。答えの予想は付いていたが、それでも聞かずにはいられなかった。まさか彼女がこの店を去るとは思っていなかった。私にとって彼女は客というよりも友人というほうが近かったが、彼女にとって私がそうかは分からなかった。
「生体移植を受けようかなってこと」
彼女の答えは予期した通りのものだった。私は彼女がこの店に来なくなるかもしれないこと以上に、彼女が生体移植という惨い手段を選択肢の中に含めていることが残念だった。
「子供たちがさ、怖がるんだ。私の足を」
彼女は俯いて義足を装着した。その手際の良さが余計私を悲しくさせた。彼女はこんなにも義足を履き慣れているというのに、彼女を苛む外圧に慣れることはできなかったのだ。
「勝手にじろじろ見ていく人もいるし、『義足って大変ですか?』って急に聞いてくる人もいるし。足だけで判断されるのはうんざりする。そういう目に遭うたび、『私もただの人なんだよ』って大声で叫びたくなるの」
彼女の苦悩は一人の人間として尊重されるべきものだった。私にも同じ苦しみがあった。それでも私は、声が冷たくなるのを抑えられなかった。
「人を犠牲にしてまで、『私は人だ』って証明したいわけ」
「今更そんなこと言う?」
ヴィオラの声は、もっと冷たく鋭い。
「人造兵士のことは人扱いしてくれなかったくせに」
その単語を聞いた途端、私の肌の下を冷気が駆け巡った。
あの戦争が悲惨なものになったのは合理的な殺人システムなんかのせいじゃない。戦場に連れ出された人造人間の存在こそが、戦場を地獄に変えたのだ。
規格化された兵器。規格化された肉体。その先にあったのは、規格化された命。
人造兵士。それは目に入ったものを殺すことしか考えられない哀れな存在だった。筋骨隆々の人体を模した彼らは他国から供与された武器であり、たとえ身体が欠けても殺意を失うことはない。だからこそ彼らは、損壊した人体の優先度を低める敵の兵器システムを掻い潜り、勝利をもたらすことを期待された。
しかし、戦況が裏返ることはなかった。
それは当然のことだった。なにせ敵国も人造兵士の供与を受けるようになったのだから。
戦場は人形同士が肉片を吹き飛ばす悪趣味な舞台へと変わり、それでも戦争というお粗末な劇はだらだらと続けられた。その流れ弾で命を失った者、彼らに決して癒えることのない傷を負わされた者の数は星の数にも及ぶだろう。
しかしヴィオラは彼らに救われた側の人間だった。脳に刻まれたプログラムにエラーを来していたのか、ある一体の人造兵士が彼女を病院まで連れてきたのだ。傷のついた彼女の右足は雑菌の温床になっていて、切り落とすしか治療の術が無かったらしい。彼女がパパと呼んだその存在は、彼女の手術の最中に再び戦場へ戻り二度と帰ってこなかった。
「リリィも言ってたでしょ。彼らは命があるとはいえ単なる道具なんだって。目的を達成するためには、どんな道具であれ扱えると思い込む傲慢さが必要だって」
ヴィオラの言葉は私を説得しようとしているというより、むしろ自分自身に言い聞かせようとしているかのようだった。
それもそのはずだろう。
なにせその考え方に一番反発していたのは、彼女なのだから。
その義肢装具士はリリィと名乗った。身にまとう白い制服はすっかりくたびれていたが、彼女に疲れた様子はなく、むしろ茎の高い花のように凛としていた。彼女は数えきれないほどの義肢を作り、さらに数えきれない回数の整備をこなしながら、私に義肢装具技術を教えてくれた。それはヴィオラが来てからも続き、私たちは共に何かを生み出す術というものを学んだ。
「この世に新しいものをもたらすのは芸術家と技術者だ。私のような存在が発想と事物を繋ぐ門になるんだ。そこから飛び出てくるのが英雄にせよ怪物にせよ、彼らに生を授けることこそが私の役割だった」
彼女のような義肢装具士になるのが夢だと伝えたとき、彼女はまるで私を諭すようにそう言った。
「ひどい傲慢だろう。救世主も創造主も同じ大罪を背負っているんだ。この人の命を救うために足を切ってあげようなんて、慎み深い人間が言えるものか」
「でも、それは優しいことだと思います」
「優しさなんてのは大したものじゃない。肝心なのはそういう傲慢と付き合っていく覚悟があるかどうかなんだ」
そのとき黙って話を聞いていたヴィオラがムッとして口を挟んだ。
「リリィは優しくなんてないよ。じゃなきゃ私のパパのこと道具だなんて言わないもん」
「だって明らかに本当の父親じゃないでしょ」
私はすぐにそう言い返したが、リリィは首を横に振った。
「アイリス。だから君は私を目指すべきじゃないんだ。私という門の経路を理解できないうちは」
彼女は残念がるわけでもなく、むしろ安心したかのような微笑みを私に向けていた。
「私は道具を父親と呼ぶことを否定したのではなく、ただ殺戮のための道具に愛着を持つのはよしたほうがいいと警告しただけなんだ。肉親を道具で代替するのは、身体を道具で代替するのと何も変わらない。利用される存在という点においては、命があろうとなかろうと、道具は道具だ。実のところ私は、道具であった私の罪を償うためにここにきた」
リリィが言っていたのはきっと、単なる門などではない彼女の魂のようなものだっただろう。彼女の言葉の意味はあまり理解できなかったが、彼女が言うその傲慢さこそが、目標を追い続けるための強さなのだろうと私は解釈した。設計職に就いていたという彼女は、ただ人を助けるためだけに職を辞してこの戦場へやってきた。
自分なら人を助けられるから。それは確かに傲慢ともいえる考えだった。
結局彼女の言う通り、私は彼女の教えを身に着けられなかった。現に今、私は義足を手放そうとするヴィオラを引き留めることができなかった。
私の義足こそが彼女を救うのだと、胸を張って言えなかった。
アネモネとデルフィの二度目の来店は、ヴィオラの修理の翌日だった。アネモネは相変わらず忙しい日々の合間を縫ってきたような出で立ちで、デルフィも以前と変わりなく儚い。
私はすぐに彼女たちを作業室へ通した。そして手すりを使って立つデルフィの太ももにシリコン製の袋を被せ、それを黒い蕾のようなソケットに差し込む。
「とりあえず義足の最終調整を行いますから、試しに歩いてみてください」
私がそう言うとデルフィは固い顔で頷いて、手すりをぎゅっと掴んだまま太ももを持ち上げた。膝関節を模すリンク機構が適切に作動し、そのつま先を所在なさげに漂わせている。しばらくさざ波のような時間が続いた。私がまさかと思い始めたとき、アネモネがそっとデルフィの傍に立った。
「デルフィ。そのまま地面に足を付けて、自分の体重をその上に乗せるの」
アネモネの顔を見たデルフィは表情を少し和らげた。そして小さく頷き、その一歩目を踏み出す。そのまま彼女はおずおずと、白い右足を動かしてみる。細い金属は、それでもしっかりと彼女の身体を支えていた。
どうやら採型のときに私が抱いた違和感はそう間違ったものでもなかったらしい。デルフィは自分の足で歩くことに慣れていなかった。それはおぼつかない足取りと、前へ進む度に輝く瞳が物語っていた。
そうしてデルフィが歩く練習をしているのを見守りながら、アネモネはその血色を感じさせる唇を開く。
「ありがとうございます。義足を作っていただいて」
「いえ、仕事ですから。対価もちゃんと頂いていますし」
「それでもお礼を言いたいのです。私たちのような素性の知れない人間を受け入れていただいて、本当に感謝しています」
アネモネは凪いだ海のように穏やかな顔をこちらに向けた。私は何といえばいいか分からず、逃げるようにデルフィを目で追いかける。私は彼女たちの素性を知ろうとは思わなかったが、それでもあの生きた痕跡の無い少女に何か秘密が隠されているだろうことには気づいていた。
「デルフィは戦争を知りません。ですが私は、かつてその混乱の中に身を置いていました」
アネモネは私の様子を気にせず続ける。そのとき手すりの端に辿り着いたデルフィが嬉しそうに振り返った。そして彼女は今にも飛び立とうとする鳥のように手を持ち上げ、二本の足でくるりと身体の向きを変える。彼女はもう、支えるものを必要としていなかった。
「私は、あなた方の敵だったのです。アイリスさん」
なんとなくそうだろうと思っていた。私たちの側にしては、彼女は傷ついていなかった。
復興しつつある私たちの国には他国から移り住む人が増えていた。その中にはかつて敵だった人もいる。そのことに何も感じていないわけではなかったが、私一人がどうこう言っても無駄だろうことをわざわざ考える趣味は無かった。
「私は戦場ジャーナリストとして活動していました。この惨い戦場を世界に伝えなければならないという一心で、あなた方が守り私たちが壊したこの地を走り回っていたのです」
その声色から、彼女が私に対して申し訳なく感じているのが伝わってきた。それに彼女が戦争を終わらせたいと願っていたのは本当だろう。だから私は彼女を恨もうとは思わなかった。例え彼女の健康な身体が私たちの国から奪われたもので成り立っていたとしても、私はそんな彼女を嫌いに慣れなかった。
「私はできる限りのことをしましたが、情けないことに大した貢献はできず、終戦まで数年かかりました。開戦から数えると二十年にも及びます。それほどまでに長引いたのは人造兵士のせいでしょう。本当はもう戦うべきではなかったのに、殺し合える兵士がいるというだけで戦争は続けられました」
私は頷いた。たった一人の希望も絶望も無力なものだと分かっていた。
「そしてあの人工子宮が造られたわけです。実はあれを運営するピュトンという企業は、人造兵士を製造した企業の傘下に入っています。つまり彼らは十九世紀という墓場から蘇った死の商人というわけです。彼らは死によって儲けるだけでなく、死を売り物にするようになったのです」
「長引いた戦争も、敗戦後の復興も、予定調和だったと……」
私は辛うじてそう返した。私はそれ以上の言葉も、どんな感情も持ち合わせていなかった。そのあまりにも壮大な話は、人間とは矮小な存在でしかないという事実を私に突き付けた。しかし私はそんなことなど、とっくの昔に痛いほど味わっていたのだった。
それからも姉妹は義足の修理のために度々店を訪れた。アネモネの願いが届いたのかデルフィの背は少しずつ成長し、頻繁に義足の調整が必要になった。来店するたびにデルフィの足取りは活発になり、その表情は生き生きとし始めた。自分の足で世界を歩き回る楽しさを、彼女は全身で味わっていた。
しかし半年ほど経った頃、彼女はまた儚くなっていった。今度は痩せすぎてしまったがために義足を調整しなくてはならなかった。歩行も不安定になっていき、義足を使い続けるのは危ないのではないかと感じるほどだった。
「あの子の体調は戻るのですか」
テーブル越しに私が尋ねるとアネモネはどう答えようか考えあぐねているかのように視線を逸らした。その隣でデルフィはソファに背を持たれ、ぼんやりと窓を見つめている。腰ほどまで伸びた細い髪が日の光を受けて水面のようにきらめいていた。そのせいで彼女は、今にも光の中へ溶けていきそうだった。
「実のところ彼女は、私の妹ではないのです。そもそも、人ですら——」
アネモネの言葉に私はそっと目を閉じた。瞼の裏にデルフィの姿が焼き付いていた。初めて会ったときの、私を興味深そうに見つめる瞳。初めて一歩を踏み出したときの、晴れやかな表情。
私が今見つめていた、力の無い横顔。
私はいつの間にか傲慢になっていた。私の義足があれば彼女はどこまでも歩いていけると、そう信じてしまっていた。
「彼女が人造ドニーというものなのですね」
「ええ。ピュトンの名を取って、彼女たちはピュトネスと呼ばれます。人造兵士がテュポーンと呼ばれたように」
規格化された兵器。規格化された肉体。規格化された命。
そして規格化された犠牲。
人の傲慢は、留まるところを知らない。
「人造ドニーには移植先の異物反応を抑えるため、免疫抑制機能が備わっています。そのせいで身体が弱く、奇跡的に処分を免れたとしても長くは生きられないのです」
アネモネは静かに続けた。彼女は何度もこの悲壮な運命と向き合ってきたのだろう。そしてきっと、デルフィ自身も。
「私はジャーナリストとしてピュトンと戦おうとしていました。それで人工子宮の近くで張り込む日々を続けていたのですが、そんな折に彼女を見つけたんです」
私は思わずアネモネの顔をじっと見つめた。彼女は一人の人間として技術と戦おうとしたのだ。自分が戦わなければならないと思ったのだ。リリィが単なる代替品を作り続けたように。医者が廊下で私の足を切り落としたように。
「彼女は人工子宮から少し離れた浜辺で倒れていました。恐らく彼女は施設を脱走した後、海に入ってしまったのでしょう。病弱な人間が海に落ちてもなお生き延びるなんて奇跡のような話です。だから彼女は誰にも追われず、自由に外を歩けるようになりました」
アネモネは「奇跡」という言葉をしみじみと発音した。
「私は一目で彼女が人造ドニーだと気付きました。たとえ今手を差し伸べたとしても決して長くは生きられないだろうと思いました。それでも助けずにはいられなかったのです」
そして彼女はじっと私の目を見つめ返した。その視線はまるで私の覚悟を問うかのようだった。
「厄介なのは、ピュトンは死を振りまいただけではないということです。この国の復興が迅速に進んだのはピュトンが惜しみなく資本を投入したからです。恐らくそれは生体移植ビジネスのためなのでしょうが、それでも多くの人を助けました。人造ドニーの手足を貰い受けたことで救われた人もきっといるでしょう」
私はリリィの言葉を思い返した。英雄だろうと怪物だろうと生を授けることが創造主の役割であるのは、英雄が怪物に、もしくは怪物が英雄になることもあるからなのだ。
一体の怪物が、ヴィオラという少女を守ったように。
「だから私はデルフィを救いたかったのです。私たちは彼女たちの命を摘み取って生きている……。その罪を少しでも贖うことができればと、そう願っていました。それができたかどうかなど、誰にも分からないのですが」
アネモネは瞑目した。私もその罪について思いを馳せずにはいられなかった。この国に生きる人全て、その技術を用いた人全て、あの惨状から目を逸らした人全てが背負う罪について。殺戮のための道具、殺戮あっての社会を創った人類の罪について。
一体誰が赦してくれるというのだろう。
私は神聖な少女を見やった。彼女はそっと身じろいで、その花弁のように色づく瞳を私に向けた。その薄い唇は迷いを浮かべて小さく動いた後、か細い声を吐き出す。
「アイリスさん」
私は居住まいを正して応えた。
「はい。なんでしょう」
まるで神託を待つ巫女のような気分だった。むしろデルフィこそが、神をその身に下ろす乙女であるのかもしれない。
「私の右足を貰ってくれませんか。無駄になってしまわないうちに」
私はアネモネの表情を窺おうとして、止めた。これはデルフィの決断だ。彼女はもう、自分の身体を好きに使えるのだから。
「ありがとうございます、デルフィさん。でもそれは受け取れません。私の義足は、私にとって大切な指針なんです。希望に向かって踏み出した、あの一歩目を忘れないための」
デルフィはじっと私の顔を見つめた後、柔らかに目を細めた。
「あなたの義足でこの綺麗な世界を歩くことができて、私は——幸せでした」
私は息が詰まって何も返すことができなかった。彼女を儚くしたのはこの世界であり、この私だ。その実感が私の肺を押しつぶした。彼女は怪物でも英雄でもなく、ただ一人の少女だった。
デルフィとは対照的に悲痛の表情を浮かべていたアネモネは、それでも礼儀正しく私に別れの言葉を述べた。
「お会いできるのはこれがきっと最後になるでしょう。私は彼女に遺された時間でできるだけのことをします。アイリスさん、どうかお元気で」
そうして姉妹は落ちゆく夕日に向かって去っていった。その道の先で卵のような工場が赤々と照らされていた。あの中でデルフィの本当の家族が日々生まれ、死んでいくのだろう。それはまるで戦場のような話だった。
数日経ったある夜。ふと窓の外が明るいような気がして、私は薄紫のカーテンを捲った。するとそこに広がっていたのは炎の海だった。人工子宮は煉獄のように燃えていた。地上がそんな惨状を呈していても、星空は冷え冷えと澄み切っていた。
翌日、私が珍しくもない休日をのんびりと過ごしていると、いつぞやのように扉が元気よく開け放たれた。
「ねえ、あの工場が燃えたの見た?」
それはもう来ないだろうと思っていたヴィオラだった。事前の約束も無く勝手に訪問されたことより、その変わりない右足を見て私はほっとしてしまう。
「うん。窓から見えたから。それより生体移植は止めたの」
そう尋ねると、堂々とソファを占拠した彼女はひらひらと手を振って答えた。
「実はそうなんだよね。もし戦争のことも足が無いことも意識しなくなっちゃったら、それはもう私じゃないんじゃないかって思ってさ。燃えた工場、生体移植のためのやつだったらしいし。なんだか神様に背中を押してもらった気分」
本当に彼女が気にしていたのは過去を意識しなくなることではないだろうと思ったが、私は追及しなかった。彼女は人造ドニーを犠牲にしようとはしなかった。それだけで十分だ。
「ねえヴィオラ」
私は彼女の隣に腰掛けて言った。
「人形に義足を付けるのってどうかな。そうしたら孤児院の子たちが見慣れてくれるかも」
それは私なりの戦いだった。義肢の技術をこのまま廃れさせるべきではないと思った。他人を犠牲にしてでも人という規格に合わさなければならない社会が来るのは嫌だと感じた。それを防ぐために私にもできることがあると、信じた。
英雄とは怪物であるように、傲慢とは勇気だった。
ヴィオラは目を丸くして私を見ると、にっと笑った。
「それいいね! じゃあ今度作ってくるから、サイズに合わせて義足作ってくれる?」
私は彼女を頼もしく思いながら頷く。
「任せて」
そうして友人のようにくだらない話を少しした後、ヴィオラは真昼の日差しにきらめく街を帰っていった。私は彼女を見送ると、風が吹いてくる方を振り向く。
路地の先に見える工場は開きかけの蕾のように壊れていた。その向こうに、きらめく海が広がっているのが見えた。透き通った波が水面をいつまでも撫でている。いずれこの街からは波が引いていくように、戦争の記憶が失われていくだろう。
私からもいつか記憶は抜け落ちていく。アネモネとデルフィのことも、ヴィオラやリリィのことだって、忘れてしまうかもしれない。
それでも私の右足は欠落したまま痛みを記憶し続ける。だから私は忘却を恐れることなく、また新たな一歩を踏み出すのだ。
目的をただ真っすぐに見つめて、勇気を込めた一歩を。
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